ペトゥルッチ
ペトゥルッチ家 (Petrucci)
毛織物業で成功した、シエナの豪商一家。
15世紀後半から16世紀初頭、シエナの実質的支配者であった。
枢機卿をも輩出するが、教皇レオ10世と対立し没落する。
パンドルフォ・ペトゥルッチ(Pandolfo Petrucci)
(1452年2月14日? - 1512年5月21日)
シエナ生まれ。
1483年、政争に破れ亡命。
1487年、弟ジャコモと協力して帰国、政権を奪い返す。以後シエナの僭主として君臨する。
1497年、ジャコモが死去。パンドルフォは莫大であったジャコモの財産をすべて受け継ぐ。
やがて、シエナの有力者ニッコロ・ボルゲージ(Niccolò Borghesi)の娘アウレリアと結婚。強力な後ろ盾を得、政府の主な役職のほとんどを牛耳る。
しかし、専制的なパンドルフォの支配は反発を招き、義理の父であるニッコロとも対立するようになる。
1500年、ニッコロはパンドルフォ暗殺を計画。しかし陰謀は実行前に露見し、ニッコロは暗殺される。パンドルフォの差し金であったと言われている。
絶対君主的支配への反発を恐れるパンドルフォは、シエナの経済発展や芸術の保護にも寄与する。領有地をめぐって対立していたフィレンツェとの関係にも心を砕き、平和維持に努めた。
共和制という形を維持しながらの実質的独裁は、フィレンツェエのコジモ・デ・メディチを倣ったとされる。
出自や経歴、金にものを言わせるやり口なども、コジモに酷似している。しかしコジモのような大らかさはなく、陰湿で残忍であったと言われる。
1493年、アレクサンデル6世とミラノ、ヴェネツィアの同盟にペトゥルッチも加わる。
1501年、チェーザレのピオンビーノ進攻に協力する。
1502年、マジョーネ同盟に加わりチェーザレ打倒を画策する。
彼は表立った動きは見せなかったが、裏ではかなりしっかりと糸を握っていたよう。
現に、パンドルフォと親密であったジャンパオロ・バリオーニは、彼の忠告を聞き入れてシニガリアへ伺候せず、処刑から免れている。
1503年1月、チェーザレの報復を恐れるシエナ政府の要請により、フランスへ亡命。しかし2ヵ月後にはフランス王ルイ12世の後押しによって、再びシエナの僭主として返り咲いた。
1503年、ボルジアが没落すると彼の立場は安泰となる。
1507年、フィレンツェのピサ進攻の際はピサへ軍事支援する。しかし教皇ユリウス2世はこれに反対、パンドルフォに対しフィレンツェへの譲歩を求める。パンドルフォは渋々とこれを認めるが、対価として息子アルフォンソが枢機卿へと任命された。
1512年、シエナにて死去。享年60歳。
残虐であるが、智謀に長けた人物であったとされる。
アルフォンソ・ペトゥルッチ
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