チェーザレ・ボルジアについて、とりとめのないけれど愛に満ちた探究心を発揮するサイトです。

チェーザレ周辺の人々

人物紹介-その他の人々

その他の人々

  • その他の人々は、名字をカタカナで表記した場合の、アイウエオで分けています。

※( )内に伊語で名前のないところはまだできていません




ア行

アッピアーノ家


アラゴーナ家(Aragona)(ナポリ王家)


アルブレ家(Albret)


エジディオ・アルボルノス(Egidio Albornoz)

ジル・アルバレス・カリージョ・デ・アルボルノス(Gil Álvarez Carrillo de Albornoz)
(カリージョCarrilloは付かない説もある)

(1302? - 1310年頃 〜 1367年8月23日)
スペイン人枢機卿。
教皇の権威と教皇領を回復するため、教皇インノケンティウス6世によってイタリアに派遣された、文武両道の聖職者。
(14世紀、教皇庁はローマではなくアヴィニヨンにあり、イタリアは荒廃していた。教皇領はローマ貴族や台頭してきた在地の領主に私領化され、事実上解体していた。チェーザレの時代と同じですね!)
彼もチェーザレ同様に抜群の軍事的・政治的能力で、ローマをはじめロマーニャやマルケの教皇領回復に成功した。


1302年か1303年、または1310年(はっきりわかってなさげ)、カスティーリャ王国クエンカ、カラスコサ・デル・カンポ(Carrascosa del Campo)生まれ。
レオン王国貴族の父とアラゴン王国貴族の母に間に生まれたと言われるが、これは後世の作り話とも言われる。
1338年、トレド司教に。
1335年、教皇ベネディクトゥス12世の戴冠式に。レコンキスタへの支援を求め受理される。
1336年、ナヴァーラ王国との休戦協定を結ぶ。
1340年、リオ・サラドの戦い(レコンキスタの一環)で、カスティーリャ王アルフォンソ11世の命を救う。
1342年、ベネディクトゥス12世崩御、新教皇クレメンス6世に。
1344年、アルヘシラス占拠(レコンキスタの一環)に参加。
1350年、ジブラルタル攻囲戦(レコンキスタの一環)に参加。

レコンキスタには教皇公使として立ち会ったが、戦闘に加わり武勲を上げたとも言われる。

同年、アルフォンソ11世死去。アルボルノスはアヴィニヨンへ。教皇の外交使節を務めるようになる。
1352年、教皇クレメンス6世が崩御。新教皇インノケンティウス6世に。

1353年、ローマ教皇庁公使兼教皇庁総督に就任。教皇領奪還のためイタリアへ派遣される。
これは資金も乏しく、政治的にも軍事的にも不可能に近い壮大な任務だった。
しかし!!

1354年、ディ・ヴィーコ家(ヴィテルボ、オルヴィエート、コルネートの僭主)を支配下に。(ヴィテルボ、オルヴィエート、コルネート奪還)
1355年、マラテスタ家を支配下に。(リミニ、ペーザロ奪還)
これを受けモンテフェルトロ家も支配下に。(ウルビーノ、カーリ奪還)
1356年、マンフレディ家を支配下に。(ファエンツァ奪還)
1357年、オルデラフィ家を支配下に。(フォルリ、フォルリンポーポリ、チェゼーナ奪還)


この時、フランチェスコ・オルデラフィ(Francesco Ordelaffi)の妻、マルツィア・ウバルディーニ(Marzia degli Ubaldini)(愛称はチア Cia)は徹底抗戦の構えを見せ、チェゼーナの城塞に立て籠った。
(カテリーナ・スフォルツァじゃん!!)
(フランチェスコはフォルリで頑張っていた。)

(チアは1354年にも、チェゼーナの城壁まで進軍してきたアルボルノスの軍を撃退している。この時の彼女は、武装して馬に乗り、戦いを扇動したと言う。)

チェゼーナの民衆は領主に反旗を翻し、アルボルノスを支持する。
(アルボルノス…チェーザレじゃん!!)
チアは少数の傭兵を率い、息子シニバルドと娘オネスティーナとともに、ムラタと呼ばれる城塞(ポポロ広場のロケッタがあるところ)に退却しなければならなかった。
怒りに猛ったチアは、捕虜として連行したチェゼーナの民衆を反乱を煽動した罪で斬首し、城壁の上から投げ落とした。
また2人の傭兵隊長も裏切りを疑い斬首した。(後で夫に叱られた。)

続く数日間、チアの指揮下にあった兵士たちは、街の中心部に火を放ち、街を略奪した。

しかし約1ヶ月後、城塞はガレオット・マラテスタとロベルト・アリドシ率いる教皇軍(ハンガリー人傭兵とチェゼーナの反乱軍)によって征服された。

チアは、貯水池を空にし、主塔の基礎を掘り崩しながら掘った地下トンネルを通って、逃亡しようとした。が、捕えられた。

アルボルノスはチアとその一族を、イタリアでの彼の本宅であったアンコーナのアルボルノス城塞(今はもうない)の牢に投獄した。

アルボルノスが戦線を離脱しアヴィニヨンに行ったりしたため、フランチェスコ・オルデラフィは1359年までフォルリを保持した。
しかし1359年、イタリアに戻って来たアルボルノスに占拠された。
これを受けてチア達は釈放された。

その後フランチェスコはヴェネツィア共和国の軍務に就く。が、チア・ウバルディーニの消息は途絶えており、没年もわかっていない。
(1374年、1381年など色々言われている。
ちなみに生年もわかっていないが、1317年としているものが多い。これが正しければチェゼーナ籠城時40歳。)

おそらくフォルリで死去。フォルリのサン・タゴスティーノ教会で葬儀が行われ、夫とともに聖フランチェスコ教会に埋葬された。(どちらの教会も現在はもうない。)

彼女の名前はチェゼーナのマラテスティアーナ城塞入り口前の通りに、チア・デッリ・オルデラフィ通り(Via Cia degli Ordelaffi)として残っている。
また、ウバルディーニ家の所領であったパラッツオーロ・スル・セニオ(Palazzuolo sul Senio)(トスカーナ州の街)の紋章に描かれている2つの塔の間にいる女性は、チアであるとされている。



1360年、ヴィスコンティ家と調停。(ボローニャ奪還)

チェーザレ顔負けの怒涛の勢い!!
彼は戦闘によってだけではなく、策略で不戦勝したりもしている。
マラテスタ家のガレオット・マラテスタや、カメリーノの領主ロドルフォ・ダ・ヴァラーノを、忠実な指揮官として配下に置いたりしている。かっけーー!


1355年頃から、「要塞化政策(politica delle Rocche)」開始。ロマーニャ、マルケ、ウンブリア、ラツィオといった教皇領の縦軸に沿って、要塞(城塞)を建築することに注力する。
教皇領の戦略的拠点を軍事化することで制御下に置き、民衆にローマ教会権威を効果的に示威するためだった。
よって、アルボルノスの名前の城塞建築が各地に残っている。

アルボルノスの名前はないけど、アルボルノスが建てた城塞

  • アッシジ
    マッジョーレ城塞 Rocca Maggiore

アルボルノスが建てた、現在は残っていない城塞

  • アンコーナ
    アルボルノス城 Fortezza Albornoz(アンコーナの教皇城塞 La rocca papale di Ancona、サン・カタルド城塞 Rocca di San Cataldo、インノチェンツィアーナ城塞 Rocca innocenziana di Ancona)

※ 多分他にもあります。
ご存知でしたら教えてください!


1357年、教会国家の国制を定めた「Liber Constitutionum Sanctae Matris Ecclesiae」(通称「エジディオ憲章(Costituzioni egidiane)」)を公布。
1364年、ボローニャにスペイン王立大学(Real Colegio Mayor de San Clemente de los Españoles)設立。
1367年8月24日、ヴィテルボにて死去。アッシジのサン・フランチェスコ大聖堂に埋葬され、4年後にトレド大聖堂に移された。
この時の葬列は長く長く続き、柩はトレドまでの道中1度も地面に降ろされることがなかったと言われている。ちょっと泣ける。





イサベル女王(Isabel I de Castilla)

→ スペイン王家




ヴァラーノ家


ヴィスコンティ家(Visconti)


ヴィテッリ家(Vitelli)




レオナルド・ダ・ヴィンチ (Leonardo da Vinci)

→ レオナルド・ダ・ヴィンチ




エウフレドゥッチ家 (Eufferducci)


エステ家 (Este)


マリア・エンリケス・デ・ルナ

(1474〜1539)


オルシーニ家(Orsini)






カ行

ジョヴァンノッツァ・カッタネイ(Giovannozza Cattanei)

(1442年(7月13日?)~1518年11月26日)
ヴァノッツァ・カタネイ(Vannozza Catanei)
チェーザレ、ホアン、ルクレツィア、ホフレの母。
ペドロ・ルイスを彼女の長男とする説もあるが、認知証書には記されておらず、確定はしていない。またロドリーゴの2人の娘ジェローラマとイザベッラの母である説もあるが、これも確定されていない。むしろ否定派の方が多い。
ので、少なくとも4人、多くて7人の子の母親とされる。

1442年、マントヴァ生まれ。両親は貴族ではなく、中流の平民だった。彼女の幼少時のエピソードはほとんどわかっていない。
1460年、教皇ピウス2世の開いたマントヴァでの会議でロドリーゴ・ボルジアと出会い、彼の愛妾となる。
1470年頃にロドリーゴとの関係は始まったとも言われる。
1474年ローマに移り住み対世間的にドメニコ・ダリニャーノ(Domenico d'Arignano)と契約結婚。
1480年、シクストゥス4世の秘書ジョルジョ・デ・クローチェ(Giorgio della Croce)と再婚。
1482年頃、クローチェとの間にオッタヴィアーノという子を授かっているが、幼くして死亡している。
1486年、ゴンザーガ枢機卿の侍従カルロ・カナーレ(Carlo Canale)と再再婚。
ジョルジョ・クローチェとの結婚の前にアントニオ・ブレッチャ(Antonio de Brescia)との結婚があったとする説もある。

(生まれてすぐ、両親とともにローマに移り住み、ボルゴ地区で宿屋を経営していたという説もある。
この説でのヴァノッツァは、ロドリーゴの愛妾となる前に、枢機卿ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレとのつき合いがあったという。
ロドリーゴとの関係ができるのは、1465年から1469年の間としている。)

ロドリーゴとの愛人関係は、ホフレの生まれた頃からゆるやかに終息したようだが、ロドリーゴが教皇になって後もずっと、穏やかな愛情関係が続いたと言われる。

1503年、チェーザレがユリウス2世の捕囚となると危機を察知し、足繁くチェーザレのもとへ通いチェーザレの財産をヴァティカンから移動させた。

多数の家屋の家賃収入を持ち、数軒(3軒という説、4軒という説とある。)の旅館を経営していた。
宿の名は、

  • ヴァッカ(vacca 牝牛)
  • ビッシオネ(biscione 蛇)
  • フォンターナ(fontana 噴水)

などが知られている。
商才に長けた女性だったよう。
ローマ、カンポ・デ・フィオーリのガッロ小路には、彼女の経営していたヴァッカの痕跡が今でも見られる。
豊満な体躯の美女で、ルクレツィアの金髪と緑の瞳は母親ゆずり、だって。

1497年にホアン、1507年にチェーザレ、1517年にホフレを亡くした後、1518年11月26日に死去。(日本語Wikipediaには24日となっているが、これは誤り。墓石の碑文に26日とあるので。)

晩年は慈善活動に勤しみ、パオロ・ジョーヴィオが「donna dabbene(高潔な女性)」と評したほどだった。ジョーヴィオは毒舌家で、チェーザレのことなんかはこき下ろしているので、これは相当な人徳者ぶりだったと思われる。
全財産をゴンファローネ修道会に寄付した。遺体は次男ホアンの眠るサンタ・マリア・デル・ポポロ教会に埋葬された。

しかし1527年、ローマ劫略の際、教会は襲撃され祭壇も破壊されてしまう。
現在はそれを修復したピエトロ・フェオーリの名にちなんだフェオーリ礼拝堂(Cappella Feoli)の説明パネルに、ボルジアの名が見られるのみ。
ヴァノッツァの墓は墓碑部分のみが残存しており、サン・マルコ教会に移されている。


閑話休題    閑話休題    閑話休題

彼女はロドリーゴ・ボルジアの愛妾ではなく、ロドリーゴの甥ギリアン・ラモン・ランソル・イ・デ・ボルハ(Guillen Ramon Lanzol y de Borja)の妻であったとする説もある。
(ギリアンはファナ・デ・ボルハ(ロドリーゴの姉妹)とペドロ・ギリアン・デ・ランソル・イ・ロマーニの長男。)

ヴァノッツァは本名ヴィオランタで、カタリーナ・デ・ボルハ(教皇カリクスト3世アロンソ・ボルハの妹)とホアン・デ・ミラの娘であるとされる。つまりロドリーゴにとってチェーザレたちは姉フアナの孫であり、叔母カタリーナのひ孫であるという二重の関係があったことになる。

この場合、ヴァノッツァの子どもたちは、ロドリーゴ・ボルジアがすでにイタリアに住んでいた時期にスペインで生まれたとされる。

ギリアンは1481年頃に死去、ヴァノッツァは子ども達を連れてローマに行き、叔父のロドリーゴに預けた。
長男のペドロ・ルイスはスペインに残り、アラゴン王フェルディナンドの宮廷で軍人としてのキャリアを積み、そこで若くして亡くなった。

昔からこの説はあったけれど少数派だった。が、近年有力視する研究者もチラホラ見られる。おそらく2013年に出版されたG.J.Meyer「The Borgias: The Hidden History」という著作の影響。
ロドリーゴの非嫡出子チェーザレに馴染んできた者としては眉唾と感じてしまうけど、論拠がきちんと記されているので、意外と説得力はある。




ドロテア・マラテスタ・カラッチョーロ(カラッチョロ)(Dorotea Malatesta Caracciolo)

(1478年4月26日 - 1527年7月)
ドロテア・ダ・クレーマ(Dorotea da Crema)とも。母親がマントヴァのクレーマ家の人だったよう。
チェーザレの愛妾のひとり。と言われている。
リミニの領主であったロベルト・マラテスタ(パンドルフォ・マラテスタの父)の庶出の娘。
叔母であるウルビーノ公妃エリザベッタ・ゴンザーガの下で育てられ、侍女として仕える。美人の誉れ高かったよう。

1500年、ヴェネツィアの歩兵隊長ジャンバッティスタ・カラッチョーロ(当時50歳)と結婚。

1501年2月13日、夫のもとへ行くためにウルビーノからロマーニャを経由してヴェネツィアへ行く途中、ポルト・チェゼナティコとチェルヴィアの間で、チェーザレ配下のスペイン人傭兵隊長ディエゴ・ラミレスによって拉致される。
ディエゴは20〜25人の男たちを使い、ドロテアとともに侍女の1人も連れ去った。護衛の兵士には死者も出た。

この誘拐はドロテアを欲しがったチェーザレの命令だったとも言われるが、ディエゴ個人の仕業でありチェーザレは関与していないという説もあり、はっきりとわかっていない。
また誘拐ではなく、彼らは恋仲で駆け落ちのようなものだったとも言われる。(主犯がわかっていないので、「彼ら」とはチェーザレとドロテア、ディエゴとドロテアどちらのパターンも指す。)



が、それ以降彼女はチェーザレの愛妾として、2年以上を過ごしたと言われる。
実際1502年、ドロテアはイモラでチェーザレの隣にいるところを目撃されているし、同年ローマにも一緒に行っているし、1504年、チェーザレ没落後に夫の元に帰っている。

チェーザレの庶出の娘カミラ・ルクレツィアは、ドロテアの娘ではないか、という説もある。
しかしチェーザレはヴェネツィアの怒りを恐れてか、ドロテアとの関係を否定し続けた。
(犯行はドロテアの恋人ディエゴ・ラミレスのやったことであるとし、その処罰を約束もしている。しかし処罰していない。)

誘拐事件直後には「私は無理矢理拐わなければならないほど女に不自由していない」と言ったそう。言いそう。

チェーザレはこの事件の直前に愛人だったドゥルーシラ(ルクレツィアの侍女)と別れているので(ドゥルーシラはルクレツィアのフェラーラ行きについて行った)、淋しくてつい…とかあるかも?(ないか)

また、チェーザレはジャンパオロ・バリオーニの妹で、バルトロメオ・ダルヴィアーノの妻となるペンテジレーア・バリオーニを拉致した疑惑もあるので、……犯人はお前だろが!!という気がしないでもない。



しかしそうすると、ディエゴ・ラミレスは、やってもいない犯行を自分に押しつけたチェーザレに尽くしたということになってしまう。(ディエゴは最後までチェゼーナの城代として城塞を守った)
むしろ誘拐はディエゴ個人の仕業で、チェーザレは黙認してくれた、だから感謝していたという方が納得できる。

ディエゴはチェーザレの臣下になる前には、グイドバルド・モンテフェルトロの傭兵隊長としてウルビーノにいたので、ドロテアと恋仲になっていてもおかしくはない。
事件前のカーニバルを、チェーザレの軍はウルビーノで楽しんだようなので、再会して燃え上がった説ありえる。


ドロテアは解放されてからも一切何があったかを話していないので、真相は藪の中。
自分に都合のよい嘘をいくらでもつけたろうに何も言わなかったのは、慎重で思慮深い人だったのかなという印象。沈黙は金。


1503年、アレクサンデル6世の死後修道院に逃れ、1504年2月4日、ファエンツァへ赴き、夫ジャンバッティスタとともに暮らすようになった。
彼との間に4人の子どもをもうけている。
1527年7月、おそらくペストによって死去。




ペドロ・カルデロン(Pedro Calderón)

(ペドロ・カルデス Pedro Caldes)


ベルトランド・コスタビリ(Beltrando Costabili)

(1456年頃 - 1519年6月)
フェラーラの在ローマ大使。
ミラノ駐在大使アントニオ・コスタビリの兄弟。
エステ家の管財人であり、教皇庁に対するエステ家の弁士という役割も担っていた。

ボルソとエルコレ1世デステの秘密顧問であったリナルド・コスタビリの子として生まれた。
1507年8月27日、ニッコロ・マリア・デステの後任としてアドリアの司教に。

1501年、ルクレツィア・ボルジアとアルフォンソ1世デステの婚姻を仲介。
1503年、アレクサンデル6世崩御を報告。
「教皇の遺体は今日サン・ピエトロに置かれており、見た目は非常に醜く黒く腫れ上がり、毒物が入ったのではないかと多くの人が疑っている」と書いている。
チェーザレがユリウス2世に裏切られ落ちていく様子も逐一報告している。
腹立たしいけど、彼のおかげでけっこう具体的なことがわかっている。

1517年8月23日、ミラノ大司教に。

1519年6月、ローマで死去。




コレッラ家(Corella)


コロンナ家(Colonna)


ゴンザーガ家 (Gonzaga)


ゴンサロ・フェルナンデス・デ・コルドバ(Gonzalo Fernández de Córdoba)

(コンサルヴォ・ディ・コルドヴァ Consalvo di Cordova)
(ゴンザーロ、ゴンサルヴォ)






サ行

サッヴェリ家


シャルル8世

→ フランス王家




ジローラモ・サヴォナローラ(Girolamo Savonarola)

(1452年9月21日~1498年5月23日)
フェラーラ生まれ。
父はニッコロ・サヴォナローラ、母はエレナ・ボナコルシ。
サヴォナローラ家はパドヴァの武人の家で、ボナコルシ家はゴンザーガ家にその地位を奪われるまで、マントヴァの僭主であった。(13世紀から14世紀初頭頃)
祖父ミケーレ・サヴォナローラはフェラーラの君主エステ家の侍医であり、ジローラモは彼から教育を受けた。

7人兄弟姉妹の3番目。兄と弟と妹を2人ずつ持つ。
フェラーラの大学で哲学、神学、医学を学び、22歳の時にドメニコ会修道士となる。
1482年、フィレンツェのサン・マルコ修道院に転院。フィレンツェの権力者メディチ家と、その下で贅沢に放漫に生きる人々を痛烈に批判、信仰に立ち返った清貧な生き方を説く。(これを宗教改革のはじめととる向きもある。)
激烈な説教はフィレンツェ市民の心を揺り動かし、信奉者の数は徐々に拡大、メディチの当主ロレンツォ・デ・メディチをおびやかすまでになる。


1494年、フランス王シャルル8世のイタリア侵攻時に、これを予言していたことで、彼の人望と名声は最高に。(本当に予言していたよう。)
逆にメディチの新当主ピエロは、愚昧な動きによって市民の怒りを買い、メディチ家は追放されてしまう。
フィレンツェはサヴォナローラが実権を握る共和制となる。

厳格に禁欲を説くサヴォナローラの改革は、生活、文化のあらゆる方面におよび、絵画や彫刻、書物、鏡、チェス板などまでもぜいたく品として焼却された。(「虚飾の焼却」と言われる。)
その一方、彼は当時の最新機器である印刷機を用い、自らの著作を大量に頒布するなど、実際的で世俗的な活動に精力的でもあった。著作はラテン語だけでなく口語でも出版された。これは、彼が文字や印刷物の力を重視していた、政治的才能を合わせ持つ人物であったことを示している、とも言われる。

1496年5月、教皇の密使としてボルジア三兄弟のいずれかが、サヴォナローラのもとを訪れる。チェーザレであったという説が有力。
表向きは「サヴォナローラの助言を求める」という来訪理由であったが、実際はフランス王シャルル8世との和解交渉仲介依頼だったとされる。


1497年5月13日、教皇庁を批判したかどで、教皇アレクサンデル6世はサヴォナローラを破門する。
この頃には、サヴォナローラの独裁的な神権政治に対する反発者が増え、民心はだいぶ失われていた。

1498年、対立するフランチェスコ会からの要請「火の試練」(真の預言者なら火の中を歩けるはずだ、と挑戦された。)を拒否したことをきっかけに、4月8日、フィレンツェの人々はサン・マルコに彼を襲撃する。
サヴォナローラは捕縛され、拷問を受け、5月23日、シニョーリア広場にて絞首された上に火に焼かれた。
この時、アレクサンデル6世の命により、ドメニコ会の修道僧とともにフィレンツェに赴き、サヴォナローラへの尋問と死刑判決を行ったのはフランチェスコ・レモリーネスだった。
忠実な2人の弟子、ドメニコ・ダ・ペーシャ(Domenico da Pescia)とシルヴェストロ・マルッフィ(Silvestro Maruffi)が運命をともにした。
遺灰は信仰の対象にならないように、アルノ河に捨てられた。

サヴォナローラ亡き後、フィレンツェは共和制政府が樹立され、ゴンファロニエーレ(行政長官)ピエロ・ソデリーニの書記官として、マキァヴェッリが活躍することになる。


スフォルツァ家 (Sforza)


スペイン王家




シャルル・セイトル(Charles Seytres)

(セイトレスとも。また、シャルル・セクストルCharles Sextreという表記も見られる。)
フランス人中尉。
チェーザレのフランスの所領・ヴァランスとディノワを管理した総督。
チェーザレは1499年5月14日、フランスのブロワで、シャルルに全権委任する証書を発行している。
また1499年10月12日、ミラノでも彼宛てに手紙を書いている。
妻シャルロットがヴァレンティーノ公国に行くことを希望する時は、彼女の要望を叶えてやって欲しいということと、
クリストフォーロ・トッレと一緒に財政を管理し、正義を尽くし、民衆を守るように、ということを依頼している。
チェーザレ、けっこう良き夫で良き君主じゃん。






タ行

ティベルティ家




ドゥルーシラ(Drusilla)

フィアンメッタに次ぐ、チェーザレの2番目の愛人として名の残る人物。
ルクレツィアの侍女。1502年1月、ルクレツィアとアルフォンソ・デステの結婚でルクレツィアに同行し、フェラーラに移り住んでいる。ので、チェーザレとの関係はその時点で終了したと思われる。
ドロテアが現れたから?)


しかしチェーザレはドゥルーシラがフェラーラへ発つのを悲しんだという説もある。
2人の関係は周囲にもよく知られていて、詩人ファウスト・エヴァンジェリスタ・マッダレーニは彼女の出発の際のチェーザレの悲しみの詩を書いている。

チェーザレの庶出の子ジローラモ(イザベッラ・ピッツァベルナリと結婚、後にカルピ伯の娘イザベッラと結婚。2人の娘イッポーリタとルクレツィアを残す。)と、
カミラ・ルクレツィア(フェラーラのサン・ベルナルディーノ修道院の女子修道院長となる。1573年に死去。)の母は、彼女ではないかと言われている。




ドロテア

→ カ行(カラッチョーロ)






ナ行

ピエトロ・ダ・ノヴェッラーラ(Pietro da Novellara)

マントヴァのカルメル会修道士。
1501年3月末、イザベッラ・デステの依頼で、レオナルド・ダ・ヴィンチがスケッチだけで終わらせていた彼女の肖像画制作に取り掛かるよう、催促した。

4月3日、ピエトロはイザベッラに手紙を書き、レオナルドの生活の様子を知らせている。
4月14日にも再び手紙を書き、「レオナルドは今数学の問題に取り組んでおり、絵筆など見るのも嫌だと言うことです」と知らせた。
イザベッラもレオナルドも自分の意思を曲げなさそうだから、間に立たされて辟易していたと思われる。






ハ行

パッツィ家(Pazzi)


バリオーニ家(Baglioni)


ピッコローミニ家(Piccolomini)


ファルネーゼ家 (Farnese)


フィアンメッタ

 → マ行(ミケーリ)


フェルモ家

 → ア行(エウフレドゥッチ家)


フランス王家


ギョーム・ブリソネ(Guillaume Briçonnet)




ヨハン・ブルカルド(Johannes Burckard)

(1445年から1450年の間~1506年5月16日)
フランス、アルザス地方生まれのドイツ人。
スイスの歴史家ブルクハルト(Jacob burckhardt)(1818-1897)と間違えられがち。(私だけ?)(全然違う人だけど、どちらもすぐボルジア家に毒殺された〜的なことを言う)

司教であり、教皇庁書記長、教皇庁式部官
彼の「Liber notarum」(日誌)はルネサンス教皇の生活を知る、重要な歴史的文献である。
が、彼の過剰な想像力で書かれている部分も多く、教皇庁の乱交や殺人などのスキャンダラスなできごとについての信頼性は低い。
ボルジア家もかなり悪し様に書かれている。惣領冬実は「反ボルジアであったユリウス2世の在位時に、捏造された可能性が高い」と推測している。(惣領冬実@web work's Information 2009/02/02))
非常に詳細に書かれる教会儀式のしきたりや式典の記録などは、価値あるものとされている。

貧しい家庭の出身であったが、サン・フィレンツォ教会の教育を受け、
1467年、ストラスブールの司祭書記、司教座聖堂参事会員となる。が、しかし、すぐに書類偽造で小銭を稼いでいたことが発覚、その地位を追われる。
同年、ローマへ出る。
1471年、教皇パウルス2世に引き立てられ、教皇庁に入る。
1483年、教皇シクストゥス4世の式部官になってから、
インノケンティウス8世、
アレクサンデル6世、
ピウス3世、
ユリウス2世、
と続く教皇全てに仕え続けた。
1503年、オルテ(ローマの北方60キロくらいの小都市)とチヴィタ・カステッラーナ(オルテとローマの間の小都市)の司教に。

  • ブルカルドの采配した主な式典
1493年12月ナポリ王フェデリーコのローマ訪問
1494年5月ナポリ王アルフォンソ2世の戴冠式
ホフレ・ボルジアとサンチャ・ダラゴーナの結婚式
1494年11月フランス王シャルル8世の歓迎式典
1499年12月降誕祭における聖年の布告
1502年1月アレクサンデル6世のピオンビーノ訪問
1503年8月アレクサンデル6世の葬儀

1506年5月、ローマにて死去。死因は痛風。サンタ・マリア・デル・ポポロ教会に埋葬された。




ペトゥルッチ家(Petrucci)


ベンティヴォーリオ家 (Bentivoglio)


ボーモン家(Beaumont)

→ = ボウモント家






マ行

ニッコロ・マキァヴェッリ(Niccolò Machiavelli)

(1469年5月3日 - 1527年6月21日)
(マキャヴェリ)(マキャベリ)(マキァヴェリ)

フィレンツェ共和国の書記官、外交官。政治思想家、文筆家。

1498年5月、新政権が発足し、経験の浅さに関わらず192フローリンという高額の年俸で第二大法官秘書官に選出される。


マクシミリアン1世


マラテスタ


マンフレディ家 (Manfredi)


フィアンメッタ・ミケーリ(Fiammetta Michaelis)

(1465年?-1512年2月19日)
1493年から、チェーザレの愛人だったという赤毛の高級娼婦。フィレンツェ生まれ。
1478年、13歳の時に、同じく娼婦だった母とともにローマへ。すぐに枢機卿ジャコモ・アンマンナーティーの愛人となる。

1479年、約1年半あまりのつき合いの後、アンマンナーティーは財産のほとんど全てをフィアンメッタに残して死去する。
枢機卿が娼婦に遺産を正式に譲渡、というのはとても衝撃的なできごとであったらしく、時の教皇であったシクストゥス4世はこの遺言の執行に反対、特別委員会を設ける。
委員会はフィアンメッタの取り分を縮小するが、アンマンナーティの所持していた、

・ヴァティカン近くの小家屋つきぶどう園
・サンティ・シモーネ・ジュダ教会近くの塔のある家
アッカスパルタ通りの開廊のある家
コロナリ通りの家

の4つの不動産は彼女のものとなった。
(太字の2つの家屋は今もローマ、テヴェレ河沿いのポンテ地区に残っている。
サンティ・シモーネ・ジュダ教会もその近辺に存在する。)

フィアンメッタはヴァティカン近くのぶどう園を住居とし、他を賃貸物件にして、年に約26ドゥカートの賃貸収入を得た。
チェーザレは武装して(この頃のローマはとても治安が悪かった。)、そのぶどう園に毎夜通っていたと言う。かなり彼女に執心していたらしい。
ちなみに1493年当時、チェーザレ18歳、フィアンメッタ28歳。

フィアンメッタの死後、これらの不動産は彼女の息子アンドレア(書類上は「弟」とされている。チェーザレの子ではないよう。)に譲られている。

ルネッサンス期の娼婦は、
・通りに立ち客を呼び込む下級娼婦
・賑やかな祝祭時のみに商う娼婦
・詩を暗誦しさまざまなテーマにおける討論をも行える、学識豊かな高級娼婦
などいくつかのカテゴリに分けられる。
フィアンメッタは知的な高級娼婦であったとされる。
ラテン語を話し、オウィディウスとペトラルカを暗唱し、巧みに歌い、古代ギリシャの弦楽器キタラを演奏したという。

敬虔で信心深かった彼女は、教会への寄進も多く行い、1506年からサン・タゴスティーノ教会、入ってすぐ左に礼拝堂を所持していた。
(現在カラヴァッジョ「ロレートの聖母」のあるところ。)
死後ここに埋葬されるが、反宗教改革時に破壊されてしまった。




メディチ家 (Medici)


モンテフェルトロ家 (Montefeltro)






ヤ行






ラ行

リアーリオ家(Riario)




マルコ・ダ・リミニ(Marco da Rimini)

(? - 1512年4月)
ヴェネツィアの傭兵隊長。

1500年、リミニの領主パンドルフォ・マラテスタは、チェーザレ・ボルジア法王の脅威に直面したリミニに彼を派遣するようヴェネツィアに要請した。

1502年、レニャーゴの警視に任命された。レニャーゴでは不動産を手に入れた。チェーザレ・ボルジアがウルビーノを占領すると、彼はラヴェンナに移された。

リミニ地方の3つの城が教皇に反旗を翻す。パンドルフォ・マラテスタのために介入する許可を得る。

ボルジアの手下になるために亡命しようとしていた疑いがかけられる。裁判にかけられ、10人評議会で報告書が読まれ、無実を訴え、ヴェネツィア人の承認を求める。ラヴェンナからヴェネツィアへ送られ、賢人会議によって解任される。

1503年、ファエンツァの包囲戦に参加するヴェネツィア軍に自らを申し出る。レニャーゴで300人の歩兵を集め(うち200人が選抜された)、ジャコミノ・ディ・ヴァル・トロンピア、ミケーレ・スキアヴェートとともにファエンツァの下に身を置く。数日後、ファエンツァが陥落したため、彼の糧食は給与の一部しか受け取れず、ピエロ・デッラ・バディアと共に兵を見直したが、当初400人いた兵は250人しか残らなかった。 パンドルフォ・マラテスタがリミニをセレニッシマに譲ったため、彼はヴェネツィアに向かう。




ルイ12世

→ フランス王家




ローヴェレ家 (Rovere)


ローマ教皇(13世紀末〜16世紀中頃)




バルトロメオ・ロンバルディーニ(Bartolomeo Lombardini)

チェーザレやジローラモ・リアーリオを治療した高名な医者。






ワ行






ボルジア家の人々

→ ボルジア家の人々


チェーザレの忠臣

→ チェーザレの忠臣


各国語人名表

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