チェーザレ・ボルジアについて、とりとめのないけれど愛に満ちた探究心を発揮するサイトです。

ピサ、アルノ河の風景。

1475年〜1492年




1475年~1492年

子ども時代とロドリーゴの教皇選出

1475年(0歳)

9月13日
(14日
の説も)
チェーザレ、ローマに生まれる
父 ロドリーゴ・ボルジア(44)(対世間的には、父 ドメニコ・ダリニャーノ)
母 ジョヴァンノッツァ(ヴァノッツァ)・カッターネイ(33)
 ペルージャ県リニャーノ(おそらくチェーザレの父とされたドメニコ・ダリニャーノの出身地だから)やスペインのヴァレンシア(ロドリーゴ・ボルジアの実子ではなく甥である説はこの説を取りがち)生まれなどの説もあるが、ローマ県スビアーコ生まれという説が有力。



1480年(5歳)

10月1日シクストゥス4世、チェーザレが自身の生まれの正統性を証明することを免除する勅書を発行
つまり非嫡出子であろうがなかろうが、追求されないと言うこと。これによってチェーザレは幼少期から教会の役職を得ることができるようになった。



1481年(6歳)

10月9日
 
アラゴン王フェルナンド2世、チェーザレはボルジア枢機卿(ロドリーゴ)の実子であり、ボルジア貴族の子で姦通やその他の不正行為で生まれたものではないとする
アラゴン王国内に領地を持つ権利を与え、王政の全ての貴族と何ら変わらず平等であるとした。



1482年(7歳)

3月27日チェーザレ、聖職者代理職に
7月10日チェーザレ、ヴァレンシア司教区参事会員に

       
1483年(8歳)

3月27日

チェーザレ、教皇庁書記長(尚書院尚書)に
(教皇=シクストゥス4世、(ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレの伯父)
7月10日チェーザレ、ヴァレンシア大聖堂司教座聖堂参事会員に
8月16日チェーザレ、ハティヴァ司教座聖堂助祭に
チェーザレ、ガンディア司祭に

1484年(9歳)

9月12日チェーザレ、カルタヘナ大聖堂財務官に
 チェーザレ、タラゴナ大聖堂司教座聖堂助祭に
チェーザレ、レリーダ大司教座聖堂参事会員に

1488年(13歳)

 チェーザレ、ローマのスペイン人学者パオロ・ポンピリオの著作内でその将来性を賛美される
→ 関連エピソード

1489年(14歳)

チェーザレ、ペルージャの大学入学
家庭教師ジョヴァンニ(ホアン)・ヴェラとともにペルージャヘ、教会法を学ぶ
ペルージャにはフランチェスコ・レモリーネスもいたよう

1491年(16歳)

チェーザレ、ピサの大学へ転出
教会法と民法を学ぶ
9月12日チェーザレ、パンプローナ司教に
チェーザレが庶子であることと、15歳の子どもであることで、パンプローナ市民から激しい抗議
9月16日チェーザレ、ソリアーノからパンプローナ市議会へ手紙を書く
「トレドのマルティエ・カノンを代理人として派遣するので助力して欲しい」と依頼している


1492年(17歳)

2月1日ジョヴァンニ・デ・メディチ、ピサ大学を卒業
3月9日ジョヴァンニ・デ・メディチ、枢機卿に
4月8日ロレンツォ・デ・メディチ死去
7月25日インノケンティウス8世、崩御
8月6日

コンクラーヴェ開催
23人の枢機卿が参加、3分の2以上の支持で選出される

  • この時の各国の関係

三国同盟(ミラノ、フィレンツェ、ナポリの対教皇庁、ヴェネツィア同盟)が崩壊していた。
教皇庁(デッラ・ローヴェレ家)とナポリが同盟し、フィレンツェも教皇庁支持の立場をとっていた。
(この時教皇庁の中で最も力を有していたのはデッラ・ローヴェレ家であった。なので、ローヴェレの動きはイコール教皇庁の動きとして捉えられる。)
(4月に死去したロレンツォ・デ・メディチ(フィレンツェ)は、息子ジョヴァンニを枢機卿にという悲願のために、やむなく教皇庁を支持にまわった。)

ミラノを支えるのはボルジア家のみだった。
(戦争を回避するために、ミラノを孤立させるわけにはいかなかった。教皇庁の支援を得たナポリがミラノに進攻するのは目に見えていたから。)

ボルジアの成すべきことは、ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレの選出を抑えることはもちろん、ナポリ派の教皇を出さないということであった。

1492年、コンクラーヴェ時における情勢。

※ ヴェネツィアは教皇庁と同盟関係にはあったが、ローヴェレ派ではなく中立的だった。


  • 参加した枢機卿
  • ボルジア派(スフォルツァ派)
    ロドリーゴ・ボルジア(スペイン)
    オリヴィエーロ・カラーファ(ナポリ)
    ドメニコ・デッラ・ローヴェレ(サヴォーナ)
    ジョヴァンニ・コンティ(ローマ)
    フランチェスコ・ピッコローミニ(シエナ)
    アルディチーノ・デッラ・ポルタ(ミラノ)
    ラファエーレ・リアーリオ(サヴォーナ)カメルレンゴを務める。
    ジョヴァンニ・バッティスタ(ジャンバッティスタ)・オルシーニ(ローマ)
    アスカーニオ・スフォルツァ(ミラノ)
    フェデリーコ・サンセヴェリーノ(ナポリ)
  • ローヴェレ
    ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ(サヴォーナ)
    ジョヴァンニ・バッティスタ・ゼーノ(ヴェネツィア)
    ジョヴァンニ・ミキエル(ヴェネツィア)
    ジョルジョ・ダ・コスタ(ポルトガル)
    ジローラモ・バッソ・デッラ・ローヴェレ(サヴォーナ)
    パウロ・フレゴーソ(ジェノヴァ)
    ロレンツォ・チーボ・ディ・マリ(ジェノヴァ)
    マフェオ・ゲラルド(ヴェネツィア)
    ジョヴァンニ・バッティスタ・サヴェッリ(ローマ)
    ジョヴァンニ・コロンナ(ローマ)
  • 中立派
    アントニオット・パラヴィチーニ(ジェノヴァ)
    ジョヴァンニ・ジャコモ・スクラフェナーティ(ミラノ)
    ジョヴァンニ・デ・メディチ(フィレンツェ)


  • 欠席した枢機卿
    ルイス・ホアン・デ・ミラ・イ・ボルハ(スペイン)ロドリーゴの従兄弟
    ペドロ・ゴンザーレ・デ・メンドーザ(スペイン)
    アンドレ・デスピナ(フランス)
    ピエール・ドビュッソン(フランス)

有力候補

  • ロドリーゴ・ボルジア(61歳)(スフォルツァ支持の立場をとるダークホース)
  • オリヴィエーロ・カラーファ(62歳)(スフォルツァの強い支持を得ていた)
  • ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ(50歳)(ナポリ王と同盟し、巨大な後ろ盾を持つ)
  • ジョルジョ・ダ・コスタ(86歳)(高齢であることは新教皇として適当であった)


1回目
オリヴィエーロ・カラーファ9票
ロドリーゴ・ボルジア7票
ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ5票
2票


2回目
オリヴィエーロ・カラーファ9票
ロドリーゴ・ボルジア8票
ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ5票
1票


3回目
オリヴィエーロ・カラーファ9票
ロドリーゴ・ボルジア8票
ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ5票
1票


8月10日、3回目の投票を終えても新教皇は決定しえなかった。
ボルジアはまず、3人のヴェネツィア人枢機卿の中でも最も有力者であった、マッフェオ・ゲラルディを落としにかかる。
ゲラルディがボルジア派となったことによって、ヴェネツィアの票はローヴェレからボルジアへと流れることになる。
そしてサヴェッリとコロンナが篭絡されると、中立であった者もボルジア支持を受け入れる。
ローヴェレとコスタの2人は最後まで頑迷に拒否し続けたが、最終的には多数決を受け入れないわけにはいかなかった。



ボルジア、スフォルツァを買収。カラーファへの票はボルジアへ。

4回目
ロドリーゴ・ボルジア17票

3分の2を獲得!
(満票だったという説も。ボルジアの1票はカラーファに。(自分自身への投票は不可である。))


8月11日

ロドリーゴ・ボルジア、アレクサンデル6世として教皇に選出
チェーザレは18時間後にはこの報せを受けていた


8月16日
 
 
チェーザレ、シエナで行われたパリオに参加
彼の馬は1着でゴールするが騎手が落馬しており失格、これに対して抗議の手紙を書いている→ミゲルの落馬とチェーザレの抗議
8月21日

チェーザレ、ピサを離れスポレートへ
→ その年の秋冬をスポレートで過ごす
ネポティズモ(親族登用主義)への無関心を印象づけるためにローマから遠ざかったと言われるが、ナポリのミラノ進攻に備えて、要衝であるスポレートへ送られた(戦争になった場合ナポリを止める役目だった)
アレクサンデル6世の戴冠式には出席しなかったよう
8月26日教皇戴冠式
壮大で華麗な式が行われる。
ボルジアの牡牛で飾られた街道をサン・ピエトロ大聖堂からサン・ジョヴァンニ・ラテラーノ教会までを2時間かけて行進。
アレクサンデルは教皇の玉座に座るとき、失神しかけたという(ホントかな?)
しかし民衆はこれまでの教皇のひ弱さに比べて彼の頑健さに安心したとも言われている(こっちのがありそう)
実際、 殺人や強盗、司法権の乱用、公金の無謀な浪費は、インノケンティウス8世の時代多く見られたが、ローマの治安は幾分安定したよう。
バチカンでの個人的、公的な支出は厳しく管理された。教皇は禁欲的な生活の模範を示した。


8月31日

チェーザレはヴァレンシアの大司教に
→ チェーザレはこの報せをスポレートで受け取る
ヴァレンシアは同年7月9日に大司教区になっており、18,000ドゥカートもの収入があった
従兄のホアン・ボルジア・ランソル(サヴィオ)はモンレアーレ(サンタ・スザンナ?)の枢機卿に
アレクサンデルは教会やローマ市の改革を断行
豪奢なイメージの強いボルジア家だが、困窮していた教会の財政を立て直すために支出をきりつめ、数年で好転させたと言う
10月5日





チェーザレ、ピエロ・デ・メディチに手紙を書く
ピサを離れる際に挨拶できなかったことを詫び、フランチェスコ・レモリーネスを法学部教授に推薦している
(塩野版ではピサからローマに呼んだとなっているけど(p28)、逆に残してくれるように依頼したんだと思う)(1492年、1493年のピサ大学特別教授名簿にフランチェスコの名前がある)
10月 チェーザレ、スポレートを経ちローマへ
翌年3月19日までスポレートにいたという説もある(こちらの方が有力かも)




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