1503年 ①
1503年
シニガリア事件後
1503年(28歳)
目下のチェーザレの目的はマジョーネ同盟に参加していた残りの者の始末をつけること。
また、この機に乗じてオルシーニ家を攻撃すること。
1月1日 | チェーザレ、全軍を率いてシニガリアを発つ → まずコリナルドへ移る |
パンドルフォ・ペトゥルッチへを牽制し威嚇する意味もこめて、シエナの方向へゆっくりと行軍していく。 同時に父(アレクサンデル6世)や弟(ホフレ)を使って、オルシーニ家への攻撃を準備する | |
2日 | チェーザレ、砲兵隊をフォッソンブローネ経由でグッピオまで移動させる |
アレクサンデル6世、ジョヴァンニ・バッティスタ・オルシーニ枢機卿をカステル・サンタンジェロへ投獄 → フィレンツェ大司教リナルド・オルシーニらもともに収監される | |
ホフレ・ボルジアはオルシーニ家の所領地を略取 | |
3日 | チェーザレ軍、コリナルドを発ちサッソフェラートへ |
5日 | ヴィテッリ家の面々、チタ・ディ・カステッロからペルージャへ逃亡 → グイドバルド・モンテフェルトロも共に |
チタ・ディ・カステッロの市民代表団、サッソフェルラートを訪れてチェーザレへの恭順を誓う → チタ・ディ・カステッロ、実質的にチェーザレの支配下に チェーザレ軍、サッソフェラートを発ちグアルドへ | |
6日 | ジャンパオロ・バリオーニ、ヴィテッリ家の面々、オルシーニの残党、ペルージャからシエナへ逃亡 → ペルージャ、チェーザレの支配下に |
チタ・ディ・カステッロもペルージャも、名目上はチェーザレ領ではなく「教会に返還」ということにしている。
チェーザレはあくまでも「教皇軍総司令官として反逆者を罰し」、「教皇領を教会の手へと復した」、という姿勢を貫いている。フランス王ルイやイタリア諸国に対する大義名分である。
7日 | チェーザレ軍、グアルドを発ちアッシジへ → シエナ進攻をほのめかしている |
8日 | チェーザレ、シエナの使節と会見 → パンドルフォ・ペトゥルッチの追放を要求する |
10日 | チェーザレ軍、アッシジを発ちトルジャーノへ |
チェーザレ、マキァヴェッリと会見 → ペトゥルッチ征伐のためにフィレンツェの助力を要請する |
11日 | チェーザレ軍、トルジャーノを発ちスペダレットへ |
12日 | チェーザレ、ペトゥルッチ対策のためフランチェスコ・レモリーネスをアレクサンデル6世の元へ派遣 → ペトゥルッチとの講和、という選択肢を考えている |
(ペトゥルッチとオルシーニを同時に相手にするのは大変なので、ペトゥルッチの方は猶予したい) | |
13日 | チェーザレ軍、スペダレットを発ちカステル・デッラ・ピエーヴェへ → 城攻めのためのはしご櫓を作り始める(シエナ進攻への準備) |
ベンティヴォーリオの書記官、チェーザレの元を訪れる → チェーザレ、和平を確約し全領土に通達する | |
18日 | パオロとフランチェスコのオルシーニ、処刑される → カステル・デッラ・ピエーヴェにて、ミゲル・ダ・コレッラの指揮の下に |
20日 | マキァヴェッリ、チェーザレの下を去りフィレンツェへ帰国 代わる使者はヤコポ・サルヴィアーティ |
23日 | オルシーニ、サヴェッリ家と組んでポンテ・ノメンターノを攻撃、略奪する → ローマの空気が不穏となり、アレクサンデル6世はチェーザレへローマ帰還を要請する |
24日 | チェーザレ、シエナと和平協定を結ぶ |
ペトゥルッチ、協定成立後もジャン・パオロ・バリオーニと共に抗戦を主張 チェーザレ軍、シエナ領内ピエンツァまで進む。 | |
28日 | パンドルフォ・ペトゥルッチ、シエナから逃亡 → ジャン・パオロ・バリオーニもともに → まずルッカ、そしてピサへ。やがてルイ12世を頼ってフランスへ |
マジョーネの反乱の後始末、全て完了
チェーザレ、全軍を率いてローマヘ向かいはじめる
2月1日 | チェーザレ軍、アックアペンデンテへ |
ここでチェーザレは、イザベッラ・デステからの贈り物「謝肉祭用の仮面100個」を受け取る。
これはマジョーネの反乱を巧みに収拾したチェーザレへの、賛美であり慰労だった。
チェーザレのウルビーノ攻略時に、イザベッラはモンテフェルトロの所蔵品であったヴィーナスとミケランジェロのキューピッドの彫像を、チェーザレに求めて与えられており、その返礼の品であったとも言われる。
同日、チェーザレはイザベッラへお礼の手紙を書いている。
4日 | チェーザレ軍、ヴィテルボへ |
13日 | ナポリ王国にて、バルレッタの決闘 → ナポリをめぐってのフランス、スペインの戦いはスペインの有利となっていく |
→ チェーザレ、フランス王からの離反とスペイン両王への接近の意を強くする | |
19日 | チェーザレ軍、ストリへ |
22日 | ジャンバッティスタ・オルシーニ枢機卿、カステル・サンタンジェロで死去 → グィッチャルディーニはボルジアによる毒殺と断じているが、自然死であるとの見方が有力 |
2月半ば | チェーザレ軍、オルシーニの所領地のひとつ、チェーリを攻囲 |
26日 | チェーザレ、ローマに帰還 → 謝肉祭前後の3週間ほどをゆっくりと過ごす |
3月半ば | チェーザレ、チェーリ攻撃に戻る |
29日 | パンドルフォ・ペトゥルッチ、シエナに帰還 → ルイ12世の後押しによって ルイ12世はチェーザレの勢力拡大を懸念、シエナやフィレンツェの保護を約束しチェーザレを牽制した |
31日 | アレクサンデル6世、枢機卿会議を招集 → 8つの新しいポストを儲け、それぞれの就任者から760ドゥカートを徴収する |
4月6日 | チェーリ、降伏 → オルシーニ、ブラッチャーノ以外の全ての城塞をチェーザレに明け渡す → オルシーニ家の勢力はローマ周辺から駆逐される |
しかし、同家の主だった傭兵隊長、ジャンジョルダーノ、ジュリオ(フランスの傭兵隊長)、ニッコロ・デ・ピティリャーノ(ヴェネツィアの傭兵隊長)は無傷で生き延びる。
フランス、ヴェネツィアの両大国を敵に回さないための配慮であったが、オルシーニを撃滅しなかったことは、アレクサンデル6世の死後、チェーザレを危険にさらすことになる。
10日 | ジョヴァンニ・ミキエリ枢機卿、死去 → 莫大な遺産が、アレクサンデル6世によって徴収される |
ボルジアによる毒殺説がささやかれるが、真偽のほどは定かではない | |
11日 | フランス、スペイン間に和平協定が結ばれる → フランス、ブロワにて、ルイ12世とフェリペ大公の間で しかし、この協定は守られず、戦闘は続く |
4月28日 | チェリニョーラの戦い |
ナポリの支配権をめぐるスペインとフランスの戦いでスペインが勝利する ゴンサロ・フェルナンデス・デ・コルドバ率いるランツクネヒト2000、火縄銃兵1000、大砲20門を含むスペイン軍が、主に貴族主体の重装騎兵とスイス傭兵の槍兵から成るフランス軍9000を撃破。フランス軍の指揮官ヌムール公ルイ・ダルマニャックは戦死 | |
このスペインの勝利はアレクサンデル6世死後のチェーザレの処遇に影響することになる | |
5月11日 | チェーザレ、アレクサンデル6世とともにネットゥーノへ |
この頃ネットゥーノの城塞が落成しており、彼らは視察に向かった | |
13日 | ゴンサロ・フェルナンデス・コルドバ、ナポリに入城 |
19日 | アレクサンデル6世の秘書フランチェスコ・トローチェ、ローマから遁走 → シエナへ赴き、パンドルフォ・ペトゥルッチと接触 → ボルジアのスペイン接近を、フランスへ流そうとしたと思われる → チェーザレはすぐにトローチェの逮捕状を出す →コルシカ島で捕らえられ、オスティアを経由してローマに連れ戻された後、トラステヴェレの塔に閉じ込められる |
31日 | アレクサンデル6世、新たな枢機卿を9名任命 |
スペイン人 | ジョヴァンニ・カステラル | |
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フランチェスコ・レモリーネス | チェーザレの家庭教師 | |
ジャコモ・ディ・カサノヴァ | アレクサンデル6世の侍従 アレクサンデル死後、ミゲルに剣をつきつけられて財宝室の鍵を渡す | |
フランチェスコ・デ・ロリス | ボルジアの親族 | |
フランチェスコ・デ・スプラータ | ||
イタリア人 | フランチェスコ・ソデリーニ | 1502年、ウルビーノでチェーザレと面会したヴォルテッラの司教 |
アドリアーノ・ダ・コルネート | 1503年8月、ぶどう園での晩餐会にボルジア父子を招く この後、父子はマラリアの症状で倒れる | |
ニコラ・ド・フリスコ | ||
ドイツ人 | メルシオール・デ・メッカウ |
アレクサンデル6世はこの任命によって、12万から13万ドゥカートの現金を得た。 →チェーザレの軍資金となる | |
6月 | チェーザレ、ナポリ奪還を意気ごむルイ12世のために兵を送る 同時に自軍の再編成を行う → 軽装騎兵に力を入れ、スペイン兵を多く雇い入れる |
8日 | ミゲル・ダ・コレッラ、トラステヴェレの牢でフランチェスコ・トローチェを絞殺する |
7月5日 | チェーザレ、自軍を閲兵しローマを行進 |
→ 先頭には、250から300の騎兵を率いる盛装のチェーザレ。 2番手には、銃兵(石打ち銃兵)を率いるミゲル・ダ・コレッラ。(銃の使用はこの時代一般的ではなく革新的なものだった) その後には、アルバニア人から成る軽装騎兵(ストラディオット)の選抜隊。 | |
8日 | アレクサンデル6世、チェーザレをチタ・ディ・カステッロの永久教皇代理に |
28日 | アレクサンデル6世、チェーザレのナポリ出立(フランス軍との合流)は8月始めになると教皇庁の会議で明言 → 500の騎兵と2000の歩兵を率いる予定 |
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