勢力地図
中世末期のヨーロッパ
- フランス
- シノン・・・チェーザレがルイ12世と出会う所。
- ブロワ・・・チェーザレがシャルロット・ダルブレと結婚式を挙げる所。
- ブルゴーニュ公国・・・シャルル8世の妻アンヌ・ド・ブルターニュの所領地。彼女は持参金としてこの地を携え、ルイ12世と再婚する。
- スペイン
- ハティヴァ・・・ボルジアの始祖である地。
- ヴァレンシア・・・アロンソの時代からのボルジアの司教区。チェーザレもここの大司教、枢機卿となる。
- パンプローナ・・・1491年、チェーザレ、パンプローナ司教に。チェーザレの妻となるシャルロット・ダルブレの兄、ジャン・ダルブレを王とするナヴァーラ王国の首都。
- ガンディア・・・チェーザレの兄ペドロ・ルイス、次いで弟のホアンの公爵領となる地。
- チンチーリャ・・・1504年、チェーザレがまず軟禁される所。
- メディナ・デル・カンポ・・・1505年、チンチーリャからチェーザレが移送される所。彼はここを脱走し、パンプローナを目指す。
- レリーダ・・・1484年、チェーザレ、レリーダ大司教座聖堂参事会員に。アロンソ・ボルジアはここの大学へ。フランチェスコ・レモリーネスはこの地で生まれ、ここの司教に。
- コルシカ
・・・1347年ジェノヴァ領に。 - サルディーニャ
・・・1347年アラゴン王国領に。 - アラゴン王国、カスティーリャ王国
・・・1479年連合王国に。 - グラナダ王国
・・・1492年滅亡。レコンキスタによって。
15世紀前後のイタリア
この頃のイタリアは群雄が割拠していて、勢力の分布が非常に細かく、また頻繁にその境界が変化し、とてもややこしいです。
また、封土制度などによって、名目上の支配者と実際の支配者が違っていたりして、複雑きわまっています。
そのため、すごく大まかな図になっています。
- 神聖ローマ帝国・・・ハプスブルク家
フランク王国から分裂した東フランク王国がもと。カロリング、ザクセン、ホーエンシュタウフェン、大空位時代、ルクセンブルクなどを経て、当時はハプスブルク家のマクシミリアン1世(1459〜1519)が支配していた。現在のドイツ、オーストリア、チェコにあたるところ。名前に反し、神聖でもローマでも帝国でもない、多民族大小自治都市国家の連合体。
地図によってはミラノから、サヴォイア、モデナ、フィレンツェ、シエナまでを神聖ローマ帝国の境界線内に含んでいるが、これはイタリアを自国領土と主張し続けていたから。
- ヴェネツィア共和国・・・十人評議会(ドージェ(総督)はアゴスティーノ・バルバリーコ(在位1486〜1501))
交易による富と無敵の海軍力を背景に栄えた強力な国家。チェーザレの快進撃を不気味な沈黙で見守り、苦境に立ったとたん牙をむいた憎いやつ。
- フェラーラ・・・エステ家
もとは教皇から封土された地(教皇領)であったが、公爵領として確立していた。
ルクレツィアが三度目の結婚(1502年、アルフォンソ・デステと)で嫁ぐ地。ここで最期を迎える。お墓も現存する。 - フィレンツェ・・・メディチ家 → サヴォナローラ → 共和制(ピエロ・ソデリーニ) → メディチ家
- ピオンビーノ・・・アッピアーノ家
- ナポリ王国・・・アラゴン王家(アラゴーナ家)
- ベネヴェント・・・ホアン・ボルジア → チェーザレ・ボルジア
- ビシュリエ・・・アルフォンソ・ダラゴーナ
- スィクラーチェ・・・ホフレ・ボルジア
- スイス連邦・・・1499年に神聖ローマ帝国から離脱。正式にスイス連邦として独立するのは1648年ウエストファリア条約によって。
- オスマン・トルコ・・・バヤズィト2世(在位1481−1512)
イタリア諸都市
- ボローニャ・・・ベンティヴォーリオ家
- イモラ・・・スフォルツァ家
- ファエンツァ・・・マンフレディ家
チェーザレの最初の敗北となる地。最終的には攻め落とすけど。 - フォルリ・・・スフォルツァ家
チェーザレが捕縛されても、忠誠をつくし最後まで抵抗した地。 - チェーゼーナ・・・マラテスタ家→ティベルティ家、マルティネッリ家
チェーザレは1500年のクリスマスをこの地で、民衆とともに楽しく過ごす。 - リミニ・・・マラテスタ家
- ペーザロ・・・スフォルツァ家
ルクレツィアの最初の結婚相手ジョヴァンニ・スフォルツァの所領地。 - ファノ・・・マラテスタ家
- シニガリア・・・デッラ・ローヴェレ家
チェーザレが裏切り者の傭兵隊長たちを一斉に始末した、シニガリア城のある地。 - ウルビーノ・・・モンテフェルトロ家
- チタ・ディ・カステッロ・・・ヴィテッリ家
- ペルージャ・・・バリオーニ家
- カメリーノ・・・ヴァラーノ家
- フェルモ・・・エウフレドゥッチ家
- ピサ・・・メディチ家
- エミーリア街道・・・リミニからミラノへ続く街道。紀元前、ローマ時代に建設され、現在でも幹線道路として利用されている。ミラノではなくピアチェンツァを北の拠点とする説もある。
チェーザレはこの街道にある都市をイモラから順に進撃して行った。 - フラミニア街道・・・リミニからローマへ続く街道。紀元前、ローマ時代に建設され、現在も幹線道路として利用されている。
都市別
- イモラ Imola
- ウルビーノUrbino
- カステル・ボロネーゼCastel Bolognese
- シエナSiena
- シニガリアSenigallia
- チェゼーナCesena
- ナポリNapoli
- ピサ Pisa
- ファエンツァFaenza
- フィレンツェFirenze
- フェラーラFerrara
- フォルリForli
- ブリジゲッラ Brisighlla
- ペーザロPesaro
- ボローニャBologna
- マントヴァMantova
- ミラノMilano
- モデナModena
- リミニRimini
- ルッカRucca
- ローマ Roma
- ヴァランスValence
その他
ボルジアの間
サンタンジェロ城
サンタ・マリア・デル・ポポロ教会
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