1501年
1501年
チェーザレの進撃・・・ファエンツァ
1501年(26歳)
1月4日 | チェーザレ、亡命者の帰国を禁じる法令を公布 → ポルト・チェゼナティコにて |
ラ・ヴァレンティーナという信仰組織を設立し、慈善を奨励 → イモラにて | |
ロマーニャ公国議会に支払うべきだった税を免除 → フォルリにて |
チェーザレは、彼の支配する地を壮大な理想に基づいて統治しようとする
抗争、強奪、殺人が日常であり(しかもそれは統治者たちが率先して行っていた)、荒廃しきっていたロマーニャは、チェーザレによって平定され、個々人の生命と生活と財産の保護される、平和な国家へと変貌する。
また、1502年5月頃にはレオナルド・ダ・ヴィンチを建築土木技師として迎え、都市と港湾を整備し、街づくりを推進する。
チェーザレは己の権限を完全に保持しながら、他者に委任することも心得ており、国を適正に統治していく。
1月4日 | ミゲル・ダ・コレッラ、フォルリで、兵士のひとりを絞首刑に処す |
→ レッジョ出身のベッレ(Belle da Regio)という男から、剣の鞘を盗んだ罪で しかしこれは、他の兵士が仕組んだ罠で、冤罪だった説もある | |
刑が執行された際、縄が切れてしまう。男は落下して頭を割ってしまった。しかし再度首に縄が結ばれ、吊るされた。 | |
5日 | フォルリで、ジャンノーテの兵士のひとりが暴行事件を起こす |
ミゲルは街を巡回し、各所で取り締まりを行う。しかし事件の当事者は大暴れして逃亡、数人の負傷者が出る | |
同日 | ヴィテロッツォ・ヴィッテリ、ブリジゲッラ近郊の渓谷で戦闘 |
6日 | フォルリに駐屯していた兵士が、ファエンツァ領を襲撃、家畜を奪う |
7日 | 前日の報復として、ファエンツァの兵士がフォルリの北方ヴィッラフランカ(Villafranca)周辺を襲撃、略奪し火を放つ |
10日 | チェーザレの財務官アレッサンドロ・フランシ、ヴェネツィアから到着した兵士たちに給与を支払う |
同日 | ミゲル・ダ・コレッラ、フォルリを離れブリジゲッラへ |
1月12日 | チェーザレ、フォルリに移動 |
13日 | チェーザレ、ファエンツァに向かう |
内部にファエンツァの密偵が潜んでいることを警戒し、密かに動いた。 山側のルートを通り、騎兵500歩兵3000のヴィテロッツォの軍と合流。 修道院の近くに布陣し、そこから密偵を放つ。が、ファエンツァの守りは固く、降伏の気配どころか付け入る隙もなかった。犬まで警戒していた。 チェーザレはファエンツァ軍と住民を評価し全軍を招集、「今は勝利を収めるべき時ではなく、適切な機会を待つべきである(parande a lore de non eser tenpo dala vitoria, e qui lore aspetare tenpo che piatà se mova)」 と言明した。「怒りに任せて事を進めれば破滅し、忍耐こそがすべての憤りを克服する(furia non passa el segne, paciencia vince hogne desdegno)」 | |
14日 | チェーザレ、チェゼーナに戻る |
15日 | チェーザレ、布告を出す → 公国の規則に従って、すべての者が税と関税を支払わねばならない、とした |
ファエンツァ攻めながらも、同時に善政を敷こうと尽力している! | |
17日 | チェーザレ、別邸の草地で、その後広場(ポポロ広場?)で、軍を閲兵 |
この頃 | チェーザレ、夜間にはフォルリの城門を閉じることを義務づける 門限間に合わない者は、朝まで中に入ることを禁じる → 軍の統制、都市の安全確保、または反乱・混乱を防ぐ目的だと思われる |
20日 | チェーザレ、布告を出す → 占領地における、兵士の無秩序な土地占有を禁止 |
兵士による土地や建物の占有が横行していた。 → 「理由の有無にかかわらず、土地や建物を占有をしてはならない。これは、チェーザレ本人あるいは代理官による、明確で合法な許可なしには絶対に認められない。違反した者は200ドゥカートの罰金を支払うこととし、そのうち3分の1は告発者(被害者)に与えられ、残りは財務府に納められる。告発者の名前は秘密にされる。」 | |
この頃 | チェーザレ、ジャンノーテと会談 |
チェーザレは、フォルリで騒ぎを起こしていたジャンノーテを、チェゼーナに呼び出していた。そこで、何らかの話し合いが持たれたよう。 | |
21日 | チェーザレ、財務官アレッサンドロ・フランシに新たな貨幣を発行させる |
片側に十字、もう片側にPとIの文字が刻まれたクアトリーニ硬貨(4デナリ)(パンや果物、ロウソクなど日用品の買い物で使われるような硬貨の単位) しかしこの貨幣は黒ずんでいて、質が悪かった。チェーザレはすぐにその貨幣を流通させていた者を捕らえた。 (流通させた者より鋳造した人が悪い気がするけど…) | |
2月1日 | チェーザレ、布告を出す → 悪貨の使用禁止と回収を命じる |
質の悪い貨幣は一切使用してはならず、所持している者は財務府のスピヌーチョ・アスピネ(Spinucio Aspine)のもとで、すべて交換するように命じた → 悪貨はすべて回収された |
チェーザレが自領の平定に取り組んでいた時、ミゲルはファエンツァ攻めに苦戦していた。
1月 | ファエンツァの兵士、カッシラノ(Cassirano)(フォルリとファエンツァの間)に攻め込み、家畜を奪う |
1月21日 | ミゲル、ファエンツァに奇襲 → 失敗し、撃退される |
28日夜 | ミゲル、ファエンツァを再奇襲 → 再び失敗 |
城壁に梯子を掛けさせるが、いくつかは壊れてしまう。また、ファエンツァの警備は隙がなく、侵入を察知されてしまい、激しい抵抗を受ける。結果、撤退せざるを得なかった。 |
チェーザレは、ファエンツァをミゲルに任せたまま、周辺の城(城塞・要塞)を陥落させていく。
- ルッシ(Russim)
フォルリとファエンツァの間にある、ラヴェンナ寄りの街
同日 | ジャンノーテ、ルッシの城塞を急襲 → 数日前の会談で決定された? |
30日 | チェーザレ、フォルリへ、ラヴァルディーノ城塞へ宿泊 |
31日 | チェーザレ、ルッシへ向かう |
同日 | チェーザレ、布告を出す → すべての兵士はルッシの野営地に向かうこと、従わぬ者は絞首刑に処す |
兵士たちは整然と進軍し、チェーザレの下に集結した。部隊は一団となって陣を張った。
チェーザレは直ちに城塞の周囲に数門の砲を配備し、砲撃を開始する。
これを受け、ルッシの住民たちはチェーザレに使者を送り、これ以上攻撃を加えないよう訴えた。
チェーザレは、パオロ・オルシーニ(Paolo Orsini)の帽子を槍の穂先に刺し、それを壕のそばに立てさせた。
そして、「その帽子がそこにある限り、停戦が成立していることを意味し、互いに立場や要求を表明する時間が与えられるものとする」と通達した。
帽子はその日の夕方まで、そこに留められていた。
この間に、城内の住民たちは評議会を開き、以下のように決定した。
「今後6日以内に援軍が来なければ、我々は城を公爵(チェーザレ)に明け渡す。その保証として、人質8名を公爵に差し出す。」
しかし6日も待たずに数日が過ぎると、8人の人質たちはチェーザレに城を明け渡す旨を自発的に宣言し、自らの全権利を放棄した。
その知らせはすぐにルッシの城代に届けられた。
チェーザレ軍は、パオロ・オルシーニ率いるわずかな兵とともに、ルッシ城に入城した。
その後、ヴィテロッツォ・ヴィッテリと配下の兵士たちが、街を略奪した。
※ 降伏しないファエンツァへの見せしめなのか、チェーザレはファエンツァ周辺の城攻めにおいては、配下の兵士たちに略奪を好きにさせている。
- グラナローロ(Granarolo)
ルッシとファエンツァの間にある街
2月1日 | チェーザレ軍、グラナローロへ → すぐに陣を張る。チェーザレは13時半頃に到着 |
チェーザレは、到着後すぐに城壁をまわり、降伏の意思を問う。が、グラナローロの兵士たちは拒否「降伏はしない。アストーレ様のために戦う」と答えた。 この返答を受け、チェーザレはコロヴリーナ砲(長砲身の大型大砲)を地面に向けて5発撃ち込み、続いて多くのファルコネット砲(短砲身の小型砲)も撃ち込んだ | |
2日 | チェーザレ、さらにグラナローロを砲撃 |
砲撃で城壁が破れる。グラナローロの指揮官は城内に逃げ込む。が、さらなる砲撃を受け、城からも撤退せざるを得なくなる。 → 降伏 | |
チェーザレ、グラナローロの指揮官たち19人を捕虜として拘束 その後傭兵隊長のベネヴェント(Benevente)と配下の兵士たちが街を略奪した | |
同日 | 日没(17時半頃)、チェーザレ軍、ソラローロへ移動 電光石火すぎ!! |
- ソラローロ(Solarolo)
グラナローロとカステル・ボロネーゼの間にある街
着実にファエンツァに近づいている
2月3日 | チェーザレ、ソラローロへ砲撃開始 |
15時半頃まで激しい戦闘が続き、チェーザレ軍の指揮官スペイン人ペティート(Petito)が負傷 | |
同日 | ソラローロ、降伏 |
ヴィテロッツォ・ヴィッテリ率いる軍が入城 ヴィテロッツォはソラローロの指揮官を捕虜とし、砲兵隊長の両手を切り落とし、片眼をえぐり、ファエンツァに送りつけた(ひどい。チェーザレ軍、征服した相手にここまでしたことないよね、ヴィテロッツォ怖) その後、ジャンノーテと配下の兵士たちが街を略奪した | |
これを受け、ファエンツァの兵士たちは籠城中の城から忍び出て、チェーザレ軍の騎兵隊の一部を襲って捕らえた | |
同日 | チェーザレ、コティニョーラ(cotignola)(ソラローロとルッシの間)に宿泊 |
5日 | チェーザレ、イモラへ |
軍の兵士たちも、分散しフォルリやチェゼーナの駐屯地に → 春まで待機する予定 |
2月10日 | ファエンツァ軍、ヴィッラフランカ(Villafranca)に進軍、駐屯していたチェーザレ軍を攻撃 |
2月13日 | ドロテア誘拐事件 |
ヴェネツィア歩兵隊隊長ジョヴァンニ・バッティスタ・カラッチョーロの妻で、ウルビーノ公妃エリザベートの女官であったドロテア・マラテスタ(カラッチョーロ)を、チェーザレが自分のものにしようとして誘拐。 (配下のスペイン人隊長、ディエゴ・ラミレスの仕業であって、チェーザレは関与していない、という説もある。) → 詳しくはドロテア・マラテスタ(カラッチョーロ) | |
17日 | ミゲル・ダ・コレッラ、ファエンツァに奇襲 |
2月17日水曜日の夜、ミゲルとその他大勢の隊長たちが、カンディアーナ門(Porta Candiana)とポルタ門(Porta Ponte)(どちらもファエンツァのラモーネ河にかかる橋。城壁と繋がっていた。現在は残っていない。)から、城内に侵入しようとした。
梯子の準備が整ったのは、午前2時前だった。これでもかというほどの雨が降っていた。
2本を繋いだ梯子を、数人の兵士たちが登った。他の者たちも後に続くはずだった。
しかし、実際には後続する者がなく、呼びかけて誘導しなければならなかった。そのせいで騒ぎが起こってしまった。
この騒音で、門の守衛たちに気づかれ、最初に登った兵のうち4人が捕まってしまう。
(そのうち3人が、カンディアーナ門で絞首刑にされた。
もう1人は、「ローゼ・スパニョーレ(Rose spagnole)」と呼ばれた男で、口が達者だった。
彼は「自分は大金持ちで、後にたっぷり身代金を払う」と言って絞首刑を逃れ、捕虜として扱われた。
しかし彼はロッシで捕らえられていたファエンツァ軍の捕虜と、うまい具合に交換されることになり、身代金を払うことはなかった。)
奇襲に気づいたファエンツァ兵士の反撃により、ミゲル軍に多数の負傷者が出てしまう。その中にはスペイン人指揮官ディオグラミーレ(capitanio Diogramire)も含まれていた。
ミゲルは配下の兵士たちが命令通りに動かず、突入しなかったことに激怒し、可能な限り全員に懲罰を与えた。(鞭打った?かも。訳がどっちとも取れる。)
結局、ミゲルは宿営地に戻り、他の兵士たちとともに「ポストレンゴ(postrengo)」を食べるしかなかった。
この日は「ポストレンゴの日(la zobia postrengara)」だったからである。
この失敗を、多くの者がこう評した。
「もしあの場に公爵(チェーザレ)が居合わせていたならば、突入は確実に成功していただろう。」
というのも、侵入地点の城壁の高さは約10パッシ(cerca dece pedi)(約5m)と低く、壕もなかったからである。
ミゲル…不憫!!
2月 | 撤退を余儀なくされたミゲル、体制を整え直すため1度イモラに行く |
ファエンツァに戻る途中、ブリジゲッラ近くの街道で、トルセッリーノ(Torsellino)の製粉所に向かっていた男たちを襲撃し、火縄銃11丁を押収する。 この報告を受けたチェーザレは、報せを届けたスペイン人兵士に、自分のマント(黒のベルベットで、上部に金の装飾の施されたもの)を与えた。 (※ 「Condottieri di ventura」には「敵の火縄銃兵11人を奇襲して殺害する」となっている。これは、一次史料(フォルリ年代記)に「dom Michelle fece amaciare cercha 11 schiopiterre di quille da Faienza…」とあり、この 「schiopiterre」が武器を意味するだけでなく、兵士を意味する場合もあり得るため、おそらく筆者が一次資料を「兵士」と解釈し表現記述したと思われる。 しかし「フォルリ年代記」にはその後に続けて「その功績に対し、公爵(チェーザレ)がマントを与えた」とある。「11人の銃兵を殺した」という戦果に対して、それほど大仰な褒賞をチェーザレが与えるか?それよりも「火縄銃11丁を鹵獲した」という方が、軍事的・物資的に価値があり、チェーザレが喜ぶ理由になるのでは?と言うことで、「11人を殺した」のではなく、「11丁の武器を奪った」とした。 ) | |
2月24日 | フランス兵指揮官ド・ビニーヌ(de Bignine)2,000の兵とともにチェーザレ軍に加わる |
3月3日 | ミゲル、モンタラーナ門(Porta Montanara)(ファエンツァの南西の門)で、戦闘 |
ミゲル配下の歩兵たちによって護衛されていた、ぶどう畑に向かう旅人たちを、ファエンツァ軍が襲撃したため、戦闘になった。 → 双方合わせて8人の死者 ミゲルが指揮する部隊は、農民や旅人の安全を守るために出動していた。軍事行動の一環としてだけでなく、治安維持や住民保護の役割をも果たしていた。 | |
3月 | チェーザレの講和申込みを、ファエンツァは拒否 |
チェーザレは「ファエンツァ開城の代わりに、アストーレを枢機卿に任命し5千ドゥカートの年金を保証」という条件を出すが拒否される | |
18日 | スペイン人指揮官ディオグラミル(Diogramir)、フォルリ市民と衝突、街全体を巻き込む乱闘となる |
フォルリ市民の訴えを受けた、財務官アレッサンドロ・スパノッキが場を収める。アレッサンドロは、すぐに詳細な報告書をチェーザレに提出 これを受け、チェーザレはラミーロ・デ・ロルカをフォルリに送った | |
26日〜 30日 | ミゲル・ダ・コレッラ、ファエンツァ周辺を略奪 |
ファエンツァ側も常に応戦、一部は、フォルリ領内のカセラーノの村(Villa dal Caserano)にまでやって来て、家畜や薪、木材などを強奪した。 | |
31日 | ロマーニャ地方総督の教皇特使ホアン(ジョヴァンニ)・デ・ヴェラ(Juan de Vera)、フォルリへ |
4月1日 | チェーザレ、ホアン・デ・ヴェラとの面会のためイモラからフォルリへ |
4月 | フェラーラのアルフォンソ・デステ、イッポーリト・デステ兄弟、マントヴァのフランチェスコ・ゴンザーガ、チェーザレ軍に滞在 |
15日 | チェーザレ軍、ファエンツァに総攻撃 → ファエンツァは落ちない |
20日 | チェーザレ軍、城壁の一角を占拠 |
21日 | チェーザレ軍、一斉砲撃 1点に向けて、7時間に渡り砲撃 |
25日 | ファエンツァ、降服 → 住民の安全とアストーレの自由を条件に |
500の兵を率いたミゲルによって城塞は開城。 チェーザレは軍事以外の要職をそのまま据え置く。 | |
27日 | チェーザレはイモラに移動 ミゲルがファエンツァの指揮を任される。 |
アストーレ・マンフェレディと庶出の弟ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタの二人は、捕虜となったが待遇は良く、行動にほとんど制限はなかった。 彼らはチェーザレを慕い(チェーザレの示す好意、厚遇に欺かれ)、この後約1年にわたってチェーザレの側に。ピサやピオンビーノにも同行する。 (チェーザレの態度がどうであろうとマンフレディ兄弟に拒否権はなかったので、彼らの本意は解釈の別れるところ) → 1502年6月、彼らはカステル・サンタンジェロに幽閉された後、9日、首に砲弾をくくりつけられた死体となってテヴェレ河に浮かぶ。ミゲルの手にかかったとされている。 ミゲルはチェーザレの目前で兄弟の喉を切ったという説もある。 |
民衆の支持を得ていたアストーレは、放逐するにも総督や代理官にするにも難しい存在だった。彼がいるかぎり、民心はいつまでもチェーザレの方へ向かない。危険で無用な人間は消し去るのが一番だった。
→ 以前チェーザレについてささやかれていた噂、弟ホアンと義弟アルフォンソの暗殺も、まちがいなくチェーザレの手によったものと受け取られるようになる。
この頃からチェーザレはフランス軍の力を借りずに自軍だけで編成するようになる。
イモラ、フォルリ、チェゼーナ、ペーザロ、リミニ、ファノ、ファエンツァを征服したことで、イタリア半島の南北を結ぶ主要道路、エミーリア街道一帯を支配下においたことに。
残るは北に | ・・・フェラーラ、マントヴァ |
さらに北に | ・・・ミラノ、ヴェネツィア |
西に | ・・・ボローニャ、フィレンツェ |
チェーザレの進撃・・・ボローニャ、フィレンツェ、ピオンビーノ、カプア
次はロマーニャに近接するボローニャとフィレンツェを狙う。
- ボローニャ(Bologna)
- 当主
●ジョヴァンニ・ベンティヴォーリオ
4月26日 | チェーザレ、ボローニャのカステル・ボロネーゼの譲渡を要求 カステル・ボロネーゼは堅牢な城塞で、ロマーニャ内の飛び地にあった |
→ ファエンツァを支える要衝でもあったので、同時に陥す必要があった | |
27日 | チェーザレの命により、ヴィテロッツォ・ヴィテッリ、カステル・ボロネーゼを包囲 |
31日 | ジョヴァンニ・ベンティヴォーリオ、カステル・ボロネーゼをチェーザレに譲渡 |
→ チェーザレはこの城塞を全て壊して更地にしてしまう |
次の狙いはボローニャそのもの。
しかしルイ12世から横やりが入る。
→ ボローニャはフランス王の保護下にあった。(ルイのミラノ征服時に協定が結ばれていた。)またルイはナポリ征服時の駐屯地としてボローニャを重視していたし、チェーザレの勢力が巨大化していくことに危機感を感じてもいた。
ルイ12世の仲裁により、チェーザレとベンティヴォーリオ間で講和成立。
→ チェーザレはボローニャの傭兵隊長として契約
→ チェーザレにとって大きな収益となる
- フィレンツェ(Firenze)
- 共和制
●ピエロ・ソデリーニ
チェーザレ配下のヴィテロッツォ・ヴィテッリ、オルシーニの面々はフィレンツェに対して反感を持っていた。
(ヴィテッリは弟パオロをフィレンツェ政府に処刑されたことにより遺恨を持っており、
オルシーニはメディチ家を支持しており、同家復帰を願っていた。)
彼らはフィレンツェに対する復讐とメディチの復帰をチェーザレに要求する。
→ フィレンツェは対ピサとの戦いで疲弊していたこともあり、恐怖と混乱に陥る。
しかしチェーザレはフィレンツェへの攻撃を見送る。
5月15日 | チェーザレ、ロマーニャ公の爵位を授与される アレクサンデル6世がチェーザレのために新たな称号をつくった |
同日 | チェーザレ、フィレンツェと同盟 チェーザレはフィレンツェの傭兵隊長として契約 |
フィレンツェはチェーザレに3年間、300人の兵と3万6千デュカーティの年金を与えることに。 → フィレンツェはルイ12世保護下にある都市であるので、今すぐに攻め入ることはできない。よってチェーザレは、フランス王に配慮しつつも、フィレンツェの軍事面を握ることによって影響力を増大しようとした。フィレンツェから報酬を得て、フィレンツェの領土に武力を保持し、政府に影響を与えることができるようになったのである。 また、莫大な契約料の不払いを、後々攻撃理由にするという腹づもりもあった。 フィレンツェがこの契約を呑んだのは時間稼ぎであった。(ルイ12世とも年間4万ドゥカートで保護契約を結んでいるので、実際チェーザレに払える金はない) | |
チェーザレはルイ12世に背くことなく、フィレンツェの権力を手に入れた。 | |
しかしヴィテロッツォ・ヴィテッリに、カンピ、シーニャ、エンポリ、ポッジポンジの略奪と破壊を許す。 → フィレンツェが自分を傭兵隊長として雇用したものの、それが建前でしかないことをチェーザレは当然理解していた。ので、「いつでも攻撃できる」ことを知らしめている。 | |
17日 | チェーザレ、フィレンツェ領内から撤兵するようにとルイ12世から度重なる要請を受け、フィレンツェを離れる |
- ピオンビーノ(Piombino)
- 当主
●ヤコポ・ダッピアーノ
5月25日 | チェーザレ軍、ピサへ入る 砲兵隊を引き入れ、海岸地帯へ向かう |
28日 | チェーザレ軍、教皇の船隊と合流 |
6隻のガレー船 3隻のブリガンチン 6隻の小型帆船 | |
6月5日 | チェーザレ軍、エルバ島とピアノーザ島(エルバ島の20キロほど南西にある小島)を占拠 |
チェーザレ軍、ピオンビーノ攻囲 | |
エルバ島、ピオンビーノを手に入れると、アドリア海〜ティレニア海の中部帯状地帯を支配下に置くことになり、海港をひとつ確保することにもなる。 また、ピサと連携すれば、フィレンツェの海路を遮断できる。 → 小国ながらも、重要な都市。 | |
しかしピオンビーノ陥落寸前、ルイ12世はナポリ遠征のためチェーザレに従軍を要請。チェーザレはカプアへ進軍することになる。 (チェーザレはルイとの協定により、従軍の義務を負っている。) | |
17日 | チェーザレ軍、一旦ローマへ ヴィテロッツォ・ヴィテッリとジャンパオロ・バリオーニがピオンビーノでの戦闘を続行 途中(9月、カプア戦が終わり戻って来た)ミゲル・ダ・コレッラも加わる |
3ヶ月後、ピオンビーノ陥落 → ピオンビーノ当主ヤコポ・ダッピアーノはフランスへ逃亡 → ミゲルがピオンビーノ総督に | |
ミゲルは、捕らえられていた男女の多くを無償で解放し、それによって彼の名誉と高潔さを示した。 |
- カプア(Capua)
- 当主
●フェデリーコ・ダラゴーナ
25日 | 教皇、グラナダ協定(ナポリ分割条約)を承認 |
1500年11月11日、フランスのルイ12世とスペインのフェルナンド王の間で、ナポリ王国からアラゴン王家を駆逐し、二国で分割統治しようという協定(グラナダ協定)が結ばれていた。 | |
ルイ12世・・・ナポリ王の称号、カンパーニャとアブルッォを支配下に フェルナンド・・・公爵の称号、プリアとカラブリアを支配下に | |
教皇、ナポリ王フェデリーゴに廃位を宣告 トルコと通じていたという口実で | |
29日 | 教皇、フランス、スペインのナポリ王国に対する同盟が宣言される |
フランスやスペインがナポリを征服したとしても、やがて両国とも統治に失敗し、撤退せざるを得なくなると、チェーザレは読んでいた。その時、ナポリは簡単にチェーザレの手に落ちるはず。それで彼はこの協定を快く受け入れた。 フェデリーゴ王は、同盟するコロンナ一族に支援され、徹底抗戦の構え。 | |
7月8日 | 教皇庁軍(チェーザレ軍)、フランス軍、スペイン軍、ナポリ領内へ進軍 フェデリーゴはサン・ジェルマーノからカプアへ撤退 |
7月24日 | 7月24日 カプア陥落→ 悲惨な落城 |
徹底的な略奪と虐殺が行われる。 老若男女の区別なく、僧侶や修道士、修道女、少女たちまでもを含む4000人余(6000人という説も)の市民が殺害。修道女を含む多くの女性が最安値でローマに売られる。 捕虜はファブリッツィオ・コロンナを除き、全て絞首刑。 | |
→ 指揮官はサン・セヴェリーノであったにもかかわらず、この暴戻はチェーザレの残忍性によるものとされてしまう。 → チェーザレも40人の女性を自分のものとした、といわれる。 | |
8月2日 | フェデリーゴ、イスキア島へ逃亡 後、フランスへ渡り隠遁生活へ |
20日 | 教皇勅書により、アルバーノ、ネットゥーノ、アルデアの街(いずれもローマ南方のあるラツィオ州の街)がルクレツィアとアルフォンソ・ダラゴーナの子ロドリーゴに与えられる |
9月上旬 | カプアにて、ミゲル・ダ・コレッラ、チェーザレと間違われて短剣で暗殺されそうになる。 が、暗殺者の始末をフランス軍に反対され放免する。 |
9月半ば | チェーザレ、ナポリからローマへ ルイ12世に対する従軍の義務を果たしたので、自分の戦闘に戻る。 |
ナポリの敗戦により、同盟者だったコロンナ家の力は衰退。 | |
9月 | チェーザレ、コロンナの所領地を攻撃 簡単に陥落 |
教皇はコロンナの領地をルクレツィアの子ロドリーゴ(アルフォンソとの子)とホアン(ルクレツィアが修道院で生んだとされるインファンテ・ロマーノ(ローマの子)と呼ばれた子。チェーザレもしくはアレクサンデルの子では、という説もある(そのような証書が残っているため))に分け与える。
また、この時期にサヴェッリ家の所領も没収している。
いずれも、「ナポリ王フェデリーコに加担したこと」と「シクストゥス4世の時代から教皇庁に対し敵対してきたこと」を理由に、反逆者として。
→ 教皇領が、その歴史上はじめて、教皇一族の支配化におさまる。
教皇は仇敵の没落を喜び、獲得したセルモネータやカステル・ガンドルフォなどを訪問。この間、摂政としてルクレツィアがヴァティカンの用務を行っている。
ルイに対する義務を果たしたチェーザレは、再び自分の遠大な計画に着手する。
「守るということは、全軍を自分自身の軍でかため、臣下を愛し、近隣諸国を友とすることだ」・・・チェーザレがマキァヴェッリに語ったという言葉。
彼は、友とする国にフェラーラを選ぶ。
→ ロマーニャの北には強国ヴェネツィアの存在がある。その手前にあるフェラーラと結ぶことによって、北側の安全を狙う。
9月1日 | ルクレツィア(21)、アルフォンソ・デステ(24)と婚約 アルフォンソ・デステ・・・フェラーラのエルコレの息子 |
アルフォンソ本人も、フェラーラ公エルコレも、当初はこの結婚を拒否。マントヴァ侯妃のイザベッラ(アルフォンソの姉、エルコレの娘)も大反対。 ルクレツィアは庶出であり、しかも以前の2度の結婚はすべて悲惨な終わり方をしている。 | |
しかし莫大な持参金とフランス王ルイの後押しによって、婚約は成立。 チェーザレの敵となるよりは、同盟する方が安全でもあった。 教皇座の権威と資金力、そしてフランス王の助力を後ろ盾にするチェーザレは、その野心と武勲で知られ、いまやイタリア中から恐れられる存在となっていた。 | |
→ チェーザレは自領ロマーニャに隣接するフェラーラとの提携により、北方の防衛を固めた (北方のもうひとつの国マントヴァとは娘ルイーズを婚約させているので、万全) | |
9月15日 | フェラーラの使節、ヴァティカンに伺候 法律家、ジェラルド・サラチェーニと外交官、エットレ・ベッリンジェリ |
10月16日 | 教皇勅書により、コロンナ家から没収した土地の領有権がボルジアにあることが認められる |
10月31日 | ボルジアの饗宴 チェーザレの居室において、遊女50人を招き全裸の饗宴が開かれた |
12月9日 | イッポーリト・デステ、ルクレツィアを迎えにフェラーラを発つ 500人からなる行列 |
12月23日 | イッポーリトら、ローマに到着 |
12月26日 ~30日 | 結婚の祝祭 サン・ピエトロ広場で。民衆も参加 |
12月30日 | ルクレツィア、アルフォンソ・デステと再々婚 |
アルフォンソの代理で弟のフェランテ ヴァティカンのパウリーナ広間で 教皇、チェーザレ、枢機卿13人が列席 教皇の間での舞踏会、古代劇、賛歌 サン・ピエトロ広場でパリオ(競馬)も行われた |
&size(8){a:7460 t:1 y:0}