人物紹介-その他の人々
その他の人々
- その他の人々は、名字をカタカナで表記した場合の、アイウエオで分けています。
- レオナルド・ダ・ヴィンチの場合、「ウ」で「ア行」、
- アルフォンソ・デステの場合、「エ」で「ア行」です。
※( )内に伊語で名前のないところはまだできていません
ア行
アッピアーノ家
アラゴーナ家(Aragona)(ナポリ王家)
アルブレ家(Albret)
イサベル女王(Isabel I de Castilla)
ヴァラーノ家
ヴィスコンティ家(Visconti)
ヴィッテリ家(Vitelli)
レオナルド・ダ・ヴィンチ (Leonardo da Vinci)

(1452年4月15日 - 1519年5月2日)
誰もが知ってる万能の天才。
17歳でヴェロッキオの工房に入り、フィレンツェで「受胎告知」などを描く。1482年からミラノのイル・モーロのもとで軍事技術者として務めるが、スフォルツァの没落とともにミラノを離れる。
1502年チェーザレのもとを訪れ、建設技術顧問・軍事設備顧問となる。チェーザレはかなり彼を信頼し重用していたよう。チェーザレがレオナルドに送った通行許可書が残っている。
完全主義者だったためか、広範な才のためか未完に終わった作品も多い。莫大な量のスケッチやメモを残している。チェーザレについて書かれたものは1ヶ所だけ「ヴァレンティーノ公はどこだ?」(アランデル手稿(大英博物館所蔵))。
また、26歳のチェーザレをスケッチしたものが残っている。(すごく陰鬱な気のめいる表情だ。なぜだ。)
菜食主義者だったとか男色家だったとか(裁判にかけられるも放免されている)いう話もある。
中田耕治「ルクレツィア・ボルジア 下」141ページにはミゲルと男色の関係にあったと想像する研究家もいる、とかいう記述がある。やめてよ・・・。どこの研究家だ。
→ 肖像画を見る
1452年
4月15日、フィレンツェの西27キロほどのヴィンチ村にて、セル(公証人の意味)・ピエロ・ダ・ヴィンチ(24)とカテリーナ・リッピ(16)との間に非嫡出子として生まれる。
嫡出子ではないので、父の後を継ぎ公証人になることを強いられず、画家引いては万能の人になり得た。とも言える。
しかし充分な教育を受けられず、当時の知識人の間では必須だったラテン語を学べなかった。大人になってから独学している。(動詞の活用を書いたものなどが残っている。)が、完全に習得はできなかったよう。
8ヶ月後、父ピエロはフィレンツェの靴職人の娘アルビエラと結婚。(この後全部で4回結婚し11人の子をもうける。)
カテリーナはピエロの計らいによりヴィンチ村の農夫アントニオ・ディ・ピエロ・デル・ヴァッカ(通称アカッタブリーガ)と結婚。
1457年
5歳の頃、父方の祖父アントニオとピエロの末弟フランチェスコとともに暮らしている記録が残っている。フランチェスコはレオナルドと15歳差で、彼をとてもかわいがっていた。
1464年
父ピエロの住むフィレンツェに移る。
1466年
アンドレア・デル・ヴェロッキオの工房に入る。
父ピエロはヴェロッキオの友人で彼の公証人を務めていた。コネで入ったのかもしれないが、ヴェロッキオはレオナルドの才能に瞠目したと言われる。
この頃ヴェロッキオ工房は大繁盛していた。
1470年

← 左は1470年頃に描かれたとされる布のスケッチ。
工房でよく行われていた修行のひとつで、粘土模型の上に石膏に浸した薄い布をかけ、デッサンした。おそらくダ・ヴィンチの作品であるとされている。
この頃からスフマート(物体が目に映るそのままに描く、輪郭線を描かない技法)を用いている。すごい!
1473年
レオナルドは長身で金髪の美しい巻き毛を持ち、鼻筋が通り顎は力強く頬や唇はふっくらとしていて、美青年だった。彼がモデルを務めたというダヴィデ像にその面影が垣間見える。

↑ 上はアルノ河の風景。
「1473年8月5日、雪の聖マリアの日」と鏡文字で書かれている。
ダ・ヴィンチ作品として確実な現存する最古のスケッチとされる。また、世界最古(最初)の風景画とも言われる。
この裏に「アントニオ(前述の祖父ではなく母親の夫。祖父はもう亡くなっているので。)といると心が満たされる」と書かれている。
里帰りして、義父(になるのか?)と一緒にお散歩でもして見た風景なのかも?きっと楽しかったんだね。
(「戦士像」→の方が古い(1472年)とする説もある。ガレアッツォ・マリア・スフォルツァとルドヴィーコ・イル・モーロのフィレンツェ訪問(1472年)にインスパイアされ描かれたものでは、と言われてるので。でも一般的にはアルノ河が最古。)
- 1478年頃までの作品
← 左は1470年頃から1480年頃にかけて描かれたとされるヴェロッキオの「トビアスと天使」。
トビアスの巻き毛、
トビアスの持つ魚、
天使の足下の仔犬、
をダ・ヴィンチが描いたとされるこの頃から巻き毛描くの得意だったんだね。
→ 右は1470年代に完成したヴェロッキオの「キリストの洗礼」。
左端の天使と背景の一部をダ・ヴィンチが描いた。
「ヴェロッキオはその出来栄えに驚愕し、もう自分は2度と絵筆は持たないと決心した。」とヴァザーリが書いていることで有名。
実際この後ヴェロッキオは彫刻の方に向かい、絵画の単独作品を残していないらしい。
↑ 上は「受胎告知」。1472年から1475年頃にかけて描かれた。
しかし構図的にマリアの右腕が長すぎる(届くはずない書見台に触れている)など、下手じゃない?と思われる部分も多く、ダ・ヴィンチの作ではない説もある。

← 左は「カーネーションを持つ聖母」。1473年から1478年頃。
キアロスクーロ(特定の色を濃くしていくことで濃淡をつけるのではなく黒を使って濃淡をひいては明暗を表す技法)が使われている。

→ 右は「ブノワの聖母」。1478年から1482年頃。
こちらもキアロスクーロ。
1476年と1479年に父ピエロは男子を授かっており、この頃ダ・ヴィンチはよく赤子のスケッチをしている。この2人の義理の弟がモデルではとも言われている。

← 左は「ジネーブラ・デ・ベンチの肖像」。1974年から1478年頃。
ダ・ヴィンチが初めて描いた肖像画。ベンチ家はメディチに次ぐと言われる銀行家。しかし発注者はジネーブラのプラトニックラバーだったベルナルド・ベンボと言われる。裏にベンボ家の紋章である月桂樹と棕櫚が描かれ、絵の具の下にベンボ家のモットー「徳と名誉」が書かれているので。
この絵、変じゃない?目死んでるし…。私は1番ダ・ヴィンチぽくないと思う!
1476年

ジャコポ・サルタレッリという17歳の少年と関係を持ったとして告発される。
証人が登場せず放免となる。
→ 右はその頃描かれたと思われる「聖セバスティアーノ」。2016年に発見されダ・ヴィンチの作品として認められた。
1477年
ヴェロッキオの工房から独立し、自分の工房を持つ。
しかしミラノに発つまでの5年間で、記録されている注文は3件。しかも2件は未完、1件は着手さえされていない。
ダ・ヴィンチの未完は有名だけど、仕事しなさすぎ!
1478年
シニョーリア宮殿礼拝堂の祭壇画の注文を受ける。おそらく父ピエロの口利き。しかし、下絵で終わっている。
1479年
「吊るされたバロンチェッリ」を描く。
1480年

この頃「荒野の聖ヒエロニムス」を描き始める。 →
この作品は大部分が1510年以降に加筆されていることがわかっている。この時期ダ・ヴィンチが理解していなかった胸鎖乳突筋が正しく描写されているから。(ダ・ヴィンチのこの頃のスケッチでは、この首の筋肉を間違って描画している。)
1481年
教皇シクストゥス4世の依頼により、システィーナ礼拝堂の内部装飾のためフィレンツェの芸術家たちがローマに招聘される。ギルランダイオ、ボッティチェッリ、ペルジーノが選出され、ダ・ヴィンチは選にもれる。

サン・ドナート修道院から「東方三博士の礼拝」の注文を受ける。これも父ピエロの口利き。
しかしこれも未完に終わる。ヴァザーリは「作品の構想があまりに壮大で難解であり、完璧なかたちにすることができなかった」と書いている。実際ダ・ヴィンチの理想はものすごく高く、兄弟子でもあったボッティチェッリの「東方三博士の礼拝」を批判している。
教会は同題の祭壇画をフィリッピーノ・リッピに依頼した。(皮肉なことに?フィリッピーノはボッティチェッリの弟子。)
右端のイエスを指差しながらあらぬ方向を見ている人物は自画像では?と言われている。
1482年
2月、ミラノへ移る。
フィレンツェからミラノへの外交上の派遣であったとも言われる。しかしダ・ヴィンチはミラノ公(仮)(この時はまだ摂政)ルドヴィーコ・スフォルツァへの自身の推薦状>関連アイテムも書いてるし、自らの意思で行ったんじゃないかな?
エウフレドゥッチ家 (Eufferducci)
エステ家 (Este)
マリア・エンリケス・デ・ルナ
(1474〜1539)
オルシーニ家(Orsini)
カ行
ジョヴァンノッツァ・カッタネイ(Giovannozza Cattanei)
(1442年(7月13日?)~1518年11月26日)
ヴァノッツァ・カタネイ(Vannozza Catanei)。
チェーザレ、ホアン、ルクレツィア、ホフレの母。
ペドロ・ルイスを彼女の長男とする説もあるが、認知証書には記されておらず、確定はしていない。またロドリーゴの2人の娘ジェローラマとイザベッラの母である説もあるが、これも確定されていない。むしろ否定派の方が多い。
ので、少なくとも4人、多くて7人の子の母親とされる。
1442年、マントヴァ生まれ。両親は貴族ではなく、中流の平民だった。彼女の幼少時のエピソードはほとんどわかっていない。
1460年、教皇ピウス2世の開いたマントヴァでの会議でロドリーゴ・ボルジアと出会い、彼の愛妾となる。
1470年頃にロドリーゴとの関係は始まったとも言われる。
1474年ローマに移り住み対世間的にドメニコ・ダリニャーノ(Domenico d'Arignano)と契約結婚。
1480年、シクストゥス4世の秘書ジョルジョ・デ・クローチェ(Giorgio della Croce)と再婚。
1482年頃、クローチェとの間にオッタヴィアーノという子を授かっているが、幼くして死亡している。
1486年、ゴンザーガ枢機卿の侍従カルロ・カナーレ(Carlo Canale)と再再婚。
ジョルジョ・クローチェとの結婚の前にアントニオ・ブレッチャ(Antonio de Brescia)との結婚があったとする説もある。
(生まれてすぐ、両親とともにローマに移り住み、ボルゴ地区で宿屋を経営していたという説もある。
この説でのヴァノッツァは、ロドリーゴの愛妾となる前に、枢機卿ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレとのつき合いがあったという。
ロドリーゴとの関係ができるのは、1465年から1469年の間としている。)
ロドリーゴとの愛人関係は、ホフレの生まれた頃からゆるやかに終息したようだが、ロドリーゴが教皇になって後もずっと、穏やかな愛情関係が続いたと言われる。
1503年、チェーザレがユリウス2世の捕囚となると危機を察知し、足繁くチェーザレのもとへ通いチェーザレの財産をヴァティカンから移動させた。
多数の家屋の家賃収入を持ち、数軒(3軒という説、4軒という説とある。)の旅館を経営していた。
宿の名は、
- ヴァッカ(vacca 牝牛)
- ビッシオネ(biscione 蛇)
- フォンターナ(fontana 噴水)
などが知られている。
商才に長けた女性だったよう。
ローマ、カンポ・デ・フィオーリのガッロ小路には、彼女の経営していたヴァッカの痕跡が今でも見られる。
豊満な体躯の美女で、ルクレツィアの金髪と緑の瞳は母親ゆずり、だって。
1497年にホアン、1507年にチェーザレ、1517年にホフレを亡くした後、1518年11月26日に死去。(日本語Wikipediaには24日となっているが、これは誤り。墓石の碑文に26日とあるので。)
晩年は慈善活動に勤しみ、パオロ・ジョーヴィオが「donna dabbene(高潔な女性)」と評したほどだった。ジョーヴィオは毒舌家で、チェーザレのことなんかはこき下ろしているので、これは相当な人徳者ぶりだったと思われる。
全財産をゴンファローネ修道会に寄付した。遺体は次男ホアンの眠るサンタ・マリア・デル・ポポロ教会に埋葬された。
しかし1527年、ローマ劫略の際、教会は襲撃され祭壇も破壊されてしまう。
現在はそれを修復したピエトロ・フェオーリの名にちなんだフェオーリ礼拝堂(Cappella Feoli)の説明パネルに、ボルジアの名が見られるのみ。
ヴァノッツァの墓は墓碑部分のみが残存しており、サン・マルコ教会に移されている。
彼女はロドリーゴ・ボルジアの愛妾ではなく、ロドリーゴの甥ギリアン・ラモン・ランソル・イ・デ・ボルハ(Guillen Ramon Lanzol y de Borja)の妻であったとする説もある。
(ギリアンはファナ・デ・ボルハ(ロドリーゴの姉妹)とペドロ・ギリアン・デ・ランソル・イ・ロマーニの長男。)
ヴァノッツァは本名ヴィオランタで、カタリーナ・デ・ボルハ(教皇カリクスト3世アロンソ・ボルハの妹)とホアン・デ・ミラの娘であるとされる。つまりロドリーゴにとってチェーザレたちは姉フアナの孫であり、叔母カタリーナのひ孫であるという二重の関係があったことになる。
この場合、ヴァノッツァの子どもたちは、ロドリーゴ・ボルジアがすでにイタリアに住んでいた時期にスペインで生まれたとされる。
ギリアンは1481年頃に死去、ヴァノッツァは子ども達を連れてローマに行き、叔父のロドリーゴに預けた。
長男のペドロ・ルイスはスペインに残り、アラゴン王フェルディナンドの宮廷で軍人としてのキャリアを積み、そこで若くして亡くなった。
昔からこの説はあったけれど少数派だった。が、近年有力視する研究者もチラホラ見られる。おそらく2013年に出版されたG.J.Meyer「The Borgias: The Hidden History」という著作の影響。
ロドリーゴの非嫡出子チェーザレに馴染んできた者としては眉唾と感じてしまうけど、論拠がきちんと記されているので、意外と説得力はある。
ドロテア・マラテスタ・カラッチョーロ(カラッチョロ)(Dorotea Malatesta Caracciolo)
(1478年4月26日 - 1527年7月)
ドロテア・ダ・クレーマ(Dorotea da Crema)とも。母親がマントヴァのクレーマ家の人だったよう。
チェーザレの愛妾のひとり。と言われている。
リミニの領主であったロベルト・マラテスタ(パンドルフォ・マラテスタの父)の庶出の娘。
叔母であるウルビーノ公妃エリザベッタ・ゴンザーガの下で育てられ、侍女として仕える。美人の誉れ高かったよう。
1500年、ヴェネツィアの歩兵隊長ジャンバッティスタ・カラッチョーロ(当時50歳)と結婚。
1501年2月13日、夫のもとへ行くためにウルビーノからロマーニャを経由してヴェネツィアへ行く途中、ポルト・チェゼナティコとチェルヴィアの間で、チェーザレ配下のスペイン人傭兵隊長ディエゴ・ラミレスによって拉致される。
ディエゴは20〜25人の男たちを使い、ドロテアとともに侍女の1人も連れ去った。護衛の兵士には死者も出た。
この誘拐はドロテアを欲しがったチェーザレの命令だったとも言われるが、ディエゴ個人の仕業でありチェーザレは関与していないという説もあり、はっきりとわかっていない。
また誘拐ではなく、彼らは恋仲で駆け落ちのようなものだったとも言われる。(主犯がわかっていないので、「彼ら」とはチェーザレとドロテア、ディエゴとドロテアどちらのパターンも指す。)
が、それ以降彼女はチェーザレの愛妾として、2年以上を過ごしたと言われる。
実際1502年、ドロテアはイモラでチェーザレの隣にいるところを目撃されているし、同年ローマにも一緒に行っているし、1504年、チェーザレ没落後に夫の元に帰っている。
チェーザレの庶出の娘カミラ・ルクレツィアは、ドロテアの娘ではないか、という説もある。
しかしチェーザレはヴェネツィアの怒りを恐れてか、ドロテアとの関係を否定し続けた。
(犯行はドロテアの恋人ディエゴ・ラミレスのやったことであるとし、その処罰を約束もしている。しかし処罰していない。)
誘拐事件直後には「私は無理矢理拐わなければならないほど女に不自由していない」と言ったそう。言いそう。
チェーザレはこの事件の直前に愛人だったドゥルーシラ(ルクレツィアの侍女)と別れているので(ドゥルーシラはルクレツィアのフェラーラ行きについて行った)、淋しくてつい…とかあるかも?(ないか)
また、チェーザレはジャンパオロ・バリオーニの妹で、バルトロメオ・ダルヴィアーノの妻となるペンテジレーア・バリオーニを拉致した疑惑もあるので、……犯人はお前だろが!!という気がしないでもない。
しかしそうすると、ディエゴ・ラミレスは、やってもいない犯行を自分に押しつけたチェーザレに尽くしたということになってしまう。(ディエゴは最後までチェゼーナの城代として城塞を守った)
むしろ誘拐はディエゴ個人の仕業で、チェーザレは黙認してくれた、だから感謝していたという方が納得できる。
ディエゴはチェーザレの臣下になる前には、グイドバルド・モンテフェルトロの傭兵隊長としてウルビーノにいたので、ドロテアと恋仲になっていてもおかしくはない。
事件前のカーニバルを、チェーザレの軍はウルビーノで楽しんだようなので、再会して燃え上がった説ありえる。
ドロテアは解放されてからも一切何があったかを話していないので、真相は藪の中。
自分に都合のよい嘘をいくらでもつけたろうに何も言わなかったのは、慎重で思慮深い人だったのかなという印象。沈黙は金。
1503年、アレクサンデル6世の死後修道院に逃れ、1504年2月4日、ファエンツァへ赴き、夫ジャンバッティスタとともに暮らすようになった。
彼との間に4人の子どもをもうけている。
1527年7月、おそらくペストによって死去。
ペドロ・カルデロン(Pedro Calderón)
(ペドロ・カルデス Pedro Caldes)
ベルトランド・コスタビリ(Beltrando Costabili)
(1456年頃 - 1519年6月)
フェラーラの在ローマ大使。
ミラノ駐在大使アントニオ・コスタビリの兄弟。
エステ家の管財人であり、教皇庁に対するエステ家の弁士という役割も担っていた。
ボルソとエルコレ1世デステの秘密顧問であったリナルド・コスタビリの子として生まれた。
1507年8月27日、ニッコロ・マリア・デステの後任としてアドリアの司教に。
1501年、ルクレツィア・ボルジアとアルフォンソ1世デステの婚姻を仲介。
1503年、アレクサンデル6世崩御を報告。
「教皇の遺体は今日サン・ピエトロに置かれており、見た目は非常に醜く黒く腫れ上がり、毒物が入ったのではないかと多くの人が疑っている」と書いている。
チェーザレがユリウス2世に裏切られ落ちていく様子も逐一報告している。
腹立たしいけど、彼のおかげでけっこう具体的なことがわかっている。
1517年8月23日、ミラノ大司教に。
1519年6月、ローマで死去。
コロンナ家(Colonna)
ゴンザーガ家 (Gonzaga)
ゴンサロ・フェルナンデス・デ・コルドバ(Gonzalo Fernández de Córdoba)
(コンサルヴォ・ディ・コルドヴァ Consalvo di Cordova)
(ゴンザーロ、ゴンサルヴォ)
サ行
サッヴェリ家
シャルル8世
ジローラモ・サヴォナローラ(Girolamo Savonarola)
(1452年9月21日~1498年5月23日)
フェラーラ生まれ。
父はニッコロ・サヴォナローラ、母はエレナ・ボナコルシ。
サヴォナローラ家はパドヴァの武人の家で、ボナコルシ家はゴンザーガ家にその地位を奪われるまで、マントヴァの僭主であった。(13世紀から14世紀初頭頃)
祖父ミケーレ・サヴォナローラはフェラーラの君主エステ家の侍医であり、ジローラモは彼から教育を受けた。
7人兄弟姉妹の3番目。兄と弟と妹を2人ずつ持つ。
フェラーラの大学で哲学、神学、医学を学び、22歳の時にドメニコ会修道士となる。
1482年、フィレンツェのサン・マルコ修道院に転院。フィレンツェの権力者メディチ家と、その下で贅沢に放漫に生きる人々を痛烈に批判、信仰に立ち返った清貧な生き方を説く。(これを宗教改革のはじめととる向きもある。)
激烈な説教はフィレンツェ市民の心を揺り動かし、信奉者の数は徐々に拡大、メディチの当主ロレンツォ・デ・メディチをおびやかすまでになる。
1494年、フランス王シャルル8世のイタリア侵攻時に、これを予言していたことで、彼の人望と名声は最高に。(本当に予言していたよう。)
逆にメディチの新当主ピエロは、愚昧な動きによって市民の怒りを買い、メディチ家は追放されてしまう。
フィレンツェはサヴォナローラが実権を握る共和制となる。
厳格に禁欲を説くサヴォナローラの改革は、生活、文化のあらゆる方面におよび、絵画や彫刻、書物、鏡、チェス板などまでもぜいたく品として焼却された。(「虚飾の焼却」と言われる。)
その一方、彼は当時の最新機器である印刷機を用い、自らの著作を大量に頒布するなど、実際的で世俗的な活動に精力的でもあった。著作はラテン語だけでなく口語でも出版された。これは、彼が文字や印刷物の力を重視していた、政治的才能を合わせ持つ人物であったことを示している、とも言われる。
1496年5月、教皇の密使としてボルジア三兄弟のいずれかが、サヴォナローラのもとを訪れる。チェーザレであったという説が有力。
表向きは「サヴォナローラの助言を求める」という来訪理由であったが、実際はフランス王シャルル8世との和解交渉仲介依頼だったとされる。
1497年5月13日、教皇庁を批判したかどで、教皇アレクサンデル6世はサヴォナローラを破門する。
この頃には、サヴォナローラの独裁的な神権政治に対する反発者が増え、民心はだいぶ失われていた。
1498年、対立するフランチェスコ会からの要請「火の試練」(真の預言者なら火の中を歩けるはずだ、と挑戦された。)を拒否したことをきっかけに、4月8日、フィレンツェの人々はサン・マルコに彼を襲撃する。
サヴォナローラは捕縛され、拷問を受け、5月23日、シニョーリア広場にて絞首された上に火に焼かれた。
この時、アレクサンデル6世の命により、ドメニコ会の修道僧とともにフィレンツェに赴き、サヴォナローラへの尋問と死刑判決を行ったのはフランチェスコ・レモリーネスだった。
忠実な2人の弟子、ドメニコ・ダ・ペーシャ(Domenico da Pescia)とシルヴェストロ・マルッフィ(Silvestro Maruffi)が運命をともにした。
遺灰は信仰の対象にならないように、アルノ河に捨てられた。
サヴォナローラ亡き後、フィレンツェは共和制政府が樹立され、ゴンファロニエーレ(行政長官)ピエロ・ソデリーニの書記官として、マキァヴェッリが活躍することになる。
スフォルツァ家 (Sforza)
スペイン王家
タ行
ティベルティ家
ドゥルーシラ(Drusilla)
フィアンメッタに次ぐ、チェーザレの2番目の愛人として名の残る人物。
ルクレツィアの侍女。1502年1月、ルクレツィアとアルフォンソ・デステの結婚でルクレツィアに同行し、フェラーラに移り住んでいる。ので、チェーザレとの関係はその時点で終了したと思われる。
(ドロテアが現れたから?)
しかしチェーザレはドゥルーシラがフェラーラへ発つのを悲しんだという説もある。
2人の関係は周囲にもよく知られていて、詩人ファウスト・エヴァンジェリスタ・マッダレーニは彼女の出発の際のチェーザレの悲しみの詩を書いている。
チェーザレの庶出の子ジローラモ(イザベッラ・ピッツァベルナリと結婚、後にカルピ伯の娘イザベッラと結婚。2人の娘イッポーリタとルクレツィアを残す。)と、
カミラ・ルクレツィア(フェラーラのサン・ベルナルディーノ修道院の女子修道院長となる。1573年に死去。)の母は、彼女ではないかと言われている。
ドロテア
ナ行
ハ行
パッツィ家(Pazzi)
バリオーニ家(Baglioni)
ピッコローミニ家(Piccolomini)
ファルネーゼ家 (Farnese)
フィアンメッタ
→ マ行(ミケーリ)
フェルモ家
フランス王家
ギョーム・ブリソネ(Guillaume Briçonnet)
ヨハン・ブルカルド(Johannes Burckard)
(1445年から1450年の間~1506年5月16日)
フランス、アルザス地方生まれのドイツ人。
スイスの歴史家ブルクハルト(Jacob burckhardt)(1818-1897)と間違えられがち。(私だけ?)(全然違う人だけど、どちらもすぐボルジア家に毒殺された〜的なことを言う)
司教であり、教皇庁書記長、教皇庁式部官。
彼の「Liber notarum」(日誌)はルネサンス教皇の生活を知る、重要な歴史的文献である。
が、彼の過剰な想像力で書かれている部分も多く、教皇庁の乱交や殺人などのスキャンダラスなできごとについての信頼性は低い。
ボルジア家もかなり悪し様に書かれている。惣領冬実は「反ボルジアであったユリウス2世の在位時に、捏造された可能性が高い」と推測している。(惣領冬実@web work's Information 2009/02/02))
非常に詳細に書かれる教会儀式のしきたりや式典の記録などは、価値あるものとされている。
貧しい家庭の出身であったが、サン・フィレンツォ教会の教育を受け、
1467年、ストラスブールの司祭書記、司教座聖堂参事会員となる。が、しかし、すぐに書類偽造で小銭を稼いでいたことが発覚、その地位を追われる。
同年、ローマへ出る。
1471年、教皇パウルス2世に引き立てられ、教皇庁に入る。
1483年、教皇シクストゥス4世の式部官になってから、
インノケンティウス8世、
アレクサンデル6世、
ピウス3世、
ユリウス2世、
と続く教皇全てに仕え続けた。
1503年、オルテ(ローマの北方60キロくらいの小都市)とチヴィタ・カステッラーナ(オルテとローマの間の小都市)の司教に。
- ブルカルドの采配した主な式典
1493年12月 | ナポリ王フェデリーコのローマ訪問 |
1494年5月 | ナポリ王アルフォンソ2世の戴冠式 |
ホフレ・ボルジアとサンチャ・ダラゴーナの結婚式 | |
1494年11月 | フランス王シャルル8世の歓迎式典 |
1499年12月 | 降誕祭における聖年の布告 |
1502年1月 | アレクサンデル6世のピオンビーノ訪問 |
1503年8月 | アレクサンデル6世の葬儀 |
1506年5月、ローマにて死去。死因は痛風。サンタ・マリア・デル・ポポロ教会に埋葬された。
ペトゥルッチ家(Petrucci)
ベンティヴォーリオ家 (Bentivoglio)
ボーモン家(Beaumont)
マ行
ニッコロ・マキァヴェッリ(Niccolò Machiavelli)
(1469年5月3日 - 1527年6月21日)
(マキャヴェリ)(マキャベリ)(マキァヴェリ)
フィレンツェ共和国の書記官、外交官。政治思想家、文筆家。
1498年5月、新政権が発足し、経験の浅さに関わらず192フローリンという高額の年俸で第二大法官秘書官に選出される。
→ 肖像画を見る
マクシミリアン1世
マラテスタ家
→ 肖像画を見る
マンフレディ家 (Manfredi)
フィアンメッタ・ミケーリ(Fiammetta Michaelis)
(1465年?-1512年2月19日)
1493年から、チェーザレの愛人だったという赤毛の高級娼婦。フィレンツェ生まれ。
1478年、13歳の時に、同じく娼婦だった母とともにローマへ。すぐに枢機卿ジャコモ・アンマンナーティーの愛人となる。
1479年、約1年半あまりのつき合いの後、アンマンナーティーは財産のほとんど全てをフィアンメッタに残して死去する。
枢機卿が娼婦に遺産を正式に譲渡、というのはとても衝撃的なできごとであったらしく、時の教皇であったシクストゥス4世はこの遺言の執行に反対、特別委員会を設ける。
委員会はフィアンメッタの取り分を縮小するが、アンマンナーティの所持していた、
・ヴァティカン近くの小家屋つきぶどう園
・サンティ・シモーネ・ジュダ教会近くの塔のある家
・アッカスパルタ通りの開廊のある家
・コロナリ通りの家
の4つの不動産は彼女のものとなった。
(太字の2つの家屋は今もローマ、テヴェレ河沿いのポンテ地区に残っている。
サンティ・シモーネ・ジュダ教会もその近辺に存在する。)
フィアンメッタはヴァティカン近くのぶどう園を住居とし、他を賃貸物件にして、年に約26ドゥカートの賃貸収入を得た。
チェーザレは武装して(この頃のローマはとても治安が悪かった。)、そのぶどう園に毎夜通っていたと言う。かなり彼女に執心していたらしい。
ちなみに1493年当時、チェーザレ18歳、フィアンメッタ28歳。
フィアンメッタの死後、これらの不動産は彼女の息子アンドレア(書類上は「弟」とされている。チェーザレの子ではないよう。)に譲られている。
ルネッサンス期の娼婦は、
・通りに立ち客を呼び込む下級娼婦
・賑やかな祝祭時のみに商う娼婦
・詩を暗誦しさまざまなテーマにおける討論をも行える、学識豊かな高級娼婦
などいくつかのカテゴリに分けられる。
フィアンメッタは知的な高級娼婦であったとされる。
ラテン語を話し、オウィディウスとペトラルカを暗唱し、巧みに歌い、古代ギリシャの弦楽器キタラを演奏したという。
敬虔で信心深かった彼女は、教会への寄進も多く行い、1506年からサン・タゴスティーノ教会、入ってすぐ左に礼拝堂を所持していた。
(現在カラヴァッジョ「ロレートの聖母」のあるところ。)
死後ここに埋葬されるが、反宗教改革時に破壊されてしまった。
メディチ家 (Medici)
モンテフェルトロ家 (Montefeltro)
ヤ行
ラ行
リアーリオ家(Riario)
ルイ12世
ローヴェレ家 (Rovere)
ローマ教皇(13世紀末〜16世紀中頃)
ワ行
ボルジア家の人々
チェーザレの忠臣
各国語人名表
27982 2 2