チェーザレ・ボルジアと、その周辺のさまざまを紹介するサイトです。

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人物紹介-チェーザレの忠臣

チェーザレの忠臣




ミゲル・ダ・コレッラ(Miguel da Corella)

(ミケーレ・ダ・コレーリア Michele da Coreglia)
(ドン・ミケロット Don Michelotto)

(? - 1508年1月(2月の説も))

チェーザレの友人であり、最も信頼される側近。という設定で描かれることが多い。実際かなり近しい人物であったことは確か。

スペイン生まれ。惣領版「チェーザレ」でヴァレンシア生まれと明言されているのはオリジナル設定。はっきりはわかっていない。でも最近は定説になってる。なぜだ。

ヴェネツィア出身の一族で、ミゲルの父親はヴェネツィア共和国の司令官だったという説もある。しかしこの説をとってる人はもういなそう。(1878年の一説)

イタリア語版Wikipediaによると、生年は1470年となっている。
しかしこれは情報の出どころが不明。今のところ信頼性は低い。

スペイン語版Wikipediaによると、当時のスペイン人年代記記者ゴンサロ・フェルナンデス・デ・オヴィエド(Gonzalo Fernández de Oviedo)が、著書「Batallas y Quincuagenas」の中で、ミゲルはコセンタイナ伯爵ホアン・ダ・コレッラ(Juan de Corella)の非嫡出子で、嫡出子であるロドリーゴ・コレッラの異母兄弟であると書いているらしい。

ロドリーゴは1492年8月にはローマにいて、アレクサンドル6世に仕えていた。年間2000ドゥカート以上を受け取っていたと言う。
ミゲルはこの異母兄弟とともにスペインからイタリアに渡り、ボルジア家に仕えることになったのでは、と推測されている。

オヴィエドは1498年から1502年にかけてイタリアに滞在していたようなので、この説は軽視できないかも。
また、19世紀末の政治家・作家のビセンテ・ブラスコ・イバニェス(Vicente Blasco Ibáñez)もその説を支持していたよう。

※ これ調べました。
ミゲルがコセンタイナ伯の庶子であるという記述は、上記のオヴィエドの書籍ではなく、1916年マドリードで刊行されたフランシスコ・ラファエル・デ・ウアゴン(Francisco Rafael de Uhagón)というスペイン人歴史家の著作、
「1498年、ルクレツィア・ボルジアとドン・アロンソ・デ・アラゴン(サレルノ公、ビセーリア公、ナポリ王ドン・アロンソの庶子)との結婚を祝してバチカンで催された祝宴の記録」
(Relación de los festines que se celebraron en el Vaticano con motivo de las bodas de Lucrecia Borgia con don Alonso de Aragón, príncipe de Salerno, duque de Biseglia, hijo natural de D. Alonso, rey de Nápoles, año 1498)
にあります。
オヴィエドはロドリーゴ・コレッラのことしか書いていない。


ロドリーゴ・デ・コレッラは、アレクサンデル6世の従兄弟オット(Ot)の息子ギレン・ラモン(Guillenn-Ramon)の娘アンジェラと結婚している。
ので、コレッラ家がボルジアと近しかったことは確か。
ミゲルがコレッラ家系図のどこに入るのか断定はできないかもしれないが、一員であることは間違いないかも。

ちなみにコセンタイナはヴァレンシア州アリカンテ県で、ハティヴァの40キロほど南にあり、ヴァレンシアからは100キロほど、コレッラからは460キロ以上離れている。

コレッラ(Corella)という街は、スペインの北方ナヴァーラ州州都パンプローナの南トゥデラ(Tudela)の北西方向にある。
一族の祖先はそこの出身だとされている。


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最初はガンディア公に仕えていた、という説もある。(え~~)
これは1496年ホアンが教皇庁軍総司令官となった時、彼の軍に加わったと言われるので、そのことを指しているのではないか、と思う。

※ と思ってたけど、
1493年11月9日に、ガンディア公ホアンの宮廷にいたハイメ・セラが、アレクサンデル6世宛に書いた手紙の中に、ミゲルと推定される人物について言及している。
最初はガンディア公に仕えていた説は、この手紙から来てるかも。
同じ宮廷にラミーロ・デ・ロルカもいた。
ミゲルはハイメ・セラに信頼されていたようだが、ラミーロはハイメと対立していたハイメ・デ・ペルトゥサ(Jaime de Pertusa)の下にいた。
つまり、ミゲルはラミーロとは仲良くはなかったのかな?


異母兄弟ロドリーゴはこの時すでにローマにいる。ので、この手紙のミゲルがミゲルなら、

1・1492年以前に異母兄弟ロドリーゴとともにローマに渡ったが、1493年にガンディア公ホアンのお供として(お守りとして?)スペインに行き、1496年にホアンとともに再びローマに戻ることになった。
(この場合、チェーザレとともにピサ大に通った可能性も、低いけどゼロではない。)

2・異母兄弟ロドリーゴとは別行動で、スペインでガンディアでホアンに仕え、1496年にホアンとともにローマへ渡った。

という2つの可能性があるかな。


チェーザレのピサ大学時代に学友であったとする説も根強いが、一次史料による裏付けがあるのかは謎。見たことない。
チェーザレと共にピサ大学で学び、その後アレクサンデル6世に仕えたという説もある。この説では、チェーザレが枢機卿になった時(1492年)にはチェーザレの側近であったよう。

ミゲルの存在が正式に記録されているのは、1497年からである。

※ と言われていたけど、

マリオ・メノッティ(Mario Menotti)の「Documenti inediti sulla famiglia e la corte di Alessandro VI」(アレクサンドル6世の一族と宮廷に関する未公開文書)に、ヴァティカン秘密文書館に所蔵されている教皇庁の財務記録(Introitus et Exitus della Camera Apostolica)が載せられており、その中に1494年時点でのミゲルの記録が存在する。
(ミゲルは1494年10月17日に、ローマで教皇庁からの支払いを受けている。)

つまりミゲルは、スペインでガンディア公ホアンの宮廷にいたとしても、1494年にはローマにいたことになる。


1492年

  • チェーザレとともにピサ大学で法学を学ぶ?


1493年

  • スペイン、ガンディアでガンディア公ホアンの宮廷に仕える?


1494年

  • 3月28日、2月6日までの1ヶ月分の食糧と9頭の馬の代金25フローリンを、教皇庁から受け取る。この金はアントニオ・デ・ソラ(Antonio de Sora)と分配された。
    (この記述がミゲルの記録として初めて登場するもの。)
    (1月6日頃から1ヶ月間、アントニオとともにどこかに派遣されてた?
    シャルル8世がイタリア侵攻の準備してる頃だから、その対策かな?)
  • 10月17日、所有していた船が沈んだため、教皇庁に弁償してもらう。43フローリンをローマで受領。
    (なぜかこの年の教皇庁からの支払いはドゥカートではなくフローリン。)
    (海沿いで何かしてた?これもシャルル8世のイタリア侵攻対策関連か?
    ボルジアはこの時期ナポリと共闘しようとしてるから、ナポリ周辺での活動だったかも?)

1496年

  • シャルル8世のイタリア侵攻時、石弓兵と騎兵の一団を率いる。

  • ガンディア公ホアン・ボルジアの軍に加わる。

  • 夏ごろ、オルヴィエート(モンテオレーネ・ドルヴィエート)(オルヴィエートの北の境界を守る城として築かれた街)での反乱を制圧に派遣される。
    (この記述がミゲルの記録として初めて登場するもの、とされていた。)

    オルヴィエートはこの年チェーザレを総督としていた。
    同地は1491年からバンディーノ・ダ・カステル・デッラ・ピエーヴェによって占拠され、内戦が続いていた。1493年、アレクサンデルはバンディーノへ退去命令を出すが、聞き入れられていなかった。




1497年

  • チェーザレの命で、再びオルヴィエート(モンテローネ・ドルヴィエート)へ向かう。
    40の軽装騎兵を率いる。

おそらく上記の報酬として、

  • 1月11日、本人および40名の騎兵の給与として、教皇庁財務局(Dominus Thesaurarius)から250ドゥカーティが支払われる。
    (どう分配したのか不明だけど、ミゲル10、部下たちが6ずつ?とか?かな?)


1498年

  • チェーザレが結婚のためフランスへ渡航した際、秘書や侍医に混じり多くの側近が随行したようなので、ミゲルも同行していたと思われる。(同行してて欲しい)(願望)


1499年

  • イモラ、フォルリ進撃においては、彼の存在の記述は見つけられない。


1500年

  • オルヴィエートで、教皇に対して陰謀を企てていたバルトロメオ・ダルヴィアーノの一味を投獄、処刑(斬首)。(バルトロメオ・ダルヴィアーノは含まれない)

  • 8月18日火曜、チェーザレの命でルクレツィアの夫アルフォンソ・ダラゴーナを絞殺。

  • 10月1日、第2次攻略に出発するチェーザレに同行。400の歩兵を率いる。

  • 10月23日、ペーザロ伯に仕えていたジョルジョ・ダ・コティニョーラの守備する城塞を攻囲する。

  • 11月4日、フォルリに入ったチェーザレに同行。

  • 11月10日、ファエンツァに侵攻するチェーザレに同行。

  • 10月26日、ファエンツァ封鎖を指揮。街に通じる全ての道を閉鎖し、物資や人員を遮断した。
    同日、フォルリに。チェーザレの宿舎近くの染物師グラーテ(Grate tintore)の家に宿泊。

  • 12月24日、チェーザレ、チェーザレに移動。ミゲルはトラーニの司教ジョヴァンニ・ボルジアの補佐として、9隊の部隊(2,000の歩兵)とともフォルリに残る。
    同日、フォルリで、靴を盗んだ男(兵士?)を絞首刑に処す。


1501年

  • 1月4日、フォルリで、剣の鞘を盗んだ兵士を絞首刑に処す。
    レッジョ出身のベッレ(Belle da Regio)という男から、剣の鞘を盗んだ罪。しかしこれは他の兵士が仕組んだ罠で、冤罪だった説もある。
    刑が執行された際、縄が切れ男は落下して頭を割ってしまう。(おそらく広場にある宮殿窓から吊るした。ので、高さがあった。)
    しかし再度首に縄が結ばれ、吊るされた。遺体は6日まで晒された。

  • 5日フォルリで、兵士のひとりが暴行事件を起こす。
    ミゲルは街を巡回し、各所で取り締まりを行った。

  • 1月10日、フォルリを離れブリジゲッラへ。
    ファエンツァ周辺の城攻めに参加したと思われる。

  • 1月、ファエンツァへの奇襲をかける。城壁を登ろうとするが露見し撃退される。

  • 2月17日、カンディアーノ門とポンテ門から侵入し、雨の中2本のはしごをかけ、侵入を試みる。が、再び露見し、配下の数人が捕らえられ絞首刑にされてしまう。


撤退を余儀なくされ、体制を整え直すため1度イモラに行く。
ファエンツァに戻る途中、ブリジゲッラ近くの街道で、製粉所に向かう男たちを護衛していた敵の銃兵から、火縄銃11丁を鹵獲する。


  • 3月、ポルタ・モンタラーナ(イモラの城塞近くの史跡)で小競り合いに巻き込まれる。(田舎街を荒廃させ続けていると書かれている。ミゲルのせいなの!?)

  • 4月、チェーザレ軍の先鋭の500のスペイン人兵を率いて、ファエンツァの城塞を開城させる。
  • 4月27日、チェーザレはイモラに移動、ミゲルはファエンツァの管理を任される。

  • 7月、50の騎兵とともにピサへ。

  • 7月、チェーザレとともにルイ12世のフランス軍に従軍しカプアへ。
  • 9月カプアにて、チェーザレと間違われて短剣で暗殺されそうになる。暗殺者は捕らえられるが、始末をフランス軍に反対され放免することに。
  • 9月、1度ローマに戻った後、ピオンビーノへ行きこの地を攻囲していたヴィテロッツォ・ヴィテッリに加勢する。すぐに降伏させる。
  • 9月8日、チェーザレの肩書きにピオンビーノ卿が加わり、ミゲルはピオンビーノの総督に。
    翌年4月ごろまでこの地に留まる。

  • どこかの時点で、ファエンツァの若き領主だったアストーレ・マンフレディと弟のエヴァンジェリスタをローマに送る。(カプアからローマに行った時かな?)


1502年

  • 4月、ミゲルが統率していたピオンビーノに、ジェノヴァからの使者ジョルダーノ・チェレソラが訪れる。

ジョルダーノはピオンビーノの男たちがジェノヴァの船を襲い積荷を強奪したと言い、犯人の逮捕と盗まれた物の返却を求めた。
(ジェノヴァ市議会は4月9日にチェーザレに対して手紙を出し、その後総督であるミゲルのもとへジョルダーノを派遣している)
ミゲルは「事件後だいぶ経つから犯人の捜索は無理」と思ったのか(または面倒だったのか?)、使者に対して甘言を弄しうまくはぐらかした。(チェーザレに似てきた!?)


  • 4月、カーリを占拠する。歩兵を率いてカメリーノを攻撃する。
    その後、数人の歩兵とともに海路でピサへ行く。

  • 6月、カステル・サンタンジェロに幽閉されていたアストーレ・マンフレディと弟のエヴァンジェリスタを殺害する。
    (ウルビーノ進攻を前に、アストーレを殺害してファエンツァの動きを完全に抑えておく必要があった。(背後から攻められないように)

    兄弟は首に砲弾をくくりつけテヴェレ河に投げ込まれていたと言われるが、ミゲルがチェーザレの前で喉を切ったという説もある。
    マンフェレディ兄弟の殺害はミゲルではないという説もある。(ミゲルがやったという確たる証拠はないので、かなり有力な説。)

  • 6月、傭兵制をとりやめ自らの軍を、と考えるチェーザレによって、市民から構成される軍が創設される。ミゲルはこの市民軍の総司令官に任命される。
  • 6月、ウルビーノへ進撃するチェーザレに同行。

  • 7月、カメリーノを攻略。領主であったジュリオ・チェーザレ・ヴァラーノをマテリカの城塞に幽閉、彼の2人の息子アンニーバレ、ヴェナンツォを拷問の上、殺害する。
    →見せしめのためかなり残酷なことをしたよう。

  • 9月マジョーネの反乱が始まる。
    ウーゴ・デ・モンカーダとともにグッビオの要塞の救援に向かい、その後、アンコーナへの進軍する。
    サン・レオの反乱の知らせを受け、サン・ロレンツォ・イン・カンポとスタッフォーロにも向かう。

チェーザレの命令により、マルケ州とロマーニャ州の武装兵100人、軽騎兵200人、歩兵500人を連れてリミニへ退却する。
途中ペルゴラを略奪する。

ウルビーノでの反乱を知らされると、ジュリオ・チェーザレ・ダ・ヴァラーノをマテリカから連れてきて、ペルゴラの要塞で絞め殺す。

  • 10月11日、ウーゴ・デ・モンカーダとともにフォッソンブローネを攻撃し城塞を略奪、街を蹂躙する。

このフォッソンブローネの戦いにはレオナルド・ダ・ヴィンチが同行している。
アトランティコ手稿に描かれている木の橋はこの戦いで実際に使用され、ミゲルはこのダ・ヴィンチが考案した武器で城塞を陥したらしい。(渓谷に橋をかけた)

しかしダ・ヴィンチはここで初めて戦争というものを間近で見て、激しく嫌悪感を抱き「野獣のような狂気」と表現した。現にこの後すぐ翌年2月にはチェーザレのもとを離れている。(チェーザレは絶頂期だったのに)
(後にフィレンツェ政庁会議室に描かれるアンギアーリの戦いの残酷さは、ここでの経験が影響しているかも?)


  • 10月15日、ヴィテロッツォ・ヴィテッリにフォッソンブローネの城塞を取り返される。(早っ!)
  • 10月17日、ウーゴ・デ・モンカーダ、ラミーロ・デ・ロルカとともにカルマッツォにおいて、オルシーニ、ヴィテロッツォの軍と衝突。負傷して撤退。最初はファノ(フォッソンブローネ説も)へ、次にペーザロへ。
    ※ 敗走先フォッソンブローネ説あるけど、15日にヴィテロッツォに奪われてるんだからそこには行かない(行けない)と思うんだよね…。
    ファノが正解なのでは。


  • 11月、ペーザロで、前領主ジョヴァンニ・スフォルツァを復帰させようとした4人の市民を宮殿の窓から吊るす。
    市民軍として使える者全てをペーザロの広場に招集する。
    チェゼーナで150の銃兵とともにチェーザレに合流する。イモラまで同行した後、ミゲルはファノに移動する。
  • 11月、ファノにて歩兵600、軽騎兵100を率いる。
    (どちらも彼の兵が1番多い。やるじゃん)

和平交渉が始まっている。ファノを出てチェゼーナに行き、オリヴェロト・ダ・フェルモと会う。

ペーザロとファノに行き、徴集されている兵に給与を払う。
ラミーロ・デ・ロルカから2万ドゥカートを没収する。

  • 12月、ラミーロ・デ・ロルカを拘引し、チェゼーナへ連れて行く。
    反乱軍に対するチェーザレの計画は誰にも予測できずマキァヴェッリを驚愕させるものになるが、ミゲルだけは知らされていたよう。(ウッドワード「チェーザレ・ボルジア」より)
  • 12月31日反乱を起こした傭兵隊長ヴィテロッツォ・ヴィテッリとオルヴィエット・ダ・フェルモを、シニガリアで殺害する。


1503年

  • 1月、同じく反乱のメンバーであったパオロ・オルシーニとフランチェスコ・オルシーニをサルテアーノ(カステル・デッラ・ピエーヴェの近く)で処刑する。ロベルト・オルシーニはこれを免れる。(逃亡したのか、見逃されたのかは不明。)

2000の騎兵とともにモンタルボドに向かう。
処刑されたヴィテッリとフランチェスコ・オルシーニの中隊を率いたパオロの息子ファビオ・オルシーニとジャンパオロ・バリオーニと激突する。彼らは散り散りになって敗走する。

  • 2月、チェーザレ軍に対して反逆の疑いがあるとして、ウーゴ・デ・モンカーダとともにカーリを攻囲。
    扇動者であった司教ガスパーレ・デッラ・ペルゴラ(グイドバルド・モンテフェルトロを支持していた)、ルイジ・ダ・モンテヴェッキオ、ウゴリーノ・ダ・ピアン・ディ・メレートらを公衆の面前で縛り首にする。

  • 6000の騎兵・歩兵とともにチタ・ディ・カステッロを、次にヴィテルボを占拠する。

  • チェーザレがヴィテルボに留まっている間、ムニャーノ、次いでヴィテルヴィアーノへ送られる。どちらの地も攻略する。

  • 3月、ルドヴィーコ・デッラ・ミランドラ、ウーゴ・デ・モンカーダとともに、チッタ・デッラ・ピエーヴェで、ジュリオ・オルシーニ、ジョヴァンニ・デ・チェーリと息子のレンツォ(オルシーニ派の傭兵隊長)を包囲する。
  • 3月オルシーニの居城のひとつであるチェーリを攻囲。
    ジュリオ・オルシーニ、フランチェット・オルシーニ、ジョヴァンニ・ディ・チェーリと息子レンゾは150頭の馬と200人の歩兵を指揮し、抵抗する。

  • 3月9日、上記のチェーリ攻囲に際して、麾下への指示書を「イラストリッシモ・セニョール・ドゥカ・ヴァレンティーノ」(ヴァレンティーノ公の幸福なる軍の将軍(capitani generali de lo fel. exercito dello Illmo S. Duca Valentino)」として命令を発した。
    「Michael Corella」と自筆署名し、チェーリ野営地にて発令。ルドヴィーコ・デッラ・ミランドラとウーゴ・デ・モンカーダも連名。タルクィニア(旧コルネート)市立歴史文書館(Archivio Storico Comunale di Tarquinia)所蔵。

  • 4月、チェーリで、ガスコーニュ兵(フランス兵)が石弓で狙ったチェーザレ暗殺を阻止する。(阻止したのはミゲルの部下のよう。残念。しかしgood job!)

  • チェーリ陥落。チェーザレは褒賞としてモンテグリドルフォをミゲルに与えた。
    オルシーニとチェーリ親子はピティリアーノに退却した。


チェーザレがミゲルに与えた土地はピオンビーノモンテグリドルフォ
この2つってイタリア半島の両脇にあるティレニア海とアドリア海のそばにあるんですよ。2ヶ所を繋いだらエミリア・ロマーニャとマルケ、トスカーナをちょうど半分に分割するようなラインになるの。
これ…将来的にフィレンツェ、ナポリを攻める時の布石ですよね!?(ピオンビーノはダ・ヴィンチに軍備強化させてるし、間違いなくそうだと思う。)
しかしモンテグリドルフォまで!すごい。
両脇を挟まれたフィレンツェが、オセロのようにひっくり返るのが見える。

チェーザレの先の見通しぶりもすごいけど、チェーザレにめちゃくちゃ信用されてるミゲル、すごい。


  • 6月8日、アレクサンデルとスペイン王の秘密会談をフランス王に密告したとして、アレクサンデルの諜報員であったフランチェスコ・トローチェを絞殺する。死体はトラステヴェレの塔(サヴェッラ塔(Torre Savella)にぶらさげられた。

アレクサンデル6世は褒賞としてサヴェッラ塔にある部屋をミゲルに与えた。

  • 7月25日、ローマで閲兵式、先頭のチェーザレに続き2番手を飾る。当時では革新的だった銃(石打銃)兵を率いる。
    (市民軍といい銃兵といい、チェーザレは自らの新しい試みにはミゲルを起用している。)

  • 7月末、チェーザレ軍を離脱したいと願い出たストラディオットの隊長2人を殺害する。

  • 8月、ミゲルがペルージャにいる時にアレクサンデル6世、崩御。ミゲルは急いでローマへ戻る。

ローマの南門サン・パンクラツィオンの監視塔の支配権を2度に渡って得ようとするが失敗する。

病床にあったチェーザレの代わりに、教皇庁の財産を略奪から守る。
彼はヴァティカンへ続く全てのドアを閉ざし、アレクサンデル6世の侍従であったジャコモ・カサノヴァの喉にナイフをつきつけて脅し、鍵をとりあげ、ボルジアの財産を確保する。
財産は現金で10万ドゥカート、銀と宝石をあわせて30万ドゥカートあった。

コンクラーヴェに臨む枢機卿団は、チェーザレにローマからの退去を要請しようとするが、ミゲルは兵を伴い会議に乱入。これをやめさせようとする。
剣を抜き、枢機卿たちを脅迫するが、フランチェスコ・レモリーネスの懇願で思いとどまる。(塩野七生「チェーザレ・ボルジア あるいは優雅なる冷酷」P271)

  • 9月、アレクサンデルの死に勢いづいたオルシーニ家、コロンナ家はローマへ進軍。
    ミゲルはチェーザレの弟ホフレとともにオルシーニをけん制、モンテ・ジョルダーノに火を放つ。(チェーザレがまだ力を持っていて、ローマを掌握しているのはボルジアだと知らしめた。)
  • 9月2日、チェーザレ、ローマを離れネピへ。
  • 9月22日、新教皇にピウス3世。

  • 10月2日、チェーザレネピからローマへ戻る。
    この時ミゲルは、ソリアーノ(ローマの北方、ヴィテルボの近く)でオルシーニと戦っていた。

一時、コロンナを味方につけ、戦況は有利かのように見えたが、スペイン王がチェーザレを捨てる。
スペイン人たちはチェーザレの下で軍務につくことを禁じられ、チェーザレ軍はほとんど解体してしまう。
この時もミゲルはまだソリアーノにいた。

  • 10月15日、身の危険を感じたチェーザレはローマを脱出しようとする。しかしこの動きを察知したオルシーニに阻まれ、チェーザレはサンタンジェロ城へ逃げこむ。

塩野版「チェーザレ」では、この時ミゲルも一緒だったとされているが、彼はソリアーノにいた、というのが正しいよう。
ミゲルはこの後チェーザレに呼び戻され、すぐにローマへ向かう。
タッデオ・デッラ・ヴォルペも同時に呼び戻されている。

  • 10月18日、ピウス3世崩御。

  • 11月1日、新教皇にユリウス2世

新教皇ユリウス2世(ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ)は、チェーザレにロマーニャに進攻していたヴェネツィアとの戦いを許可する。
チェーザレは再起にかける。

  • 11月18日ミゲルはタッデオ・デッラ・ヴォルペとともに陸路をとってロマーニャへ向かう。体力の回復の完璧ではないチェーザレは、オスティアからの海路を選んだ。
    ピサ近郊で合流する予定であったが、この時が2人の今生の別れとなる。

あっさりと考えを変えた(と言うよりはなからチェーザレと同盟する気はなかったでしょう…)ユリウス2世が、オスティアでチェーザレを逮捕する。

  • ミゲル率いる軍はペルージャまで行軍するも、バリオーニヴィテッリ、シエナ軍に追尾され、フィレンツェ領に逃げ込むことを余儀なくされる。
    その際、軍は分散してしまい、騎兵400とわずかの歩兵にまで縮小してしまう。

ボルセーナ、次にヴィテルボに移動し、ガッテスキ家に助力を求める(ガッテスキ家はマガンツェージ家とずっとヴィテルボで覇権争いを続けているため兵力を所持していた)。


  • 11月24日、ユリウス2世、ミゲル・ダ・コレッラを手に入れたいと声明。
    (だからミゲルは殺されることなく捕虜になることができた、とも言える。実際ミゲルを殺したい人は山ほどいて、バリオーニの手に落ちて散々拷問された後処刑された(木に縛りつけられて矢で射られた)という話が流布し、ヴェネツィアの年代記作家サヌード(Marin Sanudo il Giovane)はそれを記録した)
  • 11月30日、ミゲル軍は、トスカーナ州のカスティリア・フィオレンティーノ(Castiglion Fiorentino)近くでフィレンツェ軍と激突、敗戦を喫する。ミゲルもヴォルペもフィレンツェの捕虜となってしまう。

  • 12月1日、ユリウス2世、マキァヴェッリに対してミゲル引き渡し要請の手紙を書く。


ミゲルはタヴェルネッレで、フィリカーヤとアレッツォの総監ジョヴァンニ・リドルフィが率いるヴァルディキアーナの住人に捕らえられ、
カスティリオン・フィオレンティーノの行政長官(ポデスタ)アントニオ・ダ・フィリカージャに引き渡された。
そしてコルトーナに送られた後、アッカペンデンテでユリウス2世の使者である教皇庁書記官ベルナルディーノ・ダ・トーディに引き渡された。
そして、まずソリアーノの城塞に拘禁された。
ユリウス2世はミゲルの護送に50人の騎馬隊を派遣した。

彼ははミゲルを逮捕したことで「この10年間、神と人間に背いて行われたあらゆる残虐行為を明らかにできる」と喜んだ。

ミゲルがローマ(サンタンジェロ城)ではなく、まずソリアーノに送られたのは、チェーザレがローマにいるからだったのでは?
2人を近くに置いておくと怖い、とユリウス2世は思ったのではないかな?
実際、ミゲルが正式な裁判のためにローマに移されたのは1504年5月22日で、チェーザレがナポリに発ってから。(チェーザレは4月26日にナポリへ向かっている。)


  • チェーザレはグイドバルド・モンテフェルトロを通じて、自分とミゲルたちの釈放を教皇に願い出る。しかし叶えられない。
    ミゲルもヴォルペもチェーザレを裏切るより、捕囚となることを選んだ。
  • 12月17日、チェーザレ、ミゲルたち解放依頼の手紙をロマーニャの友人3人に向けて書く。
  • 12月ミゲルはカステル・サンタンジェロに投獄され、苛烈な拷問を受ける。しかし彼はチェーザレの不利となるような言葉は、何ひとつ口にしなかった。




1504年

  • 1504年1月初旬、ボローニャの税関にイッポーリト・デステ(ルクレツィアの夫アルフォンソの弟)宛ての荷物が数箱到着。中にはミゲルが教皇庁財宝室から確保した30万ドゥカート相当の品物が入っていた。イッポーリトの名を借りてルクレツィアに託したものだった。
    (数えきれない程の宝石で装飾された聖ペトロの十字架、同様に装飾された聖ペトロのマント、1万ドゥカート相当の聖母像、教皇のマントにつけるカメオ、ベルベットで裏打ちされた金と宝石で飾られた教皇の胸当て、瞳が2石のダイヤモンドになっている金の猫…など)

  • 1504年1月、カステル・サンタンジェロから再びソリアーノの城塞へ移される。?

  • 5月22日、裁判を受けるため再びローマへ。トッレ・ディ・ノーナ (Tor di Nona、Torre dell'Annonaとも。 ローマ、サンタンジェロの近く。建物はもう存在しないが、通りの名前が残っている。)に収監される。
  • 5月、ローマで、裁判を受ける。
    ガンディア公ホアン・ボルジア、アストーレ・マンフレディ、アルフォンソ・ダラゴーナ、ベルネルディーノ・ガエターニ・セルモネータ、、カーリの司教、ヴァラーノ一家、などの多くの殺人を問われる。

この裁判の結果がどのようなものであったのかは、記録がなく明らかでない。
しかしこの時もミゲルは、強硬な教皇の申し立てに対し、沈黙を貫いたとされる。
1506年春まで彼についての記録がないことから、おそらく実刑判決が下された。




1506年

  • 4月1日、釈放される。これはフィレンツェ市民軍の隊長となることが前提とされており、マキァヴェッリによって推薦された。

ミゲルはまず農村部の警吏(フィレンツェの属領、保護領の警備隊長)として雇用される。
ムッジェロとカゼンティーノに派遣され、泥棒、盗賊、反乱軍を排除するための任務を担う。

カステル・サン・ジョヴァンニとフィオレンツォーラの両牧区を担当し、フィレンツェ政府に反抗したパスキーノ・ボルゲッシとドメニコ・フォンテキを捕らえ、スカルペリアの総督に引き渡す。

  • 6月、100の歩兵隊を率い、暴動鎮圧のためピサへ向う。
    若いフィレンツェ人兵士で構成されている軍を、ミゲルは巧みに指揮した。彼はこの時、水を得た魚のように活力に溢れていたらしい。
  • 12月6日、市民軍を管理運営する「市民軍の9人(Nove della Milizia)」が設立される。
    マキァヴェッリがその書記官に就任する。




1507年

  • 2月9日と12日フィレンツェ軍歩兵隊指揮官として正式に任命される。
    両日、記録が残っている。
  • 2月27日フィレンツェ軍歩兵隊指揮官として、軍の組織、指導を始める。
    この軍は、ロマーニャで、チェーザレが組織しようとしたものと同様、市井の人々から成る市民軍だった。

これに対し、フィレンツェの多くの人々は否定的であった。
彼らは、かつてフィレンツェ領を2度も侵犯した悪名高いヴァレンティーノ公の、腹心中の腹心であった人物に、フィレンツェの防備を任せることに難色を示した。
ので、バルジェッロ(治安官 Bargello)という肩書きは与えられず、フィレンツェの給与記録には「スペイン人・ドン・ミケレット(don Micheletto Hispanus)」と書かれている。

しかしミゲルは軍をよく統制し、軍人としての能力の高さを発揮した。


ミゲルは約1年半ほどフィレンツェのマキァヴェッリの下で仕事をしている。ので,2人はチェーザレのことをたくさん話したんじゃないかな…と思う。
(最大の共通の話題だろうし…)
君主論に描かれたチェーザレ像はマキァヴェッリ本人が見聞きしたものだけじゃなく,ミゲルが彼に話して聞かせたものも影響しているかもしれない……。と思うとかなり胸熱。


  • 5月、カゼンティーノとムジェッロへ赴き、暴動を鎮圧。

  • 6月、ディコマーノの盗賊25人を捕獲。

  • 8月、ロマーニャで給与支払いを原因としたトラブルが生じる。
    しかし直属の上司にあたるマキァヴェッリに宛てたミゲルの手紙には、このことに対する訴えは何も見られない。

  • 9月、ボローニャの領主ジョヴァンニ・ベンティヴォーリオと対立している教皇庁軍を助けるために、軍隊を集める。


  • 10月、フィレンツェ軍歩兵隊指揮官を解任される。
    はっきりした原因はわかっていない。
    ミゲルと共和国政府は折り合いが悪かったので、些細なことが原因となったのかもしれない。
    最初からミゲルの就任を快く思っていなかったフィレンツェの貴族階級が、従卒の略奪行為などを理由にして、政府に解任を迫ったとも言われる。




1508年

  • 1月(もしくは2月)ミラノにて、ショーモン伯シャルル・ダンボワーズ邸から出てきたところを、スペイン人によって殺害される。犯人は不明。
    彼がダンボワーズを訪問したのは、傭兵隊長としてフランス軍に従軍するためであっただろう。チェーザレの片腕として名を馳せた優秀な軍人である彼を、フランスにつかせることを否としたスペインの差し金であったと思われる。

遺体は城壁の外にある外国人集団墓地に埋葬された。


フィレンツェ市民軍指揮官を解任後の彼の消息は不明、とされていることが多いが、1508年に殺害されていることが明らかとなっている。
(トレッカーニ社(Treccani)の人名事典「Dizionario Biografico」に、はっきりと記されている。)
サラ・ブラッドフォードや塩野七生が、著作中で「その後逐電」と記述しているので、そのように流布したのではないかと思われる。

19世紀の歴史家ジュゼッペ・カネストリーニ(Giuseppe Canestrini)が、1857年に編纂したマキァヴェッリの歴史と民兵に関する未発表文書「Documenti per la Storia della milizia Italiana」には、ピエトロ・ティベリオ・コレッラ(Pietro Tiberio Corella)というフィレンツェの軍事指揮官(conestabile)が登場する。
スペインの歴史家マリオ・メノッティ(Mario Menotti)は、彼をミゲルの息子であったとしている。嫡出子なのか非嫡出子なのかは不明。よって結婚していたのかも不明。
メノッティは、
「彼(ミゲル)は結婚していたのでしょうか?
もしそうであれば、不幸な妻は戦争に明け暮れるこの恐ろしい人物と、波乱に満ちた人生を共有しなければならなかったことでしょう。」
と書いていて、ちょっと面白い。

ミゲルについての書かれているものはほとんどなく、特にその前半世がどのようなものであったのか、ほとんどわかっていない。人物像も「残虐」な「絞殺者」という側面のみが拡大されているだけである。
が、心からチェーザレに尽くし、どんな状況に陥っても最後まで裏切ることがなかったのは事実。泣ける。

チェーザレの方も、あれだけ人を利用し、欺き、裏切りのかぎりをつくしたのに、この人にだけは全幅の信頼をおいていたように見える。

実際チェーザレのミゲルへの信頼の厚さは世間によく知られていたようで、詩人ベルナルディーノ・ガスパリはソネット(14行詩)に2人のことを書いている。

ボルジア本によく出てくるミゲルを評した「存在するだけで誰かの死を意味する男」という言葉は、1966年に書かれた「ボルジア家」の中で著者クレメンテ・フューセロが記したもの。かっこいい。(しかし本当によく殺してる…)
ミゲルの生涯年表は、チェーザレのために犯した犯罪リストと言っても過言ではない。

ミケロット、またはミケレット(Michelotto、Micheletto)という、語尾に「- etto/a」の付く呼び名は、縮小辞(diminutivo)と言って、人や物の大きさ・重要性などを小さく見せるニュアンスを持つ。
ので、小柄だったとされることがある。
スフォルツァ家のミケレット・アッテンドロ(Michelotto Attendolo)や、インノケンティウス8世の息子フランチェスケット・チーボ(Franceschetto Cibo)などが、実際に小さかったらしい。
「小さなミケーレ」「かわいいミケーレ」みたいな愛情をこめた表現だったり、文脈によっては軽蔑的なニュアンスを含んだり、格下的な意味合いを持つこともある。

ただ、カプアでチェーザレと間違われて殺されそうになったことがあるので、そんな小さかったわけでもないんでは?と思いたい。

冷静沈着な暗殺者として描かれることが多い。険相でがさつな、ごっつい大男として描かれることも多い・・・・・・。






タッデオ・デッラ・ヴォルペ(Taddeo della Volpe)

(1474年 - 1534年)
イモラ生まれ。
1495年、対ピサの戦いに、フィレンツェ軍の歩兵隊として従軍。
1500年、チェーザレのファエンツァ攻略時から、チェーザレ軍に加わる。
1501年、矢によって片目を損傷。「これで嫌なものを半分しか見なくていい」とうそぶいたらしい。(かっこいい)
1503年、ナポリ奪還のためのルイ12世への援軍として、フランス軍に合流。
しかし10月15日、身の危険を感じてカステル・サンタンジェロへ退避したチェーザレに呼び戻され、ローマへ。
同年、ミゲル・ダ・コレッラとともにフィレンツェ軍に捕らえられる。
彼もミゲルと同様、チェーザレを裏切りフィレンツェ軍につくことよりも、捕虜となることを選ぶ。しかし彼は年内には釈放され、すぐにフランス軍に従軍、1507年には、ユリウス2世の下で、教皇庁軍に従軍している。
その後はヴェネツィアの傭兵隊長として活躍、対カンブレー同盟や対フランスなどと戦っている。
ヴェネツィアで死去。享年60歳。サンタ・マリア教会に埋葬された。

イモラには彼の生家が残っている。
そこにはヴォルペが、「Sacro Monte」という名の美術史協会の後援者であった、ということが記されている。
彼もルネサンス時代にふさわしい、文武両道の人であったと思われる。




ディオニージ・ディ・ナルド(Dionigi di Giacomo di Naldo)

(ディオニージオ・ディ・ナルド Dionisio di Naldo)
(ディオニージ・ディ・ナルディ Dionigi di Naldi)

※ もしかしたら1484年にソリアーノ奪取に失敗したピエトロ・パオロ・ディオニージの遠い親戚?

(1465年~1510年)
ファエンツァ近くのブリジゲッラ出身。現在もブリジゲッラには彼の生家が残っている。

ナルディ(Nardi)家はその地方では実力者の家だったよう。
1488年頃から、フィレンツェで傭兵として勤め、忠実で勇敢な兵士として名を上げる。
1499年初頭からフォルリオ女城主カテリーナ・スフォルツァに仕える。
同年のチェーザレのイモラ進撃の際、城塞を守って防戦するがあえなく降伏。チェーザレの配下に入る。
1500年、チェーザレのファエンツァ進撃の際、チェーザレ軍に従軍。
(同じく傭兵であった従兄弟のヴィンチェンツォ(Vincenzo)も、ともに従軍している。)
1501年、ピオンビーノ攻略に従軍。
1502年、ウルビーノ進攻に従軍。
同年、イモラで徴兵された市民軍を、ミゲル・ダ・コレッラとともに訓練したりもしている。
同年マジョーネの反乱の際、歩兵600を従えてリミニとチェゼーナを守る。
彼はチェーザレに最も忠実な臣下の1人であり、ユリウス2世が登位するまでチェーザレに仕えた。

チェーザレの没落後、教皇・フランス・スペイン・神聖ローマ帝国を相手に戦っていたヴェネツィアに従軍、戦闘での負傷が原因で、1510年に死亡した。享年45歳。
ファエンツァのサン・フランチェスコ教会にある一族の墓に埋葬された。




ラミーロ・デ・ロルカ(Ramiro de Lorca)

(ラミーロ・デ・ロルカ Ramiro de Lorqua)(Remigio di Lorqua)
レミーロと書かれていることもある。

(1452年~1502年12月)
スペイン人。チェーザレの腹心のひとり。

1493年11月、スペインのガンディア公ホアンの宮廷で、祭司ハイメ・デ・ペルトゥサ(Jaime de Pertusa)の下で、ホアンの執事として仕える。
ペルトゥサは宮廷の金で私腹を肥やしていたらしく、ラミーロもその恩恵に浴している。
ハイメ・デ・セラが、「ラミーロはフェルナンド王よりも多くのローブやフードを所持し、メディチ家よりも多くのベルベットやシルクを着ている」とアレクサンデル6世に告げ口する手紙を残している。
ラミーロ…悪い奴じゃん。

1497年、教会の恩典を受けたパンプローナの聖職者として記述されている。
ので、ラミーロは聖職者であったよう。驚き!
ガンディアで上司だったペルトゥサも聖職者なので、間違いないかも。

1498年、チェーザレが結婚のためフランスへ渡航した際、ボディーガードとしてともに渡航する。

1499年5月10日、チェーザレとシャルロット・ダルブレの結婚署名の証人を務める。

1500年、チェーザレの征服したロマーニャの統制をまかされる。厳しい取締りと、強い弾圧で、荒廃したこの地方に秩序をもたらす。粗野で残虐な性格は、ロマーニャを落ち着かせるまでは、総督として適していた。アレクサンデル6世も、彼の功績を称えている。
ラテン語で「Remigius de Lorqua Romandiolae Gubernator et Locumtenens generalis(ラミーロ・で・ロルカ、ロマーニャの総督兼中将)」とサインした書類が残っている。

同年、ペーザロへ進軍するチェーザレ軍に従軍。

1501年、チェーザレがファエンツァを攻略した後、民衆のためのパリオ(競馬)や弓の大会を企画したらしい。

同年、ディオニージ・ナルドらとともにピオンビーノを攻撃。

その後カステル・ボロネーゼの略奪にも加わる。

1502年、ウルビーノへの進軍に参加。

同年8月14日、ロマーニャ総督から解任される。(代わりにアントニオ・マリア・チョッキ・デル・モンテが新たに就任した。)
ラミーロは権力の中心地から離れたリミニに司令部を置く軍事総督に降格させられた。

同年、マジョーネの反乱の際、ファノをとペーザロを守る。

この頃50歳のラミーロは、がっしりとした体格で黒いあごひげを蓄えていたそう。あごを上げ、右手をベルトに差し込んだ攻撃的なポーズで周囲を見渡すのが癖だった。

2ヵ月後、チェーザレの命によって処刑され、チェゼーナの広場に晒される。
マキァヴェッリが「2つに斬られて広場に転がされていた」と書いているので、縦に2つに斬られたように描かれがちだが(「君主論 漫画で読破」とか)、首を斬られ2つにされて、板の上に置かれていたよう。きちんと服を着てマントをはおり手袋まで着けていた。
彼はそれまで、チェーザレとボルジア家の忠実なる家臣と見なされており、この事件は世間をとても驚かせた。

反乱軍と通じていた、またはルクレツィアがフェラーラに向かう際彼はチェゼーナで一行を歓待しており、その際何らかの不備があり、そのことによって処刑された、などと見る向きもあったが、マキァヴェッリは「君主論」にて最も合点のゆく説を披露している。

いわく、
「長年無能な君主に支配され荒廃しきっていたロマーニャに、平和と秩序をもたらすには、まず厳しい取締りが必要であった。
よってチェーザレは残酷かつ俊敏なラミーロを統治者に選び、この地を平定した。
しかし峻厳な統治は民衆の憎悪を惹起しもする。そして穏やかになった地に強大な権威はもはや必要ない。
チェーザレは「かつての統治の残酷さはチェーザレから発したものではなく、ラミーロ個人の性格によるものだった」ということを知らしめるため、ラミーロを処刑しその死体をさらしたのである。
民衆はこの残虐な見世物に、戦慄しつつも満足を覚えた。」

この処置はマジョーネの反乱を企てた面々に対しても、
「全ての責任はラミーロにあり、これで事は終息した。」というアピールにもなり、反乱軍を安心させ懐柔するという効果をも発揮した、という。
チェーザレ・・・かっこええ。




ウーゴ・デ・モンカーダ(Hugo de Moncada)

ウーゴ・デ・モンカーダの肖像

(Ugo de Moncada)

(1476年 - 1528年5月28日)
チェーザレの進撃中(1499年 - 1503年)ずっと配下にあった。
チェーザレ没落後スペインに下り、シチリア総督(1509-1516)、ナポリ総督(1527-1528)にまでなるので、優秀な軍人・政治家であったと思われる。
チェーザレの遠い親戚。(ホアン・ボルジア・ランソル・デ・ロマーニ(シレンツィオ)の母親がモンカーダ家の人)
ルクレツィアとアルフォンソ・デステの結婚式にも参列している。



スペイン、ヴァレンシア、チヴァ生まれ。
ヴァレンシアの名門貴族ペドロ・デ・モンカーダ男爵とベアトリス・デ・カルドナの7人の子女の4番目の子。

1490年、14歳でスペイン王フェルナンド2世に仕える。聖ヨハネ騎士団に入る。

1495年、軍隊での躍進を熱望していたウーゴは、フェルナンド王の許可を得てフランス王シャルル8世のイタリア侵攻に志願兵として従軍する。
しかしすぐにスペインとフランスの対立が表面化したため、ローマにいる間にフランス軍から離脱する。遠縁であったボルジアを頼り、1499年から1503 年までチェーザレの下で軍務につく。
(フランス軍から離脱したわけではなく、チェーザレがフランスと同盟したため仕えることになったとする説もある。)

1502年1月、ルクレツィアとアルフォンソ・デステの結婚式にチェーザレの従者としてホアン・デ・カルドナとともに参列。(この2人はチェーザレ配下の傭兵隊長でありながらスペイン貴族でもあるので)(でもチェーザレの信頼も厚かったと思う)
この頃にはチェーザレの主要な副官のひとりと見做されていた。

1502年10月、ミゲル・ダ・コレッラ、ラミーロ・デ・ロルカとともにカルマッツォにおいて、パオロ・オルシーニ、ヴィテロッツォ・ヴィテロッツォの軍と衝突。負傷して撤退。捕虜になる。

しかしすぐに解放され、1503年3月にはミゲル・ダ・コレッラ、ルドヴィーコ・デッラ・ミランドラとともにオルシーニの居城チェーリを攻囲、陥落させる。
その後はグイドバルド・ダ・モンテフェルトロの保持する城塞をいくつか略取した。

アレクサンデル6世の死後、スペイン王フェルナンド2世の要請によりボルジア軍を離れナポリへ。ガリリャーノの戦いでゴンサロ・デ・フェルナンデス・デ・コルドバ率いるスペイン軍の指揮官として従軍。フランス軍を破る。

1509年、イタリア海域でのムーア人との戦いを評価され、シチリア島の副総督に任命される。

1516年、シチリア島総督に。

1522年、神聖ローマ帝国皇帝カール5世の将軍として、トゥルネーの城壁を攻囲。

1525年、バラッツェを攻撃するが敗北。捕虜となる。

1526年、マドリード条約により解放される。

1527年、ローマ劫掠。

同年、ナポリ総督に。

1528年、ナポリでフランスとジェノヴァの艦隊に敗れる。船のほとんどを撃沈され、ウーゴもサレルノ湾で戦死した。






ディエゴ・ラミレス(Diego Ramírez de Quiñones)

(c.1470年 - 1512年4月12日)
スペイン、レオン王国出身。
ペドロ・ラミレスの兄弟。兄弟でチェーザレに仕えた。どちらが兄でどちらが弟かは不明。
兄弟区別されずごっちゃにされていることも多い。ので検証してみた。

彼らが登場するのはほぼ2ヶ所のみで、
⚫︎ドロテア・マラテスタ(カラッチョーロ)誘拐事件
⚫︎チェゼーナの城代として

手元にあるボルジア本10冊とWikipediaとTreccaniは以下のようになっている。

「ー」は記述なし

アルヴィジサバティーニウッドワードサチェルドーテブラッドフォード塩野七生クルーラスヒベートストラサンイオッティWikiTrec
出版年1878191219131950197619821987200920092020
ドロテアディエゴディエゴディエゴディエゴディエゴディエゴディエゴ
城代ペドロペドロペドロ兄弟ディエゴペドロ兄弟Pedro d'Oviedディエゴ

これを見ると、

  • ドロテア誘拐に関わったのはディエゴ
  • チェゼーナの城代だったのは兄弟2人とも

と理解していいんじゃないかと思う。(いいよね!?)
(イオッティの城代がPedro d'Oviedになっているが、このペドロはチェーザレの元従僕で、ユリウス2世の使節としてチェゼーナへ行ったら「この裏切り者がぁぁ!」とラミレスに吊るされた人。多分勘違いされてる)


閑話休題    閑話休題    閑話休題

元々はウルビーノ公グイドバルド・モンテフェルトロに仕えていた。
チェーザレのロマーニャ攻略に従軍。(いつからかはっきりわからない。1499年(最初)から?かな)

1501年2月24日、ポルト・チェゼナティコとチェルヴィアの間でドロテア・マラテスタ(カラッチョーロ)を誘拐。
チェーザレの命令でとも言われるが、ディエゴ個人の犯行とも言われる。
また無理矢理誘拐したとも、彼らは恋仲で駆け落ちのようなものだったとも言われる。(主犯がわかっていないので、「彼ら」とはチェーザレとドロテア、ディエゴとドロテアどちらのパターンも指す。)



アレクサンデル6世の死後、チェゼーナの城代として城塞を守る。兄弟のペドロも一緒だったと思われる。
彼らはフォルリの城代ゴンサロ・デ・ミラフェンテスとともに、間にあるベルティノーロも守った。

ユリウス2世はカルロ・ディ・モンカリエーリを教皇代理としてロマーニャに派遣、城塞の明け渡しを迫る。モンカリエーリはチェーザレの元従僕ペドロ・デ・オヴィエードを伴いチェゼーナへ向かう。
厳しい雪の日に2人の使節はチェゼーナにたどり着くが、ディエゴはオヴィエードを裏切り者と断じ吊るしてしまう。

ユリウス2世は激怒してチェーザレをサンタンジェロの独房に投獄した。(ディエゴ…忠誠心がアダに…)(短期間でチェーザレはスペイン人枢機卿の懇願によりボルジアの間に移された)

ディエゴはチェーザレが解放されないかぎり城塞の明け渡しはないと言明し続け、チェーザレが明け渡しに応じるよう手紙を書くまで守り切った。
1504年3月10日、ディエゴはチェゼーナを離れた。

チェーザレの下を離れたディエゴはナポリのスペイン人総督ゴンサロ・デ・フェルナンデス・コルドバの下で軍務につく。

1512年4月、ラヴェンナの戦いの前衛で100の歩兵を率いる。しかし12日に戦死した。




ペドロ・ラミレス(Pedro Ramírez de Quiñones)

ディエゴ・ラミレスの兄弟。兄弟でチェーザレに仕えた。どちらが兄でどちらが弟かは不明。
兄弟区別されずごっちゃにされていることも多い。(→ ディエゴ・ラミレス参照)

1498年、チェーザレのフランス行きに同行していたよう。
(チェーザレはフランスからイタリアへ戻って来る時、フランスの自領ヴァランスとディノワをシャルル・セイトル(Charles Seytres)(セイトレス。シャルル・セクストルCharles Sextreという表記も見られる)という総督に任せており、1499年5月14日フランスのブロワで全権委任する証書を発行している。
その証書の承認欄にチェーザレの書記官アガピート・ゲラルディとペドロ・ラミレスの名前がある。)(ので、フランス行ってたと思われる。)




ホアン・デ・カルドナ(Juan de Cardona)

(c1470 - 1512年5月)
チェーザレの進撃中(1499年 - 1503年)ずっと配下にあった。
アントニオ・デ・カルドナの兄。弟とともにチェーザレに仕えた。

シチリア島生まれ。
カルドナ家はスペインの貴族で、もともとはアラゴン、カタルーニャ出身。王家に次ぐと言われる家柄で、アラゴン大法官やカルドナ公爵の位にあった。
そのカルドナ家のシチリア分家。

コルサーノ伯アルタル・デ・カルドナ2世とマリア・デ・ベンティミリアの子。
在イタリア3世になるが、スペイン人とみなされていた。

1499年から1503年までチェーザレの下で軍務につく。

1502年1月、ルクレツィアとアルフォンソ・デステの結婚式にチェーザレの従者としてウーゴ・デ・モンカーダとともに参列。(この2人はチェーザレ配下の傭兵隊長でありながらもスペイン貴族なので)(チェーザレの信頼も厚かったんだと思うけど)

1503年、アレクサンデル6世の死後、スペイン王フェルナンド2世の要請によりナポリでフランス軍と戦っていたスペイン軍に加わる。ウーゴ・デ・モンカーダや弟のアントニオ・デ・カルドナも一緒だった。

1509年12月、カラブリア州の総督に任命される。

1511年末、ヴェネツィアおよび教皇庁と合意した神聖同盟の構成に際して、ナポリ王国で組織された軍隊の一員であった。

1512年4月12日、ラヴェンナの戦いで、ファブリツィオ・コロンナ率いる前衛部隊の一員として参加。60の中隊を指揮する。
しかしこの戦いで重傷を負いまもなく死亡した。




アントニオ・デ・カルドナ(Antonio de Cardona)

ホアン・デ・カルドナの弟。
捕囚としてスペインに送られるチェーザレを、ヴァレンシアまで護送した。




ディエゴ・ガルシア・デ・パレデス(Diego García de Paredes y Torres)

(1468年3月30日-1533年2月15日)
スペイン、トルヒーリョ生まれ。




ゴンサロ・デ・ミラフェンテス(Gonzalo de Mirafuentes)

フォルリの城代。
1503年11月、ディエゴ・デ・ラミレス、ペドロ・デ・ラミレス兄弟とともにロマーニャのチェーザレに残された城塞を死守した。(ラミレス兄弟はチェゼーナで。)
彼らはフォルリとチェゼーナの間にある城塞ベルティノーロも同時に守った。

明け渡しを求めるユリウス2世の使者も拒否し、チェーザレが手紙で言い渡すまで開城せず、チェーザレを支持し続けた。

しかし彼は最終的な開城条件として1万5000ドゥカートをユリウス2世に要求しており、当然教皇はそんなもの払うわけないので、チェーザレが立て替えている。(チェーザレ、もうとりあえず早く解放されたかったんだろね…)

1504年3月10日、チェゼーナは開城。しかしゴンサロは再三の開城勧告にも関わらず拒否し続ける。
8月10日、ゴンサロは右側にフラカッサ、左側にルッフォ・ヌマイを従え、チェーザレの旗印「Aut Cesare aut nihil」を掲げ、200の弓兵を率いてフォルリを出た。
彼らの「Duca! Duca!」(公爵!公爵!)と叫ぶ声が響いた。
教皇庁の派遣した新総督と、ルクレツィアの派遣した貴族の1人が降伏の儀式に立ち会った。




ロドリーゴ・マルドナド(Rodrigo Maldonado)




ジェローニモ・ボナディア(Jerónimo Bonadia)




ブラボ・デ・エステッラ(Bravo de Estella)




ホアン・プティ(Joan Petit)




バルダッサーレ・ダ・スキピオーネ(Baldassare da Scipione)

(-1515年12月)
チェーザレの忠臣…とまでは言えない感じだけど(仕えた期間が短いし)、チェーザレがナポリで捕囚になったことを知ると、スペイン両王に抗議しキリスト教圏に訴えた。

シエナ生まれ。若い頃決闘で負傷し隻眼だった。
初期はヴィルジニオ・オルシーニの下で傭兵としての経験を積んだ。
シエナの実力者パンドルフォ・ペトゥルッチと手を組んで勢力を伸ばしていたよう。

1504年、シニガリア事件後からチェーザレに仕える。
ランチェ・スペッツァーテ(直訳すると折れた槍。個人で雇われた兵士のこと。普通傭兵は単独ではなく2〜6人のユニットで雇用されていたが、隊長が死亡してユニットが崩壊しバラバラになった兵士たちをまとめて入隊させ、lance spezzateと呼んだ。従うべき傭兵隊長がいないので永久に雇用することができ、忠実な部隊となることができた。)
の指揮を任される。

チェーザレに、教会国家に反抗するオルシーニ派の盟友パンドルフォ・ペトゥルッチへの対処を促す。

彼はシエナに入り、市民を扇動し、反乱を開始する。パンドルフォ・ペトゥルッチとジャンパオロ・バリオーニは、街を追われることになる。

11月、チェーザレの依頼でフォリーニョに。

1504年、チェーザレのガエタからナポリへの道行きを護衛する。ゴンサロ・デ・フェルナンデス・コルドバに通行証をもらいローマへ戻る。

ローマで、スペイン軍によるチェーザレ投獄の報を受け、プロスペロ・コロンナの宮殿に避難する。




クリストーバル・デ・ヴィジャルバ(Cristóbal de Villalba y González)

(1475年 - 1516年)
チェーザレの忠臣という感じではないけど(チェーザレの進撃中(1498〜1503)ずっと配下にあったが、まだアレクサンデル6世が存命していた時にスペイン軍に行ってしまうので)、映画のような面白エピソードでチェーザレに気に入られた逸材。

16世紀のプラセンシア。

カスティーリャ王国、カセレス県プラセンシア(ポルトガルの近く)生まれ。
ホアン・デ・ヴィジャルバとイサベル・ゴンサレス・フロリアーノの息子。兄にホアン、エルナンド(2人は聖職者の道を選択)、妹ベアトリス。

生まれ故郷プラセンシアは封建的な領主と民衆の確執が激しく、幼年期〜少年期を内乱の中で過ごす。

1495年、20歳になったばかりのクリストーバルは、プラセンシアを離れイタリアで戦うテルシオ(スペインが採用していた軍事編成の名称)の兵士として入隊することを決意。
トレドに向かい、マヌエル・デ・ベナビデス大尉の隊に入隊する。そこからバルセロナを経てイタリアへ移動し、ゴンサロ・フェルナンデス・デ・コルドバの旗の下に身を置いた。

ナポリではスペインとフランスとの小競り合いが続いており、この地で彼は武勲を上げる。
彼の戦いぶりは勇猛果敢で、コルドバ将軍にも名が届くほどだった。


1498年夏、マルクーシス条約によってフランスとスペインの間に和平が結ばれる。
休戦で休暇を得たクリストーバルはローマを訪れる。が、そこで2人組の暗殺者に襲われ、1人を刺殺してしまう。正当防衛でもあったのに、彼はその場で取り押さえられ、投獄され、裁判もなく死刑を宣告される。

刑の執行の日、クリストーバルは教誨師として独房にやって来たフランチェスコ修道会の修道士を絞殺する。彼は死んだ修道士の服を身に着け、素知らぬ顔で看守と死刑執行人の間を通り過ぎ、脱獄に成功する。
出て行く時、看守らに向けて「スペイン人は(死を受け入れる)準備ができたようだ」と、修道士になりきったセリフを吐いたとも言われている。(すごい)(by Vicente Galbete)

クリストーバルはオルシーニ家を頼ってその所領に逃げこむ。
この時クリストーバルの脱獄を知ったチェーザレは、その大胆で巧妙なやり口に感銘を受ける。そして、このような傑物を処刑してしまうのは惜しいと考え、「死刑は不当な厳罰であり酌量の余地あり」として、彼に特別な安全通行証を発行する。(修道士も殺しとるのに!)



勝てば自由が保障されることになったのか?、決闘が行われることになる。(経緯はよくわからない!)クリストーバルは1日に3つの決闘に挑むことになる。

  1. スペイン人を相手に戦い勝利する。(おそらくこれが公式の相手)
  2. 決闘中、あるスイス人大尉がスペイン王フェルナンドを誹謗したため、その大尉に戦いを挑む。しかし大尉は身分の違いを理由に挑戦を拒否。すると、その場にいたチェーザレがクリストーバルを大尉にした。(!?なんと!?チェーザレ〜!!)
    スイス人大尉は挑戦を受けざるを得ず、交戦。クリストーバルが勝利する。
  3. 決闘を嘲笑したコルシカ人大尉を許さず、彼にも戦いを挑み、多くの傷を負っていたにも関わらず勝利する。

チェーザレはこの3つの勝利を激賞。
クリストーバルを自らの宮殿で治療し、配下に加えることに。使用人、部下と言うよりも友人、助言者として迎え入れた。
クリストーバルは主に軍事面において価値あるアドヴァイザーであったよう。

チェーザレの旗の下、彼は教皇庁軍とともに数々の戦闘に参加した。



しかしチェーザレの没落直前、再びゴンサロ・デ・コルドバの軍に戻る。クリストーバルは脱走したスペイン人将校ホアン・アロンソ・デ・アルバラードの断頭した首を忠誠の印として携え、再入隊した。

1503年夏、チェリニョーラの戦いで隊長となり、数々の勝利をおさめ、その名声を高めていく。
1503年末、マントヴァ侯爵が仕組んだ攻勢を食い止め、ガレラノの戦いではスペイン軍の指揮をとる。

対トルコ戦でも活躍し、フェルナンド王の側近にまで上りつめる。
彼の功績のおかげで兄ホアンはカラオラの司教に任命された。



イタリアからスペインに帰ると、プラセンシアの名家であるトレホスとカルバハレスの血を引くエステファニア・デ・トレホと結婚する。

1508年、フィリップ美公が死去するとフェルナンド王への反発がアンダルシア地方で起きる。クリストーバルはこれを鎮圧。
また、グラナダ再興を目論むムーア人の乱も収めた。



1512年、ファドリケ・アルバレス・デ・トレド(アルバ公)の指揮の下、大佐としてナヴァーラ征服に参加する。
ナヴァーラ王ジャン・ダルブレ(チェーザレの義兄)は逃亡、クリストーバルはパンプローナ、エステーリャ、オリテ、サングエサ、トゥデラを占拠した。

1515年6月15日、ナヴァーラ降伏。

1516年、ナヴァーラ貴族や有力者の反逆を恐れたフランシスコ・ヒメネス・デ・シスネロス枢機卿(王の代理人)に、軍事拠点になりそうな要塞、城塞家屋、教会の取り壊しを命じられる。
クリストーバルは、ナヴァーラ王国内のトゥデラ、タファラ、オリテ、エステラ、サングエサ、メンディゴリア、ルンビエ、レ・リン、など多くの城塞を破壊する。
イルルサン近郊のアイジータ城、アオイス地方のゴンゴラ城は、領主がカスティーリャに協力したにもかかわらず破壊した。
教会や要塞化された修道院も、サン・フランシスコ・デ・オリテの壮麗な教会も、多くの教区教会の荘厳な塔さえも取り壊した。

貴族たちは、王国の軍事部門とボーモン党の長であるコンスタブルを先頭に国王に苦情を申し立てたが、効果はなかった。

(チェーザレ最期の地となったヴィアナの城塞は、カスティーリャの支持者であるレリン伯の手にあったので破壊を免れた。)

クリストーバル・ヴィジャルバの墓。

その直後、クリストーバルはレリン伯(チェーザレ最期の戦いの相手ルイ3世・ド・ボーモンの息子、ルイ4世・ド・ボーモン)から食事に招かれた後、寝室の妻の横で眠ったまま死去した。
城塞の件で恨みを買い、毒殺されたと言われる。当時は神罰だと信じる者も多かった。実際の死因は不明。

ナヴァーラで埋葬され、後に故郷プラセンシアに移された。聖イレフォンソ修道院の大礼拝堂に安置されている。

長女ベアトリス、次女ファナ、長男ペドロら6人の子を残した。




ルドヴィーコ・ピコ・デッラ・ミランドラ(Ludovico pico della Mirandola)

(1471年-1509年12月16日)
忠臣という感じではないけれど、チェーザレの下で傭兵隊長として仕えた。
昨日の敵は今日の味方という感じで、時機を見ながらあっちこっちで傭兵している。自領の勢力争いも他国との同盟で乗り切っているので、強者を見分けて味方につくのが上手かったのかも。基本フランスの保護下にあるのでフランス寄りではある。

ガレオット・ピコとビアンカ・デステの息子。
ヴェネト州ロヴィーゴ県ポレゼッラ生まれ。ポレゼッラはフェラーラの北にある小都市。ちなみにミランドラはフェラーラの西にあるロマーニャ州モデナ県の小都市。城塞都市で、14世紀から約400年、ミランドラ公国 (Duchy of Mirandola) の首都だった。代々この地を治めたのがピコ家 (Pico )。



1494年、フランス王シャルル8世の侵攻でナポリ王国に傭兵隊長として雇用される。年俸6000ドゥカート。

1495年7月6日、フォルノーヴォの戦いでミラノの中隊を指揮する。

1496年、ピサを支援するルドヴィーコ・スフォルツァに雇用されフィレンツェと交戦。
しかしすぐにフィレンツェ側に寝返る。ジャンパオロ・バリオーニ、ヴィテロッツォとパオロ兄弟のヴィテッリ、ヤコポ・ダッピアーノ、ラヌッチョ・ダ・マルシアーノ、オッタヴィアーノ・リアーリオらと手を組む。100の歩兵と150の弩騎兵を率いた。

1498年、再びルドヴィーコ・スフォルツァに仕え、スフォルツァ宮廷で開かれた馬上槍試合に参加。結果は不明。(記録にないと言うことはたいした成績ではなかった?)

1500年、ノヴァーラの戦いでフランス軍の捕虜となる。
叔父のアントンマリア・ピコが保釈金2500ドゥカートを払ってくれたので解放される。

1501年、フォルノーヴォの戦いの時の上司、ジャン・ジャコモ・トリヴルツィオの娘、フランチェスカ・トリヴルツィオと結婚。

1502年6月、弟のジャンフランチェスコと継承権で揉め戦争にまで至る。マントヴァ侯フランチェスコ・ゴンザーガ、フェラーラ公エルコレ・デステ、義父トリヴルツィオ家の支援を受ける。8月6日、ルドヴィーコが勝利しピコ家の城塞を奪取、ジャンフランチェスコを流刑した。

1502年10月、チェーザレに仕える
マジョーネの反乱で、急ぎ兵力が必要となったチェーザレに雇用された。

1503年、ミゲル・ダ・コレッラらとともにオルシーニの居城チェーリを攻囲。陥落させる。

アレクサンデル6世の死後、コンクラーヴェの間フランス軍とともにローマ郊外に駐留。

1504年、兄フェデリーコが死去。ミランドラ家唯一の支配者となる。

1508年、ユリウス2世率いる教皇庁に従軍。

1509年、ヴェネツィア海軍の放ったファルコネット砲(ルネサンス期の小型大砲)に頭部を砕かれ死去。

1510年、ミランドラは2歳の息子が継承し妻が摂政となっていたが、流刑されていたジャンフランチェスコに抗議され、ユリウス2世を巻きこんだミランドラ攻囲戦につながっていく。




ホアン(ジョヴァンニ)・デ・ヴェラ(Juan de Vera)

→ チェーザレと同時代の枢機卿




フランチェスコ・レモリーネス(Francesco Remolines)

(フランチェスコ・レモリーノ Francesco Remolino)
(1462年~1518年2月5日)

チェーザレの家庭教師であったので最初は師だったんだろうけど、少年時代からずっと側にいた忠臣。アレクサンデル6世死後、泥沼にはまっていくチェーザレをどうにかして守ろうと尽力したいい奴。泣ける。

スペイン、レリーダ生まれ。レリーダ大学で法学を学ぶ。
10代で結婚するも、剃髪し僧籍に入る。妻であった女性は修道院へ。
アラゴン王フェルナンド2世の下に法学者として仕え、教皇庁への大使となる。
そこからボルジア家との縁が生まれ、チェーザレの家庭教師に。
チェーザレは彼のことを「親愛なる家族 mio famigliar carissimo」と呼んで信頼していた。

1489年
ペルージャでチェーザレの家庭教師となる。

1491年
チェーザレとともにピサへ赴き、ピサ大学で教会法と市民法の教授資格を得る。

1492年
ピエロ・デ・メディチへのチェーザレの依頼により、ピサ大学の法学部教授になる。
(ピサ大学はメディチ家の統治下にあったので)
1492年と1493年の特別教授一覧の中にフランチェスコの名前がある。

1496年
レリーダの司教に。
教皇庁裁判所副判事の任も務める。その仕事を記録した「Decisiones」(評決、裁定の意味)を著している。

1498年
アレクサンデル6世の命により、ドメニコ会修道僧ジョアキーノ・トッリアーニとともに裁判員としてフィレンツェに赴き、サヴォナローラへの尋問と死刑判決を行う。
サヴォナローラの火刑時「さあ火祭りしようぜ!」って言ってたらしい。どんなノリなの。

1501年
ソレントの司教に。教皇庁の副会計官にも任命される。

1502年
チェーザレのそばで秘書官を務める。
(チェーザレとアレクサンデル6世の間の調整連絡役だったと思われる)

10月、チェーザレの使者としてヴェネツィアに向かい友好を確認する。
(マジョーネの反乱が始まっているので、ヴェネツィアに動いてもらっては困る)

11月、チェーザレ軍の歩兵400を率いる。(こんなこともできるの!?すごい)
同月、チェーザレの使者としてローマへ
(チェーザレとアレクサンデル6世との意思調整に手間取ったのか、かなり長くローマにいた)

1503年
1月12日、シエナのパンドルフォ・ペトゥルッチとの講和条件を検討するため、チェーザレによって、アレクサンデル6世の元へ派遣される。

5月31日、アレクサンデル6聖に任命され枢機卿に。6月12日には「Ss. Giovanni e Paolo」(枢機卿に与えられる称号のひとつ)の称号も授与される。

8月19日、アレクサンデル6世の死の翌日、枢機卿団はチェーザレにローマからの退却を要請しようとする。
この枢機卿会議に、兵を連れたミゲル(ミケーレ・ダ・コレーリア)が乱入、要求を撤回するように求める。剣を抜いたミゲルを、フランチェスコは涙を浮かべながら止めたという。(塩野七生「チェーザレ・ボルジア あるいは優雅なる冷酷」P271)

9月、ピウス3世選出のコンクラーヴェに出席。
10月~11月、ユリウス2世選出のコンクラーヴェに出席。

11月、ヴェネツィアの横暴からロマーニャを守るため、オスティアから出航しようとしているチェーザレ(ミゲルは陸路をとっていた。ピサ周辺で合流する予定だった。ちなみにこの時がチェーザレとミゲルの今生の別れとなる。)を、教皇となったばかりのユリウス2世の命で、ソデリーニ枢機卿とともに引き止める。

フランチェスコとソデリーニは、ロマーニャの諸城塞を引き渡すように、というユリウス2世の命を告げるが、チェーザレは拒否。やむなく彼はチェーザレを逮捕することに。

12月、チェーザレの行く末を危ぶんだフランチェスコは、ルクレツィアの息子ホアン(ジョヴァンニ)、ロドリーゴとチェーザレの庶子を引き連れ、ナポリへ逃亡する。
ゴンサロ・フェルナンデス・デ・コルドバ(ナポリの総督)にチェーザレ釈放をスペイン王に依頼してもらえるよう、懇願する。

1504年
チェーザレ釈放。ナポリへ赴くチェーザレにつき添う。
(しかしここでチェーザレは再び捕縛され、スペインへ送られることになる。)

ボルジア派枢機卿としてユリウス2世に敵視されるが、スペイン王フェルナンド2世の威光を利用して和解することに成功。ユリウス2世はやがてフランチェスコの能力を認め、フェルモやテルニの司教職を与えている。

1512年
第5回ラテラノ公会議に出席。

1513年
レオ10世選出のコンクラーヴェに出席。
新教皇とも良好な関係を築く。

1517年
5月、レオ10世への反逆を企てたアルフォンソ・ペトゥルッチとバンディネッロ・サウリの裁判が行われる。
レオ10世は3人の裁判員の1人にフランチェスコを選ぶ。
フランチェスコはこの裁判の進行役を担い、ペトゥルッチへの死刑宣告を行った。
ちなみにこの陰謀の容疑者の1人にはラファエーレ・リアーリオもいた。

1518年
2月、ローマにて死去。サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会に埋葬される。




アガピート・ゲラルディ(Agapito Geraldi di Amelia)

(アガピート・ゲラルディーニ Agapito Geraldini)
(1450年 - 1515年7月)
1464年、アガピートの伯父アンジェロは、カリストゥス3世によってセッサ・アウルンカの司教に叙階される。これをきっかけに躍進した一族。コロンナ家と姻戚関係にあったよう。

ウンブリア州アメーリア生まれ。
1458年、ナポリ王フェランテのもとへ送られ、聖職者としての道を歩み始める。後、ペルージャ大学で学ぶ。

1479年、シクストゥス4世によって、司教座聖堂参事会員に任命される。

1482年、ロドリーゴ・ボルジアの秘書となる。

1494年、シャルル8世のイタリア侵攻時、使節としてナポリへ送られる。

1497年、ウンブリアの教皇使節となったホアン・ボルジア(シレンツィオ)の秘書となる。

1498年7月、チェーザレ・ボルジアの秘書となり、フランス王ルイ12世との交渉を行う。以後5年間、チェーザレの没落まで彼はチェーザレに付き従い優秀な助言者として務める。彼のサインした多くの手紙や書類が残っている。
同年10月、チェーザレに随行しフランスに渡航。計画準備をも行う。

1499年5月10日、チェーザレとシャルロット・ダルブレの結婚署名の証人を務める。
同年6月、チェーザレ、ルイ12世とともにミラノ入城。つづくロマーニャへの進攻にも随行する。

1501年5月、チェーザレのファエンツァ掌握後、特使としてフィレンツェへ。ルイ12世の手前、すぐにはフィレンツェを攻撃できないチェーザレのために、彼をフィレンツェの傭兵隊長として契約する。

1502年、6月にウルビーノ10月にイモラにて、フィレンツェから派遣されてきたマキァヴェッリと出会う。

二人はけっこう気があっていたよう。
チェーザレの真意を読めずに焦るマキァヴェッリをよくなだめていた。しかしマキァヴェッリのフィレンツェへの報告書を読むと、まったくなだめられていない。
アガピートがマキァヴェッリにチェーザレのことを語るとき「私たちの公爵はね~」みたいな、主人自慢的雰囲気が出てる気がする。マキァヴェッリはきっと、閉口しつつも耳を傾けずにはいられなかっただろう。かわいい。


1503年、バリオーニ家追放後のペルージャの教皇代理に任命される。また特使としてシエナへ向かい、パンドルフォ・ペトゥルッチと交渉する。

アレクサンデル6世とつづくピウス3世の死後、チェーザレにローマに留まらずロマーニャへ向うように進言する。しかし聞き入れられない。

新教皇ユリウス2世へ何度もチェーザレの解放を請願する。しかし聞き入れられない。

1504年4月、ナポリへ向うチェーザレに同行せずローマに残る。マキァヴェッリは「チェーザレの不運につきあうことはない」と記した。アガピートはここで、チェーザレへの期待とそれに伴う忠心を諦めてしまったように思える。

やがて彼は故郷であるアメーリアへ帰り、1506年、司教位を退く。

1515年7月死去。アメーリアのサン・フランチェスコ教会(chiesa di S. Francesco)に埋葬された。
フェラーラ公妃となっていたルクレツィア・ボルジアは「忠臣アガピートの良き思い出のために(la servitù della bona memoria de messer Agapyto)」彼の甥にカプアの聖職禄を与えるよう、イッポーリト・デステに依頼した。




ガスパーレ・トレッラ(Gaspare Torella)

トッリーリャとも。(Gaspare di Torriglia)
( - 1512年)

スペイン人。サンタ・ジュスタの司教。1494年1月8日にアレクサンデル6世によって任じられた。

遅くとも1497年からチェーザレの下に仕える。チェーザレの侍医(内科医)で、チェーザレのためにフランス病(梅毒)の治療の研究をしていた。
当時の最も高名な医者のひとりだったよう。
(しかし彼は、梅毒治療について、
「この病が神による罰なのだとしたら、それを治そうとすることは神の意思に反する行為ではないのか」
と疑問を呈している。)

1497年から1500年にかけて、
「Tractatus contra pudendagra」(外陰部に対する触診)
「Dialogus de dolore」(痛みとの対話)
という2つの著作をローマで出版、チェーザレに献呈する。
これはチェーザレの梅毒治療の研究成果を記したもので、梅毒に関する最初の明晰な科学的論文のひとつと言われている。
ガスパーレはその中で、
「チェーザレが自分の処方を忠実に守り、その結果、病気の性質とその治療法を発見する機会を与えてくれたことに、世界は感謝すべきである」
と言っている。



1502年、チェーザレがウルビーノを攻略した時、ウルビーノの図書室にあったアルキメデスの写本全集をもらい受ける。そしてそれをサルディーニャ在住の兄弟に贈った。

アルキメデスはレオナルド・ダ・ヴィンチも欲しがっていたのに、チェーザレはガスパーレを優先している。
レオナルド・ダ・ヴィンチより優先されるってよっぽどじゃない!?
それだけ彼の梅毒治療は結果を出していたのかな。
チェーザレは梅毒による爛れを見られるのが嫌で夜中の活動を好んだとも言われるので、ガスパーレの効果ある治療に感謝し信頼していたのかも?
そしてまた、きっと信頼に足りうる優秀で忠実な人物だったのでしょう。


同年、ルクレツィアがフェラーラで死産し病床にあった時、チェーザレの命で往診する。
チェーザレ、優しい!と思うけど、この時期ルクレツィアに何かあったら、フェラーラ(エステ家)との関係が安泰じゃなくなっちゃうから・・・。



アレクサンデル6世の死後、ユリウス2世、レオ10世にも専属医として仕えた。
完全ボルジア派に見えるこの人をそばに置いたと言うことは(しかも侍医として!毒盛られそうなのに)、やはり誠実なできる人だったと思われる。

しかし1503年12月8日、教皇になったばかりのユリウス2世はサンタ・ジュスタの司教区を廃し、オリスターノと統合している。
これがボルジア派に対する圧力のひとつなのか、教皇としての仕事のひとつなのか謎だけど、ガスパーレの存命中はその司教位は一応保たれた。死後廃位。




クリストーバル・デ・ラ・トッレ(Cristóbal de la Torre)

チェーザレの執事。
ロマーニャの4人の総督のひとり。




アレッサンドロ・フランシ(Alessandro Franci)

アレッサンドロ・スパノッキ(Alesandre Spanocchi)
チェーザレの財務官。

1501年、チェーザレのファエンツァ進軍時、傭兵隊長への報酬として約35,000ドゥカートを、チェーザレに送金している。
同年3月、フォルリ市民とスペイン人指揮官との間に起きた小競り合いを収めて、チェーザレに報告。
この報告により、チェーザレはフォルリに[[ラミーロ・デ・ロルカ>]]を派遣した。ラミーロはフォルリ市議会と会合し、事件を問題にはせず穏便にすませた。

チェーザレがユリウス2世に捕縛された時、動揺せずフィレンツェとジェノヴァにあるチェーザレの資金30万ドゥカートをいつでも動かせるように待機していた。

ユリウス2世はフランシがチェーザレを助けるのを恐れ、彼が大金とともにローマに到着したという噂を聞いただけで逮捕状を出し、チェーザレの母ヴァノッツァの家まで捜索したらしい。




アントニオ・マリア・チョッキ・デル・モンテ(Antonio Maria Ciocchi del Monte)

(アントニオ・ダ・モンテ・サン・サヴィーノ Antonio da Monte San Savino)
(モンテ・サン・サヴィーノ生まれなので。)

(1461年9月 - 1533年9月20日)

チェーザレの忠臣という感じではないけど(他の人にも多く仕えているので)、常に与えられた役目を全うし誠心誠意尽くしたと思われる人。
チェーザレの全ての所領の裁判所長官。またロマーニャ州総督。一族でもスペイン人でもないのにこれだけのことを任せられているんだから、相当ちゃんとした人だったと思われる。実際経歴を見ると聖人ぽい。

ファビアーノ・チョッキとヤコパ(姓は不明)の3子、末っ子。
父ファビアーノがCiocchiの姓をやめてMonte San Savinoにした。(でもCiocchiの名前でも残っている。)

教会学を学び博士号を取得。父と兄を頼りローマに出ると、法律に関する知識ですぐに教皇庁の注目を集め評価された。

1492年、インノケンティウス8世によりアレッツォ大聖堂の大司祭に叙階される。

1493年3月27日、アレクサンデル6世によりサクラ・ロータ(教皇庁裁判所)の監査役に任命される。

1495年、アレッツォのサンタニェーゼ教会の院長に就任。
1496年、モンテ・サン・サヴィーノ近郊のサン・ルチアーノの院長に就任。

1498年、アレクサンデル6世によってローマに呼び戻され、再びサクラロータ(教皇庁裁判所)に配属される。

1502年7月、チェーザレの所領全ての裁判所長官に任命される。アントニオはチェゼーナに司法府を置いた。

同年12月8日、マジョーネの反乱収束で再びグイドバルド・モンテフェルトロがウルビーノを去った数時間後、チェーザレに派遣され同地に入る。
二重のトランペットの音とともに「ウルビーノの君主であるロマーニャ公チェーザレ・ボルジア」を高らかに厳粛に宣言した。

そして「直ちに武器を捨て、農民は農地に職人は工房に戻るよう」命じ、「宮廷財産を略奪した者はただちにそれを引き渡すよう」民衆に呼びかけた。

アントニオの働きは秀抜だったらしく、1503年初頭、チェーザレは彼をロマーニャ州総督にも任命した。



1503年8月4日、アレクサンデル6世によってチッタ・ディ・カステッロの司教に任命される。
しかし前任者のジュリオ・ヴィテッリ(アレクサンデル6世によって解任されていた)が反発、民衆を扇動し武力に訴える(ヴィテッリは街の権力者だったので、支持者も多かった)。

新教皇ユリウス2世は、アントニオの任命を支持し、1505年6月、街を禁制下(教会の活動を禁止すること。聖務禁止。教会は生活の中心にあるので生きていけなくなる)に置くと宣言した。

これで街は降伏し、1505年7月アントニオは自分の教区、サンフロリド新聖堂に居住することができるようになり、1506年2月6日までこの地を司牧した。

1511年にユリウス2世によって枢機卿に任命される。

1513年、教皇レオ10世を選出したコンクラーベに参加。
1516年、レオ10世によりカメルレンゴに任命される。

1517年春、レオ10世の暗殺計画が発覚。
アントニオはレオ10世から依頼され、裁判の法的問題、特に陰謀の首謀者とされる枢機卿アルフォンソ・ペトゥルッチとバンディネロ・サウリの身辺問題を扱うことになった。
(ラファエーレ・リアーリオもこの関与を疑われたが、最終的に無罪とされた。)

次の教皇ハドリアヌス6世は、1523年2月、アントニオを教皇庁特別委員会の委員長に任命した。

次の教皇クレメンス7世は、アントニオを教皇庁の戦争準備を担当する委員会に任命した。

1527年5月6日にローマの劫掠が始まると、アントニオは教皇に忠誠を誓い、教皇とともにサンタンジェロ城に避難した。
絶望的な状況に陥ったとき、彼はいち早く教皇に皇帝の和解を提案し、1527年6月5日の休戦協定に署名して、カール5世の軍隊を退去させた。(すごい)

彼の甥ジョヴァンニ・マリア・チョッキ・デル・モンテは、ユリウス3世の名前で教皇になっている。






ローレンツ・べハイム(Lorenz Beheim)

(Lorenz Behaim)
(1458年4月3日-1521年4月11日)
ドイツ(神聖ローマ帝国)、ニュルンベルク生まれ。
人文主義者、科学者、化学者、医師、占星術師、錬金術師、軍事技術者、百科事典学者、などさまざまな顔を持つ。
チェーザレの忠臣という感じではないけれど22年間ボルジアに仕え、チェーザレの要望で毒物や兵器の研究をしていた。



銃砲の鍛冶、鐘撞き人であった家に生まれる。
1473年から1476年までインゴルシュタットで神学を学ぶ。
ライプツィヒに移り、1478年まで学問を続け芸術修士(Magister artium)となる。

1480年、イタリアに渡り教会法の博士号を取得。
1490年頃、枢機卿ロドリーゴ・ボルジアの執事となる。
1492年、教皇庁の軍事顧問を兼任するようになり、ローマの防壁や要塞を強化する。
ホアンやチェーザレの進軍に参加したようで、そこでいくつかの包囲戦を経験した。
1496年、バンベルクの司教に叙任される。

この頃、アレクサンデル6世のための薬について所見を書き記しており、べハイムの友人であったピルクハイマー(後述)の遺品になぜか紛れて残っている。(2人は仲が良かったようなので、一緒にメモをみながら検討したりしていたのかも。それで紛れたとか?ちょっと微笑ましい。)

同じ頃、ピントゥリッキオのフレスコ画の下に書かれていたアレクサンデル6世の治世を讃える碑文をローマ碑文集に書き写す。このフレスコ画は破壊されてしまい残っていないが、べハイムの碑文集によって存在が確認できる、というありがたいことになっている。
(軍事に医学に芸術に活躍していて驚く。この人もダ・ヴィンチのような万能の人だったんだろう。)



アレクサンデル6世の下にいたべハイムだが、チェーザレとも親交があり、主に軍事、科学、医学方面の才を評価されていた。

チェーザレがべハイムに送った質問のリストが残っている。

約90におよぶ質問で、

  • 宝石(カーネリアンやサファイア)の作り方
  • 鉛などの金属からエメラルド、トパーズ、ルビーを作る方法

のような錬金術の域を出ない呪術的(夢想的?)な要望もあるが、

  • 橋を壊して水の上を歩く方法
  • 溺れないようなベルトを作る方法
  • 窓まで登れるような長い槍を作る方法
  • 砲弾で撃ち敵の大砲を割れる火薬を作る方法
  • 眠り薬を作る方法
  • それをカタパルト(投石機)で城に投げ込む方法

のような実際の戦闘を有利にするためのアイディア、また、

  • 人工的に記憶を作る方法
  • 離れた城と城にいながら会話する方法

のような恐ろしい発想もしている。(すごい…)


そして毒殺のボルジアの名にふさわしく「毒物(De venenis)」の項目を挙げ、

  • 杯、塩、匂い、部屋、鞍、鐙、砂糖、泉、川、井戸、時間、日の中、月の中
    に薬物を混入できないか
  • その薬物で人や馬を健やかにも熱病にもできないか

と尋ね、

  • それを敵の城内に投げ込む

ことを希望している。
(チェーザレは征服地の略奪を禁じていたことからわかるように、これから自分の所領となる地をできるだけ無傷で手に入れたいと考えていた。
戦闘が続けば続くほど街や城は荒れてしまうので、敵だけを速やかに抹消できる方法=毒ガス的なもので人だけ殺したい(または眠らせてその間に事をすませたい)、と思っていたよう。)



次の項目では「勇敢なもの」と題し、

  • 卵、鶏、予言、人影、足をひきずっている牝馬、何も食べない馬…

と書かれている。が、意味はよくわからない!
病気の馬の治療薬や、敵の馬を弱らせる手段が欲しかったのかも?


次の項目は「書類に関すること」。

  • 手紙や封蝋を偽造できないか
  • 封蝋された手紙を開き、また閉じることができないか
  • 人体やシャツに書くことはできないか
  • 鉄に書くことはできないか
  • 書いた15日後に透明になるインクはできないか
  • 火や鏡、水、点など特別なものを利用することでしか読めないような方法はないか
    (「点」の説明としてサイコロのようなものを書いている。)
  • 機密を伝える使者が「文字を食べる」ことはできないか

(チェーザレは情報が敵に漏れないよう暗号を重視していた。ので、奪われたら終わりの手紙を使用せず情報を伝達する手段が欲しかった?例えば使者が内容を丸ごと暗記して運ぶような?それを「文字を食べる」と表現してるのかも。暗記パンじゃん!?)

そして「機械的なもの」という項目。

  • 思考、話す死者の頭、金色の鉛、トラムダル(tramudar)(?)、動物、地球、人影、目を向ける

最後に、

  • 農業のこともあれば、装飾品を着た女性もいる
    「In Agricultura alcune cose, In ornamenti le donne」

と書かれているが、その下に質問はなく空欄になっている。



チェーザレがこの質問状を書いたのがいつ頃なのかはわかっていない。が、内容から1500年〜1503年頃であることは間違いないと思う。

計り知れないチェーザレの興味関心に、べハイムがどのような回答をしたのかは残っていない。






1503年、アレクサンデル6世が崩御しチェーザレが捕囚となると、拠り所を失ったからか故郷のニュルンベルクへ帰る。
1505年、バンベルクの公爵となる。
1506年から1507年まで同地で弁護士として働く。

人文学者であり皇帝マクシミリアン1世の顧問官であったヴィリバルト・ピルクハイマーと親交を持ち(1495年頃イタリアで知り合ったと思われる)、ピルクハイマーの友人であった画家アルブレヒト・デューラーとも交流した。


1507年、チェーザレ戦死の報を受けると、べハイムはすぐにピルクハイマーに手紙を書き知らせている。
1507年5月23日付けのその手紙は、チェーザレが31年と6カ月生きたことを告げ、数年前にチェーザレの依頼によりローマで彼のホロスコープを描いたこと、チェーザレがまず大きな権力を手に入れ、次に追放され、すべての名誉を奪われ、醜い死を遂げるだろうと予見したことを書いている。(チェーザレの訃報なのに自分の占いが的中したことを喜ぶニュアンスで書かれている。べハイムよ…)
しかしこの手紙は、議論の尽きないチェーザレの生年を決定する大きな証言となっている。


1517年から1518年にかけてべハイムがピルクハイマーに送った手紙が残っている。ピルクハイマーからの手紙は残っていない。(べハイム…捨てたんか?)
ピルクハイマーはべハイムを「自分の知るかぎり最も学識ある人物」と評している。

1521年、バンベルクで死去。




カルロ・ヴァルグリオ(Carlo Valgulio)

1494年7月24日、チェーザレ・ボルジア枢機卿の秘書官となる。




ペドロ・オヴィエド(Pedro d'Ovied)

(? - 1503年12月)
スペイン人。チェーザレの従者。
1502年6月22日、マキァヴェッリがフランチェスコ・ソデリーニとともにフィレンツェの使節としてチェーザレの元へ向かった時、「ウルビーノがチェーザレに落とされチェーザレはそこにいる」ことをポンティチェッリで報せた。

1502年12月、ラミレス兄弟とミラフェンテスがロマーニャを死守していた時、ユリウス2世の使者カルロ・ディ・モンカリエーリに同行し、城塞を明け渡すように請願した。
厳冬の雪の中、這々の体でチェゼーナに到着するが、城代ペドロ・ラミレスはユリウス2世側の人間として訪れたペドロに激怒、彼を裏切り者として逮捕し、銃眼に吊るして絞首刑にした。


「ミラフェンテスとともにロマーニャの領地を守るために英雄的な抵抗を行った武将」としている書籍もあるが、おそらくラミレス兄弟のどちらかと混合されてる。




ホアン・ロペス(Juan López)

(1455年? - 1501年8月5日)
ヴァレンシア生まれ。
ペルージャ枢機卿、またはカプア枢機卿と呼ばれる。
チェーザレの忠臣と言うより、アレクサンデル6世の忠臣。

幼い頃ローマに移り、ロドリーゴ・ボルジアの庇護を受ける。
1492年12月29日、ペルージャの司教に。
1493年12月25日、アレクサンデル6世の秘書官に任命される。かなり信頼されていたよう。
彼が秘書官となってから、スペイン両王はたびたび彼に教皇とのやり取りの仲介を要請した。

1494年12月、教皇とアスカーニオ・スフォルツァ枢機卿との対立を仲介。
1495年、シャルル8世によるイタリア侵攻の際は、教皇の名において国王の代理人と交渉した。

1496年2月19日、枢機卿に昇格。

1497年5月13日、アレクサンデル6世がドメニコ会修道士ジローラモ・サヴォナローラを破門した時、チェーザレによって何か関わりを持った?(ちょっとよくわからない。わかったら書きます。)

1501年1月、枢機卿会のカメルレンゴに。しかしアレクサンデル6世より先に亡くなるので、コンクラーヴェを取り仕切ったりはしていない。
1501年5月10日、ヴァティカン総主教座聖堂の大司祭に。

1501年8月5日、ローマのヴァティカン宮殿の居室にて死去。
アレクサンデル6世の寵愛を受ける彼に嫉妬したチェーザレに毒殺されたという説もある。またかよ。




ベルナルディーノ・ロペス・デ・カルヴァーハル(Bernardino López de Carvajal y Sande)

(1456年9月8日 - 1523年12月16日)
カルバーハル、カルバハルと表記されがち。
カルタヘナ枢機卿、またはサンタ・クローチェ枢機卿と呼ばれる。

教皇庁の大使として、フランス王、ナポリ王、スペイン王、神聖ローマ帝国皇帝と様々な君主のもとへ派遣されたり対応を任せられたりしているので、弁舌と交渉術に長けた優秀な人物であったと思われる。
それだけに野心もあって、アレクサンデル6世とピウス3世の後の教皇にすごくなりたかったよう。ユリウス2世を廃位に追い込もうとして失敗したりしている。レオ10世とも対立した。

チェーザレの忠臣という感じではないけど、1504年4月19日、オスティアでチェーザレを解放しナポリへ逃したいい奴。
(ナポリで再び逮捕されるので、その行為が結果的に良かったのかは疑問ではある。しかしこの時のチェーザレの1番の希望を叶えてくれたことは確か。)
彼はユリウス2世への反抗心からチェーザレを逃したのか。同情心や助力したい気持ちがあったのか。あったんだといいな。


カスティーリャ王国、カセレス県プラセンシア(ポルトガルの近く)生まれ。
フランシスコ・デ・カルヴァーハル・イ・トレホとアルドンサ・サンデの息子。
カリストゥス3世に仕えたホアン・デ・カルヴァーハル枢機卿(1446年)は父方の伯父、または祖父。

1466年、10歳でサラマンカ大学に入学。神童!!

1478年、大学を卒業。
1481年、同大学の学長となる。

1482年、ローマに移る。教皇シクストゥス4世の名誉侍従となる。
1485年9月、ヴァティカンの聖座前でスペイン大使とケンカになり大声で怒鳴りあったらしい。ロドリーゴもローヴェレとつかみ合いのケンカしたと言うし、みんな元気ね!?
そしてカルヴァーハル、けっこうキャラ濃い。

1492年、スペイン両王の大使となる。

1493年5月4日、アレクサンデル6世が教皇子午線(クリストファー・コロンブスが発見した新大陸におけるポルトガルとスペインの勢力圏を決める線)を決定した時、スペイン王フェルナンド2世のために教皇の前で弁舌を奮った。教皇はカルヴァーハルの要請に応じて、スペインに有利な3通の勅書を発布した。
この働きにより、フェルナンド王は彼を枢機卿へ推薦した。
(しかしこの教皇子午線はスペインに有利すぎて守られない。)

1493年9月20日、枢機卿に。チェーザレも同じ日に任命される。

1494年10月8日、ナポリ王フェルディナンドを迎えローマに同行するため、テッラチーナの国境に赴く。
1495年5月27日、シャルル8世がナポリから逃亡する時、彼に会いたくないアレクサンデル6世とともにオルヴィエート、次いでペルージャに行く。チェーザレも一緒だった。
6月27日、教皇とともにローマに戻る。

1495年7月6日、ローマ王マクシミリアンの公使に任命され、7月29日に住居のパラッツォ・メリーニを出発。
8月31日にミラノに到着し、マクシミリアンのイタリア入国に際して敬意を表した。

1496年7月6日、シャルル8世がイタリア侵攻を放棄しなければ、教会的処罰を与えると脅す任務を受ける。

1499年1月、スペインとポルトガルの大使が教皇を退位させると脅したとき、教皇の側にいた。


1503年、コンクラーヴェに参加し、教皇ピウス3世を選出。
1503年、その年2回目コンクラーヴェに参加し、教皇ユリウス2世を選出。
彼はこの時ものすごく教皇になりたかったよう。残念。

1503年12月30日、エルサレム総主教に任命され、1523年2月20日に甥のロドリーゴ・デ・カルヴァーハルが後任となるまで同職を務める。

1504年1月、オスティアでチェーザレの監視を任される。
4月19日、ロマーニャの全都市を放棄という条件が揃う前に独断でチェーザレを解放し、ナポリに逃がした。ユリウス2世に怒られたよう。(そりゃそうだ。)

1507年4月12日、ユリウス2世と建築家ドナート・ブラマンテとともに、サン・ピエトロ大聖堂の建設現場に赴く。(信頼を取り戻してる!?)

1507年8月4日、ローマ王マクシミリアンへの特使に選ばれ、翌日ローマを発つ。シエナに向かい、9月にインスブルックに到着。
1508年2月4日、マクシミリアンがローマ皇帝に選出されたことを宣言する。



教皇ユリウス2世と対立し、反乱を起こした枢機卿たちのリーダーとなる。
カルヴァーハルはユリウス2世と対立していたフランスに近づき、ルイ12世の支持を取りつける。
1511年5月16日、ピサ公会議(1511年9月1日に開催する予定)に教皇を招集する文書に署名。
(公会議とは、全教区の枢機卿や司教・神学者などを集めて、教会の教義や規則などの重要事項についておこなう最高会議のこと。教会内の至上決定権があるとする考えもあった。この会議に教皇を呼びつけるんだから、ケンカ売ってるのは明らか。)
1511年10月24日、教皇ユリウス2世により枢機卿を退位させられ、破門される。

1511年10月30日にピサに到着。
11月5日に大聖堂で分裂評議会を主宰する。
2日後、彼は評議会をミラノに移しマルティヌスの名で対立教皇に選出される。
カルバハルの一派であった枢機卿フェデリーコ・ディ・サンセヴェリーノ、フランチェスコ・ボルジア、ギョーム・ブリソネ、ルネ・ド・プリエも退位させられ、破門される。

教皇ユリウス2世は、カルヴァーハル派に対応するため、第5回ラテラノ公会議を招集する。
折しもフランス軍はユリウス2世を主軸とする神聖同盟の軍に敗退、ルイ12世はカルヴァーハルを見捨て、皇帝マクシミリアンもユリウス2世の正統性を認めた。


1513年2月20日、ユリウス2世死去。
カルヴァーハルはマクシミリアン皇帝に、コンクラーヴェに参加できるよう枢機卿会に働きかけてくれるよう依頼するが叶わず。ジョヴァンニ・デ・メディチがレオ10世として選出される。

フィレンツェに幽閉されていたカルヴァーハルは、サンセヴェリーノとともに教皇に恩赦を求める。
1513年6月27日、レオ10世はピサ公会議の破棄と引き換えに、恩赦の要請を受け入れる。
同日、ユリウス2世から剥奪されていた枢機卿職を含む全ての役職を取り戻す。
その後、スペインのいくつかの教区で数多くの恩典を受ける。

1513年、他の枢機卿たちも、1511年に亡くなったフランチェスコ・ボルジアを除き、教皇レオ10世によって赦免され復権した。


1516年1月、メディチオルシーニ家など、教会に力を持つ一族と武力衝突を起こす。
カルヴァーハルは300人ほどのスペイン人を家臣として抱えていたが、その一団がマルコ・コルナーロ枢機卿の友人と揉め事を起こし友人を痛めつけた。
コルナーロ枢機卿はカルヴァーハルを責め、2人は対立するが、教皇レオ10世がこれを収めた。
しかし、カルヴァーハル配下のスペイン人たちは、レオ10世の介入を自分たちの主君への冒涜と考え、コルナーロを暗殺してしまう。
この事件を受け、ロレンツォ2世デ・メディチ、イッポーリト・デ・メディチ枢機卿、オルシーニ枢機卿が教皇庁の軍を動かし、カルヴァーハルの住居を攻囲した。
小競り合いと交渉の末、暗殺者たちはローマ教皇庁の裁きに委ねられることになった。(裁きの結果は謎。でもカルヴァーハルに与した裁きではなかったでしょう。)

1517年11月4日、対トルコ十字軍のための8人の枢機卿団の一員に任命される。
1518年12月1日、9人の枢機卿で構成される、困難な秘密問題を解決するグループの一員となる。
1521年1月14日、プラセンシア司教に任命される。
1521年7月24日、オスティアとヴェッレトリの郊外司教座に任命される。
1521年8月5日、枢機卿院の院長に就任。

1521-1522年のコンクラーヴェに参加し、教皇ハドリアヌス6世を選出。

1522年8月27日、ローマに到着した新教皇ハドリアヌス6世に挨拶。

1522年9月26日、フォリーニョ会管区長。
1523年2月4日、管区長を辞任、甥のロドリーゴ・デ・カルヴァーハルに譲る。

1523年4月28日、聖職会議でフランチェスコ・ソデリーニ枢機卿の手続き指導を担当する3人の枢機卿の1人となる。

1523年のコンクラーヴェに参加し、教皇クレメンス7世を選出。

1523年12月16日、死去。ローマのサン・クローチェ・イン・ジェルサレンメ教会に埋葬された。


モデナのエステンセ秘密文書館には、1507年10月に書かれた彼宛てのルクレツィアの手紙が残っている。




シャルル・セイトレス(Charles Seytres)

(セイトルとも。また、シャルル・セクストルCharles Sextreという表記も見られる。)

フランス人中尉。
チェーザレのフランスの所領・ヴァランスとディノワを管理した総督。
チェーザレは1499年5月14日、フランスのブロワで、シャルルに全権委任する証書を発行している。
また1499年10月12日、ミラノでも彼宛てに手紙を書いている。

妻シャルロットがヴァレンティーノ公国に行くことを希望する時は、彼女の要望を叶えてやって欲しいということと、
クリストフォーロ・トッレと一緒に財政を管理し、正義を尽くし、民衆を守るように、ということを依頼している。
チェーザレ、けっこう良き夫で良き君主じゃん。






クリストフォーロ・トッレ(Cristoforo Torres)

チェーザレのフランスの所領、ヴァランスの管理責任者(amministratore)。
チェーザレは、自領について全権を委任しているシャルル・セイトル(Charles Seytres)中尉への手紙を、1499年10月12日ミラノで書いている。
その手紙で、クリストフォーロと一緒に財政を管理し、正義を尽くし、民衆を守るように依頼している。






フランチェスコ・サッキーニ・ダ・ムディアーナ(Francesco Sacchini da Mudiana)

チェーザレの宮廷にいた詩人。
チェーザレ没落後も忠実で、チェーザレの戦死を知った時、声をあげて泣いたと言われる。






フランチェスコ・ウベルティ(Francesco Uberti)

チェーザレの宮廷にいた詩人。






チェーザレの旧臣

一時はチェーザレに仕えた、ボルジア派(だった)人々

ピエルサンテ・チェチーリ(Piersante Cecili)

ピエルサント(Piersanto)と表記されていることもある。通称サッコッチョ(Saccoccio Cecili)
スポレート出身なので、サッコッチョ・ダ・スポレート(Saccoccio da Spoleto)とも呼ばれる。
(1465年頃 - 1509年5月14日)

忠臣という感じではないけれど、むしろ没落後速攻で造反してるんだけど、チェーザレの下で傭兵隊長として仕えた。

サッコッチョの肖像、スポレート、市立美術館所蔵

スポレートの名家の公証人の息子。油塔(Torre dell’Olio)に隣接するヴィジリ宮(Palazzo Vigili)に住んでいた。ので、この近くの通りは、彼の名にちなんでチェチーリ通り(Via Cecili)と付けられている。
(しかし現在市庁舎のあるサン・ジョヴァンニ地区に住んでいたという説もある。)
3人の兄弟があり、2人の娘をもうけた。と言われているが、正確な家族構成は不明。

軍人的気質として、サッコ(sacco)、すなわち略奪を働く傾向があったのではないかと、通称から想像されるが、そのようなエピソードは残っていない。
もしあったとしても、この時代ではそう特別なことでもないし、むしろピエトロ・ベンボの著作「ヴェネツィア共和国史」では、軍事的能力を肯定的に評価されている。



1487年、市政委員(プリオーレ)から教皇代理総督への使節を任される。
こんな任務を負っていたのだから、頭の切れる人だったと思われる。

1495年、30歳頃には傭兵隊長として、キアラヴァッレと対立するトーディの教皇派カタラネスキを支援していた。

同年、ジョヴァンニ・マルターニと共に、ノルチャ(Norcia)(スポレートの東に40キロほどの街)内乱に仲裁役として任命される。

この頃のスポレートは、テルニやトレーヴィ、カメリーノと戦っており、さらに教皇派としてコロンナ家やサヴェッリ家の皇帝派と敵対していた。
また市内でも、教皇対皇帝の対立を名目にして、主要な家々が絶えず私闘を繰り広げ、そのたびに多数の死傷者が出ていた。


1497年7月、アルノルフォ領(Cesi、Acquasparta、Massa Martana、Montecastrilli を含む地域)の支配権を巡って争っていた、スポレートとテルニの間の戦いに参加。
テルニ勢のサヴェッリ家とコロンナ家の進軍を阻止すべく、バルトロメオ・ダルヴィアーノ(Bartolomeo d’Alviano)とともに戦った。
勝利を収め、 「調停六人会(Sei dell’Arbitrio)」(この戦いで活躍した6人隊長たち)の一員に選出される。
この時生まれたバルトロメオ・ダルヴィアーノとの縁が、最期に関わっていく。

1498年2月、バルトロメオ・ダルヴィアーノと、ジャンパオロ・バリオーニの妹ペンテジレーアの結婚式に出席。
(ペンテジレーアは、1503年1月にチェーザレが拉致したとされる女性。)

同年、スポレート市の要請によって、コロンナ家に敗れたオルシーニ家を援助する。
サッコッチョは、ジュリオ・オルシーニとバルトロメオ・ダルヴィアーノの軍に合流し、トロイロ・サヴェッリが守備していたパロンバラ・サビーナを攻撃し、勝利した。



1500年2月、ロマーニャからローマへ向かう途中のチェーザレに、スポレート市の代表として謁見し敬意を表すため、フォリーニョへ赴く。

この出会いで、サッコッチョはチェーザレに気に入られたのか、翌年からチェーザレのために戦うようになる。(まあこの頃のチェーザレは、名だたる傭兵隊長はほとんど雇用してたんだけど。)
1501年、3,000のスポレート歩兵を率い、チェーザレ軍に従軍。カメリーノのヴァラーノ家を攻撃する。

1502年6月〜9月、1000人の歩兵を率い、再びカメリーノのヴァラーノ家と戦う。
また、オリヴェロット・ダ・フェルモとともに、セッラーノで4,000の部隊を指揮し、ヴァラーノの城塞モンテサント(Montesanto)を征服する。
また、カッシア南東のカステル・サン・ジョヴァンニ(Castel San Giovanni)を攻撃して占領した。
モンテフェルトロ家、オルデラッフィ家に対しても、数々の遠征を行った。

1503年6月、チェーザレ軍の一員として、160の歩兵と15の騎兵を率い、スペイン軍とラクイラ(L'Aquila)で戦う。(ナポリ王国をめぐるフランスとスペインの争い。チェーザレはフランスと同盟していたので、対スペイン戦に協力する義務があった。)
サッコッチョは、ボルジアおよびオルシーニ家と同盟するジローラモ・ガッリオッフィ(Girolamo Gaglioffi)の軍を支援した。
この時期多くの兵が疫病にかかり、市内に病が広まる。

1503年8月、アレクサンデル6世が崩御すると、スポレートに帰る。


9月1日、チェーザレ配下の兵士たちが占拠していたカステル・サン・ジョヴァンニを急襲。制圧し、占拠していた者たちを処刑した。
(速攻の裏切り!!ひどい!)
だがその時、教皇不在の教皇空位期間(セーデ・ヴァカンテ)であり、またチェーザレにも抗戦する余裕がなかったため、サッコッチョのこの行為は特に処罰されることもなかった。

同年、スポレートの総司令官(Capitano generale)として、カメリーノのヴァラーノ家を相手にポテンツァ・ピチェーナを征服。
スポレート市は彼に報いるため、すべての税を免除することにした。

こうした軍事的成功により、サッコッチョはスポレートを自らの支配下に置こうと試みる。
ライヴァルであったガレアッツォ・デ・ドーモを殺害し、敵対する貴族派の面々を追放した。

しかし戦う教皇ユリウス2世が、これを許すわけがなく、サン・ヴィターレの枢機卿アントニオ・フェッレーロを送り込んでくる。
サッコッチョは敗れ、スポレートから追放される。


ヴェネツィアに渡り、ヴェネツィアの傭兵隊長に。年俸200ドゥカートの俸給を受ける。ヴェネツィアでは戦友バルトロメオ・ダルヴィアーノも傭兵隊長をしていた。

1504年12月、トレンティーノから中部イタリアへ向かう多数のドイツ兵の進軍を阻止。

1508年1月、200人の歩兵を率い、神聖ローマ皇帝マクシミリアンの大軍をアルプスの向こうへ撃退する。この成功のためか、年俸は1550ドゥカートに!


同年、カンブレー同盟戦争が勃発する。
この戦争は、教皇ユリウス2世がフランス、スペイン、神聖ローマ帝国と結んで、ヴェネツィア共和国から本土領を奪おうとしたものだった。

1509年4月、570の歩兵を率い、ルイ12世率いるフランス軍との戦いに赴く。バルトロメオ・ダルヴィアーノと、その従兄弟ピティリアーノ伯ニッコロ・オルシーニも一緒だった。
バルトロメオ・ダルヴィアーノ指揮下の第4中隊に編成される。

1509年5月、行軍の途上、ヴェネツィア軍は2手に分かれてしまう。
命令通り前進したオルシーニ軍に対して、ダルヴィアーノ軍は後方に取り残される形となり、そこでフランス軍と予期せぬ接触をすることになった。
フランスの兵力に対し、2分していたヴェネツィア軍の兵力は心許なく、サッコッチョは指揮官バルトロメオ・ダルヴィアーノに戦略的撤退を提言する。

しかしバルトロメオは「戦が怖いなら、戦場に来るな!」と聞く耳を持たなかった。
サッコッチョは「恐れなど、母の胎内に置いてきた!」と返し、避けるべきだった戦いに身を投じてしまう。

バルトロメオは捕虜となり、ヴェネツィア軍は6,000もの死者を出した。
サッコッチョについては、歴史家ベルナルディーノ・カンペッロが記している。

「サッコッチョは勇敢に戦っていたが、乗っていた馬を殺され、敵軍の隊列のただ中に取り残された。
しかし、手元にあったアラバルダ(斧槍)を振るって、周囲から押し寄せる敵兵を次々と斬り倒し、防御し続けた。

やがて彼の周囲には、短時間のうちに切り伏せられた死体によって大きな空間が生まれ、まるで死体の山が堤防のように築かれた。

彼は息をつくこともなく、言葉も叫びもなく、ただ容赦なく敵を斬り伏せ、近づく者を見境なく倒していった。
自らの命の危険にも、相手の命への憐れみすらも一切顧みることなく。

その壮絶な戦いぶりに、ついには敵兵たちも驚嘆し、彼に対して武器を捨てるよう呼びかけ、これ以上無駄に命を散らすなと諭し始めた。

だが彼は、心を固く閉ざし、耳を貸すこともなく、血まみれのまま、狂気のように戦い続けた。
命を蔑ろにするほどの覚悟で、ますます激しさを増しながら、最後までアラバルダを振るい続けた。

ついに、敵の圧倒的な数の前に力尽きて倒れ、その誇り高き生涯の終わりを迎えたーーまさにその誇りにふさわしい、恐れを知らぬ犠牲者として。」



他の史料によれば、彼は額に矢を2本受けたとか、4人の騎士に左右から突かれて倒れたとも伝えられている。

バルトロメオに言い返した通りにやり切って戦死って、なんかちょっと…日本の武将ぽいような。
これが後に「アニャデッロの戦い」あるいは「ギアーラ・ダッダの戦い」と呼ばれる戦闘であった。

サッコッチョの遺体は回収され、スポレートに運ばれた。
1509年8月17日、追放されていたにもかかわらず、盛大な葬儀が執り行われた。
ドゥオーモに埋葬された可能性は高いが、墓の所在は不明。


バルトロメオ・ダルヴィアーノは4年間、捕虜として過ごすことになる。
サッコッチョの言うこと聞いとけばよかったなーと、後悔したことでしょう。






セバスティアーノ・ピンツォーネ(Sebastiano Pinzone Cremonese)

(セバスティアーノ・ピンソン Sebastiano Pinzon)
(セバスティアン・ピンゾン Sebastián Pinzon)
(Pizzone ピッツォーネ、Ponzoni ポンツォーニ)

( - 1514年)
チェーザレの忠臣…ではなさそうだが、「ヴァレンティーノの毒殺者」の異名を持つ。

イタリア、クレモナ生まれ。スペイン人。
1502年7月6日、自身が秘書として仕えていたジョヴァンニ・バッティスタ・フェラーリ枢機卿に毒を盛り、14日後の7月20日に死に至らしめた、という。チェーザレ、もしくはアレクサンデル6世の指示によるものであったとされる。

1504年11月20日、セバスティアーノは上記の罪で有罪となり、全ての役職と資産を奪われる。
が、これは被疑者不在の裁判で、公正性に欠けていた。
また、この裁判でボルジアの名前は出ていない。(被疑者不在であったので、ボルジアに指示された(または指示などない)などの証言も取れなかったのかな。)



フェラーリ枢機卿の死が毒殺で、その裏にボルジアがいたとするのは、ヴェネツィア大使アントニオ・ジュスティニアンの手紙である。
彼を筆頭に、当時の人々は裕福な枢機卿の死に「ボルジアが関わっていないわけがない」と思っていたよう。(枢機卿の遺産はほとんどを教皇庁(ボルジア)が接収していたので。)

しかしこれには何の証拠もなく、ただの噂話に過ぎない。

噂話をまことしやかに流布したのは、19世紀の歴史家ヤコプ・ブルクハルトの著作で、ブルクハルトがセバスティアーノを「ヴァレンティーノの毒殺者」と呼んだ。(ちなみにミゲル・ダ・コレッラは「ヴァレンティーノの処刑人」。)

ブルクハルトはジュスティニアンの手紙だけを根拠に、フェラーリ枢機卿の死をボルジア指示による毒殺と断じている(by sabatini)。情報源としては心もとない。(ジュスティニアンも推測しているだけなので。)

何より、フェラーリ枢機卿が倒れてから死去するまでの様子は、教皇庁式武官ブルカルドの日記に記されており、それを見ると熱病であったことはほぼ間違いがない、らしい。

実際、セバスティアーノはチェーザレに仕えていたことは1度もない、とする説もある。



1504年は、ユリウス2世がどうにかしてチェーザレを有罪にしたいと、ミゲル・ダ・コレッラを拷問していた時期であり、
また、ジョヴァンニ・ミキエリ枢機卿(1503年4月10日死去)の従者であったアスキノ・デ・コロレドを拷問し、「チェーザレとアレクサンデル6世の指示で主人を毒殺した」と自白させた時期でもある。

ミゲルは沈黙を貫いているし、アスキノの自白は拷問によるものなので信憑性に乏しい。そしてセバスティアーノは本人不在裁判。



これらを鑑みると、とにかく「チェーザレは有罪」「ボルジアは邪魔者を毒殺しまくっていた」という物語が欲しかった人間が、ただの噂話をさも真実であるかのように知らしめた…んじゃないか?…と思えてくる。
お前だよ、ユリウス2世!とブルクハルト!!

つまり、セバスティアーノはフェラーリ枢機卿の忠臣であり(信頼されていて「枢機卿のお気に入り」とあだ名されているくらいだった。ジュスティニアンはこのことも手紙に書いているが、ブルクハルトはこれはスルーしている。)(お気に入りだったので遺言により遺産も多く受け継いだ。毒殺犯と疑われたのはそのせいもあったよう。まあほとんどは教皇庁(ボルジア)が取ってるんだけど)、チェーザレとは関係なかったのかな?すごい異名ついてるけど。



1514年、セバスティアーノは別件の裁判で有罪となり、処刑される。この時ずっと否認していたフェラーリ毒殺の罪も認めたらしい。(別件ではなく改めて行われたフェラーリ毒殺の裁判であった説もある。)
事実かどうかは全てが謎。






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