バリオーニ
バリオーニ家(Baglioni)
ペルージャの支配者一族。
一家の起源は13世紀に始まり、伝承では皇帝フリードリヒ1世バルバロッサとともにイタリアに下ったゲルマン系軍人だったと言われている。
1438年から1540年まで、他の有力者一家と争いながら断続的ではあるが1世紀以上に渡ってペルージャを支配した。
ジャンパオロ・バリオーニ(Giampaolo Baglioni)
(1470年頃(1471年7月としている説もある) - 1520年6月11日)
ペルージャ生まれ。
領主と言うより傭兵隊長として生きた男、という感じ。戦ってばかりいる。
ペルージャは他家との覇権争い、教皇庁からの介入、また同族間での争いも多かったので、戦わずしては生きられなかったのかな。
ロドルフォ・バリオーニとフランチェスカ・ディ・シモネット・ダ・カステル・サン・ピエトロの息子。
オラツィオ、マラテスタ、シモネットという兄弟もいるが、オラツィオとマラテスタは1486年に、シモネットは1500年に死去しているので、チェーザレ周辺にはほぼ登場しない。
少年時代はペルージャで優秀な家庭教師につき教育を受けた。
チェーザレと同年輩だけど、1489年から1491年までペルージャの大学にいたチェーザレとの交流の記録はない。(しかし彼の従兄弟グリフォーネはある!)
(おそらく)10代の頃、ヴィルジニオ・オルシーニの中隊に所属。
1490年、ローマ貴族の家系であるイッポーリタ・コンティと結婚。
1491年に長男マラテスタ、
1493年に次男オラツィオをもうける。
(他にエリザベッタ、ラウラという2人の娘もいる。でも生年などは不明)
この年から数年間フィレンツェの傭兵隊長を務め、シエナやピサと交戦している。
その傍ら地元の紛争にも関わり、従兄弟のモルガンテ・バリオーニ、アストーレ・バリオーニらと協力し、ペルージャの有力者だったオッディ家を追い出したりしている。
1491年6月8日から10日にかけて、カミロ・ヴィテッリ、パオロ・オルシーニとともに、ペルージャの有力者だったラニエリ家、サンターガタ家を焼き払い、当主を吊るし、ペルージャにおけるバリオーニ家の優位を強化する。
1492年3月、ペルージャで開催された馬上槍試合で優勝。
8月26日に行われたアレクサンドル6世の戴冠式に出席。
11月、ヴィテロッツォ・ヴィテッリ、カルロ・バリオーニ(後に天敵のようになる)とともにペルージャ周辺の農村を略奪し、サン・フランチェスコ教会の扉に火をつけ略奪。
しかし同年、刑事事件と民事事件の管理責任者に就いたりもしている。同僚にはモルガンテ・バリオーニとロドルフォ・シニョレッリ。
1494年、シャルル8世のイタリア侵攻でもフィレンツェ(フランス)につく。
1495年、フォルノーヴォの戦いでもフランス側につき捕虜になっている。が、2ヶ月ほどで解放された。
この後もまたオッディ家と戦ったり、フィレンツェのためにピサを攻めたり、ペルージャ周辺での小競り合いに加わったり、オルシーニにためにコロンナと戦ったり、シエナのパンドルフォ・ペトゥルッチともめながら裏で通じたりしている。
チェーザレ軍に最初から従軍していて、1499年、オノーリオ・サヴェッリ、ヴィテロッツォ・ヴィテッリ、ジトロ・ダ・ペルージャとともに、タッデオ・デッラ・ヴォルペの守るイモラへ進軍した。
- 血の結婚式
1500年7月14日、ジャンパオロの従兄弟のアストーレ・バリオーニの結婚式にて、同族間の虐殺事件が起きる。
(「血の結婚式 Le nozze di sangue」と呼ばれる)
この事件はパッツィ家の陰謀、シニガリア事件とともに、ルネサンスイタリアにおける3大殺戮事件と言われている。
カルロ・バリオーニ、
グリフォネット(グリフォーネ)・バリオーニ、
ジローラモ・デッラ・ペンナらによって、
新郎新婦を含む6人が殺される。
ジャンパオロは変装して街を脱出し、難を逃れた。従兄弟のジェンティーレやアドリアーノも生き延び、反乱者たちはすぐに反撃された。
ジャンパオロの報復は苛烈で、カルロ・バリオーニが逃げ込んだ村は焼かれ、関係者と見なされた28人が処刑された。
この時ヴィテロッツォ・ヴィテッリが加勢に来ている。(ジャンパオロがヴィテロッツォのもとへ一旦逃げたとも言われている。)
おそらく2人は親密であったと推察されて、良いエピソードである。
一説によると、この陰謀の首謀者はカメリーノの領主ジュリオ・チェーザレ・ヴァラーノであったという。
彼はバリオーニ家と縁戚関係にあったが、その財力を自らのものにしたいと望み、実行者たちカルロやグリフォネットを扇動したとされる。
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- 陰謀者
・フィリッポ・バリオーニ(Filippo di Braccio)
・カルロ・バリオーニ(Carlo Baglioni)、通称バルジーリャ(Barciglia)
・ジローラモ・デッラ・ペンナ(Girolamo della Penna)
・グリフォネット・バリオーニ(Grifonetto Baglioni)
・チェーザレ・ダ・ヴァラーノ(Giulio Cesare Varano)?
他に
ジェロニモ・デッラ・スタッファ(Geronimo della Staffa ジローラモの義兄)
ベラルド・デッラ・コルニア(Berardo della Cornia コルニア家の3兄弟)
ピエトロ・ジャコモ・デッラ・コルニア(Pietro Giacomo della Cornia コルニア家の3兄弟)
オッタヴィアーノ・デッラ・コルニア(Ottaviano Della Cornia コルニア家の3兄弟)
ジョヴァン・フランチェスコ(Giovan Francesco 3兄弟の従兄弟)
- 犠牲者
・新郎 アストーレ・バリオーニ(Astorre Baglioni)
・新婦 ラヴィニア・コロンナ(Lavinia Colonna)
・新郎の父 グイド・バリオーニ(Guido Baglioni)
・新郎の兄弟 ジスモンド(Gismond Baglioni)
・新郎の従兄弟 シモネット・バリオーニ(Simonetto Baglioni ジャンパオロの兄弟)
・もう1人
1500年6月、バリオーニ家の当主ロドルフォの弟グイド・バリオーニの長男アストーレと、ローマの有力貴族コロンナ家の令嬢ラヴィニア・コロンナとの婚礼が執り行われることになった。
婚礼に向けてペルージャの街は装飾が施され、街路や家々の外観の修復までもが行われた。これらはすべて花婿アストーレの従兄弟シモネット・バリオーニの命によるものだった。支度には巨額の費用を要し、その総額はおよそ6万フィオリーニにのぼった。
6月28日、花嫁ラヴィニアは、大勢の従者を引き連れてサンタントニオ門(Porta Sant’Antonio)から入城した。
彼女は金糸で刺繍されたドレスに身を包み、髪には真珠があしらわれていた。
新郎新婦は、サンタ・マリア・デイ・セルヴィ広場(Piazza di Santa Maria dei Servi)で催された盛大な祝宴に臨み、それは夜遅くまで続いた。
その後、2人は新郎の従兄弟グリフォネット・バリオーニの屋敷へと引き取った。夫婦の新居はまだ完成していなかったため、グリフォネットの屋敷が仮の宿として提供されていた。
その夜、激しい嵐が街を襲い、飾りつけの大半が破壊された。翌日には新たに装飾が施されたが、街の人々はこの嵐を不吉な前兆と感じていた。これは破滅を告げる運命の、悪しきしるしではないか、と。
それでも祝宴は続き、次はソーレ門(Porta Sole)、続いてサンタ・スザンナ門(Porta Santa Susanna)での催しとなった。
花でいっぱいの華やかな舞台に歌や舞踏、豪華な食事とワイン、全てが完璧で街全体が祝いの喜びに満ちていた。
その背後で、バリオーニ家の内部に長く巣食っていた軋轢が、平和な空気を打ち壊そうとしていた。一族が勢揃いするアストーレとラヴィニアの婚礼は、邪魔な人間を一挙に抹殺する絶好の機会だった。
陰謀の先導者は2人、
フィリッポ・ディ・ブラッチョ
と
カルロ・バリオーニ
である。
フィリッポはバリオーニ家と血縁があるが父親不詳の庶子(もしくはブラッチョの庶子)であった。彼は甥であり被後見人のグリフォネットを陰謀に引き込む。
フィリッポはグリフォネットに、グリフォネットの妻ゼノビア(Zenobia)が、
ジャン・パオロ・バリオーニに言い寄られていると吹き込んだ。
その中傷は根も葉もない作り話だったのだろうが、グリフォネットはそれを信じ込んでしまい、陰謀に加わった。
カルロは義兄であるジローラモ・デッラ・ペンナを引き込んだ。
ジローラモはジュリオ・チェーザレ・ダ・ヴァラーノの甥でもあった。
陰謀の実行日は7月14日に定められた。この日はトーディ(Todi)への遠征していたジャンパオロがペルージャに帰還し、標的となる者たちが一堂に揃う日だった。
その晩、バリオーニ家の一族たちは皆、赦しと免罪の典礼のためにサンタ・ルチア教会(Chiesa di Santa Lucia)へと向かった。ミサを終えた後は祝宴を催し、やがて夜も更けて一同は就寝のために解散した。時刻は深夜頃のことであった。
その間に、陰謀者たちはカルロの屋敷に集い、計画の最終調整を行った。
すべての標的に刺客が1人ずつ割り当てられた。
その刺客には15人の兵士が随行することになっていた。
またさらに15人が標的の家の外にもそれぞれ配置され、逃走や救援の可能性を完全に封じる手はずであった。
襲撃開始の合図は、新郎の父であるグイド・バリオーニの館の城壁から、大きな石を投げ落とすと決められた。
7月14日夜、石が投げ落とされ、大きな音が鳴り響いた。その衝撃音は新郎の従兄弟であるシモネットの眠りを破った。
彼は愛人の少年パオロ(Paolo)と共に就寝中だったが、何か不吉なことが起きていると直感し、夜着のまま剣と盾をつかんだ。
その時刺客たちが寝室の扉を破り、突入してきた。
シモネットは敵を斬りながら突き進み、階段を駆け下りて通路を抜け、外の通りへ飛び出した。
彼は逃げようとはせず、建物の入口に潜んでいた敵兵たちにひとりで立ち向かい続けた。
力尽きるまで戦ったが数には勝てず、命を落とした。
新郎アストーレもまた、寝室に踏み込んできた刺客たちに襲われた。その中には首謀者であるフィリッポも含まれていた。
アストーレはほとんど裸同然で武器も持っていなかった。応戦しようと試みたものの、まもなく討たれてしまった。
妻のラヴィニアは、彼をかばって自分の体で盾となって守ろうとしたが、そんなことができるわけもなかった。
このときフィリッポはアストーレの胸を裂き、心臓を引き抜いて獣のように噛みついた…という伝説がある。
アストーレの父グイドと、兄弟ジスモンド・バリオーニは眠っている時に殺された。
ジスモンドの担当だったジローラモ・デッラ・ペンナは、ジスモンドの顔も見ずに寝ている彼の喉を切った。
しかし、陰謀者たちの計画がすべて思い通りに進んだわけではなかった。
一部のバリオーニ家の人間は生き延びることに成功したのだ。
その中にジャンパオロもいた。
ジャンパオロを担当した刺客はグリフォネットだった。
しかしジャンパオロは屋根にある小さな窓から脱出し、闇夜に紛れてエブルネア門(Porta Eburnea)から逃走に成功した。
(やっぱり戦うより逃げるが勝ちですね。)
ジャンパオロ含む数人に逃げられたものの、計画は成功したかに見えた。
陰謀者たちは、新たな政権樹立に向けて動き出し、サン・ロレンツォ大聖堂やポルタ・サンタ・ンジェロの城塞を占拠した。
布告が出され、新たな施政が打ち出された。市民に向けた公開の集会も招集された。
しかし混乱の中、新政権に対する市民の反応は冷淡であった。
街の人々の多くが、アストーレやシモネットに対する憐憫の気持ちを強く持っていた。
逃亡を果たしたジャンパオロは、一刻の猶予もなく行動を開始した。
チッタ・ディ・カステッロ(Città di Castello)の領主ヴィテロッツォ・ヴィッテッリ(Vitellozzo Vitelli)に助力を求め、反撃の準備にとりかかった。
数日のうちに、ジャンパオロはペルージャを奪還すべく出陣した。
彼はまずサン・コスタンツォ門(Porta San Costanzo)から入り、サン・ピエトロ地区とその門を通過した。
その進軍に市民たちの歓声が沸き起こり、勇敢なバリオーニの男の帰還を歓迎した。
サンタ・クローチェの4つ角に差しかかると、一隊の敵騎兵が彼の前に立ちふさがった。
そのうちの1人は、かつてアストーレのものであった牝馬にまたがっていた。
これ目にしたジャンパオロは憤激し、剣の一振りで騎士の首を切り落とすという凄まじい一撃を放った。
これを火蓋に戦闘が始まった。
ジャンパオロ軍は明らかに優勢だった。彼もヴィテロッツォも歴戦の兵士なので、戦闘において負けるわけがなかった。
戦いはサンテコラーノ門(Porta Sant’Ecolano)まで進み、そこに裏切り者の従兄弟グリフォネットが姿を現した。
ジャンパオロは彼の喉元に剣を突きつけ、言った。
「俺はお前がやったような真似はしない。一族の血で手を汚す気はない。」
これは大いなる慈悲のようにも見えるが、「自分の手では殺さないが、殺すこと自体は拒まない」という意味だった。
その場にいたジャンパオロの兵士たちが、グリフォネットを襲い、罵りながら剣を浴びせた。
「卑劣な裏切り者め!」と叫びながら、彼を滅多打ちにした。
ちょうどそのとき、グリフォネットの母アタランタと妻ゼノビアが現場にやって来た。
母アタランタは一族の人間を殺戮した息子を呪い、かくまうことを拒否していた。しかしやはり息子を見殺しにすることはできなかったのだった。
彼女たちは、深い悲しみに包まれながらも、瀕死のグリフォネットを抱きしめることができた。
グリフォネットは、赦しを求めながら2人の抱擁の中で死んだ。
この光景はジャン・パオロの軍勢の兵士たちの心にも深い哀れみを呼び起こし、その場の兵たちは沈黙したという。
ジャンパオロは、瀕死の従兄弟を彼女たちに託し、そのままドゥオモ広場(Piazza del Duomo)へ向かい、ペルージャの統治権を掌握した。
この出来事には、特別な目撃者がいたという説がある。
事件の舞台であるペルージャ出身の画家ペルジーノ(Il Perugino)の弟子であったラファエロ・サンツィオ(Raffaello Sanzio)が、この時期この街に滞在していた可能性があるからだ。
ラファエロが、この虐殺を自らの目で目撃していたとしても不思議ではないというのである。
数年後、ラファエロは陰謀の参加者の1人であったグリフォネットの母アタランタ(Atalanta Baglioni)から、「キリストの埋葬(Deposizione)」の制作を依頼される。
アタランタは息子の死を悼み、その記念のために絵を依頼した。
この絵はヴァティカン美術館とボルゲーゼ美術館に分けて所蔵してある。
カルロ・バリオーニとジローラモ・デッラ・ペンナはジュリオ・チェーザレ・ダ・ヴァラーノを頼ってカメリーノへ逃亡した。
9月、教皇アレクサンデル6世は臣民に対し小勅書を発し、カルロ・バリオーニ、ジローラモ・デッラ・ペンナに宿を提供することを禁じる。
しかしカルロ・バリオーニとジローラモ・デッラ・ペンナは、後にチェーザレ軍に従軍し、
1502年、ヴィテロッツォが粛正された時ジローラモはシニガリアにいたし、
カルロは1503年ミゲル・ダ・コレッラ、タッデオ・デッラ・ヴォルペとともにロマーニャへ向かい、3人一緒にフィレンツェ軍の捕虜になっている。
同年10月、ペーザロ、リミニ、ファノに入るチェーザレ軍に従軍。500の歩兵を率いる。
行軍中、バリオーニ家の所領であるデルータ、トルジャーノ、ベットーナでキャンプするが、チェーザレ軍の兵士たちは街を荒らしてめちゃくちゃにしてしまう。特にスペイン人兵士の横暴さは目に余るものがあったよう。
しかしチェーザレは介入せず。(自分とこじゃないとどうでもいいんだねチェーザレ。…むしろわざとかもしれんから怖い)
ジャンパオロ配下のペルージャの兵士たちは激怒し、1人でいるスペイン兵を狙って密かに殺しまわった。彼らの多くは縛られ、テヴェレ川に投げ込まれた。
ファノからそのままチェーザレのファエンツァ攻囲に従軍。
しかし12月、途中で帰ってしまう。
(雪がひどかったから、とさも無責任なように言われてるが、雪のせいで食料も物資不足していたし、スペイン人兵士との確執はひどくなっていたし、上記の虐殺事件の後始末が色々あったせいじゃないかと思われる。
実際この後シニガリアのジョヴァンニ・デッラ・ローヴェレとウルビーノのグイドバルド・モンテフェルトロのところに、ペルージャから逃げて来た人間(虐殺に関わった人間)を亡命させないよう依頼しに行っている。
月末には首謀者カルロ・バリオーニとジローラモ・デッラ・ペンナと交戦しかけたりもしている。)
1501年2月から何度となくカルロ・バリオーニ、ジローラモ・デッラ・ペンナと交戦する。が、決着はつかない。
7月、フランス軍とともにナポリへ向かうチェーザレに従軍する。
ジャンパオロはテルニを略奪、攻囲した。
同月、アレクサンドル6世は、ペルージャのサン・ロレンツォ聖堂の宣教師である弟トロイラスを同市の司教に任命した。
1502年9月、ヴィテッロッツォ・ヴィテッリとともにピオンビーノを攻囲する。
10月、反チェーザレの一員としてマジョーネの会合に出席する。
12月、彼は他の反乱者同様にチェーザレと和解するが、体調不良を理由にシニガリアへの集合を拒否し、命拾いする。
ここで行かない選択をしたジャンパオロはかなり鼻の効く優秀な軍人だったのでは。虐殺事件で生き延びたのも運が良かっただけではなかったのかも。
翌年、チェーザレは逃げたジャンパオロを捕獲すれば大将の称号(capitano generale)を与えると言って彼を追いつめる。
しかしジャンパオロはペルージャからシエナ、ルッカ、ピサ、再びシエナと移動し逃げ切った。やっぱりすごい。
その逃げ方を詳しく書くと、
1月、ファビオ・オルシーニ(500頭の馬、4000~5000人の歩兵、多数の騎乗弩兵)とともにモンタルボド(オストラ)に避難。
2000の騎兵を率いたミゲル・ダ・コレッラに追われるが、首尾よく従兄弟のジェンティーレと合流、一旦ペルージャに戻り貴重な財産を積んだ騾馬や荷馬車、800頭の馬と約1000人の歩兵とともに逃亡する。ジュリオ・ヴィテッリやジョヴァンニ・ロッセットも護送団の一員だった。
彼らはフラッタ・トディーナに向かい、トラジメーノ湖に向かって進み、そこで逃亡者たちは二手に分かれる。
ヴィテッリはチッタ・デッラ・ピエヴェを目指し、バリオーニはキアーナ渓谷を通ってシエナに向かった。その際彼は渓谷にかかる唯一の橋であるブタローネ橋を破壊した。(かしこい)
2月、シエナに到着。パンドルフォ・ペトゥルッチに迎えられる。
同月、チェーザレの軽騎兵の待ち伏せから逃れ、300頭の馬を率いてルッカに到着。
ここからラヴェンナに向かいバルトロメオ・ダルヴィアーノ(妹ペンテジレーアの夫。義弟になる)と合流すると見せかけて、パンドルフォ・ペトゥルッチとともにピサを目指した。
3月、パンドルフォ・ペトゥルッチとともにシエナに戻る。
しばらく(アレクサンデル6世崩御まで?)シエナに留まったよう。(チェーザレの追手から逃げ切った)
8月、教皇アレクサンデル6世の死後、従兄弟のジェンティーレとともにオルシーニの軍に加わる。
バルトロメオ・ダルヴィアーノとルドヴィーコ・デッリ・アッティも軍に加わり、チェーザレと同盟していたコロンナの傭兵隊長ムツィオ・コロンナの軍を破る。
9月、7000の兵を率いてペルージャに入り、4時間の戦闘の後、ペルージャを奪回する。
10月、ファビオ・オルシーニ、ルドヴィーコ・デッリ・アッティ、バルトロメオ・ダルヴィアーノとともにローマに入る。
新教皇ピウス3世の下、バリオーニはフランスに、アルヴィアーノとオルシーニはスペインにつく。
10月、四方を敵に囲まれたチェーザレはローマから脱出しようとする。(ロマーニャへ行こうとする)。
しかしファビオ・オルシーニとレンゾ・ディ・チェーリ(シニガリア後も父ジョヴァンニとともにオルシーニを支持していた)がヴァティカンに侵入、ポルタ・トリオーネに火を放ち阻止。チェーザレはスペイン人枢機卿たちの手を借りてカステル・サンタンジェロに逃げ込む。
ジャンパオロもローマに進軍していたがフランスにつく形だったので攻撃はしていないよう。(しかし完全に敵だよね。ずっとフィレンツェ(フランス派)の傭兵隊長としてやってきた一族だからフランスについたんだと思われる。)
彼はルーアン(フランス)の枢機卿を守るという名目で、ローマにとどまり続ける。
ピウス3世死後、新教皇ユリウス2世は、オルシーニ家、アルビアーノ家をローマから追い出す。
11月、ジャンパオロは、ヴィテッリやシエナの軍とともに、ピサに向かっていたミゲル・ダ・コレッラ、タッデオ・デッラ・ヴォルペ、カルロ・バリオーニぼ軍をペルージャで迎え撃ち、フィレンツェ方面へ追い込む。
30日、ジャンパオロはカスティリオン・フィオレンティーノ(Castiglion Fiorentino)近くでミゲルたちの軍と激突、彼らを倒し捕虜とした。
ジャンパオロはシニガリアの報復でミゲルを拷問し処刑した(木に縛りつけて矢で射った)という話がまことしやかに広がり、ヴェネツィアの年代記作家サヌード(Marin Sanudo il Giovane)は間に受けてそれを記録している。
(ユリウス2世がミゲルの身柄を欲しがらなかったらそうなってたかも)(ユリウス2世は11月24日にミゲル・ダ・コレッラを生きたまま連行せよと通達していた。)
1504年、再びフィレンツェの傭兵隊長としてピサを攻める。
1505年2月、ローマに赴き、モンテフェルトロを通じてユリウス2世に謁見。忠実な家臣であることを宣言し、ペルージャの新しい教皇公使、アントニオ・フェレーリ枢機卿に服従することを誓う。
4月、フィレンツェ大使としてやってきたマキアヴェッリと面会する。マキァヴェッリは 傭兵隊長としてジャンパオロを雇用したかったようだが、ジャンパオロはペルージャの政情不安を理由に断っている。
6月、オルシーニ家、ペトゥルッチ家、アルヴィアーノ家と協定を結び、フィレンツェでのメディチ家復帰を画策する。
再びマキアヴェッリから連絡を受け、メディチ復帰活動を止めるよう説得される。息子マラテスタが25人の兵とともにフィレンツェに雇われることになる。
1506年9月、ユリウス2世にペルージャを明け渡す。ユリウス2世は甥のフランチェスコ・マリア・デッラ・ローヴェレとともにほとんど丸腰でペルージャに入城した。
ジャンパオロは息子のマラテスタとオラツィオを人質としてグイドバルド・モンテフェルトロに預けることになるが、ペルージャに居住し続けることを許された。
10月、150の歩兵を率いて、フランチェスコ・ゴンザーガとともに、フォルリとチェゼーナでベンティヴォーリオと交戦する。
1508年、ボローニャの警備担当となる。
1511年からヴェネツィアの傭兵隊長として働く。
1513年、レオ10世の時代になると再びペルージャの領有を許可される。1516年にはベットーナとスペッロの伯爵に叙任された。
しかし、バリオーニとデッラ・ローヴェレ家の同盟を恐れたレオ10世によって、1520年3月逮捕される。
サンタンジェロ城に投獄された後、6月11日夜、斬首された。
4人の嫡子の他に3人の非嫡出子(息子3人)がいた。
バリオーネ一家の特徴である大柄な体格、白い肌、栗色の髪と瞳、金色の髭、だったと言われている。
ペルージャの残虐な暴君とも言われるが、美しく優雅な容貌で、自分の利益を害さない相手には温和で快活であり、配下の兵士たちに慕われたとも言われている。
ペンテジレーア・バリオーニ(Pentesilea Baglioni)
(1487 - )
(ペンテシーリア、ペンテシレイア、パンテシリア、パンタシレア)
ジャンパオロの妹。
1498年、トーディ出身の傭兵隊長、バルトロメオ・ダルヴィアーノ(Bartolomeo d’Alviano)と結婚。
1503年1月、誘拐され、トーディの城に軟禁される。
チェーザレ犯行説がある。
すぐに解放されている。
1512年、長女イザベッラを出産。
ジェンティーレ・バリオーニ(Gentile I Baglioni)
(1466 – 1527年8月)
ジャンパオロの従兄弟。仲が良かったよう。
モルガンテ・バリオーニ(Morgante Baglioni)(Adoriano Baglioni)
( - 1502年7月)
ジャンパオロの従兄弟。ジェンティーレとアストーレの兄弟。
アストーレ・バリオーニ(Astorre I Baglioni)
ジェンティーレの兄弟。
生年はわかってないが、1479年にナポリ王フェランテの給仕として軍役に就いているので、兄だと思われる。
1500年6月30日、ラヴィニア・コロンナと結婚。15日間に渡って盛大なパーティが開かれる。
最終日の7月15日夜「血の結婚式(nozze di sangue)」と呼ばれる虐殺事件が起きる。
カルロ・バリオーニ(Carlo Baglioni)
(1473 – 1518年12月)
ペルージャ生まれ。
ブラッチョ・バリオーニの息子。
カメリーノの領主ジュリオ・チェーザレ・ダ・ヴァラーノの甥。
「血の結婚式」の首謀者の1人。ペルージャの領主の地位めぐってのバリオーニ一族の内輪揉めは同族殺しにまで発展していて、この事件はパッツィ家の陰謀、シニガリア事件とともにイタリアルネサンスの3大暴虐のように言われている。
ジャンパオロ憎しでボルジアに味方し、ミゲル・ダ・コレッラとタッデオ・デッラ・ヴォルペとともにジャンパオロ軍と交戦、3人一緒に捕虜になってる。
グリフォーネ・バリオーニ
(Grifone Baglioni) (Grifonetto Baglioni) (Federico Baglioni)
(1477 - 1500年7月15日)
ペルージャ生まれ。本名はフェデリーコ。なのに通称はグリフォネット。
ジャンパオロやジェンティーレの従兄弟。
チェーザレがペルージャにいた時(1481年〜1491年)、敬虔な修道女コロンバが見せた奇跡(死んだように見えた少女を生き返らせた)を一緒に目撃したという記録がある。
ペルージャ大学で同窓だったのかな?
「血の結婚式」の首謀者の1人。
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