チェーザレ・ボルジアについて、とりとめのないけれど愛に満ちた探究心を発揮するサイトです。

ローマRoma-ポポロ広場を拠点に

ローマ Roma ポポロ広場を拠点に

広場から、コルソ通りを下ってヴェネツィア広場まで行きます。地下鉄の通っていないところなので、歩くとけっこう大変かもしれません。
ボルゲーゼ美術館も1度にまわるのは、かなりきつい・・・というかきっと無理です。

  • 黄色のマークがこのページにある見どころです。他は別ページにあります。

  • ポポロ広場 -
  • ポポロ門 -
  • サンタ・マリア・デル・ポポロ教会 -
  • コルソ通り - ポポロ広場からヴェネツィア広場をつなぐ通り。青いライン部分。
  • サン・ジローラモ・デイ・クロアティ教会 - スラヴォニア難民病院であったところ。
  • サン・ジャコモ病院 -
  • コロンナ宮 -
  • ローヴェレ邸 -
  • ヴェネツィア宮 -
  • サン・マルコ教会 -
  • ジェズ教会 -
  • サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会 -
  • ボルゲーゼ美術館 -


ヴァティカン美術館 - → ヴァティカン周辺
サン・ピトロ大聖堂 - → ヴァティカン周辺
ホテル・コロンブス - 旧ペニテンツィエリ宮。 → ヴァティカン周辺
サンタンジェロ城 - → ヴァティカン周辺
ジロード・トルローニア宮 - 旧コルネート邸。 → ヴァティカン周辺
スフォルツァ・チェザリーニ宮 - 旧ボルジア邸。 → ヴァティカン周辺
アレクサンデル6世の紋章 - パセットに見られる紋、その1。 → ヴァティカン周辺
アレクサンデル6世の紋章 - パセットに見られる紋、その2。 → ヴァティカン周辺

フィアンメッタの家・1 - → ナヴォーナ広場周辺
フィアンメッタの家・2 - → ナヴォーナ広場周辺
サン・タゴスティーノ教会 - → ナヴォーナ広場周辺
タヴェルナ宮 - 旧オルシーニ家 → ナヴォーナ広場周辺
カンチェレッリア宮 - 旧ラファエーレ・リアーリオ邸 → ナヴォーナ広場周辺
ペッレグリーノ通りと紋 - カンポ・デ・フィオーリ → ナヴォーナ広場周辺
ガッロ小路の紋 - カンポ・デ・フィオーリ → ナヴォーナ広場周辺
サンタ・マリア・ディ・モンセラート教会 - → ナヴォーナ広場周辺
ファルネーゼ宮 - → ナヴォーナ広場周辺

サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂 - → コロッセオ周辺
サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ教会 - → コロッセオ周辺
ボルジア邸とボルジア階段 - → コロッセオ周辺
カフェ・ボルジア - ボルジアの名のつくカフェ → コロッセオ周辺
クァットロ・コロナーティ教会 - → コロッセオ周辺
サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラーノ大聖堂 - → コロッセオ周辺
サン・シスト教会 - → コロッセオ周辺



※写真にマウスを置くと、多少の説明が出ます。

ポポロ広場(Piazza del Popolo)

左手に双子教会、中央にオベリスク、遠くに見えてるクーポラはサン・ピエトロ大聖堂。
ヨーロッパ各地から訪れる巡礼者たちは、フラミニア街道を南下し、北の玄関口であったフラミニア門(現在のポポロ門)を通ってローマ市内に入った。その時まず目にするのが、このポポロ広場であった。
楕円形の広場で西側にはピンチョの丘が広がる。(上の写真はそこから撮られたもの。)
もともとはポプラ(イタリア語でpioppo)広場と呼ばれていたようだが、後にサンタ・マリア・デル・ポポロ教会にちなんでポポロ広場となったらしい。

オベリスクと双子教会

中央には高さ24メートル(台座を含めると36メートル)のオベリスクがある。紀元前10世紀にオクタヴィアヌス(後のアウグストゥス)によってエジプトから持ち帰られたもの。(エジプトを征服しクレオパトラを自殺に追い込んだ後。)
最初はチルコ・マッシモ(Circo Massimo)(ローマの古代遺跡で10万人以上収容できたと言われる大競技場)に置かれていたが、1589年、巡礼者たちの目印とするために、教皇シクストゥス5世がドメニコ・フォンターナに命じて広場中央に据えた。

多くの巡礼者がスムーズに交通できるよう、コルソ通りの両脇に新たな2本の通り(リペッタ通りとバヴィーノ通り)が作られ、広場はローマ教会の玄関口として整備される。

17世紀には、南端に双子教会が完成する。向かって右にサンタ・マリア・ディ・ミラーコリ教会、左にサンタ・マリア・イン・モンテサント教会。
そっくりに見えるが、クーポラの形が違うし、左のモンテサント教会の方が大きい。形と大きさを微妙に変えることで、敷地面積の違いを解消し、同じに見えるように工夫されている。カルロ・ライナルディによって17世紀に建築された。

1811年から1822年にかけて、ジュゼッペ・バラディエールによってオベリスクの四隅の噴水や彫刻などが配され、広場は現在の姿となった。

チェーザレの時代にあったのは、フラミニア門(現在のポポロ門)サンタ・マリア・デル・ポポロ教会コルソ通り




ポポロ門(Porta del Popolo)

広場側から見たポポロ門。
広場側から見たポポロ門。















チェーザレの時代にはフラミニア門(Porta Flaminia)と呼ばれていた、ポポロ広場の北端にある門。
ローマとリミニを結ぶ、フラミニア街道の出発点であったことから、この名がついていた。
北方からローマを訪れる人々の玄関口であり、税関の役目も担っていた。

1500年2月26日、多くの枢機卿や大使たちは、チェーザレのローマ帰還を祝して、ここに彼を出迎える。チェーザレはここからコルソ通りを下って、ローマ市外を行進し、サン・ピエトロに入場した。

数度の改修がなされてはいるが、もともとは、270年代に作られたアウレリアヌスの城壁(ゲルマン人の襲撃に備えるための城壁。)の一部。
17世紀に、スウェーデン女王クリスティーヌのローマ訪問を記念して、ベルニーニが内側のファサードを装飾している。




サンタ・マリア・デル・ポポロ教会(Basilica di Santa Maria del Popolo)

サンタ・マリア・デル・ポポロ教会。意外と質素でボロい。 ポポロ門とポポロ教会。

1099年、教皇パスカル2世によって建てられた教会。
この場所に出没していた皇帝ネロの亡霊を祓うため、教皇は亡霊の宿っているというクルミの木を切り倒し、そこに聖マリアを称える教会を建てた、という伝説を持つ。

建設資金を市民が負担したのでポポロ(伊・Popolo、市民の意味)の名がついたと言われるが、周囲に茂っていたポプラの木(ラテン語・populus、ポプラの意味)による、という説もある。

1472年、教皇シクトゥス4世の下で、アンドレア・ブレーニョが教会をフラミニア門(ポポロ門)と結合する。
17世紀にはベルニーニが身廊と主祭壇を装飾。
その他にも多くの増築・改築が行われている。

ピントリッキオのフレスコ画や、カラヴァッジョの作品のあることで有名。
枢機卿アスカーニオ・スフォルツァの墓(アンドレア・サンソヴィーノの手による。)や、
ジョバンニ・デッラ・ローヴェレの墓(アンドレア・ブレーニョの手による。)もある。
アレクサンデル6世やユリウス2世に仕えた、教皇庁書記官ブルカルドも、ここに埋葬されたらしい。

正面が主祭壇。

ボルジア家の祭壇のあった、現フェオーリ礼拝堂。

※ ↑ クリックすると拡大します。

以前はボルジア家の祭壇があり、チェーザレの弟ホアン、いとこ甥のホアン(シレンツィオ)、母ヴァノッツァの墓が置かれていた。
しかし1527年、ローマ劫略の際、教会は襲撃され祭壇も破壊されてしまう。
現在はそれを修復したピエトロ・フェオーリの名にちなんだフェオーリ礼拝堂(Cappella Feoli)の説明パネルに、ボルジアの名が見られるのみ。
(ヴァノッツァの墓は墓碑部分のみが残され、サン・マルコ教会に移されている。)





コルソ通り(Via del Corso)

コルソ通りパネル。 ヴィットリオ・エマヌエーレ2世の祈念堂から見たヴェネツィア広場と奥のコルソ通り。
ポポロ広場、双子教会の間のヴェネツィア広場まで続く通り。約1.6キロ。ローマでも最も大きな通りのひとつ。
中世にはラタ通り(Via Lata)と呼ばれていた。

1500年2月26日、初陣を勝利で飾ったチェーザレは、ポポロ門からローマに入り、この通りを行進してヴァティカンに入場した。




サン・ジローラモ・デイ・クロアティ教会(Chiesa di San Girolamo dei Croati)

サン・ジローラモ・デイ・コロアーティ教会

スラヴォニア難民病院であったところ。(スラヴォニア難民=トルコ侵略で逃げて来た人たちのこと。)
ホアンの遺体はここの河岸からテヴェレ河に投げ込まれた。


下の画像は1667年頃、ジョヴァンニ・バッティスタ・フェルダによって描かれた教会とリペッタ港と呼ばれていた船着き場。
時代は新しいけど、ホアンが投げ込まれた時の様子が窺い知れる。

 Chiesa di S. Girolamo della Natione dei schiavoni nella regione di campo Marzo à Ripetta by Giovanni Battista Falda




サン・ジャコモ病院(Ospedale San Giacomo)

サン・ジャコモ病院。アントニオ・カノーヴァ通りから。 サン・ジャコモ病院パネル。「整形外科部門」とあります。
ポポロ広場からコルソ通りを下ると、右手にある病院。
1339年に設立。

コルソ通り沿いのサン・ジャコモ薬局。こちらの営業は続いてます。

1497年6月14日から15日にかけての夜、チェーザレの弟ホアンは何者かに暗殺され、死体はテヴェレ河で発見される。
その時、死体遺棄の様子を目撃していた男は、
「(死体を遺棄した男たちは)サン・ジャコモ病院の方へと立ち去った。」
と語っている。

現在、建物はまだ残っているが、2008年10月、経営不振と老朽化のために閉鎖されたよう。700年の歴史を持ち、200人近い医師と300人以上の看護婦を抱える巨大な病院であった。




コロンナ美術館(Palazzo della Galleria Colonna)

アポストリ教会側から見たコロンナ宮。美術館入り口はこの通りの反対側!

ローマに勢力を誇っていた、皇帝派の貴族コロンナ家の宮殿。
現在はコロンナ美術館として一部が公開されている。豪壮な装飾のなされた広間と、壁を埋めつくす色とりどりの絵画は圧巻。

13世紀、古代ローマの神殿跡地に、枢機卿ジョヴァンニ・コロンナとジャコモ・コロンナによって建てられた。
14世紀には、教皇マルティヌス5世となる前の、枢機卿オッドーネ・コロンナの邸宅であった。

マルティヌスの死後、コロンナ家は次代の教皇たちと対立、不安定な世情の中、宮殿はデッラ・ローヴェレ家に奪われる。
が、ユリウス2世(ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ)の姪、ルクレツィア・ガラ・デッラ・ローヴェレとマルカントーニオ1世・コロンナの結婚により、再びコロンナ家の所有となった。
コロンナ家はハプスブルク家と同盟しており、1527年ローマ劫略の際、宮殿は略奪を免れた。
この時、ローマを訪れていたマントヴァ侯妃イザベッラ・デステは、ここに滞在している。

16世紀末から17世紀初頭にかけて、フィリッポ・コロンナが、多くの部分に分かれていた宮殿の結合と改築に着手。
17~18世紀にはファサードが完成、同時に現在公開されている壮大なギャラリーも完成した。

所蔵作品は、主に17世紀の枢機卿ジローラモ・コロンナと彼の甥ロレンツォ・オノフーリオの蒐集したもの。
ティントレット、カラッチなどが有名。
映画「ローマの休日」のラストシーンである、アン王女の記者会見の行われたところとしても有名。

入口はヴェネツィア広場から11月4日通り(Via ⅳ Novembre)に入り、ピロッタ通り(Via Pilotta)に折れたすぐのところ。小さく見過ごしやすいので注意。

  • 開館時間
    土曜 9:00~13:00 のみ!
    月~金、8月は休館。

内部の写真撮影不可。




ローヴェレ邸(palazzo Della Rovere)

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コロンナ美術館の北側に、サンティッシマ・アポストリ教会を経て連なっている建物。
住所は、piazza dei santissimi apostoli 51。
15世紀ローマの代表的建築物。
最初の建設はギリシャ人枢機卿バシレイオス・ベッサリオン(Basilius Bessarion)によって着手された。サンティ・アポストリ教会の北端(アポストリ通りから建物に向かって右側)はその頃のもの。1480年に完成。
その後ピエトロ・リアーリオの手に渡り、ピエトロの死後、ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレの手に渡った。
ジュリアーノは、ライヴァルであったボルジアの屋敷に対抗して、より豪奢な宮殿を増築する。
外装はジュリアーノ・ダ・サンガッロ、内装はドメニコ・フォンターノの手によるとされる。

ジュリアーノがユリウス2世として教皇に選出された後、屋敷はフランチェスコ修道会へと寄贈された。現在も同修道会の所有となっている。

写真は、真ん中の教会の3階部分がなければ、惣領冬実「チェーザレ」6巻末の解説「甦る中世の都市と建築」に載せられているローヴェレ邸イラストとそっくり。




ヴェネツィア宮(Palazzo Venezia)

ヴェネツィア広場から見たヴェネツィア宮殿。 2階のテラス部分。
1455年、後に教皇パウルス2世となるヴェネツィア出身の枢機卿ピエトロ・バルボによって建てられた。ローマで最も古いルネッサンス様式の宮殿。チェーザレの時代にはサン・マルコ宮殿と呼ばれていた。
バルボはロドリーゴ・ボルジアの友人であったようなので、ロドリーゴはここを訪れたことがあるかも!

隣接するサン・マルコ教会を司牧する、ヴェネツィア出身の枢機卿の住居として使われた。(サン・マルコはヴェネツィアの守護聖人。)
1469年、バルボの教皇選出によって教皇の住居となり、その後はヴェネツィア共和国の大使館として使われた。そこからこの名で呼ばれることとなる。

1498年、シャルル8世のイタリア侵攻時、シャルルはここに滞在したと言われる。チェーザレは外交使節の役割を担って、ここを訪れている。

なぜか南国風の中庭。

1797年、カンポ・フォルミオ条約によって、宮殿はオーストリア・ハンガリーの所有となる。
1916年、イタリアの手に戻り、ファシズムの時代、ムッソリーニはここに執務室を置く。
1940年、ムッソリーニが宮殿のバルコニーから、英仏との開戦を宣言する演説を行ったことは有名。

現在はヴェネツィア博物館(Museo nazionale di Palazzo Venezia)として2階部分が公開され、テペストリーや陶器、銀器、絵画、彫刻などが展示されている。図書館も併設されているが、こちらは一般公開はされていない。
チェーザレの肖像画のひとつは「ローマ、ヴェネツィア宮所蔵」とされているが、これも一般公開されてないよう。残念・・・。
入り口は広場側ではなく、プレビスチート通り(Via Del Plebiscito)にある。やや見つけにくい。

惣領冬実「チェーザレ」において、ボルジア邸はこの宮殿をモデルに描かれている。(2巻Virtu9などに登場。とてもよく似ている。)




サン・マルコ教会(Basilica di San Marco)

サン・マルコ教会地下部分。
天井の紋は教皇パウルス2世のもの。

ヴェネツィア宮に隣接する(というか合体している)小さな教会。
ヴェネツィア広場のわきの、サン・マルコ広場に入り口がある。ぱっと見、教会があるようには見えないので、少し迷うかも。

336年、教皇マルクスによって建てられた、福音記者サン・マルコ(「マルコによる福音書」を書いた人。ヴェネツィアの守護聖人。)を記念して建てられた教会。
792年、教皇ハドリアヌス1世によって修復され、833年、教皇グレゴリウス4世によって改築される。
1154年、ロマネスク様式の鐘楼が作られる。
1465年~1470年、ヴェネツィア出身の教皇パウルス2世が、教会の内部外部ともに大幅にルネッサンス様式に改修。隣接してヴェネツィア宮が建てられ、教会はローマ在住のヴェネツィア人の居住地となった。
17世紀~18世紀、最後の大改修が行われ、教会はバロック様式の影響を受けた形となった。

Wikipwdiaの画像です。ファイルの作者=Lalupa ヴァノッツァの墓碑

1518年11月26日、チェーザレの母であるヴァノッツァ・カッタネイ死去。次男ホアンの眠るサンタ・マリア・デル・ポポロ教会に葬られる。
が1527年、ローマ劫略の際、教会は襲撃され墓は略奪されてしまう。
すべて瓦礫となり散逸したと思われていたが、1498年、ずっと敷石として使われていたものがヴァノッツァの墓石であると発見された。
そして現在、サン・マルコ教会のポルティコに組み入れられ、保存されている。

左の写真が、そのポルティコ部分。(ポルティコとは、前廊、玄関、アーケード、の意味。)
写真左に見えるドアが教会入り口。
右に見える門扉を出るとヴィットリオ・エマヌエーレ2世の記念堂がある。
正面奥の壁、右下、横に長い長方形部分が、ヴァノッツァの墓碑。
右の写真がそのアップ。

墓石にはチェーザレ、ホアン、ホフレ、ルクレツィアの名前があり、ここからヴァノッツァの産んだ子どもたちはこの4人とされているし、名前の順番がチェーザレ長男説の論拠のひとつとなっている。




ジェズ教会(Chiesa del Gesù)

ジェズ教会ファサード。

1534年、イグナティウス・デ・ロヨラやフランシスコ・ザビエルらによって創設された男子修道会、イエズス会の母教会。
教皇パウルス3世(ジュリア・ファルネーゼの兄)の孫である枢機卿アレッサンドロ・ファルネーゼの資金提供によって、1568年から1580年にかけて建てられた。
内部は後期バロック様式による豪華な装飾が施されている。

フランシスコ・ザビエルのミイラ化した右手が祀られていることで有名。


ジェズ教会内部。
聖フランチェスコ・ボルジアの礼拝堂。

イエズス会は、ローマ教皇への強い忠誠心を掲げ、反宗教改革運動(カトリック教会の組織を建て直してプロテスタントの拡大を食い止めようとした運動)の旗手として、カトリック教会の世界的布教につとめた。
その、イエズス会第3代総長がフランシスコ・ボルジア。(チェーザレの弟ホアンの孫。)

彼は4代目ガンディア公のタイトルを放棄し、イエズス会へと入信。
1565年、イエズス会総長となると、大学を創設し、多くの宣教師を育成、会とキリスト教に貢献した。
1671年、死の約100年後、教皇クレメンス10世によって列聖された。

入り口を背にして1番手前、左手に、彼の礼拝堂「Cappella San Francesco Borgia」がある。




サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会(Basilica di Santa Maria sopra Minerva)

教会前のオベリスクはベルニーニ作の象の上に立つ。 レオ10世の霊廟。この向かいにクレメンス7世。

カラーファ家の礼拝堂。

古代ローマの知恵の女神ミネルヴァの神殿のあったところに、8世紀に建てられた教会。
ソプラ・ミネルヴァ(sopra Minerva)とはオン・ミネルヴァ(on Minerva)という意味。
13世紀末、ドメニコ会の教会となり、大々的に修復された。ローマで唯一のゴシック様式の教会。

外観は簡素だが、内部は壮麗で美術館のよう。

入り口を背にして右奥には、カラーファ家の礼拝堂がある。(右の写真)
1492年のコンクラーヴェでロドリーゴ・ボルジアと教皇の座を争ったオリヴィエロ・カラーファの注文によって、フィリッポ・リッピが作り上げた。
写真中央の絵画「受胎告知」の右下に跪くのはカラーファとして描かれている。

主祭壇の左、内陣柱部分にはミケランジェロの「あがないの主イエス・キリスト」。

マッダレーニ・カピフェロ礼拝堂には、フィレンツェのドメニコ会修道士であった、フラ・アンジェリコの墓。

また、アントニオ・ダ・サンガッロの手による、レオ10世とクレメンス7世、2人のメディチ教皇の墓もある
(右上の写真が、レオ10世の墓。)
二人の教皇は主祭壇の両脇で向かい合っている。

また、フランチェスコ・レモリーネスが埋葬されたのもこの教会であった。




ボルゲーゼ美術館(Museo e Galleria Borghese)

ボルゲーゼ美術館

広大なボルゲーゼ公園の一角にある美術館。
1613年~1616年、枢機卿シピオーネ・カッファレッリ・ボルゲーゼによって建てられた夏の別荘。各国大使の迎賓館としても使われていた。教皇も交えた、豪華な晩餐会などが開かれていたと言う。
1902年に国の所有となり、美術館として一般に公開されている。

所蔵品は芸術の愛好家であったシピオーネの蒐集したものが中心となっている。ラファエロ、カラヴァッジョ、ベルニーニなどの作品が有名。
1階には彫刻、2階には絵画を展示。

ちなみにボルゲーゼ家は、教皇パウルス5世を輩出したシエナ出身の名門貴族。シピオーネはこの教皇の親族登用主義によって枢機卿に任命された。

  • インノチェンツォ・ディ・ピエトロ
    ヴァノッツァ・カッタネイがモデルという説がある。
    → 画像を見る

※ ボルゲーゼ美術館は予約必須です。詳しくは → 旅行ガイドを。






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