ゴンザーガ
ゴンザーガ家 (Gonzaga)
神聖ローマ帝国皇帝から封土され、14世紀初頭からマントヴァを支配していた侯爵家。1530年には公爵家に。
出自が明確でなく、騎士だったという説や下層民だったという説がある。
フランチェスコ2世・ゴンザーガ(Francesco II Gonzaga)
(1466年8月10日 - 1519年3月29日)
フェデリーコ1世・ゴンザーガとバイエルン公アルブレヒト3世の娘マルゲリータ・ディ・バヴィエラとの息子。
マントヴァは名馬の産地として有名だが、1490年頃のゴンザーガ家厩舎には、650頭もいたらしい。
イザベッラ・デステ
ジョヴァンニ・ゴンザーガ(Giovanni Gonzaga)
(1474年 - 1525年9月23日)
マントヴァ生まれ。
マントヴァ侯爵フェデリコ1世ゴンザーガとバイエルン公女マーガレットの三男(末息子)。
フランチェスコ2世・ゴンザーガの弟。
惣領冬実「チェーザレ」に11巻末から登場する。
2人の兄および3人の姉とともにマントヴァの宮廷で育つ。
1478年から1480年までは、人文主義者ジャン・マリオ・フィレルフォ(Gian Mario Filelfo)に、
1482年まで、文学者コロンビーノ・ヴェロネーゼ(Colombino Veronese)に、
兄フランチェスコとシジスモンドと共に教育を受けた。
1484年、父フェデリーコが死去、兄フランチェスコがマントヴァ侯位を継承する。
この時フランチェスコは21歳、ジョヴァンニは10歳。
1489年10月、妹マッダレーナとペーザロ伯ジョヴァンニ・スフォルツァ(ルクレツィアの最初の結婚相手)との結婚式に、フランチェスコの代理として参加。
- 結婚
1491年6月20日、ボローニャの僭主ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオの娘、ラウラ・ベンティヴォーリオ(Laura Bentivoglio)との婚姻を、ボローニャで契約。
同日、義弟アレッサンドロ・ベンティヴォーリオとイッポーリタ・スフォルツァとの結婚式に参加した。
1492年2月頃(10日?)結婚式が行われる。
1492年10月3日、40頭の馬を携えてローマへ向かう。教皇に選出されたアレクサンデル6世に、マントヴァ侯の名で馬を献上し敬意を表した。
1494年初頭、妻ラウラがやっとマントヴァへ移る 。彼女を迎えるために120人の使節団が送られた。
翌年には、2人の最初の子供であるフェデリーコが生まれる。
- シャルル8世のイタリア侵攻
ナポリ王フェルディナンド2世の下で
1494年9月、兄フランチェスコの要請で、50の兵士を率いてナポリ軍に従軍する。(シャルル8世がちょうどイタリアに入った頃。)
ナポリはほとんど無抵抗でシャルル8世を入城させているので、軍事行動はしていない。1495年1月25日に、義姉イザベラ・デステに「こちらでは毎日祝宴と遊びです」と手紙を送っている。のんきすぎ。
1495年5月、ミラノ公ルドヴィーコ・イル・モーロの軍に従軍する。
サンタ・マルグリタ戦、ノヴァーラ包囲戦、サヴォイア領への襲撃に参加した。
1496年4月、50の兵を率いてナポリ王フェルディナンド2世を支援、7月22日にはアテッラ攻略に参加。
同年10月、シャルル8世によりナポリ総督に任命されていたモンパンシエ伯ジルベール(Gilbert de Bourbon)を降伏させる。ジルベールはジョヴァンニの姉クララの夫であった。
義兄と敵対し追放するという悲劇的な状況だった。ジルベールはこの時熱病(ペスト?)にかかり死去している。
- ルイ12世のミラノ侵攻
ヴェネツィア共和国 → ミラノ公イル・モーロの下で
シャルル8世のイタリア侵攻の終結後、ジョヴァンニはマントヴァに戻り、1498年9月にはヴェネツィア共和国の軍務に就いた。
1499年、マントヴァ侯である兄フランチェスコは、隣国であるミラノ公国の情勢を大いに懸念していた。フランス王ルイ12世の拡張政策がミラノを襲っていた。王の目がマントヴァに向けられないようにするため、慎重な態度が必要だった。
しかしイル・モーロとは長年の同盟関係にあり、無碍にすることもできなかった。
フランチェスコは自らがイル・モーロを支援する代わりに、弟ジョヴァンニをミラノへ送り出す。
ジョヴァンニは、イル・モーロがフランスから権力を奪還するのを支援。
1500年2月19日、イル・モーロと共にヴィジェーヴァノ奪還の戦いに参加し、
3月末には騎乗弩兵700人を率いてマリニャーノにて戦った。
しかし4月11日、ジョヴァンニは枢機卿アスカーニオ・マリア・スフォルツァをはじめとする多くのミラノ貴族たちと共に捕らえられ、捕虜としてピアチェンツァへ連行される。
彼は釈放のために身代金3,000ドゥカートを支払った。
イル・モーロの敗北後、兄フランチェスコは、弟ジョヴァンニの行動はあくまで独断であったと弁明し、厳しい叱責をもって処罰することを明言した。
そして実際1500年4月26日、ジョヴァンニは公的に「追放処分(bandito)」を受けた。
フランチェスコ…ひどい!!
ジョヴァンニはマントヴァを去ることとなった。
1500年7月末にはペーザロに、8月初めにはアンコーナに滞在し、そこからフィウーメ(現在のリエカ)へ向かった。
- 対チェーザレ
1502年11月2日、義父ジョヴァンニ・ベンティヴォーリオからの要請を受けて、チェーザレ・ボルジアに対抗するため、100人の武装兵を率いてボローニャに到着する。
しかし、夫フランチェスコ2世・ゴンザーガの不在中にマントヴァで摂政を務めていた義姉イザベラ・デステが強硬に反対。教皇の息子(チェーザレ)に対する軍事行動を厳しく禁じ、命令に背く者は絞首刑に処すと脅した。
チェーザレの睨みがマントヴァに向けば、その後ろには教皇だけでなくフランス王もいる。敵対するには強大すぎた。
幸いにも、ボルジアとベンティヴォーリオとの間の状況は、武力衝突を避けたまま沈静化した。
同年12月19日、ジョヴァンニはヴェネツィア共和国に軍事的奉仕を申し出る。が、受け入れられない。
おそらく、1500年にイル・モーロを支援したことが響いている?
- 教皇ユリウス2世の下で
1503年、ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレが教皇ユリウス2世となると、グイドバルド・ダ・モンテフェルトロが教皇軍総司令官となり、ジョヴァンニはその副官となる。
(グイドバルドはユリウス2世の甥フランチェスコ・マリア・デッラ・ローヴェレを養父であり、ジョヴァンニは養母の弟。縁戚関係による起用ですね。
ちなみにグイドバルドの後の司令官には、兄フランチェスコ・ゴンザーガが任命される。)
1505年1月28日、兄フランチェスコからの指示で、ローマに向かう。
2月13日、教皇宮殿において、姪エレオノーラ(兄フランチェスコの娘)とフランチェスコ・マリア・デッラ・ローヴェレの婚約契約が署名され、公に発表される。
教皇とゴンザーガ家の関係はより強化された。
1505年9月、ヴェネツィアが占領していた領土を奪還するため、ロマーニャに向かう。
1506年9月12日、教皇がペルージャに凱旋入場した際に、その傍らで護衛を務め、その後ボローニャまで随行することに。
しかしボローニャは義父ジョヴァンニ・ベンティヴォーリオの所領で、教皇側のジョヴァンニは図らずとも義父の追放に加担する形になってしまう。
11月1日から2日にかけて、義父ジョヴァンニは家族と共に逃亡した。
1506年11月11日、ジョヴァンニはユリウス2世とともにボローニャに凱旋入場する。
- 神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の下で
1509年、神聖ローマ帝国の仕官となる。
1510年4月30日、皇帝マクシミリアンより帝国軍の総司令官(capitano generale)に任命される。
さらに8月23日には、ラツィーゼの軍司令官および総督に任命された。
これは皇帝に支払い能力がなく、給与の代わりの名目的な称号だったよう。
この時期、兄フランチェスコはヴェネツィアで投獄されていた。
ジョヴァンニはヴェネツィアと密約を結び、兄の釈放を画策しているのではないかと疑われる。
しかしこの頃ジョヴァンニは金銭的に困窮しており、仕事もなく、それどころじゃなかったよう。
1511年初頭、ようやく新たな任務を受ける。
1月にはグルク司教マッテウス・ラングの使節に随行。
6月29日付でヴィチェンツァとその領域の副総督および総督に任命される。
8月5日、200名の騎馬兵を率いてヴィチェンツァに到着した。
1511年10月中旬、50〜60騎でトレヴィーゾの包囲戦に参加した。しかしこれは失敗に終わる。
10月29日、ヴィチェンツァから退去を余儀なくされ、
11月4日にはこの都市がヴェネツィア共和国に奪還される結果となった。
1512年末までヴェローナの副総督を務め、他の2名の帝国顧問と共に「政庁(governo)」を構成した。
- マッシミリアーノ・スフォルツァの下で
1512年11月、イル・モーロの息子マッシミリアーノ・スフォルツァがマントヴァに到着。ジョヴァンニは彼の下で軍務に就く。
12月29日、マッシミリアーノをミラノへ護送し、ティチネーゼ門を通って正式にミラノ公としての入城を果たさせる。
1513年2月23日、若きミラノ公マッシミリアーノは皇帝との合意に基づき、ジョヴァンニに「カエサルの司令官および公軍の指揮官(Caesareus capitaneus ac ducalis armorum gubernator)」の称号を授けた。
これは年1,000金ドゥカートの俸給を、四半期ごとに支払うことを伴っていた。やっと実のある称号が!
翌2月24日、ジョヴァンニとその子孫はピアデーナ、カルヴァトーネ、スピネーダの封地を授封される。
3月30日付の義姉イザベラへの手紙によれば、彼は自分の生活を楽しんでいたよう。
舞踏会が続き、夜更かしが続いていた。イザベラが彼に会った時、あまりのやつれぶりに驚いたらしい。
1513年6月6日、ジョヴァンニとその兵士たちは、ノヴァーラの戦いにおいて、フランス王ルイ12世からミラノ公マッシミリアーノを守るため、活躍する。
戦闘の勝利に感謝し、8月23日、マッシミリアーノからカザルマッジョーレの封地が与えられ、8月26日には皇帝によってその授封が確認された。
1513年および1514年、ジョヴァンニの息子アレッサンドロと、ミラノ公の親族イッポリタ・スフォルツァとの婚姻契約が結ばれる。2,500ドゥカートの年金が持参金として保証された。
また、次男フランチェスコとローディ司教オッタヴィアーノ・マリア・スフォルツァの庶子ルクレツィアとの婚姻も結ばれ、こちらには2,000ドゥカートの持参金が与えられた。
1514年4月20日、カステルディドーネが封土される。
ジョヴァンニのミラノにおける立場は、きわめて強固なものとなっていた。
1515年3月31日付のあるミラノ商人からフランス王宛の報告書には以下のように記されている。「ミラノを支配しているのは4人:
ミラノ公マッシミリアーノ・スフォルツァ、
公の弟フランチェスコ、
公の叔父ローディ司教、
そしてジョヴァンニ・ゴンザーガである。
彼は公爵のように妻と共に城に住んでいる」。
義姉イザベッラ・デステは、ジョヴァンニの権力を頼り、美術品を入手しようとする。
彼女は、最後のペーザロ領主ガレアッツォ・スフォルツァの健康状態が悪いことを知り、彼の古代美術コレクションを手に入れるよう、ジョヴァンニに求めた。
ガレアッツォの相続人はミラノ公マッシミリアーノであったが、イザベッラの要求は叶えられた。ジョヴァンニすごい。
イザベッラはただちにジョヴァンニを自身の代理人に任命し、「盗まれたり隠されたりしないよう」美術品を確保するよう命じた。
しかしこれはガレアッツォ・スフォルツァの死の3日前だった。イザベッラひどい。
1515年5月、ジョヴァンニは戦闘で負傷し、マントヴァで治療を受けた。
7月30日、対ヴェネツィア戦で、スフォルツァ軍の司令官に任命される。
アッダ川を渡り、ローディで1,000人の歩兵と200人の騎兵を率いて戦闘に参加した。
9月3日、枢機卿マッテウス・シャイナー(Matthäus Schiner)と共にモンツァへ向かう。
9月14日、マリニャーノの戦いでの敗北する。
しかし、ジョヴァンニは最後までマッシミリアーノ公への忠誠を貫く。
彼は数少ない同胞と共に、スフォルツァ城の包囲にさらに3週間耐える。
10月4日、マッシミリアーノは降伏し、退位を決断した。
10月11日、フランス王フランソワ1世がミラノに凱旋入場する。
政権移譲の交渉の中で、2つの事情がジョヴァンニにとってかなり幸運な立場をもたらす助けとなる。
マッシミリアーノ公が彼に好意的だったこと、
そしてフランス軍の司令官であるモンパンシエ公シャルル・ド・ブルボン(Charles de Montpensier, duc de Bourbon)が、ジョヴァンニの姉キアラの息子であり、ジョヴァンニの実の甥であったことである。
ジョヴァンニはフランス王の下で、50騎の槍騎兵と100人の弓兵からなる小部隊の指揮を執るかたちで雇われ、年金として2,000スクードを与えられることになる。
失脚したミラノ公に仕えてたのに、何の損失もなし?思うけど、これは単なる一軍の隊長に過ぎず、いつでも交代させられ得る存在だった。
また、カザルマッジョーレの封土は没収された。
- フランス王フランソワ1世の下で
1516年12月8日、フランソワ1世は元帥オデ・ド・フォワに宛てて書簡の中で、ゴンザーガ(ジョヴァンニ)が槍騎兵300と歩兵2000を率いてパルマに派遣されたと述べている。
1517年4月にはリミニ周辺にいたとされる。
1519年には、ノヴェッラのゴンザーガ家からヴェスコヴァートの封土を購入し、
1521年、神聖ローマ皇帝カール5世からその売買の承認を受けた。
これを機に、ジョヴァンニは「ヴェスコヴァートの領主(signore di Vescovato)」となる。
1520年11月初頭、ミラノに赴き、フランス総督オデ・ド・フォワに臣従の礼を捧げる。
だが、1521年8月には、甥であるマントヴァ侯フェデリーコ2世の下に、槍騎兵50を率いて仕えるようになり、フランス側ではなくなっていた。
- マントヴァ侯フェデリーコ2世の下で
1521年10月28日、800騎の騎兵と6万ドゥカートを携えてメドーレに到着する。
6万ドゥカートは、「ドイツ軍の陣営」の兵士たち——ドイツ人やスイス人——に支払うための資金だった。
ジョヴァンニは兵士たちと枢機卿マッテウス・シャイナーに合流し、
1522年4月27日、ビコッカの戦いでフランス軍を打ち破り、ミラノを奪還する。
1522年5月27日、かつてリミニの領主であったパンドルフォ・マラテスタは息子のシジスモンドと共にリミニに戻り、短期間ながら支配を再興する。が、1523年3月5日には再びリミニを去ることを余儀なくされた。
ジョヴァンニはマントヴァ侯フェデリーコと協力し、パンドルフォの息子シジスモンドを安全に避難させた。
シジスモンド・マラテスタはジョヴァンニの義姉ヴィオランテ・ベンティヴォーリオの子であり、ジョヴァンニの甥であった。
1523年9月、ジョヴァンニの息子アレッサンドロがマントヴァ軍600人の指揮を執っていた。
おそらくこの時、ジョヴァンニは軍務から引退していたと思われる。49歳だった。この年、妻ラウラが亡くなっている。これでガックリきちゃったのか?
1525年9月23日、マントヴァで死去。死因は不明。
サン・フランチェスコ教会に埋葬された。
5人の息子と3人の娘を残した。
5人の息子のうち、シジスモンド1世が家系を継ぎ、彼の息子シジスモンド2世は1559年に初代ヴェスコヴァート侯となった。
ジョヴァンニは、ヴェスコヴァート侯および公の家系の始祖である。
この分家は、一時は数多く分岐していたゴンザーガ家の中で、現在も存続している唯一の家系である。
ジョヴァンニすごい!
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