チェーザレ・ボルジアと、その周辺のさまざまを紹介するサイトです。

イモラImola

イモラ Imola

イモラ駅

鉄道で、ボローニャから約25分。
(ボローニャまで、
ミラノから約1時間20分〜1時間50分。
フィレンツェから約1時間。
ローマから約2時間半。)

駅から街の中心まで、徒歩で約10分。
やや街外れにある城塞ロッカ・スフォルツェスカまで、徒歩で約20分。
歩いてまわれます。

カテリーナ・スフォルツァの所領。チェーザレの手に、最初に落ちるところ。
古くはシクストゥス4世とロレンツォ・デ・メディチの争いの一因ともなった街。(パッツィ家の陰謀へとつながる。)

1503年、アレクサンデル6世の崩御とチェーザレの病に乗じて、多くの僭主たちが兵をあげ、旧領を掌握する。そのような動きの中、旧主の復帰を断固として拒み、チェーザレへの忠誠を持ち続けた街のひとつ。

  • ロッカ・スフォルツェスカ - イモラの城塞
  • タッデオ・デッラ・ヴォルペ生家 -
  • デッラ・ヴォルペ家 -
    大聖堂 -
  • 司教邸 -
  • サン・ドメニコ教会 -
  • 市庁舎 -
  • セルサンティ館 - 旧リアーリオ・スフォルツァ館
  • エミーリア街道 -
  • ピラテッロ - 地図の➖を2回クリックすると北西の方に出てきます。


ロッカ・スフォルツェスカ(Rocca Sforzesca)

城塞前の通りはカテリーナ・スフォルツァ通り。

1499年11月9日、チェーザレはイモラ、フォルリ攻略に向けてミラノを発つ。
ルイ12世に援助を受けた軍勢は、総勢1万6千。
ピアチェンツァ、パルマ、レッジョ、モデナと行軍し、11月25日、イモラへ入城する。
その時に、まずはじめに見えたのは、イモラの北西、エミーリア街道のわきにある、この城塞(の背中)だったはず。

右脇からのショット。

カテリーナ・スフォルツァのの恐怖政治を憎んでいた民衆は、抵抗することなく、チェーザレを迎える。
12月13日、一滴の血も流すことなく、イモラはチェーザレの手に落ちる。

イモラは、後にチェーザレの公国の首都として、定められようとするが、「城塞が堅固である」ということが、その理由の一つであった。

城門入り口付近を俯瞰。右の回廊部分から撮った写真です。 円柱の塔部分をつなぐ回廊

城塞の屋上というか、屋根のないところ
  • 開館時間
    土曜=15:00 - 19:00
    日曜=10:00 - 13:00 / 15:00 - 19:00

団体での来場は要予約。

城塞、塔からの風景。

城塞内にある、家屋内部の展示。他に弓矢や大砲などの展示が。

城壁部分内部の展示。

中庭のコンサート会場。城塞の裏部分は音楽学校になっている。




予約問い合わせ受付:火曜〜金曜。
TEL.010-39-542-602609
(010は国際電話識別番号、39は国番号)
(マイラインに登録していない場合、010の前に通信各社の番号が必要。
(例えばKDDIの001番))






タッデオ・デッラ・ヴォルペ生家(Casa della Volpe)

内部の見学はできないようでした。

傭兵隊長タッデオ・デッラ・ヴォルペの生家。

彼はチェーザレのファエンツァ進攻時から、チェーザレの腹心となる。

1503年、彼はミゲル・ダ・コレッラとともにジャンパオロ・バリオーニ率いるフィレンツェ軍に捕らわれるが、彼もミゲル同様、チェーザレを裏切ることなく、捕囚となることを選んだ。

上の写真の左端に見えるのが、このプレートです

最初の3行に、「傭兵隊長タッデオ・デッラ・ヴォルペの生家」とあります。 ↑

プレートの英訳
This house  which has witnessed the birth  of Taddeo della Volpe  chief  and (that) knew the compassion  of  Sacro Monte  the association for the historic artistic Imola  patron benefactor  (and of) Imola Cassa di Risparmio  (this house) has been honored  of its first renovation  (in) the year 1938  (the) 16th (year) of the Fascist Era






デッラ・ヴォルペ家(Palazzo della Volpe)

オルシーニ通り側から オルシーニ通り側から

エミーリア街道側(商店街側)ら。

上の「タッデオ・デッラ・ヴォルペの生家」とは別の場所にある、これもヴォルペ家。
もともとは「cappello」(帽子の意味)という名の旅館であったもの。

1480年から1484年にかけて、メロッツォ・ダ・フォルリによって設計された。1534年と18世紀に修復。
(メロッツォ・ダ・フォルリは、ヴァティカン美術館にある「シクストゥス4世と甥たち」などを描いた画家。)




大聖堂(Cattedrale di San Cassiano Martire)

Duomo di San Cassianoとも。
画像の説明














1187年〜1271年にかけて建設。鐘楼は15世紀になってから。
1763年〜1782年に大改築が行われているが、チェーザレの時代には存在した大聖堂。






司教邸(Palazzo Vescivile)

司教邸。 司教邸中庭。

大聖堂の向かい側、タッデオ・デッラ・ヴォルペ生家の向かって左隣にある司教邸。
1187年に建設。
18世紀に改築されているが、チェーザレの時代には存在した司教邸。






サン・ドメニコ教会(Chiesa e Convento dei Santi Nicolo e Domeico)

サン・ドメニコ教会。 教会内部。

13世紀に建てられた教会と修道院。
1702年から5年をかけて改修されている。が、チェーザレの時代には存在した教会。

右隣にはVia Sacchiに面して絵画館がある。




マッテオッティ広場(Piazza Giacomo Matteotti)
と市庁舎(Palazzo Vecchio del Comune)

閑散としているのは、早朝だからだと思います・・・。

イモラの中心地である広場。15世紀後半に作られ、当時から街の中心地となっていた。

市庁舎は11213年に建築。1745年〜1771年、1805年〜1810年と2度にわたって改修されている。






セルサンティ館(Palazzo Sersanti)

右側の建物です。

マッテオッティ広場、市庁舎の向かい側にある15世紀初頭に建てられた、領主の館。
チェーザレの時代には、リアーリオスフォルツァ館(Palazzo Riario Sforza)と呼ばれていた。






エミーリア街道(Via Emilia)

街で1番賑やかな通りだと思います。

ミラノからリミニへつづく、ローマ時代からの街道。
イモラの街の北西から、城塞の左脇を通り、街の中心を横切り、東へ抜けている。
チェーザレ軍が南下して行った通り。






ピラテッロ Piratello

ピラテッロ

イモラ北西に隣接する、エミーリア街道沿いにある聖域。
「街」や「村」ではなく、聖堂と修道院を中心とした、宗教的拠点(聖域)の名称。
概念がわかりにくいんだけど、日本で言えば「◯◯地蔵前」みたいな、宗教施設の名前がそのまま地名として使われている感じのよう。

1483年、クレモナ(Cremona)からロレート(Loreto)への巡礼に向かっていたロンバルディア出身の巡礼者ステファノ・マンジェッリ(Stefano Mangelli)は、イモラから約3kmの場所にある宿に滞在した。
聖木曜日の日(その年は3月27日だった)、彼は出発の前に、小さな梨の木の陰にあった祠(edicola)の聖母像に、祈りを捧げた。
その時、聖母が彼に現れて語りかけた。
聖母は自らを「永遠のいのちの女王である無限罪のマリア(Immacolata Maria regina di vita eterna)」と名乗り、ここに聖母へ捧げた聖域教会(santuario)を建てるように言った。
そして自らの力の証として、バラの茂みを芽吹かせた。その日は3月であり、咲くはずのない季節外れの開花だった。

マンジェッリは、その花を持って司祭のもとへ赴いた。司祭たちは彼を信じ、聖母の願いを聞き入れることになった。



この聖母出現伝承が、聖域教会の起源となっている。
ロマーニャ方言で 「小さな梨の木」 のことを「ピラデル piradèl」と言い、この語が地名の基であると言われている。


1489年1月27日、この地の領主であったカテリーナ・スフォルツァは、教皇インノケンティウス8世から、教会と付属修道院を建設する許可を得、1491年に建設が始められた
教会の祝別(consacrazione)は、1492年3月27日(聖母のお告げの日の記念日)に行われた。

以後、イモラで最も古いマリア崇敬の中心地となった。

ピラテッロの聖母聖域教会(Basilica Santuario della Beata Vergine del Piratello)

簡単にピラテッロ聖母教会(Chiesa di Santa Maria del Piratello)とも呼ぶよう。
上記のように1491年、カテリーナ・スフォルツァが建築に着手した教会
ルガーノ出身の親方ドメニコ(Domenico)と、ジリオ・デッラ・ロビア(Zilio della Lobia da Lugano)の手によると言われている。

工事の進度は遅く、また計画が何度か変更されたため、完成は16世紀半ば。
中途だった教会の建築を1500年に受け継いだのが、新領主となったチェーザレである。
この時工事を手がけたのは、ジャンフランチェスコ・ジョブ(Gianfrancesco Job)と、アンドレア・ゲリエロ(Andrea Guerriero)であるよう。

Wikipedia、Author=Maurolattuga

Wikipedia、Author=Maurolattuga

チェーザレがこの教会建築に携わった証として、エミーリア街道に面する聖堂の壁(北東)には、チェーザレの紋章が掲げられている
(上の写真、左の丸窓の下。
左の写真はそのアップ。)



また、正面入口(南東)の門の上にも、チェーザレの紋章がある。
← 正面入口側(南東)からの教会。右側の通り沿いの壁に、上記の紋章が少し見えている。
→ 正面から見た正面入口。
ポルティコを支えている横棒(tirante)とチェーンが横切っていて邪魔だけれど、扉上部にあるのがチェーザレの紋章。
イモラ、ピラテッロ聖母教会 Wikipedia、Author=Seauton

Wikipedia、Author=Maurolattuga

← 紋章を拡大。
こんなに綺麗に残っているチェーザレの紋章、なかなかないよ!!
扉の外ではあるけれど、屋根があるからあまり劣化しなかったのかな?外壁のものよりも明らかに綺麗だし。

はっきりとわかってはいないが、鐘楼はチェーザレが建てたという説もある
1500年から1510年頃に、ブラマンテ(Bramante)の設計により建てられたということは確かなよう。


さらに1500年、チェーザレはここに「無原罪の御宿り(Immacolata Concezione)」の礼拝堂を建設し、そこに、レオナルド・ダ・ヴィンチの手による祭壇画を奉献した、という説がある。本当!!?

その祭壇画は、イモラ攻略時にピラテッロの聖性を知ったチェーザレが、
「もし武力に訴えることなくイモラを征服することができるなら、教会を完成させ、マリアの無原罪の御宿りを讃える小礼拝堂を建て、さらにそれに永続的な寄進(dote)を与えよう」
と誓願を立て、請願のとおりに実行した、というもの。

この祭壇画には、聖母の加護を求めて跪くチェーザレの姿を見ることができたという。
本当!!!??


レオナルド・ダ・ヴィンチは多くのメモやスケッチを残しているが、「パリ手稿L」は特にチェーザレに仕えていた時代に描かれたものである。
その中に「跪く騎士風の男性」の絵がある。

これ、この祭壇画のためのスケッチじゃないですかね!!?
この説、あり得るのでは!?


しかし。

レオナルド・ダ・ヴィンチはチェーザレの下で、絵画とは全く異なる分野で活躍していた。この時期のレオナルドは、軍事土木技術者として多大な仕事を請け負っており、大変に忙しかったはずである。
なのに、チェーザレに仕えていた時期は長くない。どんなに長く見積もっても1年ない。
そして何より、レオナルドの遅筆は有名である。
……無理!!

残念ながら、レオナルド・ダ・ヴィンチの祭壇画は、まず無理だと思われる。描きたいと思ってのスケッチは、したかもしれないが!


祭壇画がレオナルドの手によるものではなかったとしても、チェーザレの建てた「無原罪の御宿り」の礼拝堂があり、そこにレオナルド派に属する絵画が収めてあった……ということは、ありえるかも…しれない…?


事実、1501年、アレクサンデル6世はこの聖堂に、贖罪のための特別免償(indulgenza plenaria)など、さまざまな特権を与えている。
そしてその後、ユリウス2世もこれを承認している。そして1504年に、わざわざ聖母を崇敬するために訪れている。(修道士たちとともに、昼食をとったらしい。)
いや、ユリウス2世が祈ろうが食おうが、あまり関係はないけど…。


この礼拝堂と祭壇画の存在が肯定も否定もできないのは、
1557年、教会内に野営したフランス兵たちが、暖をとるために教会内の絵画の大部分を焼いてしまったからであり、
加えて、1798年、ナポレオン政権下のフランス軍により、教会が略奪されているからである。

どちらも破壊されてしまい、「チェーザレとレオナルドに所縁あるものがあった…らしい?」というはっきりしない記録だけが残っている。


イモラ、ピラテッロ聖母教会

1883年に修復された教会内部。
初期の装飾はほとんど失われているが、祭壇前にある壮麗な石製のバルダッキーノ(教会の祭壇の上にある天蓋のこと)だけは1494年頃のもの。つまりこれはチェーザレの時代に存在していた。
ピエル・セーヴェロ・ダ・ピアンカルドリ(Pier Severo da Piancaldoli)とアントニオ・ダ・レッジョ(Antonio da Reggi)による制作。

中央に、教会の主祭壇画である聖母像が収められている。15世紀の無名画家によるフレスコ画。

祭壇の白く光っているところにあるのが、この↓ 祭壇画

Wikipedia、Author=Sailko

↑ 主祭壇、正面から。
← → 主祭壇、裏口側のわきから
ステンドグラスも15世紀のもの。下絵はイモラ出身のグイドゥッチョ(Guiduccio da Imola)の制作。
イモラ、ピラテッロ聖母教会 イモラ、ピラテッロ聖母教会

イモラ、ピラテッロ聖母教会見取り図

教会のつくりがちょっと変わっていて、正方形の中庭囲むように建物があり、その南東の端部分のみが教会となっている。

そのせいか、祭壇が横向きに設えてあるように見える。
実際、身廊について「横方向に2つの身廊を持ち(a due navate trasversali)」とあるので、祭壇の位置は通常通りではなく、横向き(垂直方向)であると言っていいよう

おそらく「聖母マリアの小さな祠があったところ」を主祭壇にしているはずなので、増築していく際に元の聖母像の位置を動かすことができず、このような形になってしまったのではないだろうか。
(筆者の勝手な想像です。)

その祭壇を囲むように三方に座席が置かれている。
建物のその他の部分はフランチェスコ会修道院で、修道院の一部が博物館になっているよう。だが、詳細はわからない!
(わかる方、教えてください!)


← 裏口。
→ 裏口のポルティコと、そこからわずかに見える中庭。
イモラ、ピラテッロ聖母教会 イモラ、ピラテッロ聖母教会

← 裏口入ってすぐのところから、まっすぐに正面出入口を見たところ。
→ 中庭は、広大な霊園の一部(Campo Monumentale)になっていて、いくつかの彫像付き墓碑が置かれている。
イモラ、ピラテッロ聖母教会 Wikipedia、Author=Urban38

隣接している霊園(Cimitero del Piratello)は、本当に広い。
← 教会前にある霊園入口。
↓ → 霊園の一部。
イモラ、ピラテッロ霊園 Wikipedia、Author=Sailko

Wikipedia、Author=Urban38

イモラ、ピラテッロ霊園見取り図

霊園の見取り図を見ると、その大きさがわかる。
教会は右下のほんの一部。(茶色のところ。)
googleマップで見るともっとよくわかる。













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