チェーザレ・ボルジアについて、とりとめのないけれど愛に満ちた探究心を発揮するサイトです。

ダラゴーナ

アラゴーナ家(Aragona)

スペイン、アラゴン王国トラスタマラ家のアルフォンソ5世がナポリで築いた一族。
アルフォンソ5世は1442年、フランス、アンジュー王家のルネ・ダンジューをナポリから駆逐し王位を獲得した。
スペインのアラゴン王家とは同じ家系だが、長く断絶していてほぼ他人。仲も悪かった。
1492年のグラナダ陥落を、スペインはナポリに知らせなかったくらい。(フィレンツェやローマには知らせているのに。)

ちなみにアラゴーナ以前のナポリの支配者は、

支配者
〜476西ローマ帝国
476〜東ローマ(ビザンツ帝国)、ランゴバルドなど
1027ノルマン家(フランス)
1194ホーウェンシュタウフェン家(神聖ローマ帝国)
1266アンジュー家(フランス)
1282シチリアの晩祷(それまでシチリア王国として1つだったシチリアとナポリが分裂。シチリアはアラゴン家(スペイン)、ナポリは引き続きアンジュー家(フランス)に)
1442アラゴン家(スペイン)


アルフォンソ5世(1世)

アラゴン王としては5世だがナポリ王としては1世。
ナポリにおけるアラゴン王家アラゴーナの始祖。
ロドリーゴ・ボルジアの伯父であるアロンソ・デ・ボルハ(カリストゥス3世)が仕え、後に対立した人。




フェルディナンド1世(フェランテ)

アルフォンソ5世の庶子。非嫡出子であるが王位を継承した。カリストゥス3世になるアロンソ・デ・ボルハはこの人の家庭教師していた。
1492年のコンクラーベ時期の王はこの人。
惣領版チェーザレの「フェッランテ王」。




アルフォンソ2世

(1448年11月14日 - 1495年12月18日)
1494年、ナポリ王位の継承権を前教皇インノケンティウス8世に認められていたとして戴冠した。シャルル8世のイタリア侵攻時にナポリ王である人。
シャルルが攻めてくると王位を長子のフェルディナンドに譲位し逃亡。まもなくシチリア島のメッシーナで死去する。
サンチャとアルフォンソの父。イケメンだったらしい。




フェルディナンド2世(フェランテ2世)(フェランディーノ)

(1469 - 1496)
ナポリ王である父アルフォンソ2世が、シャルル8世のイタリア侵攻時に逃亡したので王位を継承した人。



フェデリーコ1世




サンチャ・ダラゴーナ(Sancha d'Aragona)

(1478年~1506年)
チェーザレの弟、スィクラーチェ公ホフレ・ボルジアの妻。
ガエタ(ナポリの北方)生まれ。
ナポリ王アルフォンソ2世の庶出の娘。母はトロージア・ガッゼラ。
同じ父母を持つ弟アルフォンソ・ダラゴーナは、ルクレツィア・ボルジアの2番目の夫。
黒髪の官能的な美人だったらしい。

1492年、オノラート・カエターニと婚約。が、この話は消滅。1494年、チェーザレの末の弟ホフレ・ボルジアと結婚する。
(ナポリ王アルフォンソ2世は、ナポリを狙うフランス王シャルル8世と教皇アレクサンデル6世の同盟を懸念、教皇を味方につけるために、姻戚関係を作ろうと考える。
かくして、アルフォンソ2世の庶出の娘サンチャと、アレクサンデルの息子ホフレの結婚と相成った。)

奔放で放埓だったサンチャは、4つ年下で大人しく地味なホフレと馬が合わなかったらしく、この夫婦に親密さは全く感じられない。
1496年、2人はローマへ移るが、すぐにサンチャはホフレの2人の兄チェーザレとホアンと関係したと言われる。
ルクレツィアとは友情を育んだよう。
1499年、サンチャの弟アルフォンソ・ダラゴーナが、そのルクレツィアの2番目の夫となる。

1500年、新たにフランス王となったルイ12世と同盟したボルジアは、ナポリとの関係が邪魔になる。
アルフォンソ・ダラゴーナは暗殺され、サンチャはローマから遠ざけられる。
1501年、ルクレツィアは3番目にして最後の夫となるアルフォンソ・デステに嫁ぐ。
このことがきっかけとなったのか、ローマに戻っていたサンチャはイッポーリト・デステと関係を結ぶ。

1502年10月末、サンチャは不要で危険な人物としてカステル・サンタンジェロに軟禁される。
1503年2月、イッポーリトがフェラーラに戻ったことによって、2人の関係は終わる。

1503年、釈放され、プロスペロ・コロンナと愛人関係に。2人でコロンナ城塞で過ごした後、10月、ナポリへ赴く。

1504年2月、ゴンサロ・フェルナンデス・デ・コルドバと愛人関係に。

弟アルフォンソとルクレツィアの息子ロドリーゴを預かり育てる。サンチャの死後はイザベッラ・ダラゴーナスフォルツァが引き継いだ。

1506年、ナポリで病死。サンチャの死後、ホフレはマリア・デ・ミラ・ダラゴーナと再婚した。




アルフォンソ・ダラゴーナ(ビシュリエ公)




カルロッタ・ダラゴーナ(Carlotta d'Aragona)(Carlotta di Napoli)

(1480(1479?)–1506年10月6日)

ナポリ王フェデリーコ1世の長女。
1499年、還俗したチェーザレとの結婚話が持ち上がるが断固拒否した人。(当時17か18歳。チェーザレ24歳)
話を蹴っただけじゃなく、顔を合わせて口説かれたはずなのに落ちなかった。ある意味すごい。

カルロッタはチェーザレ(とルイ12世)がナポリ王国の継承権のために彼女との結婚を望んでいることを理解していた。
ルイ12世に対して「私がボルジアとの結婚という犠牲を払うなら、代わりにナポリ支配を放棄して、父と兄弟のためにナポリ王位を確保して欲しい。それならば喜んで従う」と言ったらしい。すごい。きっと才女だったんだろう。

カルロッタはフェデリーコ1世と最初の妻アンナ・ディ・サヴォイアの長女で、生まれてすぐに母親を亡くした。
フランス王シャルル7世の姪でもあったカルロッタはフランスで育つことになる。

神聖ローマ帝国のマクシミリアン1世の娘で、フランス王シャルル8世と婚約していたオーストリアのマルガレーテのもとで教育を受けた。
マルガレーテがオーストリアに去った後も、シャルル8世が結婚したブルターニュ公爵夫人アンヌのもとにとどまった。

彼女はフランス宮廷でアンヌの侍女に昇格し、彼女のお気に入りとなり、王家の娘として扱われた。



1500年7月20日、ブルターニュ地方で最も有力な貴族の一人であるラヴァル伯ギィ16世と結婚。リヨンのサンタ・クローチェ教会で行われた。

翌年、カルロッタの父はナポリ王位を失いフランスに逃亡、異母弟のカラブリア公フェルディナンドはスペインに送られた。彼女が2人と再会することはなかった。(フェルディナンドは他の妹イザベッラとジュリアにはスペインで再会できたよう)

1506年10月6日、第5子アンヌの出産で、ヴィトレで死去した。25歳(26歳?)だった。
10月11日、ルクセンブルク枢機卿フィリップによってラヴァルのサン・トゥーガル教会に埋葬された。



最後の娘アンヌだけが成人まで生き残り、子をもうけ、ナポリとフランスのタラントの継承権を譲り受けた。




ロドリーゴ・ダラゴーナ(Rodrigo d'Aragona)

(1499年11月1日~1512年)
ローマ生まれ。
ルクレツィア・ボルジアと彼女の2番目の夫アルフォンソ・ダラゴーナの唯一の息子。

バーリで死去。




ジョヴァンナ・ダラゴーナ(Giovanna d'Aragona)

(1479年4月15日 - 1518年8月27日)
ジョヴァネッラ(Giovannella)とも呼ばれる。
フェルディナンド1世(フェランテ)と2番目の妃ジョヴァンナ・ダラゴーナの娘。

1496年2月、17歳の時に10歳年上の甥ナポリ王フェルディナンド2世(フェランティーノ)と結婚。
が、フェルディナンド2世は同年9月に死去する。
その時一時ナポリ王位の後継候補となるが実現はせず、王位は夫の叔父でジョヴァンナの異母兄であるフェデリーコ1世に継承された。(1496年。チェーザレが戴冠式した)

未亡人となってもジョヴァンナはまだ若く、スペイン王フェルナンド2世の姪でもあったため、縁談が次々に舞い込んだ。チェーザレが還俗する時、この人も花嫁候補の名前に上がっていた。

しかし再婚することはなく、37歳で病により死去した。








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