人物紹介
ボルジア家の人々(Borgia)
- ボルジア家の人々(Borgia)
- チェーザレと同時代のボルジア(枢機卿)
- ホアン・ボルジア・ランソル・デ・ロマーニ(Juan de Borja Lanzol de Romaní, el mayor)(サヴィオ)
- ホアン・ボルジア・ランソル・デ・ロマーニ(Juan de Borja Lanzol de Romaní, el menor)(シレンツィオ)
- フランシスコ・ガルセラン・デ・ロリス・ボルジア(Francisco Galcerán de Lloris y de Borja)
- ジェローニモ・デ・ロリス・ボルジア(Jerónimo de Lloris y de Borja)
- ペドロ・ルイス・デ・ボルジア・ランソル・デ・ロマーニ(Pedro Luis Borgia Lanzol de Romni)
- ホアン(ジョヴァンニ)・デ・ヴェラ(Juan de Vera)
- ハイメ・セラ・イ・カウ(Jaime Serra i Cau)
- チェーザレと同時代のボルジア(女性)
- チェーザレの子孫
- チェーザレ以前の人々
- チェーザレ以降の人々
- チェーザレの忠臣
- その他の人々
チェーザレ・ボルジア(Cesare Borgia)
(1475年9月13日(14日の説も)~1507年3月12日)
(死亡時間が明け方だからか前日の11日が死亡日とされがちだけど、正確には日づけが変わった後12日に死亡、と言いたい)
イタリアではヴァレンティーノ公(duca di Valentino ヴァランスの公爵)の名で通っている。
教皇に次ぐ権力をもつ副尚書ロドリーゴ・ボルジアの次男。(ヴァノッツァ・カッタネイとの子としては長男。とされる説が有力。)(しかしロドリーゴの実子ではなく本当に甥であった説などもある。)
幼い頃から聖職者となるべくして教育を受ける。15歳で司教、16歳で大司教、18歳で枢機卿に。教皇となった父の下、順調な出世街道を歩む。
弟ホアンの死後、1498年23歳の目前に還俗(聖職者の地位を返上し俗人に戻る)。フランス王ルイ12世と同盟し、ナヴァーラ王の妹と結婚し、ヴァランスの公爵となる。
1499年末から、ロマーニャ地方統一に向けて怒涛の進撃を開始。
イモラ、フォルリ、チェゼーナ、ペーザロ、リミニ、ファノ、ファエンツァ、ボローニャ、ウルビーノ、カメリーノと、3年たらずの間にほとんど全てを支配下におき、ロマーニャ公爵となる。ロマーニャ地方を領域的に支配したのはチェーザレが最初!すごい。
チェーザレの攻め方の特徴は、物理的攻撃をむやみに行わず、策を弄するところにある。父の威光と財力を活用し、舌先三寸で人心をつかみ、流言までをも計算して、敵を追いつめるための根回しを徹底的に行う。
チェゼーナやペーザロ、リミニなどはこの戦法で無血開城した。行き当たりばったりの戦闘を繰り返していたイタリアにおいて、非常に革新的である。
ルイ12世やフィレンツェとの駆け引きにおいても、長期的視野と柔軟な思考力でもって、相手の数歩先を読み、意に沿う方向へ誘導した。
そして、目的のための手段を選ばない。アルフォンソ・ダラゴーナの暗殺やレミーロ・デ・ロルカの処遇にその一端が見られる。
彼のこのような行為は、怜悧さを超えて残酷だが、常に最善で効果的であることは確か。
その策謀家ぶりと残虐性は、配下の傭兵隊長たちの反乱において、最も顕著に発揮されている。
彼に対する同時代人の評価は、この型破りで非情なやり方に対する恐怖と、彼が教皇の息子であること(本来童貞であらねばならない聖職者の私生児であること)やスペインに出自を持つことから、批判や蔑みが多いが、民衆や配下のスペイン人たちには慕われ崇敬された。中でもミゲル・ダ・コレッラ(ドン・ミケロット)の固い忠誠心は有名。
また、マキァヴェッリは著書「君主論」にて、彼を理想の君主と褒め称えている。
レオナルド・ダ・ヴィンチを土木建築技師として迎え、所領のインフラ整備を進めつつ、イタリア統一を視野に入れる。
騎士や傭兵を中心とした軍制の時代に市民軍を形成したり、彼らに揃いの軍服を着用させたり、まだ武器として一般的でなかった銃を利用したり、柔軟で革新的な進撃を行う。
が、1503年、父アレクサンデル6世と同時に病に倒れる。
父の死後、政敵ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレの教皇選出を許すという最大の過ちを犯したことから、すべてが暗転。捕らえられ、ロマーニャは解体。弟ホアンの暗殺容疑者としてスペインへ送られる。
1506年、幽閉されていたモタ城から脱走し、義弟であるナヴァーラ王ジャンを頼り再起をはかるが、1507年、ヴィアナにて戦死する。
享年31歳。
→ 肖像画を見る
- 嫡出子
ルイーズ・ボルジア・ダルブレ
チェーザレ唯一の嫡出子。
→ ルイーズ・ボルジア・ダルブレ
- 非嫡出子
少なくとも4人の非嫡出子がいたとされる。
(11人いたとする説もある。)
ジローラモ・ボルジア
1501年、もしくは1502年生まれ。
母親はドゥルーシラではないかと言われている。
チェーザレは、幼いジローラモをファエンツァに連れて行き、一緒に遊んだという話がある。微笑ましい。ホントだったらいいな。
1503年10月15日、父チェーザレとともにサンタンジェロ城に避難している。
ボルジアの没落後、チェーザレの妹ルクレツィア(叔母にあたる)に庇護され、フェラーラへ行く。
1505年、カルピ(フェラーラの西、モデナ県の街)領主、アルベルト・ピオ(Alberto Pio)のもとへ。
(ベルナルディーノ・プロスペリ(Bernardino Prosperi)が、イザベッラ・デステに宛てて、6月1日の手紙で、このことを報告している。)
(アルベルト・ピオ(3世)は、彼の祖父アルベルト1世とアンジェラ・ボルジアの夫となるアレッサンドロ・ピオの曽祖父ジベルトが兄弟みたい。遠縁。)
1537年、イザベッラ・ピッツァベルナーニ(ピッツァベッカリ)(Isabella Pizzabernani(Pizzabeccari)と結婚。ピッツァベルナーニはフェラーラの名門だったようなので、その家の娘をもらえたってことは、それなりに大事に育てられたと思われる。
1545年、カルピ伯の娘イザベッラ(Isabella di Carpi)と結婚。
どちらとの子なのかは不明だが、2人の娘イッポーリタとルクレツィアを残す。
子ども達の名前もフェラーラ宮廷にあやかっているようなので、良好な関係にあったのかな。
ほとんど記録のないジローラモだが、1度殺人事件の容疑者になっている。
チェーザレの孫にあたるイッポーリタ(Ippolita Borgia)、またはその子孫は、その後スルピツィ家と婚姻し、ボルジア・スルピツィ家(Borgia Sulpizi)となる。
彼らはペルージャのトラジメーノ湖(Lago Trasimeno)の畔に城を建築した。(マジョーネの会合の行われたマジョーネ城の5キロほど北の場所。)
1925年のボルジア城。
城は、ボルジア・スルピツィ城(castello Borgia Sulpizi)、ベルヴェデーレ城(castello Belvedere)、ヴィラ・ミララーゴ(villa Miralago)とも呼ばれたが、地元ではボルジア城(castello Borgia)の名でずっと通っている。
ボルジア・スルピツィ家(Borgia Sulpizi)は、17世紀にメニコーニ家と婚姻しボルジア・スルピツィ・メニコーニ家(Borgia Sulpizi Meniconi)となる。
18世紀、カミッロ・ボルジア・スルピツィ・メニコーニが、妻コロンバ・マンドリーニから遺産と姓を受け継ぎ、今度はボルジア・スルピツィ・マンドリーニ家(Borgia Sulpizi Mandolini)となる。
このボルジア分家は裕福だったようで、ペルージャのクパ通り(Via Cupa)に邸宅を構え、ボルジア城は夏の別荘として使用していた。
また、モンジョヴィーノ聖母教会(トラジメーノ湖の南)近くに、別の小さな住居も所有していた。
ボルジア・スルピツィ・マンドリーニ家の最後の人物はティベリオ・ボルジア(Tiberio Borgia)(1793年7月3日-1870年5月8日)で、彼を最後にチェーザレの孫イッポーリタから続く血脈は途絶えたよう。
ティベリオはトラジメーノ湖で溺れかけた際、聖母に救われたと信じ、ボルジア城内にある礼拝堂に、感謝を記した石碑を残している。
城は、その後フィレンツェのマッシーニ・ニコライ(Massini Nicolai)に譲渡される。
彼はトスカーナ中世様式に合わせて、城を改築、拡張した。
1933年、フィリッポ・マッシーニ・ニコライ(Filippo Massini Nicolai)は、城と周辺の土地を工業家オッタヴィオ・パロンバーロ(Ottavio Palombaro)に売却する。
後にナチスによって没収され、連合軍に引き渡されたが、戦争終結後パロンバーロ家に返還された。
1995年から一般公開されるようになり、現在は結婚式場として使われている。
広く綺麗で、けっこう豪奢な雰囲気。
ボルジア・スルピツィ家の墓は、別荘のあった近くの、モンジョヴィーノ聖母教会の地下にある。
カミラ・ルクレツィア
1501年、もしくは1502年生まれ。
母親はドゥルーシラもしくはドロテアではないかと言われている。
フェラーラのサン・ベルナルディーノ修道院長となる。1573年に死亡。
フェラーラの修道院長になっているってことは、彼女もジローラモ同様、ルクレツィアに庇護されフェラーラ周辺で暮らしていたのかな。
女子(名前不明)
1503年、チェーザレがカステル・サンタンジェロに逃げこんだ時、ホアン・ボルジア(インファンテ・ロマーノ)、ビシュリエ公ロドリーゴ(ルクレツィアとアルフォンソ・ダラゴーナの息子)、カミラ・ルクレツィアとともに連れていた娘。
男子(名前不明)
1542年、ボローニャで死亡したとされる。
ロドリーゴ・ボルジア(Rodorigo Borgia)
(Rodrigo de Llançol-Borja y Borja)
(Rodrigo de Borja y Doms)
(Rodrigo Gil de Borja i Borja)
(1431年1月1日〜1503年8月18日)
アレクサンデル6世(Alexander VI)(在位 1492年〜1503年)
チェーザレの父。
スペイン、ハティヴァ生まれ。
彼をよく知る人物は「uomo carnalesco」(温厚で愛情深く、自分の肉親に献身的に執着する性格)と彼を評していたらしい。
1493年7月31日、スペインに発つホアンに宛てて書かれた手紙は、ボルジア一族内だけで親しまれたヴァレンシア方言で書かれていて、とても愛情深く息子を激励する手紙だった。(でも反抗期の息子からはうざいと一蹴されそうな細かい注意がいっぱいの手紙)
家族と故郷をとても愛していたようで、1498年にチェーザレがフランス王と同盟するまでは、政策的にもずっとスペインびいきだった。(逆らえなかったと言うのもあると思う)
背が高くて見目が良く、モテてたらしい。やるね。
1449年 頃
母方の伯父アロンソ・ボルジア枢機卿の後ろ盾を得て、兄ペドロ・ルイス、従兄弟ルイス・ホアン・デ・ミラとともにローマに移り住む。
同年ボローニャ大学へ入学。法学を学ぶ。秀才の誉れ高く、容姿凛然とし、快活で、とても魅力ある男性だったよう。
1455年
伯父アロンソがカリストゥス3世として教皇に選出。翌年伯父のネポティズモにより、25歳で枢機卿に叙任される。翌年には教皇庁副尚書に。
伯父の死後ピウス2世、パウルス2世、シクストゥス4世、インノケンティウス8世、と4人の教皇のもとで教皇庁副尚書の地位を維持、権力と富を蓄える。
1492年
ボルジアの莫大な財産をばらまきライヴァルを取り込んで、教皇アレクサンデル6世として選出される。この時61歳。第214代目の教皇。
1493年
新世界の勢力分解線である教皇子午線を設定。スペイン出身の彼はかなりスペインに有利な設定を行うが、翌年のトルデシリャス条約でやや変更を行っている。
1494年
ナポリ王国継承権を主張するフランス王シャルル8世がイタリアへ侵攻。ボルジアの政敵ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ枢機卿に煽られた王は、アレクサンデルの退位を迫ろうとするが、彼は巧みな外交術でシャルルを懐柔、チェーザレを外交使節(実質は人質)として送り込み、早々にローマを退出させている。(チェーザレもすぐにシャルルのもとから脱走している。)
アレクサンデルはすぐにミラノ、ヴェネツィア、スペインと対フランス同盟を結成。シャルル率いるフランス軍はナポリを撤退せざるをえなくなる。
1497年
フィレンツェの修道士サヴォナローラを破門。翌年サヴォナローラはフィレンツェ市民の手によって処刑されることになる。
1498年
新フランス王ルイ12世と同盟。息子チェーザレに王侯としての結婚を実現させ、彼の教皇領進撃を後押しする。
ヴァティカンに寄せられた多額の寄付(特に1500年は聖年であったため、その金額も莫大であった。)、新たに枢機卿を任命することによって収められる支払金は、次々にチェーザレの軍資金として費やされた。また富裕な枢機卿を毒殺しては、その遺産を押収した、と言われる。いわれのない中傷ではあるが、実際アレクサンデルの在位していた11年間に21人もの枢機卿が逝去している。
1500年
6月ヴァティカンに落雷。瓦礫の下敷きとなるが、奇跡的に額に二ヶ所の傷を負うのみにとどまる。(すごい!)
1501年
チェーザレの所領地となったピオンビーノとエルバ島を視察。71歳という高齢にも関わらず、厳しい船旅に悠然と耐える。
1503年
マラリアによって崩御。毒殺説などささやかれるが、症状からマラリアとされている。
ルネッサンス教皇の1人であり、お気に入りの画家であったピントリッキオの描いた肖像画(壁画)が、ヴァティカンのボルジアの間で見られる。
サン・ピエトロ大聖堂側にあったサンタ・マリア・デッラ・フェッブリ教会(Santa Maria della Febbre)に埋葬されるが、16世紀、サン・ピエトロの大改修によってフェッブリ教会は破壊され、遺骨はカリストゥス3世のものとともに、サンタ・マリア・ディ・モンセラート教会(Santa Maria di Monserrato)に移された。
全員がヴァノッツァの子とする説、
ペドロ・ルイスとチェーザレ以下をヴァノッツァの子とする説、
チェーザレ以下をヴァノッツァの子とする説、
全員ロドリーゴの子ではないとする説など諸説ある。
ルクレツィアの子とされるジョヴァンニ(ホアン)(インファンテ・ロマーノ)はロドリーゴの子とする説もある。
ジュリア・ファルネーゼとオルシーノ・オルシーニの子ラウラをロドリーゴの子とする説もある。
→ 詳しくは ボルジア家の歴史の枢機卿ロドリーゴ・ボルジアへ!
→ 肖像画を見る
ホアン・ボルジア(Juan Borgia)
(1476(1474年の説も)〜1497年6月14日)
チェーザレのひとつ下の弟。(生年が1476年というものと、1474年という説とあり、チェーザレの兄という説もある。弟説支持の方が強いよう。)
スペイン語ではJuanホアン(ファン)、イタリア語ではGiovanniジョヴァンニ、となる。
ローマ生まれ。
チェーザレと共に大学に通っていたとも言われるがはっきりとはわかっていない。
1493年6月12日、ルクレツィアとジョヴァンニ・スフォルツァの結婚式で、花嫁を祭壇に導く役を担った。
その4日後スペイン大使の訪問時も場の主役を担っていたようで、チェーザレより目立っていたよう。
1493年8月、故・兄ペドロ・ルイスの婚約者だったマリア・エンリケス・デ・ルナと結婚。兄の所領地も受け継ぎ、ガンディア公となる。
2日にローマを離れ24日にバルセロナに到着している。結婚式は王の前で盛大に行われた。
でもスペイン女王イサベルには嫌われていたらしい。なぜだ。(まあ素行が悪かったんでしょう…)
1496年8月までスペインで過ごす。
その他にもセッサの公爵、ナポリの長官、教会の旗手、教皇庁軍総司令官、サン・ピエトロの知事など、多くの役職を、父アレクサンデル6世により与えられている。
1497年初頭、教皇庁軍総司令官として、オルシーニ家と開戦。名将グイドバルド・モンテフェルトロなどの活躍により戦勝に沸くが、最終的にはオルシーニ攻略とならず、軍人としての無能さを世間に露呈することになってしまう。
→ 詳しくは ホアンの進撃 を!
1497年7月14日、テヴェレ河で刺殺体となって発見される。チェーザレによる暗殺説がささやかれるが、未だ真相は解明されていない。
→ 詳しくは ホアンの死 を!
容姿端麗で華やかで軽やかな遊び人だったよう。見栄えはいいけどそれだけだよね、的人物として描かれることが多い。
惣領冬実「チェーザレ」での、父アレクサンデルは、軽佻浮薄な彼を軽視しているが、溺愛していた、としている説も強い。
ホアンがガンディア公としてスペインに発つ際には、とても愛情深い激励の手紙を贈っている。
ルクレツィア・ボルジア(Lucrezia Borgia)
(1480年4月18日(14日の説も) - 1519年6月24日)
チェーザレの5つ下の妹。
スビアーコ生まれ。(ローマ近郊の小都市。ヴァノッツァはボルジアの城のあるここで、ルクレツィアの妊娠期を過ごしたよう。)
幼少時は修道院で、12歳の頃には、ロドリーゴのいとこ姪(いとこの子)アドリアーナ・ミラ・オルシーニに教育を受け、育つ。
(幼少期(2歳まで)は母ヴァノッツァのもとにいたという説もある。)
ブロンドの髪に明緑色の瞳、細いあごを持ち、可憐な容姿をしていたよう。その美貌を父と兄に徹底的に利用され政略結婚に翻弄される。
1491年
ヴァレンシアの貴族でバル・ダホラの領主ケルビーノ・ホアン・デ・センテーレスと婚約、年内にスペインに赴き6ヵ月後に結婚するはずであったが、2ヵ月後、15歳の少年プロチダ伯ガスパーレ・ダヴェルサと再婚約。
1492年
11月9日、ガスパーレ・プロチダとの婚約が破棄される。
1493年
2月2日スフォルツァとの婚姻が決まる
6月12日、ペーザロ伯ジョヴァンニ・スフォルツァと結婚。(ルクレツィア13歳、ジョヴァンニ27歳)
1497年
意味をなさなくなったミラノ(スフォルツァ)との同盟を解消するため、これを「白い結婚」(ノッツェ・ビアンカ nozze bianca)(性的関係を伴わない結婚)であるとして、離婚させられる。
性的不能者との烙印を押されたジョヴァンニ・スフォルツァによって、ルクレツィアの淫蕩、ボルジアの近親相姦などが声高にうわさされるようになったと思われる。
父と兄によってもたらされた騒動中、彼女はサン・シスト修道院に引きこもる。この時教皇使節であったペドロ・カルデロン(イル・ペロット)と出会い、彼の子どもインファンテ・ロマーノ(ローマの子、ローマ王子、という意味)を出産したとされる。
この子は後ホアン(ジョヴァンニ)と名づけられ、ロドリーゴの子(別の証書ではチェーザレの子)として認知される。
1498年
ビシュリエ公アルフォンソ・ダラゴーナと再婚。ひとつ年下の美男の夫と仲むつまじく暮らすが、チェーザレがフランスと同盟したことにより、アルフォンソの立場は危うくなってしまう。(フランスはアルフォンソの実家ナポリ王国を狙っていたから。)
1499年
8月、身の危険を感じたアルフォンソは、身重のルクレツィアを置いてローマから逃亡する。ルクレツィアの悲嘆を紛らせるため、またアルフォンソの後を追うことのないよう、ロドリーゴは彼女をスポレートとフォリーニョの総督に任命する。その場しのぎ的な措置であったが、ルクレツィアはしっかりとこの地を治める。
同年11月アルフォンソとの長男を出産。ロドリーゴと名づけられる。
1500年
7月、アルフォンソ・ダラゴーナ暗殺。チェーザレの命で、直接手を下したのはミゲル・ダ・コレッラとされる。
嘆き悲しんだルクレツィアはネピの城にこもる。
1501年
フェラーラ公嫡男アルフォンソ・デステと再再婚。ローマを離れフェラーラへ嫁ぐ。(その後父アレクサンデルと会うことはない。)
浪費家のルクレツィアは吝嗇家の舅エルコレ・デステと対立したりもするが、夫とも周囲とも、それなりにうまくやっていく。フェラーラはルネッサンスを代表する洗練された宮廷のひとつであり、ルクレツィアの知性と教養を備えた品格は、歓迎され感嘆された。彼女はダンスを好み、また得意としていて、フェラーラの人々は彼女の身のこなしをも称えている。
1502年
詩人ピエトロ・ベンボと出会い、恋に落ちる。エルコレ・ストロッツィの仲介によって2人は手紙のやりとりを続けるが、ピエトロがヴェネツィアへ発ったことによって終息を向かえる。
ピエトロの詩集「リ・アゾラーニ」(Asolini アーゾラの人々という意味。アーゾラ(ヴェネツィア領の都市)で書かれた。だからこのタイトルなんだと思う。)はルクレツィアへの愛をうたったものと言われている。1503年頃、ルクレツィアがピエトロに送った一房の髪が、ミラノのアンブロジアーナ絵画館に所蔵されている。
1504年
チェーザレ釈放を嘆願するルクレツィアは、彼女に同情的だったフランチェスコ・ゴンザーガ(マントヴァ侯。夫アルフォンソの姉、イザベッラ・デステの夫。ルクレツィアにとっては義兄となる。)と恋に落ちる。ここでも頻繁な手紙のやりとりが見られる。
1505年
エルコレ・デステの死によって、アルフォンソ・デステはフェラーラ公に、ルクレツィアはフェラーラ公妃となる。
1508年
長男エルコレを出産。その後続けて4人の子を産む。(最後の子はすぐに死んでしまう。ルクレツィアは生涯で流産死産を含めて11人の子どもを妊娠したよう。
- インファンテ・ロマーノ(ホアン)(ジョヴァンニ)? 父親:ペドロ・カルデロン(?)
- 流産 父親:アルフォンソ・ダラゴーナ
- ロドリーゴ 父親:アルフォンソ・ダラゴーナ
- 死産 父親:アルフォンソ・デステ ↓以下同様
- アレッサンドロ(生後まもなく死亡)
- エルコレ
- イッポーリト
- アレッサンドロ(2歳で死亡)
- エレオノーラ
- フランチェスコ
- イザベッラ・マリーア(生後まもなく死亡))
※ 1.ジョヴァンニはアレクサンデル6世の子、もしくはチェーザレの子であるとする説も。
1509年
カンブレー同盟(フランス、イギリス、神聖ローマ帝国、教皇ユリウス2世による対ヴェネツィア同盟)にフェラーラ、マントヴァも加盟。戦地に向かったアルフォンソに代わり、ルクレツィアはしっかりと政務を執り行う。
フランチェスコ・ゴンザーガはこの時ヴェネツィアの捕虜となる。ルクレツィアは彼に手紙や食料品を差し入れしたらしい。
1510年
教皇はヴェネツィアと同盟。イタリアからフランスの勢力を追い出そうと画策する。
フランチェスコ・ゴンザーガは釈放され、ヴェネツィア軍の総司令官に。フランス側についたフェラーラを、教皇は破門に処す。
1513年
教皇はフェラーラへの最後通牒を下すが、2月に病死。フェラーラは危機を回避する。
1519年
未熟児を出産後、産褥熱により死去。享年39歳。
→ 肖像画を見る
ホフレ・ボルジア(Jofre Borgia)
(Goffredo Borgia)(Gioffre Borgia)
(1481年 - 1517年)
ロドリーゴ・ボルジアとヴァノッツァ・カッタネイの末子。チェーザレ、ホアン、ルクレツィアの弟。
ロドリーゴは、ホフレのことを、自分の子ではなくヴァノッツァの3番目の夫であるカルロ・カナーレの子ではないかと疑っていた、と言われる。
1493年
8月、ナポリ王国アラゴン王アルフォンソ2世の庶出の娘、サンチャ・ダラゴーナと婚約。
1494年
3月22日に結婚の署名が行われ、5月11日、ナポリのカステル・ヌォーヴォで式が挙げられた。ホフレは13歳、サンチャは15歳であった。
ホアン・ボルジア枢機卿(サヴィオ)が式に列席し、教皇庁式部官ブルカルドがこの時の様子を日誌に記している。サヴィオは新郎新婦の初夜にも立ち会っている。
この結婚により、ホフレはスィクラーチェの公爵とレーニョの主席書記官に任ぜられた。
ホフレとサンチャはカステル・ヌォーヴォ近くに新居を構える。これは教皇とナポリの協定を確固とする、人質という意味合いもあったと思われる。
地味で物静かなホフレと、明るく派手なサンチャは気が合わなかったらしく、サンチャはすぐに愛人を作ったらしい。
確かにホフレは、強烈キャラの父や兄姉と比べて、存在感は薄い。
1495年
対仏神聖同盟の軍、740騎を率いる。これはマントヴァ侯フランチェスコ・ゴンザーガの率いた1200騎に次ぐ大軍であったよう。
だが、実際に交戦したのかどうかは不明。
1496年
ホフレ、サンチャの夫婦はナポリからローマへと移る。
サンチャはすぐにルクレツィアと親しくなり、チェーザレやホアンとは肉体関係を結んだと言う。
1499年
夜な夜な遊び耽っていたホフレは、市民警備隊と諍いを起こし、太ももを矢で射抜かれてしまう。
警備隊員を処罰しなかったアレクサンデル6世に、サンチャは猛然と抗議したらしい。
同年、チェーザレとフランス王の従妹の結婚により、教皇とナポリの同盟関係は危うくなる。サンチャとアルフォンソの姉弟は、ローマを出る。
8月、アレクサンデル6世は、ホフレとルクレツィアをスポレートへ送る。これはホフレとルクレツィアを、それぞれの妻(サンチャ)と夫(アルフォンソ)から引き離しておくための措置であった。
ルクレツィアはスポレートの総督として統治者の才を発揮したが、ホフレは狩猟などに興じていただけだったと言われる。
10月、2人はローマに戻った。
サンチャとアルフォンソもローマに戻るが、アルフォンソはやがて暗殺され、サンチャはカステル・サンタンジェロに軟禁されることになる。
1500年
1500年からの3年間、兄チェーザレの下に従軍していたようだが、際立った功績は残していない。
1503年
シニガリア事件後、オルシーニ家の一門が逮捕されカステル・サンタンジェロに投獄される。
この時、ホフレはオルシーニの領地に攻め入りそれらを収奪した。
同年、アレクサンデル6世の死後、反旗を翻したコロンナ家を制圧するため、ミゲル・ダ・コレッラとともに戦線に立つ。
1506年
サンチャ死去。
ホフレはアルバイダ伯爵の娘マリア・デ・ミラ・ダラゴーナと再婚する。
マリアは、カリストゥス3世の妹カタリーナの息子ルイス・ホアンで・ミラの息子ハイメの娘。
ややこしいけど、父方の祖父(ルイス・ホアンで・ミラ)がアレクサンデル6世と従兄弟。
ホフレとサンチャの間に子どもは生まれなかったが、マリアとの間には、フランチェスコ、ルクレツィア、アントニア、マリアという4人の子どもたちに恵まれた。
長男フランチェスコが、スィクラーチェ公領を継いだ。
1517年
死去。享年36歳。
ボルジア没落後のホフレは、スィクラーチェの公爵として自領を守り、ひっそりと生きた。そのためか、彼の死亡日時ははっきりとわかっていない。
ペドロ・ルイス(Pedro Louis de Borja)(チェーザレの兄)
(1462(1468の説も)〜1488年8月)
スペイン王フェルディナンドに仕えたガンディア公爵。
1485年ロンダ包囲戦で活躍して爵位を授与される。王の従姉妹であるマリア・エンリケスと婚約し、さらに地盤を強化する。が早世したため婚約者マリア・エンリケスはガンディア公の爵位とともに弟ホアン(チェーザレの弟でもあるホアン)に受け継がれた。
優れた武人であったよう。
チェーザレと同時代のボルジア(枢機卿)
ホアン・ボルジア・ランソル・デ・ロマーニ
(Juan de Borja Lanzol de Romaní, el mayor)(サヴィオ)
(1447(1446の説も)〜1503年8月1日)
(惣領版「チェーザレ」→ サヴィオ・ホアン)
(シレンツィオ・ホアンと区別するために、一般的には名前の後に「el mayor(The elder)」とつけられる。)
ロドリーゴの妹ファナとペドロ・グレイン・ランソル・デ・ロマーニの息子。
惣領版「チェーザレ」ではロドリーゴの従兄弟、という設定のようだけど、正確には甥、のよう。つまりチェーザレの従兄弟にあたる。
ロドリーゴの従兄弟の子、という説もある。
この場合、ガルセラン・デ・ボルハ・イ・モンカーダとテクラ・ナヴァーロ・デ・アルピカの息子となっている。
諸説入り乱れているので、きっとはっきりしたことは、わかっていないんだと思う。
ヴァレンシアの聖堂参事会員を経て、1480年、シクストゥス4世によってローマ教皇庁の書記官に任命される。
インノケンティウス8世は、彼をローマ知事に任命。1483年にはモンレアーレの大司教に。
1492年、ロドリーゴ・ボルジアの教皇選出時に、枢機卿に。
1494年、アルフォンソ2世のナポリ新王叙任の際、教皇代理としてナポリへ。彼自身が、アルフォンソに戴冠する。
ついでにこの時、カステル・ヌオーヴォで行われたホフレとサンチァの結婚式にも出席している。
シャルル8世のイタリア侵攻時、チェーザレ、アレクサンデル6世とともに、ナポリ王アルフォンソ2世と再び会見、対スフォルツァ、フランス対策を講じる。
彼は教皇がサンタンジェロやオルヴィエートへ避難する前に、教皇勅書をシャルル8世へ届ける。
1500年、アスカーニオ・スフォルツァにとってかわり、尚書院副尚書に。
1503年、アレクサンデルとチェーザレがマラリアで倒れた少し前に、同じ症状で死去。
すごい倹約家で、残された財産は莫大だったという。
異常に肥満していたらしい。
ガルセランという名の庶子(息子)を1人残した。
ホアン・ボルジア・ランソル・デ・ロマーニ
(Juan de Borja Lanzol de Romaní, el menor)(シレンツィオ)
(1470(1474の説も) - 1500年1月16日)
(惣領版「チェーザレ」→ シレンツィオ・ホアン)
(サヴィオ・ホアンと区別するために、一般的には名前の後に「el menor(The younger)」とつけられる。)
(また母方の姓モンカーダをつけたホアン・ボルジア・ランソル・イ・モンカーダ(Juan Borgia-Lanzol y Moncada)と記述されていることもある。)
惣領版「チェーザレ」ではチェーザレの従兄とされているが、実際はチェーザレの従兄の子、のよう。(従甥(いとこおい)というらしい)
ロドリーゴの大甥(又甥(またおい)、姪孫(てっそん)とも)。
ロドリーゴの妹ファナの息子ホフレの子。
生年ははっきりしていないがチェーザレと同年輩であり、2人はとても親密であった。公私を問わずよく行動を共にしていたよう。
知性的で思慮深く政治的才能にも恵まれており、チェーザレだけでなくアレクサンデル6世にも信認されていた。
とにかく特使として色んなところに何度も派遣されているので、外交や交渉に長けていたのではないかと思われる。(惣領版チェーザレでもボローニャに派遣されてたし)
1492年
ピサ大学でチェーザレとともに教会法を学ぶ。
1494年
9月19日メルフィの司教に。スポレートの要塞の管理を任される。(総督。彼の早世の後をルクレツィアが引き継ぐ)
1496年
スペインのフェルディナンド2世の公使として、ナポリに残っていたシャルル8世の残軍との戦いに立ち会う。
2月19日、まだナポリにいる時にアレクサンデル6世によって枢機卿に叙任される。同時にカプアの大司教、メルフィの大司教に。
12月18日、ローマに戻る。
1497年
教皇特使としてウンブリア地方のナルニ、トディ、ペルージャなどの治世調査へ出る。
荒れすさんだこの地方では、教皇使節に対する敬意など全くなく、傭兵や夜盗たちが跋扈し、殺人も略奪も日常茶飯事であった。
ホアン(シレンツィオ)が殺人犯を処刑した時、人々は非常に驚き、評判となったと言う。彼は「これらの地に秩序と平和を回復するには、厳格な手段を必要とする」とアレクサンデル6世に報告している。
1498年
9月6日、ヴァレンシアの大司教に。ヴィテルボの内乱の鎮圧に派遣される。
1499年
8月26日、教皇特使としてローマを発つ。
フィレンツェ、ボローニャを経由してフェラーラ、ヴェネツィアへ。
これはチェーザレのロマーニャ地方侵攻への根回しという重要な任務だった。
9月8日、フェラーラ着。
チェーザレがフェラーラ掌握をも視野に入れていると口をすべらせ、エルコレ・デステを慌てさせる。エルコレはすぐにルイ12世に泣きつき、チェーザレを牽制してくれるように依頼する。
大いに動揺したエステ家は、チェーザレのロマーニャ侵攻への反対などできる余裕を失っていた。(頭いい!!)
9月10日、ヴェネツィア着。ドージェと会談する。
10月6日、ミラノにてチェーザレとルイ12世の入城を見守る。
マントヴァに赴き、チェーザレの進軍のためにフランチェスコ・ゴンザーガから軍需品や火薬の支援を得る。
12月13日、イモラにて新領主であるチェーザレへの民衆の忠誠宣誓を受ける。
12月24日、フォルリで正式に政権を引き継ぐ。
12月28日(1月14日の説も)、チェゼーナへ行きこの地をチェーザレの支配下に置くよう交渉する。
1500年
1月14日、グイドバルド・モンテフェルトロの客人としてウルビーノへ向かう途中発熱、マラリアのような症状が出る。
しかし彼はペーザロに向かうと思われたチェーザレに会うため(ひと言激励したかった)、またアレクサンデル6世にローマに戻るよう要請されてもいたため(フォルリの様子を聞きたかったよう)、無理して馬を駆ってしまう。
フォッソンブローネに着いた時容体が急変、ウルビーノにとって返す。が、ここで急死することになってしまう。
フォルリ陥落をローマの知らせるため、供を4人だけ連れてボローニャもしくはフォルリから早馬を飛ばした。
ローマに到着したその翌日には、来た道をとって返し、フォルリのチェーザレのもとへ向かう。
しかしその途上ウルビーノで発熱、症状は重くはなかったが、フォルリ陥落の祝辞を早くチェーザレへ伝えたい思いに急いた彼は、無理をして馬を駆り続けてしまう。
1月16日、フォッソンブローネに着いた時、容態は急変、急死へと至ってしまった。
という説もある。
また、
教皇庁軍の司令官としてボローニャへ出向き、そこで病に倒れ、フォッソンブローネ(ウルビーノという説も)で急死、という説もある。
チェーザレによる暗殺説がささやかれたが、根拠は全くなく、熱病によるものとされている。
実際カプアの枢機卿がスペイン王と女王に宛てた手紙には、チェーザレの現状とともに、ホアン・ボルジア枢機卿が風邪にために亡くなったと報告されている。
冬の厳しい気候のせいだろうと言われている。
1月27日、遺体はローマへ運ばれサンタ・マリア・デル・ポポロ教会へと埋葬された。
チェーザレの凱旋に湧いていたせいか、葬儀も追悼式典も行われない寂しい埋葬だった。
最後の数ヶ月、チェーザレのためにあちこちを散々移動していたの、相当きつかったのかな…。
華やかな進軍の前で全然目立たないけど、チェーザレがロマーニャへの道をまっすぐに進めるよう尽力した、陰なる立役者だったと思う。
フランシスコ・ガルセラン・デ・ロリス・ボルジア(Francisco Galcerán de Lloris y de Borja)
(1470年頃 - 1506年7月22日)
ヴァレンシア生まれ。
エルナの司教。1503年枢機卿に。
1502年12月30日深夜ファノにて、「明日シニガリアで、ヴィテロッツォ、オリヴェロット、パオロとフランチェスコのオルシーニを上手く先導し、捕縛せよ」との命を受けたチェーザレの側近8人の中のひとり。
ジェローニモ・デ・ロリス・ボルジア(Jerónimo de Lloris y de Borja)
ペドロ・ルイス・デ・ボルジア・ランソル・デ・ロマーニ
(Pedro Luis Borgia Lanzol de Romni)
(1472? - 1511年10月4日(5日の説も))
ホアン・ボルジア(シレンツィオ)の弟。(兄の可能性も。でもこの人の方が出世が遅いので、おそらく弟。)
ヴァレンシア生まれ。
1500年7月29日、兄のホアン・ボルジアの死去後、ヴァレンシアの司教区を引き継ぐ。
8月10日、スポレートの総督に。
9月28日、サンタ・マリア・イン・ヴィア・ラータの枢機卿に。
1503年、アレクサンデル6世が崩御しチェーザレが捕囚となると、12月20日、フランチェスコ・レモリーネスらとともにナポリへ逃亡。そのままその地に移り住んだ。
1511年、ローマからナポリに戻っている途中、落馬により死去。
彼はユリウス2世崩御という偽情報ですぐにローマに向かったらしいから、もしかしてその帰り道だったかも!?
彼の死後、アロンソ・デ・ボルハ(カリストゥス3世)からずっとボルジア家に受け継がれていたヴァレンシアの司教区は、他家に渡った。
ホアン(ジョヴァンニ)・デ・ヴェラ(Juan de Vera)
(1453年11月25日 - 1507年3月4日)
ヴァレンシア生まれ。
スペイン人だからホアンで統一したいけど、ジョヴァンニ表記でよく見る。
アレクサンデル6世の親族。サレルノ大司教。
1500年9月、サンタ・バルビナの枢機卿に。しかしサレルノ枢機卿と呼ばれていた。
マチェラータ教皇公使。
優れた詩人でもあり、チェーザレにとってずっと先生的ポジションにいた。(フランチェスコ・レモリーネス的ポジション?親族だからより近しいかも)
よくチェーザレの話を聞き、信頼されていた。
1500年、アレクサンデル6世によりサレルノの大司教に、その後枢機卿に任命される。
1501年、チェーザレの秘書官アガピート・ゲラルディとともにペーザロとファノへ赴き、その地の評議会からチェーザレへの永遠の忠誠を誓う宣誓を受ける。そしてファノ市の永久総督に指名された。
1503年、チェーザレがユリウス2世の捕囚になるとチェーザレの財宝を略奪や接収から守るために自分の部屋に集めた。
ちなみに18世紀、ミゲルの一族の出身地コレッラでヴェラ姓の一族が栄え、今もヴィルト・デ・ヴェラ邸(Casa de los Virto de Vera)が残っている。(この人と直接の関係は多分ないです)
ハイメ・セラ・イ・カウ(Jaime Serra i Cau)
(1427年〜30年頃 - 1517年3月15日)
(Jaume Serra)
ヴァレンシア生まれ。
教皇アレクサンデル6世の叔母ファナ・ボルハ(Juana Borja)とバルトロメ・セラ(Bartolomé Serra)の子とも言われるが(当サイトの家系図にはそう書いてる。)2人の間には子がなく、ハイメはバルトロメの甥であったという説もある。こちらに方が有力そう。
ボルジア家直系ではないが血縁関係にある。
1455年頃にはローマにいて、カリストゥス3世からいくつかの教会的恩典を受けている。
ローマ宮廷の公証人で使徒財務官であった。
枢機卿だったロドリーゴに、ガンディア公国の購入と、ホアンとフェルディナンド2世の従妹マリア・エンリケスとの結婚について助言したと言われる。
1492年4月11日、オリスターノ大司教に。
1493年11月9日、ヴァレンシアからアレクサンデル6世に宛てて手紙を書く。
ホアン・ガンディア公爵家の維持管理について報告し(ホアンのお目付役だった?)、ハイメ・デ・ペルトゥサ(Jaime de Pertusa)とハイメ・コニル(Jaime Conill)らを、悪政と資金流用の疑いで告発している。
このペルトゥサの下で、レミーロ・デ・ロルカはホアンの執事的役割を担っていたよう。レミーロがペルトゥサの流用した資金で、贅沢な暮らしをしているとハイメは憤慨している。
また同じ手紙で、おそらくミゲル・ダ・コレッラだと思われる人物について言及している。
ミゲルはレミーロとは異なり、ハイメ側にいて信頼されていたよう。
1500年9月28日、枢機卿に任命される。
1503年のコンクラーヴェに参加し、教皇ピウス3世を選出。
教皇の許可を得てローマに戻ったチェーザレを、ペニテンツィエリ宮殿で看病した。
1503年、2回目のコンクラーヴェに参加し、教皇ユリウス2世を選出。
この年のベルトランド・コスタビリの手紙には、チェーザレの庇護者として多く登場する。
実際コンクラーヴェでもチェーザレの意を汲み、彼の希望と命令を確実に実行した。
1513年のコンクラーヴェに参加し、教皇レオ10世を選出。
イタリアとスペインで数多くの恩典、爵位、地代を得る。
1517年3月15日、ローマで死去。
遺言執行者はアントニオ・マリア・チョッキ・デル・モンテ枢機卿だった。
チェーザレと同時代のボルジア(女性)
アドリアーナ・デ・ミラ(Adriana de Mila)
(1455年頃 - 1509年?)
ペドロ・デ・ミラの娘。ペドロの母カテリーナが、ロドリーゴ・ボルジアの母イザベルと姉妹である。
カテリーナとイザベルは、アロンソ・ボルジア(カリストゥス3世)の妹。
アドリアーナにとって、ロドリーゴは「いとこ伯父」という続柄になる。
父ペドロは、カリストゥス3世の治世時に、スペインからイタリアへ渡ってきており、アドリアーナはローマで生まれたのではないかと言われている。
1473年頃
18歳でバッサネッロの領主ルドヴィーコ・オルシーニと結婚。同年、息子オルシーノを出産する。
オルシーノは隻眼で不細工であったらしく、そのためか、非常に自意識過剰な人物であったそう。(斜視であったという説もある。)
1489年
ルドヴィーコは死去。(はっきりしてはいないが、遅くとも1489年には死去していた。)
寡婦となったアドリアーナは、それまでもよき保護者であったロドリーゴとの関係を強くする。それは夫の領地と遺産を管理し、息子に継承させるためにも必要なことだった。
彼女はロドリーゴの腹心として仕え、彼の4人の子どもたちの養育にも熱心にあたった。ルクレツィアの後見人にもなっている。
息子オルシーノの婚約者であったジュリア・ファルネーゼとロドリーゴの愛人関係も、彼女は進んで後押ししたと言われる。
したたかでリアリストであった彼女は、ロドリーゴの与えてくれるさまざまな利益や特権を、冷静に優先させたのだろう。
反対してもせん無いこと、と諦念の境地でもあったのかもしれない。
同年5月21日、息子オルシーノはローマにてジュリア・ファルネーゼと結婚する。
この時ジュリアはロドリーゴ・ボルジアの愛人となって1年弱くらいだった。
(愛人関係となったのは結婚後と言う説もある。)
1492年
ジュリアは娘ラウラを出産するが、父親はオルシーノなのかロドリーゴなのかわかっていない。
(が、オルシーノの嫡出の娘として、ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレの甥ニッコロ・デッラ・ローヴェレと結婚する。)
アドリアーナは、ジュリアとラウラ、そしてルクレツィアとともに、教皇となったロドリーゴ(アレクサンデル6世)の恩愛を受け、ヴァティカンで睦まじく暮らした。
1494年
ペーザロに向かうルクレツィアに、ジュリアとともに随行する。
教皇は、細かな旅の日程からペーザロでの行事の式次まで、アドリアーナに細かく指示した。
2ヵ月後、ジュリアは兄アンジェロの病気見舞いのため、カポディモンテに向かう。アドリアーナはこれに随行し、ジュリアとオルシーノとアレクサンデルの仲違いに巻きこまれる。
アレクサンデルは自分の下へ戻らないジュリアに腹を立て、アドリアーナにも破門を脅迫する厳しい手紙を送っている。
同年11月、アドリアーナとジュリアはローマへ向かうが、イタリア侵攻中のシャルル8世の軍に出くわし、捕虜となってしまう。
が、すぐさま教皇がフランス軍に莫大な身代金を払ったため、厚遇され無事にローマへと送り届けられた。
1500年
オルシーノは死去。
この頃にはロドリーゴとジュリアの関係はゆっくりと疎遠になっていたよう。が、アドリアーナはずっと教皇との信頼関係を保ち続けていた。
1502年
エステ家のアルフォンソ1世との結婚でフェラーラへ旅立つルクレツィアに随行する。
アドリアーナの死亡時期は、はっきりとしてはいないが、1509年頃ではないかと言われている。
彼女の遺産はジュリア・ファルネーゼが受け継ぎ、その後はラウラへと受け継がれた。
アンジェラ・ボルジア(Angela Borgia)
(1487年?、1491年? - ?)
ホアン・ボルジア・ランソル・デ・ロマーニ(Juan de Borja Lanzol de Romaní, el menor)(シレンツィオ)の妹。
ロドリーゴの妹ファナの息子ホフレの子。
よくルクレツィアの従妹と書かれているが、従妹ではなく従兄弟の子である。
という説が通っていたが、現在(2024年3月)は上記とは別人とする説が有力になってきているよう。
- チェーザレの時代、同年輩のアンジェラ・ボルジアが4人存在する。
しかも全員ボルジアのランソルやモンカーダの分家筋の娘。ややこしい!
1. 上記のホアン・ボルジア・ランソル・デ・ロマーニ(Juan de Borja Lanzol de Romaní, el menor)(シレンツィオ)の妹。
アンジェラ・ボルジア・デ・ランソル・デ・ロマーニ(Angela Borgia de Roman)。
(母親がモンカーダ家のファナなので、イ・デ・モンカーダ(Angela Borgia de Lanzol i de Montcada)(Àngela de Borja-Llançol i de Montcada)と言ったりもするよう。)
ルクレツィアらとともにヴァティカンで暮らしていた。同時期にヴァティカンにいたので、ルクレツィアとともにフェラーラへ行ったアンジェラと同一視されてきたよう。
この人をフェラーラへ行ったアンジェラとしている本はすごく多い。と言うか、今までそれが定説だった。(惣領版「チェーザレ」監修の原先生も、そのように言ってあった。)
しかし、アレクサンデル6世の死後スペインに帰る。
親戚筋のヴァレンシア貴族、ルイス・ランソル(Luis Llançol)Luisと1506年に結婚した。
2. ルクレツィアとともにフェラーラへ行ったアンジェラ。
エステ兄弟の争いを引き起こし、サッスオーロ領主アレッサンドロ・ピオと結婚する、名高いアンジェラ・ボルジア(Angela Borgia)。
レオナルド・ダ・ヴィンチの作では?と議論されている肖像画「美しき姫君」はこのアンジェラがモデル説もある。すげえ。
彼女の両親ははっきりとわかっていない。が、スペインの歴史家ミゲル・バトリ(Miguel Batllori)は、下記の3.に登場するギリアン・ラモンがローマでもうけた娘であるとしている。非嫡出子ではなく嫡子であったよう。
カタルーニャ語のWikipediaではこの説に基づいた家系図が載せられている。ここでは母親をイサベル・モンカーダ(Isabel de Montcada)としている。
しかしスペインとイタリアと別々に暮らしているとは言え、娘2人に同じ名前つける?
3. ギリアン・ラモン(Guillen Ramon)とヴィオラン・サンス・デ・カステルヴェル(Violant Sanç de Castellverll)の娘アンジェラ。
アンジェラ・ボルハ・イ・サンス・デ・カステルヴェル(Angela Borgia i Sanç de Castellvell)。
ギリアン・ラモンは、父親オット(Ot)がアレクサンデル6世の従兄弟。
オットの母がモンカーダ家の人。(Isabel de Montcada)
父(ギリアン・ラモン)はローマでアレクサンデル6世に仕え、アレクサンデル6世と運命をともにし1503年マラリアで死去。
アンジェラはイタリアへは同行せず、スペインで暮らしていた。
4代目コセンタイナ伯ロドリーゴ・ロイス・コレッラ(Rodrigo Rois de Corella)と結婚。ロドリーゴはミゲル・ダ・コレッラの母違いの兄弟であるという説がある。
4. シレンツィオとアンジェラ兄妹の姪のアンジェラ・ボルハ・ランソル・イ・デ・カタラ(Àngela Borja-Llançol i de Català)
シレンツィオたちの兄ロデリック・デ・ボルハ・ランソル(Roderic de Borja-Llançol)の娘。母親は2番目の妻マリア・センテーレス(Maria de Centelles)。
この人もずっとスペインにいたよう。
家系図見るとホアン・デ・ヴィラノヴァ(Joan de Vilanova)と結婚したようだが、ヴァレンシアの将軍リュイス・カロス・デ・ヴィララグット・イ・エスラバ(Lluís Carròs de Vilaragut i Eslava)と結婚したという説もある。再婚した?
下記は2.のアンジェラについて。
ローマでのアンジェラの存在は今いち薄いが、ルクレツィアの侍女と言うよりも話し相手?姉妹?のようにしてヴァティカンに暮らしていたよう。
当時からアンジェラの美貌は名高く、文学者たちは彼女を称える詩を多く残しているらしい。
1500年
ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ(ユリウス2世)の甥フランチェスコ・マリア・デッラ・ローヴェレと婚約する。
しかしこれは果たされずに終わる。
1502年
コスタンツォ・ベンティヴォーリオと婚約。
これはチェーザレのボローニャ攻略を視野に入れた、ベンティヴォーリオの一角を抱きこもうという措置であった。
しかしこの婚約も履行されない。
同年1月、ルクレツィアがアルフォンソ・デステと結婚しフェラーラへ赴く時、花嫁のコンパニオン(介添え)としてルクレツィアに随行する。
美しく優雅で魅力的だったアンジェラは、フェラーラの宮廷で注目の的となり、「最もエレガントな乙女(damigella elegantisima)」と呼ばれた。
1505年
12月頃、未婚で出産。
父親はアルフォンソ・デステの異母兄弟(庶子)で、美男の誉れ高かったジュリオ・デステではないかと言われている。
アンジェラの魅力はアルフォンソの弟であるイッポーリト・デステをも虜にしており、イッポーリトとジュリオは、彼女をめぐって争った。
同年11月、イッポーリトはジュリオを襲撃し両目をえぐり取ろうとする事件を起こしている。
これはしかし、単なる三角関係の引き起こした愛憎劇ではなく、ジュリオともう1人の弟フェランテによる、エステ家の権力争い(アルフォンソとイッポーリトへの反逆)にまつわるできごとであったよう。
(ジュリオとフェランテの逆心を察知したアルフォンソが、アンジェラとの三角関係を理由にしてイッポーリトに謀反者のジュリオを攻撃させ、先制し牽制した。)
1506年
12月6日、サッスオーロの領主アレッサンドロ・ピオと結婚。
1507年
レオナルド・ダ・ヴィンチの作品では?と議論されている肖像画「美しき姫君」のモデルに(という説がある)。
アンジェラに恋するイッポーリトが依頼したとも言われる。イッポーリトは、レオナルドが叔父の遺産相続で親族と揉めた時に相談役になっているので、感謝の印として依頼を受けた可能性はないこともない。
アンジェラだったらすごいね!
1508年
長男ジルベルト(Gilberto)(1508 - 1554)を出産。彼はイッポーリトの庶出の娘エリザベッタ、もしくはイザベッラと結婚した。
アンジェラは姑であったエレオノーラ・ベンティヴォーリオ(Eleonora Bentivoglio)(ジョヴァンニ・ベンティヴォーリオの娘)折り合いが悪く、嫁姑戦争が引き起こされたらしい。
ルクレツィアとは親密であったようで、ルクレツィアが病床についた時は常に嫁ぎ先から駆けつけている。チェーザレの死の報を受けたルクレツィアにもつき添っている。
1516年に書かれたルネサンス期のベストセラー、アリオスト(Ludovico Ariosto)の「オルランド狂乱(Orlando Furioso)」の最終章で、アンジェラはその優美さを称えられている。
- 関連書籍
- 塩野七生 著 「愛の年代記」
9編中の1編がアンジェラをめぐる三角関係を描いた「ドン・ジュリオの悲劇」。 - コンラッド・フェルディナンド・マイヤー 著 「アンジェラ・ボルジア」
こちらもアンジェラをめぐる三角関係を主軸とした物語。
- 塩野七生 著 「愛の年代記」
ジェローラマ・ボルジア(Jerorama Borgia)
(1469年-1483年)
アレクサンデル6世の娘。チェーザレの腹違いの姉。
母親は不明。
1482年、ローマの貴族ジャン・アンドレア・チェザリーニと結婚。しかしこの結婚の翌年死亡している。
1493年9月20日、ジャン・アンドレアの弟ジュリアーノ・チェザリーニは、この姻戚関係のおかげでか、枢機卿に任命されている。
イザベッラ・ボルジア(Isabella Borgia)
(1470年-1550年)
アレクサンデル6世の娘。チェーザレの腹違いの姉。
母親は不明。
1483年、パリオーネの貴族ピエトロ・ジョヴァンニ・マトゥッツィと結婚。
シャルロット・ダルブレ(Charlotte d'Albret)
→ アルブレ家
ジョヴァンノッツァ・カッタネイ(Giovannozza Cattanei)
→ その他の人々
チェーザレの子孫
ルイーズ・ボルジア(Louise Borgia d'Albret de Châtillon-Limoges)
ジローラモ
1501年、もしくは1502年生まれ。
母親はドゥルーシラではないかと言われている。
イザベッラ・ピッツァベルナリと結婚、後にカルピ伯の娘イザベッラと結婚。
どちらとの子なのかは不明だが、2人の娘イッポーリタとルクレツィアを残す。
カミラ・ルクレツィア
1501年、もしくは1502年生まれ。
母親はドゥルーシラもしくはドロテアではないかと言われている。
フェラーラのサン・ベルナルディーノ修道院長となる。1573年に死亡。
- 女子(名前不明)
1503年、チェーザレがカステル・サンタンジェロに逃げこんだ時、ホアン・ボルジア(インファンテ・ロマーノ)、ビシュリエ公ロドリーゴ(ルクレツィアとアルフォンソ・ダラゴーナの息子)、カミラ・ルクレツィアとともに連れていた娘。
- 男子(名前不明)
1542年、ボローニャで死亡したとされる。
チェーザレの娘ルイーズの子孫
チェーザレ以前の人々
アロンソ・デ・ボルハ(Alonso de Borja)
(1378〜1458)
ペドロ・ルイス(Pedro Louis de Borja)(ロドリーゴの兄)
(?(弟説では1432年)〜1488年9月26日)
弟という説も。
ルイス・ホアン・デ・ミラ(Luis Juan del Mila y Borja)
リュイス・ジョアン・デル・ミラ・イ・ボルハ(Lluís Joan del Milà i Borja)
(1430、1433年頃 - 1510年12月10日?)
スペイン、ハティヴァ生まれ。
カリストゥス3世の姉、カタリーナの9人の子どものうちの4番目。
アレクサンデル6世の従兄弟。
アドリアーナ・デ・ミラの伯父。
ボローニャ大学でロドリーゴとともに教会法を学ぶ。
彼の方が先にボローニャに来ており、ロドリーゴは後から入学したよう。
1453年、伯父カリストゥス3世の力により、セゴルベの司教に。
1455年、ボローニャ総督に。
1456年2月20日の聖職者会議で枢機卿に任命される。
1458年、ピウス2世の選出されたコンクラーヴェに、ロドリーゴとともに参加。
しかしその後、彼の死までに6回のコンクラーヴェが行われるが、どれにも参加していない。
1459年10月、レリーダの司教に任命される。レリーダのサン・ヴィセンテ修道院とフランスのディジョンのサン・ベニーニョ修道院を拝領。
1470年頃、イタリアを去りスペインへ。
その後イタリアへ戻ることはなかった。
1510年、死の直前のレリーダ司教を辞任。
同年、ヴァレンシア州のベルジーダにて死去。その地に埋葬されるが、1574年、レリーダの村アルバイダにあるドメニコ会修道院サンタ・アナに移された。
愛妾アンジェラ・ラム(Angela Ram)との間に、
- ハイメ(Jaime) 初代アルバイダ伯
- ルイス(Luis) 司教
- カテリーナ(Caterina) 4代目アルメナラ伯ガスパーレ・デ・プロヒタ(Gaspar de Próxita)と結婚
の3子をもうけた。
コンクラーヴェに参加しなかったり、イタリアを辞してスペインに戻ったり、司教を辞任したり、聖職者であることに対して色々と思うことがあった人なのかな?
チェーザレ以降の人々
ジョヴァンニ・ボルジア
フランシスコ・ボルハ(Francisco Borja)
ロドリーゴ・ボルハ・セヴァロス(Rodrigo Borja Cevallos)
(1935年6月19日 - )
チェーザレの弟ガンディア公ホアン・ボルジアとマリア・エンリケス・デ・ルナの子孫と言われている。
エクアドルの政治家、政治学者、法学者。
1988年8月10日から1992年8月10日までエクアドル大統領を務めた。
エクアドル、キト(エクアドルの首都)生まれ。
社会主義政党である民主左翼党の設立者の1人。この政党は短期間で支持者を増大させたらしい。
1978年、1984年と大統領選に出馬し敗れるが、1988年の選挙で勝利した。
大統領としてエクアドルの経済発展に尽力し、中でも識字率向上計画で評価されている。彼は在任中、識字率を90.4%まで上昇させた。(1985年には83%だった。)
著名な政治学者・法学者でもあり、ラテンアメリカの学界では講師としても人気があった。著作も多数あり、7500ページ以上もある「政治百科事典」という辞典まで編纂している。
1966年12月16日、カルメン・カリスト(Carmen Calisto Ponce)と結婚。4人の子どもをもうけた。
ガブリエラ・ボルハ・カリスト(Gabriela Borja Calisto)
マリア・デル・カルメン・ボルハ・カリスト(María del Carmen Borja Calisto)
ロドリゴ・ボルハ・カリスト(Rodrigo Borja Calisto)
ベロニカ・ボルハ・カリスト(Verónica Borja Calisto)
ホアン・マヌエル・コレア・ボルハ(Juan Manuel Correa Borja)
(1999年8月9日 - )
上記のエクアドル大統領ロドリーゴ・ボルハの孫。
(ロドリーゴの娘マリア・デル・カルメン・ボルハ・カリスト(María del Carmen Borja Calisto)の息子。)
エクアドル、キト(エクアドルの首都)生まれ。現在はアメリカ国籍。レーシングドライバー。
2019年8月31日、ベルギーで行われたレース中多重クラッシュが発生。ホアンもフランスのレーサーアントワーヌ・ユベールと激突した。
アントワーヌは死亡。ホアンは一命をとりとめるが両足複雑骨折と脊椎損傷を負った。17時間におよぶ手術により、11月には自宅でリハビリできるほどまで回復した。
2021年に復帰し、フランスのレーシングチームARTグランプリと契約。フォーミュラ3に出走した。
チェーザレの忠臣
その他の人々
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