バリオーニ
バリオーニ家(Baglioni)
ペルージャの支配者一族。
一家の起源は13世紀に始まり、伝承では皇帝フリードリヒ1世バルバロッサとともにイタリアに下ったゲルマン系軍人だったと言われている。
1438年から1540年まで、他の有力者一家と争いながら断続的ではあるが1世紀以上に渡ってペルージャを支配した。
ジャンパオロ・バリオーニ(Giampaolo Baglioni)
(1470年頃(1471年7月としている説もある) - 1520年6月11日)
ペルージャ生まれ。
領主と言うより傭兵隊長として生きた男、という感じ。戦ってばかりいる。
ペルージャは他家との覇権争い、教皇庁からの介入、また同族間での争いも多かったので、戦わずしては生きられなかったのかな。
ロドルフォ・バリオーニとフランチェスカ・ディ・シモネット・ダ・カステル・サン・ピエトロの息子。
オラツィオ、マラテスタ、シモネットという兄弟もいるが、オラツィオとマラテスタは1486年に、シモネットは1500年に死去しているので、チェーザレ周辺にはほぼ登場しない。
少年時代はペルージャで優秀な家庭教師につき教育を受けた。
チェーザレと同年輩だけど、1489年から1491年までペルージャの大学にいたチェーザレとの交流の記録はない。(しかし彼の従兄弟グリフォーネはある!)
(おそらく)10代の頃、ヴィルジニオ・オルシーニの中隊に所属。
1490年、ローマ貴族の家系であるイッポーリタ・コンティと結婚。
1491年に長男マラテスタ、
1493年に次男オラツィオをもうける。
(他にエリザベッタ、ラウラという2人の娘もいる。でも生年などは不明)
この年から数年間フィレンツェの傭兵隊長を務め、シエナやピサと交戦している。
その傍ら地元の紛争にも関わり、従兄弟のモルガンテ・バリオーニ、アストーレ・バリオーニらと協力し、ペルージャの有力者だったオッディ家を追い出したりしている。
1491年6月8日から10日にかけて、カミロ・ヴィテッリ、パオロ・オルシーニとともに、ペルージャの有力者だったラニエリ家、サンターガタ家を焼き払い、当主を吊るし、ペルージャにおけるバリオーニ家の優位を強化する。
1492年3月、ペルージャで開催された馬上槍試合で優勝。
8月26日に行われたアレクサンドル6世の戴冠式に出席。
11月、ヴィテロッツォ・ヴィテッリ、カルロ・バリオーニ(後に天敵のようになる)とともにペルージャ周辺の農村を略奪し、サン・フランチェスコ教会の扉に火をつけ略奪。
しかし同年、刑事事件と民事事件の管理責任者に就いたりもしている。同僚にはモルガンテ・バリオーニとロドルフォ・シニョレッリ。
1494年、シャルル8世のイタリア侵攻でもフィレンツェ(フランス)につく。
1495年、フォルノーヴォの戦いでもフランス側につき捕虜になっている。が、2ヶ月ほどで解放された。
この後もまたオッディ家と戦ったり、フィレンツェのためにピサを攻めたり、ペルージャ周辺での小競り合いに加わったり、オルシーニにためにコロンナと戦ったり、シエナのパンドルフォ・ペトゥルッチともめながら裏で通じたりしている。
チェーザレ軍に最初から従軍していて、1499年、オノーリオ・サヴェッリ、ヴィテロッツォ・ヴィテッリ、ジトロ・ダ・ペルージャとともに、タッデオ・デッラ・ヴォルペの守るイモラへ進軍した。
1500年7月14日、従兄弟のアストーレ・バリオーニの結婚式にて同族間の虐殺事件が起きる。
(「血の結婚式」と呼ばれる)
カルロ・バリオーニ、グリフォーネ(グリフォネット)・バリオーニ、ジローラモ・デッラ・ペンナらによって、新郎新婦を含む6人が殺されるが、ジャンパオロは変装して街を脱出し難を逃れた。従兄弟のジェンティーレやアドリアーノも生き延び、反乱者たちはすぐに反撃された。
ジャンパオロの報復は苛烈で、カルロ・バリオーニが逃げ込んだ村は焼かれ、関係者と思われる28人が殺された。
この時ヴィテロッツォ・ヴィテッリは加勢に来ていて(ジャンパオロがヴィテロッツォのもとへ一旦逃げたとも言われてる)、多分2人は仲が良かったと思われる。
同年10月、ペーザロ、リミニ、ファノに入るチェーザレ軍に従軍。500の歩兵を率いる。
行軍中、バリオーニ家の所領であるデルータ、トルジャーノ、ベットーナでキャンプするが、チェーザレ軍の兵士たちは街を荒らしてめちゃくちゃにしてしまう。特にスペイン人兵士の横暴さは目に余るものがあったよう。
しかしチェーザレは介入せず。(自分とこじゃないとどうでもいいんだねチェーザレ。…むしろわざとかもしれんから怖い)
ジャンパオロ配下のペルージャの兵士たちは激怒し、1人でいるスペイン兵を狙って密かに殺しまわった。彼らの多くは縛られ、テヴェレ川に投げ込まれた。
ファノからそのままチェーザレのファエンツァ攻囲に従軍。
しかし12月、途中で帰ってしまう。
(雪がひどかったから、とさも無責任なように言われてるが、雪のせいで食料も物資不足していたし、スペイン人兵士との確執はひどくなっていたし、上記の虐殺事件の後始末が色々あったせいじゃないかと思われる。
実際この後シニガリアのジョヴァンニ・デッラ・ローヴェレとウルビーノのグイドバルド・モンテフェルトロのところに、ペルージャから逃げて来た人間(虐殺に関わった人間)を亡命させないよう依頼しに行っている。
月末には首謀者カルロ・バリオーニとジローラモ・デッラ・ペンナと交戦しかけたりもしている。)
1501年2月から何度となくカルロ・バリオーニ、ジローラモ・デッラ・ペンナと交戦する。が、決着はつかない。
7月、フランス軍とともにナポリへ向かうチェーザレに従軍する。
ジャンパオロはテルニを略奪、攻囲した。
同月、アレクサンドル6世は、ペルージャのサン・ロレンツォ聖堂の宣教師である弟トロイラスを同市の司教に任命した。
1502年9月、ヴィテッロッツォ・ヴィテッリとともにピオンビーノを攻囲する。
10月、反チェーザレの一員としてマジョーネの会合に出席する。
12月、彼は他の反乱者同様にチェーザレと和解するが、体調不良を理由にシニガリアへの集合を拒否し、命拾いする。
ここで行かない選択をしたジャンパオロはかなり鼻の効く優秀な軍人だったのでは。虐殺事件で生き延びたのも運が良かっただけではなかったのかも。
翌年、チェーザレは逃げたジャンパオロを捕獲すれば大将の称号(capitano generale)を与えると言って彼を追いつめる。
しかしジャンパオロはペルージャからシエナ、ルッカ、ピサ、再びシエナと移動し逃げ切った。やっぱりすごい。
その逃げ方を詳しく書くと、
1月、ファビオ・オルシーニ(500頭の馬、4000~5000人の歩兵、多数の騎乗弩兵)とともにモンタルボド(オストラ)に避難。
2000の騎兵を率いたミゲル・ダ・コレッラに追われるが、首尾よく従兄弟のジェンティーレと合流、一旦ペルージャに戻り貴重な財産を積んだ騾馬や荷馬車、800頭の馬と約1000人の歩兵とともに逃亡する。ジュリオ・ヴィテッリやジョヴァンニ・ロッセットも護送団の一員だった。
彼らはフラッタ・トディーナに向かい、トラジメーノ湖に向かって進み、そこで逃亡者たちは二手に分かれる。
ヴィテッリはチッタ・デッラ・ピエヴェを目指し、バリオーニはキアーナ渓谷を通ってシエナに向かった。その際彼は渓谷にかかる唯一の橋であるブタローネ橋を破壊した。(かしこい)
2月、シエナに到着。パンドルフォ・ペトゥルッチに迎えられる。
同月、チェーザレの軽騎兵の待ち伏せから逃れ、300頭の馬を率いてルッカに到着。
ここからラヴェンナに向かいバルトロメオ・ダルヴィアーノ(妹ペンテジレーアの夫。義弟になる)と合流すると見せかけて、パンドルフォ・ペトゥルッチとともにピサを目指した。
3月、パンドルフォ・ペトゥルッチとともにシエナに戻る。
しばらく(アレクサンデル6世崩御まで?)シエナに留まったよう。(チェーザレの追手から逃げ切った)
8月、教皇アレクサンデル6世の死後、従兄弟のジェンティーレとともにオルシーニの軍に加わる。
バルトロメオ・ダルヴィアーノとルドヴィーコ・デッリ・アッティも軍に加わり、チェーザレと同盟していたコロンナの傭兵隊長ムツィオ・コロンナの軍を破る。
9月、7000の兵を率いてペルージャに入り、4時間の戦闘の後、ペルージャを奪回する。
10月、ファビオ・オルシーニ、ルドヴィーコ・デッリ・アッティ、バルトロメオ・ダルヴィアーノとともにローマに入る。
新教皇ピウス3世の下、バリオーニはフランスに、アルヴィアーノとオルシーニはスペインにつく。
10月、四方を敵に囲まれたチェーザレはローマから脱出しようとする。(ロマーニャへ行こうとする)。
しかしファビオ・オルシーニとレンゾ・ディ・チェーリ(シニガリア後も父ジョヴァンニとともにオルシーニを支持していた)がヴァティカンに侵入、ポルタ・トリオーネに火を放ち阻止。チェーザレはスペイン人枢機卿たちの手を借りてカステル・サンタンジェロに逃げ込む。
ジャンパオロもローマに進軍していたがフランスにつく形だったので攻撃はしていないよう。(しかし完全に敵だよね。ずっとフィレンツェ(フランス派)の傭兵隊長としてやってきた一族だからフランスについたんだと思われる。)
彼はルーアン(フランス)の枢機卿を守るという名目で、ローマにとどまり続ける。
ピウス3世死後、新教皇ユリウス2世は、オルシーニ家、アルビアーノ家をローマから追い出す。
11月、ジャンパオロは、ヴィテッリやシエナの軍とともに、ピサに向かっていたミゲル・ダ・コレッラ、タッデオ・デッラ・ヴォルペ、カルロ・バリオーニぼ軍をペルージャで迎え撃ち、フィレンツェ方面へ追い込む。
30日、ジャンパオロはカスティリオン・フィオレンティーノ(Castiglion Fiorentino)近くでミゲルたちの軍と激突、彼らを倒し捕虜とした。
ジャンパオロはシニガリアの報復でミゲルを拷問し処刑した(木に縛りつけて矢で射った)という話がまことしやかに広がり、ヴェネツィアの年代記作家サヌード(Marin Sanudo il Giovane)は間に受けてそれを記録している。
(ユリウス2世がミゲルの身柄を欲しがらなかったらそうなってたかも)(ユリウス2世は11月24日にミゲル・ダ・コレッラを生きたまま連行せよと通達していた。)
1504年、再びフィレンツェの傭兵隊長としてピサを攻める。
1505年2月、ローマに赴き、モンテフェルトロを通じてユリウス2世に謁見。忠実な家臣であることを宣言し、ペルージャの新しい教皇公使、アントニオ・フェレーリ枢機卿に服従することを誓う。
4月、フィレンツェ大使としてやってきたマキアヴェッリと面会する。マキァヴェッリは 傭兵隊長としてジャンパオロを雇用したかったようだが、ジャンパオロはペルージャの政情不安を理由に断っている。
6月、オルシーニ家、ペトゥルッチ家、アルヴィアーノ家と協定を結び、フィレンツェでのメディチ家復帰を画策する。
再びマキアヴェッリから連絡を受け、メディチ復帰活動を止めるよう説得される。息子マラテスタが25人の兵とともにフィレンツェに雇われることになる。
1506年9月、ユリウス2世にペルージャを明け渡す。ユリウス2世は甥のフランチェスコ・マリア・デッラ・ローヴェレとともにほとんど丸腰でペルージャに入城した。
ジャンパオロは息子のマラテスタとオラツィオを人質としてグイドバルド・モンテフェルトロに預けることになるが、ペルージャに居住し続けることを許された。
10月、150の歩兵を率いて、フランチェスコ・ゴンザーガとともに、フォルリとチェゼーナでベンティヴォーリオと交戦する。
1508年、ボローニャの警備担当となる。
1511年からヴェネツィアの傭兵隊長として働く。
1513年、レオ10世の時代になると再びペルージャの領有を許可される。1516年にはベットーナとスペッロの伯爵に叙任された。
しかし、バリオーニとデッラ・ローヴェレ家の同盟を恐れたレオ10世によって、1520年3月逮捕される。
サンタンジェロ城に投獄された後、6月11日夜、斬首された。
4人の嫡子の他に3人の非嫡出子(息子3人)がいた。
バリオーネ一家の特徴である大柄な体格、白い肌、栗色の髪と瞳、金色の髭、だったと言われている。
ペルージャの残虐な暴君とも言われるが、美しく優雅な容貌で、自分の利益を害さない相手には温和で快活であり、配下の兵士たちに慕われたとも言われている。
ペンテジレーア・バリオーニ(Pentesilea Baglioni)
(1487 - )
(ペンテジーレア、ペンテシレイア、パンテシリア、パンタシレア)
ジャンパオロの妹。
ジェンティーレ・バリオーニ(Gentile I Baglioni)
(1466 – 1527年8月)
ジャンパオロの従兄弟。仲が良かったよう。
モルガンテ・バリオーニ(Morgante Baglioni)(Adoriano Baglioni)
( - 1502年7月)
ジャンパオロの従兄弟。ジェンティーレとアストーレの兄弟。
アストーレ・バリオーニ(Astorre I Baglioni)
ジェンティーレの兄弟。
生年はわかってないが、1479年にナポリ王フェランテの給仕として軍役に就いているので、兄だと思われる。
1500年6月30日、ラヴィニア・コロンナと結婚。15日間に渡って盛大なパーティが開かれる。
最終日の7月15日夜「血の結婚式(nozze di sangue)」と呼ばれる虐殺事件が起きる。
カルロ・バリオーニ(Carlo Baglioni)
(1473 – 1518年12月)
ペルージャ生まれ。
ブラッチョ・バリオーニの息子。
カメリーノの領主ジュリオ・チェーザレ・ダ・ヴァラーノの甥。
「血の結婚式」の首謀者の1人。ペルージャの領主の地位めぐってのバリオーニ一族の内輪揉めは同族殺しにまで発展していて、この事件はパッツィ家の陰謀、シニガリア事件とともにイタリアルネサンスの3大暴虐のように言われている。
ジャンパオロ憎しでボルジアに味方し、ミゲル・ダ・コレッラとタッデオ・デッラ・ヴォルペとともにジャンパオロ軍と交戦、3人一緒に捕虜になってる。
グリフォーネ・バリオーニ
(Grifone Baglioni) (Grifonetto Baglioni) (Federico Baglioni)
(1477 - 1500年7月15日)
ペルージャ生まれ。本名はフェデリーコ。なのに通称はグリフォネット。
ジャンパオロやジェンティーレの従兄弟。
チェーザレがペルージャにいた時(1481年〜1491年)、敬虔な修道女コロンバが見せた奇跡(死んだように見えた少女を生き返らせた)を一緒に目撃したという記録がある。
ペルージャ大学で同窓だったのかな?
「血の結婚式」の首謀者の1人。
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