チェーザレ・ボルジアと、その周辺のさまざまを紹介するサイトです。

アッシジ

アッシジ Assisi

アッシジ駅

鉄道で、ローマから約2時間。フィレンツェから約2時間半。スポレートから約1時間。(どれも直通の場合。)
街の中心地は、駅から3.5キロほど離れている。バスで15分ほど。
駅周辺にも街の中心地にも、ホテルはたくさんある。



フランチェスコ修道会を創設した、聖フランチェスコ生誕の地として名高い。よって巡礼の街でもある。

11世紀に独立した都市国家。ギベリン(皇帝派)の街で、ゲルフ(教皇派)のペルージャと長く敵対していた。聖フランチェスコが出家したのは、この2つの街の戦争で世俗を嫌悪したからと言われる。

ヴィスコンティ家やスフォルツァ家、モンテフェルトロ家の支配下を経て、カリストゥス3世(アレクサンデル6世の伯父)の次代教皇ピウス2世の時代に、教皇庁領に組み込まれる。

街の中央東にある城塞は、1501年から1503年までチェーザレの支配下にあった。


マッジョーレ城塞(Rocca Maggiore)

画像の説明
アッシジに城塞のイメージないけれど、丘の頂上にあるので意外と目立つ。
1501年から、チェーザレの支配下にあった城塞。彼はシニガリア事件の後にこの城塞に立ち寄っている。

位置的に、ランゴバルド時代から監視塔のようなものはあったのでは、と推察されている。
が、最初の文書記録は、1173年。マインツの大司教クリスティアーノ・マゴンツァ(Cristiano di Magonza)が、フリードリヒ1世(バルバロッサ)の宰相として、アッシジを占領した時に遡る。
(11〜12世紀のイタリア中央権力が不在で都市国家(コムーネ)が乱立していた。神聖ローマ皇帝は都市国家の市民自治を抑え、君主の存在を示そうとしていた。
この時建築された城塞で、フリードリヒ1世の息子フリードリヒ2世は幼少期(4歳まで)を過ごした。)

1198年、教皇インノケンティウス3世による扇動で市民の反乱が起きる。
アッシジを異邦の支配者から解放しようとした市民は、フリードリヒ2世とともにスポレート公コンラート1世・フォン・ウルスリンゲン(Conrad I von Urslingen)も追放する。この時ドイツ人の作った城塞は破壊された。


城塞は廃墟として長く放置されていたが、
1362年、スペイン人枢機卿エジディオ・アルボルノス(Egidio Albornoz)が、再建を決定する。
これは、''教皇領の要塞化という広範なプログラムの一環であり、アヴィニョンからの教皇庁の帰還を見越したものであった。

アッシジの城壁も強化され、ロッカ・マッジョーレの近くには第二の要塞「ロッカ・ミノーレ(またはロッキッチョラ)」が築かれた。
この2つの要塞は、城壁内の長い地下通路でつながっていたと伝えられている。

城塞の再建と拡張により、アッシジはさらに戦略的に重要な地となっていく。
長く続いたペルージャとの争いで、アッシジの強力な防衛網となった。

1442年、ペーザロのアレッサンドロ・スフォルツァ庇護下にあったアッシジは、ペルージャの傭兵隊長ニッコロ・ピッチニーノに攻囲される。ピッチニーノは、古代ローマの水道を通じる秘密の抜け道を見つけ出し、アッシジに迫った。

しかし彼はアッシジの街の美しさに感嘆し、ペルージャからの傭兵料1万5千フィオリーノのを断りって、略奪を拒否したと言われている。
アッシジは破壊を免れたが、ペルージャとの争いは続き、その後1世紀近くに渡って小競り合いと包囲戦が繰り返された。

15世紀末には、城塞はフィウミ家(「下地区」)とネピス家(「上地区」)との血なまぐさい争いの舞台となった

1458年、北西側に建設された角塔(torrione poligonale)が完成し、他の城壁と回廊で接続された。

1501年、アッシジの支配に教皇アレクサンデル6世が介入し、城塞はチェーザレの支配下に入る。
1502年、スポレートの総督となったルクレツィアは、アッシジも監督していた。
(城塞の解説本やサイトに、「ルクレツィアが滞在した」と書かれているものがあるが、これはこのことを拡大解釈して言っていると思う。ルクレツィアは滞在はしていない。)

やがて、イタリア半島における教会の支配が確立され、アッシジの戦略的重要性が失われるにつれ、このような衝突も次第に収束していきました。

最後の重要な介入は、教皇パウルス3世による1535年のものである。
この際にはペルージャのロッカ・パオリーナにも同様の円形基地を持つ塔が築かれた。

1535年、教皇パウルス3世(Paul III)によってロッカの最後の大規模改修が命じられます。
この教皇もまた征服欲の強い聖職者のひとりで、ウンブリア地方における壮麗な防衛建築の前哨として、ロッカ・マッジョーレの塔を強化し、現在もペルリチ門から見える円形の天守(キープ)を築きました。
この工事は、後にペルージャに建設されるロッカ・パオリーナ(Rocca Paolina)という要塞の序章でもありました。

その後、ロッカ・マッジョーレは次第に防衛機能を失い、まずは領土を監視するためのカステラーノ(要塞管理人)の住居となり、のちには牢獄や倉庫としても使用されました。

現在、ロッカの内部は見学可能です。
展示物はほとんどありませんが、剥き出しの石壁、矢狭間(やざま)、狭い通路を通じて、この地がどれほど多くの痛みと苦しみの舞台となってきたかを、今も感じ取ることができる場所です。

Wikipedia、Author=Hagai Agmon-Snir حچاي اچمون-سنير חגי אגמון-שניר

Wikipedia、Author=Hagai Agmon-Snir حچاي اچمون-سنير חגי אגמון-שניר

この威圧的で厳格な印象を持つロッカ・マッジョーレ要塞は、アッシジの歴史地区を見下ろすようにそびえ立ち、テッショ川の細い渓谷や、ペルージャからスポレートまで広がるウンブリア渓谷の大部分を望むことができます。この構造を訪れることで、14世紀の軍事建築が良好な状態で保存された貴重な例を観察できるとともに、ウンブリアでも屈指の印象的な景観を楽しむことができます。

見学コースでは、アルボルノス様式の正方形平面の要塞に入ることができ、ここには天守(ドンジョン)と多角形の塔があり、周囲の城壁と塔のシステムによって何世紀にもわたり拡張されてきました。

1394年から1398年のビオルド・ミケロッティ(Biordo Michelotti)による統治時代には、いくつかの修繕や修復作業が行われました。彼の紋章は要塞内の様々な場所に刻まれています。

1458年には、ジャコポ・ピッチニーノ(Jacopo Piccinino)の命令で、多角形の塔が北西側に築かれました。
その翌年、教皇ピウス2世(Pius II)は、ロッカと多角形の塔とを結ぶ通路の建設を命じます。
1484年には、天守近くに新たな出入口が開かれ、その上には3つの紋章が刻まれています。
中央の紋章は、教皇シクストゥス4世(Sixtus IV)のものです。

15世紀末には、要塞はフミ(Fiumi)家とネピス(Nepis)家の激しい抗争の舞台となりました。

1501年には、チェーザレ・ボルジア(Cesare Borgia)、続いて妹のルクレツィア・ボルジア(Lucrezia)がこの地に滞在しています。
1535年には、教皇パウルス3世(Paul III)の命により、円形のバスティオン(稜堡)が建設され、これが要塞に対する最後の大きな建築工事となりました。

その後ロッカ・マッジョーレは、防衛機能を終えたのちに要塞管理人(カステラーノ)の住居となり、周辺地域の治安を維持する役目を担いました。その後は牢獄、さらには倉庫としても使用されました。

現在では、修復によって再び評価が高まり、一般公開されています。

入口は16世紀の稜堡(バスティオン)近くにあり、内部には14世紀のレンガで舗装された中庭が広がっています。
その一角には天守(ドンジョン)があり、そこには管理用の部屋が設けられていました。
天守は要塞管理人の住居であり、5つの部屋が縦に重なる構造で、螺旋階段によって上下階にアクセスできます。

アッシジの最も高い場所に建てられたロッカ・マッジョーレは、街を見下ろすアジオの丘(Asio)にくっきりとそびえ立つ存在です。

	「この城は、廃墟の素晴らしい例である。山の頂にとどまり、アッシジの町がその両脇にしがみつくかのように広がり、まるで石の腕を左右に伸ばして小さな街を抱きしめているようだ」

この要塞が建つ場所は、すでに先史時代の最初の定住地の跡でもあり、ポルタ・ペルリチ通り(via Porta Perlici)からアクセス可能です。要塞は、アジオの丘の上に明確な存在感をもって浮かび上がっています。

要塞に関する最初の歴史的記録は1174年に遡り、当時、マインツ大司教がこの地に滞在し、フリードリヒ・バルバロッサの代理としてアッシジを占領したことが記されています。

その後、要塞はドイツの封建権力の拠点となりましたが、教皇インノケンティウス3世がスポレート公を追放し、彼と共にスヴァーベン家の幼いフリードリヒ2世(当時3歳)も追放します(フリードリヒ2世は1197年、アッシジで洗礼を受けています)。
そして1198年には市民の反乱によって要塞は破壊されました。

その後、要塞は教皇国家によって再び奪還され、1362年に枢機卿エジーディオ・アルボルノス(Gilio Albornoz)によって再建されます。

その後の数世紀にわたり、この壮麗な要塞は都市を巡って争う派閥勢力の権力の象徴となり、さまざまな改築が施されました。そのひとつが1535年に教皇パウルス3世ファルネーゼ(Paul III Farnese)によって加えられた円形の巨大なバスティオン(稜堡)で、現在でもその上には教皇の紋章がはっきりと残されています。

16世紀になると、この重厚な要塞は軍事的役割を失い、領土管理を担う要塞管理人(カステラーノ)の住居として使われるようになります。
その後、イタリア統一までの間は牢獄として使用され、さらに後には単なる倉庫へと変わっていきました。

現在では完全に修復されたロッカ・マッジョーレの入口は、16世紀に築かれたバスティオンの近くにあります。内部には、14世紀に遡るレンガ敷きの広い中庭があり、かつての管理用の部屋が中庭に面して配置されていました。

中庭の隣には「マスキオ(Maschio)」と呼ばれる建物が立ち、ここがかつての要塞管理人の住居でした。建物内は縦に重なる5つの部屋で構成され、螺旋階段で各階がつながれています。

マスキオの頂上に登ると、アッシジの町やペルージャからスポレートにかけての渓谷を一望できる、比類なき絶景が広がります。視界は遥か遠くまで広がり、肥沃で穏やかな平野の風景と、険しいテッショ川の峡谷が織りなすコントラストが、息をのむようなパノラマを形づくっています。






ミノーレ城塞(Rocca Minore)






ペルリチ門(Porta Perlici)






カップッチーニ門(Porta dei Cappuccini)






聖フランチェスコ聖堂(Basilica di San Francesco d'Assisi)






サンタ・キアラ聖堂(Basilica di Santa Chiara)






聖ルフィーノ大聖堂(La Cattedrale di San Rufino)







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