レオナルド・ダ・ヴィンチ
レオナルド・ダ・ヴィンチ (Leonardo da Vinci)
(1452年4月15日 - 1519年5月2日)
誰もが知ってる万能の天才。
17歳でヴェロッキオの工房に入り、フィレンツェで「受胎告知」などを描く。1482年からミラノのイル・モーロのもとで軍事技術者として務めるが、スフォルツァの没落とともにミラノを離れる。
1502年チェーザレのもとを訪れ、建設技術顧問・軍事設備顧問となる。チェーザレはかなり彼を信頼し重用していたよう。チェーザレがレオナルドに送った通行許可書が残っている。
完全主義者だったためか、広範な才のためか未完に終わった作品も多い。莫大な量のスケッチやメモを残している。チェーザレについて書かれたものは4ヶ所。
また、26歳のチェーザレをスケッチしたものが残っている。(すごく陰鬱な気のめいる表情をしている。なぜだ。)
菜食主義者だったとか男色家だったとか(裁判にかけられるも放免されている)いう話もある。
中田耕治「ルクレツィア・ボルジア 下」141ページにはミゲルと男色の関係にあったと想像する研究家もいる、とかいう記述がある。やめてよ・・・。どこの研究家だ。
第一次フィレンツェ時代(1452年 - 1482年)
1452年
4月15日、フィレンツェの西27キロほどのヴィンチ村にて、セル(公証人の意味)・ピエロ・ダ・ヴィンチ(24)とカテリーナ・リッピ(16)との間に非嫡出子として生まれる。
嫡出子ではないので、父の後を継ぎ公証人になることを強いられず、画家引いては万能の人になり得た。とも言える。
しかし充分な教育を受けられず、当時の知識人の間では必須だったラテン語を学べなかった。大人になってから独学している。(動詞の活用を書いたものなどが残っている。)が、完全に習得はできなかったよう。
8ヶ月後、父ピエロはフィレンツェの靴職人の娘アルビエラと結婚。(この後全部で4回結婚し11人の子をもうける。)
カテリーナはピエロの計らいによりヴィンチ村の農夫アントニオ・ディ・ピエロ・デル・ヴァッカ(通称アカッタブリーガ)と結婚。
1457年
5歳の頃、父方の祖父アントニオとピエロの末弟フランチェスコとともに暮らしている記録が残っている。フランチェスコはレオナルドと15歳差で、彼をとてもかわいがっていた。
1464年
父ピエロの住むフィレンツェに移る。
1466年
アンドレア・デル・ヴェロッキオの工房に入る。
父ピエロはヴェロッキオの友人で彼の公証人を務めていた。コネで入ったのかもしれないが、ヴェロッキオはレオナルドの才能に瞠目したと言われる。
この頃ヴェロッキオ工房は大繁盛していた。
1470年
← 左は1470年頃に描かれたとされる布のスケッチ。
工房でよく行われていた修行のひとつで、粘土模型の上に石膏に浸した薄い布をかけ、デッサンした。おそらくダ・ヴィンチの作品であるとされている。
この頃からスフマート(物体が目に映るそのままに描く、輪郭線を描かない技法)を用いている。すごい!
1473年
レオナルドは長身で金髪の美しい巻き毛を持ち、鼻筋が通り顎は力強く頬や唇はふっくらとしていて、美青年だった。彼がモデルを務めたというダヴィデ像にその面影が垣間見える。
↑ 上はアルノ河の風景。
「1473年8月5日、雪の聖マリアの日」と鏡文字で書かれている。
ダ・ヴィンチ作品として確実な現存する最古のスケッチとされる。また、世界最古(最初)の風景画とも言われる。
この裏に「アントニオ(前述の祖父ではなく母親の夫。祖父はもう亡くなっているので。)といると心が満たされる」と書かれている。
里帰りして、義父(になるのか?)と一緒にお散歩でもして見た風景なのかも?きっと楽しかったんだね。
母恋しさで、彼女の暮らす村を描いたとも言われる。
(「戦士像」→の方が古い(1472年)とする説もある。ガレアッツォ・マリア・スフォルツァとルドヴィーコ・イル・モーロのフィレンツェ訪問(1472年)にインスパイアされ描かれたものでは、と言われてるので。でも一般的にはアルノ河が最古。)
- 1478年頃までの作品
← 左は1470年頃から1480年頃にかけて描かれたとされるヴェロッキオの「トビアスと天使」。
トビアスの巻き毛、
トビアスの持つ魚、
天使の足下の仔犬、
をダ・ヴィンチが描いたとされるこの頃から巻き毛描くの得意だったんだね。
→ 右は1470年代に完成したヴェロッキオの「キリストの洗礼」。
左端の天使と背景の一部をダ・ヴィンチが描いた。
「ヴェロッキオはその出来栄えに驚愕し、もう自分は2度と絵筆は持たないと決心した。」とヴァザーリが書いていることで有名。
実際この後ヴェロッキオは彫刻の方に向かい、絵画の単独作品を残していないらしい。
↑ 上は「受胎告知」。1472年から1475年頃にかけて描かれた。
しかし構図的にマリアの右腕が長すぎる(届くはずない書見台に触れている)など、下手じゃない?と思われる部分も多く、ダ・ヴィンチの作ではない説もある。
← 左は「カーネーションを持つ聖母」。1473年から1478年頃。
キアロスクーロ(特定の色を濃くしていくことで濃淡をつけるのではなく黒を使って濃淡をひいては明暗を表す技法)が使われている。
→ 右は「ブノワの聖母」。1478年から1482年頃。
こちらもキアロスクーロ。
1476年と1479年に父ピエロは男子を授かっており、この頃ダ・ヴィンチはよく赤子のスケッチをしている。この2人の義理の弟がモデルではとも言われている。
← 左は「ジネーブラ・デ・ベンチの肖像」。1974年から1478年頃。
ダ・ヴィンチが初めて描いた肖像画。ベンチ家はメディチに次ぐと言われる銀行家。しかし発注者はジネーブラのプラトニックラバーだったベルナルド・ベンボと言われる。裏にベンボ家の紋章である月桂樹と棕櫚が描かれ、絵の具の下にベンボ家のモットー「徳と名誉」が書かれているので。
この絵、変じゃない?目死んでるし…。私は1番ダ・ヴィンチぽくないと思う!
1476年
ジャコポ・サルタレッリという17歳の少年と関係を持ったとして告発される。
証人が登場せず放免となる。
→ 右はその頃描かれたと思われる「聖セバスティアーノ」。2016年に発見されダ・ヴィンチの作品として認められた。
1477年
ヴェロッキオの工房から独立し、自分の工房を持つ。
しかしミラノに発つまでの5年間で、記録されている注文は3件。しかも2件は未完、1件は着手さえされていない。
ダ・ヴィンチの未完は有名だけど、仕事しなさすぎ!
1478年
シニョーリア宮殿礼拝堂の祭壇画の注文を受ける。おそらく父ピエロの口利き。しかし、下絵で終わっている。
1479年
「吊るされたバロンチェッリ」を描く。
1480年
この頃「荒野の聖ヒエロニムス」を描き始める。 →
この作品は大部分が1510年以降に加筆されていることがわかっている。この時期ダ・ヴィンチが理解していなかった胸鎖乳突筋が正しく描写されているから。(ダ・ヴィンチのこの頃のスケッチでは、この首の筋肉を間違って描画している。)
1481年
教皇シクストゥス4世の依頼により、システィーナ礼拝堂の内部装飾のためフィレンツェの芸術家たちがローマに招聘される。ギルランダイオ、ボッティチェッリ、ペルジーノが選出され、ダ・ヴィンチは選にもれる。
サン・ドナート修道院から「東方三博士の礼拝」の注文を受ける。これも父ピエロの口利き。
しかしこれも未完に終わる。ヴァザーリは「作品の構想があまりに壮大で難解であり、完璧なかたちにすることができなかった」と書いている。実際ダ・ヴィンチの理想はものすごく高く、兄弟子でもあったボッティチェッリの「東方三博士の礼拝」を批判している。
教会は同題の祭壇画をフィリッピーノ・リッピに依頼した。(皮肉なことに?フィリッピーノはボッティチェッリの弟子。)
右端のイエスを指差しながらあらぬ方向を見ている人物は自画像では?と言われている。
第一次ミラノ時代(1482年 - 1499年)
1482年
2月、ミラノへ。
フィレンツェからミラノへの外交上の派遣であったとも言われる。しかしダ・ヴィンチはミラノ公(摂政)ルドヴィーコ・スフォルツァへの自身の推薦状も書いてるし、自らの意思で行ったんじゃないかな?
最初はルドヴィーコ・スフォルツァのお抱え画家、デ・プレディス兄弟らと工房を共有していた。
1483年
4月25日、サン・フランチェスコ・グランデ教会付属の無原罪の御宿り信心会に礼拝堂祭壇画を依頼される。
この「岩窟の聖母」は1486年頃までに描き上げられたが、レオナルドは事細かに指示された依頼通りに描かなかったようで、1495年〜1498年頃にかけてもう1枚描かれている。
最初に描かれた「岩窟の聖母」(左)と描き直された「岩窟の聖母」(右)
1作目(左)
洞穴の構成(岩の種類、植物の種類・生え方)は地質学的に正確。例えば、聖母の純潔の象徴として描かれる白いバラやユリはこのような場所には咲かないので、白いサクラソウが描かれている。すごい。
2作目(右)
こちらが描かれるまでの10年間で、レオナルドは光について研究している。ので、光が拡散して描かれている1作目に比べて、2作目は向かって左から差し込むように描かれ、対象がより際立っている。
しかしこちらは背景に1作目のような地質学的正確さがない。弟子が描いたとか、レオナルドの作品ではないとする説もあるが、「実直な自然主義を超えた形而上学的な自然描写」と言われている。
私は1作目が好きかも。
この頃描き始められた「音楽家の肖像」。レオナルド唯一の男性肖像画。
しかし依頼主もモデルもわかっていない。服と手は未完。
1485年
巨大な石弓の構想。
1487年
理想都市の構想。しかし全く注目されない。
ミラノ大聖堂ドーム(身廊と翼廊交差部に被せる天蓋。ティブリオ)のコンペティションが始まる。ブルネレスキをリスペクトしたようなフィレンツェ風ドームを考案。
選ばれはしなかったが、ドナート・ブラマンテとフランチェスコ・ディ・ジョルジョと親交を深める。
1489年
4月2日、視神経、受胎の仕組みなど、具体的な解剖学研究を始める。
まず頭蓋骨を縦半分に切断した。
しかしこの研究は長くは続かず1年弱で終了する。再開されるのは1500年になってから。
春頃、フランチェスコ・スフォルツァの騎馬像制作を依頼される。
75トンもあり、それまでに作られていたヴェロッキオやドナテッロの騎馬像が4メートルほどであったのに対し、レオナルドの作は7メートルを超える予定だった。
ここからレオナルドは馬の解剖→後には清潔な厩舎のシステム作りにのめり込み始める。
この仕事を依頼されたことで、正式にスフォルツァ家の廷臣となる。
7月、給与と助手たちの住居、工房まで与えられる。大聖堂横のヴェッキア宮(ヴィスコンティ時代の居城)だった。
しかし給与は度々支払いが遅延していたよう。
この頃から、人力で動く飛行装置を多々考案し始める。
「白貂を抱く貴婦人」。(「チェチーリア・ガッレラーニの肖像」。)
この頃から1年くらいかけて描かれた。レオナルドにしては速いね!?
ルドヴィーコ・スフォルツァにより依頼された、彼の愛人の肖像。当時16歳。
レオナルドがミラノに来て7年、ルドヴィーコによる初の絵の注文だった。
髪を包む繊細な髪飾りが描かれていたが、後世の修復で塗りつぶされてしまった。
1490年
「ミラノの貴婦人の肖像」。
上記の「白貂を抱く貴婦人」のすぐ後くらいに描かれた。ルドヴィーコ・スフォルツァの愛人ルクレツィア・クリヴェッリがモデルであるとされる。が、ルドヴィーコの妻ベアトリーチェ・デステであるという説もある。レオナルドの作ではないとする説もある。でもレオナルドぽいよね?
チェチーリアと似た雰囲気のドレスと髪は当時のミラノ宮廷の流行。
ドレスはスペイン風で、ルドヴィーコの甥である正式なミラノ公ジャン・ガレアッツォの妻イザベッラ・ダラゴーナが持ち込んだ。
髪型はコアッツォーネ(スペイン三つ編み・カタルーニャ三つ編み)と呼ばれ、真ん中分けして後ろで1つに結んでリボンをグルグルと巻きつけ、後頭部に帽子のようなベールを着けた。額には宝石を飾る。こちらはルドヴィーコの妻ベアトリーチェ・デステが流行らせた。
ベアトリーチェの母もアラゴーナなので、スペイン風に親しみがあったのかな。
初頭、ラテン語の勉強を始める。
レオナルドは庶子だったため正式な教育を受けておらず、当時の知識人には必須の教養であったラテン語の素養がなかった。
右 →は動詞の変化を書き記しているもの。
途中で飽きてラクガキしてる?かわいい!!
1月13日、ミラノ公ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァとビアンカ・ダラゴーナの結婚を祝う音と光ショー、「天体の仮面劇」をプロデュース。大絶賛される。
6月、大聖堂建設のコンサルタントとして、フランチェスコ・ディ・ジョルジョとともにパドヴァを訪問。ヴィスコンティ家図書館でウィトルウィウスの「建築論」を目にする。
(ウィトルウィウスは古代ローマ時代の建築家。彼の著作「建築論」は現存する唯一の古代ローマの建築書で、当時注目されていた。
「ウィトルウィウス的人体図」は、その記述をもとにレオナルドがに描いたドローイング。
実際に10人以上の人体のあらゆる部位を測定し、メモとスケッチを残し、比例を図解することもした。
フランチェスコ・ディ・ジョルジョや他の画家も同様のものを描いているが、レオナルドのものは正確さと芸術性において傑出している、らしい。ルネサンス期の芸術と科学との融和を示している。
7月22日、ジャン・ジャコモ・カプロッティ、通称サライと出会う。レオナルド38歳、サライ10歳。
天使のような外見のサライ(小悪魔の意味)は、これ以降ほとんどの時期をレオナルドのそばで過ごす。弟子というかたちであったが、サライに画家としては凡庸で(しかしちゃんと作品は残っている)、助手と言うか従者と言うか居候のようなものだった。後には恋人だった説もある。
レオナルドが描いたサライのスケッチがいくつも残っている。年月とともに少しずつ大人になっていくサライの絵に、レオナルドに愛情が感じられる。
左から、1490年頃のサライ、1510年、1517年。言うほどイケメンか?
1513年頃に描き始められた「洗礼者聖ヨハネ」はサライがモデルであるとも言われる。
たくさん残されている手稿に、レオナルドは個人的なことはほとんど書いていない。が、サライのことは度々書いている。
招かれた夕食会で「2人分の食事をたいらげ、4人分の悪さをした。ワインの瓶を3つも壊し中身を撒き散らした。」とか。かわいい。
サライが盗みをした記述は5回もある。
レオナルドは手にあまる小悪魔に呆れながら、嘆息しながら、ブツブツ言いながら、愛していたよう。チェーザレに下賜されたマントも、サライに与えている。
1508年(レオナルド56歳、サライ28歳)には「サライ、私は戦いより平和を望む。もう争いは嫌だ、私が折れよう。」と書いている。
喧嘩をしながらも離れることはできず、終生甘やかしていたよう。
7月24日、サライが「2人分の食事をたいらげ、4人分の悪さをした。ワインの瓶を3つも壊し中身を撒き散らした」ジャコモ・アンドレアに招かれた夕食会。
1491年
ミラノ摂政ルドヴィーコ・スフォルツァとベアトリーチェ・デステの結婚を祝うパレードをプロデュース。
1493年
11月、騎馬像の粘土模型が披露される。ルドヴィーコ・スフォルツァの姪ビアンカと神聖ローマ帝国皇帝マクシミリアン1世との結婚祝賀会にて。大絶賛される。
粘土模型=鋳型ではないようで、この後レオナルドは鋳型作りに様々なアイディアを出している。
巨大な像の鋳型は、部分ごとに作り後で接着するというのが定番だったが、美しさを追求する彼はどうにかして1つの鋳型で鋳造したかったのだった。
巨大な鋳型にどうやって均一にブロンズを流し込むか、と言うことも同時に考えていて、地面を掘って鋳型を逆さまにに埋め込み、馬の腹部からブロンズを流し込む案などを検討していた。
しかし騎馬像になるはずだったブロンズは、戦争のため大砲に使われてしまうことになる。
1494年
ルドヴィーコ・スフォルツァ、ミラノ公に。それを祝して自作のリラで即興詩の演奏をする。
1495年
ルドヴィーコ・スフォルツァの依頼により、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会の食堂に「最後の晩餐」を描き始める。
1496年
1月、ルドヴィーコ・スフォルツァの書記官兼宮廷詩人バルッダッサーレ・タコーネによる喜劇「ラ・ダナエ」をプロデュースし上演。凝った機械仕掛けの舞台装置は魔法のようで大絶賛される。
この年、数学者ルカ・パチョーリと出会う。パチョーリもこの頃スフォルツァをパトロンとし、レオナルドと同じ建物に暮らすようになっていた。
「美しき姫君」。(「ビアンカ・ジョヴァンナ・スフォルツァの肖像」。)
ルドヴィーコ・スフォルツァの庶出の娘ビアンカの結婚を祝して捧げられた詩集の挿画であったもの。
レオナルドの作ではないかと言われているが、今もはっきりしていない。
またモデルはアンジェラ・ボルジアで、1507年に描かれたものとする説もある。
アンジェラだったらすごい!
騎馬像に使用されるはずだったブロンズが、対仏戦争の軍備のため大砲に転用されてしまう。
スフォルツァ城北東の塔内の小部屋群「カメリーニ」の装飾を始める。
その中の一部屋「アッセの間」は、レオナルドデザインの幻想的な森が描き出されている。
が、「最後の晩餐」同様漆喰に絵の具で描かれていたので損傷が激しい。長く修復作業が行われているが2019年、レオナルド没後500年記念の時に限定公開された。
レオナルドが60点もの挿絵を描いたルカ・パチョーリ著「神聖比例論」完成。(出版は1509年。)
レオナルドは多くの手稿を残しているが、存命中に出版されたものはこの時の挿絵だけ。ちょっとさみしい。
2月9日、スフォルツァ城で開かれた討論会に参加。幾何学、彫刻、音楽、絵画、詩歌のうちどれが最も優れているかについて。レオナルドはもちろん絵画派。
彼のプレゼンを気に入ったルドヴィーコ・スフォルツァの勧めにより、絵画至高の主張は論文としてまとめられる。が出版はされない。
この「絵画論」はレオナルドの絵画同様、長期に渡って追記改稿され続ける。彼の死後1651年に、弟子のフランチェスコ・メルツィによって出版された。
光と影「自然界には目に見えるはっきりとした輪郭線は存在しない」「目には見えない輪郭を線で描いてはならない」「平面に立体感を描くことは、光と影を描くことで実現する」。
遠近法。
「最後の晩餐」完成。
ルドヴィーコから特別手当として、教会近くのブドウ園を賜った。レオナルドは終生そこを所有していて、遺言でサライに遺した。
おしゃれにこだわりがあり、丈の長いローブではなく膝までしかないバラ色の外衣を好んだ。
気前が良く、金銭に頓着せず物欲がなかった。
動物好きで、それが高じて菜食主義だった。市場で鳥を買えるだけ買い逃してやるようなこともしていた。
ミラノにいた17年間に、ダ・ヴィンチは数種類の新しい楽器考案し、50編以上の寓話、2編のファンタジー小説の草稿を書いている。
観察力に優れ、類似するものごと同士を結びつけて新しい発想をするアナロジー的思考を得意とした。
図形(幾何学)にはまりこんだが、計算は苦手だった。
第二次フィレンツェ時代(1499年 - 1506年)
1499年
9月初旬、フランス軍の侵攻により、ルドヴィーコ・スフォルツァがミラノから逃亡する。
レオナルドは弟子たちに現金を渡し、逃げたい者には援助した。が、自らはミラノを動かず留まった。
フランス軍は街を略奪し、レオナルドの騎馬像の粘土模型も弓矢の的にして破壊してしまう。幸い、工房は難を逃れることができた。
10月6日、フランス王ルイ12世がミラノへ入城。チェーザレも同行していた。
翌日、ルイ12世は「最後の晩餐」を鑑賞。これにもチェーザレは一緒だったと思われる。
ルイ12世とフランス軍はレオナルドに好意的で、レオナルドもそれに応えて協力した。
12月末、フィレンツェに帰るためにミラノを発つ。(しかし直帰せずマントヴァとヴェネツィアに寄る。)
1500年
1月、マントヴァへ。
マントヴァ公妃イザベッラ・デステに肖像画をねだられ、スケッチを残す。
しかしイザベッラの再三の催促を受けても、絵はこれ以上描かれない。(イザベッラは本当にウザいくらい何度も催促している。レオナルドも何度も描きます詐欺している。)
スケッチだし小さな絵だと思いきや、61 cm × 46.5 cmと一般的な肖像画サイズはある。(「白貂を抱く貴婦人」よりも一回り大きい。)そのまま下絵にできるサイズなので、最初は描く気はあったのかもしれない。
2月末頃、ヴェネツィアへ。
3月、トルコ軍の侵入に備えて、国境のイソンツィオ河を調査。これをきっかけに水力の研究にものめり込んでいく。
3月末、フィレンツェに到着。
サンティッシマ・アヌンツィアータ教会に居を定める。現在もレオナルドが暮らした部屋がほとんど変わらずに残っている。
近くにはサンタ・マリア・ヌォーヴォ病院がある。レオナルドはここで人体解剖を行う。彼は生涯で30体ほどの解剖を行なっており、そのうち約半数がこの病院で行われた。
絵画のための人体理解に留まらず、レオナルドは人体の仕組みを理解しようとした。世界で初めて動脈硬化を発見したのはレオナルドであると言われる。
この頃ルイ12世のために描かれたとされる「サルバトール・ムンディ」(救世主という意味)。
宝寿を持つキリストのモチーフは、この頃北ヨーロッパで人気だった。
長く弟子ボルトラフィオ作、またはその模写と思われていたが、2011年にレオナルド作品と認定された。
2017年、4億5031万2500ドル(当時のレートで約508億円!)で、落札された。これはそれまでの美術品の落札価格の史上最高額。(2024年1月現在、まだ抜かれていない。)落札者は個人のようで、以来1度も公開展示はされていない。
水晶玉を通して見える景色は上下逆になるはずだが、この絵では違和感を避けるため、わざとそのままで描かれたと言われている。
1501年
ルイ12世の秘書官フロリモン・ロベルテの依頼により「糸車の聖母」を制作。
この作品は模写が40枚ほどもある。完成後フランス宮廷に送られたので、多くの画家が参考にしたよう。
下の「バクルーの聖母」と「ランズダウンの聖母」の2作が、レオナルド作(または最も多く関わった作)とされている。
この頃のレオナルドはフィレンツェに立派な工房を構えていたので、どちらもレオナルド工房作
と言った方が正確かも。ラファエロの作品なども、ほとんどそのようだし。
「聖アンナと聖母子」の制作開始。住居提供してくれているサンティッシマ・アヌンツィアータ教会の依頼。
この作品も教会に納品されることはなく、レオナルドは生涯筆を入れ続けていた。
描き始める前からすごく試行錯誤したようで、下絵も何枚もあり、子羊ではなく洗礼者ヨハネがいたり、子羊と遊ぶ洗礼者ヨハネがいたり、聖アンナ(マリアの母)ももっと年配に描かれていたり、イエスと子羊が向かって左にいたりした。
その甲斐あってか、下絵の段階から大評判で、教会に見学者が行列を作るほどだった。
1503年10月、マキァヴェッリの友人アゴスティーノ・ヴェスプッチが、キケロの本の余白に「ダ・ヴィンチも同じだ、モナリザや聖アンナのように(顔だけ描き込んで身体描いてない)」とメモしている。
しかしこれ、変な構図だよね。アンナの上にマリア、マリアの上にイエス、イエスの上に子羊。アンナ、足潰れない!?
チェーザレ・ボルジアとの時代(1502年)
1502年
5月頃、チェーザレ・ボルジアの建築技術総監督になる。
チェーザレに恭順の意を示したい(そして内部事情をスパイしたい)フィレンツェ政府の意向で派遣されたとも言われる。しかしミラノの時と同様に、レオナルド本人にその気がなければ、受諾しなかったはず。
逆に、フィレンツェはチェーザレに対して下手に出るしかなかったから、レオナルドがボルジアに下るのを止められなかったという見方もある。(少数派。しかし支持したい。)
旅に際し、持って行くものリストを作成している。遠足みたい、かわいい。
「つづれ織りの布地、羅針儀、軽い帽子、水泳用の教命浮き輪、素描用の白紙の冊子、木炭」など。
レオナルドはすぐにチェーザレのもと(ウルビーノ)を訪れたのではなく、まずピオンビーノへ行った。城塞をまわり視察・点検を行った。
そこから東へ向かい、アペニン山脈を越えアレッツォを経由して、ウルビーノに到着したのは6月になってから。
6月21日、チェーザレがウルビーノに入城。レオナルドも同時期にウルビーノに到着したと思われる。
7月30日、ウルビーノ滞在最終日。鳩小屋の構造をスケッチする。
8月1日、ペーザロにいる。図書館を見たと書いている。
8月8日、リミニにいる。噴水についての覚え書きを記す。
8月10日、チェゼーナにいる。
8月15日、まだチェゼーナにいる。
9月6日、チェゼナティコにいる。
15時、'運河河口の平面図と城塞の断面図を描く。
9月中旬、ファエンツァへ寄ったかも?
9月中旬または下旬、イモラへ。
10月11日、フォッソンブローネに向かうミゲル・ダ・コレッラ、ウーゴ・デ・モンカーダ率いる軍に同行。
アトランティコ手稿にある組み立て式自立橋を利用して谷を渡った。橋のおかげで?ミゲルたちはフォッソンブローネを攻略する。
数学者ルカ・パチョーリがおそらくこの時のことを書いている。
「ボルジア軍が幅24歩ほどある川にさしかかった時、ボルジアの有能な技術者(レオナルドのこと)は、鉄やロープなど一切使用せず木材だけで、軍が通過できる強靭な橋を作ってみせた。」
この戦闘の経験を踏まえてか、
「反逆者に城塞を制圧されることがないよう、脱出用通路は城塞内部に繋げてはいけない」
「(砲撃の衝撃をやわらげるため、城塞の壁は曲面の方が良い)曲がっているほど衝撃は弱まる」
と書いている。(どちらも「アトランティコ手稿」。)
- リミニ
噴水を見て、「さまざまな滝のハーモニー」。 - チェゼナティコ
「堤防の防御策」「港湾の土砂をさらう浚渫工事」「チェゼーナまで運河を引く方法」。 - チェゼーナ
城塞のスケッチ。「後方の方が大きく使いにくい手押し車の改良」。 - イモラ
城塞のスケッチと地図。地図作成のために使用した走行距離計。
この頃、チェーザレの頭部を3点スケッチしている。
陰鬱な顔をしているので、ルイ12世との関係に悩んでいた頃(1502年8月初旬)か、またはマジョーネの反乱が起きた頃(1502年10月中頃)(ミゲル・ダ・コレッラやウーゴ・デ・モンカーダが敗走してるし)のものでは、と言われる。
1503年
1月、シエナへの進軍に同行。
教会の鐘をスケッチする。「動きと鐘の舌の位置」
続・第二次フィレンツェ時代(1503年 - 1506年)
3月、フィレンツェに帰国。
サンタ・マリア・ヌォーヴァ病院で預金を引き出す。
「レダと白鳥」。
レオナルド本人の作品は失われていて、画像は弟子フランチェスコ・メルツィの手による模写。他にも弟子チェーザレ・ダ・セストによりものなど、多くの模写が残っている。ラファエロの雑な模写(スケッチ)もある。
「レダと白鳥」の下絵。これはレオナルド本人のもの。
この作品も下絵が数枚残っていて、試行錯誤していたことがわかる。レダを立たせるか座らせるかに大きく迷っていたよう。
座像バージョンの模写もある。これは弟子ジャンピエトリーノによるもの。1508年から1513年頃にかけて描かれた。
しかしこの作品、どうして白鳥いないんだろ!?これじゃ「レダと双子×2」じゃん。
蔵書目録を作成。プトレマイオス、ユークリッド、アルキメデスなど116冊。
このアルキメデスの本は、おそらくチェーザレのウルビーノ攻略後、ヴィテロッツォ・ヴィテッリが見つけてきたもの。
第二次ミラノ時代(1506年 - 1513年)
ローマ時代(1513年 - 1516年)
フランス時代(1516年 - 1519年)
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