ローマRoma-ヴァティカン周辺
ローマ Roma ヴァティカン周辺
ヴァティカン美術館だけで、かなりの時間をとられると思うので、サン・ピエトロ寺院、サンタンジェロ城なども1度にまわるのは大変かもしれません。近距離にあるので、ひとくくりにしています。
- ローマ Roma ヴァティカン周辺
- ヴァティカン美術館(Musei Vaticani)
- サン・ピエトロ大聖堂(Basilica di San Pietro in Vaticano)
- ペニテンツィエリ宮殿(palazzo dei penitenzieri)ローヴェレ宮殿(Palazzo della Rovere)
- サンタンジェロ城(Castel Sant'Angelo)
- サンタンジェロからサン・ピエトロに続くパセット(Il Passetto)
- ジロード・トルローニア宮(Palazzo Giraud Torlonia)
- スフォルツァ・チェザリーニ宮(palazzo Sforza Cesarini)
- トッレ・ディ・ノーナ(Tor di Nona、Torre dell'Annona)
- 黄色のマークがこのページにある見どころです。他は別ページにあります。
- 教皇宮殿 - ヴァティカン宮殿
- ホテル・コロンブス - 旧ペニテンツィエリ宮。
- サンタンジェロ城 -
- ジロード・トルローニア宮 - 旧コルネート邸。
- スフォルツァ・チェザリーニ宮 - 旧ボルジア邸。
- アレクサンデル6世の紋章 - パセットに見られる紋、その1。
- アレクサンデル6世の紋章 - パセットに見られる紋、その2。
- トッレ・ディ・ノーナ - 今はもうないが、トッレ・ディ・ノーナが建っていたところ
ポポロ広場 - → ポポロ広場を拠点に
ポポロ門 - → ポポロ広場を拠点に
サンタ・マリア・デル・ポポロ教会 - → ポポロ広場を拠点に
コルソ通り - → ポポロ広場を拠点に
サン・ジャコモ病院 - → ポポロ広場を拠点に
コロンナ宮 - → ポポロ広場を拠点に
ヴェネツィア宮 - → ポポロ広場を拠点に
サン・マルコ教会 - → ポポロ広場を拠点に
ジェズ教会 - → ポポロ広場を拠点に
サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会 - → ポポロ広場を拠点に
ボルゲーゼ美術館 - → ポポロ広場を拠点に
フィアンメッタの家・1 - → ナヴォーナ広場周辺
フィアンメッタの家・2 - → ナヴォーナ広場周辺
サン・タゴスティーノ教会 - → ナヴォーナ広場周辺
タヴェルナ宮 - 旧オルシーニ家 → ナヴォーナ広場周辺
カンチェレッリア宮 - 旧ラファエーレ・リアーリオ邸 → ナヴォーナ広場周辺
ペッレグリーノ通りと紋 - カンポ・デ・フィオーリ → ナヴォーナ広場周辺
ガッロ小路の紋 - カンポ・デ・フィオーリ → ナヴォーナ広場周辺
サンタ・マリア・ディ・モンセラート教会 - → ナヴォーナ広場周辺
ファルネーゼ宮 - → ナヴォーナ広場周辺
サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂 - → コロッセオ周辺
サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ教会 - → コロッセオ周辺
ボルジア邸とボルジア階段 - → コロッセオ周辺
カフェ・ボルジア - ボルジアの名のつくカフェ → コロッセオ周辺
クァットロ・コロナーティ教会 - → コロッセオ周辺
サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラーノ大聖堂 - → コロッセオ周辺
サン・シスト教会 - → コロッセオ周辺
※写真にマウスを置くと、多少の説明が出ます。
ヴァティカン美術館(Musei Vaticani)
ボルジアの間
ラファエロの間
絵画館
教皇宮殿(Palazzi papali、Palazzi pontifici、Palazzo Apostolico)
教皇の住まいのこと。使徒宮殿とも言う。
アヴィニョン捕囚以前の教皇宮殿はラテラノ宮殿だった。現在はヴァティカン市国内のヴァティカン宮殿。
チェーザレの時代の教皇宮殿は、
システィーナ礼拝堂、
ボルジアの塔、
パパガッロの中庭を囲む中世宮殿、
ニコラウス5世の塔(非公開)、
塔から左右に伸びるレオ4世とニコラウス5世の城壁(サンタンジェロ城につながるパセットに続く)(非公開)
の部分。
現在は上記に加え、
サン・ダマソの中庭の東側に隣接しシクストゥス5の中庭を囲むシクストゥス5世の宮殿(非公開)、
サン・ダマソの中庭の北側に隣接するグレゴリウス13世のロッジアと宮殿(非公開)
が、おおよその教皇宮殿の部分。(他にもサン・ピエトロ大聖堂とシスティーナ礼拝堂の間にあるベルニーニによって作られた王の階段(非公開)とか、17〜19世紀に作られた回廊や建物が上記の建物に増設されて、細かくくっついている。)
ベルヴェデーレ宮殿(Villa Belvedere)
インノケンティウス8世によって、ヴァティカンの北端に建てられた宮殿。(ピーニャの中庭のさらに北にある。ヴァティカン美術館入口近辺の建物。)
夏用の住居として利用された。建物からの眺望が素晴らしく、この名前がつけられた。(ベルヴェデーレはイタリア語で展望台の意味。)
ユリウス2世がブラマンテに設計させて、ギャラリーや中庭で教皇宮殿本殿とこの宮殿をつないだ。
1503年、ユリウス2世の教皇即位後の一時期、チェーザレはここに滞在していた。
また、1513年、レオ10世の弟ジュリアーノ・デ・メディチに招かれローマを訪れたレオナルド・ダ・ヴィンチも、滞在中ここを住まいとした。
現在はヴァティカン美術館の一部になっている。
(ピオ・クレメンティーノ美術館、第5室、彫刻のギャラリーあたり。)
オーストリア、ウィーンにもベルヴェデーレ宮殿(伊・Castello del Belvedere 独・Schloss Belvedere)
ベルギー、ブリュッセルにもベルヴェデーレ城(伊・Castello del Belvédère 仏・Château du Belvédère)
など同名の城や場所が複数存在する。ので、情報探す時には気をつけて!
ちなみにgoogle mapでヴァティカンを見ると、ボルジアの塔の東のベルヴェデーレの中庭端っこ部分にベルヴェデーレ宮殿と出る。(2023年9月現在)これは間違ってる!
サン・ピエトロ大聖堂(Basilica di San Pietro in Vaticano)

324年、聖ペトロの墓の場所に、コンスタンティヌス帝によって建てられた教会。349年頃に完成した。
サン・ピエトロとは聖ペトロという意味。

はじめ、サン・ピエトロは聖ペトロの墓を参拝するための殉教者記念教会堂であり、ローマの司教座聖堂は、サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラーノ大聖堂であった。
しかし、教皇のアヴィニヨン捕囚によってラテラーノ大聖堂と宮殿が荒廃、1377年、ローマに戻った教皇ウルバヌス6世は、サン・ピエトロ大聖堂をローマ教皇の座所と決める。
以来、サン・ピエトロ大聖堂はローマ司教(=教皇)の司教座聖堂として、カトリック教会の総本山となった。
1506年、ユリウス2世は旧聖堂を取り壊し、新たな大聖堂建設に着手する。それは周辺諸国の君主に対し、教会の権威を知らしめるための行為でもあった。
ブラマンテ、ラファエロ、ミケランジェロ、ベルニーニなど多くの建築家・芸術家が携わり、120年後の1626年、現在見られる大聖堂が完成した。
- クーポラ・・・ミケランジェロ(1475~1564)設計
- ファサード、身廊・・・カルロ・マデルノ(1556~1629)設計
- 広場、内部の司教座、天蓋・・・ベルニーニ(1598~1680)設計

聖ペトロ像。 →
「チェーザレ」7巻Virtu 57に描かれている。
身廊の中ほど右手にある。

← インノケンティウス8世像。
左側廊出入口寄りにある。
1498年に完成し、旧大聖堂に置かれていたものがそのまま、1621年に新大聖堂のこの場所へと置かれた。

← カノッサのマティルダ夫人の記念碑。
「チェーザレ」7巻、Virtu 57に登場する、カノッサ城の女主人マティルダ。
インノケンティウス8世像と線対称にあたる位置にある。
ベルニーニの作。17世紀半ば、教皇ウルバヌス8世によって、マチルダ夫人の遺体はサン・ピエトロ大聖堂へと移され、教会の保護者であった彼女の名声は永遠に記憶されることとなった。

1505年、ユリウス2世は勇猛さで名高いスイス人を用い、教皇の私的衛兵隊を設置した。
1527年のローマ劫略の際、スイス人衛兵隊は教皇クレメンス7世を守り通し、189人のうち147人が戦死した。以来彼らを記念して、ヴァティカンの衛兵はスイス人が務めるという伝統が確立した。
鮮やかな制服はミケランジェロのデザインという説もある。でも趣味・・・悪いよね・・・?
聖具室と宝物館
聖堂の左側廊の、さらに左奥にある。
有料。無料のオーディオガイド貸し出しがあるが、日本語はない。
- 第4室 シクストゥス4世の間
シクストゥスの甥、後の教皇ユリウス2世である枢機卿ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレの命によって作られた墓碑。
- 第5室
シクストゥス4世の「漁師の指輪」。
その他、多くの聖遺物、聖杯、聖体器、法衣、冠などが展示される。ベルニーニの「天使」やミケランジェロの「ピエタ」(コピー)も。
カリストゥス3世とアレクサンデル6世が埋葬されたサンタ・マリア・デッラ・フェッブリ教会(Santa Maria della Febbre)はこの宝物殿付近にあったと思われる。
地下墓地(グロッタ)
聖堂入り口わき、右側から入る。(内部には入らない。クーポラに上るためのチケット売り場の手前。)
無料。

16世紀後半に創設され、1606年以降、教皇や枢機卿などの墓所とされたところ。
入って最初に左手にあるモニュメントが、カリストゥス3世の墓碑。
説明パネルには、
「カリストゥス3世の墓(アロンソ・ボルジャ(1455~1458))
ヴァレンシア(スペイン)、近くのハティヴァ生まれの教皇カリストゥス3世は、77歳の時に教皇に選出された。
彼はサンタ・ローザ・ディ・ヴィテルボとサン・ヴィンチェンツォ・フェレーを列聖した。
彼は自由芸術の保護者であった。」
と書かれている。
遺体は1610年にサンタ・マリア・ディ・モンセラート教会に移されている。
クーポラ

聖堂入り口わき、右側から入る。(内部には入らない。グロッタ入り口の奥。)
エレベータを利用しても、330段の階段を上る。有料。

途中、通路が湾曲していき、クーポラのわきを進んでいるのだとわかる。
ヴァティカンとローマ市街が見渡せる。
左下の長方形の建物がシスティーナ礼拝堂。
ペニテンツィエリ宮殿(palazzo dei penitenzieri)
ローヴェレ宮殿(Palazzo della Rovere)
1950年から、ペニテンツィエリ宮殿(ローヴェレ宮殿)を利用していた四つ星ホテル「ホテル・コロンブス(Hotel Columbus)」は、2018年に閉業した。
建物の所有者である聖墳墓騎士団(Ordine dei cavalieri del Santo Sepolcro)との賃貸契約が、終了したとのこと。
契約は2006年には終了していて、10年以上に渡って折衝が行われていた。最後は弁護士により業務停止命令が出され、司法執行官が公権力をもって建物全体に封印を施し、予告されていた立ち退きを強行したという騒動になっている。
聖墳墓騎士団は、歴史的建造物である宮殿の補強工事や、内部のフレスコ画の修復に着手する。
2021年には中庭の発掘が開始され、2023年、古代の文献でしか確認されていなかったネロ帝の劇場(Theatrum Neronis)が発見された。
さらに、ガラス製の杯や水差し、陶器、巡礼者のバッジ、骨製品、ロザリオの型、舗装道路など、中世の人々の生活や聖ペトロの墓への巡礼を示す遺物も出土した。
これらは調査終了後、宮殿で展示される予定。

2025年1月現在、ペニテンツィエリ宮殿には、聖墳墓騎士団の本部が置かれていて、ピントリッキオの天井画装飾のある広間を含む5室と、中庭の一部が公開されている。
入場には事前の予約が必要。
← 公開されている広間の一室。
「半神たちの天井(Soffitto dei Semidei)」のある「半神たちの間(sala dei semidei)」。
枢機卿ドメニコ・デッラ・ローヴェレの依頼で、ピントゥリッキオが1490年に完成させた。
金箔で装飾された63の八角形の木製格間から成り、それぞれに金色のモザイクを背景としたスフィンクス、トリトン、サテュロス、人魚、ケンタウロスなどの「セミデイ(半神)」が描かれている。
ホテルだった頃は公開されていなかった部屋!
見られるのありがたい。
この天井画、とてもかわいい。ピントリッキオ、もう少し有名になってもいいのでは!
↓ 以下は2009年、ホテル・コロンブスであった頃のペニテンツィエリ宮殿の紹介。
ホテル・コロンブス(Hotel Columbus)
ペニテンツェリと言いたくなるけどペニテンツィエリが正しいよう。
1480年から1490年にかけて、枢機卿ドメニコ・デッラ・ローヴェレによって建てられた宮殿。ゆえに当時はローヴェレ宮殿(Palazzo della Rovere)であった。
ドメニコはサン・クレメンテの枢機卿であったのでサン・クレメンテ宮殿(Palazzo San Clemente)と呼ばれることもあった。
(ドメニコ・デッラ・ローヴェレは、惣領版「チェーザレ」ではジュリアーノ(ユリウス2世)の弟とされているが、確証はないよう。シクストゥス4世の甥ではあるが、ピエモンテ出身のローヴェレ家の傍系という説が強い。(甥ですらないという説もある。))
フィレンツェ出身の建築家、バッチョ・ポンテッリ(Baccio Pontelli)の設計。
枢機卿の意向に従い、建築家は数年前に建てられたヴェネツィア宮殿(Palazzo Venezia)の建築様式を忠実に模倣している。実際すごく似ている。
内部はピントリッキオによるフレスコ画に彩られ、それは現在も2階の部屋の一部で見られる。
右上の写真の天井画がそのピントリッキオ作のフレスコ画。奥に見える扉は201号室(教皇も宿泊するというVIPルーム)のドア。この階には他にもいくつかのVIPルームとサロンがある。
(「レストラン ラ・ヴェランダ」の壁画をピントリッキオ作としているガイドブックがあるが、それは誤り。(ホテルに確認しました。))
ドメニコの死後(1501年)、所有者は次々と変わったが、1655年、聴罪司祭がここを買い取り、巡礼者のための告解所とした。それ以来宮殿はペニテンツィエリ宮と呼ばれるようになった。
(penitenziere=聴罪司祭、penitenzieria=告解所、の意味。)
チェーザレはローマでの居を、基本ここに構えていた。
1492年、ロドリーゴ・ボルジアはアレクサンデル6世として教皇に選出された後、割とすぐにこの宮殿を借入れたらしい。
1493年、ルクレツィアとの結婚のためローマを訪れたジョヴァンニ・スフォルツァは、ここに滞在した。
チェーザレは義理の兄として、ジョヴァンニを歓待したよう。
1495年、イタリアに侵攻したシャルル8世は、ローマに入った時、ここに滞在した。。
(宮殿の紹介サイトには、「フランス王はローマ訪問時、ここを選んで宿泊した(それほど立派な宮殿である。)」風に書かれているけど、
アレクサンデル6世が、侵略者である彼をヴァティカンに入れなかったため、仕方なく近隣のここに泊まった、という説もある。)
(しかも滞在先はヴェネツィア宮殿(Palazzo Venezia)だった説もある。)
- 建物が古いからか、廊下の音がとても響く。隣室の鍵を開け閉めする音とか。
- キーは普通の家の鍵のようで、オートロックではない。
- シャワーブースに区切りがなく、便座の前にそのまま据えてあるので、使用後はバスルームが水浸しになってしまう。(一応簡易スリッパは置いてある。)
- シャワーヘッドが壁に固定されていて、使いづらい。
※ 4階の一室(418号室)に5泊しただけの感想です。他の部屋は異なる仕様かもしれません。
- 最寄り駅(オッタヴィアーノ・サン・ピエトロ)から、徒歩で10分以上。アクセスがよいとは言えない。
(サン・ピエトロ大聖堂とサンタンジェロ城には行きやすい。) - 4つ星ホテルにしては、朝食(バイキング)が、いまいち。3つ星と変わらない。レストラン(ラ・ヴェランダ)の雰囲気は素敵。特に天気のよい日の中庭での食事は最高だと思う。
チェーザレの住まいであった歴史ある建物、という雰囲気を味わうにはとても良いホテルだが、利便さと快適さの面では今ひとつ・・・じゃないかと思う。
サンタンジェロ城(Castel Sant'Angelo)
135年、ローマ帝国皇帝ハドリアヌス(第14代目の皇帝。五賢帝の3人目。)の霊廟として作られた。139年に完成。
590年、大天使ミカエルが城に降り立ち、当時大流行していたペストを祓った、という伝説(教皇グレゴリウス1世が見たという夢)にちなんで、サンタンジェロ城(聖天使城という意味)と呼ばれるようになった。
14世紀から、歴代の教皇たちにより軍事的施設として要塞化され、教皇の避難所や牢獄として使われた。
現在は国立博物館(Museo Nationale di Castel Sant'Angelo)として公開されている。
トップの天使像は1753年、Peter Anton von Verschaffeltによって作られたもの。
正面の紋は、だいぶ風化しているが、教皇アレクサンデル6世の紋。
- 城壁と通路(パセット)部 (クリックすると説明に飛ぶ画像もあります。)
左上の写真は城壁(パセット)部への入り口。城の周囲をぐるりと囲み、内部へもつながっている。
ここをもっと先(写真の右手)に進んだところにブックショップがある。
右の写真は1492年から1495年にかけて、アレクサンデル6世が建てた7角形の稜堡。ニコラウス5世の建てた稜堡「Bastione San Marco」(サン・ピエトロに続く部分の稜堡)をモデルにして作られた。外壁の上部は、当時のまま残っている。
1495年から、アレクサンデルは城の全面的な改修と強化も行った。
建築家アントニオ・ダ・サンガッロ(ヴェッキオ)にさらなる要塞化を依頼し、最新技術に基づく実用的な軍事要塞として使用できるようにした。
さらに城へのアクセスルートをより安全にするため、橋のたもとに円筒形の天守を建てさせ、城壁の周囲にはテヴェレ川の水で満たされた堀を掘らせた。
アレクサンドル6世は城の要塞化だけでなく、ピントゥリッキオがフレスコ画を描いた新しい平屋を作り、庭園や噴水も整備した。城は要塞でありながら豪華な宮殿でもあった。宴会やパーティー、演劇が多く催された。
当時の記録には豪華絢爛であったと記されている。が、1628年にウルバヌス8世が新しい要塞を建設するために取り壊したため、現在は何も残っていない。
- パセット(Passetto)・・・小道、狭い通路。
- 稜堡(リョウホウorリョウホ)(Bastione)・・・城塞や要塞の突角部。
- 博物館(城塞内)部分 (クリックすると説明に飛ぶ画像もあります。)
下の写真はアレクサンデル6世の中庭(Cortile di Alessandro Ⅵ)。3階の東側にある。
1527年、ローマ略奪の際、教皇クレメンス7世がここへ逃げこみ難を逃れたことは有名だが、チェーザレ周辺の人々も様々に関わりを持っている。
- 1494年、フランス王シャルル8世のイタリア侵攻時、アレクサンデル6世はフランス側の人間であったアスカーニオ・スフォルツァやプロスペロ・コロンナをここに勾留している。
アレクサンデル自身も、シャルルのローマ入場時はチェーザレや甥のホアン(サヴィオ)を伴い、ここに逃れたよう。
- 1500年、チェーザレの捕囚となったカテリーナ・スフォルツァは、約1年半の間ここに幽閉される。
- 1502年、ボルジアとナポリとの同盟が崩壊したことにより、サンチャ・ダラゴーナは不要で危険な人物となり、ここに軟禁される。
- 1503年、アレクサンデル6世の崩御にともないオルシーニが兵を挙げた時、チェーザレはここに逃げこむ。
- 同年、フィレンツェ軍の捕虜となったミゲル・ダ・コレッラは、ユリウス2世の要請によってローマに送られ、ここに監禁される。
日曜と祝日のみ、地下牢のガイドツアーが行われている。伊語と英語のみ。
ブックショップで申し込む。有料。
サンタンジェロからサン・ピエトロに続くパセット(Il Passetto)

(↑左)コッリドーリ通りの紋 (↑右)聖堂横の紋。
ボルゴ・サンタンジェロからコッリドーリ通りにあるパセット。サンタンジェロからサン・ピエトロ大聖堂へ続く。
このパセットには、2箇所にアレクサンデル6世の紋が見られる。
- 1つはコッリドーリ通りとプラウト通りの交差するところ。
- 2つめはサン・ピエトロ広場に入った、パセットとヴァティカンの建物がぶつかるところ。
ジロード・トルローニア宮(Palazzo Giraud Torlonia)

コンチリアツィオーネ通り、ホテル・コロンブスの前にある建物。
1496年、アンドレア・ブレーニョによって建てられた、枢機卿アドリアーノ・カステレッジ・ダ・コルネートの宮殿。
ゆえに当時はコルネート宮(Palazzo del Cardinale Adoriano da Corneto)。
1489年頃に建てられたカンチェッレリア宮(Palazzo della Cancelleria)を模倣している。(実際そっくり。こちらがだいぶ小さいけれど。)
1503年8月、チェーザレとアレクサンデル6世は、この枢機卿コルネートの別荘で催された食事会に出席。
数日後、2人はマラリアの症状を呈して倒れる。
ここからボルジアの没落が始まってしまう。
コルネートめ~~~!!
コルネート自身も真っ先に発病するが、回復している。
ちなみに彼はこの食事会の数ヶ月前に、アレクサンデルによって枢機卿に叙任されたばかりであった。
(同時に叙任された枢機卿にフランチェスコ・レモリーネスがいる。)
17世紀初頭にボルゲーゼ家の所有となり、その後フランスの銀行家ジロード家の所有、18世紀にトルローニア家の所有となった。
正面のファサードは典型的なルネッサンス様式。
※ 内部の見学は不可。
スフォルツァ・チェザリーニ宮(palazzo Sforza Cesarini)
教皇庁造幣局があったと思われる場所に、1458年頃枢機卿ロドリーゴ・ボルジアが建てた宮殿。
ロドリーゴは教皇庁副尚書であったため、当時は副尚書館(カンチェレッリア Cancelleria)と呼ばれていた。
1465年頃にほぼ完成し、イタリアでも最も有名で美しい宮殿のひとつだと称えられた。
1484年、枢機卿アスカーニオ・スフォルツァが兄のミラノ公イル・モーロへ送った手紙には、宮殿の内装の美しさに驚かされたと言うことが書かれている。
実際、部屋ごとに華麗に装飾され、見事なタペストリーやさまざまな芸術品で飾られていたらしい。
幼少期(7歳頃~14歳)のチェーザレは、母や弟妹と離されここで教育を受けた。
惣領冬実「チェーザレ」2巻Virtu 9、4巻Virtu 25、26、27、6巻Virtu 50、などに登場するボルジア邸である。
子どもミゲルは「塀の側ばかり走っていてお屋敷なんて全然見えてこない」「その塀の中がボルジアのお屋敷だよ」なんて会話をしているが、それほど大きな館ではない。
それは、目の前の大通りであるヴィットリオ・エマヌエーレ2世通りが通された時に半分以上が潰されてしまったからである。
当時は現在見られる建物の数倍はある巨大な宮殿であった。正面玄関は真裏のバンキ・ヴェッキ通りの方にあった。
1489年5月20日、宮殿の「星の間」(La sala stellata )において、ジュリア・ファルネーゼとオルシーノ・オルシーニの結婚式が挙げられる。
「星の間」は巨大な広間で、それまでも多くの重要な式典の行われてきた部屋であった。
名前の由来は、天井に描かれた青空のフレスコ画と、そこに散りばめられた金の星々による。
(惣領冬実「チェーザレ」4巻に登場。)
1492年、ロドリーゴはアレクサンデル6世として教皇位に登り、アスカーニオを副尚書に任命する。
副尚書となったアスカーニオは「副尚書館」に住む権利を得、ここに移り住んだ。

1505年、アスカーニオ・スフォルツァは死去。教皇ユリウス2世は宮殿を甥の枢機卿ガレオット・デッラ・ローヴェレに与えた。
ガレオットは1508年に死去。宮殿はユリウス2世の別の甥、枢機卿シスト・ガラ・デッラ・ローヴェレに渡った。
1517年3月8日、ガラ・デッラ・ローヴェレが死去。宮殿は教皇庁のものではなくなり、デッラ・ローヴェレ家の傍系であるリアーリオ・デッラ・ローヴェレ家(ラファエーレ・リアーリオの家系)の所有となった。
この年、教皇レオ10世はラファエーレ・リアーリオの宮殿(ここから南に徒歩で7分ほどにあった)を没収し、従弟のジュリオ・デ・メディチに与える。
(ラファエーレはレオ10世暗殺計画に加担したという疑惑をかけられ宮殿を奪われた。)
ジュリオ・デ・メディチは時の副尚書であったため、ジュリオの屋敷となった元ラファエーレ宮殿が新たに副尚書館となり、ロドリーゴの建てた宮殿は旧副尚書館(カンチェレッリア ヴェッキオ Cancelleria vecchio)と呼ばれるようになった。
1535年、教皇パウルス3世は、宮殿を枢機卿グイド・アスカーニオ・スフォルツァに与える。
その後スフォルツァ家出身の枢機卿たちの居住場所として長く使われ、17世紀初頭、スフォルツァ・チェザリーニ家の所有するところのものとなった。
(スフォルツァ・チェザリーニ家とはローマの貴族チェザリーニ家とミラノのスフォルツァの傍系であるスフォルツァ家の婚姻によって生まれた家系。
傍系スフォルツァの本拠地はサンタ・フィオーラであったので、この地にも同名の宮殿がある。)
1886年、道路の整備とともに縮小される。
小さくなってしまったことや、ボルジア宮でなくスフォルツァ・チェザリーニ宮と名称が変わってしまったことは残念だけど、残してくれてよかったなあ。
※ 内部の見学は不可。
トッレ・ディ・ノーナ(Tor di Nona、Torre dell'Annona)

トル・ディ・ノーナ、トッレ・デッランノーナとも。
1503年、フィレンツェ軍の捕虜となったミゲル・ダ・コレッラはローマに引き渡され、サンタンジェロに投獄された後ソリアーノに移され、1504年、最終的にここに入れられた。
(1504年5月22日から釈放される1506年4月まで)
もともとは川沿いの水揚げ場に建つ、食料を保管するための建物だった。torreは塔、annonaは食品管理、食糧保存庫という意味。
オルシーニ所有の建物だったが、15世紀初頭からは教皇庁の刑務所として使用されていた。
ミゲルより少し後にここに収監されたことのあるベンヴェヌート・チェリーニ(イタリアの彫刻家、作家 1500 - 1571)は「穴と呼ばれる光のない地下牢」と表現している。
トッレ・ディ・ノーナから800メートルほど南のジュリア通りに新監獄が作られると、1667年からは劇場として再建される。18世紀後半に名前もトッレ・ディ・ノーナ劇場からアポロ劇場に変えられた。
1888年、テヴェレ河の堤防が建設された際に、建物は取り壊された。
現在はLungotevere Tor di Nona(テヴェレ河の水辺という意味)という名前の通りが残っている。
(サンタンジェロ広場(Piazza di Sant'Angelo)からウンベルトⅠ世橋(Piazza di Ponte Umbert Ⅰ)までの間。
そして、建物のあった場所にアポロ劇場の記念碑(噴水。でも水が溜まってるだけ。)が作られている。(上の写真。)
ちなみにここから上流に10分ほど歩くと、ホアンの遺体が投げ込まれたところに出る。
下の画像は1682年頃、ガスパール・ファン・ウィッテルによってに描かれたトッレ・ディ・ノーナ周辺の景色。黒い建物が劇場になったばかりのトッレ・ディ・ノーナかと思われるが、構図のバランスのために加えられた架空の建築物であるとも言われる。
ローマ、カピトリーノ美術館所蔵。
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