チェーザレ・ボルジアについて、とりとめのないけれど愛に満ちた探究心を発揮するサイトです。

チェーザレ関連のレオナルド・ダ・ヴィンチ

チェーザレ関連のレオナルド・ダ・ヴィンチ


人物紹介

→ レオナルド・ダ・ヴィンチ


肖像画

→ 肖像画


素描

チェーザレの肖像

→ チェーザレの肖像


跪く男

アルキメデスの写本のページや、その他4ページにわたって描かれている「跪く男」。パリ手稿Lのなかにある。

パリ手稿、2r パリ手稿、3r

介添えしてる従者が一緒に(途中まで)描かれていたり、
甲冑を着て剣と盾を持っていたり、
横顔や甲冑の部分だけだったり、
身体だけだったり、
えらく小さく薄く後ろ姿で描かれていたりする。

これはチェーザレ、またはチェーザレ配下の兵士をスケッチしたものなのでは!?
パリ手稿、3v パリ手稿、4v

パリ手稿、80v

調べてみたけど言及してるものが見つけられない。ので、何なのか判明してはいないんでしょう。

パリ手稿Lは1497年から1502年の間に書かれたものなので、チェーザレ(または配下の者)ではなくルドヴィーコ・スフォルツァ(または配下の者)の可能性もある。
レオナルドは手帳に順番通りに書いておらず、テキトーーーにバラバラ書いているので、手帳のページ位置からも判断できない。


しかしレオナルドはこの時期(1502年)
ウルビーノで「モンテフェルトロ家祭壇画」を、
リミニで「マラテスタ家祭壇画」を、
見ているはず。


下左が、ピエロ・デッラ・フランチェスカ「モンテフェルトロ家祭壇画」(「ブレラ祭壇画」)の一部。
1472年 - 1474年制作。現在はミラノのブレラ絵画館にあるが、当時はウルビーノにあった。

下右は、ピエロ・デッラ・フランチェスカ「マラテスタ家祭壇画」の一部。1451年制作。リミニのマラテスティアーノ寺院にある。

かなりインスパイアされてるじゃん!?

 ピエロ・デッラ・フランチェスカ「モンテフェルトロ家祭壇画」  ピエロ・デッラ・フランチェスカ「マラテスタ家祭壇画」

これらの絵に感銘を受けたレオナルドが、「ボルジア家祭壇画」みたいなイメージでスケッチしてたとしたら…!興奮して鼻血出そう。
ただのスケッチでも嬉しすぎる!!


しかし前述したようにパリ手稿Lは1497年から使用されていた手帳である。
1497年には「スフォルツァ家祭壇画」を見ていただろうし、その後マントヴァで「ゴンザーガ家祭壇画」も見たと思われる。

画像左、作者不明「スフォルツァ家祭壇画」の一部、1495年 - 1496年制作。ミラノ、ブレラ絵画館所蔵。

画像の説明 画像の説明

画像右、アンドレア・マンテーニャ「勝利の聖母」(ゴンザーガ家祭壇画)の一部、1496年制作。パリ、ルーブル美術館所蔵。

1502年にチェーザレのもとで描かれたものではなく、ミラノまたはマントヴァで描かれた可能性も…あるよね…。

どちらにせよ、ポーズも細部もいずれとも異なり模写ではない。
ので、目の前の人物をモデルにした=チェーザレ(または配下の兵士)を描いた可能性!はある。
が、レオナルドはミケランジェロの「ダヴィデ像」を模写した時も全く同じには描いていないので、模写の可能性もあるのであった…。レオナルド〜!






チェーザレの通行証

→ チェーザレがレオナルドに与えた通行証


自薦状

→ ルドヴィーコ・スフォルツァへの自薦状


地図

イモラの地図

1502年秋、レオナルド・ダ・ヴィンチがチェーザレの依頼により製作したイモラの地図。
真上から見た都市の図は縮尺も正確で実用的。軍事的にも有用。芸術と科学が融合した画期的な地図。「この時代に描かれた最も美しく正確な地図」と言われている。
現在google mapで見られるイモラと、全く変わりなくて驚く。

この地図の下書きと言うかスケッチ?習作?も残っていて、そちらは紙に折り目がついている。レオナルドが紙片をポケットやカバンに入れて、歩測しながら書き記したためと言われている。羅針儀と走行距離計を使い、街中を歩いて距離を測定した。

イモラの地図
インク・絵の具・チョークを用いて描かれている。都市を囲む濠は青、城壁は銀白色、家屋はレンガ色に染められていて見やすい。

円を8分割する線は東西南北と、その間の北東・南西、北西・南東を示す。方角が鏡文字で、それぞれ円のふちあたりに、風の名前で書かれている。(かっこいい!)

北(セッテントリオーネ)
北東(グレコ)
東(レヴァンテ)
南東(シロッコ)
南(メッツォディ)
南西(リベッチョ)
西(ポネンテ)
北西(マエストロ)

両端には近隣の都市までの距離が、これも鏡文字で書き込んである。

  • 西側
    イモラではマエストロ(北西)に対して8分の5ポネンテ(西)、約37キロのところにボローニャが見える。カステル・サン・ピエトロは、イモラからポネンテ(西)とマエストロ(北西)の間、約13キロのところに見える。
  • 東側
    レヴァンテ(東)とシロッコ(南東)の間、イモラから約19キロのところにファエンツァが見える。同様に、約37キロのところにフォルリが見え、約46キロのところにフォルリ周辺の田舎が見える。
    イモラからシロッコ(東南)に対して、8分の5レヴァンテ(東)、43キロのところにベルティノーロが見える。

しかしコレ、鏡文字で書かれてるってことは、チェーザレに献上するものではなくて、自分用だったんかな?
鏡文字で書かれてても、チェーザレは面白がって「そのままでいい」って言いそうではあるけど。



イギリス、ウィンザー城王室図書館所蔵。






手稿

膨大な量の手稿を残したレオナルドが、チェーザレについて言及しているのは、以下のとおり。4箇所。

※ 「Borges」の綴り間違いは、「Borgia」だったのではなく「Bourges(ブルージュ)」で、ブルージュの大司教アントワーヌ・ボワイエのことであるとする説もある。
(レオナルドはけっこう綴り間違いや日付間違いをやらかしている。)
どちらの説もそれぞれ支持者がいるよう。
私は「Borgia」のことを言ってると思うけどな〜!

まあ冷静に考えると、レオナルドは他の場所ではチェーザレのことをBorgiaではなくValentinoと書いているので、チェーザレのことではない…?かもしれない。

が!
チェーザレはウルビーノにあったアルキメデスを、レオナルドではなく別の人物に与えているようなので、代わりを探してあげた、という可能性は充分にある!

どっちもありそう〜!どちらの説にも支持者がいるのわかるね。



チェーザレの下で、技師・軍師として記した手稿は、他にも多くある。
しかしほとんどに日付がなく、またてんでバラバラに好き勝手メモっていて、同じ手帳に1ページから順に書くということをしていないので、特定はかなり難しい。
とりあえずチェーザレの下にいた1502年は、「パリ手稿L」と「アトランティコ手稿」に多く、「アランデル手稿」「ウィンザー紙葉」に少し、含まれている。



  • パリ手稿L
    7.5×10.1センチの小さな手帳。およそ1497年 - 1502年頃に書かれたもの。94ページ。
    レオナルドはチェーザレの建築技術総監督としてロマーニャを転々としていた頃、主にこの手帳に日々の色々を記録していた。
    手のひらサイズの手帳なので、レオナルドはポケットに入れて持ち歩いていたと思われる。
    例えばウルビーノの鳩小屋など、外出中に目に入ったものをその場でサッと描いたであろうものも多い。そのせいか、上下逆に書いているページがけっこうある。
    パリ、フランス学士院所蔵。
  • アトランティコ手稿




「ヴァレンティーノ公はどこだ?」

codex arundel

アランデル手稿のなかにある「ヴァレンティーノ公はどこだ?」(Dovè il Valentino)というひと言。
器具の図解が描かれた紙片を逆さまにして、鏡文字で書かれている。読みにくさ抜群だけど、文字列部分の1番上にある。

↓ 文字部分を拡大して左右反転したもの。
 拡大して反転したもの。

下には脈絡なく、
stivali(ブーツ)
Frate del Carmine(カルミネ修道士)
Piero Martelli(ピエロ・マルテッリ)
salvi bolghellini(サルヴィ・ボルゲリーニ)
studio nudo di San Gallo(サンガッロの裸の習作)
Pandolfino(パンドルフィーノ)
などと続いている。
他にも
税関の箱
鞄を送り返す
眼鏡を支えるもの
などと書かれているようだが、綴りが解読できない!

カルミネ修道士はフィリッポ・リッピ?
ピエロ・マルテッリはフィレンツェの貴族で、レオナルドと親交があり、1508年頃レオナルドはこの人の屋敷に仮住まいしていた。
ボルゲリーニもフィレンツェの貴族名前。サルヴィが誰かはわからない。
サンガッロはおそらくジュリアーノ・ダ・サンガッロのこと。第一次ミラノ時代に親交があった。
最後のパンドルフィーノは、ルイ12世の下へ派遣されていたフィレンツェ大使フランチェスコ・パンドルフィーノのことだと思われる。



書かれた時期については、確定されていない。が、候補はほぼ2つ。

  1. 1502年初頭 フィレンツェで
    自分を建築技術士としてチェーザレに売り込みたいレオナルドが、神出鬼没で有名だったチェーザレとどこで会えるのか?と考えていた時に書いたもの。
    下に続けて書かれている人名ボルゲリーニとパンドルフィーノは、フィレンツェの有力者なので、彼らを通してチェーザレに繋がろうとしたと言われる。
  2. 1502年7月か8月 チェゼーナで
    7月25日、チェーザレは供を4人だけ連れてアスティのルイ12世に会いに行く。彼の行動は突発的で、行き先を知っている者はほとんどいなかった。
    チェーザレと連絡のつかないレオナルドが、この時書いたもの。

ロンドン、大英博物館所蔵。






持って行くものリストと救命浮き輪

おそらく1502年春、レオナルドがチェーザレの下へ旅立つ前に書かれた、持って行くものリスト。パリ手稿Lのなかにある。
1ページ目の裏の最初の見開きにあるので、気持ちも新たに書き始めたものかも。(しかしこの手帳は、白紙部分は多かったようだが新品ではなく、1497年には使われていたもの。)

向かいのページに描かれたスケッチのチョークが付着して、うっすら赤褐色に汚れている。下にあるアルキメデスの写本のページのチョーク。

パリ手稿L、1v

つづれ織りの布地
羅針儀
マソの本
ジョヴァンニ・ベンチの本
税関の箱
衣服を裁断する
剣帯
靴の裏打ちをする
軽い帽子
カサッチェ産の葦
テーブル掛けの借り
水泳用の教命浮き輪
素描用の白紙の冊子
木炭

(左端の上部に)
封印の1フローリン金貨はいくらか?
皮製の胴衣

下から2番目には、「素描用の(per disegnare)」と大きく書かれている。後で書き加えた?

下から3番目には、×印が付いている。「水泳用救命浮き輪」用意できなかった?
ちなみに「水泳用救命浮き輪」は、
1488年から1489年頃に書かれたパリ手稿B(下図左)と、
その後書かれたと思われるアトランティコ手稿(下図右)のなかにアイディアが記されている。

パリ手稿B、81v 画像の説明
パリ手稿の方には解説がある。
「皮のコートを作る。胸まわりを二重にして、両側の縁に指1本分ほどの厚みを持たせる。海に飛び込む時には二重になった縁から息を吹き込み、コートを膨らませる。」
つまり「胸まわりに浮き輪がついた服」ってことか。
しかし左の人、完全に裸だよね?

チェーザレはローレンツ・べハイムへの質問状で「溺れないようなベルトを作る方法」を尋ねている。レオナルドに聞けばよかったのに!!

アトランティコ手稿の方はイラストのみ。
下部は、組み立て式の自立可動橋について。

「パリ手稿B、L」パリ、フランス学士院所蔵。
「アトランティコ手稿」ミラノ、アンブロジアーナ図書館所蔵。






ピオンビーノの海

パリ手稿L、6v

逆さまに描かれている。(画像は正位置にして載せています。) パリ手稿Lのなかにある。

パリ、フランス学士院所蔵。






ポプロニアの略地図とチェゼーナのブドウ

見開きのページに、上下逆さまに描かれている。(正位置にして載せています。) パリ手稿Lのなかにある。

全体に、ポプロニア(ピオンビーノの北にある岬)の略地図。1502年、ウルビーノでチェーザレに会う前に、視察したピオンビーノで描かれたもの。
レオナルドのピオンビーノでの働きは、1504年にフィレンツェによって派遣された時のものが多いので、チェーザレのために訪れた時の記録があるのは嬉しい!

パリ手稿L、76vパリ手稿L、77r

左ページは、「チェゼーナに運ばれたブドウ」。
レオナルドは1502年8月10日から9月上旬までの約1ヶ月間、チェゼーナに滞在していた。その間に描かれたもの。

チェゼーナ独特の吊るし方だったたらしく、スケッチしている。確かに専用のものらしい道具で吊るされている。よく見てる!
下部に穴を開けた麺棒のような木切れを吊り下げて、下部の穴にブドウの蔓を通している。

また、「堀の石切り職人の数は三角のかたちをしている」とある。3人1組で効率的に作業しているということか?

右ページは掘削機のスケッチ。
チェゼーナのサヴィオ河の堤防強化や、チェゼナティコからの運河掘削工事のためのスケッチかな?

パリ、フランス学士院所蔵。






ウルビーノの城壁の測量

1502年6月から7月にかけて約40日間、ウルビーノに滞在していた。その間に城壁を測量したもの。パリ手稿Lのなかにある。

6月21日にチェーザレはウルビーノに入城しており、レオナルドもその後すぐ同地に到着した。
レオナルドはチェーザレの指示のもと、ウルビーノの城壁強化のための測量を行う。ロマーニャ公国の建築技術総監督であったことがわかる、最も明確に残っている仕事の記録。

この頃(15世紀 - 16世紀)、軍事技術は大きく変化していた。勝利を決定づけるものはもはや歩兵や馬上で戦う兵士の勇猛さではなく、何よりも大砲の威力だった。
そのため、城内側に崩れ落ちる可能性のある高い塔や古い城壁は必要なくなっていた。
大砲の破壊力に対抗し、防衛のための充分な砲兵陣地を備えた城塞が、必要とされるようになっていた。


レオナルドは城壁の各部分に沿ってその距離を歩測し、羅針儀を用いて角度も計測した。
チェーザレもこの時期ウルビーノにいたので、レオナルドの仕事ぶりを見ながら一緒に歩いたりしたかも?(すぐ飽きそう。)

24日にはマキァヴェッリもウルビーノにやって来る。この時期ほんとわくわくするね!グイドバルドには悪いけど…


↓ 画像左に書かれた距離と角度2つの測定値は、画像右の城壁図の各部分の距離に対応している。
そのように測定・記録されたものが2組残っている。

パリ手稿、37v パリ手稿、38r

2組とも、手帳に見開きで書かれている。
下の見開きは、上下逆に書かれている。(そのまま載せています。)

パリ手稿、74v パリ手稿、75r

ヨアン・ブラウのウルビーノ。

この測定値を座標に変換すると、実際のウルビーノの城壁とほぼ同じかたちを描くらしい。すごい!!
1633年に、オランダの地図制作者ヨアン・ブラウが出版したウルビーノの地図(右の画像 →)よりも、都市の形状を正確に表しているそう。すごい!!!

パリ、フランス学士院所蔵。
(ブラウの地図は1663年に出版された「Teatrum」の201、202ページ。)






ウルビーノの城塞

レオナルドは1502年7月30日までウルビーノに滞在していた。その間に描かれたスケッチ。パリ手稿Lのなかにある。

下の手稿は見開きの2ページ。上下が逆さまに書かれている。(正位置にして載せています。)

ページ全体にわたって描かれている曲線は略地図。ページが白紙だった時にまず描かれたものだと思われる。
全体の上部中央左寄り(左ページの右端上部)に「城塞」と書かれている。その下の四角の絵がその城塞の略図。
ウルビーノの地図と城塞と思われるが、どこを描いたものなのかはよくわからない!

右下の平面図には「ウルビーノの城塞」と書かれている。
ウルビーノの北端にあるアルボルノス城塞(Fortezza Albornoz)のこと。

左は上部が開いた立方体と棒。これ何を描いてるんだろ?灰皿とたばこみたい。

パリ手稿L、79r パリ手稿L、78v

上部の文章は、力の法則について。
これは内容的にチェーザレ時代に書いたもの?かもしれない。(建築技術の延長上にある…ぽいから。)

力の法則
ある力が、ある重さのものを一定の時間に一定の距離を動かす時、その力の半分では、一定時間で、その半分の距離だけ動かすだろう。あるいは、全体の距離を動かしたいなら、2倍の時間がかかるだろう。
あるいは、全体の力では最初の重さの2倍のものを、同一時間に半分の距離だけ動かすだろう。
あるいは、同じ力は、前述と同じ重さのものを、 半分の時間では半分の距離だけ動かすだろう。
あるいは……

左端の長文は解剖学に精通しろということ。フランチェスコ・メルツィが編集した「絵画論」に加えられている。

パリ、フランス学士院所蔵。





ウルビーノの城塞の階段

レオナルドは1502年7月30日までウルビーノに滞在していた。その間に描かれたスケッチ。パリ手稿Lのなかにある。

パリ手稿L、40r

「Scale del conte d’Urbino salvatiche(サルヴァティカと呼ばれるウルビーノ伯の階段)」と、上部左端に書いてある。その右手下に階段の絵。

サルヴァティカとは出口、抜け道、非常階段のような意味。作ったのはフェデリーコ・モンテフェルトロで、ウルビーノ公爵なんだけど、レオナルドは伯爵と書いている。
こちらも上記と同じアルボルノス城塞(Fortezza Albornoz)

城塞の上部から出入りできる唯一のポイントで、非常時に速やかに脱出できるよう設計されていた。必要であれば取り外すことも可能だった。つまり、階段を外して引き上げてしまえば(または落として破壊してしまえば)、城塞上部を隔離することができた。
天井に収納できる梯子のような感じかな?かっこいい。
螺旋階段だったらしいけど、絵では螺旋に見えないね??

レオナルドはこのシステムに感銘を受け、スケッチしたと言われている。


左のコマのような絵は回転車輪装置のスケッチ。上下逆に描かれている。太字の文字も上下逆さまで、力と落下について書かれている。
これらは階段を回り込むように描かれているので、後に余白に描き込んだものだと思われる。

パリ、フランス学士院所蔵。






ウルビーノの鳩小屋

レオナルドは1502年7月30日までウルビーノに滞在していた。その間に描かれたスケッチ。パリ手稿Lのなかにある。


画像左には「Colombaia da Urbino a di 30 di luggio 1402(1402年7月30日、ウルビーノの鳩小屋)」と書かれている。1402年は1502年の誤り。
下には平面測量の図と「水路」の文字。おそらく水を排出するための管(排水溝)の見取り図。

画像右には「colombaia(鳩小屋)」とある。
どちらもウルビーノの鳩小屋。しかしモンテフェルトロ時代には鳩小屋がたくさんあったようで、どこにあったものなのかは特定されていない。

パリ手稿L、6r パリ手稿、8r

鳩飼ってたんだ牧歌的!ではなくて、伝書鳩。つまり軍事用の鳩。
戦時中、訓練された鳩はメッセージのやり取りに不可欠で、鳩小屋は城塞に備えられていた。
一般的にはレオナルドの絵のように四角形で(中には円形もあった)、櫓や塔などの高所に作られた。
レゴブロックのように見えるのは、レンガで巣穴を区切っているから。外側に鳩が通れる通路もあった。

パリ、フランス学士院所蔵。






ウルビーノのドュカーレ宮殿礼拝堂

レオナルドは1502年7月30日までウルビーノに滞在していた。その間に描かれたスケッチ。パリ手稿Lのなかにある。


デュカーレ宮殿の中にあるペルドーノ礼拝堂(Cappella del Perdono)。ペルドーノとは「慈悲、赦し」といった意味。
アーチ型の入口、とその支柱・柱頭のディテールが描かれている。

パリ手稿、74r パリ手稿、73v

Wikipedia、Author	Sailko

見開きで上下逆さまに描かれている。(正位置にして載せています。)
ペルドーノ礼拝堂は上階の公爵の書斎から螺旋階段で降りられる小さな礼拝堂。ドナート・ブラマンテの設計と言われていたが、ピエトロ・ロンバルド作と言われたり、またはフランチェスコ・ディ・ジョルジョ・マルティーニの作と言われたりしている。マルティーニ説がやや有力っぽい。
多色大理石を用いた外壁が特徴的だが、レオナルドは柱やアーチが気になったよう。
写真は礼拝堂入口。これを描いたんだね!ってことがよくわかる。

パリ、フランス学士院所蔵。






ウルビーノのドゥカーレ宮殿の階段と柱

レオナルドは1502年7月30日までウルビーノに滞在していた。その間に描かれたスケッチ。パリ手稿Lのなかにある。

見開きのページに、ドゥカーレ宮殿の南東に位置する階段が描かれている。ガイドブックなどには「大階段」って書かれがちだけど、そんなに大きな階段ではない。
左には「ウルビーノの階段」とある。
右には「ラタストロ(四角の台座)は、それが置かれる壁の厚さと同じ幅でなければならない」とある。
その2つをぐるぐると線で囲っているのがかわいい。

パリ手稿L、19v パリ手稿、20r

Wikipedia、Author Fabrizio Garrisi ドゥカーレ宮殿の柱

写真左が3階、右が2階。
階段はそのまんま!しかし柱のデザインが異なっている。2階の柱を描いたよう。当時は3階の柱も2階のと同じだったのかな?

左ページの左上に描かれているのはシエナの鐘

パリ、フランス学士院所蔵。






アルキメデスの写本

パリ手稿L

おそらく1502年7月、ウルビーノで書かれたメモ。パリ手稿Lのなかにある。

上部の3行に、ボルジア(チェーザレ)とヴィテロッツォが、自分のためにアルキメデスの写本を手配してくれていることを記している。

Borges ti farà avere Archimede del vescovo di Padova e Vitellozzo quello da il Borgo a San sepolco
ボルヘス(ボルジア)はパドヴァの司教から、ヴィテロッツォはボルゴ・サンセポルクロから、アルキメデスの写本を入手してくれることになっている。

「Borgia」ではなく「Borges」となっているが、綴り間違いと言われている。
(レオナルドはけっこう綴り間違いや日付間違いをやらかしている。)
しかしこれは「Bourges(ブルージュ)」の綴り間違いで、ブルージュの大司教で当時ローマ在住であったアントワーヌ・ボワイエのことであるとする説もある。
どちらの説もそれぞれ支持者がいるよう。
いや、チェーザレでよくない!?

でもまあ冷静に考えると、レオナルドは他の場所ではチェーザレのことをBorgiaではなくValentinoと書いている。ので、チェーザレのことではない…?かもしれない。

一方、チェーザレはパドヴァなどをあたらずとも、攻略したウルビーノの図書室にアルキメデスを所有していた。しかしこれをレオナルドに与えていない。
ウルビーノアルキメデスをあげられなかったから、パドヴァアルキメデスを手配してあげたのか…?という可能性も充分にある。

どっちなのか難しい!

Borgesの上部分には×印があるので、どちらにせよ結局Borgesは入手できなかったかも?



ボルゴ・サンセポルクロはアレッツォの街。ヴィテロッツォは6月からアレッツォを侵略している。
つまりレオナルドは、ヴィテロッツォからアレッツォの略奪品をいただこうとしている。けっこうひどい。

アルキメデスの本、2冊も要る?と思うけど、この本は全集になっていて、数冊あったよう。また訳者も有名どころが2人はいて、同じ本でも2種類あった。



ところで、赤褐色のチョークで描かれた跪く2人の男は何なんですかね、これは公爵と何かしら介添えしてる従者ではないんですかね?

調べてみたけど言及してるものが見つけられない。ので、何なのか判明してはいないんでしょう。

パリ手稿Lは1497年から1502年の間に書かれたものなので、公爵だったとしてもチェーザレではなくルドヴィーコ・スフォルツァの可能性もある。
レオナルドは手帳に順番通りに書いておらず、テキトーーーにバラバラ書いているので、手帳のページ位置からも判断できない。

でもチェーザレでよくない!?チェーザレにしとこうよ!!
チェーザレが従者に何かされてる様子に心惹かれるものがあって、思わずスケッチしたとか、めちゃくちゃいいじゃないですか。
でもよく見ると、従者の方もチェーザレと同じような身なりしてるんだよね。
従者よりもっと上位の側近?ミゲルとか!?そりゃあ心惹かれて描くわ!!!
レオナルド、オタクの鑑。

→ 跪く男

パリ、フランス学士院所蔵。




ちなみに下部には白馬をより白くする方法が書かれている。
「腐食剤で皮膚をはがす」ってひどくない!?

Il cavallo bianco si po imachiare col fereto di spagna o acqua forte,ovvero col merdocho levare il pelo al nero e con rottorio scorzare e rimetterà bianco
白馬は、スペイン産の赤土または硝酸により斑点を取り除くことができる。
または脱毛用軟膏で黒色毛を取り除き、さらに腐食剤で皮膚をはがすと、白毛が再生するだろう。

パリ、フランス学士院所蔵。






ペーザロの図書室

パリ手稿、裏表紙。

1502年8月最初の日に書かれたもの。「ペーザロにて、図書室」とある。パリ手稿Lのなかにある。

最高に見にくいけど、グリーン部分の丸いインク染みの横から、右から左に向かって鏡文字で書き始められている。

Dì primo d'agosto 1502.
In Pesero la libreria.
(1502年8月最初の日
ペーザロにて、図書室)

図書室が何なのか、何があったのかは記述されていない。これだけ。
当時、ペーザロには名のある図書室はないので、どこのことを言っているのか謎。
しかしこの2行でレオナルドの足跡がわかる!貴重な記述。

ウルビーノの図書室にあった蔵書の一部を、チェーザレはペーザロに移していて、それのことであるとする説もあるが、確証はない。



下に続くのは図書室についての記述ではなく、何かの工事にあたってのチェック項目。

Larghezza di fosso e profondità. Diamitro di rota e grossezza di subbio e di corda, e sito d'omini che la rigano, e numero d'omini che servano a essa rota, e quanto per posta, e che'peso tirino per volta, e in che tempo, e 'l tempo dell'empiere e del movere, del votare e del tornare. E similmente quante badilate cava un omo per ora e che pesa una badilata, e quanto a gitta discosto da sé, in alto o per lo traverso o in gủ a là dal monte.

溝の幅と深さ。車輪の直径と梁とロープの太さ、それを回している人夫の位置と人員の数。
1度にどれだけの重さを、どれだけの時間で引っ張るのか。
また、満たすのに、動かすのに、空にするのに、元に戻すのに、どれだけの時間がかかるのか。
同様に、1 時間に1人の人夫がシャベル何杯分を運ぶか、シャベル 1 杯分の重さはどのくらいか、またその人の位置からどのくらい遠くに、つまり高い場所に、横に、あるいは山の向かい側に、シャベル1杯分を投げられるか。

工事の人員配置とか、レオナルドが気にすることじゃなくない!?こういうところにまで、完全主義が垣間見える。



右端に沿って横向きには、また別のことが書かれている。

Decipimur votis et tempore fallimur et mors deridet curas, anxia vita nhil.
Marcello sta in casa d'Iacomo da Mongardino.

我々は約束ごとに欺かれ、時は我々を失望させ、また死は我々の辛苦をあざ笑う。不安な人生は無に等しい。

マルチェッロはヤコモ・ダ・モンジャルディーノの屋敷に宿泊中。

マルチェッロはおそらくフィレンツェの共和国書記局第一書記官(マキァヴェッリの上司)マルチェッロ・ヴィルジーリオ・アドリアーニ(Marcello Virgilio Adriani)のこと。



上部にある鏡文字ではない1行ちょっとの文章は、レオナルドの文字ではない。
「ページはまさに94枚、つまりnovanta quatroである」。
94枚のページとは、これが書かれているパリ手稿Lのこと。過去の保管者が整理のために書いたものと思われる。(過去に保持して整理した人は、番号や、他にも色々書き込んでいる。)

パリ、フランス学士院所蔵。






リミニの噴水

リミニで見た噴水について。

1502年8月8日、リミニで見た噴水について書かれたもの。パリ手稿Lのなかにある。
レオナルドは、ピオンビーノ視察の後、アレッツォを通りリミニへ入る。そこで噴水の水の動きに惹かれ、所見を書き記した。

ノートに逆さまに書かれている。(そのまま逆さまで載せています。)

リミニの噴泉で君が見たように、1502年8月8日に君が見たように、水の落下を様々に工夫して、ハーモニーを奏でよ。_____


水と空気について
勢いにより空気の中を移動する空気は、それ自体が濃縮し、ちょうど太陽の光が拡散する時に示されるとおりである。
つまり、風が光の粒子を発散させる時、君はこれらの粒子が錦織りか毛織物のような波状となるのを見るだろう。
つまり、粒子のなす業と見えるのは、その粒子を自らの中に抱えて運ぶ空気によるものである。

ところが水は、そのような場合も濃縮することができず、その実体の中で類似の運動を行なうので、やむなく他の水をもとの場所から押し出し、したがって全ての水は表面に姿を見せる。

水と空気の動きの違いを、言語化してるのすごい。何言ってんのかわかんねえけど!
「水は空気と違って濃縮しないから、勢いよく動く時、押し出しあって噴出する。それを工夫して、美しい調和(噴水のことかと思うけど、音楽のことらしい)を作ってみよう」と言うことか?

冒頭、「君」って誰だよと思うけど、レオナルドはしょっちゅう誰だかわからない「君」に対して、語りかけるように書いている。自分を客観視して教え諭してる?感じ。

パリ、フランス学士院所蔵。






リミニの海

1502年8月8日前後、リミニにいたレオナルドが書いた海についてのメモ。パリ手稿Lのなかにある。
続きページではないが、どちらも上下逆に書かれている。(どちらも正位置にして載せています。)

画像左には、
帆を張る船の絵が描かれ、
「もし水が空気と同じ速さで動くなら、帆のない船は風のように動くだろうが、風は低い位置よりも高い位置の方が速いので、水より帆に力がかかる」。

下には、傾斜面上の球と並行六面体について。(リミニとは関連ない。)

パリ手稿、47v パリ手稿、77v
画像右には、

リミニは噴水のある街中から20分ちょっと歩けば海に出るので、見に行ったのかな。ほほえましい。

パリ、フランス学士院所蔵。






チェゼーナのドアと窓

左下部に「1502年、チェゼーナの聖ロレンツォの市の日に」とある見開きのページ。パリ手稿Lのなかにある。
1402年と書いた後に4を5と書き直している。

聖ロレンツォの日は8月10日。
2日前にはリミニで噴水について書いてるのに、もうチェゼーナに移動している!レオナルド元気すぎ。

左の図は、ドアを自動で閉める仕組みをスケッチしたもの。聖ロレンツォの日に開かれた見本市で見かけたものとされている。見本市…ポポロ広場で開かれたのかな?
左下のインクのしみの横にあるものが重りで、この重りに引っ張られて、開いたドアが閉じるようになっている。

パリ手稿L、46vパリ手稿L、47r

右ページはチェゼーナの窓。
インパンナータ(impannata)と呼ばれる、採光するための窓枠を描いている。
(この時代、大半の家屋の窓は木で作られた雨戸だった。この窓で雨風や強い日差しを防ぐことができたが、室内は暗くなってしまっていた。
しかしガラスの窓は高価で、教会などにしか使うことができない。そこで、ガラスの代わりに蝋引きして防水にした布を張りつけ、光を通すことを可能にした。この窓をインパンナータと言う。)

中央にある斜線の描かれた図の、
aがインパンナータの枠、bは木製の窓。

3つの三角ぽい図は窓の動き?を図解しているようだけど、ちょっとよくわからない!
(わかる方教えてください!)


またページ全体にわたって、薄く何らかの平面図が描かれている。
左から、
道路 ー 道路 ー 道路 ー 水 ー 堰 ー 水 ー 道路
とある。
チェゼーナの水路?なのかな。

パリ、フランス学士院所蔵。






チェゼーナの城壁の測量

パリ手稿、9r

レオナルドは1502年8月10日から9月上旬までの約1ヶ月間、チェゼーナに滞在していた。その間に城壁を測量したもの。パリ手稿Lのなかにある。

チェゼーナはチェーザレの支配下に入ってから2年になり、ロマーニャ公国の首都としてふさわしく機能するよう、さまざまに改革されていた。
レオナルドはチェーザレの指示のもと、ウルビーノと同様にチェゼーナの城壁強化のための測量を行う。こちらもロマーニャ公国の建築技術総監督であったことがわかる、最も明確に残っている仕事の記録。

この頃(15世紀 - 16世紀)、軍事技術は大きく変化していた。勝利を決定づけるものはもはや歩兵や馬上で戦う兵士の勇猛さではなく、何よりも大砲の威力だった。
そのため、城内側に崩れ落ちる可能性のある高い塔や古い城壁は必要なくなっていた。
大砲の破壊力に対抗し、防衛のための充分な砲兵陣地を備えた城塞が、必要とされるようになっていた。


レオナルドは城壁の各部分に沿ってその距離を歩測し、羅針儀を用いて角度も計測した。


右上の画像は、マラテスティアーナ城塞の測量を記したもの。
方形の城塞から右に向かって2つの塔が突き出ている。
(城塞の形状は、当時は存在した塔がなくなっていたり、逆に当時にはなかったものが建設されたりしていて、現在とは異なっている。)

城塞の左下、半円の側防塔から下部に伸びているのは、モンタラーナ門(Porta Montarana)に続く城壁。現在はチア・デッリ・オルデラフィ通りからマラテスタ・ノヴェッロ通りに続く小道に名残りがある。



下は見開きで描かれているページ。
画像左は、街の城壁の測量値。
右側を北にして描かれている。現在はいくつかの通りの名前に「Mura(壁)」と付いていて、かつて城壁があったことの名残りがある。(Via Mura Porta Fiume、Via Mura S.Mariaなど。)
レオナルドのこの測量で、後に城壁の南側部分とポルタ・フィウメ(Porta Fiume)から北東の部分が強化改良された。

画像右は、上の城塞の測量と左の街の測量を補っている。

パリ手稿、9vパリ手稿、10r


下記は現在のチェゼーナ。
オレンジのラインが街の城壁があったところ。(マラテスティアーナ城塞の部分は描いていません。)
上のレオナルドの測量図と類似しているのがわかる!

青のラインは、城壁のあったところをメインに、歩いて一周できるところ。(マラテスティアーナ城塞の部分も描いています。)

城壁のかたちはサソリに例えられている。星座レヴェルにこじつけっぽい!

パリ、フランス学士院所蔵。






チェゼーナの城塞への道とファエンツァの教会

パリ手稿、15v

レオナルドは1502年8月10日から9月上旬までの約1ヶ月間、チェゼーナに滞在していた。その間に描かれたスケッチ。パリ手稿Lのなかにある。

ページの下半分は、丘に建つマラテスティアーナ城塞と、曲がりくねった街路が上下逆に描かれている。(正位置にして載せています。)
左は道の平面図、右は正面図になっている。「チェゼーナの城塞」と文字がある。

この街路は城塞入り口に続く北側の道で、現在も一部が残っている。
上のgoogle mapを拡大すると、城塞の北側の「Belvedere su Cesena」の道が、レオナルドが描いたものと同じように、つづら折りになっているのがわかる。
(青いラインの部分。階段のある小道で、実際に歩ける!)

城に到着するのに時間のかかる曲がりくねった小道は、敵を数方向から攻撃でき、防御に優れていた。

上半分に描かれている建物はファエンツァの教会。

パリ、フランス学士院所蔵。






滑車と蛇行する河と胸壁のある建物

パリ手稿L、36v パリ手稿L、37r
見開きの2ページ。
パリ手稿Lのなかにある。

左ページ。
滑車。何が気になって描いたのかは謎。

河はチェゼーナを横切って流れるサヴィオ河だとされる。
a-c-bと書き込まれ、
「Quanto men curva sarà l'argine dove ripercote il salto del fiume, tanto il secondo salto fia più remoto dal sito donde il primo si parti.」
「河川の奔流が激突する堤防に曲がりが少ないほど、第2のカーブは最初のカーブより遠い場所になる。」
と、当然っちゃ当然のことを書いてる。
でもこういうことに目を留めるのが、常人ではないってことなのか!?気づきが繊細。

レオナルドは河(水)の流れや動きに対して、長年関心を寄せ続けるので、些細と思われることでも大事だったのかな。

また、レオナルドのチェゼーナ訪問の少し前に、サヴィオ河の掘削工事を行っていた6人が死亡する事故が起きているので、河の流れを調節したりせき止めたりするシステムに、より関心があったのかも。
チェゼナティコからチェゼーナまでの運河掘削を工事を手がける予定でもあったし。


下部に「1502年8月半ばの聖マリアの日、チェゼーナにて」とある。
聖マリアの日は8月15日。最初に1402年と書いてしまったらしく、4をうまくごまかして5にしている。
建物はどこのものかわからない。

右ページ。
左のものと同じと思われる建物のスケッチ。

パリ、フランス学士院所蔵。






チェゼナティコの港と城塞

チェゼナティコ港。

1502年9月6日15時に書かれた、チェゼナティコでのメモ。パリ手稿Lのなかにある。

(ちなみに15時というのは当時の時の数え方で、現在とは異なる。
現在の時間でいうと午前11時頃。
→ イタリア時間)

レオナルドはチェーザレの命で、チェゼナティコの港からチェゼーナまで運河を引くことを計画していた。
港湾の底をさらって土砂を取り去り、充分な深さの航路や泊地を整備する浚渫工事も指示していたよう。そのための計測とメモ。

ノートに逆さまに書かれている。(正位置にして載せています。)

上部に、
「チェゼナティコの港。1502年9月6日の15時」とある。
レオナルドが手稿に日付だけでなく時間を記しているものは珍しい。
港の数値だから、時間を記すことで潮位などわかりやすくしたかったのかな?

運河の河口の平面図が描かれ、
4分の1

50
43
57
17
14
89
220(222を消して書き直している)
200
とある。



さらに、左右に稜堡の断面図と築城の断面図が描かれている。

下部に、
「外側の堤防を守るため、大砲の打撃を受けないために、土壁の外側に稜堡はどのように突出していなければならないか」
とある。

レオナルドはロマーニャの城塞強化の任も負っていた。
当時チェゼナティコには、ローマ時代の古い城塞を土台にして建てられたマラテスタの城塞があったので、レオナルドが描いたのはこの城塞の部分だったと思われる。
チェーザレはアドリア海の守りを固めるために、この古い城塞を再利用するつもりだったのかな。

パリ、フランス学士院所蔵。







走行距離計

画像の説明
アトランティコ手稿のなかにある「走行距離計」。

ミラノ、アンブロジアーナ図書館所蔵。






組み立て式の自立可動橋

アトランティコ手稿、71v

アトランティコ手稿のなかにある「自立可動橋」。
接着剤や釘を使用せず、摩擦と重力を利用して組み立てられる。

この橋のアイディアは長年温めていたらしく、1482年、ミラノのイル・モーロに自分を売り込む手紙の中に書かれている。(ダ・ヴィンチ30歳の時。ちなみにチェーザレのもとを訪れたのは50歳の時)
(「私は非常に軽く携帯に容易な橋の計画を持っております。これによって敵を追うこともまた場合によっては敵から逃げることも容易です。戦火にも強く壊れにくく、運搬も容易です。」とある)

1502年、マジョーネの反乱時にフォッソンブローネを劫掠したミゲル・ダ・コレッラの軍にはダ・ヴィンチが同行しており、実際にこの橋が使われたよう。すごいね!


ミラノ、アンブロジアーナ図書館所蔵。


アトランティコ手稿、748r

アトランティコ手稿、69r






シエナの鐘

おそらく1503年1月に描かれたシエナの市庁舎の鐘。パリ手稿Lのなかにある。

シニガリア事件後、チェーザレはパンドルフォ・ペトゥルッチを威嚇・追放するためシエナに向かう。レオナルドはそれに随行していたと思われる。
下の2ページのちょっとした書き込みがその根拠になっているが、あまりにもちょっとしすぎているせいかスルーされがち。
でもこの時以外にレオナルドがシエナの鐘を描く機会はなかったはずなので、間違いないでしょう!

パリ手稿L、19v パリ手稿L、33v
ページ左には、
鐘の絵に「abc」の記号。
「シエナ」という文字。
「ab 4ブラッチョ」「ac 10ブラッチョ」(長さ。1ブラッチョは約60センチ。)
階段の絵は以前に描かれたウルビーノの階段。

ページ右には、
二重に描かれ揺れていることを表現された鐘。
(この表現、今では普通だけど当時はどうだったんだろ?画期的だったのでは!?)
「シエナの鐘、すなわち、その揺れ方と鐘の舌のつけ根の位置」。
下の絵は杭打ち機械とその細部。

チェーザレはシエナには向かうが、シエナ領内のピエンツァまでしか行っていない。
レオナルドは3月にはチェーザレのもとを去りフィレンツェにいたので、もしかしたらここで袂を分かち、チェーザレはローマへ、レオナルドはシエナ経由でフィレンツェに帰ったのかも?

レオナルドは後に「不和や戦闘などごめんだ、これほど野蛮な狂気の沙汰はない」とノートに書いているので、この頃にはもう「狂気の沙汰である戦争」に嫌気がさしていたんじゃないかな。
だから目に映ったものも、軍事的なものではない「市庁舎の鐘」だったのかな。

パリ、フランス学士院所蔵。






チェーザレのマント

修道院のタンスの中のメモ。

マドリッド手稿Ⅱのなかにある、タンス(木箱)に入っている衣類を書き記したメモ。この時、同時に蔵書目録も作成している。
1504年の始め頃、レオナルドはおそらくピオンビーノへ行くため、服と蔵書をサンタ・マリア・ノヴェッラ修道院に預けた。そのための記録。


これも鏡文字で書かれていて見にくい。が、上から9行目に「ヴァレンティーノ公のマント」がある。
面白いことに、
「フランス風のマント(ケープ)、かつてヴァレンティーノ公のもの」と書いた後に「(今は)サライのもの」と書き加えている!
(インクの色が薄いところ。)
メモした後に、「そう言えばアレ、サライにあげたな…」と思い出したのかな?サライに「アレ、俺にくれるって言ったじゃないすか!」とか言われたのかも?かわいい!

In cassa al munisstero
(修道院の木箱に)

Una gabanella di taffettà
(タフタの外套1着)
Una fodera di velluto a uso di gabanelle
(外套用のベルベットの裏地1着)
Un albernuzzo
(マント1着)
Una gabanella di rosa seca
(淡いローズ色の外套1着)
Un catelano rosato
(ローズ色のカタルーニャ風室内着1着)
Una cappa scura pagunazo, con mostre larghe e scaperuccia di velluto
(ベルベットのフードが付いた、衿の広い紫色のマント(ケープ)1着)
Una gabanella di Salai, allazata alla franciosa
(サライの、フランス風レースの外套1着)
Una cappa alla franzese, fu del Duca Valentino, di Salai
(サライの、かつてヴァレンティーノ公のものであったフランス風マント(ケープ)1着)
Una gabanella di bigio fiandresco, di Salai
(サライの、灰色のフランドル製の外套1着)
Un giubon di raso pagonazo
(ローズ色っぽい紫色の上着1着)
Un giubone di raso chermisi, alla franzese
(フランス風の深紅の上着1着)
Un altro giubon di Salai, con manici di velluto nero
(サライの、もう1つの黒いベルベットの袖つきの上着1着)
Un giubon di cianbellotto bagonazo
(紫色の毛織りの上着1着)
Un pa' di calze pagonaze scure
(濃い紫色の靴下1足)
Un pa' di calze in rosa seca
(薄いローズ色の靴下1足)
Un pa' di calze nere
(黒の靴下1足)
Due berrette rosate
(ローズ色のベレー帽2つ)
Un capello di grana
(えんじ色の帽子1つ)
Una camicia di rensa lavorata alla franzese
(フランス風に仕立てたリンネルのシャツ1枚)
E uno ussciale d' arazo
(そして、綴れ織のタペストリー1枚)



サライの服が4着紛れ込んでいる。一緒に保管してるのもかわいい。そしてレオナルド、どうも暖色の服が好きだったっぽいね!?

マドリード、マドリード国立図書館所蔵。






アルキメデスの写本・2

おそらく1515年に書かれたメモ。アトランティコ手稿のなかにある。大きな用紙を小さく切り取った紙片。
レオナルドはアルキメデスの本を相当欲しかったようで、どこの誰が持ってるらしいって情報を数回書いている。活版印刷術発明後とは言えまだまだ手で書き写す写本が主流の時代、本は希少だったので、どうにか所持者を探して見せてもらいたかったのかな。

これはチェーザレの名前(ヴァレンティーノ公)が登場するアルキメデスの写本についての、2つ目の記述。

アトランティコ手稿。968recto、下の方。

Archimenide e intero appreso al fratel di monsignore di sancta Giusta in Roma disse avetlo dato al fratello che seta in Sardigna. Era prima nella libreria del duca d’Urbino .ー Fu tolto al tempo del duca Valentino.

ローマのサンタ・ジュスタ猊下のご兄弟が所持しておられる、アルキメデスの全集がある。いわく、猊下がサルディーニャ在住のご兄弟に贈ったらしい。
以前はウルビーノの図書室にあったもので、ヴァレンティーノ公の時代に運び出されたものだ。

このアルキメデス、ウルビーノにあったのなら、どうしてチェーザレはヴァレンティーノ公の時代(1502年)にレオナルドにあげなかったんだろう?

サンタ・ジュスタの司教はガスパーレ・トレッラ(Gaspare Tollea)、そう!チェーザレの主治医だった人物!
彼は遅くとも1497年にはチェーザレに支えていて、ボルジアとはかなり近しい関係だった。
チェーザレのために梅毒治療の研究をしていて、効果も上げていたよう。

だからチェーザレはレオナルドよりガスパーレの方を優先し、そっちにあげちゃったのかな。
それでレオナルドには、代わりにパドヴァ司教のアルキメデスを探してあげようとしたのかも?
チェーザレがレオナルドを高く買っていたことは、通行許可証がの文面からもよくわかるので、できることはしてあげたんじゃないかな。

1504年に書かれたレオナルドの蔵書目録には「円の正方形化に関するもの」というタイトルがあり、これはアルキメデスの書であるとされている。
レオナルド!入手できたんじゃん!よかった!
しかしこのアルキメデスは、ヴィテロッツォ・ヴィテッリからもらったアルキメデスだと思われる。
Borges経由で入手したパドヴァ司教のアルキメデスの可能性もあるけど、手稿のBorgesのところに×印されてるから…。


右側に描かれている絵は、振り子っぽいけれど振り子ではなく、太陽光が収束し可燃物が発火するアルキメデスの熱光線の図。
なぜか文字とは異なるインクで描かれている。



↓ 下の画像は文字部分を拡大して反転させたもの。
レオナルドは、鏡文字ってだけでなく、トスカーナ方言や独自の略語を使用して書いているので、めちゃくちゃ読みにくいんだけど、これはわかりやすい方だと思う。

アトランティコ手稿。968recto、拡大反転。

ミラノ、アンブロジアーナ図書館所蔵。










a:165 t:4 y:1

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