チェーザレ・ボルジアについて、とりとめのないけれど愛に満ちた探究心を発揮するサイトです。

1501年


1501年

チェーザレの進撃・・・ファエンツァ、ボローニャ、フィレンツェ、ピオンビーノ、カプア

1501年(26歳)

1月4日
 
チェーザレ、亡命者の帰国を禁じる法令を公布
→ ポルト・チェゼナティコにて
ラ・ヴァレンティーナという信仰組織を設立し、慈善を奨励
→ イモラにて
ロマーニャ公国議会に支払うべきだった税を免除
→ フォルリにて

チェーザレは、彼の支配する地を壮大な理想に基づいて統治しようとする

抗争、強奪、殺人が日常であり(しかもそれは統治者たちが率先して行っていた)、荒廃しきっていたロマーニャは、チェーザレによって平定され、個々人の生命と生活と財産の保護される、平和な国家へと変貌する。

また、1502年5月頃にはレオナルド・ダ・ヴィンチを建築土木技師として迎え、都市と港湾を整備し、街づくりを推進する。

チェーザレは己の権限を完全に保持しながら、他者に委任することも心得ており、国を適正に統治していく。


1月21日
 
 
チェーザレ、ファエンツァに奇襲
ミゲル・ダ・コレッラが先陣をきる
→ 失敗し、撃退される
2月13日ドロテア誘拐事件
ヴェネツィア歩兵隊隊長ジョヴァンニ・バッティスタ・カラッチョーロの妻で、ウルビーノ公妃エリザベートの女官であったドロテア・マラテスタ(カラッチョーロ)を、チェーザレが自分のものにしようとして誘拐。
(配下のスペイン人隊長、ディエゴ・ラミレスの仕業であって、チェーザレは関与していない、という説もある。)
→ 詳しくはドロテア・マラテスタ(カラッチョーロ)
3月チェーザレの講和申込みを、ファエンツァは拒否
チェーザレは「ファエンツァ開城の代わりに、アストーレを枢機卿に任命し5千ドゥカートの年金を保証」という条件を出すが拒否される
4月
 
フェラーラのアルフォンソ・デステ、イッポーリト・デステ兄弟、マントヴァのフランチェスコ・ゴンザーガ、チェーザレ軍に滞在
15日
 
チェーザレ軍、ファエンツァに総攻撃
→ ファエンツァは落ちない
20日チェーザレ軍、城壁の一角を占拠
21日
 
チェーザレ軍、一斉砲撃
1点に向けて、7時間に渡り砲撃
25日
 
ファエンツァ、降服
→ 住民の安全とアストーレの自由を条件に
500の兵を率いたミゲルによって城塞は開城。
チェーザレは軍事以外の要職をそのまま据え置く。
27日
 
チェーザレはイモラに移動
ミゲルがファエンツァの指揮を任される。
アストーレ・マンフェレディと庶出の弟ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタの二人は、捕虜となったが待遇は良く、行動にほとんど制限はなかった。
彼らはチェーザレを慕い(チェーザレの示す好意、厚遇に欺かれ)、この後約1年にわたってチェーザレの側に。ピサやピオンビーノにも同行する。
(チェーザレの態度がどうであろうとマンフレディ兄弟に拒否権はなかったので、彼らの本意は解釈の別れるところ)
→ 1502年6月、彼らはカステル・サンタンジェロに幽閉された後、9日、首に砲弾をくくりつけられた死体となってテヴェレ河に浮かぶ。ミゲルの手にかかったとされている。
ミゲルはチェーザレの目前で兄弟の喉を切ったという説もある。



民衆の支持を得ていたアストーレは、放逐するにも副官にするにも難しい存在だった。彼がいるかぎり、民心はいつまでもチェーザレの方へ向かない。危険で無用な人間は消し去るのが一番だった。

→ 以前チェーザレについてささやかれていた噂、弟ホアンと義弟アルフォンソの暗殺も、まちがいなくチェーザレの手によったものと受け取られるようになる。




この頃からチェーザレはフランス軍の力を借りずに自軍だけで編成するようになる

イモラ、フォルリ、チェゼーナ、ペーザロ、リミニ、ファノ、ファエンツァを征服したことで、イタリア半島の南北を結ぶ主要道路、エミーリア街道一帯を支配下においたことに

残るは北に・・・フェラーラ、マントヴァ
さらに北に・・・ミラノ、ヴェネツィア
西に・・・ボローニャ、フィレンツェ






次はロマーニャに近接するボローニャとフィレンツェを狙う。


4月26日
 
チェーザレ、ボローニャのカステル・ボロネーゼの譲渡を要求
カステル・ボロネーゼは堅牢な城塞で、ロマーニャ内の飛び地にあった
 → ファエンツァを支える要衝でもあったので、同時に陥す必要があった
27日チェーザレの命により、ヴィテロッツォ・ヴィテッリ、カステル・ボロネーゼを包囲
31日ジョヴァンニ・ベンティヴォーリオ、カステル・ボロネーゼをチェーザレに譲渡
 → チェーザレはこの城塞を全て壊して更地にしてしまう


次の狙いはボローニャそのもの。
しかしルイ12世から横やりが入る。
→ ボローニャはフランス王の保護下にあった。(ルイのミラノ征服時に協定が結ばれていた。)またルイはナポリ征服時の駐屯地としてボローニャを重視していたし、チェーザレの勢力が巨大化していくことに危機感を感じてもいた。
ルイ12世の仲裁により、チェーザレとベンティヴォーリオ間で講和成立
→ チェーザレはボローニャの傭兵隊長として契約
→ チェーザレにとって大きな収益となる




  • フィレンツェ
    • 共和制
      ●ピエロ・ソデリーニ

チェーザレ配下のヴィテロッツォ・ヴィテッリオルシーニの面々はフィレンツェに対して反感を持っていた。
ヴィテッリは弟パオロをフィレンツェ政府に処刑されたことにより遺恨を持っており、
オルシーニメディチ家を支持しており、同家復帰を願っていた。)
彼らはフィレンツェに対する復讐とメディチの復帰をチェーザレに要求する。

→ フィレンツェは対ピサとの戦いで疲弊していたこともあり、恐怖と混乱に陥る。

しかしチェーザレはフィレンツェへの攻撃を見送る。

  1. ヴィテッリオルシーニにフィレンツェを任せ、メディチを復帰させても何らメリットはない。(逆にメディチオルシーニの結びつきは懸念されるものになる)
  2. フィレンツェもまた、フランス王の保護下にある。(ルイの意に背くことはまだ時期尚早)


しかし4月末からチェーザレはフィレンツェ領内に軍を進める。
ルイ12世の怒りを懸念したアレクサンデル6世はチェーザレにローマに戻るよう命じるが、チェーザレはこれを無視する。
フィレンツェ議会はチェーザレのもとへ使節を派遣する。
チェーザレは、

  1. フィレンツェ領内の自由通行の許可
  2. 自分をフィレンツェの傭兵隊長として雇用すること
  3. フィレンツェ政体の変更(メディチの復帰)(ピエロ・デ・メディチが復帰すれば傀儡にできる)

を要求する。


5月15日
 
チェーザレ、ロマーニャ公の爵位を授与される
アレクサンデル6世がチェーザレのために新たな称号をつくった
同日
 
チェーザレ、フィレンツェと同盟
チェーザレはフィレンツェの傭兵隊長として契約
 フィレンツェはチェーザレに3年間、300人の兵と3万6千デュカーティの年金を与えることに。
→ フィレンツェはルイ12世保護下にある都市であるので、今すぐに攻め入ることはできない。よってチェーザレは、フランス王に配慮しつつも、フィレンツェの軍事面を握ることによって影響力を増大しようとした。フィレンツェから報酬を得て、フィレンツェの領土に武力を保持し、政府に影響を与えることができるようになったのである。
また、莫大な契約料の不払いを、後々攻撃理由にするという腹づもりもあった。
フィレンツェがこの契約を呑んだのは時間稼ぎであった。(ルイ12世とも年間4万ドゥカートで保護契約を結んでいるので、実際チェーザレに払える金はない)
 チェーザレはルイ12世に背くことなく、フィレンツェの権力を手に入れた。
 しかしヴィテロッツォ・ヴィテッリに、カンピ、シーニャ、エンポリ、ポッジポンジの略奪と破壊を許す。
→ フィレンツェが自分を傭兵隊長として雇用したものの、それが建前でしかないことをチェーザレは当然理解していた。ので、「いつでも攻撃できる」ことを知らしめている。
17日
 
チェーザレ、フィレンツェ領内から撤兵するようにとルイ12世から度重なる要請を受け、フィレンツェを離れる


25日
 
チェーザレ軍、ピサへ入る
砲兵隊を引き入れ、海岸地帯へ向かう
28日チェーザレ軍、教皇の船隊と合流
 6隻のガレー船
3隻のブリガンチン
6隻の小型帆船
6月5日
チェーザレ軍、エルバ島とピアノーザ島(エルバ島の20キロほど南西にある小島)を占拠
 チェーザレ軍、ピオンビーノ攻囲
 エルバ島、ピオンビーノを手に入れると、アドリア海〜ティレニア海の中部帯状地帯を支配下に置くことになり、海港をひとつ確保することにもなる。
また、ピサと連携すれば、フィレンツェの海路を遮断できる。
→ 小国ながらも、重要な都市。
 しかしピオンビーノ陥落寸前、ルイ12世はナポリ遠征のためチェーザレに従軍を要請。チェーザレはカプアへ進軍することになる。
(チェーザレはルイとの協定により、従軍の義務を負っている。)
17日
 
チェーザレ軍、一旦ローマへ
ヴィテロッツォ・ヴィテッリとジャンパオロ・バリオーニピオンビーノでの戦闘を続行
途中(9月、カプア戦が終わり戻って来た)ミゲル・ダ・コレッラも加わる
 3ヶ月後、ピオンビーノ陥落
→ ピオンビーノ当主ヤコポ・ダッピアーノはフランスへ逃亡
→ ミゲルがピオンビーノ総督に




25日教皇、グラナダ協定(ナポリ分割条約)を承認
1500年11月11日、フランスのルイ12世とスペインのフェルナンド王の間で、ナポリ王国からアラゴン王家を駆逐し、二国で分割統治しようという協定(グラナダ協定)が結ばれていた。
ルイ12世・・・ナポリ王の称号、カンパーニャとアブルッォを支配下に
フェルナンド・・・公爵の称号、プリアとカラブリアを支配下に
教皇、ナポリ王フェデリーゴに廃位を宣告
トルコと通じていたという口実で
29日教皇、フランス、スペインのナポリ王国に対する同盟が宣言される
フランスやスペインがナポリを征服したとしても、やがて両国とも統治に失敗し、撤退せざるを得なくなると、チェーザレは読んでいた。その時、ナポリは簡単にチェーザレの手に落ちるはず。それで彼はこの協定を快く受け入れた。
フェデリーゴ王は、同盟するコロンナ一族に支援され、徹底抗戦の構え。
7月8日
 
教皇庁軍(チェーザレ軍)、フランス軍、スペイン軍、ナポリ領内へ進軍
フェデリーゴはサン・ジェルマーノからカプアへ撤退
7月24日7月24日 カプア陥落→ 悲惨な落城
徹底的な略奪と虐殺が行われる。
老若男女の区別なく、僧侶や修道士、修道女、少女たちまでもを含む4000人余(6000人という説も)の市民が殺害。修道女を含む多くの女性が最安値でローマに売られる。
捕虜はファブリッツィオ・コロンナを除き、全て絞首刑。
→ 指揮官はサン・セヴェリーノであったにもかかわらず、この暴戻はチェーザレの残忍性によるものとされてしまう。
→ チェーザレも40人の女性を自分のものとした、といわれる。
8月2日
 
フェデリーゴ、イスキア島へ逃亡
後、フランスへ渡り隠遁生活へ
9月上旬
 
カプアにて、ミゲル・ダ・コレッラ、チェーザレと間違われて短剣で暗殺されそうになる。
が、暗殺者の始末をフランス軍に反対され放免する。
9月半ば
 
チェーザレ、ナポリからローマへ
ルイ12世に対する従軍の義務を果たしたので、自分の戦闘に戻る。
ナポリの敗戦により、同盟者だったコロンナ家の力は衰退。
9月
 
チェーザレ、コロンナの所領地を攻撃
簡単に陥落


教皇はコロンナの領地をルクレツィアの子ロドリーゴ(アルフォンソとの子)とホアン(ルクレツィアが修道院で生んだとされるインファンテ・ロマーノ(ローマの子)と呼ばれた子。チェーザレもしくはアレクサンデルの子では、という説もある(そのような証書が残っているため))に分け与える。

→ 教皇領が、その歴史上はじめて、教皇一族の支配化におさまる。

教皇は仇敵の没落を喜び、獲得したセルモネータやカステル・ガンドルフォなどを訪問。この間、摂政としてルクレツィアがヴァティカンの用務を行っている。

ルイに対する義務を果たしたチェーザレは、再び自分の遠大な計画に着手する。
「守るということは、全軍を自分自身の軍でかため、臣下を愛し、近隣諸国を友とすることだ」・・・チェーザレがマキァヴェッリに語ったという言葉。
彼は、友とする国にフェラーラを選ぶ。

→ ロマーニャの北には強国ヴェネツィアの存在がある。その手前にあるフェラーラと結ぶことによって、北側の安全を狙う。


9月1日
 
ルクレツィア(21)、アルフォンソ・デステ(24)と婚約
アルフォンソ・デステ・・・フェラーラのエルコレの息子
アルフォンソ本人も、フェラーラ公エルコレも、当初はこの結婚を拒否。マントヴァ侯妃のイザベッラ(アルフォンソの姉、エルコレの娘)も大反対。
ルクレツィアは庶出であり、しかも以前の2度の結婚はすべて悲惨な終わり方をしている。
しかし莫大な持参金とフランス王ルイの後押しによって、婚約は成立。
チェーザレの敵となるよりは、同盟する方が安全でもあった。
教皇座の権威と資金力、そしてフランス王の助力を後ろ盾にするチェーザレは、その野心と武勲で知られ、いまやイタリア中から恐れられる存在となっていた。
 → チェーザレは自領ロマーニャに隣接するフェラーラとの提携により、北方の防衛を固めた
(北方のもうひとつの国マントヴァとは娘ルイーズを婚約させているので、万全)
9月15日
 
フェラーラの使節、ヴァティカンに伺候
法律家、ジェラルド・サラチェーニと外交官、エットレ・ベッリンジェリ
10月31日
 
ボルジアの饗宴
チェーザレの居室において、遊女50人を招き全裸の饗宴が開かれた
12月9日
 
イッポーリト・デステ、ルクレツィアを迎えにフェラーラを発つ
500人からなる行列
12月23日イッポーリトら、ローマに到着
12月26日
~30日
結婚の祝祭
サン・ピエトロ広場で。民衆も参加
12月30日ルクレツィア、アルフォンソ・デステと再々婚
アルフォンソの代理で弟のフェランテ
ヴァティカンのパウリーナ広間で
教皇、チェーザレ、枢機卿13人が列席
教皇の間での舞踏会、古代劇、賛歌
サン・ピエトロ広場でパリオ(競馬)も行われた








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