パッツィ家の陰謀
パッツィ家の陰謀
ひと言で言うと
1478年、フィレンツェの銀行家パッツィ家が、教皇シクストゥス4世と共謀し、メディチ家の兄弟ロレンツォとジュリアーノを暗殺しようとした事件。
ロレンツォは首に傷を負っただけですんだが、ジュリアーノは刺殺された。
登場する人物
- ロレンツォ・デ・メディチ(29歳)・・・フィレンツェの実質的支配者。トスカーナ周辺(フィレンツェ周辺)の領有をめぐってシクストゥス4世と対立していた。
- ジュリアーノ・デ・メディチ(25歳)・・・ロレンツォの弟。美男子だったらしい。兄弟仲は良く、ロレンツォは彼を枢機卿に、と願っていた。
- フランチェスコ・デ・パッツィ(34歳)・・・フィレンツェの富裕な銀行家パッツィ家の末弟。メディチ家よりも歴史のある名家であったが、高慢な一家で庶民からの人気はなかった。シクストゥス4世によって、それまでメディチ家が担っていた教皇庁御用達銀行となる。
兄グリエルモはロレンツォの妹ビアンカと結婚しているので、メディチとは姻戚関係にある。*1
- フランチェスコ・デ・サルヴィアーティ・・・ピサ大司教。ロレンツォの承諾なしに、シクストゥス4世によって任命される。
(ピサの大司教の任命には、フィレンツェの承認を得る、という慣例があった。)
パッツィ家とは姻戚関係にある。
- ジャンパッティスタ・ダ・モンテセッコ・・・教皇庁に仕えていた傭兵隊長。ロレンツォの明哲でありながら、気さくで闊達な人柄に惹かれるが、否応なしに陰謀に参加させられる。
- ジローラモ・リアーリオ(35歳)・・・シクストゥス4世の甥。伯父の力でイモラの領主となる。
- ラファエーレ・リアーリオ・サンソーニ(16歳)・・・ジローラモの甥。サン・ジョルジオの枢機卿。ロレンツォ暗殺の作戦に利用される。
- フェランテ・ダラゴーナ(55歳)・・・ナポリ王。シクストゥス4世の要請により、フィレンツェ討伐に乗り出す。
※年齢は1478年、事件の起きた時のものです。
- その他暗殺計画の参加者
・・・その他10人近い人物が参加している。
経緯
対立の要因
- 1473年、教皇シクストゥス4世は、イモラの地をその所有者であるミラノ公ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァから購入し、甥のジローラモ・リアーリオに与え、彼の公国にしようと考えていた。
しかし、イモラはロレンツォ・デ・メディチの狙っていた地でもあった。
イモラのすぐそばファエンツァに、ロレンツォの勢力は浸透していたし、そこからより勢力を伸ばしたいと彼は考えていた。
ロレンツォ(メディチ銀行)は、教皇のイモラ購入資金貸付けを、拒否する。
が、シクストゥスは、メディチ銀行のライヴァルであるパッツィ銀行からの融資を受け、イモラを購入、ジローラモはイモラの伯爵となる。
ロレンツォは怒りに耐えるしかなかった。
- 1474年、教皇シクストゥス4世はフランチェスコ・デ・サルヴィアーティを、フィレンツェの大司教に任命しようとする。
しかしロレンツォはこれを承認せず、結局、フィレンツェ大司教の座は、ロレンツォの義弟リナルド・オルシーニのものとなる。
代わりに教皇は、ロレンツォの承認なしに、サルヴィアーティをピサ大司教に任命する。
ロレンツォはこれに抗議し、メディチと教皇の対立は深まる。
(翌1475年、ピサ大司教に関する休戦協定が結ばれ、サルヴィアーティは任命から1年経ってようやく、ピサ大司教に就任する。)
- シクストゥス4世は、対立教皇ヨハネス23世の時代から教皇庁御用達銀行であったメディチ銀行を退け、パッツィ銀行に乗り換える。
この行為は再びロレンツォを激昂させた。
- 一方、ロレンツォはフィレンツェの政権を握った直後、パッツィ家のほとんどの人々を公職から追放し、また1477年、ジョヴァンニ・デ・パッツィ(フランチェスコ・デ・パッツィの兄)の妻ベアトリーチェの相続するはずであった莫大な遺産を、彼女の従弟カルロ・ブォンロメオに渡るように画策した。
(カルロはメディチ派であったので、遺産の一部はメディチに入ったと思われる。)
(弟ジュリアーノはかなりこれに反対したが、ロレンツォは強行した。)
このことはパッツィ家に対し、大きな怒りと屈辱感を与えた。
こうして 教皇・パッツィ家 VS メディチ家 という対立が生まれた。
暗殺計画
1477年の1年を通して、フランチェスコ・デ・パッツィとサルヴィアーティ大司教を中心にする反メディチ派の面々は、ロレンツォ排除の計画を練っていた。
狩猟に誘い出して暗殺する、
教皇の名でローマに招聘して暗殺する、
可能ならば毒殺し、食中毒と見せかける、
などの計画が立てられては、頓挫する。
この間、ジローラモ・リアーリオは、暗殺にかかる全資金を教皇が負担するという条件を承認している。
教皇シクストゥス4世は姪の息子である16歳の枢機卿ラファエーレ・リアーリオを、利用することを考える。
すなわち、
大聖堂で
メディチの別邸にて、枢機卿ラファエーレの歓迎の宴が催されることになる。出席者の中には大司教サルヴィアーティ、騎兵の随員としてのモンテセッコも加わる。食事中の暗殺が計画される。
しかし宴の途中、ジュリアーノの欠席が知らされ、計画は延期される。
1478年4月26日、日曜日。
ラファエーレはサンタ・マリア・デル・フィオーレでのミサを希望する。
急遽、暗殺計画はここで行われることに決定する。
しかし神聖な場所での殺人を、傭兵隊長モンテセッコは拒否。
モンテセッコの代わりにフラーテ・アントーニオとフラーテ・ステファーノの二人(二人とも反メディチの聖職者)が実行を引き受ける。彼らはロレンツォを刺すということに決まる。
フランチェスコ・デ・パッツィとベルナルド・デ・バンディーニが、ジュリアーノの担当。
サルヴィアーティと他の人物はフィレンツェ政庁を占拠し、ヤコポ・デ・パッツィが暗殺成功と自由獲得の宣言をすることになる。
決行の時刻も決まった。
しかし、再びジュリアーノが姿を見せない。
暗殺者たちは焦りはじめる。
フランチェスコ・デ・パッツィは、聖堂からわずかに離れたところにあるメディチの宮殿へと、ジュリアーノを迎えに行く。
足を痛め、ミサを欠席するつもりだったジュリアーノだが、フランチェスコの勧めに従い、大聖堂へ行くことに。
歩きながらフランチェスコは、親しげにジュリアーノに触れ、彼が丸腰であることを確かめる。
ミサに集まっていたたくさんの人々は、ジュリアーノの来場を喜び、道をあける。
ジュリアーノは前面の合唱隊のところへたどり着き、みなに倣って跪く。
フランチェスコ・デ・パッツィは、彼の後ろにつき従っている。
ミサの終了後、サルヴィアーティ大司教は家族の不幸を理由に大聖堂を退出。
これをきっかけてして、フランチェスコはジュリアーノの背に短剣を突きたてた。
同時にバンディーニが飛びかかり、続けざまに胸部を刺した。
フランチェスコは狂ったようにジュリアーノを刺し、バンディーニはジュリアーノをかばおうとしたメディチ銀行の管理人フランチェスコ・ノリを斬った。
ジュリアーノは全身に19もの刺し傷があったという。
ロレンツォを刺す手はずとなっていた二人の聖職者はこの時になってはじめて我に返る。慌てて短剣を抜き、ロレンツォへと突きかかるが、首に傷を負わせるにとどまる。
ロレンツォは周囲の人々にかばわれつつ、聖具室へ逃げこむ。
大聖堂は大混乱に陥り、それはフィレンツェ中に広がる。
「イル ジュリアーノ エ モルテ! Il Giuliano e morte ! ジュリアーノが死んだ!」
叫びが響く。
「アバッソ イ トラディットリ! Abbatto i traditori ! 裏切り者を殺せ!」
「アバッソ イル ロレンツォ! Abbatto il Lorenzo ! ロレンツォを倒せ!」
メディチ派と反メディチ派がぶつかり合い、乱闘となった。
反メディチを扇動し、臨時政権を掌握しようとした暗殺者一派だが、
フィレンツェ市民の多くは圧倒的にメディチを支持し、
ジュリアーノの暗殺に衝撃と強い怒りを表した。
暗殺者たちの始末
大聖堂から逃げ出そうとした暗殺者の一人は捕らえられ、なぶり殺しの目にあった上、市中を引き回された。
「パッレ!パッレ! Palle! Palle! 」*2と怒号が響き、首謀者のフランチェスコ・デ・パッツィも大司教サルヴィアーティも首を縛られ市庁舎の窓から吊られた。
共謀者の面々は恐れおののき姿を隠したが、次々に発見され衆人環視の中拷問され、殺された。
ヤコポ・デ・パッツィはフィレンツェを脱出はしたものの、捕らえられ送還され、すぐさま処刑された。
遺体はパッツィ家廟に埋葬されたが、怒りに燃える民衆はそれを掘り起こし、引き回した末にアルノ河へ放擲した。女子どもまでが、手をたたいて喚声をあげたという。
傭兵隊長モンテセッコは尋問ですべてを告白した後に斬首(絞首刑の説も)された。彼の供述によりシクストゥス4世の関与など、事の真相が明らかにされた。
ベルナルド・デ・バンディーニ・バロンチェッリはコンスタンティノープルにまで逃亡。しかしメディチの追及はその地にまで及び、トルコのスルタン(皇帝)マホメット2世の手を経て、フィレンツェに連れ戻され、1479年12月に絞首刑に処された。
この時のバルジェッロ館の窓から吊るされたバンディーニを、レオナルド・ダ・ヴィンチがスケッチしたものが残っている。(「バロンチェッリの首吊り」と題されている。)
メディチ家とフィレンツェ市民の怒りはすさまじく、冤罪を含め100人近い人々が処刑された。
ナポリ軍との戦い(パッツィ戦争)
教皇シクストゥス4世は陰謀への関わりを否定。ロレンツォとフィレンツェ市民の報復措置を無為の大量虐殺として糾弾し、フィレンツェ全市を破門した。
そして、ナポリ王フェランテ・ダラゴーナにフィレンツェ討伐を要請する。
フィレンツェの支配するトスカーナ地方を狙っていたフェランテは大軍を率いてフィレンツェに向かった。
戦闘はだらだらと1年あまりつづく。
フィレンツェの財政は圧迫され、ロレンツォは国政を担うものとして、最大の危機を迎える。
1479年12月6日夜、ロレンツォは無謀とも言えるナポリ行きを決意する。直接フェランテと交渉し、和平を勝ちとるためである。
フィレンツェ市民に対し手紙を残し、ロレンツォはナポリへ出立した。
手紙には、自分が犠牲になってでも必ずフィレンツェの平和は守ってみせる、といった内容で、フィレンツェの市民は彼のその勇気ある行為に感動する。
3ヶ月以上にもおよぶナポリ滞在で、ロレンツォは卓越した外交手腕を発揮する。フェランテとの交渉を成功させ、和平の約束をとりつける。
フィレンツェは危機を脱し、ロレンツォの帰還を、フィレンツェ市民は熱狂し感涙して迎えた。
教皇シクストゥス4世は、フィレンツェとの和平を受け入れざるをえなくなり、しぶしぶこれに応じる。
パッツィ家と教皇の陰謀の失敗は、ロレンツォの人気に拍車をかけ、
ロレンツォの器の大きさを広く知らしめることになり、
君主としての彼の立場を不動のものとした。
※ 塩野七生の著作で、イモラは、
「カテリーナ・スフォルツァがジローラモ・リアーリオと結婚した時の持参金のひとつであった」
とされていますが、
パッツィ銀行を介しての、シクストゥス4世とミラノ公ガレアッツォ・スフォルツァ(カテリーナの父)との金銭授受があったことは、間違いのないようです。
(ちなみに、ジローラモとカテリーナの結婚は、1473年イモラの売買とほぼ同時に決定されますが、カテリーナはこの時まだ10歳であったので、遂行されるのは1477年になってから、だったようです。)
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