関連エピソード
関連エピソード
年表や人物紹介には収まらない、興味深いエピソードをピックアップしました。
チェーザレ関連
チェーザレの出自
枢機卿ロドリーゴ・ボルジアと彼の愛妾ジョヴァンノッツァ・カッタネイの息子として、1475年9月13日、ローマ県スビアーコに生まれたとされるチェーザレだが、未だ色々な説がある。
父親についても、出生時、出生地についても、議論の余地のない公式の証言や文書などが存在しないので、確定されないのだ。
- チェーザレの父親と出生地
1・父ロドリーゴ・ボルジア 母ヴァノッツァ
兄ペドロ・ルイスは実兄とされたり、異母兄とされたりする。
(これはどちらなのかほとんどわかっていない。)
弟ホアンは兄とされたりする。
(ホアンがガンディア爵位を継ぎ、優遇されているからという理由が多い。)
生まれはスビアーコ(Subiaco)の他、リニャーノ(Rignano)の説もある。
(1493年9月19日にアレクサンデル6世はチェーザレを「ドメニコ・ダリニャーノの実子である」という勅書を出している。このドメニコの出身地がリニャーノなので。)
2・父グレイン・ランソル・イ・デ・ボルハ 母ヴァノッツァ
グレインはファナ・デ・ボルハ(ロドリーゴの姉妹)とペドロ・グレイン・デ・ランソル・イ・ロマーニの長男。
ヴァノッツァは本名ヴィオランタで、カタリーナ・デ・ボルハ(教皇カリクスト3世アロンソ・ボルハの妹)とホアン・デ・ミラの娘であるとされる。
つまりロドリーゴにとってチェーザレたちは姉フアナの孫であり、叔母カタリーナのひ孫であるという二重の関係。
この場合チェーザレはスペイン、ヴァレンシア生まれとされる。
グレインは1481年頃に死去、ヴァノッツァは子ども達を連れてローマに行き、大伯父であるロドリーゴに託した。
長男のペドロ・ルイスはスペインに残り、アラゴン王フェルディナンドの宮廷で軍人としてのキャリアを積み、そこで早世した。
(これはペドロ・ルイスがイタリアにいた様子がないことを上手く説明していると思う。)
教皇の非嫡出子は「甥」とされることが当時の慣例だったが、この説では本当にチェーザレ(達兄弟姉妹7人)はロドリーゴの甥(従姪孫)であったとしている。
チェーザレは署名をスペイン名で記したり、スペイン語を話したり、側近をスペイン人で固めたりしているので、スペイン生まれの可能性は否定できない。
ゴンサロ・フェルナンデス・コルドバへの手紙にも自分を「スペイン人」と書いている。(これはコルドバにおもねった感じするかな〜。)
ヴァティカン公文書館の書類にも「スペイン生まれ」という記述があるらしいし。チェーザレの同時代人であるヴェネツィア大使ジュスティニアンもチェーザレを「スペイン生まれ」と記述していて、ブルカルドは弟ホアンを「ヴァレンシア生まれ」としている。
また、1488年にローマのスペイン人学者パオロ・ポンピリオがチェーザレに献本するまで、チェーザレがイタリアにいたという証明は何もない。
母ヴァノッツァの墓には最後の夫カルロ・カナーレの紋章とともに、ボルジアの紋章が描かれていた。(今は残っていない。)ロドリーゴの愛妾であったからと言って墓に紋章が使われるだろうか?ヴァノッツァ自身がボルジアの出身でありボルジアの人間と結婚したと捉える方が自然である。
ナポリ王フェランテは孫娘サンチャのことを「非嫡出子」と書いているが、ホフレ・ボルジアについてはそう書いていない文書もある。
1573年、チェーザレの孫がフランス王室に没収された財産を取り戻すための訴訟を起こした時も、教皇アレクサンデル6世を「祖父の伯父」としている。
チェーザレはロドリーゴの子ではない説、意外と説得力ある気がする。
でもやはり、チェーザレとアレクサンデル6世の関係を改めて俯瞰して見た時、その歴史が、彼らを実の父子と証明している。ように思われるんだよね……(by sacerdote)。ものすごく親子っぽいと思うもん。
- チェーザレ(と兄弟)の父親に関する主な記録
1480年10月1日 | シクストゥス4世 | チェーザレの出自の正当性を証明することを免除し、出生の欠陥がキャリアの妨げにならないようにする勅書で、「枢機卿ボルジアと既婚の女性の子」 |
1482年2月4日 | シクストゥス4世 | 「枢機卿ボルジアの息子ペドロ・ルイスとホアン」のため教会権益の一部を寄付することを確認 |
1482年8月16日 | シクストゥス4世 | 「父ロドリーゴ・ボルジア」をチェーザレの恩典の管理者に |
1483年1月29日 | 枢機卿ロドリーゴ・ボルジア | 従兄弟のオットーネ・ボルジアを「息子ホアン・ボルジア」の後見人に指名 |
1492年12月18日 | フェラーラ大使ボッカチオ | 派遣状の中でチェーザレを「教皇の甥」と呼ぶ |
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1493年9月19日 | アレクサンデル6世 | チェーザレは「ドメニコ・ダリニャーノを父として生まれる」 |
1493年9月20日 | アレクサンデル6世 | チェーザレは「教皇の非嫡出子」 |
1500年10月18日 | ヴェネツィアのシニョーリア | 「教皇アレクサンデル6世の甥」であるチェーザレをヴェネツィア貴族に列する |
- チェーザレの生年月日に関する主な記録
1480年10月1日 | シクストゥス4世 | チェーザレの出自の正当性を証明することを免除し、出生の欠陥がキャリアの妨げにならないようにする勅書で、「あなたの生まれの6年目」と表記 |
1482年8月16日 | シクストゥス4世 | ロドリーゴ・ボルジアをチェーザレの恩典の管理者に任命する勅書で「あなたの生まれの7年目」と表記 |
1484年9月12日 | インノケンティウス8世 | チェーザレをカルタヘナ大聖堂財務官任務する勅書で、「あなたの生まれの9年目」と表記 |
1491年9月12日 | ブルカルド | チェーザレは17歳と日記に書く |
1493年9月19日 | アレクサンデル6世 | 「チェーザレはドメニコ・ダリニャーノの実子」とした後「ドメニコの死後ホアン生まれる」と勅書に記す |
1496年10月10日 | ブルカルド | ホアンがローマに到着しチェーザレが迎えたことを日記に記し「ヴァレンティーノ枢機卿はガンディア公より年長」と書く |
1501年10月26日 | フェラーラ大使サラチェーニ | アレクサンデル6世が「ルクレツィアは来年4月に22歳を終え、チェーザレは26歳を終える」と言及したと手紙に書く |
1507年5月23日 | ローレンツ・べハイム | チェーザレ戦死の報を受け「31年と6カ月生きた」と手紙に書く チェーザレのホロスコープも作成しており誕生日がかなり正確に推測される |
マジョーネの反乱
→ マジョーネの反乱
1502年。チェーザレ軍傭兵隊長たちによる、チェーザレへの反乱。
シニガリア事件
→ シニガリア事件
1503年。マジョーネの反乱を起こした傭兵隊長たちの捕縛と処刑。
残虐な策謀家としてのチェーザレの名を不動のものとした。
ミゲルの落馬とチェーザレの抗議
→ ミゲルの落馬とチェーザレの抗議
1492年8月、シエナのパリオでのできごと。
チェーザレとゴンザーガ家の因縁のパリオ
→ チェーザレとゴンザーガ家の因縁のパリオ
1501年12月、ルクレツィアとアルフォンソ・デステの婚礼祝賀会でのできごと。
チェーザレに似てきたミゲル
1502年4月、ミゲルが総督であったピオンビーノに、ジェノヴァの使者ジョルダーノ・チェレソラが訪れる。
ジョルダーノはピオンビーノの男たちがジェノヴァの船を襲い積荷を強奪したと言い、犯人の逮捕と盗まれた物の返却を求めた。
(ジェノヴァの議会は4月9日にチェーザレに対して手紙を出し、その後総督であるミゲルのもとへジョルダーノを送っている)
ミゲルは「事件後だいぶ経つから犯人の捜索は無理」と思ったらしく(と言うか面倒だったんじゃないの!?)、使者に対して甘言を弄しうまくはぐらかした。ジョルダーノは接待されて帰ったらしい。
このやり口…誰かに似てない!?
ミゲルが請願者である使者をていよく追い払ったことは、ロマーニャの犯罪者を苛烈に取り締まったレミーロ・デ・ロルカと比較され、ミゲル・ダ・コレッラのやり方は全然違ってた、と後に言われている。(悪い意味じゃなさそうだけど、いい意味でもなさそう)
ジェノヴァの公文書館(Archivio di Stato di Genova )には、ピオンビーノの総督であったミゲルまたは彼の補佐官に宛てた、海軍に関する事柄についてのジェノヴァの総督と議会からの手紙が数通残っているらしい。(本当!?)(でもジェノヴァから出した手紙がどうしてジェノヴァに残ってるんだろ。残ってるんならミゲルからの返信じゃないのか??)
ミゲル・ダ・コレッラへの詩
チェーザレの宮廷には、多くの詩人も出入りしていた。
その中のひとり、ペーザロ出身のベルナルディーノ・ガスパリ(Bernardino Gaspari)が、チェーザレからミゲルへの激励の言葉を、ソネット(14行詩)にしている。
詩は、ガスパリがチェーザレになりきって、チェーザレ視点の一人称で書かれている。
1502年12月、シニガリア事件の直前という設定。
戦場に赴くミゲルを励まし、運命的な勝利をつかむよう迫っている。
チェーザレ・ボルジア・ド・フランチア、ロマーニャとヴァレンティーノの公爵、偉大なる君主から、私の将軍ミケーレ・コレッラ殿へ
(Cesare Borgia de Francia, dux Romandiolae Valentiaeque, magnifico domino domino Michaeli Corella, capitaneo suo.)
さあ時は来た、今こそ皆が武器を手に取る時だ
戦友たちよ馬に飛び乗れ、進軍の時だ
そしてお前、我が忠実なる将軍コレッラよ
馴染みの手綱を、なぜ今すぐに掴まない?
眉を曇らせることは、人に任せておけ
運命を恐れるな、天には我が星がある
その星は揺るぎなく、私のためだけに輝く
幸運はそれに従い、助言を授けているのだ
我が美徳は増し、力も高まっている
敵は常に力を失い
その足跡は、もはや逃亡と恐怖の証だ
さあ急げ、フランス軍に加われ
そしてすべての戦いで、勝利を手にするのだ
白い十字架を掲げる、我が道を追い続ける者は
(Su, su temp’è, che ognun l’armi ripiglia,
Montate hormai cummilitoni in sella,
E tu, mio capitan fido Corella,
A che non prendi in man l’usata briglia?
Lassa ad altrui haver turbate ciglia:
Del fato non curar, ch’in Ciel mia stella,
Sta ferma e fissa, e sol per me con ella
Fortuna se conforma e se consiglia.
Cresce in me la virtù, cresce el valore
E a lo inimico ognhor la forza mancha,
Che già son l’orme sue fuga e timore.
Vien dunque presto alla militia Francha
Et in omne impresa alfin fia vincitore
Quel anchor seguirà mia Croce biancha.)
ペーザロ、オリヴィリアーナ図書館(Biblioteca oliveriana)所蔵。
ガスパリはシニガリア事件でのチェーザレを讃える詩も書いてるし、チェーザレに侵攻された際のカテリーナ・スフォルツァのことも詩にしている。
多分現代日本にいたら、チェーザレ同人誌出してる。
ミケランジェロのキューピッド像
ピントゥリッキオとレオナルド・ダ・ヴィンチがボルジアと縁深きことは有名だが、ミケランジェロもチェーザレと少々関わりがある。
1496年、23歳のミケランジェロはフィレンツェからローマにやって来た。彼は美術愛好家として名を馳せていたラファエーレ・リアーリオへの推薦状を持参していた。
当時ローマは大規模な発掘調査が行われていて、日々古代の芸術品が掘り出されていた。ラファエーレはこれら古美術についても愛好家であり蒐集家だった。
ラファエーレはミケランジェロを自分のギャラリーに案内し、蒐集品を自慢しながら、これらに匹敵するようなものを制作できるかと尋ねた。
ミケランジェロはラファエーレコレクションをぐるりと見まわして目を見張った。かつて自分が作ったものがそこにあったのだ!それは80センチほどの眠っているキューピッド像だった。「これは俺の作品だ!」。
ラファエーレはミケランジェロの言葉を笑い飛ばした。
そのキューピッドは見るからに時代ものだったし、ラファエーレ自身がギリシャ・ローマ時代の骨董品であるとして、ミラノの商人から200ドゥカートで購入したものだったからだ。
「200ドゥカート!?」ミケランジェロは憤慨した。
彼はフィレンツェで、ロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチ(ボッティチェッリなどのパトロン)に提言され、酸性の土質材料を材料に土の中で眠っていたかのように見える古代美術風の作品を作っていた。そしてバルダッサーレ・デル・ミネレーゼというミラノの商人に、そのような古代美術風キューピッド像を売った。
しかしミケランジェロはその代金として30ドゥカートしか受け取っていなかったのだ!
← ティントレットの「ウルカヌスに驚かされるヴィーナスとマルス」(1550年頃)
奥のキューピッドはミケランジェロのキューピッド像をモデルにして描かれたという説がある
ミケランジェロはラファエーレにキューピッド像の返還を要求した。
ラファエーレは金の要求をバルダッサーレにすべきだと言って拒否したが、ミケランジェロがよほどしつこかったのか結局キューピッド像はミケランジェロに引き渡された。
この話は巷に広まり、ラファエーレ・リアーリオのような美術に造詣深く、審美眼があるはずの人物をだました像を見てみたい、そしてできるならその素晴らしい像を手に入れたいと騒ぎになった。
この時、キューピッド像を購入したのは、当時まだヴァレンシア枢機卿だったチェーザレだった!
(と書かれてるものもあるが、この時キューピッドを手に入れたにはウルビーノのグイドバルド・モンテフェルトロで、チェーザレはウルビーノを攻略した時に彼のコレクションも同時に手に入れた。が正解だと思う。)
チェーザレはこのキューピッド像をイザベッラ・デステの求めに応じて贈り、手紙の中で「現代の芸術作品の中で、この作品に匹敵するものはない」と言っている。
像を購入したラファエーレ・リアーリオは偽物であることに気づき、しかしその出来栄えに感銘を受けてミケランジェロをローマへと招いた、という説もある。こっちの方が有力。
でも上記の逸話の方が面白いので書きました。
17世紀、イングランド王チャールズ1世によってゴンザーガ家(イザベッラの婚家)のコレクションが買い取られた。
そして1698年、ロンドンのホワイトホール宮殿の火災で燃えてしまい、現在はもうない。残念すぎる。
ミケランジェロはリアーリオからちゃんと依頼も受けてバッカス像を作っている(バルジェッロ美術館所蔵)。
そして、このバッカス像の制作中に、ローマに派遣されていたフランス人枢機卿ジャン・ド・ビレール・ド・ラグロラからピエタの制作を依頼されることになる。
ドロテア・マラテスタ誘拐事件
→ ドロテア・マラテスタ誘拐事件
1501年2月13日、ロベルト・マラテスタの庶出の娘ドロテアが、チェーザレ配下の傭兵隊長ディエゴ・ラミレスによって拉致された事件。犯行ははチェーザレの命令だったとも言われている。
容疑者ジローラモ・ボルジア(チェーザレの長男)
1501年に生まれたチェーザレの長男(非嫡出子)ジローラモ・ボルジアは、殺人事件の容疑者になったことがある。
ボローニャの靴職人で、歴史や考古学研究に造詣のあったジャコポ・ライニエーリ(Giacomo Rinieri)は、ブルカルドのような日記「Diario Bolognese」を残している。
ライニエーリは裕福で、公宮に出入りできる地位(con entratura nel Pubblico Palazzo)を持っていた。このため、彼は多くの秘密の事柄に精通し、正確かつ直接的な情報を得ていた。
彼の記録は、当時の特にボローニャでの、事件や慣習・宗教行事・社会的緊張の様子が読み取れる、貴重な一時史料である。
彼の日記に、ある殺人についての記録がある。
1542年2月2日、夜2時。
アンドレーゲト・ディ・ランベルティーニ(Andregheto di Lanbertini)が、仮面をつけた何者かに火縄銃(archebuso)で撃たれて死んだ。
翌朝には、アキッレ・デッラ・ヴォルタ(Achille della Volta)と彼の兄弟マルコ・アントニオ(Marcho Antonio)とが、容疑者として逮捕された。
その日の昼食後、「仮面をつけて外出する者は絞首刑に処す」という布告が出された。
祭りのため、聖ステファノ通りに多くの仮装者がいたが、彼らはみな急いで仮面を外し、帰宅して仮装の服を脱いだ。
一部の者は捕らえらたが、布告が出されてから間もなかったため、仮装を解く時間がなかったことが考慮され、釈放された。
このため、聖ブラシウスの祝祭(la festa de santo Biaxio)は、仮面なしで行われることになった。
(アルメニアの司教であった聖ブラシウスを記念した祭り。記念日は2月3日。)
日記には記されていないが、この時ランベルティーニ家の支援者であったカストローネ(Chastrone)と呼ばれる男も、別の火縄銃による襲撃を受けていたが、逃げおおせていた。
ランベルディーニはボローニャの名門貴族で、フェラーラの南西にあるポッジョ・レナーティコ (Poggio Renatico)の領主でもあった。
逮捕された兄弟は、拷問を受け責められたが、ほとんどすぐに無罪と認められて釈放された。
ヴォルタ家も、被害者の家に劣らぬ名門だったので、取り調べが甘かったのかもしれない。
アキッレ・デッラ・ヴォルタは、事件後わずか20日で堂々と公の騎馬試合に参加している。
3月4日
3人のフェラーラ人の首が切られ、次の場所にさらされた。
1人はポデスタ宮殿の角(オーレヴェシ通り側)
1人はポデスタ宮殿のバルコニー下
1人はポデスタ宮殿の角(アンティアーニ宮殿側)
彼らが処刑された理由は、ヴァレンティーノ公(チェーザレ・ボルジア)の息子に依頼され、カストローネを殺そうとしたためだった。
ランベルディーニ家は、前年1541年2月8日、コルネリオ・ランベルティーニ(Cornelio Lambertini)が毒殺されていて、その5日後、彼の母親も毒殺されたと言われている。
そして1年後の今回、アルドレゲート・ランベルティーニが殺された。
どうにもこうにもランベルディーニ家に消えて欲しい何者かがいたことは、間違いないよう。
権力争いとか、まあ、政治的な動機があったのかな。
しかしその何者かが、本当にチェーザレの息子ジローラモ・ボルジアであったのかどうかは、わかっていない。
逮捕されて取り調べを受けたのかどうかも、わからない。
ジローラモが黒幕であってもなくても、当時のパワーゲームに一枚噛んでいたことは間違いなさそう。(そうじゃないと無実だとしても名前出ないよね。)
父チェーザレの血を感じさせられるような、傑出したところはあったのかな?
まあ、そんなにはなかったから、ほとんど記録がないんだろうけど…。
暗殺者が仮面をつけてたってところが、ガンディア公ホアン暗殺を彷彿とさせる。まさかオマージュじゃないよね!??
暗殺の道具が、剣ではなく銃になっているところに、チェーザレの時代より進んでいるなってことが感じられる。
今回生き延びたカストローネは、4年後の1546年11月16日、フェラーラで刺殺される。
これがジローラモの指示であったのかどうかも、わかっていない。
どうでもいい小ネタ
- チェーザレとスペイン
チェーザレはスペイン人の従者を重用(側近ミゲル・ダ・コレッラや家庭教師フランチェスコ・レモリーネス、侍医ガスパーレ・トレッラなど)していたせいなのか、日常でもわりとスペイン語を使用していた。
1492年10月5日にピエロ・デ・メディチ宛に書かれた手紙や、1499年7月フランスから父アレクサンデル6世に書かれた手紙には「Borja」とスペイン語で自分の名前を綴ってもいる。
このため、チェーザレはスペイン生まれ説もけっこう根強くある。
- チェーザレと家庭教師
チェーザレの最初の家庭教師として名前が残っているのはヴァレンシア生まれのラテン語教師スパノリオ・マジョリジクス。(スパノリオ・デ・マジョルカ)
幼少期から神童の誉高かったチェーザレだが、1488年、ローマのスペイン人学者パオロ・ポンピリオがその著作の中でチェーザレの将来性を語っているらしい。
ペルージャではやはりスペイン人でヴァレンシア生まれのホアン・ヴェラという教師についている。この人は1500年にサレルノの枢機卿になっている。
フランチェスコ・レモリーネスともペルージャで出会う。
ピサでの家庭教師はバルトロメオ・メツィーノ(教会法の先生)。
- チェーザレと梅毒
チェーザレは深夜に思索し活動することを好んだが、それは梅毒による膿疱で傷ついた姿を人前に晒さないようにするためだったとも言われる。
梅毒の様々な症状(全身の潰瘍性皮膚、手足や頭の痛み、急性熱性発作など)を自分の部屋の中で慎重に扱うことが必要だった。
変装が好きだったことも、髪型に凝ったこともそのためだったのではとも言われる。
(本当かな?って思うけど、美形で鳴らした人の容色が崩れたら必要以上に気にするものかも?)
- ローマの捕囚チェーザレ
1503年11月、ユリウス2世の命でオスティアにいるところを逮捕されたチェーザレは、ローマに戻されユリウス2世の財務官だったフランチェスコ・デッリ・アリドシ(Francesco degli Alidosi)の部屋に軟禁される。
しかしここにいたのは一晩だけで、すぐにジョルジュ・ダンボワーズの部屋に移る。
12月、ラミレス兄弟が使者を吊るしたことに激怒したユリウス2世により、サンタンジェロ城に投獄される。
しかしスペイン人枢機卿たちの懇願により、すぐにボルジアの間に移される。
2月、オスティアへ。
ボルジア家関連
カルナイオーロの老婦人 (La vecchietta del carnaiolo)
〜 ソリアーノの城代、ディダコ・デ・カルヴァーハルの物語
1484年、枢機卿ロドリーゴ・ボルジアは、教皇インノケンティウス8世からコンクラーヴェでの支持の返礼として、ソリアーノを与えられる。
ロドリーゴは、ソリアーノの城代に「善良なディダコ」と呼ばれるスペイン人、ディダコ・デ・カルヴァーハル(didaco de carvajal)を任命した。
1489年11月7日。霧が皮膚を刺し、骨を凍らせる日のこと。
ヴィニャネッロ(Vignanello)の城主、ピエトロ・パオロ・ナルディーニ伯爵(Conte Pietro Paolo Nardini)が、4人の供を連れソリアーノの城を訪れた。
(ヴィニャネッロはソリアーノの南東にある小さな街。
ナルディーニ(ディ・ナルド(di Nardo)と表記されている場合もある。
もしかしてチェーザレの忠臣ディオニージ・ナルドの遠い親戚かも?)は、
フォルリ出身の一族で、当時フォルリの領主でもあった。
このピエトロ・パオロはクリストフォーロ・ナルディーニと、ロベルト・マラテスタの妹コンテッシーナの間に生まれた息子。)
謙虚で善良な城代ディダコは、礼儀正しく彼らを迎え、客間に通した。
夜が訪れ、召使いが食卓を整えはじめた。遠くからかすかにアヴェ・マリアが聞こえていた。
豪華な食事が供され、和やかな会話が始まった時、ナルディーニ伯は部下へと目配せした。部下はその意味をただちに察し、鞘から剣を抜いた。そして矢のような速さで、城代ディダコに飛びかかった。
老齢のディダコは避けるべくもなく、血を流し地面に崩れ落ちた。ディダコを慕う忠実な召使いが彼を庇おうとしたが、召使いも斬られた。
ナルディーニ伯の目的は、ソリアーノの城代を殺し、城を乗っとることだった。
5人は、まだ暖かい死体のそばで勝利を予告する歓喜の叫びをあげながら、盃を酌み交わした。
盃を空にした一行は、松明を手に城の外へ出た。
城下は闇に染まり静まり返っていた。
彼らは腕を振って炎で円錐形を描き、城下に待機する兵士たちに合図を送った。
城から西に半キロほどのバスティア通り(Via Bastia)に住む、肉屋(カルナイオーロ)のある老婦人は、その夜、不吉な予感を覚えて寝つけずにいた。
火のそばで糸を紡ぎながら風のうなり声を聞いていた彼女は、星を見ようと戸口に立った。
すると疲れた目に、城に明滅する奇妙な光が映った。
「城に誰かが…?」
考える間もなく、老婦人は稲妻のように素早く頭巾をかぶり、走り出した。
暗い夜道を、ほとんど手探りの状態で、街へ向かった。
そして、最初に目についた家の扉を、力任せに叩いた。再び走り出し、次の家の扉も叩いた。
彼女に起こされた人々は、すぐに何か恐ろしいことが起きたことを理解した。
彼らは大急ぎで武装し、さらに他の住人に知らせるために走りまわった。
広場に集まった街の人々は、みな一緒に、城で揺れている怪しい灯りを見た。
城で良くないことが起きている。
群衆は興奮し、ざわめきながら城へ向かった。
(半数はナルディーニ伯爵の所領、ヴィニャネッロに向かったという説も。しかしこの時点で、敵がヴィニャネッロの人間だとわかるのは、おかしくない?)
彼らは城代ディダコの名前を呼んだ。善良なディダコは、ソリアーノの人々に愛されていた。
城の近くに潜伏していたナルディーニ伯の兵は、すぐに街の人々に発見された。そこは小川のそばだった。瞬く間に戦闘が始まった。
暗闇の中、地の利のある住民たちは強かった。数でも勝っていた。兵士たちは散り散りになって逃げるしかなかった。
(この戦闘が行われた小川は、その後「良き出会いの小川(Fosso del Buon Incontro)」と呼ばれるようになる。
戦いの名前も「良き出会いの小川の戦い(battaglia del Fosso del Buon Incontro)」)
人々は完全なる勝利を目指して、城を目指した。
「殺せ!殺せ!」と全員が叫び、それは合唱となった。
「なぜ罪のない人々が苦難を与えられ、十字架にかけられなければならないのか?」
「殺せ!殺せ!悪党どもを!」
「ナルディーニ伯爵を!」
彼らは青白い月明かりの下、夜明けを待った。
新しい日の光が昇り、その輝きが辺りを照らし出すと、人々は城内に突入した。
そして城代ディダコとその従者が殺されているのを目の当たりにした。彼らの怒りが爆発した。
猛烈な復讐の念が、卑劣な伯爵とその仲間たちに向けられた。捜索が徹底的に行われた。
そして、恐怖に満ちた様子で隅に隠れ、震えていた一党を見つけた。
伯爵たちは乱暴に捕えられ、徹底的に痛めつけられた。そして、城の最上部へ連行された。
住民たちは、彼らの涙や哀願には耳を貸さなかった。最後の光景を見届けさせたあと、主塔の縁から彼らを突き落とした。
重い音が響き、その後には墓場のような静寂が訪れた。
教皇インノケンティウス8世は、このソリアーノの人々の忠誠心と功績を称えるため「金の勅書 Bolla d’oro」を発布した。
この勅書により、ソリアーノは教皇庁財務局(Camera Apostolica)からの税の徴収を、免除されることになった。
また、自治体の紋章に「FIDELITAS(忠誠)」という言葉を加えることも認められた。これは現在の街の紋章にも引き継がれている。
イタリアでは毎年10月、各地で栗祭り(La Sagra delle Castagne)という秋の祭りが開催されるが、ソリアーノでのこの祭りは、名産である栗の実りを祝うとともに、カルナイオーロの老婦人 (La vecchietta del carnaiolo)のエピソードにちなんだものになっている。
街も人々も中世・ルネサンス風に装飾され、至るところで遠い昔に起きた事件の再現が行われる。大々的な再現劇も上演される。
他にも、剣士や弓術士、騎士、音楽隊のパフォーマンスや、700人以上が参加する豪華な歴史行列などがある。レストランや屋台では伝統料理が提供され、人気を集めている。
→ ソリアーノの栗祭り公式サイト
英語でも見られます。
→ googleマップの栗祭りのページ
写真とレヴューがたくさん!
楽しいです。オススメ。
アンジェラ・ボルジアをめぐるエステ兄弟
その他の人々関連
アストーレ・マンフレディの悲劇
パッツィ家の陰謀
→ パッツィ家の陰謀
1478年。パッツィ家を首謀者とする、メディチ兄弟襲撃事件。
フォルリの女傑カテリーナ・スフォルツァ
カテリーナの人生と、1488年の陰部を指差して罵ったというエピソード。
サヴォナローラの処刑
ビミョーにチェーザレと縁がある?カラブリア公フェルディナンド・ダラゴーナ
カラブリア公フェルディナンド(1488–1550)はナポリ王フェデリーコ1世の息子。
チェーザレの求婚を断固拒否したナポリ王女カルロッタ(1480–1506)とは異母姉弟。
1501年、ナポリ戦争(1499-1504)の最中、フランスのルイ12世とスペインのフェルナンド2世の軍がナポリ王国を占領した。
(チェーザレも従軍していた。ルイ12世に呼ばれて、ピオンビーノ攻略をミゲルとヴィテロッツォに任せた時)
この時、フェルディナンドはタラントにいて、ゴンサロ・フェルナンデス・デ・コルドバの指揮するスペイン軍に包囲されていた。
フェルディナンドは自由を約束され降伏したが、コルドバは約束を破って彼を捕縛し、スペインへ送った。
(コルドバ…チェーザレにやったことと同じこと、前にもしてたのね!!)
スペインでフェルディナンドはメディナ・デル・カンポのモタ城に幽閉される。
(チェーザレが幽閉される所!!)(フェルディナンドとは入れ違いになっている)
1505年、幽閉を解かれスペイン王フェルナンド2世の宮廷に滞在するが、王の新妻ジェルメーヌ・ド・フォアとの不倫が発覚し、再びアティエンサの城に幽閉される。
(スペイン王フェルナンド(53歳)は妻であるカスティーリャ女王イサベル1世を1504年に亡くしていて、18歳の後妻をめとっていた。ちなみにフェルディナンドは17歳。)
1512年、フェルディナンドはハティヴァ城に移される。
(チェーザレのパパロドリーゴの出生地!!ボルジアの礎となった街!!)
1513年、逃亡を試みるが失敗。
(チェーザレも1回失敗してる!!)
1523年、解放され、不倫相手だったジェルメーヌと結婚した。
(純愛!?と思うけど、ジェルメーヌにとっては3人目の夫)
1526年、ヴァレンシアの総督となり、妻とともに演劇や音楽を奨励する活気ある宮廷を築いた。
1550年、死去、ヴァレンシア市内に自身が設立したサン・ミゲル・デ・ロス・レイエス修道院に埋葬された。
レオ10世暗殺未遂計画
時代背景関連
イタリア時間
チェーザレの時代の時間は現代とは違い、イタリア時間(ユリウス時間、旧チェコ時間、ボヘミアン時間)と呼ばれる。
14世紀からイタリアを中心にボヘミア、ポーランドなどヨーロッパの一部で採用されていた1日の区切り方。
特徴としては、
- 日没から始まる24時間制(日没=24時)
なので、日々ちょっとずつ変動する。例えば同じ17時と言っても夏と冬では最大4時間以上ずれる。チェーザレの時代は大体週1で時計を調整していた。
日没から1時間経つと1時、2時間経つと2時。1日の時間を日没から数えていく。
- 反時計回りに針は動く
ので、文字盤も反時計回りに描かれている。大体24時が真下部分、今の6時の位置にあった。
- 針は1本
なので、何分なのかは針の微妙な位置でしかわからない。何秒なのかはまずわからない。
例えば、
ピサの1月1日の日没は現代の時間でほぼ17時、日出は8時である。すると当時の時間はこのようになる ↓
つまりこの時計はXVと4分の1の場所を指しているので、15時15分、今の時間では8時15分だということ!
(※画像の時計はフィレンツェのドゥオーモにある時計です。ピサは例として出してるだけです)(でも日没時間は3分くらいしか変わらないのでまあ同じ時間です)
惣領冬実「チェーザレ」8巻の場面は、スペイン両王のグラナダ入城(1492年1月2日)からそんなに経ってないと思われるので(もしかすると同日夜?)、
上記と同じく17時が日没とすると、
時計は4時少し前くらいを指しているが現代の時間では21時少し前になる。
(セリフで隠れてわかりにくいけど)
(みんな早寝なのね!)
1500年2月26日、チェーザレがイモラとフォルリを陥してローマに凱旋した時、ブルカルドは、
「全ての枢機卿は16時にサンタ・マリア・デル・ポポロ広場に出迎えに出た」
「チェーザレは19時から20時に到着した」
と書いている。
遅くない?冬だしもう真っ暗では?と思うけどこれも、
ローマのこの時期の日没はおよそ18時なので、18時=24時となり、
枢機卿が出迎えに出たのは午前10時、
チェーザレが到着したのは13時から14時
ということになる。
(これさ…ボルジア本(じゃなくてもイタリア時間時代の本)を読む時、書かれている日付や時間が当時のもの(イタリア時間)なのか現代のものに直されて書かれているのか、明記してくれないと判断難しくない!?
まあ原文をそのまま引用でないかぎりは、現代のもので書かれてるとは思うけど…)
この時代は日没に城門が閉じられ、住民は仕事をやめて門の中に戻らなければならなかったので、日没時間を知ることは重要だった。
24から鐘の鳴った回数を引けば、あと何時間で日没なのかがわかるので、その点は便利だった。
(時代が少し新しくなると日没から30分後に24時をずらしたりしてよりややこしくなるが(ベルアワーと呼ばれる)、とりあえずチェーザレの時代には関係ないので割愛)
17世紀になってヨーロッパの時計が国際的に標準化され、時間は午前と午後の12時間制(フランス時間、アルプス以北時間、グレゴリオ時間)(現在と同じ時間区分。ヨーロッパのほとんどが採用していた)となり、針は右から左へ動くことに決められた。
ナポレオンがイタリア半島を支配したことで、この方式は決定的なものになった。
が、イタリアでのイタリア時間は19世紀中頃までは使われていたよう。
今ではフィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレの時計(上で例に使っている画像)がチェーザレの時代と同じ時の刻み方をしている。
ヴェネツィアのサン・マルコ広場などにも同じような24時間時計がある。
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