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チェーザレ
チェーザレの手紙
- パンプローナ市議会への手紙
1491年9月16日、ピサ大学で教会法を学んでいた16歳のチェーザレがパンプローナの司教に叙階された時、パンプローナの市議会へ宛てて書かれた手紙。ピサではなくなぜかソリアーノで書かれている。
トレドの司祭マルティエ・カノンを代理人として派遣するので、何事も彼に任せ、また彼を助け指揮することを依頼している。
「もしこの高貴な都市、あなた方の福利、あるいは一般的な利益に影響する特別な事情があれば、私たちはそれを自分のことのように考えるので安心してください」
と締め、
パンプローナに選出されたセサル・ボルハ
とスペイン語で署名している。
(下記に同日に書かれた教皇インノケンティウス8世の叙階告知の手紙もあります)
すごく丁寧に活字のような文字を書いているけれど、このようにラテン語で美しい手紙を書くことも教養のひとつとされていた。16歳のチェーザレの優秀さがうかがえる。
そして手紙は成長とともにさらに美しくなっている。(ように見える。下記の手紙参照。ダ・ヴィンチへの通行証も。)
スペイン、パンプローナ市立公文書館所蔵。
- 弟ホアン・ボルジアへの手紙
同じ1枚の紙の裏表。
1494年4月18日、ローマで書かれたもの。
ガンディア公としてスペインにいるホアンに宛てて書かれた手紙。
1. 教皇アレクサンデル6世とナポリ王アルフォンソ2世の同盟が決定したこと
2. それによってモンレアーレの司教ホアン・ボルジア(el mayor、サヴィオ)が教皇公使に任命されたこと
3. 2人の弟ホフレが婚姻のためナポリへ赴くことになったこと
を伝えている。
また、
「ナポリ王からあなたに最大の栄誉が捧げられ、
年間12,000ドゥカートの収入に相当する
トリカリコ公国(prinçipat de Tricarico)(イタリア、バジリカータ州)、
カリノーラ伯領(comdat de Carinola)(イタリア、カンパニア州)、
クララモンテ伯領(comdat de Claramonte)(スペイン)
が割譲されることなった。これはあなたを心から愛し、あなたを偉大にすることだけを考えておられる聖下が、あなたの主権のために得られたものだ。
このことは、私があなたに抱かずにはいられない大きな愛と同様に喜ばしいことである。」
と書いている。
そして、
「報告が遅れてしまったのは、少し体調が悪かったのでスティラーノ浴場(baños de Stillano)へ行き、昨夜までそこに滞在していたからである。我々の主なる神の恩寵によって、とても健康になって戻って来た。」
と言いわけしてる。
結びは、
「あなたを自分のように愛してやまないあなたの兄、
ヴァレンシア枢機卿チェーザレ(セザール)」
宛名は、
「最も高名なる紳士であり、弟であるガンディア公爵、
トリカリコ公、カリノーラ伯、クララモンテ伯」
(新たに与えられた爵位を3つ並べて書き添えてるの、いいね!
良かったね!と讃えているようでもあり、ちょっと恩着せがましい感もあり、お兄ちゃんぽい。)
字が…他の人に書いてる手紙より、明らかに雑だと思うんだけど!?
それに画像左の真ん中より少し上、「lo més bell stat del Realme,」のR、間違えて書いた文字をごまかしてため、太字になってるように見える。
チェーザレ、ホアン相手だから手抜いてない?
同じ日にアレクサンデル6世、モンレアーレ司教ホアン、ペルージャ司教ホアン・ロペスも、ホアンに上記の1. 2. 3. を伝える手紙を書いている。
アレクサンデル6世の手紙は、加えてホアンの散財を叱責する内容が書かれており、チェーザレの手紙の2.5倍ほどある。
スペイン、ヴァレンシア大聖堂文書館(Arxiu de la Catedral de València)所蔵。
- イザベッラ・デステへの手紙
1502年6月12日に書かれたもの。
1501年末、ゴンザーガ家の長男フェデリーコとチェーザレの娘の結婚が交渉される。
チェーザレは「我々の結びつきは大きな利益をもたらす」と満足の意を告げている。
チェーザレのサインの後に彼の書記官であったアガピート・ゲラルディのサインが見てとれる。
マントヴァ、州立公文書館所蔵。
- フランチェスコ・ゴンザーガへの手紙
![Lettra di Cesare Bogia Lettra di Cesare Bogia](swfu/d/auto_ZDvN6p.jpg)
1506年12月7日、ナヴァーラ王国パンプローナにて、マントヴァ侯フランチェスコ・ゴンザーガに宛てて書かれた手紙。
(左上に日づけが書かれているのがわかる。)
フランチェスコはチェーザレの妹ルクレツィアの義理の兄にあたるので(ルクレツィアの夫アルフォンソ・デステの姉イザベッラ・デステの夫が、フランチェスコ・ゴンザーガ)、
チェーザレにとっても義兄となる。
(サインの上部に「eminor fratello」(younger brotherという意味)と書かれている。)
マントヴァ、国立古文書博物館所蔵。
1506年10月、チェーザレはメディナ・デル・カンポの城モタから脱走、妻シャルロットの兄、ジャン・ダルブレの国であるナヴァーラ王国の首都、パンプローナを目指す。
12月3日、多くの困難を乗り越え、チェーザレはその地にたどり着く。
数日後、チェーザレはマントヴァ侯と義弟イッポーリト・デステに向けて自由宣言の手紙を書き、秘書のフェデリーコをイタリアへ送る。
この手紙はその時チェーザレの書いた、人生最後の手紙。
塩野七生著「チェーザレ・ボルジア あるいは優雅なる冷酷」314ページにほぼ全文の訳が載せられている。
いわく、
「多くの苦難の末に、神は私を捕囚の身から解き放ち、自由を与えるよう決心された。この手紙を持って行く私の秘書官フェデリーコが、その詳細について報告するであろう。現在私は、ここパンプローナに、ナヴァーラ国の高潔なる王並びに王妃と共にいる。ここには、12月3日に到着した。」
チェーザレ解放のニュースは各方面に大きな衝撃を与える。震駭したユリウス2世はフェデリーコを捕らえ投獄、ボローニャで処刑してしまうという暴挙にまで出た。
チェーザレ関連の手紙
- インノケンティウス8世の手紙
1491年9月12日、インノケンティウス8世は16歳のチェーザレをパンプローナの司教に叙階。それを告知する同月16日に書かれた手紙。
(上記に同日に書かれたチェーザレがパンプローナ市議会に書いた手紙もあります)
スペイン、パンプローナ市立公文書館所蔵。
チェーザレの通行証
- レオナルド・ダ・ヴィンチに与えた通行証
(Lasciapassare di Cesare Borgia un Leonardo da Vinci)
1502年8月18日、チェーザレがレオナルド・ダ・ヴィンチに与えた通行証。
チェーザレの領土内のどこにでも通行税を取られることなく自由に往来でき、どの建物の中にも出入りでき、あらゆる場所で便宜を図ってもらえる開封特許状(勅許状)。
レオナルド・ダ・ヴィンチは1502年5月頃、ウルビーノにいるチェーザレを訪れ、チェーザレの建設技術顧問・軍事設備顧問になる。
7月25日、チェーザレは供を4人だけ連れてアスティのルイ12世に会いに行く。彼の行動は突発的で、行き先を知っている者はほとんどおらず、レオナルドはノートに「公爵はどこだ?」と書いている。
チェーザレは通行証を8月18日にパヴィアで署名しレオナルドに郵送しているので、チェーザレ不在中に仕事の滞ったレオナルドの訴えが旅先のチェーザレに届き、急ぎ書かれたものなのかも。
しかしチェーザレのことなので、ルイ12世と談合しながらもあらゆることに思考を巡らし、抜かりなく手回しした、と考える方がありそう?
レオナルドが「公爵はどこだ?」(Dove il Valentino)と書いているのは、ノートの端の覚え書きで、いつ書かれたものなのかはわかっていない。
ので、自分を建築技術士としてチェーザレに売り込みたいレオナルドが、神出鬼没で有名だったチェーザレとどこで会えるのか?と考えていた時にメモしたもの、という説もある。
レオナルドが後に愛弟子サライに与えたというチェーザレのマント(ケープ)は、この時通行証と一緒に付与されたらしい。
レオナルドはこのマントを羽織り、ロマーニャを視察し、壕の長さや中庭の広さを歩測で計り、四分儀という機器で城塞の凸凹を測り、その結果と感想をノートに記した。
このようにして同年秋、イモラの地図が描かれた。
レオナルドはチェーザレのもとを離れてからもずっとこの通行証を所持していた。(だから現存してるわけだけど!)
自分の書いたものはたくさん残してるレオナルドだけど、他人に書いてもらったものは希少なのでは…?思い出があったのかな?
訳:
『神の恩寵によりて、ロマーニャおよびヴァレンティーノ公、アンドリア君主、ピオンビーノ他の領主、また神聖なるローマ教会の旗手にして教皇庁軍総司令官たるフランスのチェーザレ・ボルジアは、
我が総督、城代、指揮官、傭兵隊長、役人、兵士、および全ての臣民に本証をもって告ぐ。
本証を持つ我が親愛なる偉大な友、建築および技術総監督レオナルド・ダ・ヴィンチに代わりこの証書によって命ずる。
彼は、我が領土のあらゆる家屋および城塞を視察し、必要である時には自らの判断に基づいて補修する任を負っている。
彼には自由な通行を保証し、本人および同行者に対する全ての税を免除すること。
また彼を友好的に遇し、彼の望むがままに測量、調査を行わせること。
そのために彼が必要とするだけの人員を提供し、彼の望むあらゆる援助と便宜を与え、協力を惜しまぬこと。
我が領土において行われる工事の全ては各技術者が彼と協議し、その意見に従うこと。
それが私の意志である。
あえてこの命に反する者は、私の大いなる不興を買うことになるだろう。
1502年8月18日、パヴィアにて
ロマーニャ公爵叙爵2年目の年に
チェーザレ』
序文と結びはラテン語、本文はイタリア語で書かれている。
1行目に8つほどあるカタカナの「イ」みたいなものは、装飾された文字。(厳粛な印象を与えるものらしい。でも屋根と壁でも描いてるみたい)
中央下部にチェーザレの封蝋印、その上に書記官アガピート・ゲラルディのサイン。左右に副書記官2人のサイン(Mandato Illtstrissimi DucisとF.Martius)
チェーザレのサインは下部が折られているので隠れて見えないが、左端にある。(少しだけ見える。)
チェーザレの印の裏には、教皇アレクサンデル6世の印が捺してある。(見えない)
羊皮紙。
すごく丁寧に活字のような文字を書いているので几帳面!?と思ってしまうけれど、このようにラテン語で美しい手紙を書くことも教養のひとつとされていた。チェーザレが16歳の時に書いた手紙も美しくて、彼の神童ぶりがうかがえる。
ミラノ、ヴァプリオ・ダッダ、メルツィ・デリル文書館(Archivio Melzi d'Eril)所蔵。
チェーザレの質問状
ドイツ人人文主義者で、科学者、化学者、医師、占星術師、錬金術師、軍事技術者、百科事典学者、などさまざまな顔を持っていた万能の人、ローレンツ・べハイム。
彼は22年間ボルジアに仕え、チェーザレの要望で毒物や兵器の研究をしていた。
チェーザレがべハイムに送った質問のリストが残っている。
両面に書かれた1枚の紙片。筆跡を見るに本人直筆。
ドイツ、ニュルンベルク市立図書館所蔵。
約90におよぶ質問で、
- 宝石(カーネリアンやサファイア)の作り方
- 鉛などの金属からエメラルド、トパーズ、ルビーを作る方法
のような錬金術の域を出ない呪術的(夢想的?)な要望もあるが、
- 橋を壊して水の上を歩く方法
- 溺れないようなベルトを作る方法
- 窓まで登り侵入できる長い槍を作る方法
- 砲弾で撃ち敵の大砲を割れる火薬を作る方法
- 鉄を使わず壁を壊す方法
- 眠り薬を作る方法
- それをカタパルト(投石機)で城に投げ込む方法
のような実際の戦闘を有利にするためのアイディア、また、
- 人工的に記憶を作る方法
- 離れた城と城にいながら会話する方法
のような恐ろしい発想もしている。(すごい…)
そして毒殺のボルジアの名にふさわしく「毒物(De venenis)」の項目を挙げ、
(左の写真の右側上方)
- 杯、塩、匂い、部屋、鞍、鐙、砂糖、泉、川、井戸、時間、日の中、月の中
に薬物を混入できないか
- その薬物で人や馬を健やかにも熱病にもできないか
と尋ね、
- それを敵の城内に投げ込む
ことを希望している。
(チェーザレは征服地の略奪を禁じていたことからわかるように、これから自分の所領となる地をできるだけ無傷で手に入れたいと考えていた。
戦闘が続けば続くほど街や城は荒れてしまうので、敵だけを速やかに抹消できる方法=毒ガス的なもので人だけ殺したい(または眠らせてその間に事をすませたい)、と思っていたよう。)
次の項目では「勇敢なもの(In cose galante)」と題し、
- 卵、鶏、予言、人影、足をひきずっている牝馬、何も食べない馬…
と書かれている。が、意味はよくわからない!
病気の馬の治療薬や、敵の馬を弱らせる手段が欲しかったのかも?
次の項目は「文具に関すること(In cose pertinenti a cancelleria)」。
- 手紙や封蝋を偽造できないか
- 封蝋された手紙を開き、また閉じることができないか
- 人体やシャツに書くことはできないか
- 鉄に書くことはできないか
- 書いた15日後に透明になるインクはできないか
- 火や鏡、水、点など特別なものを利用することでしか読めないような方法はないか
(「点」の説明としてサイコロのようなものを書いている。)
(右の写真の左側、下から9行目) - 機密を伝える使者が「文字を食べる」ことはできないか
(チェーザレは情報が敵に漏れないよう暗号を重視していた。ので、奪われたら終わりの手紙を使用せず情報を伝達する手段が欲しかった?例えば使者が内容を丸ごと暗記して運ぶような?それを「文字を食べる」と表現してるのかも。暗記パンじゃん!?)
そして「機械的なもの(In cose meccaniche)」という項目。
- 思考、話す死者の頭、金色の鉛、トラムダル(tramudar)(?)、動物、地球、人影、目を向ける
最後に、
- 農業のこともあれば、装飾品を着た女性もいる
「In Agricultura alcune cose, In ornamenti le donne」
と書かれているが、その下に質問はなく空欄になっている。
(右の写真の右下。よく見ると上記の文字がわかる。)
チェーザレがこの質問状を書いたのがいつ頃なのかはわかっていない。が、内容から1500年〜1503年頃であることは間違いないと思う。
計り知れないチェーザレの興味関心に、べハイムがどのような回答をしたのかは残っていない。
チェーザレの剣
- 鞘
![チェーザレの剣(鞘)表 チェーザレの剣(鞘)表](swfu/d/auto_BQ2Zv7.jpg)
表
![チェーザレの剣(鞘裏) チェーザレの剣(鞘裏)](swfu/d/auto_Sam0Dt.jpg)
裏
「la regina delle spade」(剣の女王)と称えられた、チェーザレの宝剣の鞘部分。
おそらく1497年に作られたもの。
子牛の皮(カーフレザー)でできている。作者は不明。
表側には、礼拝といけにえの羊を神に捧げる場面が描かれ、裏側には「CESARE」のモノグラムと炎をかたどった図案で飾られている。
表の下部は、おそらく皮革に不備があったために未完成。しかし19世紀に「革細工の中で最も見事な作品」と評されたこともある。
表 裏
![チェーザレの剣(鞘)表アップ チェーザレの剣(鞘)表アップ](swfu/d/auto_jcDFDO.jpg)
![チェーザレの剣(鞘)裏アップ チェーザレの剣(鞘)裏アップ](swfu/d/auto_t5IFq9.jpg)
長さ 83.5 cm
幅 8.5 cm
厚み 0.5 cm
重さ 0.34 kg
チェーザレの没落後、剣はスペインの所有となる。
18世紀初頭、フェルディナンド・ガリアーニ(イタリアの経済学者、哲学者)の手に渡り、ガリアーニの死後、オノラート・カエターニ(セルモネータの公爵)が譲り受けた。
1869年、ロンドンのヴィクトリア・アンド・アルバート博物館(V&A)が、10万ポンド(4,000スターリン)で購入。
現在は同美術館の、
room 62、「Medieval and Renaissance」のコーナーに展示されている。
刀身の方は、カエターニ家(ローマ、カエターニ財団)が所有している。時々展示会に出されたりしているよう。
細工はキリスト教に改宗したユダヤ人金細工師、エルコレ・デ・フェデーリによって彫られた。
フェデーリはフェラーラ公爵夫人となったルクレツィアのためにも多くの宝飾品を作成している。
剣本体の方に「CAR.VALEN」(CARDINAL VALENTINO)と刻まれているので、枢機卿時代のチェーザレのものと言われている。
が、剣の装飾には有名な「Aut Caesar aut nihil」を含むチェーザレの最も有名なモットーが含まれており、ガイウス・ユリウス・カエサルの凱旋というテーマが展開されている。これは当時のコンドッティエリの最高の手本であった。ので、チェーザレの還俗を記念して作られたものという説もある。
チェーザレの還俗はホアンの死(1497年6月)以前から検討されていたと言うので、枢機卿チェーザレがはやる気持ちで作らせたものかも?そういう先走る行動、すごいやりそう。
チェーザレの墓
チェーザレの紋章
チェーザレのメダル
![画像の説明 画像の説明](IMG_6396.jpeg)
表にチェーザレの横向きの肖像(鎧をつけ上部に羽飾りの付いた軍帽を被っている)、裏にチェーザレの公爵紋が彫られている。
1553年よりは前に造られたもの。
おそらくイタリア製。
36ミリ、26.48グラム。
ロンドン、大英博物館所蔵。
チェーザレ関連のレオナルド・ダ・ヴィンチ
チェーザレの毒薬
![画像の説明 画像の説明](swfu/d/DSCF7457.jpg)
![画像の説明 画像の説明](swfu/d/auto_ep9YZK.jpg)
モタ城グッズ
![モタ城の描かれたペーパーウェイト。 モタ城の描かれたペーパーウェイト。](swfu/d/auto_lY90h7.jpg)
モタ城は1505年夏から翌年秋まで、チェーザレが幽閉されていたところ。
メディナ・デル・カンポのフェリアス博物館では、モタ城をモチーフとした土産物が販売されている。
写真はペーパーウェイト。同じ絵柄のマグネットとミラーもある。
絵は、19世紀のイギリス人画家トーマス・ディブディン(Thomas Robert Colman Dibdin)によって1845年に描かれた「モタ城(Castillo de la Mota)」の一部。(でも切れているところはほんの少し。)
喫茶「チェーザレ」
![喫茶チェーザレ。 喫茶チェーザレ。](swfu/d/auto_mve4R8.jpg)
大阪市北区にあるチェーザレの名をもつ喫茶店。
カエサルやチェーザレ・パヴェーゼのことでなく、チェーザレ・ボルジアにちなんでつけられた店名。
しかし、現在のオーナーである女性は2代目で、
「イタリアの歴史上の人物で、チェーザレって人がいた、っていうことは知ってるけど(先代に聞いたから)、それ以上は何も知らない」とのこと。
「時々、店名の由来を聞かれるけど、なんだか難しくて、説明できないんですよ。
みんなどうしてそんな人知ってるんでしょうね?やっぱり有名な人なんですかね。」
だって(苦笑)。
日替わりランチが美味しいそうです。
- 喫茶「チェーザレ」 - 大阪市北区西天満5-15-5 南森町駅から約5分
-営業時間
7:30 - 18:00
日祝休み(土曜は不定休)
-電話番号
06-6365-5928
2023年5月現在、閉店されたようです。残念…
ストリートヴューのアーカイブ見ると、2020年11月は営業されてたようですが2022年9月にはなくなっていました。今はタイ料理のお店が入っているようです。
ボルジア家
ボルジア家の紋章
ボルジアゲーム
![ボルジアゲーム。箱の画像。 ボルジアゲーム。箱の画像。](swfu/d/img064.jpg)
ボルジア時代の権謀術数をテーマにしたボードゲーム。
タイトルは「The Prince - The Struggle of House Borgia」(「君主 - ボルジア家の闘争」。)
制作 = Phalanx Games b.v. (オランダ)
プレイ人数 = 3~5人。
プレイ時間 = 約90分。
(プレイヤーが慣れてくるともっと早くなる。)
対象年齢 = 12歳以上。
言語 = 英語。(ドイツ語版もある。)
プレイヤーはルネッサンス期の有力貴族(ボルジア、メディチ、ローヴェレ、オルシーニ、コロンナのいずれか)になって、
オークションに競り勝ち、有利となるカード(都市、他家の貴族、芸術家、傭兵など)を手に入れ、
都市(ホールディング・カード)を支配したり、芸術家(アーティスト・カード)を保護したり、傭兵(傭兵カード)を使って戦ったり、して自分の力を強めつつ相手の力を弱め、
教皇選を勝ち抜いて、
VP(ヴィクトリー・ポイント)をできるだけ多く獲得し、勝敗を競う。
ゲームは3ターン(3セット)で構成される。
カードの役割が複雑で、ボルジア時代をよく表しており、なかなか楽しめる。
◆ ゲームの構成パーツ ◆
- ファミリー・ディスプレイ = 5枚(ゲームの最大人数分)。厚紙製のボード。
ボルジア、メディチ、ローヴェレ、オルシーニ、コロンナ、とあり、各プレイヤーはいずれかの家を代表してゲームを進める。
ボードに書かれている数字のコマに、ヴィクトリー・ポイント・マーカーを置いて、獲得したVPを示す。
- ヴィクトリー・ポイント・マーカー = 5個。木製。5色。
各プレイヤーが1個ずつ持ち、ファミリー・ディスプレイ上に置いて、獲得したVPの数を示す。
- ターン・インディケーター = 1個。木製。黒。ヴィクトリー・ポイント・マーカーとほとんど同じ。色が違うだけ。
ボルジアのファミリー・ディスプレイ上にだけ、ゲーム・ターンを示す数字がある。そこに置いて、現在のゲーム・ターンを示す。
- 教皇の印 = 1個。木製。白。ヴィクトリー・ポイント・マーカーとほとんど同じ。ちょっと大きい。
教皇になったプレイヤーは、これをファミリー・ディスプレイ上に置いておく。
- カード = 60枚。厚紙製。しょぼい。ちょっと乱暴に扱うとすぐ曲がる。
- ホールディング・カード = 12枚。ボローニャ、リミニ、フェラーラなど。
所領地のカード。
パワー・ポイント(傭兵カードと戦うポイント)、
収入ポイント(ポイントに応じてドゥカートを獲得できる)、
ヴィクトリー・ポイントを持つ。
(それぞれのカードに記されている。カードによってそのポイント数は異なる。)
オフィス・カード、アーティスト・カード、アウトサイド・ファミリー・カードを各1枚ずつ保護することができる。(そうするとパワー・ポイントによって、敵の傭兵カードから守ることができる。敵の傭兵カードのパワー・ポイントの方が高ければ、保護下にあるカードは全て奪われてしまうんだけど。)
所持したら、すぐにファミリー・ディスプレイ横に並べて見せる。
- ホールディング・カード = 12枚。ボローニャ、リミニ、フェラーラなど。
- オフィス・カード = 9枚。副尚書、教皇庁軍総司令官、侍従など。
収入ポイント、枢機卿のコマを得るポイントを持つ。
ホールディング・カードによって保護することができる。
しかし、デス・カードにはすぐさま殺される。
所持したら、すぐにファミリー・ディスプレイ横に並べて見せる。
- アーティスト・カード = 10枚。ブルネレスキ、ミケランジェロ、ラファエロなど。
ヴィクトリー・ポイントを持つ。
このカードを所持したら、カードに印されているパトロン代をすぐに支払わねばならない。
ダ・ヴィンチのカードだけはパワー・ポイントを持つ。
ホールディング・カードによって保護することができる。
しかし、デス・カード(毒OR伝染病カード)には、すぐさま殺される。
所持したら、すぐにファミリー・ディスプレイ横に並べて見せる。
- 傭兵カード = 8枚。
パワー・ポイントを持ち、ホールディングやオフィス、アーティストの強奪に用いる。
使用したら、勝敗に関わらず、カードに印されている傭兵料をすぐに支払わねばならない。
所持したら手札として、敵には見せないようにする。
- スパイ・カード = 6枚。
オークション時に、場のカードを1枚取ることができる。
または、プレイヤー時に、敵の手札を1枚取ることができる。
所持したら手札として、敵には見せないようにする。- デス・カード = 4枚。毒OR伝染病カード2枚、暗殺カード2枚。
毒OR伝染病カードは、オフィスとアーティストを殺すことができる。
ドクター・カードはこれに対抗できる。
暗殺カードは、オフィスとサヴォナローラを殺すことができる。
所持したら手札として、敵には見せないようにする。- ドクター・カード = 1枚。
デス・カード(毒OR伝染病)を無効化できる。
所持したら手札として、敵には見せないようにする。- 結婚カード = 1枚。
他のプレイヤー1名と同盟することができる。
同盟すると、その2プレイヤーの間では強奪や暗殺など全てできなくなる。
デス・カードによって無効化される。
所持したら手札として、敵には見せないようにする。- サヴォナローラ・カード = 1枚。
プレイヤー時に、教皇の手札使用を一切禁止することができる。
デス・カード(暗殺)によってのみ、無効化できる。
所持したら手札として、敵には見せないようにする。
- 聖職売買告発カード = 2枚。
2ターン目と3ターン目の初めに、教皇に選出されたプレイヤーは、その場にある全てのオフィスを回収し、好きなように配り直す権利と、
残っている枢機卿のコマを好きなように配り直す権利とを持つ。
これに反対して使われる。
教皇を支持するかの投票を行い、非支持となると教皇の手番は1回飛ばされる。支持となればそのまま何事もなく続行される。
所持したら手札として、敵には見せないようにする。
- 枢機卿のコマ = 30個。円形の厚紙製。カードよりだいぶ厚く丈夫。
- ドゥカート(お金) = 120ドゥカート分。円形の厚紙製。枢機卿のコマと同じ材質。
- 投票用紙 = 1冊。ただのメモ帳。なくていい・・・。
- ルール・ブック = 1冊。英語。難しい・・・。
15ページ、11.00に誤りがある。
誤「Office」 → 正「Hording」。
◆ ゲームの進め方 ◆
プレイヤーはそれぞれのファミリー・ディスプレイを持ち、VPマーカーを「0」に置く。
枢機卿のコマを4つずつ、お金を100ドゥカートずつ、受け取る。
全てのカードをシャッフルし、5枚ずつ配る。
カードはファミリー・ディスプレイ横に並べて見せておくカードと、手札として手の内に持っておくカードとに分けられる。
(カードによって使い方が異なるので。1枚1枚に書かれているので、わかりやすい。)
場(テーブルの中央)に12枚、伏せて置く。残りのカードはもうこのターンでは使用しない。
まず「オークション」の段階から始められる。
教皇(1ターン目の教皇は最年長者が務める)から時計回りに手番は回る。
手番は、場のカードを1枚めくる。手番から時計回りに、そのカードに入札していく。何ドゥカートからでもOK。
もちろん、要らないものはパスしてよい。1度パスした者は、もうそのカードの入札には参加できない。
入札者がいないと、カードは手番のものになる。
手番の時にスパイ・カードを出すと、場のカードを伏せたまま1枚取ることができる。
場のカードがなくなるまで、「オークション」は行われる。
次に「プレイヤー」の段階になる。
手番は、
「傭兵」使って、他のプレイヤーの「ホールディング」や「アウトサイド・ファミリー」を強奪しようとしたり、
「デス」を使って、他のプレイヤーの「オフィス」や「アーティスト」を毒殺したり、
「スパイ」で、他のプレイヤーの手札を奪ったり、
「結婚」で、他のプレイヤーと同盟したり、
「サヴォナローラ」で、教皇のゲーム参加を阻止したり、
など、カードを使ってさまざまな駆け引きを行う。
全員の手札がなくなれば「プレイヤー」の段階は終わる。
最後は「教皇選」の段階になる。
プレイヤーの投票数は、所持している枢機卿のコマの数によって決定される。
1コマにつき3票の権利を持つ。
最初の投票は無記名で行い、それで決定しなければオープンにして投票する。
教皇になったプレイヤーは、10VPを獲得する。
教皇が選出されると、2ターン目に入る。無効化されたカード以外を再シャッフルし、再び「オークション」から始める。
3ターンまで行い、ゲーム終了となる。
獲得したお金は、10ドゥカートで1VPとなる。端数は切り捨て。
全てのVPを計算し、勝敗を決定する。
- funagain Games
こちらで購入できます。24ドル。
ただし!!配送料が38.37ドルでした。高!!
カフェ・ボルジア
![有楽町某店のカフェ・ボルジア。 有楽町某店のカフェ・ボルジア。](swfu/d/Image080.jpg)
コーヒーにチョコレートシロップを加えてホイップクリームを浮かべ、オレンジピールを飾った飲料。
ボルジアの名が冠されているのは、オレンジピールを使用するから。オレンジの生産で名高いヴァレンシアに所縁あるボルジア家・・・ということらしい。かなりこじつけじゃない!?
ビターなチョコレートとまろやかなクリームのコーヒーに香るオレンジは、強いインパクトで味に刺激と深みを加える。
イタリアンコーヒーとスパニッシュオレンジのマリアージュ、と言えば「おお、ボルジアの名にふさわしい!」って気もしてくる?
ボルジアカレンダー
The Borgias 2012 Wall Calendar![The Borgias: 2012 Wall Calendar](http://ecx.images-amazon.com/images/I/61uLgRFsk9L._SL160_.jpg)
テレビドラマ「The Borgias」の2012年カレンダー。Amazonで、1,353円。
![9月のチェーザレ。 9月のチェーザレ。](swfu/d/auto_SvxBRo.jpg)
![11月のボルジア4兄弟 11月のボルジア4兄弟](swfu/d/auto_ruCPOJ.jpg)
1月 ロドリーゴ
2月 ルクレツィア
3月 チェーザレとウルスラ
(オリジナルキャラ。チェーの愛人?
後に修道女になるよう。)
4月 ホアン
5月 ジュリア・ファルネーゼ
6月 ロドリーゴとチェーザレ
7月 ボルジア一族
(ドラマのポスターになってるやつ。トップページにあります。)
8月 ルクレツィアとチェーザレ
9月 チェーザレ (右の画像)
10月 オルシーニ枢機卿
11月 ボルジア4兄弟(右の画像)
12月 ロドリーゴ
アレクサンデル6世(ロドリーゴ・ボルジア)
ロドリーゴ・ボルジアの手紙
- ロレンツォ・デ・メディチへの手紙
![Lettera di Rodrigo Borgia a Lorenzo il Magnifico Lettera di Rodrigo Borgia a Lorenzo il Magnifico](swfu/d/auto_l2hzMu.jpg)
1473年10月12日、ピサにて書かれた、枢機卿ロドリーゴ・ボルジアからロレンツォ・イル・マニフィーコへの手紙。
フィレンツェ、メディチ古文書館(Archivio di stato Mediceo)所蔵。
1472年5月、教皇特使としてスペインへ派遣されたロドリーゴは、カスティーリャとアラゴンの関係を調停し、レコンキスタ完了のために大いに寄与する。
翌年9月、ロドリーゴはヴェネツィアの2隻のガレー船にてローマヘの帰国の途につく。
しかしトスカーナ沖を航行中、船は嵐に見舞われ、1隻は沈没し、ロドリーゴの乗っていたもう1隻もピサの海岸へ打ち上げられてしまう。
同行していた3人の司教は溺死し、3万ドゥカートもの所持品が海に沈んだ。
この時、ロレンツォ・デ・メディチはすぐさまピサに人員を派遣し、ロドリーゴを見舞わせ、積荷の回収に努めた。
(惣領冬実「チェーザレ」では、海賊に襲われピサ港に逃げ込んだところを、ロレンツォによって助けられた、とされている。(Virtu 67))
手紙は、ロドリーゴがロレンツォへ向けて、ピサでの海難を知らせ救援を求めたもの。
ロレンツォに対して「最も親愛なる友人、偉大なる方」(Magnifico viro domino Laurenzio de Medicis amico nostro carissimo)と呼びかけ、受けた被害の重大さを訴えている。
- 教皇子午線を決定した教皇勅書
1492年の新大陸発見により、スペインとポルトガルの間で土地の所有と統治権を巡って争いが起きた。
両国の会合は合意に至らず、1493年、教皇アレクサンデル6世は勅書により勢力分解線を決定した。
しかしこの勅書は大幅にスペインに有利になっており、ほとんど守られることはなく、翌1494年、ポルトガルの勢力圏を拡大したトルデシリャス条約が締結された。
アレクサンデル6世の記念切手
![Anno Santo 1500 AlessandroⅥ Anno Santo 1500 AlessandroⅥ](swfu/d/auto_VPaHWC.jpg)
1998年、ヴァティカン市国で発行された記念切手。
1300という数字は値段。(1300リラ。当時で90円ちょっと。)
2000年の大聖年を記念し、それまでの聖年時に在位していた教皇25人を対象に、1998年から2000年にかけて作られたよう。
(アレクサンデル6世は1500年の聖年時に在位。)
他にシクストゥス4世やクレメンス7世のものもある。
アレクサンデル6世グッズ
- マグカップ
![アレクサンデル6世マグカップ。 アレクサンデル6世マグカップ。](swfu/d/auto_ktgD8t.jpg)
ハティヴァ城のスーベニアショップに置いてある、アレクサンデル6世のマグカップ。
1500年の降誕祭典礼書原稿に描かれた紋章と肖像が、表と裏にデザインされている。
絵柄部分は触るとひっかかりがあり、数回洗うと剥げそうな感じ。使ってないからわかんないけど・・・。
同じ柄のつまようじ立て(と思われるもの)もある。
![カップの反対側。 カップの反対側。](swfu/d/auto_qd9rAO.jpg)
- 紋章プレート・1 陶磁器
![アレクサンデル6世の絵皿2。 アレクサンデル6世の絵皿2。](swfu/d/auto_TZkUX8.jpg)
ハティヴァ城のスーベニアショップに置いてある、アレクサンデル6世の紋章プレート。
1500年の降誕祭典礼書原稿に描かれた紋章がデザインされている。
直径20センチ。
角皿で、肖像の描かれたヴァージョンもある。(マグカップと同じ柄。)
スタンドは付属品ではなく100均のもの。(笑)
- 紋章プレート・2 すりガラス
![アレクサンデル6世の絵皿。 アレクサンデル6世の絵皿。](swfu/d/auto_mZm25W.jpg)
ハティヴァ城のスーベニアショップに置いてある、アレクサンデル6世の紋章プレート。
1500年の降誕祭典礼書原稿に描かれた紋章がデザインされている。
17センチ×17センチ。
上の陶磁器ヴァージョンよりやや安価。(正確な値段は覚えてない。すみません・・・。)
スタンドは付属品ではなく100均のもの。
ルクレツィア
ルクレツィアの手紙
- アレクサンデル6世への手紙
![ルクレツィアの手紙 ルクレツィアの手紙](swfu/d/auto_OiW8EY.png)
1494年6月10日、ペーザロで書かれたもの。
夫となったジョヴァンニ・スフォルツァの所領ペーザロに到着した時の喜びと、歓迎されたことを父(アレクサンドル6世)に報告している。
またローマの状況(フランスのシャルル8世がナポリ王国の継承権を要求しイタリアへ侵攻しようとしている)を心配し、教皇に自分の安全を守るよう強く求めている。
訳:
主なる神の恩恵により、私たちはここペーザロに無事到着しました。
雨に邪魔されたにもかかわらず、私たちは大々的な歓迎を受け、何より多くの人々の熱狂で迎えられました。そして美しく快適な屋敷の中でも祝典が催されました。
このことはフランチェスコ卿にお伝えします。フランチェスコ卿なら、すべてを陛下にお伝えしてくださると思います。
ローマは現在、非常に病んでいると聞いています。
聖下がローマにいらっしゃるという事実に、私たちはみな大きな悲しみと憂慮を感じておりますので、できるかぎりそこをお離れになって下さるようにお願い致します。
それができないのであれば、大きな警戒心と思慮深さをお持ちになって下さい。
これは聖下を責めているのではなく、私の大いなる親愛の情によるものであります。
聖下には、聖下の永遠の奴隷である私の主君と私自身を覚えていてくださるようお願いする以外には何もありません。
ペーザロ、1494年6月10日。
神のご加護を
ルクレツィア・ボルジア・スフォルツァ
(ちょっと後半の訳変ですね…上手くできない!よくわからない!申し訳ない!)
ヴァティカン使徒文書館所蔵。
ヴァティカン美術館のグッズ
- ルクレツィアの手紙
上記のルクレツィアの手紙はヴァティカン美術館のお土産コーナーで販売されている。
![ヴァティカン美術館のルクレツィアの手紙 ヴァティカン美術館のルクレツィアの手紙](swfu/d/auto_Ms5Ji0.png)
ラミネート加工されていて、裏面に手紙の本文とイタリア語と英語での説明書きがある。
(筆者の管理が悪くて上部に変な傷が…。新品にはもちろんないです。)
封筒に入ったレプリカもどきもセットになっているようで、ラミネート手紙をレジに持って行くと一緒に包んでくれる。
(ルクレツィアの時代はこんな封筒使用されていないし、下部にサインの箔押しがあるし、レプリカではない。もどき。)
他にもミケランジェロの手紙など多くの種類がある。
8ユーロ(2009年当時)。
![ルクレツィアの手紙(レプリカもどき) ルクレツィアの手紙(レプリカもどき)](swfu/d/auto_KaieGQ.png)
- ルクレツィアのサインしおり
ヴァノッツァ・カッタネイ
ヴァノッツァの手紙
- アレクサンデル6世への手紙
![Lettra di Vanozza al AlessandroⅥ Lettra di Vanozza al AlessandroⅥ](swfu/d/s_img047.jpg)
チェーザレやルクレツィアの生母ヴァノッツァ・カッタネイからアレクサンデル6世(ロドリーゴ・ボルジア)に送られた手紙。
1495年頃に書かれたと思われる。
1486年、ヴァノッツァはゴンザーガ家の枢機卿侍従であったカルロ・カナーレと3度目の契約結婚をする。(4度目という説もある。)
この頃にはヴァノッツァとロドリーゴの愛人関係は終息を迎えていたようだが、2人の信頼関係は、ロドリーゴが教皇となって後も、穏やかに続いたと言われる。
手紙は夫カルロ・カナーレとの過不足のない生活を報告し、アレクサンデルへの変わりない愛と忠誠を語っている。
ヴァティカン、使徒文書館所蔵。
惣領冬実「チェーザレ」
トリヴルツィオ(Trivulziano)手稿
![現在はトリヴルツィアーナ図書館(ミラノ)所蔵。 現在はトリヴルツィアーナ図書館(ミラノ)所蔵。](swfu/d/auto_85HSvM.jpg)
トリヴルツィオ手稿とは、レオナルド・ダ・ヴィンチの残した膨大な覚え書きやスケッチをまとめたもののひとつ。1487年~1490年頃にかけて書かれたものとされている。ミラノのトリヴルツィオ侯爵が所有していたことからこう呼ばれる。
写真はその紙葉37の表。
惣領冬実著「チェーザレ」2巻、Virtu 13で、チェーザレが手にとった紙片はこれ。
(上部に描かれた図を見比べるとよくわかる。)
チェーザレは、
「衝撃に関すること、球を水に落下させた時の水の様子、透視図法について書かれていた。」
と言っているが、まさにその3点について書かれている。
例えば最初の「衝撃について」は、
「物体に対して与えられた衝撃は、衝突した時の角度と同じ角度で真反対の方向へ反発する。」とある。
(ビリヤードする時の、球の行方の考え方だよね?)
しかしこの紙片、裏にもぎっしり文字が書かれているので(透けて見えてるのがそう)、チェーザレのように裏から透かして読むのはなかなか難しいと思う。
(漫画内では裏面は白紙になっている。)
パリオのハガキ
![Il Palio Il Palio](swfu/d/auto_PPIx7E.jpg)
シエナのお土産やさんで売られている、パリオのハガキ。
惣領冬実「チェーザレ」6巻、Virtu51に描かれているものとそっくり。
<EDIZIONI LOMBARDI, TUSCANY-ITALY>
その他の手紙
レオナルド・ダ・ヴィンチの自薦状
![ダ・ヴィンチの自薦状。 ダ・ヴィンチの自薦状。](swfu/d/auto_l4HbpR.png)
ミラノ、アンブロジアーナ図書館所蔵。
(アトランティコ手稿。)
1482年、レオナルド・ダ・ヴィンチがフィレンツェからミラノへ移った時、ミラノ公国の摂政ルドヴィーコ・スフォルツァに宛てて書いた自薦状。
ダ・ヴィンチの直筆ではなく、おそらく助手が書いた下書き。なので鏡文字ではなく、左から右へと普通に書かれている。
1から10までが箇条書きされており、4の後に9がある。
ざっと列挙した後に番号をふって、順番を修正したと思われる。
(確かに、ずっと陸上戦の話してるんだから、海戦については9番目の方がしっくりくるよね。)
訳:
我が高名なる閣下。
自らを兵器の専門家と称する者たちの功績を充分に見聞し検討した結果、彼らの発明は一般的なものと何ら変わるところがないことを確認致しました。
他の誰の名誉も傷つけるつもりはありませんが、ここで私自身の秘策を閣下に明かし、閣下の完全なる自由裁量で、以下に列挙したすべてのものを効果的に運用していただきたいと存じます。
1.敵を追撃し、場合によっては逃走するための、非常に軽くて丈夫で容易に持ち運び可能な橋。火災や戦闘のいずれにおいても破壊されない頑丈な橋。
持ち上げて所定の位置に設置するのが簡単で便利な橋。
また、敵のものを燃やして破壊する手段も考えております。
2.包囲戦において、敵城の濠から水を抜く方法。
必要な橋、マントレット(移動防楯)、梯子、その他の道具を作る方法。
3.どのような要塞でも破壊する方法。
包囲した城の状況や位置的優位のため、砲撃によって陥落できない場合、お役に立ちます。
4.簡単に持ち運びができ、嵐のように小石を投げつけることができる種類の大砲。
大砲からの煙は、敵に重大な損害と混乱、大きな恐怖を与えることでしょう。
9. 海戦において、攻撃にも防御にも非常に適した多くの装置。
あらゆる重砲の砲火や火薬や煙に耐える船。
5.騒音なしに坑道や秘密通路を建築する方法。
濠や川の下をくぐり、指定された場所に到達することも可能です。
6.安全で難攻不落の、敵や敵の大砲を突発する屋根つきの乗り物。
これらの後方に歩兵がつけば、妨げられることなく完全に無傷で移動できます。
7.必要性とあれば、非常に美しく機能的な、威力ある大砲や軽火器を作製致します。
8.大砲の使用が困難な場合、大石弓、大投石機、その他、一般に使用されていない素晴らしい功績を上げる器具を作製致します。
さまざまな状況に応じて、攻撃や防衛のためのアイテムを無限にお作り致します。
10.平時においては、公用私用の建築物、またある場所から別の場所への導水(水道の建設)でも、他の誰にも劣らない仕事のできることを信じております。
大理石、ブロンズ、粘土の彫刻も致します。
同様に絵画の分野でも、他の誰にも劣らない仕事を致します。
さらに、お父上とスフォルツァ家の不滅の栄光と永遠の名誉のために、ブロンズの騎馬像制作を請け負うこともできます。
もし、上記のようなことが不可能であったり、実現不可能であると思われるようなことがあれば、城内の庭や閣下のお気に召す場所で実演させていただきますので、何なりとお申し付けください。
自分がいかに戦争に役立つかをアピールしていて、絵を描くことはついでのように書かれている。
ミラノは政情不安な都市であったし、スフォルツァ家は傭兵隊長の出自であったので、ルドヴィーコにおもねったのではと言われている。
また絵を描くことに嫌気がさしていたのではとも言われている。(システィーナ礼拝堂装飾のための画家に選出されなかったし、やさぐれてた?)
また、軍事技術者として何でもできるかのように書いているが、戦争を経験したことはなく、実績はひとつもなかった。
また、兵器の多くは独創的で画期的ではあったが、実用的と言うよりも空想的だった。
しかし1番に書かれている持ち運び可能な橋は、チェーザレの下で実現化している。
ビアンカ・マリア・ヴィスコンティの手紙
![ビアンカ・マリア・ヴィスコンティの手紙 ビアンカ・マリア・ヴィスコンティの手紙](swfu/d/auto_1n8H2d.png)
ルドヴィーコ・イル・モーロの誕生を祝うビアンカ・マリア・ヴィスコンティからフランチェスコ・スフォルツァへの手紙。
ルドヴィーコは1452年7月27日生まれ。
この手紙は8月8日に書かれたもの。
ミラノ、国立公文書館所蔵。
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