1499年〜1500年
1499年〜1500年
チェーザレの進撃・・・イモラ、フォルリ
チェーザレ軍の旗印
Aut Cesare aut nihil
(チェーザレ(=皇帝の意味をも持つ)か、無か)
アレクサンデル6世はローマの貴族カエターニ家の所領地セルモネータを没収。同地をルクレツィアに与えた。
続いて、教会税の未納を理由に、ロマーニャ諸都市の領主を破門。
チェーザレの進撃理由「教皇領を教皇の手に」という大義名分が作られる。
(当時の教皇庁は政治的にも軍事的にも脆弱だった。ので僭主が多く台頭し、直轄地はチェゼーナとファノだけだった)
1499年(24歳)
11月9日 | チェーザレ、イモラ、フォルリ攻略に向けてミラノを発つ |
イモラとフォルリはカテリーナ・スフォルツァの所領。 -1・イル・モーロの敗走によりスフォルツァの力が衰退 -2・フォルリはロマーニャ地方の要 という2点で第一の攻略先となる。 | |
ピアチェンツァ → パルマ → レッジョ → モデナと行軍。 |
- ルイ12世に借りた軍
イヴ・ダルグレ率いる1700の槍騎兵
アントワーヌ・ド・ベーセ、バリ・ディ・ディジューノ率いるガスコーニュとスイスの歩兵4000 - イタリアの傭兵隊長の軍
アキッレ・ティベルティ
エルコレ・ベンティヴォーリオ
ヴィテロッツォ・ヴィテッリ
ジャンパオロ・バリオーニ総勢1万6000
11月25日 | チェーザレ、イモラ入城 イモラの民衆はカテリーナの弾圧と恐怖政治を憎んでいたので、抵抗は皆無 |
12月13日 | イモラ陥落 イモラの武将ディオニージ・ディ・ナルドは後にチェーザレの側近に |
12月19日 | チェーザレ、フォルリ入城 → カテリーナは2000の兵とともにラヴァルディーノの城塞にこもる |
12月26日 | カテリーナの姦計、失敗 |
無血開城を望むチェーザレは、城塞の跳ね橋の前で、カテリーナに降服をうながす。カテリーナは言葉巧みに彼を城内にいざなう。チェーザレが橋を渡るや否や、跳ね橋を上げ、捕虜としてしまおうという企み。しかしカテリーナの兵士はチェーザレが渡りきる前に橋をあげ始めてしまい、姦計は失敗に終わる。 |
1500年(25歳)
1月12日 | チェーザレ軍、城塞に突入 |
カテリーナは甲冑をつけ剣を構え自ら前線に立つ。抵抗が不可能とわかった時、自分ごと城を爆破しようとするが、味方の兵士の裏切りにより降服、捕虜となる。 | |
→ フォルリ陥落 400(700という説も)の死者。 | |
「チェーザレはカテリーナとともに一昼夜寝室にこもった」と言われるが、これはフォルリ陥落を聞いたフランス人武将が口にした下品な冗談に、尾ヒレがついたものと思われる(ラファエル・サバティーニ「The Life of Cesare Borgia」より) |
チェーザレは従来当然のように行われていた、征服地での略奪を厳しく禁じる。違反者は将校であっても死罪とした。
→ 民心をつかむため→後にマキァヴェッリが「君主論」にて賞賛
そして総督と城代は自分の部下を配置したが、それ以外の代表委員会や長老は従来のままにし、行政を任せた。
→ イモラとフォルリの総督にはラミーロ・デ・ロルカを任命。
カテリーナはローマに送られ、カステル・サンタンジェロに幽閉される。
1月14日 | チェーザレのいとこ甥のホアン・ボルジア(シレンツィオ)、死去 |
チェーザレの勝利を祝福するために、ウルビーノからフォルリへ向かっていた。その旅の途中、フォッソンブローネにおいて、熱病により死去。 チェーザレによる暗殺説などがささやかれたが根拠は全くない。 | |
23日 | チェーザレ、ペーザロ攻略に向け、フォルリを発つ |
エルコレ・ベンテヴォーリオとスペイン人傭兵のカルドナが800の騎兵とともにフォルリに残る | |
しかしチェゼーナに着いたところで、フランス兵4千300がミラノへ引きかえすことに。 → イル・モーロ(ルドヴィーコ・スフォルツァ)が神聖ローマ帝国皇帝マクシミリアンの援助を受け、スイス傭兵隊を率いてコモを占領、ミラノ城外に迫っていた。 → イヴ・ダルグレ指揮下のフランス軍はこれに対抗するため、ミラノへ。 → ペーザロ進軍は一時停止を余儀なくされる。 | |
2月 | 2日にファノを通過し、フラミニア通りからウルビーノに入り、12日にカーリとトレヴィを通過してローマに向かう |
2月26日 | チェーザレ、ローマへ凱旋帰還 |
戦利品を積んだ荷車 フランス王の白百合の紋章をつけた伝令官とボルジアの牡牛の紋章をつけた伝令官 スイス槍兵 騎馬隊 護衛隊 幕僚を従えたヴィテロッツォ・ヴィテッリ 黒繻子の胴衣をまとい聖ミカエル騎士団の勲章を首にかけたチェーザレ 枢機卿、大使、聖庁秘書官、市吏員らがポポロ門で迎える。 サンタンジェロの祝砲、教会の鐘が鳴り響く。 |
1500年は聖年であったため20万人もの巡礼者がヴァティカンを訪れ、教皇からの祝福を受けた。教会の(つまりアレクサンデルとチェーザレの)金庫は信者たちの供物でうるおった。
フォッソンブローネで急死したホアン・ボルジア(シレンツィオ)の遺体は、1月27日、ローマへ運ばれサンタ・マリア・デル・ポポロ教会へと埋葬された。
チェーザレの凱旋に湧いていたせいか、葬儀も追悼式典も行われない寂しい埋葬だった。
3月9日 | チェーザレ、ロマーニャの教皇代理官に任命 |
29日 | チェーザレ、教皇軍総司令官に任命 「金のバラ」「教会の旗手」の称号も授与 |
6月24日 | チェーザレ、闘牛をする 聖ヨハネの日、カーニヴァルの催しのひとつとして、サン・ピエトロ広場にて |
6月29日 | ヴァティカンに落雷 → 3人死亡。アレクサンデル6世、頭に怪我 |
この出来事はチェーザレに警鐘を鳴らす。すなわち、教皇である父を亡くした時、チェーザレの地位はいとも簡単に崩れ去ってしまう。彼は教皇にもしものことがあった場合を鑑み、ヴェネツィアとフランスに支持の確約をしている。 | |
7月15日 | ビシュリエ公、アルフォンソ・ダラゴーナ襲撃される |
→ サン・ピエトロ広場にて 落雷により怪我を負った教皇を見舞い、妻ルクレツィアと妹サンチャと、夕食をともに過ごした帰途、数人の刺客に襲われる。頭と右腕と脚を刺され、重傷を負う。 | |
8月16日 | チェーザレ配下の傭兵隊長パオロ・オルシーニ、ファビオ・オルシーニ、ヴィテロッツォ・ヴィテッリ、ジャンパオロ・バリオーニ、ルドヴィーコ・アッティ、アルヴィアーノら、アックアスパルタの城を砲撃 |
アックアスパルタのアルトベッロ・ダ・カナーレは、皇帝派の反ボルジアで、反乱を扇動していた。が、城は陥落し民衆によるリンチの末に殺害された。 これを皮切りに、チェーザレの勢力はウンブリア中南部でも本格化し、反乱勢力が鎮圧されていくことになる。 | |
8月18日 | アルフォンソ・ダラゴーナ死亡 |
ヴァティカン内のボルジアの間で看護され、回復に向かっていたが、ミゲル・ダ・コレッラの手によって絞殺される。 | |
チェーザレは、 「ビシュリエ公は私を殺害する陰謀を企てていた。ゆえに今度の事件は正当防衛である」 と公式弁明をだす。 |
アルフォンソ暗殺におけるチェーザレの動機
- フランスと手を結んだ今、ナポリ王家と関係を保持する意味は失われた
- ルクレツィアが夫を亡くせば、再び利用できる
- ルクレツィアがナポリとつながっているせいで、教皇が反ナポリに踏みきれていない
- ナポリ征服を狙うルイ12世に忠誠を示す
- 反教皇の立場を崩さないコロンナ一族と親しい関係にあった
8月31日 | ルクレツィア、ネピの城にこもる → 11月まで |
9月 | アレクサンデル6世、新たに12人の枢機卿を任命 |
教会に納められる謝礼は、チェーザレの戦費に (他にも十字軍遠征を理由にユダヤ人や聖職者に多額の税を課している) |
その頃、ミラノ公イル・モーロは再びフランス軍と激突するも、ノヴァラにて完敗。4月10日捕虜となる。ミラノは再びフランスの都市に。
イル・モーロは以後フランスのロッシュの塔に幽閉され、捕囚生活を送り、10年後その生涯を終える。
(弟のアスカーニオ枢機卿も捕われ、フランス、ブールジュのボルジェスの塔に幽閉される)
→ ミラノの軍師だったレオナルド・ダ・ヴィンチはこれで後ろ盾を失い、やがてチェーザレの許を訪れることになる。
チェーザレの進撃・・・チェゼーナ、ペーザロ、リミニ、ファノ、ファエンツァ
1500年(25歳)
フランスのミラノ攻略完了
→ チェーザレは再びフランス軍の力を借りることができるように
→ 第2次攻略へ(教会の現金収入で資金も潤沢)
目標はロマーニャ地方の残り、チェゼーナ、ペーザロ、リミニ、ファノ、ファエンツァ
- チェゼーナ(Cesena)
- 2大勢力
●ティベルティ家
●マルティネッリ家両家に対し、教皇の関心が相手側に向いているとの偽情報を流す
→ 両家の争いから血の流れる事件に
→ 解決のため、教皇は新たな支配者の必要を説く
8月2日 | 教皇教書により、チェーザレ、チェゼーナの領主に ローマから一歩も動かずに! |
8月8日 | アレクサンデル6世、 リミニのマラテスタ家 ファエンツァのマンフレディ家 ペーザロのスフォルツァ家、を破門 |
→ 攻撃の前段階 → ヴェネツィアからの抗議はなし(ヴェネツィアはこれらの都市を保護する立場にあった) | |
8月18日 | ヴェネツィア、アレクサンデル6世の要請に応じチェーザレをヴェネツィア貴族に列する → チェーザレ側(フランス、教皇側)に立つことを公に示す |
9月28日 | アレクサンデル6世、新たな枢機卿12人を任命 |
→ 枢機卿は礼金を支払うので、12万ドゥカートがチェーザレの軍費に また新枢機卿の半数はボルジア派のスペイン人 | |
9月30日 | 9月30日 チェーザレ、自軍を閲兵 サン・ピエトロ広場にて |
40隊の精鋭兵から成る。 イヴ・ダルグレ率いるフランス軍 ミゲル・ダ・コレッラ ヴィテロッツォ・ヴィテッリ ジャンパオロ・バリオーニ ジュリオ・オルシーニ パオロ・オルシーニ ジャンバッティスタ・コンティ エルコレ・ベンティヴォーリオなどの率いる傭兵軍 その他多くの指揮官の下に8000の兵士 | |
アレクサンデル6世も臨席し、軍勢をm祝福 | |
同日 | チェーザレ、自軍の出征を見送る |
10月1日 | 16時(現在の11時)、チェーザレ、ローマを出発 |
フラミニア街道を北上、カステルヌオーヴォ(Castelnuovo)(ペルージャ近郊)へ | |
ヴィテルボ周辺の小都市を制圧中だったヴィテロッツォ・ヴィテッリと合流する |
この時、チェーザレ配下のスペイン人兵士たちには、通り道であったペルージャで略奪や暴虐行為を行い、バリオーニから相当睨まれている。
- ペーザロ(Pesaro)
- 当主
●ジョヴァンニ・スフォルツァ(ルクレツィアの最初の夫)
10月10日 | ペーザロ市民、チェーザレを支持して暴動を起こす |
前年、チェーザレがイモラとフォルリを征服した時から、ペーザロへの進軍も噂されていた。 ペーザロ伯ジョヴァンニ・スフォルツァは、ヴェネツィアに保護を求めたが、拒否される。疑心暗鬼になったジョヴァンニは「所領の城を教会(チェーザレ)に引き渡そうとした」罪で、7人もの廷臣を絞首刑に。 民衆はジョヴァンニにを追放し、チェーザレを新領主として迎え入れる方向に動いていた。 | |
11日 | ペーザロ伯ジョヴァンニ・スフォルツァ、逃亡 → ラヴェンナを経て15日にボローニャ、次いでマントヴァ、最終的にヴェネツィアへ |
13日 | チェーザレ、ペーザロの領主に選出され任命される → ペーザロ市民によって |
21日 | チェーザレ軍、ペーザロとラヴェンナを占拠 |
22日 | チェーザレ、ファノへ到着 砲兵隊の到着を待つ |
大砲は全部で15門あり、教皇の命で製造された紋章入りの最新兵器だった。 口径30センチほどのもの=2門 25センチ弱のもの=5門 13センチのもの=8門 指揮官はヴィテロッツォ・ヴィッテリで、彼は自分用の大砲を所持していた | |
23日 | ペーザロの城塞も開城 |
27日 | チェーザレ、ペーザロへ無血入城 → 午後4時、土砂降りの雨の中 |
チェーザレの入城は威風堂々で、ペーザロ市民に好印象を与えた | |
29日 | チェーザレ、ペーザロを発つ |
グラダーラに一泊し30日リミニへ |
- リミニ(Rimini)
- 当主
●パンドルフォ・マラテスタ(暴君であり、民衆の支持なし)
10月10日 | チェーザレ、リミニの領主に任命される パンドルフォ・マラテスタによって |
チェーザレがローマを出発した時から、パンドルフォは交戦を放棄して、リミニを譲渡することを決めていた。パンドルフォは一族とともにヴェネツィアに逃亡 | |
30日 | チェーザレ、リミニへ無血入城 |
チェーザレは防衛施設を点検し、市民生活の平穏化に努める。 |
- ファノ(Fano)
城塞の引渡しを命じるが城代は拒否
→ 砲撃と略奪と放火
→ あえなく降服
→ イタリア諸国の、チェーザレに対する恐怖が高まる
10月 | グイドバルド・モンテフェルトロ、チェーザレ軍に200の牽牛と300の荷馬車を提供 |
10月24日 | ウルビーノ公爵夫人、カルマッツォにてチェーザレ軍を見送る |
30日 | サン・マリノの領事、リミニへ向かうチェーザレ軍にワインと糧食を提供 |
- ファエンツァ(Faenza)
- 当主
●アストーレ・マンフレディ(15)若さと美貌、幼少時の悲劇により、民衆に人気
→ 当初ラヴェンナに逃亡しようとするが、臣民が少年の下に一致団結、抵抗することに
→ チェーザレにとって何千の兵より手強い敵になるまた、裏ではアストーレの祖父であるジョバンニ・ベンティヴォーリオが1000の兵を送り支援していた(カステル・ボロネーゼを経由してファエンツァに送られた)
4月22日 | ヴェネツィア、ファエンツァに対する保護を打ち切る |
5月11日 | アストーレ・マンフレディ、元老院を招集 |
チェーザレへの対応を協議。最終的にあらゆる方法と手段をもって攻撃に備えることに。 城塞を補修し、砦の建設に着手 | |
10月半ば | ベンティヴォーリオ、ファエンツァに使者グイド・トレッラ伯を派遣、人員と資金両面でアストーレを支援することを表明 |
24日 | アレクサンデル6世、ベンティヴォーリオの動きを知り、ファエンツァに干渉しないよう牽制 |
→ ベンティヴォーリオは自領カステル・ボロネーゼに送るふりをしてファエンツァに派兵 | |
31日 | チェーザレ、ディオニージ・ナルドをブリジゲッラに派遣 |
→ ファエンツァ攻略の布石。ディオニージはファエンツァ近郊ブリジゲッラの出身。彼を送り込み、周辺の9つの要塞を押さえさせた。 | |
11月2日 | チェーザレ、チェゼーナへ |
→ アッキレ・ティベルティ、ポリドーロがチェーザレを歓迎し称える祝祭を開催 | |
4日 | チェーザレ、フォルリへ |
チェーザレ軍は、フォルリ、イモラ、チェゼーナ、などの諸都市に別れて宿営。 フォルリにはチェーザレの親衛隊である騎兵500と多数の歩兵 |
11月6日 | チェーザレ、フォルリにて自軍を閲兵 模擬戦なども行う |
7日 | ヴィテロッツォ・ヴィテッリ、チェーザレ軍の先陣としてブリジゲッラを攻囲 |
10日 | チェーザレ軍、フォルリからファエンツァに進攻 |
同日 | チェーザレ、傭兵隊長たちに報酬を支払う |
チェーザレの財務官アレッサンドロ・フランシが、35,000ドゥカートを送金 ファエンツァ攻略前に、兵士の士気を上げておきたかったのかな?賢い | |
13日 | ヴィテロッツォ・ヴィッテリ、ファエンツァの西方オリオーロ(Oriolo)を攻略 → 城塞の引き渡しを拒否されたので、砲撃し略奪 |
14日 | チェーザレ軍、オリオーロ近郊の川沿いに宿営 |
16日 | チェーザレ軍、ファエンツァの城門porta da Spitale近くの川沿いに宿営 チェーザレはジャコメ・ディモーネ(Iacome Dimone)の家に宿泊 |
17日 | チェーザレ軍、ファエンツァに砲撃開始 スピターレ門と北西の塔を狙って |
街の東、ラモーネ川とマルツェーノの間を通って大砲を設置していた。そのためにいくつかの家屋を取り壊す。 | |
ファエンツァの城代カスタニーニ、裏切りの容疑で投獄される 城内で降伏条件の記された紙片が発見されていた。アルバレスト(大型のクロスボウ)で城内に撃ち込まれていたその紙片はカスタニーニ宛てだった (チェーザレの策略だったらすごい) | |
19日 | 大々的な砲撃 |
20日 | 17日からの続く砲撃により、城壁が崩れ突破口が開く 突然のことだったので指揮官がおらず、兵士たちは砲撃が止むのも待たずに突撃してしまう |
→ 現場は混乱し大量の死者 → チェーザレの士官の一人、オノーリオ・サヴェッリ死亡 | |
この時チェーザレは朝食中で、騒々しさで事態に気づき急いで収拾しようとするが、興奮した兵士たちを退却させるのに一苦労だったよう | |
チェーザレ、砲撃での事故についてグイドバルド・モンテフェルトロに愚痴る手紙を書く | |
22日 | 雪が降り始める |
ファエンツァの守りは堅固。さらに大雪という悪天候がチェーザレ軍の前進を阻止する。雪は目の前にいる人物の顔が識別できないほど吹雪いた。 → ファエンツァは城塞周辺の樹木や家屋を焼き払っており、野外での宿営も困難に。 | |
ファエンツァ軍ファエンツァ勢も嵐と極寒に耐えることが厳しくなり、何とか状況を打破しようと城外への出撃を試みた。 しかしチェーザレは、昼夜を問わず警戒しており、小競り合いにしかならなかった。 → しかしこれらの小競り合いでもチェーザレ軍に4名、ファエンツァ軍に5名死者が出る | |
23日 | ファエンツァ軍再出撃、激しい戦闘となる → 双方に戦死者が増える |
ヴィテロッツォ・ヴィッテリ、砲兵隊を再配備 城塞から1キロ弱南東にあるドゥオーモ付近に移動させ、監視と攻撃しやすくした。(ヴィテロッツォ、めちゃくちゃ活躍してる!) |
24日 | チェーザレ、フォルリにトランペット隊を派遣 「戦場を離脱した兵士は速やかに戻ること、違反した者は絞首刑に処す」と公布 ※ 多くの兵士がフォルリとラヴェンナの間で逃亡していた |
25日 | ファエンツァ、さらなる大雪に |
チェーザレ、砲兵隊を退却させる | |
チェーザレ、配下の将官や傭兵隊長を招集 |
チェーザレのスピーチ
Signor mio amantissimo, la casone che io ve ò convocato si è per farve intendre come a mi pare de volere per al presente metre fine a queste nostre ceanbello, dapo’ che in tuto la fortuna si è nomica, e seguire al tempo, e qui lasare fare fortuna ; perché donde fortuna vole, sapere non vale. Consentire non voglie per mode alcune che tante homine da bene per mi periscano.
「最も愛する我が諸君、私が君たちを召集した理由は、私の考えを知らせるためである。すなわち、今この時において、我らのこの小競り合いを終わらせたいと私は思っている。
というのも、すべてにおいて運命が我らに敵対しており、時勢に従い、ここで運命に任せようと思うからである。
なぜなら、運命が望むところでは、知恵など何の役にも立たぬからである。私は決して望まぬ、これほど多くの善良な人々が私のために滅びることなどを。」
26日 | チェーザレ、ファエンツァ攻囲を中断 |
攻囲から封鎖に変更 → 街に通じる全ての道を封じ、物資や人員を遮断 ミゲル・ダ・コレッラが指揮 | |
→ ジャンパオロ・バリオーニは勝手にペルージャへ帰ってしまう (当時の傭兵とはこんなものだった) | |
チェーザレ、ファエンツァに降伏を求める使者を派遣 しかしファエンツァは拒否 | |
チェーザレ、150の槍騎兵と2500の歩兵を率いてフォルリに撤退 → 街の封鎖はそのままに | |
フォルリにて、チェーザレは川沿いのLufo Nomaglie宅に宿泊。 ミゲル・ダ・コレッラはその近くの染物師グラーテ(Grate tintore)の家に宿泊 親衛隊(guardia)は、川沿いの一帯に配置され、ラヴァルディーネ門(Porta di Ravaldine)からコドーニェ門(Porta di Codugne)までに渡って配置された。 残りの兵はフォルリ北西のスキアヴォニア(Schiavonia)地区に。全2,500の兵。 | |
28日 | チェーザレ、フォルリの議会を招集 → 戦役で被ったフォルリの甚大な被害を見て、救済策を講じる |
チェーザレのスピーチ
Signori nostri Anziani, la ragione per la quale vi ho convocati in questo luogo è per farvi comprendere quanto io mi dolga del grande danno che vi abbiamo causato e che potremmo ancora causarvi.
E se mai, in futuro, io potrò avere il possesso della città di Faenza in modo stabile, vi dimostrerò quanto veramente vi abbia amato, risarcendovi per ogni nostro grande danno.
Attualmente, sono costretto ad abitare in questa nostra città con una guarnigione, composta da circa 150 uomini d’arme e 2.500 fanti.
E poiché questi sono male equipaggiati, siamo costretti ad alloggiarli nelle nostre case, condividendo con loro il letto.
Per questo, vi prego cortesemente che ci si debba fornire loro solamente letto, fuoco e luce, mentre per tutto il resto siano essi stessi a pagare generosamente.
Inoltre, ordino che voi Anziani dobbiate stabilire i prezzi di tutti i beni di prima necessità.
「我が長老たちよ、私がここに君たちを召集した理由は、我々が君たちに与えた、そして今後も与えるであろう甚大な被害について、私自身が大いに心を痛めていることを伝えるためである。
もしも私がいつの日かファエンツァの町を手に入れ、そこに留まることができるならば、私が君たちを心から愛していることを示すであろうし、これまで君たちに与えたすべての大きな損害を補償するつもりである。
しかし、今現在、私はどうしてもこの町に滞在しなければならず、また私の親衛隊も同様である。
彼らの数はおよそ150名の騎兵であり、さらに2500名の歩兵がいる。
そして、彼らは適切な衣服を持っていないため、やむを得ず君たちの家に住まわせ、共に寝食をともにしなければならない。
そこで、私は心から君たちに願う。どうか彼らに寝床と暖房、そして灯りを提供してほしい。
その他の費用については、彼らが自ら支払うことになる。 また、君たち長老には、すべての食糧価格を定めるよう命じる。」
小麦(grano) | 30ソルディ |
---|---|
大麦(orzo) | 26ソルディ |
スペルト小麦(spelta) | 18ソルディ |
パン | 24ソルディ |
ソラマメ | 20ソルディ |
ワイン 1アザッラ(一般的な小売り単位) 壺1杯分(2~4リットル?) | 24ソルディ |
廉価品ワイン 1樽 | 12ソルディ |
ワイン 1杯 | 10デナリ(0.83ソルディ) |
その他の食品 | 慣例的な価格に従う |
しかしこの価格は格安すぎたようで、人々はこの価格で食糧を提供することを拒否した。
布告の翌日には、市内でパンやワインを見つけることができなくなり、兵士たちの略奪が危惧された。
市当局は、宮殿の地下に保管していた穀物倉庫(戦時のために蓄えられていた外国産の食糧)を開放し、販売を開始することを余儀なくされた。
12月1日 | チェーザレ、農地や家屋の保護を目的とする新たな布告を出す |
兵士たちは、果樹の枝を切り取ったり、家屋を破壊してはならない。これに違反した者は、公爵の怒りを買うことになる。 また、軍務に就いている者以外は、いかなる種類の武器を持ってはならない。違反者には処罰が科される。 | |
12月4日 | チェーザレ、価格改定の新たな布告が出す |
パンやワインを適正な価格で販売することが許可された。食糧供給は安定し、以降不足は発生しなかった。 | |
7日 | チェーザレ、上記の命令に背いたピエモンテとガスコーニュの2人の兵士を絞首刑にする |
13日 | さらにもう1人が違反し絞首刑に |
フォルリはこれまで何度となく戦場となり略奪されてきた街だった。
チェーザレは自分の所領となったこの地を、これまでとは違うやり方で施政し治安を維持する必要があった。
そのため、
チェーザレは民衆に、兵士にはベッドと明かりと火(暖)だけを貸与するように依頼し、それ以外のものは有料とするようにした。兵士たちには身銭で支払うように厳命した。
そして、価格に関する争いを避けるために、評議会に料金表を作成させた。
また、兵士たちに民衆の財産・家や食べ物・生活必需品・彼らの妻や子どもたちに手出しすることを禁じた。違反者は死罪とした。
fece intendre a tute sove zente e Comunitate hogne cosa fata per dite Conselio, a ciò che hogn’ ome s’ avese a guardare dala mala ventura.
「誰もが不幸を招かぬよう、自らを律すべしとの警告であった。」
「フォルリ年代記(CRONACHE FORLIVESI)」
アンドレア・ベルナルディ(Andrea Bernardi)
かっこいい表現!
12月24日 | チェーザレ、チェゼーナに移動 |
フォルリの街に負担を強いていることを見て移動した フォルリには代理官(Locotenente)としてトラーニの司教ジョヴァンニ・ボルジアと、補佐としてミゲル・ダ・コレッラが、9隊の部隊(2,000の歩兵)とともに残された ミゲルはチェーザレの手本に従って、兵士たちを厳しく統制した | |
同日夜 | チェーザレ、晩餐会を開く |
クリスマスイヴであったので、チェゼーナの評議会や街の要職にある人々を招いて豪華な晩餐会を開いた → マラテスタの城塞にて | |
その後もチェーザレは民衆に混じってこの地方の祭りや馬上槍試合などの娯楽を楽しむ 彼の分けへだてない態度は、民衆の間に絶大な人気を獲得した |
フォルリでのミゲル
12月24日16時頃、フォルリの北東スキアヴォニア地区(Schiavonia)で、ミゲルは靴泥棒の男を逮捕し、同日夜、宮殿前の広場(おそらくマッジョーネ広場 Piazza maggiore、現在のアウレリオ・サッフィ広場 Piazza Aurelio Saffi)で、絞首刑にした。
靴職人クリストファノ・デ・ベーゾの息子ベーゼ(Bese de Cristovano de Beso)は、通常の価格より銀貨1枚分高い値段で、靴を売ろうとしていた。
(チェーザレ軍が駐屯したことで、物価が高騰していた。しかし銀貨1枚分はふっかけすぎだと思われる。)
客の男は「今は持ち合わせがない。次に来た時に支払う」と言って、靴を持って行こうとした。
靴職人は怒り、男を追いかけ靴を取り返そうとした。
(客の男はフォルリの人間ではなく兵士(よそ者)だったのかな。街の人ならこのくらいのツケはききそうだもん。)
口論から揉み合いとなり、騒ぎを聞きつけた周囲の住民たちが飛び出して来て、乱闘となった。
住民の通報を受けて駆けつけたミゲルは、つかみ合っている群衆の中に割って入り、金を支払わず靴を持って行こうとした男の髪を引っつかんで捕らえ、拘束した。
同じ頃、スキアヴォニア地区の東隣サン・ビアージョ地区(San Biagio)でも、問題が生じていた。
チェーザレ軍の指揮官の1人、ジャンノーテ(Gianote、Zianote、Zanote)と彼の配下の兵士たちが、支払いの義務を怠っているとして、住民たちが代理官であるトラーニの司教ジョヴァンニ・ボルジアに訴えたのだ。
住民の1人は「代金の代わりにいただいて行く」と、ジャンノーテ宅の梁を持ち去ろうとした。
代理官は慌ててそれを止めようするが、男は剣を抜いた。代理官は彼を逮捕しようとした。
しかし、不満を抱えていた周囲の住民たちはみな、梁の男を支持した。ので、代理官はそもそもの原因であるジャンノーテを探すことにした。
サンタ・クローチェ地区(Santa Croce)(ドゥオーモ周辺)のフランチェスコ・デ・セル・ウーゴ(Francesco de Ser Ugo)の屋敷に、ジャンノーテは滞在していた。
「大尉よ」と代理官は言った。「お前が公爵の公示に従わず、配下の者たちに代金を支払わせないのなら、私はお前の部下を投獄する。そして、これ以上暴虐を犯すようなら、お前を絞首刑にする。」
ジャンノーテは言い返す。
「住民たちは嘘をついている、全ての代金は支払われている。言いがかりをつけるのはやめて欲しい。」「よく見ろよ、自分が何をしているのかを。」
代理官は言う。「お前が分別を持たないのなら、お前も部下も逮捕するだけだ。」
代理官の部下たちは、武器を構えて戦闘の体勢をとった。
ジャンノーテも部下たちを招集し、対戦の構えに入った。
そこに、拘束した靴泥棒を連れたミゲルが現れた。ミゲルは、代理官の陣に加わった。
住民たちも、この戦闘に加わろうとした。
「さあ、みんな広場に集まれ!あのジャンノーテの裏切り者どもを追い出すのだ。我々に任せろ、奴らを全てバラバラに切り刻むぞ!」
冷静になった代理官は住民たちを制止し、武器を収めるように言った。
「彼らを追い出すのは、私たちだけで充分だ。それに、これが大きな暴動になれば、公爵(チェーザレ)に留守を任された私の責任問題となってしまう。」
ジャンノーテは自分の部隊を率いて、サン・ピエトロ地区(ドゥオーモの東)の砦に退いた。一晩中、彼らは厳重な警戒態勢を敷いていた。
その夜、ミゲルは靴代を支払わなかった男を、見せしめとして、宮殿前の広場で絞首刑にした。
死体は2日間、そのまま晒された。
ジャンノーテはこの件について、何ら反応を示さず、何の赦しも乞おうとはしなかった。
(と言うことはやはり靴泥棒の男は兵士で、ジャンノーテ配下の者だったのか?)
住民の中には、この処罰について非難の声を上げる者もあった。
「靴職人はあれほど騒ぎ立てず、後で払うと言った言葉を信じるべきだった」とも言われた。
しかし、ジャンノーテと配下の兵士たちは、チェーザレの出した公布を無視しており、秩序を維持するためには、厳しい統制を敷く必要があった。
ミゲルが処刑を決定した背景には、
「規則を破ると厳罰に処される」という、兵士たちへの警告だけでなく、
「チェーザレの公布は口約束ではない」という、住民たちへの示威でもあったのかもしれない。
ジャンノーテと部下たちは、この後も何度か問題を起こしている。見かねたチェーザレが話し合いの場を設けたりもしている。
しかし最終的に彼らがどうなったのか、何らかの処罰が下されたのか、あるいは何もお咎めはなかったのかについては記述がなく、謎。
12月25日 | フォルリの代理官ジョヴァンニ・ボルジア、布告を出す |
→ 定められた宿営地を離れてはならない、違反者は絞首刑、とした 数人の兵士がオリオーレ(Oriole)(フォルリの西のオリオーロ・デイ・フィキ Oriolo dei Fichiのこと?)へ逃亡していた。その空いた宿営地に、ジャンノーテと部下たちが入り込み、自分たちの陣を整えていた。 |
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