バリオーニ
バリオーニ家(Baglioni)
ペルージャの支配者一族。
一家の起源は13世紀に始まり、伝承では皇帝フリードリヒ1世バルバロッサとともにイタリアに下ったゲルマン系軍人だったと言われている。
1438年から1540年まで、他の有力者一家と争いながら断続的ではあるが1世紀以上に渡ってペルージャを支配した。
ジャンパオロ・バリオーニ(Giampaolo Baglioni)
(1470年頃(1471年7月としている説もある) - 1520年6月11日)
ペルージャ生まれ。
領主と言うより傭兵隊長として生きた男、という感じ。戦ってばかりいる。
ペルージャは他家との覇権争い、教皇庁からの介入、また同族間での争いも多かったので、戦わずしては生きられなかったのかな。
ロドルフォ・バリオーニとフランチェスカ・ディ・シモネット・ダ・カステル・サン・ピエトロの息子。
オラツィオ、マラテスタ、シモネットという兄弟もいるが、オラツィオとマラテスタは1486年に、シモネットは1500年に死去しているので、チェーザレ周辺にはほぼ登場しない。
少年時代はペルージャで優秀な家庭教師につき教育を受けた。
チェーザレと同年輩だけど、1489年から1491年までペルージャの大学にいたチェーザレとの交流の記録はない。(しかし彼の従兄弟グリフォーネはある!)
(おそらく)10代の頃、ヴィルジニオ・オルシーニの中隊に所属。
1490年、ローマ貴族の家系であるイッポーリタ・コンティと結婚。
1491年に長男マラテスタ、
1493年に次男オラツィオをもうける。
(他にエリザベッタ、ラウラという2人の娘もいる。でも生年などは不明)
この年から数年間フィレンツェの傭兵隊長を務め、シエナやピサと交戦している。
その傍ら地元の紛争にも関わり、従兄弟のモルガンテ・バリオーニ、アストーレ・バリオーニらと協力し、ペルージャの有力者だったオッディ家を追い出したりしている。
1491年6月8日から10日にかけて、カミロ・ヴィテッリ、パオロ・オルシーニとともに、ペルージャの有力者だったラニエリ家、サンターガタ家を焼き払い、当主を吊るし、ペルージャにおけるバリオーニ家の優位を強化する。
1492年3月、ペルージャで開催された馬上槍試合で優勝。
8月26日に行われたアレクサンドル6世の戴冠式に出席。
11月、ヴィテロッツォ・ヴィテッリ、カルロ・バリオーニ(後に天敵のようになる)とともにペルージャ周辺の農村を略奪し、サン・フランチェスコ教会の扉に火をつけ略奪。
しかし同年、刑事事件と民事事件の管理責任者に就いたりもしている。同僚にはモルガンテ・バリオーニとロドルフォ・シニョレッリ。
1494年、シャルル8世のイタリア侵攻でもフィレンツェ(フランス)につく。
1495年、フォルノーヴォの戦いでもフランス側につき捕虜になっている。が、2ヶ月ほどで解放された。
この後もまたオッディ家と戦ったり、フィレンツェのためにピサを攻めたり、ペルージャ周辺での小競り合いに加わったり、オルシーニにためにコロンナと戦ったり、シエナのパンドルフォ・ペトゥルッチともめながら裏で通じたりしている。
チェーザレ軍に最初から従軍していて、1499年、オノーリオ・サヴェッリ、ヴィテロッツォ・ヴィテッリ、ジトロ・ダ・ペルージャとともに、タッデオ・デッラ・ヴォルペの守るイモラへ進軍した。
- 血の結婚式
1500年7月14日、ジャンパオロの従兄弟のアストーレ・バリオーニの結婚式にて、同族間の虐殺事件が起きる。
(「血の結婚式 Le nozze di sangue」と呼ばれる)
カルロ・バリオーニ、グリフォーネ(グリフォネット)・バリオーニ、ジローラモ・デッラ・ペンナらによって、新郎新婦を含む6人が殺される。
ジャンパオロは変装して街を脱出し、難を逃れた。従兄弟のジェンティーレやアドリアーノも生き延び、反乱者たちはすぐに反撃された。
ジャンパオロの報復は苛烈で、カルロ・バリオーニが逃げ込んだ村は焼かれ、関係者と見なされた28人が処刑された。
この時ヴィテロッツォ・ヴィテッリは加勢に来ていて(ジャンパオロがヴィテロッツォのもとへ一旦逃げたとも言われてる)、多分2人は仲が良かったと思われる。
一説によると、この陰謀の首謀者はカメリーノの領主ジュリオ・チェーザレ・ヴァラーノ(Giulio Cesare Varano)であったという。
彼はバリオーニ家と縁戚関係にあったが、その財力を自らのものにしたいと望み、カルロやグリフォーネを扇動したとされる。
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1500年6月、バリオーニ家の当主グイド・バリオーニ(Guido Baglioni)の長男アストーレ(Astorre)と、ローマの有力貴族コロンナ家の令嬢ラヴィニア・コロンナ(Lavinia Colonna)との婚礼が執り行われることになった。
婚礼に向けてペルージャの街は装飾が施され、街路や家々の外観の修復までもが行われた。これらはすべて花婿アストーレの従兄弟シモネット・バリオーニ(Simonetto Baglioni)の命によるものだった。支度には巨額の費用を要し、その総額はおよそ6万フィオリーニにのぼった。
6月28日、花嫁ラヴィニアは、大勢の従者を引き連れてサンタントニオ門(Porta Sant’Antonio)から入城した。
彼女は金糸で刺繍されたドレスに身を包み、髪には真珠があしらわれていた。
新郎新婦は、サンタ・マリア・デイ・セルヴィ広場(Piazza di Santa Maria dei Servi)で催された盛大な祝宴に臨み、それは夜遅くまで続いた。
その後、2人は新郎の従兄弟グリフォーネ・バリオーニ(GrifoneBaglioni)の屋敷へと引き取った。夫婦の新居はまだ完成していなかったため、グリフォーネの屋敷が仮の宿として提供されていた。
その夜、激しい嵐が街を襲い、飾りつけの大半が破壊された。翌日には新たに装飾が施されたが、街の人々はこの嵐を不吉な前兆と感じていた。これは破滅を告げる運命の、悪しきしるしではないか、と。
それでも祝宴は続き、次はソーレ門(Porta Sole)、続いてサンタ・スザンナ門(Porta Santa Susanna)での催しとなった。
花でいっぱいの華やかな舞台に歌や舞踏、豪華な食事とワイン、全てが完璧で街全体が祝いの喜びに満ちていた。
その背後で、バリオーニ家の内部に長く巣食っていた軋轢が、平和な空気を打ち壊そうとしていた。アストーレとラヴィニアの婚礼は、敵対する人間を一挙に抹殺する、絶好の機会だった。
カルロ(Carlo)、通称バルジーリャ(Barciglia)。彼もまた名高い親族たちを羨ましく思っていた。
ジローラモ・デッラ・ペンナ(Girolamo della Penna)
カルロの義兄
フィリッポ・ディ・ブラッチョ(Filippo di Braccio)
バリオーニ家と血縁があるが父親不詳の庶子。
グリフォネット(Grifonetto)を陰謀に引き込むことに成功すれば、正式な紳士(gentiluomo)の身分を与えると約束された。フィリッポはグリフォネットの叔父かつ後見人だった。
まるでシェイクスピアの『オセロ』におけるイアーゴのように、フィリッポは嫉妬心を利用して策略を仕掛けた。
彼はグリフォネットに、その若き妻ゼノビア(Zenobia)が、ジャン・パオロ・バリオーニ──色男として名高いバリオーニ家の一員──の言い寄られていると吹き込んだ。
その中傷は根も葉もない作り話だったのだろうが、グリフォネットはそれを信じ込んでしまい、陰謀に加わった。
陰謀の実行日は7月14日に定められた。この日は、ジャン・パオロがトーディ(Todi)での懲罰遠征を終え、ペルージャに帰還する予定の日だったため、標的となる者たちが一堂に揃う最適な日だった。
その晩、バリオーニ家の一族たちは皆、赦しと免罪の典礼のためにサンタ・ルチア教会(Chiesa di Santa Lucia)へと向かった。ミサを終えた後は祝宴を催し、やがて夜も更けて一同は就寝のために解散した。時刻は深夜頃のことであった。
その間に、陰謀者たちはバルジーリャの屋敷に集い、計画の最終調整を行った。
すべての犠牲者に対し、それぞれ専任の刺客が一人ずつ割り当てられた。その刺客には15人の兵士が随行することになっていた。さらに、同数の15人が対象者の家の外に配置され、逃走や救援の可能性を完全に封じる手はずであった。
襲撃開始の合図は、グイド・バリオーニの館の城壁から重い石が投げ落とされることと決められていた。
そして――それは、現実となった。
以下は、上記イタリア語文章の日本語訳です:
石が投げ落とされ、大きな音が鳴り響いた。その衝撃音はシモネット(Simonetto)の眠りを破った。
若きバリオーニは、愛していた少年パオロ(Paolo)と共に就寝中だったが、ベッドから起き上がり、夜着一枚のままで、何か不吉なことが起きていると直感し、剣と盾をつかんで、ちょうど寝室の扉を破ろうとしていた刺客たちに向かって突撃した。
勇敢なシモネットは敵を切り抜けながら部屋を突き進み、階段を駆け下りて通路を抜け、ついには外の通りへと出た。
だが彼は逃げようとはせず、建物の入口に潜んでいた敵兵たちにひとりで立ち向かい続けた。
力尽きるまで勇敢に戦ったが、ついに数に勝てず、敵の手にかかって命を落とした。
アストッレ(Astorre)もまた、寝室に踏み込んできた刺客たちに襲われた。その中にはフィリッポ・ディ・ブラッチョ(Filippo di Braccio)も含まれていた。
若き花婿アストッレはほとんど裸同然で、武器も持っていなかったが、それでもなお戦いに身を投じた。
勇ましく抗おうとしたものの、まもなく討たれてしまった。
妻のラヴィニア(Lavinia)は、彼をかばって自分の体で盾となって守ろうとしたが、それも空しく終わった。
伝説によれば、このときフィリッポは、哀れなアストッレの胸を裂き、その心臓を引き抜いて獣のように噛みついたという。
この虐殺のなかで、老グイド(Guido)やジスモンド・バリオーニ(Gismondo Baglioni)も命を落とした。
しかし、陰謀者たちの冷酷な計画がすべて思い通りに進んだわけではなかった。
一部のバリオーニ家の人間は生き延びることに成功したのだ。
その中には、のちに復讐の主役となるジャン・パオロ(Giovan Paolo)もいた。
彼は本来、グリフォネット(Grifonetto)によって処刑される予定だったが、辛うじて逃げ延びた。
ジャン・パオロは屋敷の屋根に設けられた小さな窓から脱出し、闇夜の加護に守られて、ポルタ・エブルネア(Porta Eburnea)を越えて逃走に成功した。
計画は成功したかに見えた。
陰謀者たちは、新たな政権樹立に向けて動き出し、サン・ロレンツォ大聖堂やポルタ・サンタ・ンジェロの城塞(cassero)を占拠した。
直ちに布告が出され、新たな施政が打ち出された。
市民に向けた公開の集会も招集されたが、混乱の中でもバリオーニ家への敬意と忠誠心は消えず、新政権に対する市民の反応は冷淡であった。
むしろ、街の人々は、シモネットやアストッレの遺体に対して哀悼と憐憫の情を示したという。
それらの遺体は、惨劇の翌朝になってもなお、道端に横たわったままだった。
おそらく、この出来事にはひとりの特別な目撃者がいたと考えられている。
というのも、ちょうどこの時期にウンブリア州の州都で活発に活動していたペルジーノ(Il Perugino)の弟子であったラファエッロ・サンツィオ(Raffaello Sanzio)が、この街を震撼させた虐殺を自らの目で目撃していたとしても不思議ではないからである。
実際、数年後にウルビーノ出身のこの画家に《キリストの埋葬(Deposizione)》の制作を依頼したのは、まさにこの事件の登場人物のひとり、アタランタ・バリオーニ(Atalanta Baglioni)であった。彼女は息子グリフォネット(Grifonetto)の死を悼み、その記念のために絵を描かせたのである。
アタランタとゼノビア(Zenobia)が、虐殺の一報と、グリフォネットがそれに関与していたという事実を知ったとき、彼女たちは悲しみに打ちひしがれながらも、グリフォネットの家を去り、二度と戻らないことを決意した。それは、憤りと信じがたい裏切りへの意思表示であった。
若きグリフォネットは、二人と話し、許しを乞うために何度も試みたが、彼の良心の呵責がいかに強くとも、その行為の汚名はもはや拭い去ることはできなかった。
そのころ、逃亡を果たしたジャン・パオロ(Giovan Paolo)は、一刻の猶予もなく行動を開始した。
チッタ・ディ・カステッロ(Città di Castello)の領主ヴィッテロッツォ・ヴィッテッリ(Vitellozzo Vitelli)の助力も得て、素早い反撃の準備にとりかかった。
数日のうちに、ジャン・パオロはペルージャを奪還すべく出陣した。
彼が都市の門に到達すると、まずサン・コスタンツォ門(Porta San Costanzo)から第一の城壁を戦わずして突破し、続いてサン・ピエトロ地区とその門を通過した。
その進軍には市民たちの歓声が沸き起こり、勇敢なバリオーニ家の男の帰還を歓迎するものだった。
サンタ・クローチェの四つ角(quadrivio di Santa Croce)に差しかかると、一隊の敵騎兵が彼の前に立ちふさがった。
そのうちの一人は、アストッレがかつて乗っていた牝馬にまたがっていた。
この姿を目にしたジャン・パオロは怒りに燃え、ひと振りの剣でその騎士の首をほぼ胴から切り落とすという凄まじい一撃で討ち取った。
復讐の念に火がつき、戦闘が始まった。対立する両陣営のうち、ジャン・パオロ軍が明らかに優勢であった。
やがて戦いはポルタ・サンテコラーノ(Porta Sant’Ecolano)まで進み、そこで裏切り者の従兄弟グリフォネットが姿を現した。
ジャン・パオロは彼の喉元に剣を突きつけたが、こう言った。
「お前がやったような真似はしない。自分の家族の血で手を汚す気はない。」
一見するとこれは大いなる慈悲のようにも見えるが、実際には「自分の手では殺さないが、殺すこと自体は拒まない」という意味だった。
その場にいたジャン・パオロの兵士たちが代わりにグリフォネットを襲い、罵りながら剣を浴びせた。
「卑劣な裏切り者め!」と叫びながら、彼を滅多打ちにした。
戦いは終局に向かい、ペルージャは間もなく再びバリオーニ家の支配に戻ることとなった。
ちょうどそのとき、アタランタとゼノビアが現場に到着した。
彼女たちは、深い悲しみに包まれながらも、瀕死のグリフォネットを抱きしめることができた。
それは、最後の、情熱的な赦しと哀惜の抱擁であった。
この光景はジャン・パオロの軍勢の兵士たちの心にも深い哀れみを呼び起こし、その場の兵たちは沈黙したという。
ジャン・パオロは、瀕死の従兄弟を母と妻に託し、そのままドゥオモ広場(Piazza del Duomo)へ向かい、ペルージャの統治権を奪還したのであった。
同年10月、ペーザロ、リミニ、ファノに入るチェーザレ軍に従軍。500の歩兵を率いる。
行軍中、バリオーニ家の所領であるデルータ、トルジャーノ、ベットーナでキャンプするが、チェーザレ軍の兵士たちは街を荒らしてめちゃくちゃにしてしまう。特にスペイン人兵士の横暴さは目に余るものがあったよう。
しかしチェーザレは介入せず。(自分とこじゃないとどうでもいいんだねチェーザレ。…むしろわざとかもしれんから怖い)
ジャンパオロ配下のペルージャの兵士たちは激怒し、1人でいるスペイン兵を狙って密かに殺しまわった。彼らの多くは縛られ、テヴェレ川に投げ込まれた。
ファノからそのままチェーザレのファエンツァ攻囲に従軍。
しかし12月、途中で帰ってしまう。
(雪がひどかったから、とさも無責任なように言われてるが、雪のせいで食料も物資不足していたし、スペイン人兵士との確執はひどくなっていたし、上記の虐殺事件の後始末が色々あったせいじゃないかと思われる。
実際この後シニガリアのジョヴァンニ・デッラ・ローヴェレとウルビーノのグイドバルド・モンテフェルトロのところに、ペルージャから逃げて来た人間(虐殺に関わった人間)を亡命させないよう依頼しに行っている。
月末には首謀者カルロ・バリオーニとジローラモ・デッラ・ペンナと交戦しかけたりもしている。)
1501年2月から何度となくカルロ・バリオーニ、ジローラモ・デッラ・ペンナと交戦する。が、決着はつかない。
7月、フランス軍とともにナポリへ向かうチェーザレに従軍する。
ジャンパオロはテルニを略奪、攻囲した。
同月、アレクサンドル6世は、ペルージャのサン・ロレンツォ聖堂の宣教師である弟トロイラスを同市の司教に任命した。
1502年9月、ヴィテッロッツォ・ヴィテッリとともにピオンビーノを攻囲する。
10月、反チェーザレの一員としてマジョーネの会合に出席する。
12月、彼は他の反乱者同様にチェーザレと和解するが、体調不良を理由にシニガリアへの集合を拒否し、命拾いする。
ここで行かない選択をしたジャンパオロはかなり鼻の効く優秀な軍人だったのでは。虐殺事件で生き延びたのも運が良かっただけではなかったのかも。
翌年、チェーザレは逃げたジャンパオロを捕獲すれば大将の称号(capitano generale)を与えると言って彼を追いつめる。
しかしジャンパオロはペルージャからシエナ、ルッカ、ピサ、再びシエナと移動し逃げ切った。やっぱりすごい。
その逃げ方を詳しく書くと、
1月、ファビオ・オルシーニ(500頭の馬、4000~5000人の歩兵、多数の騎乗弩兵)とともにモンタルボド(オストラ)に避難。
2000の騎兵を率いたミゲル・ダ・コレッラに追われるが、首尾よく従兄弟のジェンティーレと合流、一旦ペルージャに戻り貴重な財産を積んだ騾馬や荷馬車、800頭の馬と約1000人の歩兵とともに逃亡する。ジュリオ・ヴィテッリやジョヴァンニ・ロッセットも護送団の一員だった。
彼らはフラッタ・トディーナに向かい、トラジメーノ湖に向かって進み、そこで逃亡者たちは二手に分かれる。
ヴィテッリはチッタ・デッラ・ピエヴェを目指し、バリオーニはキアーナ渓谷を通ってシエナに向かった。その際彼は渓谷にかかる唯一の橋であるブタローネ橋を破壊した。(かしこい)
2月、シエナに到着。パンドルフォ・ペトゥルッチに迎えられる。
同月、チェーザレの軽騎兵の待ち伏せから逃れ、300頭の馬を率いてルッカに到着。
ここからラヴェンナに向かいバルトロメオ・ダルヴィアーノ(妹ペンテジレーアの夫。義弟になる)と合流すると見せかけて、パンドルフォ・ペトゥルッチとともにピサを目指した。
3月、パンドルフォ・ペトゥルッチとともにシエナに戻る。
しばらく(アレクサンデル6世崩御まで?)シエナに留まったよう。(チェーザレの追手から逃げ切った)
8月、教皇アレクサンデル6世の死後、従兄弟のジェンティーレとともにオルシーニの軍に加わる。
バルトロメオ・ダルヴィアーノとルドヴィーコ・デッリ・アッティも軍に加わり、チェーザレと同盟していたコロンナの傭兵隊長ムツィオ・コロンナの軍を破る。
9月、7000の兵を率いてペルージャに入り、4時間の戦闘の後、ペルージャを奪回する。
10月、ファビオ・オルシーニ、ルドヴィーコ・デッリ・アッティ、バルトロメオ・ダルヴィアーノとともにローマに入る。
新教皇ピウス3世の下、バリオーニはフランスに、アルヴィアーノとオルシーニはスペインにつく。
10月、四方を敵に囲まれたチェーザレはローマから脱出しようとする。(ロマーニャへ行こうとする)。
しかしファビオ・オルシーニとレンゾ・ディ・チェーリ(シニガリア後も父ジョヴァンニとともにオルシーニを支持していた)がヴァティカンに侵入、ポルタ・トリオーネに火を放ち阻止。チェーザレはスペイン人枢機卿たちの手を借りてカステル・サンタンジェロに逃げ込む。
ジャンパオロもローマに進軍していたがフランスにつく形だったので攻撃はしていないよう。(しかし完全に敵だよね。ずっとフィレンツェ(フランス派)の傭兵隊長としてやってきた一族だからフランスについたんだと思われる。)
彼はルーアン(フランス)の枢機卿を守るという名目で、ローマにとどまり続ける。
ピウス3世死後、新教皇ユリウス2世は、オルシーニ家、アルビアーノ家をローマから追い出す。
11月、ジャンパオロは、ヴィテッリやシエナの軍とともに、ピサに向かっていたミゲル・ダ・コレッラ、タッデオ・デッラ・ヴォルペ、カルロ・バリオーニぼ軍をペルージャで迎え撃ち、フィレンツェ方面へ追い込む。
30日、ジャンパオロはカスティリオン・フィオレンティーノ(Castiglion Fiorentino)近くでミゲルたちの軍と激突、彼らを倒し捕虜とした。
ジャンパオロはシニガリアの報復でミゲルを拷問し処刑した(木に縛りつけて矢で射った)という話がまことしやかに広がり、ヴェネツィアの年代記作家サヌード(Marin Sanudo il Giovane)は間に受けてそれを記録している。
(ユリウス2世がミゲルの身柄を欲しがらなかったらそうなってたかも)(ユリウス2世は11月24日にミゲル・ダ・コレッラを生きたまま連行せよと通達していた。)
1504年、再びフィレンツェの傭兵隊長としてピサを攻める。
1505年2月、ローマに赴き、モンテフェルトロを通じてユリウス2世に謁見。忠実な家臣であることを宣言し、ペルージャの新しい教皇公使、アントニオ・フェレーリ枢機卿に服従することを誓う。
4月、フィレンツェ大使としてやってきたマキアヴェッリと面会する。マキァヴェッリは 傭兵隊長としてジャンパオロを雇用したかったようだが、ジャンパオロはペルージャの政情不安を理由に断っている。
6月、オルシーニ家、ペトゥルッチ家、アルヴィアーノ家と協定を結び、フィレンツェでのメディチ家復帰を画策する。
再びマキアヴェッリから連絡を受け、メディチ復帰活動を止めるよう説得される。息子マラテスタが25人の兵とともにフィレンツェに雇われることになる。
1506年9月、ユリウス2世にペルージャを明け渡す。ユリウス2世は甥のフランチェスコ・マリア・デッラ・ローヴェレとともにほとんど丸腰でペルージャに入城した。
ジャンパオロは息子のマラテスタとオラツィオを人質としてグイドバルド・モンテフェルトロに預けることになるが、ペルージャに居住し続けることを許された。
10月、150の歩兵を率いて、フランチェスコ・ゴンザーガとともに、フォルリとチェゼーナでベンティヴォーリオと交戦する。
1508年、ボローニャの警備担当となる。
1511年からヴェネツィアの傭兵隊長として働く。
1513年、レオ10世の時代になると再びペルージャの領有を許可される。1516年にはベットーナとスペッロの伯爵に叙任された。
しかし、バリオーニとデッラ・ローヴェレ家の同盟を恐れたレオ10世によって、1520年3月逮捕される。
サンタンジェロ城に投獄された後、6月11日夜、斬首された。
4人の嫡子の他に3人の非嫡出子(息子3人)がいた。
バリオーネ一家の特徴である大柄な体格、白い肌、栗色の髪と瞳、金色の髭、だったと言われている。
ペルージャの残虐な暴君とも言われるが、美しく優雅な容貌で、自分の利益を害さない相手には温和で快活であり、配下の兵士たちに慕われたとも言われている。
ペンテジレーア・バリオーニ(Pentesilea Baglioni)
(1487 - )
(ペンテシーリア、ペンテシレイア、パンテシリア、パンタシレア)
ジャンパオロの妹。
1498年、トーディ出身の傭兵隊長、バルトロメオ・ダルヴィアーノ(Bartolomeo d’Alviano)と結婚。
1503年1月、誘拐され、トーディの城に軟禁される。
チェーザレ犯行説がある。
すぐに解放されている。
1512年、長女イザベッラを出産。
ジェンティーレ・バリオーニ(Gentile I Baglioni)
(1466 – 1527年8月)
ジャンパオロの従兄弟。仲が良かったよう。
モルガンテ・バリオーニ(Morgante Baglioni)(Adoriano Baglioni)
( - 1502年7月)
ジャンパオロの従兄弟。ジェンティーレとアストーレの兄弟。
アストーレ・バリオーニ(Astorre I Baglioni)
ジェンティーレの兄弟。
生年はわかってないが、1479年にナポリ王フェランテの給仕として軍役に就いているので、兄だと思われる。
1500年6月30日、ラヴィニア・コロンナと結婚。15日間に渡って盛大なパーティが開かれる。
最終日の7月15日夜「血の結婚式(nozze di sangue)」と呼ばれる虐殺事件が起きる。
カルロ・バリオーニ(Carlo Baglioni)
(1473 – 1518年12月)
ペルージャ生まれ。
ブラッチョ・バリオーニの息子。
カメリーノの領主ジュリオ・チェーザレ・ダ・ヴァラーノの甥。
「血の結婚式」の首謀者の1人。ペルージャの領主の地位めぐってのバリオーニ一族の内輪揉めは同族殺しにまで発展していて、この事件はパッツィ家の陰謀、シニガリア事件とともにイタリアルネサンスの3大暴虐のように言われている。
ジャンパオロ憎しでボルジアに味方し、ミゲル・ダ・コレッラとタッデオ・デッラ・ヴォルペとともにジャンパオロ軍と交戦、3人一緒に捕虜になってる。
グリフォーネ・バリオーニ
(Grifone Baglioni) (Grifonetto Baglioni) (Federico Baglioni)
(1477 - 1500年7月15日)
ペルージャ生まれ。本名はフェデリーコ。なのに通称はグリフォネット。
ジャンパオロやジェンティーレの従兄弟。
チェーザレがペルージャにいた時(1481年〜1491年)、敬虔な修道女コロンバが見せた奇跡(死んだように見えた少女を生き返らせた)を一緒に目撃したという記録がある。
ペルージャ大学で同窓だったのかな?
「血の結婚式」の首謀者の1人。
a:701 t:1 y:1