チェーザレ・ボルジアについて、とりとめのないけれど愛に満ちた探究心を発揮するサイトです。

オルシーニ

オルシーニ家(Orsini)

10世紀頃から勢力を持っていたローマの有力貴族。
政治的、宗教的、軍事的にとあらゆる方面で力ある人物を多く輩出し、ローマの覇権をライヴァルのコロンナ家と争った。
12世紀にケレスティヌス3世、13世紀にニコラウス3世、18世紀のベネディクトゥス13世、と教皇を3人も輩出した。
巨大な一族で多数の分家を持つ。(当時のイタリアの最大の傭兵一家)チェーザレの時代の主な家は七家。みんな仲悪かった。

ブラッチャーノ(ヴィルジニオ → ジャンジョルダーノ)…本家。強い。ほとんど独立したオルシーニの国。
・モンテロトンド(ジョヴァンニ・バッティスタ)
・ピティリアーノ(ニッコロ)
・グラヴィーナ
・アルビアーノ
()内は代表者。


オルシーノ・オルシーニ(Orsino Orsini)

(1473年? – 1500年7月31日)
バッサネッロ(Bassanello)生まれ。バッサネッロは現在はヴァザネッロ(Vasanello)と表記される。パドヴァのバッサネッロとは異なるので注意。

アドリアーナ・デ・ミラとバッサネッロの領主ルドヴィーコ・オルシーニの1人息子。
アレクサンデル6世の愛妾ジュリア・ファルネーゼの夫。
隻眼(片目)もしくは斜視で、醜い容貌であったと言われる。そのせいか自意識過剰で卑屈な人物であったよう。

母アドリアーナは、いとこ伯父にあたるロドリーゴ・ボルジアの庶出の子どもたち(チェーザレ、ホアン、ルクレツィア)の養育を任されていたので、その関係から幼少期のオルシーノは、ボルジア兄妹たちと近しい関係にあったと思われる。

1489年より以前に父ルドヴィーコ・オルシーニが死去。オルシーノはルドヴィーコの後を継ぎ、バッサネッロの領主となる。
寡婦となった母アドリアーナは、ロドリーゴ・ボルジアを庇護者として、より頼みにするようになる。
アドリアーナはオルシーノの婚約者であったジュリア・ファルネーゼとロドリーゴの愛人関係でさえも、進んで後押しした。

1489年5月21日、16歳のオルシーノは15歳のジュリア・ファルネーゼ(Giulia Farnese)と結婚。彼女はピエル・ルイージ・ファルネーゼ(Pier Luigi Farnese)とその妻ジョヴァンナ・カエターニ(Giovanna Caetani)の娘であり、のちの教皇パウルス3世(Paolo III, 本名アレッサンドロ・ファルネーゼ Alessandro Farnese)の妹でもあった。
式はボルジア邸の「星の間」にて挙げられた。
しかしジュリアはこの時、ロドリーゴの愛人となってすでに1年ほども経っていた。
(結婚のすぐ後1491年頃に、娘ルクレツィアに会いにモンテ・ジョルダーノ(Monte Giordano)を訪れたロドリーゴ・ボルジアと出会い、見そめられ愛人関係になったという説もある。)

いずれにしてもオルシーノは速攻で妻を寝取られ、妻ジュリアとロドリーゴとの関係を容認する見返りとして、カルボニャーノ(Carbognano)(バッサネッロの南西15キロ程の街)の市長(sindaco)の地位を得た。

ジュリアはアドリアーナとともにロドリーゴの側で暮らし、オルシーノの存在は軽んじられていた。
傷心の彼は聖地イェルサレムへの巡礼を望んだが、叶うことはなかった。



1492年8月、ロドリーゴ・ボルジアはアレッサンドロ6世(Alessandro VI)として教皇に即位し、同年、ジュリアは娘ラウラ(Laura)を出産した。
その父親については現在でも議論があるが、ジュリアはボルジアの子であると主張していた。スキャンダルを恐れたアレッサンドロ6世は認知しなかった。
オルシーノはこの子を自分の娘として受け入れた。

1494年7月、チェーザレはバッサネッロのオルシーノを訪ねている。
アレクサンデル6世に命じられた何か(何なのかは不明)を彼に伝え、その返答を持ち帰る任務だった。
しかしオルシーノは、チェーザレの話を理解できないふりをし、その日のうちにカルボニャーノへ逃亡した。
7月26日に、チェーザレは「オルシーノが不在で未だ話ができない」という手紙を、アレクサンデル6世に書いている。

チェーザレがオルシーノに伝えたかったことは何なのか。
この時期、フランス王シャルル8世のイタリア侵攻が迫っており、教皇庁はその対策に追われていた。
7月14日には、チェーザレはアレクサンデル6世とともにオルシーニ家の所領ヴィコヴァーロ(Vicovaro)にて、ヴィルジニオ・オルシーニやファブリツィオ・コロンナと会談している。
そこでオルシーニは教皇庁軍と共に国境を守備することに合意しているので、オルシーノにも兵を集めて従軍するようにと通達したかったのかもしれない。

しかしチェーザレは「1度話をしたが理解していないふりをされた」ので、次は「誤魔化すことができないほど明確に話すつもり」だと手紙に書いている。
…従軍せよってことを伝えるのに、言葉選ぶ必要…ないよね?

もしかしたら、ジュリア・ファルネーゼに関する何かを伝えたかったのかも?
それなら、オルシーノが話を聞きたくなくて、出て行った気持ちもわかる。


また、同年年10月22日、アレクサンデル6世は、オルシーノに呼び寄せられて彼のもとへ行こうとしたジュリア・ファルネーゼに激怒し、怒りにまかせた手紙を書いている。
つまりオルシーノは、チェーザレが伝えたかったことが何だったにせよ、おそらく言うことを聞いていない。
(従軍せずバッサネッロにこもっているし、教皇を怒らせるような形でジュリアに接触している。)(チェーザレの用件が、軍事に関する交渉でもジュリアに関することでもなかった可能性はあるけど、すごく低いと思う。)

オルシーノ…意外としたたか!

ルックスにコンプレックスがある陰キャで、美貌で陽キャなボルジア家にいいように扱われてたようだけれど、唯唯諾諾と従っていただけじゃないんだね!
しかし、反撃とも言えないような反撃は、ほとんどこれだけのようで、せつない。

オルシーノも、例えばアルフォンソ1世・デステの大砲のように、何か好きなもの・打ち込めるものを持ってる人で、ボルジアに軽んじられていてもそんなこと関係なく、それなりに楽しい人生を送ったんだったらいいな…


1500年、27歳で死去。死因は不明。
彼の死の頃には、ジュリアと教皇の関係はほぼ疎遠になっていた。最終的にアドリアーナが両者の穏やかな別離を仲介したと言われる。

アドリアーナ自身はその後も教皇の友人かつ腹心であり続け、ルクレツィアがアルフォンソ1世・デステ(Alfonso I d’Este)との結婚のため、フェラーラに旅立つ際にも同行した。
アドリアーナは1509年頃に死去し、カルボニャーノの支配権は義娘ジュリアに渡った。

オルシーニ家の莫大な財産は最終的にラウラ・オルシーニ(Laura Orsini)が相続し、その後、彼女の子であるジュリオ(Giulio)とラヴィーニア(Lavinia)に受け継がれた。




ラウラ・オルシーニ(Laura Orsini)

→ ファルネーゼ家




ヴィルジニオ・オルシーニ(Virginio Gentile Orsini)

(1445 ca. – 1497)




バルトロメア・オルシーニ




ジャンジョルダーノ・オルシーニ(Gian Giordano Orsini)

(1457 – 1517)
ジョルジニオ・オルシーニの息子。




ファビオ・オルシーニ




フランチェット・オルシーニ




ジャン・パオロ・オルシーニ




ジュリオ・オルシーニ






ジョヴァンニ・バッティスタ・オルシーニ

(1450年頃 – 1503年2月22日)

  • 1483年、シクストゥス4世によって枢機卿に叙任される。
  • 1485年、教皇庁とナポリの争い(アスコリ紛争、惣領版チェーザレ9巻)ではナポリ派で、ローヴェレと敵対する。モンテ・ジョルダーノの屋敷を焼かれたりしている。ここは1503年にミゲルにも焼かれている。かわいそう。

    オルシーニ一族は相当巨大な一族で一族内の派閥も多数あり、彼は対外的だけでなく一族間の争いにも対処する必要があった。が、最後まで彼らを統一することはできなかった。


  • 1492年、新教皇アレクサンデル6世が選出されると、支持の見返りにソリアーノとモンタルトの一部の領有権を与えられた。
  • 1495年には枢機卿会の財務責任者となる。
  • 同年、シャルル8世のイタリア侵攻時には、アレクサンデル6世に同行してカステル・サンタンジェロ、オルヴィエートに行っている。
  • 1498年、サンタ・マリア・マッジョーレの大司祭に。
  • 1499年、ミラノにいたルイ12世の公使に。
  • 1500年、ボローニャの公使に。ここでボローニャの僭主ベンティヴォーリオとチェーザレの間に巻き込まれ、微妙な立場に置かれることになる。
  • 1503年、反乱は失敗に終わり、ジョヴァンニ・バッティスタは捕らえられトッレ・ディ・ノーナ、次にカステル・サンタンジェロに投獄された。
    メンバーだったパオロとフランチェスコ2人のオルシーニは処刑され、オルシーニ家のほぼ全ての財産は教会に没収され、チェーザレ・ボルジアに与えられた。
  • 同年22日、体調を崩していた彼は捕囚のままカステル・サンタンジェロで死亡した。




パオロ・オルシーニ




フランチェスコ・オルシーニ




ロベルト・オルシーニ










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