チェーザレ・ボルジアについて、とりとめのないけれど愛に満ちた探究心を発揮するサイトです。

ヴァランス近郊の風景。

1498年〜1499年


1498年〜1499年

チェーザレの還俗

1498年(23歳)

7月
 
教皇アレクサンデル6世とフランスの新王ルイ12世の間で密約
→ 神聖同盟の解体


すでにミラノ、フィレンツェはフランスと友好関係にあり、ナポリはスペインの力を借りてフランス軍を駆逐していた。

ホアンの死以来、チェーザレの還俗はボルジア家の中で明確な意向に。王侯としての未来に向けて、ナポリ王女カルロッタとの縁組を狙う。その結婚交渉の支援者として、ボルジアはフランス王ルイ12世と手を結ぶ。

ルイも、王女ジャンヌ・ド・ヴァロアと離婚し、故シャルル8世の未亡人アンヌ・ド・ブルターニュと結婚したがっていた。そのために教皇の離婚承諾書が必要だった。

また、ルイはヴェネツィアと組み、ロンバルディア地方を攻略しようと策略していた。チェーザレはこれを利用し、教皇領の支配権拡大を狙った。
(チェーザレが君主になろうと考えるとき、場所は教皇領以外にない。しかし本来教皇領である地を奪回しようとするにしても、ミラノとヴェネツィアが許すはずがない。
しかも、教皇の利用できる軍勢は、教皇の強大化をよしとしないローマの豪族(オルシーニコロンナ)のもののみ。
それでチェーザレは、フランス王のイタリア侵攻を認め、(とりあえずの)後ろ楯とすることにした)


  • フランス王ルイ12世の利
    • 教皇の離婚承認
    • ロンバルディア地方征服の容認
    • 腹心ルーアン大司教ジョルジュ・ダンボワーズを枢機卿に
    • ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレらのローマ復帰
  • チェーザレの利
    • ナポリ王フェデリーゴの息女と結婚
    • フランスのヴァランスとドアーズの領土、その地の公爵の地位(ヴァレンティーノ公爵という呼び名はこのヴァランス領に基づく)
    • 300の槍騎兵
    • 3万デュカーティの年金
    • ロンバルディア征服時にはアスティを領土に
    • チェーザレ不在時には教皇に1千の兵を
    • 教皇の許可なしにナポリを攻めない確約


8月17日
 
チェーザレ、還俗
→ 枢機卿会議により承認される


チェーザレの還俗は8月18日となってるボルジア本も見るけど、これはブルカルドが日記に記したのがこの日のためだと思われる。

しかし枢機卿会で承認された=即還俗ではないようで、実際に還俗したのはいつなのか、はっきりとはわかっていない。

実際17日以降もチェーザレは「ヴァレンティーノ枢機卿」とサインしていて、ブルカルドも「ヴァレンティーノ枢機卿」と書いている。アレクサンデル6世はチェーザレの結婚後も「チェーザレ枢機卿」と書いている。

スペイン両王には承認どころか報告さえされてなかったので(アレクサンデル6世は9月になって両王に報告の手紙を書いている)(そして報告後めっちゃ怒られて反対されてる)、そちらの方面に忖度が必要だったのかも?

マントヴァの大使だったジョヴァンニ・ルチード・カッタネイ(Giovanni Lucido Cattanei)は、フランス王との交渉の成り行き次第では枢機卿に復帰する可能性も残していたのでは?という考察を残している。
復帰してたらどうなってたんだろ!?

しかしチェーザレはシャルロット・ダルブレとの結婚後には嬉しそうに?「フランス貴族のチェーザレ・ボルジア」とサインしてるので、復帰を考えてたとしてもそれはアレクサンデル6世だけだったんじゃない?って気がする。


10月1日チェーザレ、フランスへ向かいローマを発つ
6隻のガレー船(先頭はロアーズ号)
30人の貴族
100人の従者、小姓、馬丁、楽士
レミーロ・デ・ロルカガスパーレ・トレッラアガピート・ゲラルディもともに。ミゲルについては記述がない。行ってて欲しいけど。)
20頭の馬
12台の馬車
70頭のラバ
チェーザレの所持金は20万デュカーティ(12億!!)
10月3日チェーザレ、チヴィタヴェッキアの港を発つ
秋、マルセイユに到着、ロダーノを通りアヴィニヨンへ。ここでローヴェレ枢機卿の歓待を受ける。
自領であるヴァランスを経て、リヨン、そしてルイ12世の居城のあるシノンへ到着。
12月18日チェーザレ、ルイ12世と対面

1499年(24歳) 

5月12日
 
チェーザレ、シャルロット・ダルブレ(19)と結婚
→ フランス、ブロワ、ブロワ城にて
シャルロット・ダルブレはルイ12世の従妹で、ナヴァーラ王国(スペイン)の王の妹。
ナポリ王がカルロッタをチェーザレの妻にすることを渋ったこと(カルロッタ本人も嫌がったよう)、ルイがまずミラノを、そしてナポリを攻略したいと望んでいることから、花嫁は変更された。
このチェーザレとルイの結びつきは、ナポリを脅かす。(ルクレツィアの夫アルフォンソやホフレの妻サンチャの立場はとても微妙なものとなる。)
公爵は初夜で8回やってた、とブルカルドは書いている。ほんと!?
19日チェーザレ、聖ミカエル騎士団に任命される
王国の第一人者にだけ与えられるもので大変な栄誉だった
8月2日
 
ビシュリエ公アルフォンソ、ローマを出奔
妊娠6ヶ月のルクレツィアを置いて
サンチャ、アレクサンデル6世の命によりローマからナポリへ
8月8日
 
アレクサンデル6世、ルクレツィアをスポレートの総督に任命
弟ホフレを補佐に
アレクサンデルはルクレツィアやホフレを人質とされることを恐れ、夫(アルフォンソ)や妻(サンチャ)に同行することを許さず、その気持ちを解消させるために総督という任務を与える。
ルクレツィアは名ばかりの役職に甘んじず、しっかりと町を掌握した。
5月19日チェーザレ、聖ミカエル宗教騎士団の一員に任命
数日後チェーザレ、フランス王家との養子縁組
5月20日チェーザレ、ミラノ攻略に向かうルイに随行
ここでチェーザレは妻シャルロットと別れ、それ以降会うことはない。
ブロワでの2ヶ月とリヨンでの2ヶ月が二人の一緒に過ごした期間。
やがて生まれる娘ルイーズは、父チェーザレの顔を見ることはない。
9月9日チェーザレ、グルノーブルへ入る
フランス軍とヴェネツィア軍に挟み撃ちにされたミラノはすぐに降服。
イル・モーロは姻戚関係にある神聖ローマ帝国皇帝マクシミリアンを頼って逃走。
10月6日チェーザレ、ルイに従ってミラノ入城
ローヴェレやモンレアーレの枢機卿も同行。
フェラーラのエルコレ・デステ、
マントヴァのフランチェスコ・ゴンザーガも祝勝会に。
ルイ12世、ミラノ公爵に
チェーザレは特にすることもなく、ルイのミラノ攻略は成功
11月1日
 
ルクレツィア、アルフォンソの子を出産
→ ロドリーゴと命名




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