簡易年表
簡易年表
- チェーザレの生涯を簡潔に。(詳しくは 詳細年表 で!)
枢機卿から還俗へ
1475年(0歳)
9月13日 (14日の説も) | チェーザレ、ローマに生まれる |
1489年(14歳)
チェーザレ、ペルージャの大学へ入学 |
1491年(16歳)
チェーザレ、ピサの大学へ転出 | |
9月12日 | チェーザレ、パンプローナ司教に |
1492年(17歳)
4月8日 | ロレンツォ・デ・メディチ死去 |
7月25日 | インノケンティウス8世、崩御 |
8月11日 | ロドリーゴ・ボルジア、アレクサンデル6世として教皇に選出される |
8月31日 | チェーザレ、ヴァレンシアの大司教に |
1493年(18歳)
6月12日 | 妹のルクレツィア(13)ペーザロ伯ジョヴァンニ・スフォルツァ(26)と結婚 |
8月 | 弟のホアン(17)スペインへ渡る |
9月20日 | チェーザレ、枢機卿に |
1494年(19歳)
5月11日 | 3男ホフレ(13)、ナポリの王女サンチャ(15)と結婚 |
8月23日 | フランス王シャルル8世イタリア侵攻 |
1495年(20歳)
7月6日 | フォルノーヴォの戦い(タローの戦い) → フランス軍はイタリアを去る |
1496年(21歳)
10月26日 | ホアン、スペインより戻り、教皇庁軍総司令官に任命される |
1497年(22歳)
6月15日 | ホアン暗殺 |
12月22日 | ルクレツィア、ジョヴァンニ・スフォルツァと離婚 |
1498年(23歳)
2月22日 | ホアン殺害容疑者にチェーザレの名が浮上 |
4月7日 | シャルル8世死去 シャルル8世の父ルイ11世の又従兄弟にあたるオルレアン公ルイが新王ルイ12世に |
5月23日 | サヴォナローラ処刑 → フィレンツェは共和国となり、ピエロ・ソデリーニ政権へ |
7月21日 | ルクレツィア、ナポリの王子ビシュリエ公アルフォンソ・ダラゴーナと再婚 |
8月17日 | チェーザレ、還俗 → ヴァランス(フランス)の公爵に |
10月1日 | チェーザレ、フランスへ向けてローマを発つ |
1499年(24歳)
5月10日 | チェーザレ(23)、結婚 → ルイ12世の従妹でナヴァーラ王の妹シャルロット・ダルブレ(19)と |
進撃
1499年(24歳)
10月6日 | チェーザレ、ルイ12世とともにミラノ入城 |
12月13日 | チェーザレ、イーモラを攻略 |
1500年(25歳)
1月12日 | チェーザレ、フォルリを攻略 |
3月29日 | チェーザレ、教皇軍総司令官に任命 → 「金のバラ」「教会の旗手」の称号も授与される |
8月2日 | チェーザレ、チェゼーナを攻略 |
18日 | アルフォンソ・ダラゴーナ暗殺 |
10月27日 | チェーザレ、ペーザロを攻略 |
30日 | チェーザレ、リミニを攻略 |
チェーザレ、ファノを攻略 |
1501年(26歳)
4月25日 | チェーザレ、ファエンツァを攻略 |
チェーザレ、教皇によりロマーニャ公爵に任命される | |
チェーザレ、ボローニャの城塞を攻略 → しかしルイ12世の仲裁により講和成立 | |
5月 | チェーザレ、フィレンツェの傭兵隊長として契約 |
6月25日 | グラナダ協定承認 → ナポリ王国をフランスとスペインで分割統治する |
7月24日 | チェーザレ、ルイ12世のため、カプアを攻略 |
8月 | チェーザレ、ヴィテロッツォ・ヴィテッリにピオンビーノを攻略させる |
1502年(27歳)
1月26日 | ルクレツィア、アルフォンソ・デステと再再婚 |
ピサ、チェーザレの支配下に入ることを願い出る | |
チェーザレ、ウルビーノ攻略 | |
チェーザレ、サン・マリーノを攻略 | |
チェーザレ、カメリーノを攻略 | |
マキァヴェッリ、フィレンツェの特使としてチェーザレを訪れる | |
レオナルド・ダ・ヴィンチ、チェーザレの建築技術総監督に | |
8月5日 | チェーザレ、ルイ12世と同盟を再確認 |
マジョーネの反乱とシニガリア事件
1502年(27歳)
10月7日 | マジョーネ同盟発足 チェーザレ軍の傭兵隊長たちの反乱同盟 |
12日 | チェーザレ軍、ウルビーノから撤退 |
15日 | チェーザレ軍、カルマッツォの戦いで敗戦 → ミゲルは負傷 ウーゴ・モンカーダは捕虜 レミーロ・デ・ロルカは敗走 |
25日 | 反乱軍、講和への動き |
11月27日 | 反乱軍、講和条文に調印 |
12月26日 | レミーロ・デ・ロルカ処刑 |
31日 | シニガリア事件 → 反乱軍の傭兵隊長たちを一斉に捕獲、処刑 |
1503年(28歳)
1月18日 | チェーザレ、オルシーニ家の2人を処刑 |
2月26日 | チェーザレ、ローマヘ帰還 |
暗転
1503年(28歳)
8月12日 | アレクサンデル6世、高熱と吐き気で倒れる |
13日 | チェーザレも同じ症状で倒れる |
毒殺説、ペスト説などあったが、症状からマラリアと考えられる | |
18日 | アレクサンデル6世、崩御 |
20日 | 枢機卿団、チェーザレにローマ退去を要請 → チェーザレはこれを拒否 |
オルシーニ、コロンナ、フランスの軍、ローマへ進軍 → ミゲル指揮下の軍が、オルシーニ軍と激突 | |
25日 | 枢機卿団、再びチェーザレにローマ退去を要請 |
9月2日 | チェーザレ、ローマを発ちネピへ |
チェーザレに所領を奪われた元領主たちが旧領に返り咲きはじめる | |
22日 | フランチェスコ・トデスキーニ・ピッコローミニ、ピウス3世として教皇選出される |
10月3日 | チェーザレ、ローマへ戻る |
14日 | スペイン王、全スペイン人に対しチェーザレの下で軍務につくことを禁じる → チェーザレ軍の解体は決定的に |
15日 | チェーザレ、ローマを脱出しようと試みる → 包囲され敗走、カステル・サンタンジェロへ |
18日 | ピウス3世崩御 |
29日 | チェーザレ、ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ枢機卿と交渉、同盟する |
11月1日 | ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ、ユリウス2世として教皇に選出される |
19日 | チェーザレ、ヴェネツィアの進撃を阻止するためローマを発つ |
26日 | ユリウス2世、チェーザレを逮捕 → ヴァティカンのボルジアの間に軟禁 |
30日 | ミゲル指揮下の軍、フィレンツェ軍と激突、敗戦 ミゲル、フィレンツェ軍の捕虜に |
ロマーニャはユリウス2世の降服命令を拒否 ミゲルは熾烈な拷問に耐え、チェーザレを裏切らない | |
ユリウス2世、チェーザレの全財産を没収 |
1504年
1月28日 | チェーザレ、ロマーニャに対する権利を放棄 → 40日以内に諸要塞の返還を誓約、引き渡しの完了した時に釈放という条件 |
4月26日 | チェーザレ、釈放 |
28日 | チェーザレ、ゴンサロ・フェルナンデス・デ・コルドバを頼りナポリへ コルドバはチェーザレを暖かく迎える |
チェーザレ、フィレンツェを攻略し、ロマーニャを奪回しようと企図 コルトーバはこれを支持し援助を約束、しかしスペイン王は拒否 | |
5月27日 | コルトーバ、スペイン王の命によりチェーザレを捕縛 → カステル・ヌォーヴォに軟禁 |
8月19日 | チェーザレの最後の砦、フォルリ開城 |
最期
1504年(29歳)
8月20日 | チェーザレ、スペインに移送 |
チンチーリヤの城塞に軟禁される | |
ルクレツィア、 彼女の義兄マントヴァ侯フランチェスコ・ゴンザーガ、 フランチェスコ・レモリーネスを始めとするスペイン人枢機卿たち、 チェーザレの妻シャルロット・ダルブレ、 チェーザレの義兄ナヴァーラ王、たちがチェーザレ釈放を求めて運動するが、聞き容れられず | |
フランス王ルイ12世、チェーザレの所領を没収 | |
11月26日 | スペイン、カスティーリャのイザベル、死去 |
1505年(30歳)
チェーザレ、メディナ・デル・カンポの城塞モタに移送される |
1506年(31歳)
4月1日 | ミゲル、釈放 |
→ フィレンツェ軍の傭兵隊長となることを条件に(マキァヴェッリの要請) 1507年2月27日、正式にフィレンツェ軍司令官に任命 | |
(釈放は1505年8月という説もある。この説ではその後カルロ・バリオーニの軍に雇われ、1505年秋にフィレンツェに雇用されることになっている。 | |
9月25日 | スペイン王女ファナの夫、フェリペ、死去 |
10月25日 | チェーザレ、脱走 |
→ 義兄のナヴァーラ王を頼りパンプローナを目指す | |
12月3日 | チェーザレ、パンプローナに到着 |
12月28日 | フェラーラにチェーザレの自由宣言が届く 話はすぐイタリア中に広まり、ロマーニャの民衆は歓喜してこれを聞く |
1507年(32歳)
3月12日 | チェーザレ、戦死 |
11日夜中から12日明け方にかけて(ゆえに命日を11日とする説も) | |
ナヴァーラ王国とスペイン王フェルナンド2世を後ろ盾とするレリン伯ルイ・ボーモンとの戦いにおいて 遺体には23もの傷 ヴィアナ近郊のバランカ・サラダで 享年31歳 | |
ヴィアナのサンタ・マリア教会に埋葬、壮大な墓碑が建てられる しかし、16世紀半ばカラオラの司教が遺骸を四散させ、墓を破壊 → 1498年にボルジアがカラオラの司教ペドロ・デ・アランタをカステル・サンタンジェロに幽閉したことに対する抗議行為と言われる | |
現在は教会入口手前の地面に石碑プレートが埋められている |
10月 | ミゲル・ダ・コレッラ、フィレンツェ軍歩兵隊指揮官を解任される その後彼の消息は不明となる 1508年1月、ミラノにて暗殺された、という説もある |
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