時代背景
チェーザレの時代(15世紀末)までのヨーロッパ世界
西ヨーロッパ世界の形成
現在のヨーロッパを形成するゲルマン民族(バルト海沿岸を原住地とし、ゲルマン語を話す諸民族。身体的特徴としては長身、金髪、碧眼、白い皮膚)は、4世紀頃まで、東ヨーロッパ周辺で、農耕や牧畜を行って暮らしていた。
375年、アジアの遊牧騎馬民族であるフン族が、ヨーロッパへ侵入をはじめる。
ゲルマン人はフン族に圧迫され、より暮らしよい土地を求めて、ローマ帝国の領土内への大移動をはじめる。
この大移動で、ゲルマン民族はローマ帝国内に自分たちの国を作りはじめ、ローマ帝国の混乱と衰退は決定的となる。
395年に帝国は東西に分裂し、476年に西ローマ帝国は滅亡する。(ゲルマンの傭兵隊長オドアケルによって。東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の滅亡は1453年、オスマン帝国によって。)
多くのゲルマン諸国家が早くに滅んだ中にあって、フランクだけは、カトリックに改宗し、ローマ教会とのつながりを強め、ヨーロッパの広域を征服する。
732年にはフランク王国の宮宰(大臣)カール・マルテルが、トゥール・ポワティエの戦いでイスラム軍を撃退し、西ヨーロッパのキリスト教世界を守り、勢力を強めた。
756年、教皇ステファヌス2世の要請でロンバルド(ゲルマンの一部族)を討伐したフランク王国のピピンは、獲得したラヴェンナの地を教皇に献上する。これが教皇領のはじまりとなる。
→ チェーザレが征服する、ロマーニャやマルケ地方が、この教皇領の一部にあたる。
教会の力が弱小であったため、教皇領とは名ばかりで、各地の豪族たちが、教皇代理として実権を握り、抗争をくり返していた。
チェーザレは、弱小であった教会の力を強化し、「教皇の領土を教皇に返す」という名目で、この教皇領の統一を目指し、進撃する。
800年のクリスマスの夜、サン・ピエトロ大聖堂にて、教皇レオ3世はピピンの子、シャルル・マーニュ(カール大帝)にローマ帝国皇帝の冠を授ける。褒章であり、教皇権の優位の確認であり、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)への対抗措置でもある行為だったが、これにより、世俗の王位は教皇によって承認される、という伝統がつくられた。
→ ナポリ王アルフォンソ2世やフェデリーコ、フランス王シャルル8世らが、王位継承権承認をチェーザレの父・教皇アレクサンデル6世に求めたのは、このため。
また、ナポリ王国は教会から封土された地であったから、教皇の承認は必須だった。
(1497年、ナポリ王フェデリーコの戴冠式は、教皇代理としてチェーザレが行っている。)
カール大帝の死後、相続争いが起こり、フランク王国はベルダン条約(843年)とメルセン条約(870年)によって、三国に分裂する。これがフランス、イタリア、ドイツのはじまりである。
- フランス(西フランク)は王権が弱く、大小の封建諸侯が自立化した。が、ルイ6世(位1108〜1137)の時代に権力を高め、フィリップ2世(位1180〜1223)、ルイ9世(位1226〜1270)時代から強力な王国となっていく。
- ドイツ(東フランク)は962年、オットー1世が、教皇ヨハネ12世により帝冠を受け、神聖ローマ帝国皇帝となる。
歴代の神聖ローマ帝国皇帝は、そのローマ皇帝の名のゆえにしきりにイタリアへの干渉を行い、自国の統治をなおざりにして、諸侯の台頭をまねき、集権化できなかった。
- イタリア(中フランク)はローマ教皇庁が存在し、文化的地位は高かったが、諸侯や都市が独立していき、統一支配者である王をもたず、国内は乱れた。
群雄割拠する戦乱の時代となり、
ここでチェーザレはイタリアの統一をめざすこととなる。
※この時代背景の説明は
「君主論 まんがで読破」マキァヴェッリ 企画・漫画バラエティ・アートワークス イースト・プレス
に、とても簡単ですがわかりやすくあります!オススメ。
難しいので、ミゲルでひと休み・・・。
十字軍の影響によるヨーロッパ世界の変化
11世紀から13世紀、ヨーロッパでは封建社会(階級・職能が世襲的で、農奴が生産労働を担当し、国王・貴族・聖職者がそれを支配する社会制度。領主は家臣に封土を給与し、代わりに軍役を課す主従関係を指してもいう)が発展し、生産力が増大し、社会が安定する。
それは対外発展への気運の高まりを生み、また、宗教的情熱の高揚にもつながる。
→閉鎖的であった社会が外界へ進出しようとする。
→十字軍遠征
(200年の間に7回行われた。)
※当時キリスト教の聖地イェルサレムはイスラムのファティーマ朝に支配されていた。
教皇の権威は十字軍とともに高まり、インノケンティウス3世(位1198〜1216)の時絶頂に。
(「教皇は太陽、皇帝は月」教皇の皇帝に対する優位を誇示した彼の言葉)
しかし最終的に十字軍は目的を果たせず、教皇、諸侯、騎士の力は衰える。
(諸侯、騎士は遠征中に領土が荒れたり、戦死したり、遠征費の支出で貧しくなったりした)
一方、十字軍によって、ヨーロッパ勢力が東地中海に進出したため交通路が開け、東方貿易が発展し、商業活動がさかんとなり、北イタリアなどの都市が栄える。
(ヴェネツィア、ジェノヴァ、ピサ・・・東方貿易(香辛料、染料、絹織物)
ミラノ、フィレンツェ・・・商業、毛織物工業)
都市はやがて自治権を獲得し、独自の行政、司法組織などをもち、独立した都市共和国となっていき、やがて都市の豪族が王侯をしのぐほどの力を持つようになっていく。
→メディチ家とか!
→ だからチェーザレの時代には各都市に支配者の一族がいて、事実上独立国家を形成し(ミラノ、ヴェネツィア、フィレンツェ、シエナ、フェラーラ、マントヴァなど)、教皇の支配下にあるはずの教皇領(ボローニャ、ファエンツァ、リミニ、ペーザロなど)にも「教皇代理」の称号を持った豪族・僭主が力を持ち、政争していた。
他方イギリスやフランスの都市は、政治的に独立するというよりも、王権との結びつきを強め、やがて王権の伸長の重要な基礎になっていく。
(フランスとイギリスは百年戦争(1339〜1453 王位継承権とフランドル地方をめぐる争い)により諸侯の力が衰退し、より王権は強化され、絶対王政への道へつながる)
教会の権威の衰退
十字軍の失敗によってゆらぎはじめたローマ教皇の権威は、国王の権力の強化によってさらに衰えることとなる。
1303年、聖職者にも課税を行おうとしたフランス王フィリップ4世は、これに反対する教皇ボニファティウス8世と争い、王は教皇をローマ近郊で捕らえた。
→ アナーニ事件
これが教皇権威の没落のはじまりとされる。
教皇が屈辱のうちに死亡すると、1309年、フィリップ4世は教皇庁を南フランスのアヴィニヨンに移し、以後70年にわたって教皇庁はフランス王の下に置かれることとなった。
→ 教皇のバビロン捕囚(アヴィニヨン捕囚)
(ユダヤ教徒のバビロン捕囚になぞらえた言い方。教皇のアヴィニヨン捕囚ともいう。)
1378年、教皇のバビロン捕囚がグレゴリウス11世の死去とともに終わり、ローマには新教皇ウルバヌス6世が選出された。しかしフランスの枢機卿たちはこれに反対し、アヴィニヨンにも教皇クレメンス7世を立てた。
こうして二人の教皇がローマとアヴィニヨンに擁立することとなってしまう。
→ 教会大分裂(Schisma シスマ)
(1378年から1417年まで続く)
教会は西欧諸国の利欲にさらされ混乱をきわめ、統一キリスト教世界という理想はひきさかれた。
→ 教会の腐敗をなげく改革者サヴォナローラなどが現れ、宗教改革の先がけとなる。
ルネッサンス
13世紀ごろまでのヨーロッパは、教会の力が絶大で人々の心のよりどころであった。
しかし中世の封建社会が変質し、カトリック教会の権威が衰えるにつれて、古い宗教的束縛を脱し、新しい価値観を生み出そうとする思想、芸術の動きが現れる。
それは東方貿易によって栄え、商工業者が自治を行い、自由な空気の高まっていた北イタリアの諸都市ではじまる。
(15世紀以降ヨーロッパ各地にも広がる。王権の伸長にともなって国民の統一がなされていたため、イタリアの場合よりも広く国民の間に根を下ろした。)
→ ルネッサンス
ルネッサンスとはフランス語で「再生」という意味で、「文芸復興、古代復興」と訳される。古典古代の自由な人間の生き方に共感し古典文化を模範とあおいだので、古典文化の復興という意味でこう呼ばれる。
イタリアには政治的統一がなく、十字軍以降東方貿易で繁栄した諸都市は自治都市として自立し、互いに抗争をくりかえしていた。この繁栄と抗争が自由な個性の発揮を可能、必要として、ルネッサンスは発展した。
(16世紀前半、集権化した西欧の強国がイタリアを戦場にし、イタリアルネッサンスは急激に凋落することになる。)
政治的統一も宗教的統一も失われ、
混迷を極めつつも繁栄した躍動的な時代を背景に、
チェーザレは生まれることになる。
イタリアの情勢
ローマ帝国滅亡後
ローマ帝国滅亡後(5世紀)、イタリア半島は異民族の侵略や外国勢力の干渉を受け、小国が乱立し、争いあう状態が続く。
9世紀になると、イタリアを自らの支配下にあると見なす神聖ローマ帝国皇帝と教皇の対立により、半島はたびたび戦場となり国は荒れていった。
- 北部・中部イタリア
11世紀、ヴェネツィア、ジェノヴァ、ミラノ、フィレンツェ、ピサ、シエナなど、北部中部イタリア諸都市が海運業や商業、金融業によって栄え始める。
13世紀、第4回十字軍に勝利すると、交易網は地中海各地に張り巡らされた。
- ヴェネツィア
ギリシアやエーゲ海の島々に多くの寄港地を得、貿易国として確固たる地位を築いた。共和国としての政体もこの頃に形成されていった。
- ミラノ
13世紀後半にゴッタルド街道を開通。アルプス越えが容易となり、神聖ローマ帝国との交易が盛んとなった。
1271年、ヴィスコンティ家は教皇グレゴリウス10世を輩出、ミラノの支配権を確立した。
- シエナ
ヨーロッパ中に銀行を出店、フィレンツェがそれに続いた。
両者は教皇庁の業務を請け負い、多大な利益を上げた。
- フィレンツェ
金融業だけでなく毛織物産業で富を築き、シエナやピサを圧倒し覇権を握るようになった。
各地は名目上は神聖ローマ帝国の傘下にありつつも、実質的には独立した政治的権限を持つ都市国家へと発展していく。
また、教皇領は1305年に教皇庁がアヴィニヨンに移されたことによって統治者を欠き、群小の都市国家に分割されていった。
都市国家は互いに紛争を繰り返し、シニョーレと呼ばれるイタリアの小君主たちはコンドッティエーレと呼ばれる傭兵隊長として台頭した。
- 南部イタリア
12世紀、ナポリとシチリア島はスカンディナヴィアおよびバルト海沿岸に原住した北方系ゲルマン人(ヴァイキング)に征服され、ノルマン朝シチリア王国が樹立された。
この王朝と神聖ローマ帝国との婚姻で誕生した、フリードリヒ2世(フェデリーコ2世)(1194-1250)はイタリア半島の統一に乗り出すが、その意は果たされなかった。
彼は幾度となく教皇と対立し2回も破門された王であったが、異文化や異民族宗教に寛容で、知的好奇心に富み広い学識を持つ「王座の最初の近代人」であったとして評価は高い。
13世紀、半島の南部にできた神聖ローマ帝国皇帝の国を憂慮した教皇は、フランスと手を組み、フランス王ルイ9世の弟であったシャルル・ダンジューを送りこむ。
シャルルはフリードリヒ2世の庶子マンフレーディを倒し、シチリア王カルロ1世として南ナポリとシチリアを支配する。が、フランスによる支配に反感を持つ民衆はアラゴン王の支持を得て反乱を起こす。(シチリアの晩祷)
シチリア王国は2分され、シチリアはアラゴンの支配下に入り、半島側はフランス支配下のナポリ王国と呼ばれることになった。
1435年、ナポリ女王であったアンジュー家のジョヴァンナ2世が死去すると、シチリア王でもあったアラゴン王アルフォンソ5世がナポリに侵攻、1442年にナポリ王となった。
→ このことがシャルル8世のイタリア侵攻の理由になる
ロディの平和と権力均衡政策
長年に渡る紛争のくり返しに倦んだイタリアは、1454年、ミラノの南東にあるロディの地において平和条約を締結する。
ヴェネツィア、ミラノ、フィレンツェ、教皇庁、ナポリの半島における5大国家の相互防衛同盟である。
これは前年1453年にコンスタンティノープルが陥落し、東ローマ帝国がオスマン帝国に滅ぼされたことに対する危機感も影響していた。
この平和条約はイタリアのほとんど全ての小国の支持をも得、諸都市国家間の戦乱は表面的には終わりを迎えた。(数度の中断は生じるがその後40年間、シャルル8世のイタリア侵攻まで「イタリアの平和」は続いたとされる。)
この平和はルネサンスの動きも後押しすることになった。
- この時の各国支配者
翌年1455年、対ヴェネツィアの防衛同盟がミラノ、フィレンツェ、ナポリの間で締結される。
ヴェネツィアは他国に比して強大であり、その勢力をさらに拡張しようとしていた。
三国は互いに疑心を抱き、隙あらば抜け駆けする心持ちであったが、保身のために同盟していた。絶えずお互いを監視しあうことで、同盟は強固とは言えずとも安定していた。
このパワーバランスの釣りあいを図ることで平和を維持する方策は、ロレンツォ・デ・メディチ(イル・マニーフィコ)の勢力均衡政策へつながってゆく。
- パッツィ家の陰謀
1478年、パッツィ家の陰謀事件において、このミラノ、フィレンツェ、ナポリの三国同盟は崩れた。
教皇庁(シクストゥス4世)はナポリと手を組むという離れ業を行い、フィレンツェを攻撃しようとする。
(教皇庁はフランスのアンジュー家と傭兵契約を結んでおり関係が深かった。アンジュー家とは確執のあるナポリと手を組むことはありえないことだった。)
しかしロレンツォ・デ・メディチの外交手腕によって、ナポリは翻意。結局同盟は元に戻ることになる。
ロレンツォ・デ・メディチの死
1492年が始まったとき、イタリアは勢力均衡政策をとるロレンツォ・デ・メディチの意図したとおりの状態にあった。
教皇庁、ヴェネツィアの同盟に対抗するミラノ、フィレンツェ、ナポリの三国同盟。この力のバランスによって、イタリアの平和は守られていた。
しかし、インノケンティウス8世の死期が近づきつつある中、次期コンクラーヴェに向けての動きが始まる。
ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレがナポリに近づき、パッツィ家の陰謀以来となる教皇庁とナポリの同盟を実現させる。
(この時教皇庁の中で最も力を有していたのはデッラ・ローヴェレ家であった。なので、ローヴェレの動きはイコール教皇庁の動きとして捉えられる。)
(ナポリはミラノと姻戚関係にあったが(1489年、ミラノ公爵ジャン・ガレアッツォ・マリア・スフォルツァとフェランテ王の孫にあたるイザベッラ・ダラゴーナの結婚)、ジャン・ガレアッツォはいつまでたっても、摂政である叔父フランチェスコ・イル・モーロの傀儡であり続けていた。
フェランテ王はイル・モーロの野心に懸念を抱いており、ミラノへ対する挙兵をの機会を狙っていた。教皇庁との同盟はやぶさかではなかった。)
ナポリと手を組んだことによって教皇庁は力を得る。
この時インノケンティウス8世同様に死期のせまっていたロレンツォ・デ・メディチの悲願は、息子ジョヴァンニを枢機卿にすることであった。
ロレンツォは内心は苦渋の思いをかみしめながらも、教皇庁を支持しないわけにはいかなかった。
ミラノは孤立してしまう。
4月、ロレンツォ・デ・メディチが死去する。
長い間、その卓越した外交手腕でイタリア半島の平和を支えていた彼が倒れた今、かつてのパワーバランスを取り戻すことは困難なことであった。いつ戦争が始まってもおかしくない。
来たるコンクラーヴェにおいて、ボルジアのなすべきことは、ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレの選出を抑えることはもちろん、ナポリ派の教皇を出さないということであった。
このような情勢において、1492年のコンクラーヴェは始まる。
※ ヴェネツィアは教皇庁と同盟関係にはあったが、ローヴェレ派ではなく中立的だった。
15416 1 2