ローマRoma-ナヴォーナ広場周辺
ローマ Roma ナヴォーナ広場周辺
ナヴォーナ広場を中心にした、その周りにある見どころです。
ごちゃごちゃした道を、行きつ戻りつ、かなり歩くと思います。
- ローマ Roma ナヴォーナ広場周辺
- フィアンメッタの家・1(Casa di Fiammetta in via Acquasparta 16)
- フィアンメッタの家・2(Casa di Fiammetta in Via dei coronari 156,157)
- サン・タゴスティーノ教会(Basilica di Sant'Agostino in Campo Marzio)
- タヴェルナ宮(Palazzo Taverna)
- ローマ国立博物館 アルテンプス宮(Museo Nazionale Romano - Palazzo Altemps)
- リストランテ 四大河(Ristorante 4 Fiumi)
- ブラスキ宮(Palazzo Braschi)
- カンチェレッリア宮(Palazzo della Cancelleria)
- カンポ・デ・フィオーリ広場(Piazza Campo de' Fiori)
- ペッレグリーノ通り(Via del Pellegrino)
- フォルノ(Forno Campo de' Fiori)
- カーサ・デ・フィオーリ(Casa de' Fiori) リストランテ・ダ・パンチェラツィオ(Ristorante Pancrazio dal 1922)
- サンタ・マリア・ディ・モンセラート教会(Chiesa di Santa Maria in Monserrato degli Spagnoli)
- ファルネーゼ宮(Palazzo Farnese)
- ブルカルド邸(Palazzetto del Burcardo)
- 黄色のマークがこのページにある見どころです。他は別ページにあります。
- フィアンメッタの家・1 -
- フィアンメッタの家・2 -
- サン・タゴスティーノ教会 -
- タヴェルナ宮 - オルシーニ邸
- 国立ローマ博物館(アルテンプス宮) - リアーリオ邸
- リストランテ四大河 - スフォルツァ邸
- ブラスキ宮 - カラーファ邸
- カンチェレッリア宮 - リアーリオ邸
- ペッレグリーノ通りと紋 -
- フォルノ - ヴァノッツァの家(ヴァッカ)
- カーサ・デ・フィオーリ - オルシーニ邸(メディチ邸)
- サンタ・マリア・ディ・モンセラート教会 -
- ファルネーゼ宮 -
- ブルカルド邸 - ヨハネス・ブルカルドの家
ヴァティカン美術館 - → ヴァティカン周辺
サン・ピトロ大聖堂 - → ヴァティカン周辺
ホテル・コロンブス - 旧ペニテンツィエリ宮。 → ヴァティカン周辺
サンタンジェロ城 - → ヴァティカン周辺
ジロード・トルローニア宮 - 旧コルネート邸。 → ヴァティカン周辺
スフォルツァ・チェザリーニ宮 - 旧ボルジア邸。 → ヴァティカン周辺
アレクサンデル6世の紋章 - パセットに見られる紋、その1。 → ヴァティカン周辺
アレクサンデル6世の紋章 - パセットに見られる紋、その2。 → ヴァティカン周辺
ポポロ広場 - → ポポロ広場を拠点に
ポポロ門 - → ポポロ広場を拠点に
サンタ・マリア・デル・ポポロ教会 - → ポポロ広場を拠点に
コルソ通り - → ポポロ広場を拠点に
サン・ジャコモ病院 - → ポポロ広場を拠点に
コロンナ宮 - → ポポロ広場を拠点に
ヴェネツィア宮 - → ポポロ広場を拠点に
サン・マルコ教会 - → ポポロ広場を拠点に
ジェズ教会 - → ポポロ広場を拠点に
サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会 - → ポポロ広場を拠点に
ボルゲーゼ美術館 - → ポポロ広場を拠点に
サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂 - → コロッセオ周辺
サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ教会 - → コロッセオ周辺
ボルジア邸とボルジア階段 - → コロッセオ周辺
カフェ・ボルジア - ボルジアの名のつくカフェ → コロッセオ周辺
クァットロ・コロナーティ教会 - → コロッセオ周辺
サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラーノ大聖堂 - → コロッセオ周辺
サン・シスト教会 - → コロッセオ周辺
※写真にマウスを置くと、多少の説明が出ます。
フィアンメッタの家・1(Casa di Fiammetta in via Acquasparta 16)
チェーザレの愛人であった赤毛の高級娼婦、フィアンメッタ・ミケーリの家。現存する2軒のうちのひとつ。
住所はvia Acquasparta 16。
ナヴォーナ広場を、北端の小路から出て最初の角を左折、
次の角を右折しザナルデッリ通り(Via Zanardelli)に入ると、
最初の左手の角がフィアンメッタ広場(Piazza Fiammetta)(左上の写真)。
広場に入って、左に「Pizzeria Fiammetta」(左下の写真)を見ながらまっすぐ進むと、正面にある(右上の写真)。
15世紀に建てられた、開廊つきの家。ルネッサンス様式。
1479年、枢機卿アンマンナーティが、愛人であった娼婦、フィアンメッタに、遺産として残した不動産のひとつ。
フィアンメッタの死後、息子(書類上では「弟」とされている。)アンドレアが受け継いだ。
フィアンメッタという広場の名前は、17世紀になってつけられている。娼婦の名前の冠された、世界でも稀有な広場名となっている。
19世紀末にベンニチェッリ家の所有となり、20世紀初頭に改築された。
現在は企業の事務所として利用されている。
※ 内部の見学は不可。
フィアンメッタの家・2(Casa di Fiammetta in Via dei coronari 156,157)
チェーザレの愛人であった赤毛の高級娼婦、フィアンメッタ・ミケーリの家。現存する2軒のうちのひとつ。
住所はVia dei coronari 156,157。
ナヴォーナ広場を、北端の小路から出て最初の角を左折、そのまままっすぐにコロナリ通り(Via dei Coronari)を進むと、左手にある。
1479年、枢機卿アンマンナーティが、愛人であった娼婦、フィアンメッタに、遺産として残した不動産のひとつ。
フィアンメッタの死後、息子(書類上では「弟」とされている。)アンドレアが受け継いだ。
コロナリ通りは、1475年、巡礼者たちが路地に迷うことなくまっすぐサン・ピエトロ大聖堂にたどり着けるように、と教皇シクストゥス4世によって作られた通り。当時は 「straight」の意味を持つ「via Recta」という名前だった。
現在も15~16世紀の建物が多く残っている。アンティークショップの多い通り。
※ 内部の見学は不可。
サン・タゴスティーノ教会(Basilica di Sant'Agostino in Campo Marzio)
14世紀、聖アゴスティーノに捧げるために創建された教会。
1479年~1483年にかけて、枢機卿ジローム・デストゥトヴィル(Guillaume d'Estouteville)の資金提供によって、改増築された。初期ルネッサンス様式。
エストゥトヴィルは、1458年、カリストゥス3世死後のコンクラーヴェでロドリーゴを取り込もうとして失敗しピッコローミニに敗北した、ルーアンの大司教。
(ロドリーゴの英断によって、ピッコローミニがピウス2世として教皇に選出された。)
カラヴァッジョ「巡礼のマリア(ロレートの聖母)」、
ラファエロ「預言者イザヤ」、
ベルニーニ「天使像」などの作品で有名。
チェーザレの愛人であったフィアンメッタ・ミケーリはこの教会の賛助員の1人で、多くの寄進を行い、1506年には自身の礼拝堂も所持していた。
(入り口を背にして1番手前左手の礼拝堂。現在カラヴァッジョ「ロレートの聖母」のあるところ。)
死後もここに埋葬されている。
この教会は、フィアンメッタだけでなく、ローマの多くの娼婦の礼拝や寄進、埋葬を受け入れていた。これは教会としてはとても珍しいユニークな特徴、だそう。
トゥーリア・ダラゴーナ(1508年-1556年、ローマの高級娼婦。詩人としても著名。)もここに埋葬されている。
が、反宗教改革時、世俗化しすぎた教会を否定する動きの中で、その存在を否定され、全てが破壊されてしまった。
併設の修道院にも、チェーザレのつくらせた礼拝堂があったというが、これも現在は残っていない。
フィアンメッタの最初のパトロンであった、枢機卿ジャコモ・アンマンナーティもここに埋葬され、彼の墓は現存する。
また、レオ10世(ジョヴァンニ・デ・メディチ)の妹コンテッシーナ・デ・メディチもここに埋葬されている。
タヴェルナ宮(Palazzo Taverna)
モンテ・ジョルダーノと呼ばれたオルシーニ家の宮殿であった建物。
チェーザレの弟ホアン、妹ルクレツィアは、オルシーニ家に嫁いだロドリーゴの従妹アドリアーナに預けられ、幼少期をここで過ごした。
また、1503年8月、アレクサンデル6世の死に乗じて暴動を起こしたオルシーニ家を鎮圧するため、ミゲル・ダ・コレッラは、ここを砲撃している。
住所はVia Monte Giordano 36。
ナヴォーナ広場の南端の小路を、広場を背にして右に折れる。(サンタンジェロ城方向に行く。)
ゴヴェルノ・ヴェッキオ通り(Via del Governo Vecchio)をまっすぐ行き、左手のヌォーヴァ教会を過ぎると、オロロージョ広場(Piazza dei Orologio)に出る。
右に折れるとオルシーニ通り(Via degli Orsini)(下の写真)。
つきあたりのモンテ・ジョルダーノ通り(Via di Monte Giordano)にある建物がタヴェルナ宮。
中庭に見える噴水(右の写真)は、「チェーザレ」4巻冒頭に登場したもの!?ではなく、17世紀に作られたもの、だって。残念。
もともとは13世紀に建てられたオルシーニの城塞のあったところ。15世紀、廃墟となっていたその跡地に建てられた。
宮殿は各国の大使や枢機卿たちの住居としても使われた。
イッポーリト・デステ(ルクレツィアの3度目の夫アルフォンソ・デステの弟。)が一時ここを住まいとしていたよう。
17世紀、サヴォイア家に買い取られ、現在見られるような姿に改築された。
5つの建物の複合体になっており、2翼に分けられる。
一方はバロック様式で、絵画やアンティーク家具の置かれたギャラリーとなっている。
もう一方は帝政様式で、17世紀末の壁画に彩られている。
最終的な所有者がミラノの貴族タヴェルナ家で、この名が冠された。
内部の見学は不可だが、事前に予約すれば、結婚式やパーティ、会議などで利用することができる。有料。
→ 申し込みのできるサイト Stefania Aldobrandini
部屋の写真なども見ることができます。
豪華で驚く!
ジェーン・カンピオン監督の映画「ある貴婦人の肖像」(1996年に撮影された19世紀の物語。ヘンリー・ジェームス原作。ニコール・キッドマン主演。) で、ロケ地として使われた。
この周辺
(テヴェレ河に隣接する小丘、モンテ・ジョルダーノ。1341年にローマの司法長官であった、ジョルダーノ・オルシーニ(Giordano Orsini)の名にちなんで、この名で呼ばれるようになった。)
は、オルシーニ家の勢力下にあった地域であった。
タヴェルナ宮だけでなく、オルシーニ所縁の建物が他にも点在している。
ローマ国立博物館 アルテンプス宮(Museo Nazionale Romano - Palazzo Altemps)
15世紀、シクストゥス4世の甥でありラファエーレ・リアーリオの叔父であるジローラモ・リアーリオのために建てられた館。メロッツォ・ダ・フォルリ(「シクストゥス4世と甥たち」の画家)の手による。
リアーリオ家の権勢が衰退した16世紀初頭に、枢機卿フランチェスコ・ソデリーニ(フィレンツェ共和国の指導者ピエロ・ソデリーニの弟)に売却され、1568年に教皇ピウス4世の義理の弟である枢機卿マーク・フォン・ホーエネムス・アルテンプス(Mark Sittich von Hohenems Altemps)に売却された。
リアーリオ邸よりもこちらのアルテンプス宮という名の方が通っている。
その後、ヴァティカンからイタリアへ所有者は変遷し、現在はローマ国立博物館(Museo Nazionale Romano)として利用されている。
古代ギリシアやローマの彫刻、壁画、考古遺物などが展示される。
(もともとローマ国立博物館は、テルミニ駅近くのディオクレティアヌス帝浴場跡を利用した博物館であったが、20世紀末、老朽化のため近接するマッシモ宮(Palazzo Massimo)とこのアルテンプス宮に移された。)
カンチェレッリア宮が完成するのは1513年頃であるので、チェーザレの時代のラファエーレ・リアーリオはローまでの居をこの館に構えていたはず。
現在は博物館として利用されていると言うのが、なんともラファーレっぽくて笑える。
リストランテ 四大河(Ristorante 4 Fiumi)
ナヴォーナ広場にあるピッツァリア・レストラン。サンタンネェーゼ・イン・アゴーネ教会(chiesa di Sant'Agnese in Agone )の隣にある。
1492年のコンクラーヴェの時、アスカーニオ・スフォルツァはここに居を構えていた。
改修はされているようだが、ルネサンス様式のまま残っている。
アレクサンデル6世の教皇選出に一役買ったアスカーニオは副尚書に任命され、彼の住まいはスフォルツァ・チェザリーニ宮(palazzo Sforza Cesarini)に移る。
写真は閉店時だがテラス席100席、店内に150席。けっこう広い。
建物の細かい由来は不明。
わかるまで待ってて。
ブラスキ宮(Palazzo Braschi)
もともとは1435年、ローマ知事であったフランチェスコ・オルシーニのために建てられた宮殿。
(写真中央の建物。右はブラジル領事館として使われているPalazzo Pamphilj。)
現在のメインエントランスは写真の真裏にあたるサン・パンタレオ広場(Piazza di San Pantaleo)側にあるが、当時はこちら側が正面であった。
1492年のコンクラーヴェの頃は、枢機卿オリヴィエロ・カラーファの住まいであった。
1501年、枢機卿カラーファは宮殿の増築に着手、1516年にはアントニオ・ダ・サンガッロが塔を建築した。
1791年、教皇ピウス6世が宮殿の解体と再建築を決定、新宮殿はルイジ・ブラスキ(Luigi Braschi)に与えられた。ゆえにこの名が残っている。
1871年、宮殿は国に売却され一時は内務省が置かれていた。
第二次世界大戦後、ローマ市の所有となり現在は博物館として利用され、18世紀から19世紀の絵画や彫刻、タペストリーなどが展示されている。
カンチェレッリア宮(Palazzo della Cancelleria)
1485年頃から1513年頃にかけて、枢機卿ラファエーレ・リアーリオのために建てられた宮殿。ゆえに当時はリアーリオ邸(Palazzo Riario)であった。
(この宮殿ができる前、ラファエーレはナヴォーナ広場の北にある、現在はローマ国立博物館アルテンプス宮になっている建物に住んでいた。)
ラファエーレはたった一晩のゲームの賭け金で、この宮殿の建設資金を得た、という話がある。(相手は教皇インノケンティウス8世の甥だったらしい。)
長方形の中庭はブラマンテのデザインによる初期ルネッサンス様式の開廊が連なり、内部にはヴァザーリが100日間で完成させたという「100日の間」と呼ばれる部屋がある。アンドレア・ブレーニョも設計に携わっている。
リアーリオ家やローヴェレ家、シクストゥス4世の紋がいたる所に見られる。
1517年、ラファエーレはレオ10世暗殺未遂容疑をかけられ、30万ドゥカーティの罰金とともにこの宮殿を差し押さえられる。
レオ10世はこれを従弟のジュリオ・デ・メディチ(後のクレメンス7世)に与えた。ジュリオは当時の副尚書(cancelliere)であったので、宮殿は副尚書(副尚書館の意味をもつカンチェッレリア宮(Palazzo della Cancelleria)と呼ばれるようになった。
(それまで副尚書館であったスフォルツァ・チェザリーニ宮は、カンチェレッリア・ヴェッキオ(Cancelleria Vecchio 旧副尚書館という意味)と呼ばれるようになる。)
1809年から1814年の間にはナポレオンの宮廷が置かれ、1848年にはローマ市議会が置かれていた。
現在はヴァティカンの所有となっている。展示会や音楽会などにも使われているので、それに乗ずれば入場することができる。
2012年から、レオナルド・ダ・ヴィンチの博物館、「博物館/展示会 レオナルド・ダ・ヴィンチ - 天才と発明」(Museo/Mostra Leonardo da Vinci - Il Genio le Invenzioni)として利用されている。
カンポ・デ・フィオーリ広場(Piazza Campo de' Fiori)
カンポ・デ・フィオーリとは「field of flowers」、「お花畑」の意味。実際この場所は牧草地で、中世にこの名がつけられた。
15世紀初頭まで荒地のまま放置されていたが、1456年、教皇カリストゥス3世の下で開発され、広場として整備された。
その後周辺にオルシーニ家の宮殿が建て直され、カンチェレッリア宮が建てられた。
アレクサンデル6世の開いた通りペッレグリーノ通り(Via del Pellegrino)は、ここから北西方向(ヴァティカンの方)へ伸びている。
また、チェーザレの母ヴァノッツァ・カッタネイは、この周辺に数件の宿屋を経営していた。
現在は生花や野菜、果物などの市が開かれる賑やかな場として有名だが、反宗教改革時には処刑場として使われていたという過去を持つ。(広場中央には、1600年に火刑されたジョルダーノ・ブルーノの像が立つ。)
ペッレグリーノ通り(Via del Pellegrino)
アレクサンデル6世が拡大し整備した通り。ごつごつした石畳が歩きづらく地味な路地だが、当時はこれが目抜き通りだった。
通りの東端、カンポ・デ・フィオーリ広場とカンチェレッリア宮の間の建物外壁の角には教皇アレクサンデル6世の紋章が見られる。(上の写真。クリックすると拡大します。)
住所はPiazza Campo Dè Fiori 29。1階にはNumbsというレストランが入っている。
紋章の斜め右下には、そのことを記念する碑文が置かれている。(右の写真)
「アレクサンデル6世、偉大なる教皇が1497年に開いた通り」と書かれている。
ペッレグリーノ(pellegrino)とは「巡礼者」という意味。サン・ピエトロ大聖堂への巡礼者のために開かれたので、この名がつけられた。
が、アレクサンデルはこの近くで宿を経営していた愛人ヴァノッツァのために、通りを整備したという話もある。
ちなみにモンセラート教会裏手のジュリア通り(Via Giulia)は、ユリウス2世の作った通り。
フォルノ(Forno Campo de' Fiori)
カンポ・デ・フィオーリ広場の西端にあるパン屋。フォルノとはかまどという意味。
住所はvicolo del Gallo 14。
(広場に面したところにも同じ名のパン屋があるので注意。)
チェーザレの母ヴァノッツァの経営していた宿屋の中でも最も有名な、「la Locanda della Vacca」(牝牛亭)のあったところ。
上流階級の人々が、ヴァノッツァの行き届いたサーヴィスを受けながら、ここで娼婦たちと過ごした、と言う。
その入り口だった部分跡に、ヴァノッツァと彼女の3番目(4番目という説も)の夫カルロ・カナーレと、アレクサンデル6世のものが組み合わされた紋が残っている。
右上4分の1部分が、ヴァノッツァの紋、
左下4分の1部分が、カルロ・カナーレの紋、
それ以外がアレクサンデル6世の紋。
(左上の写真をクリックすると拡大します。)
チェーザレが出産されたのは、ここであるとする説もある。が、ここを購入したのは1500年という説もある。
カーサ・デ・フィオーリ(Casa de' Fiori)
リストランテ・ダ・パンチェラツィオ(Ristorante Pancrazio dal 1922)
カンポ・デ・フィオーリの東側にあるビスィオーネ広場(Piazza del Biscione)にあるホテルと、
向かいにあるリストランテ・ダ・パンチェラツィオ(Ristorante DA PANCRAZIO)。
合わせてオルシーニ家の宮殿であった。
(写真の左手と中央の古い建物ががホテル(中央は別のお店が入ってる?かも)、右手の小ぎれいな建物がレストラン。)
ホテルの一部分(写真の中央部分)は当時の姿のままで残っている。
隣接していたと言う時計塔はもうない。
1492年のコンクラーヴェの頃、ジョヴァンニ・デ・メディチはローマでの居をここに構えていた。
(ジョヴァンニの母はオルシーニ家出身のクラリーチェ・オルシーニであり、同家とは姻戚関係にある。)
広場の名であるビスィオーネ(Biscione)とは「蛇」の意味。オルシーニの紋章である「鰻」=「蛇」からこの名が残っている。
古代ローマ時代のポンペイウス劇場跡地に建てられており、レストランの内装はその名残りを利用したつくりになっている。
サンタ・マリア・ディ・モンセラート教会
(Chiesa di Santa Maria in Monserrato degli Spagnoli)
住所はVia Giulia 151。
が、入り口はモンセラート通り(Via Monserrato)側にある。(Via Monserrato 117)。
聖モンセラートに捧げられた、スペインの国立カトリック教会。
1598年に完成。バロック様式。
ファルネーゼ宮を左手に見て、ファルネーゼ広場からモンセラート通り(Via Monserrato)に入っていく。まっすぐに少し進むと左手にある。
入って右手、最初の礼拝堂は、聖フィリポと聖ニコラに捧げられたもの。1590年、ベルナルディーノ・ロッシによって作られた。
右側の壁には、ボルジア家の教皇、カリストゥス3世とアレクサンデル6世の霊廟が置かれている。
彫刻はフェリペ・モラティッラの手によるもので、1889年に完成した。
肖像は左側がカリストゥス3世で右側がアレクサンデル6世。
2人の遺骨はここに眠っているが、同じ石棺に一緒くたに入れられている。
カリストゥス3世もアレクサンデル6世も、最初はサン・ピエトロ大聖堂側にあったサンタ・マリア・フェッブリ教会(Santa Maria della Febbre)に埋葬されたが、16世紀のサン・ピエトロ大聖堂の大改修時に、フェッブリ教会は壊されてしまう。
彼らの遺骨はこの時にモンセラート教会へと移されることになった。
- 開館時間
日曜日のみ!!
9:30 - 13:30 / 18:30 - 19:30
ファルネーゼ宮(Palazzo Farnese)
ジュリア・ファルネーゼの兄であるアレッサンドロ・ファルネーゼ枢機卿によって、1515年に建築が開始された宮殿。
アントニオ・ダ・サンガッロの設計。ルネッサンス様式。
1534年、アレッサンドロはパウルス3世として教皇に選出される。彼はミケランジェロを雇い、ファサードと中庭を再設計させた。3階部分に見られるコーニス(壁面と天井の境目の装飾)は注目すべき美しさをもつ、そう。
2つの噴水で美しく飾られている同名の広場に面したファサードの中心には、ファルネーゼ家の紋章が大きく飾られている。上部に置かれている三重冠と交差する2つの鍵で、パウルス3世の紋であることがわかる。(右上の写真)
内部の主要な部屋はフレスコ画で飾られている。アンニーバレ・カラッチの作品が有名。
ドメニコ・ザンピエーリ「Fanciulla e l'unicorno 処女と一角獣」は、ジュリア・ファルネーゼがモデルと言われている。
現在はフランス大使館として使われている。ゆえに内部の見学はできない。
ブルカルド邸(Palazzetto del Burcardo)
教皇庁の式部官(儀典長)であったヨハネス・ブルカルドの家。
この辺りは教皇庁の有力者が集まっていた区域で、ブルカルドはここに塔のある邸宅を建てた。塔は彼の出身地ストラスブールのラテン名アルゼンティーナにちなみ、トッレ・アルゼンティーナ(Torre Argentina)と呼ばれた。この名前は、今でも通りの名前と、そこにある劇場の名前に残っている。
邸宅は、その通りから入ったスダリオ通り(Via del Sudario)に現存している。
広々とした部屋は、フレスコ画やスタッコで美しく飾られており、当時のローマ在住のドイツ人たちが集う場所だった。
ブルカルドは彼らと酒を酌み交わしながら、そこで語られた多くの出来事を日記に記した。
彼の後任者である式部官は「彼は常に料理と宴会に心を奪われているようだ」と評している。
現在はブルカルド劇場図書館・博物館(Biblioteca e Museo teatrale del Burcardo)として利用されている。
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