アッシジ
アッシジ Assisi

鉄道で、ローマから約2時間。フィレンツェから約2時間半。スポレートから約1時間。(どれも直通の場合。)
街の中心地は、駅から3.5キロほど離れている。バスで15分ほど。
駅周辺にも街の中心地にも、ホテルはたくさんある。
日本人観光客も割りと多い。
スバシオ山(Monte Subasio)の西側の斜面に築かれた、東西方向に細長く伸びる小さな山岳都市。
13世紀にフランチェスコ修道会を創設した、聖フランチェスコ生誕の地として名高い。よって巡礼の街でもある。
11世紀に独立した都市国家。ギベリン(皇帝派)の街で、ゲルフ(教皇派)のペルージャと長く敵対していた。聖フランチェスコが出家したのは、この2つの街の戦争で世俗を嫌悪したからと言われる。
ヴィスコンティ家やスフォルツァ家、モンテフェルトロ家の支配下を経て、カリストゥス3世(アレクサンデル6世の伯父)の次代教皇ピウス2世の時代に、教皇庁領に組み込まれる。
街の北端、アジオの丘(colle Asio)にある城塞は、1501年から1503年までチェーザレの支配下にあった。
マッジョーレ城塞(Rocca Maggiore)
城塞南東のペルリーチ門(Porta Perlici)から見えるマッジョーレ城塞。門を挟んで反対側に、ミノーレ城塞がある。
マッジョーレとは「より大きな」「主要な」「メインの」という意味。
ミノーレは「より小さな」「副次的な」「マイナーの」という意味。

アッシジに城塞のイメージないけれど、丘の頂上にあるので意外と目立つ。
建物部分はこぢんまりとしているが、城壁は4600メートルにもおよぶ。すご!
1501年から、チェーザレの支配下にあった城塞。
1503年1月、彼はシニガリア事件の後にこの城塞に立ち寄り、ここでペルージャの財務官宛てに手紙を書いている。
また、チェーザレを追って来たマキァヴェッリも、ここからフィレンツェの十人委員会に宛てて、手紙を書いている。
(城塞の解説本やサイトに、「ルクレツィアが滞在した」と書かれているものがあるが、ルクレツィアは滞在してはいないはず。
1493年、ジョヴァンニ・スフォルツァと結婚した時の持参金に、アッシジが含まれていたようなので、そのことが混同されているのではないかと思う。)
位置的に、ランゴバルド時代から監視塔のようなものはあったのでは、と推察されている。
が、最初の文書記録は、1173年。マインツの大司教クリスティアーノ・マゴンツァ(Cristiano di Magonza)が、フリードリヒ1世(バルバロッサ)の宰相として、アッシジを占領した時。
(11〜12世紀のイタリア中央権力が不在で都市国家(コムーネ)が乱立していた。神聖ローマ皇帝は都市国家の市民自治を抑え、君主の存在を示そうとしていた。
記録に残る最初の城塞は、この時建築された。
フリードリヒ1世の息子フリードリヒ2世はここで生まれ、追放される4歳までをここで過ごしたと言われる。が、これは伝説の域を出ていないよう。)
城塞はドイツの封建権力の拠点となるが、
1198年、教皇インノケンティウス3世による扇動、で市民の反乱が起きる。
アッシジを異邦の支配者から解放しようとした市民は、アッシジ伯でスポレート公でもあったコンラート1世・フォン・ウルスリンゲン(Conrad I von Urslingen)を追放する。この時城塞も破壊された。
このアッシジ市民の反乱に、当時16歳の聖フランチェスコも参加していたらしい。
城塞は廃墟として長く放置されていたが、
1362年、スペイン人枢機卿エジディオ・アルボルノス(Egidio Albornoz)が、再建を決定する。
これは、教皇領の要塞化という広範なプログラムの一環であり、アヴィニョンからの教皇庁の帰還を見越したものであった。
建築家は、スポレートのアルボルノツィアーナ城塞と同様にガッタポーネ(Gattapone)と言われている。が、はっきりはしていない。
アッシジの城壁は強化され、近くには第二の要塞「ロッカ・ミノーレ(またはロッキッチョラ Rocchicciola)」が築かれた。
この2つの要塞は、歩廊のある城壁でつながっていた。
通行することはできないが、今でも城壁跡は長く残っている。
井戸はなく、地下に貯水槽が作られていた。
14世紀後半、城塞はこの地方の二大勢力であったネピス家(Nepis「上地区 Parte de Sopra」)とフィウミ家(Fiumi「下地区 Parte de Sotto」)ととの激しい抗争の舞台となる。
1376年には、ネピス家によるフィウミ家の暗殺事件で街は荒れた。
1392年、フィウミ家の支援を受けたヴィスコンティ家の支配下に。
1394年から1398年、傭兵隊長ビオルド・ミケロッティ(Biordo Michelotti)の支配下に。この時代に、さらなる修復作業が行われ、現在見られる天守が作られた。
このため、ミケロッティの紋章が多く残っている。
城塞の再建と拡張により、アッシジはさらに戦略的に重要な地となっていく。
長く続いたペルージャとの争いで、アッシジの強力な防衛網となった。
ミケロッティの死後、支配者は再びヴィスコンティ家となり、モンテフェルトロ、スフォルツァと変遷する。
1442年、ペーザロのアレッサンドロ・スフォルツァ庇護下にあったアッシジは、ペルージャの傭兵隊長ニッコロ・ピッチニーノに攻囲される。ピッチニーノは、古代ローマの水道を通じる秘密の抜け道を見つけ出し、アッシジに迫った。
しかし彼はアッシジの街の美しさに感嘆し、ペルージャからの傭兵料1万5千フィオリーノのを断りって、略奪を拒否したと言われている。
アッシジは破壊を免れたが、ペルージャとの争いは続き、その後1世紀近くに渡って小競り合いと包囲戦が繰り返された。
1456年、教皇カリストゥス3世は、甥であるペドロ・ルイス・ボルジア(Pedro Luis Borgia)(チェーザレの父ロドリーゴ・ボルジアの兄)をアッシジ(およびスポレート、テルニ、ナルニ、トーディ、オルヴィエート、フォリーニョ、ノチェーラ、アメーリアなど他のウンブリア諸都市)の総督に任命する。
しかし1458年、教皇カリストゥス3世が死去すると、ペドロ・ルイスはローマから逃亡(その後まもなく死去)、アッシジはニッコロ・ピッチニーノの息子、ヤコポ(ジャコモ)・ピッチニーノ(Jacopo (Giacomo) Piccinino)が買い取った。
1458年、アッシジの支配者となったヤコポ・ピッチニーノ(Jacopo Piccinino)により、北西の多角形の塔と、その塔と城塞を結ぶ通路の建築が企図される。防備が手薄だった西側を強化し、周囲の谷をより広く見渡せる監視地点を得ることが目的であった。
しかし今度は教皇庁が、ヤコポからアッシジを買い取る。
翌年1458年、塔と通路は教皇ピウス2世によって完成された。
城塞南西上空からの景色。
左半分を占める長い通路と多角形の塔。前の道は城塞通り(Via della Rocca)。


通路の内部。
長くて合わせ鏡のよう!全長105メートルもある。
ところどころに矢狭間があり、そこからの光がもれている。矢狭間からは風景の断片を眺めることができる。が、狭いのでここから矢を射るのは大変そう。
通路のつきあたりには螺旋階段があり、塔に上ることができる。
塔からは、アッシジの歴史地区、テッショ川の細い渓谷とペルージャからスポレートまで広がるウンブリア渓谷が見られる。

塔からの景色(東側)。
左端に見えるのが、ミノーレ城塞。

塔からの景色(西側)。
アッシジのシンボル、サン・フランチェスコ大聖堂が見える。
1478年、教皇シクストゥス4世が修復を行う。このため、デッラ・ローヴェレ家の紋章も残っている。(下図Aの城門の上などにある。)
15世紀末には、再びネピス家とフィウミ家の抗争が激化する。
フィウミにはオッディ家(Degli Oddi)、ネピスにはバリオーニ家(Baglioni)が支援していた。
1492年11月、両家の間に血なまぐさい事件が起きる。
1493年、ルクレツィアのジョヴァンニ・スフォルツァとの結婚時、城塞(アッシジ)は持参金のひとつとなる。
1501年、城塞(アッシジ)はチェーザレの支配下に入る。
1535年、教皇パウルス3世によって、最後の大規模改修が行われる。
塔が強化され、円形の稜堡(バスティオン)が築かれた。
またこの時、ペルージャにもアッシジ城塞と同様の塔を持つパオリーナ城塞(Rocca Paolina)が築かれた。
パウルス3世は自分の名前が冠された城塞を気に入っていたようで、1543年にはマッジョーレ城塞の大砲はパオリーナに移設された。
この頃から城塞は軍事的に有用とは見なされなくなっていく。

右側が稜堡。
紋章は、建築した教皇パウルス3世のものらしいんだけど、劣化していてわからない。
中央にはシクストゥス4世の紋章もあるらしんだけど、これもわからない。
アッシジの戦略的重要性が失われるにつれ、城塞は次第に防衛機能を失い荒廃していく。
街を監視するためのカステラーノ(城塞管理人)の住居となり、その後牢獄や倉庫として使用されることになった。
1891年、修復工事が始まり、現在城塞は一般に公開されている。
16世紀の稜堡(バスティオン)横が出入口となっており(上の写真の裏側にある)、前庭と門を通って14世紀のレンガ敷きが残っている中庭に入ることができる。

中庭。
中庭には城塞の主郭と、城塞管理人の住居であった天守があり、上下階の5つの部屋にアクセスできる。内部は一部、現代美術の展示場になっている。
ブックショップもあり、アッシジだけでなく城塞についての関連書籍も置いてある。(薄いけど。)
前庭には小さな屋台があって、ちょっとした飲食ができる。

城塞西上空からの景色。


A 中庭への入口
B 中庭
C 主郭(城の中枢部、または城そのもの)
城塞の最も古い部分。
かつては礼拝堂、司令官の部屋、駐屯兵の宿舎、食堂、地下室、食糧庫、貯水槽、などがあった。
D 天守(城の中心にある主要な塔)
城塞管理人の部屋、武器庫、貯蔵庫、などがあった。
チェーザレの時代には外階段と跳ね橋があった。
E 監視塔
稜堡(H)の後ろにある塔は、チェーザレの時代には胸壁があった。
F 内部通路のある城壁
G 多角形塔
H パウルス3世の稜堡
① 現在の出入口
② 屋台(売店)
ミノーレ城塞(Rocca Minore)

ロッキッチョラ(Rocchicciola)とも。
・Rocca : 「城塞」という意味
・〜 icciola:「小さくてかわいらしいもの」「軽微なもの」を表す縮小辞
つまり「ちっちゃなロッカ」「可愛らしい小要塞」といったニュアンスを含む愛称。
また、かつてはサンタントニオ砦(Cassero di Sant’Antonio)とも呼ばれていた。
これはカップッチーニ門(porta dei Cappuccini)近くにあった同信会(一般信徒による、修道会に似たカトリックの共同体)の名前にちなんでいた。
ミノーレには居住用施設がないので、城塞と言うより砦と呼ぶ方が近い。が、かつて存在していた住居棟が、破壊された可能性もあるよう。
1362年、枢機卿アルボルノスによりマッジョーレ城塞が再建された時、同時に建てられた。
当時はマッジョーレ城塞と、歩廊のある城壁で繋がっていた。通行することはできないが、今でも城壁跡は長く残っている。
このミノーレ城塞と、ピエディルコにある城塞だけが、アルボルノスの建てた他の城塞と異なり、ベイリー(外郭)内に角塔を持たず、単一の塔とキープ(天守)だけの城塞になっている。
そして、ミノーレ城塞だけが、内部に礼拝堂「十字架の教会(Chiesa del Crocifisso)」を備えている。
アルボルノスの建てた城塞の中で、唯一の特異な存在である。
(スポレートのアルボルノツィアーナ城塞には、おそらく十字架が置かれていたであろう壁龕(ニッチ)の痕跡や祭壇石の存在はある。が、ちゃんとした礼拝堂は作られていなかったよう。)

城塞北側。
マッジョーレ城塞と同様に、二重の城壁で囲まれている。
二重の城壁がわかりやすい。
内側の壁は、台形の中庭を形成している。

カップッチーニ門(porta dei Cappuccini)から続く城塞までの小道。
左手に、ずっと城壁が続いている。
現在ミノーレ城塞は閉じられていて見学不可なので、誰もここまでは来ない。
カップッチーニ門(Porta dei Cappuccini)

ミノーレ城塞(Rocca Minore)の手前に位置する門。アッシジの旧市街を囲む城壁に設けられた8つの城門のひとつ。
- 8つの城門
バス停(ジョヴァンニ・パウロ2世広場)から時計回りに、
Porta San Pietro
Porta San Francesco
Porta San Giacomo
Porta dei Cappuccini
Porta Nuova
Porta Moiano
Porta del Sementone
アーチの内部には階段があり、塔に上れるようになっていた。が、塔の上部は崩壊してしまっている。
塔には聖母像を収めた壁龕(ニッチ)が設けられている。
スバジオ山(Monte Subasio)へのトレッキングは、この門から始まる。
ペルリチ門(Porta Perlici)

ペルリチ通り(Via Perlici)の始まるところにある12世紀に建設された門。名前の由来はよくわかっていない。
ローマ時代に起源を持ち、中世初期にはアルメンツァーノ、ヴァルトピーナ、ノチェラ、グアルド方面から来る人々を迎え入れていた。
1503年1月のチェーザレは、グアルドからアッシジに入っているので、おそらくこの門から入城したのではないかと思われる。
この門がある地区は古い建物が多く、ローマ時代の都市計画を今に伝えている。また、この地区には、テアトロ円形闘技場(Amphitheatre del Teatro)をはじめとする興味深い見どころが、保存されている。
近くにはサングイノーネ水道が通っており、アッシジと長い戦いを続けていたペルージャの兵は、ここを通って侵入したこともあった。
ここから、マッジョーレ城塞を臨むいい感じの写真が撮れる。(城塞解説の最初の写真。)
聖フランチェスコ大聖堂(Basilica di San Francesco d'Assisi)
- 聖フランチェスコ(San Francesco d’Assisi)
(1181年または1182年 - 1226年10月3日)

本名はジョヴァンニ・ディ・ピエトロ・ディ・ベルナルドーネ(Giovanni di Pietro di Bernardone)。アッシジ生まれ、アッシジ没。
清貧・貞潔・従順を説くフランチェスコ修道会の創設者。1228年に教皇グレゴリウス9世によって聖人に列せられた。
本名ジョヴァンニなのにフランチェスコなのは、
母がフランス人でそれにちなみ改名した、
財を成した父の交易相手であるフランスに敬意を表し改名した、
フランス語の歌をよく歌っていたからそう呼び名がついた、
などと言われている。実際のところは不明。
当時フランチェスコという名は珍しかった。チェーザレの時代には多く見られるようになっているが、これはみんなが聖人フランチェスコにあやかって名づけたから。
富裕な商人の家に生まれ、若い頃は騎士的名誉と世俗的成功を夢見ていた。
1202年、アッシジとペルージャの間に戦争が勃発する。両都市の間には、何世紀にもわたって続く和解不能な対立関係が存在していた。
フランチェスコはこの戦争に参加し、捕虜となる。約1年後釈放されるが、重い病にかかってしまう。
陰鬱な日々を送っていた1205年、アッシジ郊外のサン・ダミアーノ教会で祈祷していた時「フランチェスコよ、行って私の家を建て直しなさい」という声を聞く。
これを機に、フランチェスコの人生は、神に向かって根本的に転換(回心)した。
騎士になり名をあげたいという願望が叶わず挫折したことがきっかけのようでもあるが、それ以上に、戦争と捕虜生活と病を通して得た弱者に対する思いやりの感情が、強く影響したと考えられている。
フランチェスコは一人息子だったようで、家業の商売に背を向けて自分の道を進もうとする息子に父は激怒する。
1206年、アッシジ司教の前での父子対決となり、フランチェスコは「全てをお返しします」と身につけていたものを全て脱ぎ、それを父に差し出した。そして、フランチェスコにとっての父は「天の父」だけだとして、親子の縁を切った。父…気の毒…。
フランチェスコは、清貧と謙遜の生活を選び、福音(キリストの教え)を生きることを理想とした。自然やすべての被造物を兄弟姉妹として愛し、平和と和解を説いた姿勢は、中世キリスト教に新たな霊性をもたらした。
1208年もしくは1209年、托鉢修道者となり、巡回説教者として宣教を始める。
聖職者が用いるラテン語ではなく、日常語のイタリア語で、彼は聖書の教えを説いた。
巧みな話術に加え、歌や音楽を利用して人々の心を捉えた。そうした芸能的ともいえる活動から、彼は「神の道化師(Giullare di Dio)」とも呼ばれている。
また、神の作りたもうたものすべての生き物を平等に愛し、小鳥たちにも説教し神の愛を説いた。
所有物をすべて放棄して無一物となった人々を、フランチェスコは仲間として迎えていく。
彼らはお互いを兄弟と呼び合い、二人一組となって宣教の旅に出た。
やがて彼らは自らの集団を「小さき兄弟団(Ordo Fratrum Minorum)」と名乗るようになっていく。これは現在でもフランチェスコ会の正式名称である。
褐色の修道衣と腰に結ばれた3つの結び目のある縄帯が特徴で、3つの結び目は福音的勧告である清貧・貞潔・従順を象徴しているとされる。
1210年、教皇インノケンティウス3世により、「小さき兄弟会」は修道会として認可される。
フランチェスコ会は拡大し、カトリックで最も好まれる宗派となる。熱心な信者のために教会の需要は増し、ともなってフレスコ画の需要も増した。
1217年、国外への宣教を開始。
1219年、第5回十字軍の駐屯するエジプトへ渡り宣教。
1223年、グレッチョ(Greccio)で降誕祭を祝う。
フランチェスコは厩舎や飼葉桶だけでなく、雄牛やロバを用意してミサを行った。これは聖書に描かれた「降誕場面」の再現で、現在は世界中で行われている。が、当時は画期的なことで大評判となった。フランチェスコ…パフォーマンス力高い!
1224年、ラ・ヴェルナ山で断食と祈りの最中、十字架上のキリストの幻視を受け、両手・両足・脇腹にキリストと同じ聖痕を受けたと伝えられている。
1226年、長年の病(眼病・胃腸疾患・衰弱)と聖痕による苦痛の中で、アッシジ近郊ポルツィウンコラで死去。
1939年6月18日、教皇ピウス12世によって、聖カタリナ・ダ・シエナ(santa Caterina da Siena)とともに、イタリアの守護聖人と宣言された。
また、動物と環境の守護聖人とされている。
祝日は10月4日。この日は世界動物の日ともなっている。
聖フランチェスコの死から2年後の1228年、教皇グレゴリウス9世によって構想され、フランチェスコの弟子であったエリア・ダ・コルトナ(Elia da Cortona)の先導で、建築された教会。
1230年以降、聖フランチェスコの遺骸を安置している。
1253年に完成し、その後何度も改修され現在の姿になった。

北西の斜面に建ち、勾配差を利用するかたちで上下2つの教会から成っている。それぞれ異なる建設段階でありながら、歴史的・芸術的連続性をなしている。
最初に建築された下の教会は、ロンバルディアの影響を受けたウンブリア・ロマネスク様式。
上の教会は、主としてフランス系ゴシック様式。色彩と装飾によって、イタリア化されている。
↓ 上部聖堂とその前の広場。
見学入口はこちらではなく、下部聖堂にある。(上の写真、中央部分。)

内部のフレスコ画は、チマブーエ(Cimabue)、ジョット(Giotto)、ロレンツェッティ(Lorenzetti)、シモーネ・マルティーニ(Simone Martini)、セルメイ(Sermei)などによる。
上部聖堂にある、聖フランチェスコの生涯を28の場面で描いたジョットの作品が名高い。

フランチェスコの生涯
2・貧しい男にマントを渡すフランチェスコ(San Francesco dona il mantello a un povero)

15・小鳥に説教するフランチェスコ(Predica agli uccelli)

23・聖キアラと修道女たちからフランチェスコへの(別れの)挨拶(Saluto di santa Chiara e delle sue compagne a san Francesco)
下部聖堂の祭壇奥には遺品展示室があり、フランチェスコの修道服やサンダルなどが展示されている。
地下には4人の弟子(ルフィーノ(この人は聖キアラの従兄弟)、レオ、アンジェロ、マッセオ)たちとともに、聖フランチェスコが埋葬されている。
2000年、聖キアラ大聖堂など、他のフランチェスコ会関連遺跡とともに、ユネスコ世界遺産一覧に登録された。

↑ 街の南側道路から見たところ。修道院部分を含むととても大きな複合施設である。
無料のリーフレットが置いてあり、日本語バージョンもある。
サンタ・キアラ大聖堂(Basilica di Santa Chiara)
聖フランチェスコの最初にして最も忠実な弟子である聖キアラを讃えるために、民衆の崇敬心によって建てられた教会。
建設は、キアラの列聖から2年後の1257年に開始された。
1260年10月3日、キアラの遺体は主祭壇の下に安置され、1265年に奉献式が行われた。
- 聖キアラ(Santa Chiara d'Assisi)
(1194年7月16日 - 1253年8月11日)

本名はキアラ・シーフィ(Chiara Scifi)。アッシジ生まれ、アッシジ没。
貴族の生まれながら、聖フランチェスコに帰依した修道女。フランチェスコの協力者。
フランチェスコ会の女子修道会である、キアラ会(Clarisse)を創設する。
1255年、教皇アレクサンデル4世によって列聖された。
目や眼病の守護聖人。
1958年2月17日、教皇ピウス12世によって、テレビおよび電気通信の守護聖人とされた。これは、病をおしてミサに出席できないキアラが奇跡を起こし、自分の部屋の壁からミサを見、説話を聞いたという逸話に基づく。
象徴とする聖体顕示台、聖体容器箱、ランプを持つ姿で描かれる。
祝日は8月11日。
ちなみにキアラは四姉妹長女で、次女のペネンダ(Penenda)以外はみな出家している。姉妹の母親オルトラーナ(Ortolana)も出家している。すごい。
そしてオルトラーナはフィウミ家の出身。
また、従兄弟のルフィーノ(Rufino)は、聖フランチェスコの「三人の同伴者(Tre Compagni)」の1人で、聖フランチェスコ大聖堂にフランチェスコとともに埋葬されている。
妹アニェーゼ(Agnese d’Assisi)、本名カテリーナ・シーフィ(Caterina Scifi)も1752年、教皇ベネディクトゥス14世により列聖されている。
1210年、16歳の時にアッシジの路上でフランチェスコの説教を耳にし、感銘を受ける。
1212年3月20日、両親の決めた縁談を拒んで家出し、聖フランチェスコの指導下で修道生活に入る。
フランチェスコ会が国中を説教して回るのと異なり、キアラと修道女たちは修道院に暮らした。各地を転々とする生活は、女性には難しい時代だった。生活は祈りと労働を日課としていた。
キアラは、生涯を通じて、教皇庁と制度化された修道制度の圧力に抗しながら、フランチェスコ的清貧と福音的自由を女性修道生活の中で守り抜こうと闘い続けた。
1225年、病に伏したフランチェスコの世話をし、翌年に亡くなるまで、そばにい続けた。フランチェスコの死後も、修道会の発展に尽力した。
このようなフランチェスコへの忠誠から「もう一人のフランチェスコ」(alter Franciscus)とも呼ばれる。

スバシオ山産の白色と桃色の石材を交互に配した外装が特徴。
建物の左側にある3つの大きなアーチ(上の写真向かって左のアーチ。見えないけど奥に連なっている。)は、1300年末に建設されたもの。

1226年に聖フランチェスコが1253年に聖キアラが、埋葬された場所である古い教会、聖ジョルジョ教会(chiesa di San Giorgio)の横に建てられた。
この教会は現存していないが、大聖堂の身廊右手に聖ジョルジョ礼拝堂という名前で残っている。

この礼拝堂には、もともとはアッシジ郊外の教会サン・ダミアーノ(San Damiano)にあった、12世紀ビザンティン様式のイコンが保存されている。
1205年、聖フランチェスコはこの十字架の前で祈っている時に、教会のために働くよう召命を受けたと言われている。
地下聖堂は1852年から1872年に建設され、1935年にネオ・ゴシック様式で改修された。
ここに聖キアラの遺骸が安置されている。
また、フランチェスコ会およびキアラ会の聖遺物が展示されている。
聖ルフィーノ大聖堂(La Cattedrale di San Rufino)
アッシジのドゥオーモ(duomo d'Assisi)。ドゥオーモ(司教座聖堂。その地区の中心教会。)なのに、聖フランチェスコや聖キアラがあるせいで、あまり存在感がない。

ローマ時代に作られた、同名の広場に建つ教会。この広場は街の中心で、アッシジにおける宗教だけでなく、政治や商業の中心地だった。
412年から、聖ルフィーノ(san Rufino)の遺骸を安置した教会が存在していたと言われている。
が、現在の教会はおそらく8世紀に建てられたもの。
1036年の終わりに司教座聖堂となり、
1140年には、改築工事が開始され、数十年にわたって続けられた。
1228年、教皇グレゴリウス9世(Gregorio IX)によって主祭壇が奉献され、
1253年、完成した全体の教会が教皇インノケンティウス4世(Innocenzo IV)によって奉献された。
ファサードはウンブリア・ロマネスク様式で、スポレートのドゥオーモと同時代、1490年代に作られた。両者はとてもよく似ている。
1571年、ペルージャ出身の建築家ガレアッツォ・アレッシ(Galeazzo Alessi)の設計により、ロマネスク様式であった大聖堂内部は後期ルネサンス様式へ改築され、現在の姿を取るに至った。
中央身廊、二つの側廊から成り、それらは巨大な柱によって隔てられており、後陣およびドームを備えている。
内部の右側身廊入口にある洗礼盤において、
1182年に聖フランチェスコが、
1193年に聖キアラが、
洗礼を受けた。

身廊の手前両側には、ジョヴァンニ・ドゥプレ(Giovanni Duprè)作の大理石彫刻による、聖フランチェスコ像と聖キアラ像が立っている。
地下にはかつて聖ルフィーノの遺骸が納められていたとされる、3世紀の石棺などがあり、聖堂博物館となっている。
カレンディマッジョ(Calendimaggio di Assisi)
アッシジで、毎年5月1日以降の最初の水・木・金・土曜日に行われる、春の到来を祝う行事。
カレンディマッジョ(Calendimaggio)とは、イタリア語で 「5月の始まり(May Day)」 を意味し、古代ローマ暦の 「maiae calendae(5月のカルケンデス=月初)」 に由来する言葉。
5月には、アッシジだけでなくイタリア各地、ピエモンテ、トスカーナ、ロンバルディア、ウンブリアなど様々な地域で、伝統的な祭りが行われている。
アッシジでの5月祭は1927年に再構築され、市民による歴史再現の祭りとなっている。1954年に公式行事となった。

再現される歴史とは、14〜15世紀のアッシジの二大勢力ネピス家とフィウミ家の対立である。
街が「Parte de Sopra(上地区)(ネピス家)」と「Parte de Sotto(下地区)(フィウミ家)」の2つに分かれ、中世の衣装・音楽・演劇を通じて競い合う。勝利地区はパリオ(Palio)と呼ばれる旗を獲得する。
← 上地区の紋章 下地区紋章 →

※ 紋章の画像は公式サイトからお借りしています。
下地区はフィウミ家の紋章(正確にはフィウミ・ロンカーリ家(Fiumi-Roncalli)の紋章)が使われているが、上地区は1600年代初頭からアッシジに名を残すオッタヴィアーニ家(Ottaviani)のものが使われている。
(ネピス家の紋章、調べても出て来ないし不明なのか?)

オッタヴィアーニ家の紋章は、ペルリチ門通り(Via Porta Perlici)の古い邸宅の入口アーチの鍵石の上に掲げられている。
ガッティ・マッモーニ(Gatti Mammoni)と呼ばれる意匠で、でかい猫、怖い猫、大きな怪物的な猫を意味する。かわいい。
→ 右はサンタ・マリア・デッレ・ローゼ通りにあるホテルの扉。
上の写真、歴史行列の人が掲げてる旗、どっちの紋章でもないじゃん!となるけど、これは上地区のポルタ・サン・ルフィーノ(Porta San Rufino)のチーム旗。
上地区も下地区もそれぞれ4チームあり、それぞれが紋章を持っている。
街を区分して競い合い、パリオ(旗)を得るというのは、ネピで6月に開かれているボルジアのパリオと同じで興味深い。こういうかたちの祭りって、イタリアではよくあるのかな?
しかし、ネピス家とフィウミ家の対立はけっこう血なまぐさいのに、祭りで再現して大丈夫なのか!?
日本で言うと、京都の町を二分して戦った応仁の乱の東軍(細川氏) vs 西軍(山名氏)みたいな感じ?街が東西に分かれ対立し戦場となった街が荒廃したところは、アッシジの状況と似てる。
勝率は、今のところ上地区の方がやや高いよう。
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