その他の絵画
絵画 ボルジア家
※ ゆかりの地の中の、各美術館の紹介ページにも多少の絵画を載せています。
枢機卿ロドリーゴの肖像?
セバスティアーノ・デル・ピオンボ(Sebastiano del Piombo)、
「枢機卿アントニオ・マリア・チョッキ・デル・モンテの肖像(Ritratto del cardinale Antonio Maria Ciocchi del Monte)」。
1515年。アイルランド、ダブリン、ナショナル・ギャラリー。
惣領冬実「チェーザレ」1巻、Virtu3に登場する、枢機卿ロドリーゴ・ボルジアの肖像(ピサ、大司教邸に飾ってあるやつ)に、反転させればそっくり。
アントニオ・マリアは1461年アレッツォ生まれ。
教会学を学び博士号を取得。法律に関する知識で教皇庁の注目を集め、教皇インノセント8世、アレクサンドル6世ともに評価された。
1502年7月、チェーザレの所領全ての裁判所長官に任命される。彼はチェゼーナに司法所在地を置き、使徒座宣教師の地位を得た。
さらにチェーザレは彼をロマーニャ州総督にも任命した。
1511年にユリウス2世によって枢機卿に任命される。
続く教皇レオ10世、ハドリアヌス6世、クレメンス7世にも信頼されていたよう。
彼の甥ジョヴァンニ・マリア・チョッキ・デル・モンテは、ユリウス3世の名前で教皇になっている。
聖ペトロと教皇アレクサンデル6世、ペーザロ司教
ティツィアーノ・ヴェチェッリオ(Tiziano Vecellio)。
1503年 - 1512年頃。
「ヤコポ・ペーザロを聖ペトロに引き合わせる教皇アレクサンデル6世(Papa Alessandro presenta Jacopo Pesaro a san Pietro)」 。
ベルギー、アントワープ、王立美術館所蔵。
ヤコポ・ペーザロはヴェネツィア出身で、当時ヴェネツィア領であったキプロス島西部パフォスの司教であった人物。
アレクサンデル6世によって教皇庁海軍の司令官に任命され、1502年6月28日の聖マウラの戦いでトルコを破った。そのことを祝して描かれたもの。
ペーザロ家祭壇画
ティツィアーノ・ヴェチェッリオ、1519年 - 1526年頃。
ヴェネツィア、サンタ・マリア・グロリオーザ・デイ・フラーリ聖堂。
上の絵にも登場するヤコポ・ペーザロ司教によって発注された祭壇画。上と同様に聖マウラの戦いで勝利したことを記念して描かれている。左端で跪いているのがヤコポ。
左端中央の赤い旗に、アレクサンデル6世の紋章が描かれている。が、この絵にはアレクサンデル6世本人はいない。
ペドロ・ルイス枢機卿とミケロット・コレッラの前で会話するヴァレンティーノ公とマキァヴェッリ
作者不明、16世紀。ローマ、個人所蔵。
左から、
ミゲル・ダ・コレッラ、
枢機卿ペドロ・ルイス・ボルジア(ホアン・ボルジア(サヴィオ説もある))
チェーザレ・ボルジア、
ニッコロ・マキァヴェッリ。
おそらくウルビーノのアルバーニ家(principi Albani in Urbino)が所有していたもの。
1750年に、描かれている人物が特定された。
1502年6月25日の会見を描いたものではないかと言われている。
すごくわかりにくいけど、チェーザレが広げている本にはイタリアの地図が描かれている。
X線撮影で見ると、マキァヴェッリの指さす右手は、2箇所も描き直された跡があるらしい。
また、枢機卿の膝に留まっている蜂のシンボルとしての意味は「勤勉、繁栄、純潔、知恵」。
ピオンボの模写
セバスティアーノ・デル・ピオンボ(Sebastiano del Piombo)
1516年。
ワシントン、ナショナル・ギャラリー所蔵。
「枢機卿バンディネッロ・サウリと彼の秘書と2人の地理学者」「Cardinale Bandinello Sauli, il suo segretario e due geografi」とも言われている。
が、どう見ても上記のミゲル、ペドロ・ルイス枢機卿、チェーザレ、マキァヴェッリとされる絵画の模写。1780年に発見されたよう。
こちらは保存状態が悪く、枢機卿の顔が別に描かれてキャンバスに移されている。そのせいか、枢機卿の顔が微妙に異なる。
ガンディア公ホアン暗殺
ミゲル・エステーヴェ
(Miguel Esteve)。1507年以降?(16世紀)。
ヴァレンシア、パトリアルカ修道院(Monasterio de Patriarca)。
別名、聖体修道院(Colegio del Corpus Christi)。
「ガンディア公暗殺」(L'uccisione del duca de Gandia.)。
「パオロ・ダ・サン・レオカディオによって、16世紀に描かれたもの」とサチェルドーテ本には書かれているが、現在ではレオカディオの影響を受けたミゲル・エステーヴェの作とされている。
十字架の聖母に跪くホアン(ガンディア公)、
彼の背後で剣を振り上げているのがチェーザレ、
(チェーザレは1番左の人物で、暗殺者とは別とする説も。)
左から2番目の赤い帽子がホフレ。
ホアンの妻マリア・エンリケスは、夫を暗殺したのはチェーザレだと信じていて、だからチェーザレが死んだ後これを描かせた、という説がある。
ガンディア公暗殺とは全く関係ない絵だという説も最近あるみたい(2023年3月現在)
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ボルジア一家
ダンテ・ガブリエル・ロセッティ。「The Borgia Family」。1863年。
ロンドン、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館(Victoria & Albert Museum)。
リュートを弾くルクレツィアの前で、楽しく踊っている子どもたち。それを見守るアレクサンデルとチェーザレ。
しかし3人の大人たちは剣呑な表情をしており、子どもたちの命を狙っているようでもある。その証拠にテーブルの上のワインには、毒が混入されている。
不穏で危うい濃密な空気が、右端の窓から顔を出す人物によって、緩和されている。
ボルジアとマキァヴェッリ
フェデリーコ・ファルッフィーニ(Federico Faruffini)。「Borgia e Machiavelli」(ボルジアとマキァヴェッリ)。
1864年。イタリア、パヴィア、ヴィスコンティ城内の市立美術館(Musei Civici del castello Visconteo)。
1867年のパリ国際展覧会(Exposition universelle à Paris)で金賞を獲得した作品。
「Cesare Borgia che ascolta Machiavelli」(マキァヴェッリに耳を傾けるチェーザレ・ボルジア」とも言われる。
ボルジア家の毒薬
フェデリーコ・ファルッフィーニ(Federico Faruffini)。「Il veleno dei Borgia」(ボルジア家の毒薬)。
1869年。イタリア、ピアチェンツァ、リッチ・オッディ・ギャラリー(galleria Ricci Oddi )。
この作品を仕上げた1869年、ファルッフィーニはペルージャで服毒自殺している。
カプアのチェーザレ・ボルジア
ガエターノ・ピレヴィアーティ(Gaetano Previati)、「カプアのチェーザレ・ボルジア(またはヴァレンティーノ公)(Cesare Borgia a Capua (o il Valentino))」、1880年。
サン・パオロ銀行コレクション(Collezione Intesa San Paolo)、イタリア、フォルリ。
1501年7月の、チェーザレによるカプア劫掠を描いたもの。チェーザレはカプアの街を焼き払い、兵士聖職者老人女子供区別なく4000人(6000人という説も)を虐殺した。
指揮官はチェーザレではなくフランス人武将サン・セヴェリーノであったが、チェーザレも40人の女性を自分のものとしたと言われる。
※ クリックすると大きい絵が見られます。
カプア劫掠
ドメニコ・モレッリ(Domenico Morelli)、「カプア劫掠(I Sacco di Capua)」、1853年。
上と同じくチェーザレのカプア劫掠を描いたもの。
カプア包囲戦の後、城の地下牢に避難していた女性たちを拉致しようとするチェーザレが描かれている。
イタリア、パレルモ、タスカ・ダルメリータコレクション(collezione Tasca d'Almerita)所蔵。
ヴァティカンを去るチェーザレ・ボルジア
ジュゼッペ・ロレンツォ・ガッテリ(Giuseppe Lorenzo Gatteri)。「il Cesare Borgia abbandona il Vaticano」。1872年。
イタリア、トリエステ、リヴォルテッロ市立博物館(Museo Civico Rivoltello)。
1503年8月、枢機卿団はアレクサンデル6世死後のコンクラーヴェを開催するため、チェーザレに対してローマを離れるように要請する。
9月2日、病床にあったチェーザレは輿に乗せられ、ネピへと向かう。
慌しい出立の様子を描いたもの。
チェーザレのグラスワイン
ジョン・コリア(John Collier)。「A Glass of Wine with Caesar Borgia」。
19世紀末。
イギリス、イプスウィッチ、イプスウィッチ美術館。
教皇アレクサンデル6世の紋章の描かれた豪奢な部屋。テーブルの向こうに、左からチェーザレ、ルクレツィア、アレクサンデル、と並んでいる。
チェーザレは、毛皮のローブをまとった若い男の持つグラスに、おそらく毒の入ったワインを注ごうとしている。
アレクサンデルはブドウを食べながら、ルクレツィアは酷薄な表情をして、それを見ている。
アレクサンデル6世の前のゴンサロ・フェルナンデス・デ・コルドバ
アレクサンデル6世の前にメナルド・ゲッラを引き出す大将軍ゴンサロ・フェルナンデス・デ・コルドバ。
(El Gran Capitán ante el papa Alejandro VI arrastrando al derrotado Menaldo Guerra)
ザカリアス・ゴンサレス・ヴェラスケス(Zacarías González Velázquez)
(バロック期の宮廷画家ヴェラスケスとは関係ないけど、18世紀から19世紀にかけて活躍したスペインの芸術家一家のひとり)
1778年
サン・フェルナンド王立美術館、マドリード
1497年2月から3月にかけて行われたオスティアの攻囲戦で、ゴンサロ・フェルナンデス・デ・コルドバの指揮するスペイン軍は、フランス王シャルル8世に仕えるメナルド・ゲッラ率いるフランス軍が激突した。
ゴンサロはフランス軍を降伏させ、ローマに凱旋、サン・ピエトロ寺院でメルナドを教皇に差し出した。
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