モンテフェルトロ
モンテフェルトロ家 (Montefeltro)
ウルビーノの公爵家。
グイドバルド・ダ・モンテフェルトロ(Guidobaldo I da Montefeltro)
(1472年1月24日 - 1508年4月11日)
ウルビーノ公フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロと、アレッサンドロ・スフォルツァ(フランチェスコ・スフォルツァの弟)の娘バッティスタ・スフォルツァの息子。グッビオ生まれ。
長男だけど、姉が6人はいる。(死産や早世した子を入れるともっといる。母バッティスタは11人も産んでグイドバルドを出産後亡くなっている。)
文学や芸術を愛する穏やかな人。たくさんの姉に囲まれた末っ子って感じする。
性的に淡白もしくは不能だったのでは、という話。実際子どもいないし。姉ジョヴァンナとジョヴァンニ・デッラ・ローヴェレの子フランチェスコ・マリア・デッラ・ローヴェレを養子にする。
ガンディア公ホアンに見捨てられたせいで、オルシーニの捕虜となったり(身代金も自分で払ってる・・・)、チェーザレには裏切られ攻撃されたり、反撃しても失敗して何度も自領から逃亡したり、とかなりのボルジア被害者。いい人そうなので可哀相。
しかし、1502年マジョーネの反乱でウルビーノに復帰した後、反乱の収束で再びウルビーノを去る時、城塞を破壊し宮殿を荒らしたと言われる。
腹いせにやったのか?そんなことするキャラには思えないんだけど。
エリザベッタ・ゴンザーガ(Elisabetta Gonzaga)
(1471年2月9日 - 1526年1月28日)
グイドバルドの妻。マントヴァのルドヴィーコ・ゴンザーガの娘で、フランチェスコ・ゴンザーガの妹。つまりイザベッラ・デステの義妹になる。
チェーザレにグイドバルドとの離婚を迫られても(ウルビーノとマントヴァの縁戚関係を断ち切ろうとした)拒否する。
教養のあるおとなしい女性だったよう。
フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ(Federico da Montefeltro)
(14226月7日 - 1482年9月10日)
グイドバルドの父。
スフォルツァのフランチェスコと並ぶ名将でありながら、学芸にも秀でていた「偉大なる文武の人」。彼の蒐集したウルビーノ宮廷の蔵書は、ヴァティカンやメディチのそれをしのぐと言われた。
寛大な性格で、民衆にも愛され支持された。
フィレンツェの人文学者でダンテ研究家のクリストフォーロ・ランディーノは、著作「カマルドリ論争」の中で彼を讃え、これをフェデリーコに献じている。
1450年、フランチェスコ・スフォルツァがミラノ公となったことを祝う馬上槍試合で、右目を負傷。左向きの横顔の肖像画が描かれているのは、このためだと言われている。
当時の肖像画が横顔で描かれるのは、ここに端を発すとも言われる。
鼻のつけ根がえぐれているのも、右目と同時に負傷したとされるが、残された左目で右側が見やすいように、自ら切り落とした!とも言われる。恐ろしい。
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バッティスタ・スフォルツァ(Battista Sforza)
(1446年1月 - 1472年7月7日)
グイドバルドの母、フェデリーコの妻。
ペーザロの領主アレッサンドロ・スフォルツァの長女。
1460年14歳で38歳のフェデリーコと結婚。8人の女児を出産した後、長男グイドバルドを出産。その半年後死去
フランチェスコ・マリア・デッラ・ローヴェレ(Francesco Maria I Della Rovere)
(1490年3月25日 - 1538年10月20日)
グイドバルドの甥で養子。
ユリウス2世(ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ)の甥でもある。
(ジュリアーノの弟ジョヴァンニと、グイドバルドの姉ジョヴァンナの子)
チェーザレの従兄弟ホフレ・ボルジアの娘であるアンジェラ・ボルジア(ホアン・ボルジア(シレンツィオ)の妹)と、一時婚約していた。
しかしもちろん、この結婚は果たされずに終わる。
1502年、チェーザレのウルビーノ進軍によりサヴォーナへ逃亡。ローヴェレ枢機卿の手を借りてフランスへ亡命する。
この時、セニガッリアの領主(僭主)の座を奪われるが、チェーザレの死後、教皇ユリウス2世となった伯父ローヴェレは、彼にセニガッリアを返還する。
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