その他の絵画-OtherPaintings
その他の絵画
- その他の絵画
- コンスタンティヌスの寄進
- 15世紀の戦闘
- 15世紀の娼館
- 鍵を受け取る枢機卿アルボルノス
- ダ・ヴィンチの「吊るされたバロンチェッリ」
- シャルル8世のフィレンツェ入城
- レオナルド・ダ・ヴィンチ「最後の晩餐」
- フランス軍に捕らえられるルドヴィーコ・イル・モーロ
- ルドヴィーコ・イル・モーロの宮廷
- サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院のレオナルド・ダ・ヴィンチを訪れるルドヴィーコ・イル・モーロ
- 「最後の晩餐」を描くレオナルド・ダ・ヴィンチを訪れるルドヴィーコ・イル・モーロとベアトリーチェ
- ルドヴィーコ・イル・モーロに「最後の晩餐」のスケッチを見せるレオナルド・ダ・ヴィンチ
- サヴォナローラの火刑
- イサベル女王の遺言
- グラナダ陥落
- サンタ・マリア・デッラ・フェッブリ教会
- 15世紀のサン・ピエトロ大聖堂
- その他の絵画 - ボルジア家
※ 旅行ガイドの中の、各美術館の紹介ページにも多少の絵画を載せています。
コンスタンティヌスの寄進
1246年頃。
ローマ、サンティ・クァットロ・コロナーティ教会、サン・シルヴェストロ礼拝堂。
ローマ帝国皇帝コンスタンティヌスが、教皇シルウェステルに、宝冠を与えている場面を描いている。
宝冠は現世の権力の象徴であり、この場面は「皇帝が教皇の世俗権力を認めた」ことを示している。
このことは「コンスタンティヌスの寄進状」に明文化されているとして、中世の叙任権闘争時に、教皇の皇帝に対する優位性の根拠として利用された。
が、15世紀、「寄進状」は人文学者ロレンツォ・ヴァッラによって、捏造であることが証明されている。
このフレスコ画は、惣領冬実「チェーザレ」7巻、Virtu56に、右端の馬部分などが端折られた形で描かれている。
15世紀の戦闘
パオロ・ウッチェロ(Paolo Uccello)
「サン・ロマーノの戦い」
1450年頃。
3枚の羽目板からなる屏風絵。メディチ家の所有であったが、現在はバラバラになっている。
上は、フィレンツェ、ウフィッツィ美術館、
下は、パリ、ルーブル博物館。
もうひとつは、ロンドン、ナショナル・ギャラリー、
にそれぞれ所蔵。
1432年のフィレンツェとシエナの戦いを描いたもの。
惣領冬実「チェーザレ」1巻のカラーページに似ている!
15世紀の娼館
アントワーヌ・ド・ブルゴーニュの巨匠。(Maître d'Antoine de Bourgogne)
(1460年代から1480年代にかけてフランドル地方、特にブルゴーニュ公爵家の宮廷で活躍した匿名の巨匠のこと。)
1470年頃。
ブルッヘ(オランダ、ブリュッセル)で描かれた、15世紀の公共浴場(娼館)。
ドイツ、ベルリン国立図書館所蔵。
1世紀のローマの作家ヴァレリウス・マクシムス(Valerius Maximus)による「Facta et dicta memorabilia(記憶に残る行為と格言)」に登場する2つの場面を組み合わせ描かれたもの。(マクシムスの本は人気で、写本が多く残っている。これもそのひとつ。)
温泉を発明して富を得たローマの技術者セルギウス・オラタと、
食べ過ぎ飲み過ぎ、娼婦との姦淫に溺れ、その結果衰弱しダメになったハンニバルの軍。
宮廷衣装を身にまとった男と、おそらくハンニバルであろう王が、浴場での放蕩を観察している。
裸の男女が一緒に入浴し食事をし、キスをし愛し合っている。
リュートを演奏する音楽家と踊る犬が、この場面全体の騒々しさを盛り上げている。
女性たちは精巧なベールをかぶり、宝石をちりばめたネックレスをつけている。
画家はこの贅沢な場面を古代ローマではなく、フランドルの娼館を舞台に変えて描いた。
惣領版「チェーザレ」8巻に登場する娼館に似ている!
↓ 以下も同じく15世紀に描かれたヴァレリウス・マクシムスの写本。
→ こちらは、
ラウル・ド・プレスル(Raoul de Presles)によってラテン語から翻訳されたアウグスティヌス「神の国」の挿絵。
異教徒の風習 : 食事と風呂での男女、娼館の風景。
1475年頃。
オランダ国立図書館所蔵。
鍵を受け取る枢機卿アルボルノス
14世紀の写本の1ページ。作者不明。
教皇領を征服したスペイン人枢機卿アルボルノスが、諸都市の鍵を受け取っている場面。
ダ・ヴィンチの「吊るされたバロンチェッリ」
レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo DaVinci)
「吊るされたバロンチェッリ」
1479年。フランス、バイヨンヌ、ボナ美術館。
「パッツィ家の陰謀」の実行犯であったバロンチェッリはコンスタンチノープルまで逃亡するが、捕らえられフィレンツェに送り返される。
ロレンツォ・デ・メディチは彼をバルジェッロ館の中庭、公衆の面前で絞首刑に処した。
フィレンツェに暮らしていた若きレオナルド・ダ・ヴィンチ(1479年当時27歳)は、その様子をスケッチした。
シャルル8世のフィレンツェ入城
フランチェスコ・グラナッチ(Francesco Granacci)。1518年。
フィレンツェ、ウフィッツィ美術館。
1494年、フランス王シャルル8世はナポリ王国の王位継承権をを主張し、イタリアに侵攻する。
ピエロ・デ・メディチに一方的な要求を呑ませたシャルルは、悠々とフィレンツェに入城した。その場面を描いたもの。
これをきっかけにして、フィレンツェ市民のメディチ家に対する不満が爆発、サヴォナローラ派の扇動を受けて暴動へと発展、メディチ家は追放の憂き目を見ることとなる。
レオナルド・ダ・ヴィンチ「最後の晩餐」
1495年から1498年にかけて描かれたレオナルド・ダ・ヴィンチの傑作。
ミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァの依頼により、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会の食堂に描かれた。
左から
- バルトロマイ
皮を剥がれて殉教という悲惨な最期をとげる。
ミケランジェロ「最後の審判」で自分の皮を持って描かれている人。その皮はミケランジェロの自画像とされる。 - 小ヤコブ
アルファイの子ヤコブ。イエスに似ていると言われていた。イエスの兄弟、または従兄弟という説もある。
イエスを売ったユダは、役人がイエスを判別できるよう「私がキスした者がイエスだ、その者を捕えよ」と言うが(「ユダの接吻」)、小ヤコブと間違われないようにするためだったとも言われる。が、単に役人がイエスの顔を知らなかったからとされてることも多い。 - アンデレ
ペトロの弟。ペトロと一緒にイエスの弟子となった。
X字型の十字架に磔にされ処刑された。のでX字型十字架を「アンデレの十字架」と呼ぶ。 - ユダ
言わずと知れた裏切者。ダンテ「神曲」では地獄の最下層に落とされてる。
十二使徒の会計係。高価な香油を無駄遣いするマグダラのマリア(イエスの弟子のひとり。聖母マリアとは別人)を非難したら、イエスに女を責めるなと逆に咎められ、ムカついたことがある。
銀貨30枚(20枚と書かれているものもある)でイエスを売る。絵の中でも金の入った袋を持っている。
イエスが「私と同じ鉢(スープ)にパンを浸した者が私を裏切る」と言うので、必然的にイエスのそばに描かれる。
イエスが捕えられた後、罪を悔いたのか首を吊り自殺する。(建物から落ちて死んだと書かれているものもある。) - ペトロ
イエスの最初の弟子。アンデレの兄。初代ローマ教皇。ヴァティカンのサン・ピエトロとはこの人の名前が冠されているもの。
喧嘩っ早い性格だったようで、この後イエスが捕えられようとする時、ナイフで役人の耳を切り落とす。ので、ナイフを持って描かれている。
「私は決して裏切らない」と言うが、後で3回も「イエス?知らない人ですね」と言う。(「ペトロの否認」) - ヨハネ
イエスに最も愛されたと言われる弟子。十二使徒最年少。ヨハネの黙示録を書いた。
洗礼者ヨハネとは別の人。(洗礼者ヨハネはサロメのキスを拒否して、銀の盆に首載せられる人。)
最後の晩餐では眠っている風に描かれがち。アンドレア・デル・カスターニョ版とかがっつり伏せて寝てる。寝んなよって思うけど、これは無垢の象徴らしい。
イエスに言葉に衝撃を受け気絶した、って感じか?
ダン・ブラウン「ダ・ヴィンチ・コード」ではマグダラのマリアとされたが、根拠はなく創作。 - イエス
神と神の子と精霊は三位一体なのに「神よ、なぜ私をお見捨てになったのか」とか言う。神は自分じゃないんか?よくわからないよキリスト教。
ユダに「お前など生まれて来なきゃよかったのに」などと、けっこう酷いことも言う。 - トマス
イエス復活を目の前にしても信じることができず、槍に突かれた時にできたイエスの腹の傷に手を突っ込んだ。リアリスト!と思うけど、疑い深い人物の代名詞になっている。
彼の天上を指差すポーズを、ダ・ヴィンチは「糸巻きの聖母」や「洗礼者ヨハネ」でも使用している。ラファエロは「アテネの学堂」でダ・ヴィンチをモデルとしたプラトンに、このポーズをとらせている。 - 大ヤコブ
ヨハネの兄。ゼベダイの子ヤコブ。
スペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラに墓があり、巡礼地になっていることで有名。スペインの守護聖人。 - フィリポ
バルトロマイの友達。ギリシャ語ができた。 - マタイ
カラヴァッジョの「聖マタイ三部作」で有名。福音書でも有名だけど、そのマタイとは違う人とも言われているようで、ややこしい。
もともとはローマ帝国の徴税人で、ユダヤ人から税を取り立てていた。ので嫌われていた。NHKの受信料集金人とかウシジマくんな感じか。 - タダイ
イエスの従兄弟とも言われる。本名はユダらしい。 - シモン
「熱心党のシモン」と呼ばれる。法を守ることに熱心だったとされるが、はっきりとはわかっていない。
マタイとタダイの2人から詰め寄られているので、頼られるタイプだったのか?(ただの構図上のものかな?)
料理の皿には果物が添えられたウナギが描かれている。ウナギには象徴的意味合いはなく、単にこの時代よく食べられていたもの。地のものを食べる聖人たち、いいね。これもレオナルドのリアリズムなのか?
イエスの右のこめかみあたりに消失点をとった釘の跡がある。
上部には3つのリュネット(半月型の枠)があり、スフォルツァの紋章が描かれている。
1499年10月、ミラノに侵攻したフランス王ルイ12世はこの絵に惚れ込み、フランスに持ち帰りたいと希望した。が、壁画なので諦めざるを得なかった。という逸話がある。
この時チェーザレはルイと共にミラノに入城しているので、一緒に鑑賞したかも。実際チェーザレとレオナルドの初対面は、この年であるとされていることが多い。(はっきりとした記録が残っているわけではないけど、状況的に会ってないわけなくない?という感じ。)
壁画のための定番の技法フレスコ画ではなく、卵黄や亜麻仁油に顔料を溶いた水彩と油彩で描かれているので、20年後には劣化していた。
1550年、ヴァザーリは「最後の晩餐はもう見る影もない」と書いている。
1652年には、イエスの下の部分に出入口のドアまで作られてしまった。ひどい。
キリストの足は、磔刑を暗示するかのように交差していたと言われる。
その後何度も修復されているが、がさつなやり方だったりしてさらに傷んだりしている。(ボルハの修復が思い出される)
使徒の目がくり抜かれたり、刑務所や馬小屋になったり、爆撃されたりもしている。
最新の修復は1978年から21年かけて行われた。
しかしこれだけの時を経て色々弄られてきて、現在見られる「最後の晩餐」、元の絵とは全く違うものになってる可能性ないのかな。伝言ゲームでわけわからん変化をしていくみたいに…。
と思っていたけど!
レオナルドの弟子ジャンピエトリーノが、1520年頃に模写したほぼ実物大のキャンバスに描かれた油絵作品があり、こちらが修復においての重要な参考資料となっているそう。
ジャンピエトリーノ!やるじゃん!
これ見ると、けっこう鮮やかで驚く。
ロンドン、ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツ(王立芸術院)所蔵。
フランス軍に捕らえられるルドヴィーコ・イル・モーロ
1500年、ノヴァーラの戦いでスイス人傭兵(左)からフランス軍(右)に引き渡されるルドヴィーコ・イル・モーロ。
スイス人傭兵はミラノ、フランスの両軍にいて、互いに戦うことを拒否。仕方なく、フランス王ルイ12世はルドヴィーコのスイス軍を撤退させることに合意した。
ルドヴィーコはスイス兵に紛れて逃亡しようとしたが、賞金目当ての兵に裏切られ、フランスに引き渡された。
ディボルド・シリング(Diebold Schilling, il Giovane)、1505年。
1513年に出版された「ルツェルン年代記」の1ページ。
ルドヴィーコ・イル・モーロの宮廷
ジュゼッペ・ディオッティ、1823年。
ロンバルディア州クレモナ、ディオッティ美術館(Museo Diotti)。
左から、従僕にドアを開けてもらう秘書バルトロメオ・カルコ。
2人で話しているブラマンテと数学者フラ・ルカ・パチョーリ。
中央に座っている枢機卿アスカーニオ・スフォルツァ、
ルドヴィーコの妻ベアトリーチェ、
ルドヴィーコ・イル・モーロ。
レオナルド・ダ・ヴィンチは「最後の晩餐」の構想(絵コンテ?)を説明している。
楽譜を読む音楽家のフランキーノ・ガフリオ、
月桂冠をかぶった詩人のベルナルド・ベリンチオーニ、
「ミラノの歴史」を持っている歴史家のベルナルディーノ・コリオ。
サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院のレオナルド・ダ・ヴィンチを訪れるルドヴィーコ・イル・モーロ
ケルビーノ・コルニエンティ(Cherubino Cornienti)、19世紀半ば。
ミラノ、Palazzo Crivelli。
サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の食堂のレオナルド・ダ・ヴィンチを訪ねるルドヴィーコ・イル・モーロ。
金髪で描かれるイル・モーロはレア!
後ろには妻ベアトリーチェと弟アスカーニオ枢機卿も作品を鑑賞している。この2人は黒髪なのに…イル・モーロに特別感出したかったのか?
そのまた後ろには、大きなパネルで半分隠されたケルビーノ自身の自画像があり、鑑賞者の方を見ている。
「最後の晩餐」を描くレオナルド・ダ・ヴィンチを訪れるルドヴィーコ・イル・モーロとベアトリーチェ
ケルビーノ・コルニエンティ(Cherubino Cornienti)、1840年。
ブレシア、La Casa d’Aste Capitolium Art。
上と同じ作者のほとんど同じテーマ、構図の絵。
こちらも金髪のイル・モーロ、ベアトリーチェ、アスカーニオが描かれている。
ルドヴィーコ・イル・モーロに「最後の晩餐」のスケッチを見せるレオナルド・ダ・ヴィンチ
フランチェスコ・ポデスティ(Francesco Podesti)、1846年。
カンパニア州カゼルタ、カゼルタ王宮博物館所蔵。
きらびやかな一室で、ルドヴィーコ・イル・モーロと妻ベアトリーチェが絵の中央に座っている。2人の間にアスカーニオが立つ。
ルドヴィーコは小さなテーブルにレオナルドの作品のスケッチを立てかけ、左側でレオナルドスケッチを解説している。周囲には廷臣たちがいる。
サヴォナローラの火刑
フィレンツェの無名画家。17世紀。
フィレンツェ、サン・マルコ美術館。
1498年5月23日、フィレンツェはシニョーリア広場にて、サヴォナローラは2人の忠実な弟子とともに火刑に処された。
遺灰は信仰の対象にならないように、アルノ河に廃棄された。
イサベル女王の遺言
エドゥアルド・ロサーレス。1864年。
マドリード、プラド美術館。
1504年に死去したスペイン女王イサベルの、遺言の場面を描いたもの。
立ち会っているのは、左から、
狂女と言われた娘ファナ、
後継者に指名され統一スペイン王国の王となる夫フェルナンド2世、
遺言を記述している公証人、
奥にモヤ公爵夫妻、
イサベルの聴罪司祭であった枢機卿フランシスコ・ヒメネス・デ・シスネロス、
イサベルの会計士であったロペス・デ・レカラッガ、
カスティーリャの海軍提督であったエンリケ。
イサベルの死去した場所であるメディナ・デル・カンポの王宮には、この絵画をもとにしてイサベルの寝室が再現してある。
グラナダ陥落
フランシスコ・プラディーリャ・オルティス(Francisco Pradilla Ortiz)。1882年。
マドリード、スペイン上院議事堂(Palacio del Senado)。
(グラナダ、王室礼拝堂(Capilla Real)にもレプリカがある。)
1492年、レコンキスタに成功したアラゴンとカスティーリャの両王フェルナンドとイサベルは、グラナダに入城する。
イスラームの王ボアブディル(Boabdil)(ムハンマド12世)は、グラナダの城門の鍵とアランブラ宮殿の鍵をフェルナンド王に渡す。
その、歴史的瞬間を切り取った絵画。
「チェーザレ」Virtu 62に登場するグラナダ入城の場面。
サンタ・マリア・デッラ・フェッブリ教会
ピーテル・ヤンス・サーンレダム(Pieter Jansz Saenredam )
「Church of Santa Maria della Febbre, Rome」
1629年。
ワシントン、ナショナル・ギャラリー。
サンタ・マリア・デッラ・フェッブリ教会(Santa Maria della Febbre)は、サン・ピエトロ大聖堂のすぐ南、ローマ帝国時代の競技場跡地に建っていた円形の教会。
現在のサン・ピエトロ大聖堂の宝物殿の辺りになる。
18世紀後半、教皇ピウス6世在位時に、サン・ピエトロ大聖堂の拡大再建の犠牲となって解体されている。
絵は、その教会を描いている。
前に立つオベリスクは、現在のサン・ピエトロ広場に立つものと同じもの。
1586年、教皇シクストゥス5世はオベリスクを広場に移動させるが、それ以前は、ローマ帝国の競技場跡、サンタ・マリア・デッラ・フェッブリ教会の傍らに屹立していた。
旧サン・ピエトロ大聖堂は、もっと右手の方(北側)にあり、絵には入っていない。
(下の15世紀のサン・ピエトロ大聖堂のスケッチと見比べるとよくわかる。)
カリストゥス3世とアレクサンデル6世は、死後このフェッブリ教会に埋葬された。
教会が解体された時に、彼らの墓はサンタ・マリア・ディ・モンセラート教会に移されている。
15世紀のサン・ピエトロ大聖堂
ヘンリー・ウィリアム・ブルワー(Henry William Brewer)。
1891年。
推測によって描かれた1450年頃のサン・ピエトロ大聖堂俯瞰図。
惣領冬実「チェーザレ」2巻、Virtu 8に描かれているものとそっくり。
左端に、サン・ピエトロ広場に移動される前のオベリスクが見える。
その背後にあるのが、カリストゥス3世やアレクサンデル6世が埋葬されたサンタ・マリア・デッラ・フェッブリ教会。
(上のピーテル・ヤンス・サーンレダムの絵)と見比べるとよくわかる。)
その他の絵画 - ボルジア家
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