マジョーネ
マジョーネ Magione

鉄道で、ローマから約3時間半、乗り換え1回。
スポレートから約1時間半、乗り換えなし。
アッシジから約1時間ちょっと、乗り換えなし。
ペルージャから約20分、乗り換えなし。
宿泊施設は、トラジメーノ湖を中心とするラーゴ・トラジメーノ州立公園(Parco Regionale del Lago Trasimeno)周辺に集まっていて、駅周辺には数軒しかない。(しかもレビュー微妙。)
湖畔にはホテルやB&Bだけでなく、貸別荘やアグリツーリズモ(Agriturismo)と呼ばれる農家民泊も多い。避暑地になっているよう。
しかしボルジア視点からすると、見どころはマジョーネ城くらいなので、スポレートやアッシジ、ペルージャあたりから日帰りするのが良いかも。
イタリアで4番目大きい湖、トラジメーノ湖畔東に位置する、ウンブリア州ペルージャ県の街。
湖の周囲の丘陵地はワインの生産地として名高い。
1502年9月、チェーザレ配下の傭兵隊長たちと教皇庁領僭主たちが、反チェーザレの会合を開いたところ。彼らの同盟は、当地(城)の名をとって「マジョーネ同盟」と呼ばれた。
また、そこから続く一連の反乱も「マジョーネの反乱」と呼ばれる。
- マジョーネ城城 - マルタ騎士団の城
- サン・ジョヴァンニ・バッティスタ教会 -
- ランバルディ塔 -
マジョーネ城(Castello di Magione)
※ シエナの北東ポッジボンシ(Poggibonsi)に同名の城、Castello della Magioneがあるので、混同に注意!

1502年、反チェーザレ同盟の会合が開かれた城。
シニガリア事件につながる一連の出来事が「マジョーネの反乱」と呼ばれるのは、最初の大々的な会合が開かれたこの場所、マジョーネ城に由来している。
→ マジョーネの反乱
もともとは、1160年から1170年にかけて、イェルサレム騎士団によって建てられた、ローマやイェルサレムに向かう巡礼者のための、宿泊と療養のための施設(hospitium)だった。
最初は、北側と東側のL字型の建物と、直角の部分に方形の鐘楼のある建物だけだった。
(写真の、木の間に見えるのが、L字の底部分と鐘楼。)
その後、巡礼者を守るための軍事的な機能が求められ、1367年に南と西の建物が増築された。どちらにも武器庫が作られ、軍事訓練が行われるようになった。
1470年代には枢機卿マルコ・バルボ(Marco Barbo)(ピエトロ・バルボ、後の教皇パウルス5世の従兄弟)の主導により、城塞として再構築される。
角塔や張り出し窓、胸壁が作られた。北東の円塔は15世紀に作られ(写真左端)、開廊付きの中庭が整備された。
マジョーネとは、住居を意味するラテン語の「mantiomanni」に由来しており、城の便宜的な(愛称的な?)呼び名だった。
その名が定着し、1700年には街がマジョーネと命名された。
現在は「騎士団の地 Terre dei Cavalieri」と呼ばれる、マルタ騎士団所有の城のひとつになっている。
ワイン醸造・販売所として使われていて、ワインは通販もできる。(下記の公式サイトから購入ページに行けます。)
マルタ騎士団は、城を建築したイェルサレム騎士団と同じ団体。名前が変遷している。
チェーザレの時代には聖ヨハネ騎士団と呼ばれていた。
1502年7月、チェーザレがルイ12世を訪問した時に着用していたのは、この騎士団の制服。

正面入口の門。
マジョーネ駅からここまで、徒歩で約10分ちょっと。何もない住宅地を抜けて行く。目印がないので、地図見てないと迷いそう。
しかもGoogleマップは城の西側を入口として出してくるけど、間違っている。
入口は北側にある。横断歩道のあるところ。
向かって右手の赤いマークは、マルタ騎士団の紋章。
チェーザレの時代はオルシーニ家の城で、会合はオルシーニの主導で開かれた。
(マジョーネはジョヴァンニ・バッティスタ・オルシーニ枢機卿の管理地(commenda)だった。)

チェーザレの時代には、この辺りにはマジョーネ城しかなく、さみしい場所だった。
人目を避けたい集まりだったから、この場所が選ばれたのかな?
広い前庭を歩いて行く。
ペーザロの皇帝館に雰囲気ちょっと似てる?
見えてきた城!

上の写真右下の入口を入ると、中庭。
向かって右端、2階の角部屋が、マジョーネの会合が開かれた部屋!


別角度から。
入口の扉が少しだけ見えている。
右手の窓は、会合部屋の窓ではない。
部屋はそんなに大きくなく、窓の手前で区切られている。
手前に見える井戸は、1164年に作られたもの。ピエトラ・セレナ(Pietra Serena)と呼ばれる、トラジメーノ湖近辺地域でよく見られる柔らかい石でできている。
2階の通路。


扉!
内部。
現在は騎士団長の部屋として利用されている。
しかし、テーブルと複数の椅子が会合を再現しているよう!

飾られているのは、歴代の騎士団長就任記念の盾。名前・紋章・称号・受任年が記録されている。このためこの部屋は「紋章の間(Sala degli Stemmi)」と呼ばれている。


中庭の西側の壁には、マジョーネ同盟について書かれたマキァヴェッリ「君主論」の抜粋パネルが掲げられている。

「……オルシーニ家は、ようやく遅ればせながら、公爵(チェーザレ)と教会の権勢が自分たちの没落につながることに気づき、ペルージャ地方のマジョーネにおいて会合を開いた。(1502年10月9日)
マキァヴェッリ『君主論』第7章より」

いたる所にマルタ騎士団の紋章が掲げられているが、オルシーニ家の紋章も残っている。
これは2階通路、マジョーネの会合部屋手前にある扉。
毎年7月には「城の陰謀 Congiura al castello」というタイトルで、マジョーネの反乱の再現劇が行われているそう。観たい!!
マジョーネの会合部屋の他に見学できるところは、

① 礼拝堂
(北東1階部分)
② 武器庫だったホール「武器の間(Sala d’Arme)」
(東側2階部分)
③ ワインセラー
(東側1階部分)
④ ワイン販売所
(南側1階部分)
君主論パネルのある西側部分や、塔には入れない。
西側1階部分はドア開いてたから見えたけど、だだっ広い部屋だった。


礼拝堂は①の扉を入って少し奥まったところ、円塔の手前部分にある。
洗礼者ヨハネに捧げられた、ロマネスク様式の礼拝堂。城の最も古い部分。
左右の壁のフレスコ画(左の写真の手前にある)は、1964年に発見された。(アーチ部分が閉じられて(埋められて?)いたそう。)
1500年に描かれたピントリッキオの作品とされている。スペッロのバリオーニ礼拝堂の装飾と共通点があり、そう鑑定されたとのこと。
依頼主はジョヴァンニ・バッティスタ・オルシーニ。
①の左側に見える格子窓部分は、聖具室。

「キリスト降誕(Natività)」と「聖母子と聖ヨハネ、聖ヤコブ」。聖ヤコブは巡礼者の守護聖人。巡礼者のための施設だった城に、合わせて描いてある。
ちなみに、チェーザレの時代の所有者だったオルシーニ枢機卿ジョヴァンニ・バッティスタも「洗礼者ヨハネ」という意味なので、城に合っている!
②には、①の手前にある階段を上っていく。
チェーザレの時代には、武器庫だったところ。武器の間(Sala d’Arme)と呼ばれている。
現在はホールになっている。音響効果に優れているため、クラシック音楽のコンサートなどに利用されている。

壁には当時の武器や騎士団ゆかりのものが展示されている。

ワインセラーと販売所。

城内の見学はガイドツアーのみ。要予約。
ガイドツアーは、おつまみチーズ付き4種のワイン試飲(所要時間45分、35ユーロ)とセットになっている。
が、ガイドツアーのみでもOKだった。(私アルコールダメなので…)金額も少し安かったけど、いくらだったかは覚えてない…すみません。
サン・ジョヴァンニ・バッティスタ教会(Chiesa di San Giovanni Battista)
サン・ジョヴァンニ・バッティスタとは、洗礼者ヨハネのこと。洗礼者ヨハネに捧げられた教会。

聖ヨハネ騎士団(現在のマルタ騎士団)によって建てられ、教会についての最初の記録は1332年に遡る。13世紀末、あるいは遅くとも14世紀初頭に建設されたものと考えられている。
16世紀には、南側に小さな墓地が付属していた。
単廊式(身廊がひとつ)で、2つの鐘を備えた鐘楼がある。現在の鐘楼は、19世紀後半に建てられたもの。
レンガ造りのファサードはバロック様式で、建物が延長された17世紀末に完成したもの。
19世紀末に、建築家ルイジ・パオレッティ(Luigi Paoletti)によって大きく改築され、後陣の半円形アプスとトランセプト(翼廊)が設けられた。

第二次世界大戦中、爆撃によって損傷するが、戦後すぐに修復された。
その際、ペルージャ出身の画家・ジェラルド・ドットーリ(Gerardo Dottori)による絵画で装飾された。1949年完成した。
代表的なものは、主祭壇上部のヴォールト(アーチ天井)のフレスコ画。教会の名に即した、洗礼者聖ヨハネによるイエスの洗礼が描かれている。
左手に祭壇には、17世紀に作られた、作者不詳の木製磔刑像も保存されている。
ランバルディ塔(Torre dei Lambardi)
※ ヴェローナに似た名前の塔「ランベルティ塔(Torre dei Lamberti)」があるので、混同に注意!

ロンバルディ塔(Torre dei Lombardi)とも。
名前の由来については定かではない。
中世後期に「ランバルディ(lambardi)」という語は後に「ロンバルディ(lombardi)」と変化し、農村コミュニティにおける貴族層(この場合、聖ヨハネ騎士団と同一視されることもある)を広義に指す用語として使われていた。
1688年6月4日に近郊で生じたマルチェッロ・ロンバルディ(Marcello Lombardi)殺害事件にちなんで、この名で呼ばれるようになったという説もある。
12世紀から13世紀にかけて、聖ヨハネ騎士団(現在のマルタ騎士団)によって建てられた。約30メートルの方形の塔。
内部は3階と2つの中間階に分かれている。つまり、
1階 → 中間階 → 2階 → 中間階 → 3階 → 屋上テラス
という感じ。螺旋階段で繋がっていた。が、現在は上部にわずかにその痕跡が残るのみになっている。
ピアン・ディ・カルピネ(現在のマジョーネ)の集落が広がる丘の頂上に位置し、そこはトラジメーノ湖やコルトーナへと、ペルージャを結ぶ古道沿いでもあったので、交通路全体の動きを監視することができた。
また、トラジメーノ湖の北岸からペルージャへ向かう食糧(特に魚)の輸送を、確保あるいは遮断するための、重要な役割を果たしていた。
非常に重要な戦略拠点でもあり、中世後期には激戦地となっていた。塔はその高さと稜堡(バスティオン)型の基礎によって、強力な要塞であったと考えられている。
外部には堀と石造の橋(現在は埋没)が備えられており、かつては1度に1人しか通れないように設計されていた。
その戦略・軍事的な位置は非常に有利であったため、13世紀後半には通行税を管理するペルージャの官吏の拠点としても用いられていた。
おそらくそのような場所であったから、聖ヨハネ騎士団(現在のマルタ騎士団)は、[[聖ヨハネ病院(現在のマルタ騎士団の城)>]]を建設したのかも。
16〜17世紀には軍事的役割を終え、地元共同体の所有となる。
18世紀から19世紀前半にかけては、街の犬舎(公共の犬小屋)として利用され、周辺の土地では毎年家畜市が開かれ、屠殺された動物の皮が干される場にもなった。
19世紀後半には老朽化が進行し、安全上の理由から完全に放棄されてしまう。
1983年の春、改修が始まり、現在は小規模な博物館となっている。地元の文化や塔の歴史に関する史料が展示されている。
1階の部屋は結婚式やイベントなどにも使われている。
けっこう閉まっていることも多いようなので、事前に確認した方が良いです。
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