ヴィアナViana
ヴィアナ Viana
鉄道が敷かれていないので、バス利用になる。
ログローニョ(Logrono)から約15分、
エステーリャ(Estella)から約40分、
パンプローナ(Pamplona)から約1時間半。
- La Estellesa.com
ここでバスの路線と時刻を調べられます。
- Ayuntamiento de VIANA
ヴィアナ市のサイト。
上部中央の「Turismo」から、ヴィアナ観光についての色々な情報にアクセスできます。
チェーザレの妻シャルロット・ダルブレの兄ジャン・ダルブレ(仏・Jean d'Albret、西・Juan III)が、
妻カトリーヌ(Catherine de Foix)と共同統治するナヴァーラ王国の街。
1506年10月、チェーザレはメディナ・デル・カンポのモタ城から逃亡し、義兄ジャン王を頼ってナヴァーラ王国の州都パンプローナへたどり着く。
当時ナヴァーラ王国は、スペイン王フェルナンド2世を後ろ盾とするレリン伯爵ルイ・ド・ボーモン(Luis III de Beaumont)との紛争が続いていた。
チェーザレはジャン王によりナヴァーラ軍の総司令官に任命され、戦線に立つ。
1507年3月12日未明、嵐の中の戦闘で、チェーザレは戦死し、この地に埋葬された。
チェーザレを死に追いやったレリン伯は、翌年1508年、ジャン王との戦闘で負傷し死去する。(享年58歳。)
スペイン王の干渉はその後も続き、1512年、王はレリン伯の息子ルイ(Luis IV de Beaumont)を将軍ファドリケ・アルバレス・デ・トレド(アルバ公)とともにナヴァーラへ派遣する。(この時、一時はチェーザレの配下にあったクリストーバル・デ・ヴィラルバも従軍している。)
この侵攻に屈したジャン王は妻とともにフランスへ逃亡、1515年、ナヴァーラ王国は実質的にスペインへ併合されることになった。(公式には1833年。)
- ヴィアナ Viana
- サンタ・マリア教会(Iglesia de Santa María)
- 記念碑(石碑プレート)(Lápida de César Borgia)
- 記念碑(胸像)(Monumento a César Borgia)
- ソラーナ門(Puerta de la Solana)
- トリニダード門(Portal de la Trinidad o de la Algarrada)
- ヴィアナでのチェーザレの住居(Casa donde se hospedó César Borgia en Viana)
- 観光案内所(Oficina de Turismo de Viana)
- レストラン・ボルジア(Restaurante Borgia)
- ホテル・パラシオ・プハダス(Palacio de Pujadas)
- バランカ・サラダ(la Barranca Salada)
- ヴィアナの城塞(Castillo de Viana)
- サンタ・マリア教会 - 記念碑(石碑プレート)
- 記念碑(胸像) - サン・フランチェスコ修道院前
- ソラーナ門 -
- トリニダード門 -
- ヴィアナでのチェーザレの住居 -
- 観光案内所 -
- レストラン・ボルジア -
- ホテル・パラシオ・プハダス -
- バランカ・サラダ - チェーザレ戦死の場所 → 別地図
※写真にマウスを置くと、多少の説明が出ます。
サンタ・マリア教会(Iglesia de Santa María)
1250年から1312年にかけて、ゴシック様式で建てられた教会。
16 - 18世紀にかけて改築・増築されている。塔とエントランスはルネサンス様式。
ホアン・デ・ゴイアス(Juan de Goias)らの手によるファサードの彫刻は、「ナヴァーラのルネサンス美術で最も美しい」と称される。(下の写真。アーチ形のところ。)
エントランスの手前の床には、チェーザレを記念する石碑が埋められている。
(右の写真。茶色の扉の手前に見える白い部分。詳細は下記に。)
クリックすると拡大します。 →
主祭壇は17世紀に作られたバロック様式。
下の写真3枚はミサの行われているところ。
- 開館時間
4月1日 - 10月15日
月曜 - 土曜 9:00 - 13:00- 冬季は礼拝の行われている時間(不定期)のみ入場可。
記念碑(石碑プレート)(Lápida de César Borgia)
右の写真はサンタ・マリア教会入口前の地面に埋められている、チェーザレの墓碑。
1953年に作られたもの。
この場所に落ち着くまで紆余曲折あり、墓はだいぶ辛苦を味わっている。
①
1507年3月12日早朝、バランカ・サラダ(la Barranca Salada)で戦死したチェーザレは、義兄のナヴァーラ王ジャン・ダルブレによって手厚く葬られる。
盛大な葬儀が行われ、サンタ・マリア教会の主祭壇の下に、アラバスター(雪花石膏)で作られたゴシック様式の霊廟が置かれた。
1523年、著述家でもあったモンドニエド(Mondoñedo)の司教アントニオ・デ・ゲバラ(Antonio de Guevara)によって碑文が刻まれた。
いわく、
「Aquí yace en poca tierra
el que toda le temía
el que la paz y la guerra
en su mano la tenía.
Oh tú, que vas a buscar
dignas cosa de loar
si tú loas lo más digno
aquí pare tu camino
no cures de más andar」
「このわずかばかりの土に
誰もが畏怖した人物が眠る
平和と争いと
両方を手にした者
おお、高遠なるものを
求めた君よ
もし君がそれを尊むならば
君の旅をここで終わらせよ
さらなる遠き道を苦しむことなく」
②
しかし16世紀半ば、「神聖な教会の中に、チェーザレのような残虐非道な人物の墓があることは、神への冒涜である」と考えたカラオラ(Calahorra)の司教によって、墓碑は取り壊されてしまう。
遺骸は「人獣を問わずに蹂躙した罪のつぐない(para que en pago de sus culpas le pisotearan los hombre y las bestias)」として、人々の足蹴にされるよう、教会前のマヨル通り(Rúa Mayor o Rúa de Santa María)(現在のCalle de Primo de Rivera)へ移された。
※ カラオラの司教の話は伝説であって、事実ではないとする説もある。
だが、どのような経緯があったにせよ、1523年には教会内に存在した墓が、1884年には通りへと動かされていたということに間違いはない。
③
1884年、フランスの歴史学者シャルル・イリアート(Charles Yriarte)はヴィアナ市の許可を得て、チェーザレの埋められていると言われる場所を掘り返し遺骨を確認した。
しかし墓標が置かれることもなく、骨はそのまま埋め戻されてしまう。
(教会の階段下へ移された、とも言われる。)
④
1945年2月27日、今度は多くの歴史学者や専門家の支援を得て、再びチェーザレの墓は掘り返される。
骨は分析されチェーザレのものであると認定された後、1953年、現在の石碑の下へ埋葬された。
白大理石にはこう刻まれる。
「CÉSAR BORGIA
GENERALÍSIMO DE LOS EJÉRCITOS
DE NAVARRA Y PONTIFICIOS
MUERTO EN CAMPOS DE VIANA
EL XI DE MARZO DE MDVII」
「チェーザレ・ボルジア
ナヴァーラ軍と教皇庁軍の
総司令官
ヴィアナの野に死す
1507年3月11日」
2007年、ヴィアナ市はチェーザレの没後500年を記念するイヴェントの一環として、墓をサンタ・マリア教会内へ移そうという案を提示したが、実現はされなかった。
- もうひとつのチェーザレの霊廟
20世紀に入ると、チェーザレとボルジア家への歴史的評価は変化し、見直されていく。
チェーザレはナヴァーラの独立を守るために戦死した英雄とも見なされるようになる。
1935年、医師であり文筆家であり、音楽家、画家、彫刻家でもあったヴィクトリアーノ・ファリスティ・サガルサス(Victoriano Juaristi Sagarzazu)によって、チェーザレの霊廟が制作される。
美しい彫刻の施された廟は、市庁舎(右の写真。サンタ・マリア教会の向かい側。Plaza de los Fuerosに建つ。)の入口に置かれた。
が、翌年に始まった内乱(La Guerra Civil(1936-1939))で、数年ももたずに破壊されてしまった。
オリジナルは現存しないが、コピーがサン・セバスティアンのサン・テルモ博物館(Museo de San Telmo, San Sebastián)にある。
記念碑(胸像)(Monumento a César Borgia)
サン・フランシスコ修道院(Convento de San Francisco o de San Juan del Ramo)前のソル・シモナ広場(plaza Sor Simona)に立つブロンズの胸像。
1965年、パンプローナ生まれの彫刻家フルクトゥオーソ・オルドゥーナ(Fructuoso Orduna)によって作られた。
台座には以下のように書かれている。
「CÉSAR BORGIA
CAPITÁN GENERAL
DE LAS
ARMAS NAVARRAS
MDVII」
「チェーザレ・ボルジア
ナヴァーラ軍
の
総司令官
1507年」
飾られる紋章はなぜか三重冠つきのアレクサンデル6世の紋。
チェーザレは自分の墓のある方向、そして自分の死した場所の方向を見ている。
ソラーナ門(Puerta de la Solana)
13世紀には建てられていた、街の南門。
(ちなみに北門はサンタ・マリア門(Portal de Santa María)、
東門はエステーリャ門(Portal de Estella)、
西門は聖フェリス門(Portal de San Felices)。)
16世紀に修復されている。
ソラーナ(Solana)とは「日なた、日あたり」という意味。
右の写真は街の外側から見た門。
1507年3月11日深夜、最後となる戦闘に向かうチェーザレが、馬を駆ってくぐった門。
チェーザレが出撃した時見た光景は、このようなものだったはず。
トリニダード門(Portal de la Trinidad o de la Algarrada)
コソ広場(plaza del Coso)で闘牛が行われる時、広場の東にあったエステーリャ門(Portal de Estella)の代わりに開かれていた門。
(エステーリャ門は20世紀初頭に解体されており、現在はプリンシペ・デ・ヴィアナ通り(Passo del Principe de Viana)に跡のみが残っている。)
プリンシペ・デ・ヴィアナ通り(Passo del Principe de Viana)側に、2007年に開かれたチェーザレの没後500年を記念するイヴェントパネルが、今だに飾られている。
ヴィアナでのチェーザレの住居(Casa donde se hospedó César Borgia en Viana)
ヴィアナ滞在時にチェーザレが居城としていたところ。
現在は一般人の住まいとして使われているようで、内部の見学などはできない。
しかも、説明パネルや印となるようなものも一切ない。
何か作って記念してくれるといいのに・・・。
観光案内所(Oficina de Turismo de Viana)
サンタ・マリア教会の向い側にある、市庁舎の一角が観光案内所となっている。
建物に向って左端の扉がそれ。(右の写真、木の向こうに見えるところ。)
チェーザレ戦死の地であるバランカ・サラダへ向うエクスカーションの案内は、ここで受けられる。
また、「Veneno de Cesar」(チェーザレの毒薬)という名のリキュールを販売している。
7ユーロ。安い・・・。
他、2007年にチェーザレ没後500年を記念して作られた書籍も購入できる。スペイン語版のみ。15ユーロ。
無料の小冊子もある。
(どれも表には出されていないので、尋ねてみてください。
また、再生産・再版されているのか微妙なので、数に限りがあるかもしれません。)
- 営業時間
月曜 - 土曜
9:00 - 14:00
レストラン・ボルジア(Restaurante Borgia)
サンタ・マリア教会とサン・フランシスコ修道院の間の通り、セルピオ・ウッラ通り(Serapio Urra, 1)にあるレストラン。
外観は素朴だが、室内は白を基調としたモダンな雰囲気。
新鮮で旬な食材で、伝統的料理から創作料理までも提供する。レヴューによると、パンやコーヒーまで美味しかったそう。
ただ・・・メニューはスペイン語のみで、店員の方も英語を話さない。注文をするのがやや大変かも。
(でもとても辛抱強く親切に、身振り手振りを交えて、キッチンから食材を持ってきてくれて、絵まで描いて説明してくださいました。
とても感じのよいお店でした。)
予算はランチで、30~50ユーロ。ディナーで50~75ユーロ。やや高級。
- 営業時間
13:30 - 15:30、20:30 - 22:30- 休業日
日曜、8月
- 休業日
ホテル・パラシオ・プハダス(Palacio de Pujadas)
サンタ・マリア教会の前の道プリモ・デ・リベラ通りからつながる、ナヴァッロ・ヴィロスラダ通り(Navarro Villoslada,30)にあるホテル。
17世紀半ばにアラゴンからヴィアナへ移り住んだと言う、侯爵家プハダスの屋敷であった。
もともとは16世紀に建てられたレミレス家(Remírez)の屋敷で、エントランスには同家の紋章が残っている。
東側のもうひとつの扉は、かつては厩舎とワインセラーへ続いていたもので、現在は併設のレストランとなっている。
ヴィアナはサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路にあたるので、宿泊客にはリュックを背負った巡礼者が多い。
最上階にはチェーザレ・ボルジアの名を冠した部屋がある。
ベッドのすぐ横にバスタブが置いてある、優雅なんだか不便なんだかよくわからない部屋。
- ホテル・パラシオ・プハダス
ここで部屋の写真が見られます。
バランカ・サラダ(la Barranca Salada)
チェーザレが戦死したところ。
チェーザレの最期となる戦闘は、ヴィアナとメンダヴィアのちょうど中ほどにあたる「la Barranca Salada」と呼ばれる場所で行われた。
ヴィアナの旧市街から、南東に10キロほど行ったところである。
チェーザレの逃げこんだ義兄の国ナヴァーラ王国は、スペイン王フェルナンド2世を後ろ盾とする、レリン伯ルイ・ド・ボーモンとの戦いが続いていた。チェーザレはナヴァーラ軍の総司令官に任命され、戦線に立つ。
ヴィアナはレリン伯によって占拠されていたが、チェーザレは街を奪還する。しかし城塞を落とすことができなかった。
レリン伯の軍はメンダヴィアに本陣を置き、城塞に立てこもった。チェーザレは城塞を攻囲する。レリン軍は籠城を余儀なくされ、飢えつつあった。
(チェーザレ軍・騎兵1000、槍騎兵200、歩兵5000、砲兵隊)
(メンダヴィアのレリン軍・槍兵200、歩兵600)
1507年3月11日深夜。
激しい雷雨が陣を襲い、チェーザレは警備の兵を移動させた。
レリン軍はこの隙を突き、2回に分けて1ヶ月分の食料を城へ運び込むことに成功する。
夜明けが近づいた頃。
チェーザレは敵の動向に気づく。彼はソラーナ門をくぐり、レリン伯の本陣であったメンダヴィアへ向けて馬を駆る。
バランカ・サラダと呼ばれるところまで走った時、後に続いているはずの兵たちは後方に取り残されていた。そしてそこにはレリン軍の兵が待ち伏せしていた。
嵐の中始まった戦闘で、チェーザレは敵軍の武将ガルセス・デ・アグレダ(Garcés de Ágreda)とペドロ・デ・アーロ(Pedro de Allo)、ヒメノ・ガルセス(Jimeno Garcés)に追いつめられる。(甲冑の重さのせいだと言われる。)
チェーザレは果敢に抗戦するが、1本の槍が彼を貫く。3月12日早朝、20ヶ所以上もの傷を負いながらこの地に倒れた。
敵兵は武器も甲冑も衣服までも剥ぎ取り、遺体は血まみれのまま裸で捨て置かれた。義兄のナヴァーラ王に発見されるまで。
バランカ・サラダ(la Barranca Salada)とは直訳すると「塩渓谷」。が、全く渓谷ではない。
塩野七生「チェーザレ」には「丘」と書かれているが、丘でもないと思う・・・。「野っ原」という表現が1番しっくりくる。
2007年、ヴィアナ市がチェーザレの没後500年を記念して、石碑を立てている。ちょっと(けっこう?)ショボいけど・・・。
クリックすると拡大します。 →
- チェーザレ・ボルジアの旅(Itinerario de Cesare Borgia)
ヴィアナ市の観光局が催している徒歩での小旅行。と言うか遠足。
la Barranca Saladaまでの片道約9キロを往復する。- Ayuntamiento de VIANA
スペイン語でしか見られません・・・。
- Ayuntamiento de VIANA
道程に立つ道しるべ | 石碑の傍には掲示板に解説が |
ヴィアナの城塞(Castillo de Viana)
チェーザレが奪還できず、レリン伯の兵が籠城していたヴィアナの城塞は、17〜20世紀に取り壊され、現在は残っていない。
しかしヴィアナ市のサイトでバーチャルモデルを見ることができる!
この、ヴィアナ城をバーチャルで再現するプロジェクトは、2020年末、歴史家・考古学者のイニャギ・サグレド(Iñaki Sagredo)によりヴィアナ町議会に提案され、実現した。
城は
⚫︎Plaza del coso
⚫︎Patio de armas
⚫︎Paseo
の3つの場所で再現されており、それぞれ
13世紀、16世紀、17世紀、21世紀
の4つの時代の変化を見ることができる。
↓ 写真は、バーチャルPaseoから見た16世紀のヴィアナ城。
城は現在のコソ広場(Plaza del Coso)からヴィアナ王子通り(Paseo de Príncipe de Viana)に在った。
(上記の地図参照)(街の中心部で驚く。ここを占拠されていて、チェーザレたちは街でよく暮らせたね!?チェーザレの葬儀を執り行った教会もすぐそこだよ。徒歩1分。葬儀中に襲撃される恐れなかったの?危険すぎない?)
1219年、サンチョ6世が街を拓き、城塞の建築を始めた。
4つの門があり(このうち救援の門(puerta del socor)からレリン伯は糧食を運び込んだ)、強固な外壁で囲まれていた。
ヴィアナはカスティーリャとの国境の要衝だったので、城は包囲と攻撃に何度もさらされた。そにため破壊と修復を何度も繰り返している。1411年に大規模な補修工事が行われている。
1507年、チェーザレはレリン伯ボーモンに占拠されていたヴィアナの街を奪還。しかし城塞を取り戻すことはできなかった。
1476年にも、ナヴァーラ王はヴィアナの街は征服したのに城は落とせないという、チェーザレと同じ状況に陥っており、この城がどれだけ堅固かがうかがえる。
1516年、ナヴァーラはスペインの手に落ち、フランシスコ・ヒメネス・デ・シスネロス枢機卿(王の代理人)の命で、軍事拠点になりそうな要塞、城塞家屋、教会のほとんどが破壊される。
(実際に破壊したのは一時チェーザレの配下にあったクリストーバル・デ・ヴィジャルバ)
しかしこの城はカスティーリャの支持者であるレリン伯の手にあったので破壊を免れた。
1695年、学校として改築され、球技や闘牛ができるような広場が作られた。1866年、老朽化のため塔が取り壊された。1931年には城壁も解体され、1964年に新たな住宅が建設された。
現在は住宅に囲まれた広場になっており、かつて城塞があったと思われる名残りは何も見られない。
a:610 t:1 y:0