チェーザレ・ボルジアについて、とりとめのないけれど愛に満ちた探究心を発揮するサイトです。

1493年、アレクサンデル6世の勅書。

1493年〜1495年




1493年〜1495年

ルクレツィア、ホアン、ホフレの結婚とチェーザレの枢機卿就任

1493年(18歳)

1月19日
 


フランス、スペイン間にバルセロナ条約締結
→ シャルル8世のナポリ侵攻を視野に入れた条約
スペインはナポリに対していかなる援助も行わない、婚姻関係などの同盟を結ばない、とするもの
3月19日
 
 
 
チェーザレ、スポレートを離れローマに
ローマでのチェーザレの様子を、フェラーラの大使ジョヴァンニ・ボッカチオは「才気あふれ魅力的で生まれながらの君主のよう、父の意向で仕方なく聖職についているようだ」とエルコレ・デステへの手紙に書いている
4月25日
 
反ナポリ王国同盟(サン・マルコ同盟)
教皇、ヴェネツィア、ミラノ、シエナ、マントヴァ、フェラーラで構成
アレクサンデル6世は、ナポリとミラノの開戦を避けるために、対ナポリ、フィレンツェ、ローヴェレの同盟を結成する。
ナポリはスペイン本国へ助力を求めるが、スペインはポルトガルとの世界分割協定(→ 1494年トルデシラス条約)において教皇の承認を必要としていたため、これを断る。


1493年各国関係

フィレンツェはロレンツォ・イル・マニーフィコが死去し息子ピエロ・デ・メディチの代になってから、ミラノとの長年の同盟(コジモ・デ・メディチとフランチェスコ・スフォルツァ以来)を破棄し、完全にナポリ寄りとなっていた。


5月4日
 
アレクサンデル6世、教皇勅書によって教皇子午線を決定する(新大陸におけるポルトガルとスペインの勢力圏を決定した)
6月12日
 
ルクレツィア・ボルジア(13)ペーザロ伯ジョヴァンニ・スフォルツァ(26)と結婚
サン・マルコ同盟の強化、教皇選で同盟したスフォルツァとの関係も強化
8月2日
 
 
 
 
 
ホアン・ボルジア(17)スペインへ発つ
亡き兄ペドロ・ルイスの後を継ぎ、スペインのガンディア公爵に
(という名目だけど実質スペインの人質だと思う)
婚約者(スペイン王フェルナンドの従妹マリア・エンリケス)まで譲り受ける
(7月31日にアレクサンデル6世はスペインに発つホアンにヴァレンシア方言でとても親密な優しくそして強く激励する手紙を書いている)
16日
 
ホフレ・ボルジアとナポリ王女(庶子)サンチャ・ダラゴーナの結婚が秘密裏に決められる
ボルジアとスフォルツァ(ミラノ)の結びつきを快く思わないナポリに対する措置
9月20日チェーザレ、枢機卿に
 13人が新たに枢機卿に任命される
 イッポーリト・デステ(15)
アレッサンドロ・ファルネーゼ(25) など
10月
 
 
 
チェーザレ、アレクサンデル6世とともにオルヴィエートへ
→ アレッサンドロ・ファルネーゼの招きによるもの
が、ローマの前哨基地あるいは避難場所として、オルヴィエートの価値を見いだし修復と要塞化を進めた
 翌年夏、チェーザレは住民の要望により、この町を統治することになる






シャルル8世のイタリア侵攻

1494年(19歳)

1月25日ナポリ王フェランテ、死去
2月3日アレクサンデル6世、シャルル8世にイタリアの平和を乱すことないよう警告の手紙を書く

1489年頃からナポリの王位継承と親族叙任の問題は議論されていた。が、前教皇インノケンティウス8世がナポリ王フェランテの死後、息子のアルフォンソ2世が後を継ぐことを承認していた。
これに対しフランス王シャルル8世はアンジュー家の子孫である自分に王位継承権があると主張。(ナポリは13世紀末、アンジュー家のシャルル1世の支配下にあった。シャルル8世はそのことを持ち出し、王位継承権は自分にあると横やりを入れていた。)

→ 時代背景 南部イタリア
→ カステル・ヌォーヴォ

アレクサンデル6世はこれを認めず拒否した(彼は元々スペイン寄りでありスペインと並ぶ大国フランスをイタリアに入れる気はなかった)(そうでなくても他国の奴に自分ちの近所を支配させる気はなかったでしょう)


フランス側

  • ミラノ・・・摂政イル・モーロは当主の座を狙い、ミラノ公ジャン・ガレアッツォを放逐したかった。ジャン・ガレアッツォの妻がナポリ王息女(イザベッラ・ダラゴーナ)であったため、ナポリの干渉を絶ちたかった。
  • フェラーラ・・・イル・モーロの妻(ベアトリーチェ・デステ)は当主エルコレ・デステの娘。つまり姻戚で同盟していた。
  • マントヴァ・・・当主フランチェスコ・ゴンザーガの妻(イザベッラ・デステ)はフェラーラのエルコレの娘であり、イル・モーロの妻(ベアトリーチェ・デステ)の姉でもあった。ここも姻戚で同盟。
  • ローヴェレ・・・ナポリ派だったが教皇庁(ボルジア)とナポリが同盟すると居場所がなくなりフランスへ。シャルル8世にアレクサンデル6世を廃位して、自分を教皇にと売りこむ。

ナポリ側

  • フィレンツェ・・・フランス派が多数(フランス相手に商売をしている市民が多かった)。しかしピエロ・デ・メディチはナポリを支持。
        →フィレンツェ市民の反メディチ感情をあおることに。
  • 教皇・・・はじめはフランスよりの姿勢を見せつつナポリとより良い条件で同盟する。ガンディア公ホアンへの領土やチェーザレへの献金、ホフレの婚姻などと引きかえにナポリと手を結ぶ。
  • オルシーニ・・・ナポリの傭兵隊長であった。(しかし後にフランスへ寝返る)
  • コロンナ・・・ナポリ王フェランテと緊密だった。
  • ヴェネツィア・・・対トルコで手一杯(という体で「潰しあってくれればなあ…」と思っている → 静観

1494年各国関係




3月14日
 
 
ナポリの使節がヴァティカンを訪れる
多くの聖職者がこれを出迎えるがフランス人の枢機卿や代理人は出席しなかった
→ 不服の意を示している。
22日
教皇とナポリの間で協定が結ばれる
ホフレとサンチャの結婚をすみやかに遂行すること、チェーザレには4000ドゥカートの献金
4月18日9時間におよぶ秘密会議でアルフォンソの戴冠に対するフランスの抗議を認めないと決定される
同日チェーザレ、弟ホアンに手紙を書く
24日ホアン・ボルジア(サヴィオ)、教皇特使としてローマを発ちナポリへ
5月8日


ナポリ王アルフォンソ2世・ダラゴーナの戴冠式
ホアン・ボルジア(イル・サヴィオ)が教皇代理で戴冠
教皇庁式部官であったブルカルドも同行
9日


ホフレ・ボルジア(13)、ナポリの王女(庶子)サンチャ(15)と結婚
1493年7月に教皇はナポリと和平協定、その一環としての結婚
持参金は年間1万ドゥカート


ルクレツィアの結婚による教皇とスフォルツァの結びつきはナポリにとって脅威だった。スフォルツァの後ろには長年ナポリを狙っているフランスが控えているから。そのためナポリは教皇を味方に引き入れておく理由があった。

教皇となってしばらくのアレクサンデル6世は、ロレンツォ・デ・メディチの理想を受け継ぐ形である勢力均衡政策に縛られている。
反ナポリ王国同盟も、小国間の同盟によって力のバランスをとり平和を保とうとする、かつての三国同盟に等しいものである。

また、ルクレツィアとスフォルツァの結婚、ホフレとナポリの結婚もこの考えに沿ったものだと思われる。


5月31日
 
ルクレツィア、アドリアーナ・ミラ、ジュリア・ファルネーゼとともにペーザロへ向かう
シャルル8世が侵攻して来そうだしペストも流行ってきたので婚家に避難した
7月
 
 
 
 
 
アレクサンデル6世、長官ジョルジョ・ボッチャルドをオスマン帝国のバヤズィト2世のもとに派遣
1・ローマ在住のトルコ王子ジェーム(彼は政権争いのごたごたでローマ在住だった)の預かり金の前払いを依頼
2・フランス軍の侵攻に関してヴェネツィアが動かぬよう圧力をかけるよう依頼
3・キリスト教徒に対する敵対行為を控えるよう依頼→ 対フランス対策
7月12日
 
 
チェーザレ、アレクサンデル6世と共にローマを離れティヴォリへ
→ 対フランスの軍事的措置について会合するためヴィコヴァーロ(ナポリの傭兵隊長ヴィルジニオ・オルシーニの城塞)へ行く途中
13日チェーザレ、アレクサンデル6世と共にヴィコヴァーロへ到着
14日チェーザレ、アレクサンデル6世と共にヴィコヴァーロにて会談
 → ナポリ王アルフォンソ、ヴィルジニオ・オルシーニ、ファブリツィオ・コロンナと(ホアン・ボルジア(サヴィオ)もナポリから合流)
 1・オルシーニは教皇庁軍と共に国境を守備することに合意
 2・コロンナは教皇領とナポリ領の境界線内では敵対行為を行わないと合意
コロンナはフランスの傭兵隊長であるのでこの談合はフランスへの背信行為(しかし翌年9月フランス軍がオスティアを占拠する際、この合意は破られる)
(傭兵の在り方がいかにテキトーであったかよくわかる)





1494年(19歳)

8月23日フランス王シャルル8世、ナポリ征服のためグルノーブルを発つ
9月9日
 
 
シャルル8世、アスティに入城
→ ルドヴィーコ・スフォルツァ、エルコレ・デステ、ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレを従えて
18日
 
フランスの傭兵隊長コロンナ(ファブリツィオとプロスペロ)、オスティアを攻略しフランス国旗を掲げる
→ ナポリ軍が撤退したため、フィレンツェは防衛の見通しが立たなくなる
10月26日
 
ピエロ・デ・メディチ、フランス軍に謁見、同盟を受諾する
→ フィレンツェ市民の反感を買いサヴォナローラに批判される
10月頃
 
 
 
シャルル8世、ルッカに入る
教皇特使ピッコローミニ枢機卿と面談するが教皇と直接話すと言って相手にしない
→ アレクサンデル6世はペラウディ枢機卿、サンセヴェリーノ枢機卿と矢継ぎ早に派遣、シャルルに進軍を断念するように働きかけ続ける(が無駄に終わる


11月9日フランス軍、ピサへ入城、フィレンツェの圧政からの解放者として歓迎される
9日メディチ家追放
→ フィレンツェ市民の蜂起により、ピエロとジョヴァンニの兄弟は逃走。フィレンツェの支配権は修道士サヴォナローラの手に渡る
17日フランス軍、フィレンツェへ入城
20日チェーザレ、アレクサンデル6世と共にオルシーニの所領ピチリャーノへ
22日
 
 
 
 
シャルル8世、
-1・ナポリを基地として十字軍遠征を行う
-2・教皇領内の自由通過許可の要求
を宣言
同日
 
 
バヤズィト2世からの返信を持ち帰ったジョルジョ・ボッチャルドがシニガリアで逮捕される
→ 教皇がイスラム国と通じていたことが糾弾される
しかしアレクサンデル6世はキリスト教会への攻撃を停止するよう要請しており、スルタンからのジェーム殺害依頼も無視しており、できうる手段でイタリアの権利と自由を守ったのだと反論できる。
23日チェーザレ、オルヴィエートへ。防衛の指揮をとる
27日シャルル8世、ヴィテルボに入る
 
 
フランスの進軍があまりに速く、ヴィテルボ近郊の実家に避難していたジュリア・ファルネーゼ、フランス軍に囚われる
→  丁重に扱われローマに護送される
12月9日
 
アレクサンデル6世、アスカーニオ・スフォルツァやプロスペロ・コロンナをカステル・サンタンジェロに監禁
16日
 
シャルル8世ブラッチャーノに入る
→ ナポリの傭兵隊長だったヴィルジニオ・オルシーニ、フランス側に寝返って城塞を譲渡
 → 教皇とナポリにとって大打撃
18日
 
 
アレクサンデル6世、ローマを出てガエタに向かうと言い出す
→ しかし実行には移さず(ガエタからシチリアに逃げる案は前から出ていた。が教皇は拒否していた。ここでついに弱気になったのかもだけど結局は動かず)
25日
 
 
アレクサンデル6世、クリスマスの公会議にてアルフォンソ2世がナポリ王国を継承することを正式に宣言
→ 教皇が同盟国に忠実であることを大胆に宣言した異例の措置
同日午後
 
ホアン・ボルジア枢機卿(サヴィオ)教皇特使としてブラッチャーノに向かいシャルル8世に伺候
26日
 
 
アレクサンデル6世にフランスの使者が伺候
教皇はフランスの要求を拒否
 → 周囲を驚嘆させる
27日

 
 
ホアン・ボルジア枢機卿(サヴィオ)ローマとその市民を保護するためにできるかぎりの条件を整える
→ フランス軍の宿舎は左岸に限られ、教皇庁の衛兵は下げられ、教皇もサンタンジェロからヴァティカンに下がった
31日シャルル8世、ローマへ無血入城




    

1495年(20歳)

1月6日アレクサンデル6世、カステル・サンタンジェロの譲渡を拒否
15日アレクサンデル6世とシャルル8世、会合
1・フランス軍の教皇領内通行許可
2・チェーザレとトルコ王子ジェームの二人をシャルルの許へおく(チェーザレは4ヶ月、ジェームは十字軍遠征まで)
→ 使節という名の人質
枢機卿であるチェーザレに、ナポリで自分の戴冠式させる意図もあったと思われる。
教皇は上の2つを認めることになったが、シャルル8世の真の目的であったナポリの王位継承権の要求はうやむやにしてしまう。もちろんローヴェレの希望だった廃位など話にも出ず。
アレクサンデル6世の政治的手腕
28日シャルル8世、ローマを発ち、ナポリに向かう
ナポリ王アルフォンソ2世、息子のフェルディナンド2世に譲位して退位、ナポリから逃亡する
シャルル8世はローマから24キロ程南のマリノでこの知らせを受ける
(→ 1495年12月18日、アルフォンソ2世は逃亡先のシチリア島メッシーナで死去する)
30日
未明
ヴェレトリにて、チェーザレ、厩務員に変装し逃亡!
ヴェレトリの執政長官フランチェスコ・ダ・サッコの助けを借りて
(チェーザレの荷物はヴェレトリに到着する前にローマに引き返していた)
(チェーザレの19の荷物と10頭の馬は2個の荷をつけた1頭の中身のみ本物であとはガラクタだったという説もある)
ヴェレトリはローヴェレの街なので、彼は自分とこで逃げられて口惜しかったことでしょう。
チェーザレはローマを避けヴェイイに向かい、2日後スポレートへ(一旦ローマのスペイン人アントニオ・フローレスの家に一晩身を寄せた説もある)
アレクサンデル6世はその日の夜にはチェーザレの逃亡を知ったが、ヴァティカンに姿を見せたかどうかはわからない、とブルカルドは書いている
シャルルは激怒するが、チェーザレの足取りを追えず、あきらめてナポリへ
同日 
 
スペイン両王の特使がシャルル8世のもとへ
シャルルの進軍に異をとなえるが聞き入れられず
2月22日シャルル8世、カプアーナ門からナポリに入城
23日夜ナポリ王フェルディナンド2世、イスキア島に逃亡(最終的にシチリアへ)
25日
 
トルコ王子ジェーム死去
自然死と言われている
→ ジェームにトルコを攻めさせて東ローマ帝国再建を目論んでいたシャルルの野望は潰える
3月28日
 
 
ヴァティカンにて秘密会議
→ 反フランス同盟の会議。フランスの侵攻を見逃せない神聖ローマ帝国と、アレクサンデル6世の後ろにいるスペインはヴェネツィアとミラノに教皇を支持するよう呼びかけていた
3月31日
 
神聖同盟結成
アレクサンデルの呼びかけによる対フランス同盟
教皇庁、神聖ローマ帝国、スペイン、ヴェネツィア、ミラノで構成。
キリスト教国を、トルコの攻撃から守るという名目だったので「神聖」同盟。しかしフランスに対抗する同盟であるのは周知の事実だった。
フィレンツェはサヴォナローラがフランス派であったため、不参加。
→ イタリア中から白眼視され、フィレンツェの立場は弱体化。支配下にあったピサの反乱へつながる。


神聖同盟後各国関係


 情勢の悪化を察知した(そして梅毒の蔓延に辟易した)フランス軍の兵士たち、特にスイス傭兵がナポリから逃亡し始める
4月1日
 
脱走したスイス兵15人がローマで襲われ金品を奪われ殺される
チェーザレの仕業だと噂される
5月20日シャルル8世、ナポリから逃げ出す
26日
 
ルドヴィーコ・スフォルツァ(イル・モーロ)、ジャン・ガレアッツォの死により、正式にミラノ公として叙任される
 → フランスを支持する必要がなくなる
27日 
 
教皇アレクサンデル6世、シャルルを避けてオルヴィエート、ついでペルージャへ。
チェーザレも伴う。(ルクレツィアも避難していたペーザロから合流)
6月1日
 
 
 
シャルル8世、ローマに到着
教皇はヴァティカンを宿舎にするよう伝言を残しており「ゲストが自由に楽しめるように宮殿を空けておいた」とうそぶいている。
しかしシャルルはペニテンツィエリ宮に滞在したよう
13日シャルル8世、シエナに到着
16日ルクレツィア、夫ジョヴァンニ・スフォルツァとともにペーザロからペルージャへ
27日

アレクサンデル6世、シャルル8世と入れ違いにローマに戻る
民衆の熱狂的な歓迎を受ける
7月6日フォルノーヴォの戦い(タローの戦い)
フォルノーブル近くのタローの河岸で、マントヴァ侯爵フランチェスコ・コンザーガ率いる同盟軍とフランス軍が激突。
同盟軍側は3千以上の死者、対してフランス側は2百未満。
これまでのイタリアの戦闘は、死者の数のとても少ないものであった。(ダ・ヴィンチの未完の作で有名な「アンギアーリの戦い」など、ものすごく激しい戦闘だったように言われているが、実際の死者の数は10名ほどだったらしい。)
このフォルノーブルの戦いはチェーザレの時代の初めての殺戮と流血を伴う戦闘であった。
フランス兵は兵糧不足に苦しめられ、病に倒れるものが続出する。
しかしシャルル8世は無事にフランスに帰り着く
→ フランス軍は死傷者も少なくシャルルも逃げおおせているので、この戦いはフランスの勝利と見る向きもある。
しかしイタリアから逃亡したことは確かなので、同盟軍の勝利とも言える。
同盟軍の戦犯はローマ皇帝マクシミリアン。彼はヴォルムスの帝国議会を終わらせられず参戦しなかった。
9日フェルディナンド2世、ナポリに戻る
26日アレクサンデル6世はサンタンジェロとオルヴィエートの強化を考え、チェーザレをオルヴィエートの総督にする。
10月9日ヴェルチェルリ条約
講和成立
シャルルは結局敗残者のようにイタリアを去ることに
→ アレクサンデル6世はフランスを追い出したことにより、イタリア内での権力を強めた。


このシャルルのイタリア侵攻により、チェーザレは教会自体が軍隊をもつ必要性を痛感する。
また、共和制の限界、強力な君主が統一する国家の必要も感じたかもしれない。





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