チェーザレ・ボルジアについて、とりとめのないけれど愛に満ちた探究心を発揮するサイトです。

1504年〜1507年

※書きかけです。見苦しいです


1504年〜1507年

捕囚

1504年(29歳)

1月1日
 
スペイン、フランス軍が逃げ込んでいたガエタを陥落させる
→ フランス、スペインに降伏 → ナポリはスペイン領に
ローマでもスペイン人の立場が強化され、スペイン大使ディエゴ・ダ・メンドーサ、チェーザレの解放を願い出る
19日
 
チェーザレ、自身の解放を条件にロマーニャを放棄することに同意
→ 臣下が抑えている城塞も40日以内に明け渡すことを誓約
29日ユリウス2世、上記の協定に同意、署名
2月14日
 
 
チェーザレ、ローマを発ちオスティアへ
カルヴァーハル枢機卿監視下でロマーニャでチェーザレを支持し続けているフォルリとチェゼーナの開城を待つ
4月26日チェーザレ、釈放される
 チェゼーナはチェーザレが解放されたと信じて(勘違いして)開城した。
フォルリの降伏はまだだったが、カルヴァーハルはチェーザレにユリウス2世に対して武器を執らないと署名させ出港を許可した。(カルヴァーハルはスペイン人枢機卿なのでチェーザレに同情的だったのかも。また後にユリウス2世と対立し破門までされているので、従順ではなかった。)
ナポリまでバルダッサーレ・ダ・スキピオーネが随行した。


4月28日
 
 
チェーザレ、ナポリに到着
→ ナポリ総督ゴンサロ・デ・フェルナンデス・コルドバや、先に逃亡して来ていた弟ホフレやロドリーゴ・ボルジア枢機卿に迎えられる
30日
 
チェーザレ、弟ホフレ・サンチャ夫婦と食事をともにする
上手くいってない弟夫婦の仲を取り持とうとしたよう(急に余裕かますね!?)
 コルドバ(スペイン王国)はミラノ攻略を最終目標に、トスカーナ(フィレンツェ)への侵攻を考えていた。
チェーザレはトスカーナ(ピサ、シエナ、ピオンビーノ)に未だ支援者を持ち影響力があったので、指揮官に任命される
チェーザレはローマで兵士を徴集するためバルダッサーレ・スキピオーネを送る
5月26日トスカーナへ向かう準備が整う
同日夜チェーザレ、ゴンサロ・デ・コルドバに逮捕される
 ユリウス2世とスペイン両王との間で協定が結ばれていた
チェーザレはカステル・ヌォーヴォに拘禁される
6月3日ルイ12世、チェーザレの所領ヴァランスとディノワを没収し王室直轄領とする
7月
 
チェーザレ、外界との接触を禁止される
同伴を許されていた女性(誰だ)も追い出される
8月10日フォルリ開城
 城代ゴンサロ・デ・ミラフェンテスは完全武装で、右側にフラカッサ左側にルッフォ・ヌマイを従え、チェーザレの旗印を掲げ、200の弓兵を率いて出陣するかのように城塞を出た
「Duca!Duca!」(公爵!公爵!)と叫ぶ声が響いたそう。
教皇庁の派遣した新総督とルクレツィアの派遣した1人の貴族がこの降伏の儀式に立ち会った
20日
 
チェーザレ、まずはイスキアへ、そこからスペインへ移送される
プロスペロ・コロンナが同行した


チェーザレがナポリで逮捕された理由は「教皇庁領であるロマーニャの城塞を返還しない」だったが、フォルリが開城し全降伏した今、逮捕理由はなかった。(ミゲルはチェーザレが処罰されるようなことを何も喋らなかったし)
なのに亡き弟ホアンの未亡人マリア・エンリケスが、ホアン殺害の首謀者としてチェーザレを告発する。
チェーザレは弟の殺害容疑者として逮捕され、裁判を受けるためにスペインへ送られることになった。
マリア・エンリケスの訴えはチェーザレ逮捕のため都合よく利用されたっぽいが、彼女は無理矢理言わされたわけではなく、本気でチェーザレを犯人だと信じていたよう。


9月チェーザレ、ヴァレンシアのグラオに到着
 チェーザレ、アルバセテ南東チンチーリャの城塞に入れられる
11月26日スペイン女王イサベル死去


イサベルの死でカスティーリャ王国の継承争いが始まり、チェーザレの立場も複雑になる。

※アラゴン王フェルナンド2世とカスティーリャ女王イサベルの結婚で、スペインは統一王国として成立していたが、アラゴンとカスティーリャは法律も異なり実質別国だった。
ので、イサベル死後はカスティーリャの継承争いが生じる。

  • ファナ・デ・カスティーリャ
    カスティーリャ女王イサベルとアラゴン王フェルナンド2世の娘。
    正統なカスティーリャ王位の継承者。イサベルの遺言でも彼女が次期女王。しかし精神的に問題を抱えており、サポート役(摂政)が必須とされていた。
  • アラゴン王フェルナンド2世
    イサベルの夫。ファナの父。
    統一スペイン王国を妻と共同統治していた。が、カスティーリャの支配者はイサベルでありフェルナンドではないので、妻の死でカスティーリャ王にはなれない。
    イサベルはファナをカスティーリャ女王とし、フェルナンドを摂政に指名していた。ただしこれはフェルナンドが再婚しないことという条件があった。
    が、フェルナンドはフランスを味方につけたいがためにルイ12世の姪ジェルメーヌ・ド・フォアとの結婚話を進めていた。
  • ブルゴーニュ公フィリップ4世(フィリップ美公)
    ファナの夫。神聖ローマ帝国皇帝マクシミリアン1世の息子。
    ファナの精神に問題はなく女王位を継承できると主張。(そうしたら自分が実権を握れるので)(イサベルはファナの精神が健全であれば、ファナ夫婦にカスティーリャ王位を譲位するとも遺言していた。)
    また、そうでなくてもフェルナンドの再婚によって摂政の座は自分にあるべきと主張。マクシミリアンも当然息子を支持。

→ フェルナンドとフィリップの間で摂政の地位を奪い合うことに。
チェーザレが優秀な武将であることは広く知られていたので、
2人は各々チェーザレを利用することを考える。

アラゴン王の捕虜で、カスティーリャの城に幽閉されているチェーザレは、両者の争いの間に立ってしまっていた。
(もともとホアン殺害の容疑者としてチェーザレを断罪したがっていたのはマリア・エンリケスの意を汲んだイサベルだったようなので、イサベルの死により予審は延期され、フェルナンドとフィリップはチェーザレを裁くことより利用することしか考えていなかった。
→ チェーザレの裁判は放置される)




1505年(30歳)

5月4日チェーザレ、義兄のナヴァーラ王ジャン・ダルブレに手紙を書く
 結婚時未払いだったシャルロット・ダルブレとの持参金の支払いを、ルイ12世に要求してくれるよう依頼
(当時はそんなはした金どうでもよかったんだろうけど、今は困窮しているから…)
→ しかし拒否される
 チェーザレ、チンチーリャの城代ガブリエル・グスマンを襲う
 チェーザレはグスマンに塔から見える建物の名前を聞いて(または山並みに不審な火が見えると言って)、後ろからグスマンの首を絞め押さえつけて窓から落とそうとした。が、グスマンは大男でチェーザレより力が強く跳ね返されてしまう。チェーザレは「力試ししてみたかっただけ」と言い訳
 チェーザレ、メディナ・デル・カンポのモタ城に移送される
→ チンチーリャよりかなり内陸で、海路でのイタリア逃亡が不可能と思われる場所


城代はベルナルディーノ・デ・カルドナ。チェーザレの監視役にガブリエル・デ・タピア。
城の警備は厳しかったが、ベルナルディーノはフィリップ美公(メディナ・デル・カンポはカスティーリャの所領だった。カスティーリャ女王イサベルはすでに亡く、娘ファナの夫フィリップが実権を握ろうとしていた)の同意を得た上で、チェーザレに従僕数人を与え、教誨師(司祭)モッセン・S・マリンとの面会を許可していた。
モッセンはフィリップ美公の有力な支持者、ベナヴェンテ伯ロドリーゴ・アロンソ・ピメンテルをチェーザレに仲介する。


10月12日スペイン王フェルナンド2世、ナポリ出兵にチェーザレを雇用しないことを決める
 フェルナンドはチェーザレを、神聖ローマ帝国皇帝マクシミリアン1世への使節に利用しようと考えたり、ナポリ総督ゴンサロ・デ・フェルナンデス・コルドバに対抗する駒にしようと考えたりしていたよう
→ しかし実現せず
(チェーザレを制御する自信がなかったからとも言われる)
同日
 
フェルナンド2世、ルイ12世の姪ジェルメーヌ・ド・フォアと婚約
→ スペインとフランス同盟
11月8日
 
 
ルクレツィア、ルイ12世へのチェーザレ解放の嘆願書とチェーザレへの手紙をフランチェスコ・ゴンザーガに託す
しかしこの手紙が届けられたかどうかは不明


1506年(31歳)


3月18日スペイン王フェルナンド2世、ジェルメーヌ・ド・フォアと再婚
9月6日スペイン王フェルナンド2世、ナポリへ出航
25日カスティーリャ王(仮)(ブルゴーニュ公)フィリップ美公、死去


10月25日チェーザレ、モタ城から脱走

| | 人数を用意して城に入り、チェーザレと彼の監視人ガブリエル・デ・タピアの身柄を押さえ、城代ベルナルディーノ・デ・カルデナスとその部下が抵抗すれば殺すことにしていた」
「しかし暴力に訴える必要はなかった」
「タピアの従僕ガルシア・デ・マジョナが1本のロープを持ち込んだ」
「合図とともにチェーザレの従僕が先に降りた。しかしロープが短すぎたため落下し、骨折してしまう」
「タピアの息子が異変に気づき警報を発した。人々が駆けつけ、窓の鉄格子に結ばれていたロープが切られた」
「チェーザレは堀の底に倒れ重傷を負った」
とある。

11月29日チェーザレ、サンタンデールを通過
12月3日チェーザレ、パンプローナに到着
7日チェーザレ、フランチェスコ・ゴンザーガとイッポーリト・デステに手紙を書く
 チェーザレ、秘書フェデリーコをイタリアに派遣
28日イッポーリト宛ての手紙、フェラーラに到着





最期

1507年(32歳)

1月ユリウス2世、チェーザレの使者フェデリーコをボローニャで逮捕
 チェーザレ、家令レケセンスをルイ12世の宮廷ブルージュへ派遣
→ 未払いの持参金を再請求し、フランス宮廷に地位を得て再び王に仕える許可を求める
2月18日
 
ルイ12世、チェーザレの要求を拒否し、チェーザレに残されていた所領イスーダンを取り上げる
 → チェーザレがかつて、
フランスの同盟国であるフィレンツェを脅かしたこと、
ピサの保護を引き受けたこと、
王の臣下ジョヴァンニ・ベンティヴォーリオをボローニャから駆逐しようとしたこと、
ナポリ戦役においてフランスに助力することなくむしろスペインに与したこと、
を理由に
 最後のは完全に言いがかり!チェーザレは求めに応じて従軍しているし、捕囚になってからのガリリャーノの戦いにもチェーザレ配下の武将らが徴兵に応じ参戦している。(だからスペイン人兵士で形成されていたローマのチェーザレ軍は解体してしまった)
上3つは事実だけれど、ルイ12世は当時は黙認していた


チェーザレは資金も兵も所領も何もかも失ってしまう。
しかし義兄のナヴァーラ王ジャン・ダルブレを頼りに、彼の剣となってのし上がれる可能性があった。
当時のナヴァーラ王国は、






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