チェーザレ・ボルジアについて、とりとめのないけれど愛に満ちた探究心を発揮するサイトです。

シニガリア、ロッカ・ローヴェレスカ。

シニガリア事件

シニガリア事件


ひと言で言うと

1502年12月31日から翌年1日にかけて行われた、マジョーネの反乱主要メンバーの捕縛と処刑。
チェーザレは反乱者たちと和解し安心させた後、シニガリアに誘い出して一網打尽にした。
残虐な策謀家としてのチェーザレの名を不動のものにしたできごと。

同時代人の歴史学者パオロ・ジョーヴィオは、これを「華麗なる裏切り(bellissimo inganno)」と称えた。



登場人物

  • チェーザレ・ボルジア(27歳)
  • ミゲル・ダ・コレッラ


  • ヴィテロッツォ・ヴィテッリ(c. 44歳)・・・チタ・ディ・カステッロの僭主。
    和解には最後まで反対。シニガリアの攻略にも参加しなかった。
    (この理由のひとつとして、
    自領のチタ・ディ・カステッロにウルビーノ公グイドバルド・モンテフェルトロを保護しており、グイドバルドの姉ジョヴァンナの支配するシニガリアを攻撃することは、はばかられた、ということがあるかもしれない。)
    しかしオリヴェロットとオルシーニに説得されて、12月30日、シニガリアへ赴く。
    (ヴィテロッツォはバリオーニとは仲が悪かったので、彼らと行動をともにすることよりも、弟分であるオリヴェロットとパオロ・オルシーニの説得を聞き入れたのだろう。)


  • オリヴェロット・ダ・エウフレドゥッチ(ダ・フェルモ)(29歳)・・・フェルモの僭主。
    チェーザレとのわだかまりを解消するために、シニガリア攻略を申し出る。
    (オリヴェロットとシニガリアの領主デッラ・ローヴェレ家とは、対立する仲だった。)
    和解反対派のヴィテロッツォを説得する。


  • パオロ・オルシーニ(40歳前後)・・・。パロンバーラの領主。
    贈り物や将来の保障などの約束で、チェーザレにすっかり懐柔されている。
    和解反対派のヴィテロッツォを説得する。


  • フランチェスコ・オルシーニ(37歳)・・・グラヴィーナの公爵。
    オルシーニの一門として、チェーザレとの和解を受け入れている。


  • ジャンパオロ・バリオーニ(c. 32歳)・・・ペルージャの僭主。
    和解には最後まで反対。
    シニガリア攻略にも参加せず、年末の召集にも応じなかった。(パンドルフォ・ペトゥルッチの忠告によるもと思われる。)


  • ジョヴァンニ・バッティスタ(ジャンバッティスタ)・オルシーニ(52歳)・・・枢機卿。
    表立った動きは見せないが、マジョーネ同盟の中核をなす人物。やはり枢機卿の持つ力は強大。


  • ロベルト・オルシーニ(10代)・・・チェーザレの廷臣。
    反乱には加わらず、チェーザレの元へと留まっていた。
    和解交渉に貢献する。


  • パンドルフォ・ペトゥルッチ(51歳)・・・シエナの僭主。
    表立った動きは見せないが、マジョーネ同盟の中核をなす人物。特にジャンパオロ・バリオーニは彼の影響下に強くあったよう。
    反乱の糸を引いていたのは彼である、とする説もある。





※年齢は1503年時のもの。
(年齢の前にある「c.」は「circa(キルカ、サーカ)」は、「約」「およそ」「頃」を表します。)




経緯

背景

1502年秋に起きたマジョーネの反乱は、11月、講和が成立し終息を迎えた。
チェーザレはフランス軍を解雇して戦う意志のないことを示し、レミーロ・デ・ロルカに全ての責任を負わせてることによって、反乱軍傭兵隊長たちの警戒心を解き、安心させた。
反乱軍はシニガリアを攻略してチェーザレに捧げることによって、もと通りの信頼関係を取り戻すことを約束した。

シニガリアの領主フランチェスコ・マリア・デッラ・ローヴェレと彼の母であり摂政であるジョヴァンナ・ダ・モンテフェルトロは、反乱軍たちの到着前に逃亡、シニガリアは無血開城する。
その報告を受け、チェーザレはシニガリアへと向かう。


しかし反乱軍傭兵隊長たちは「チェーザレのためのシニガリア攻略」を大義名分にしてに兵を集め、チェーザレを討つ計画をめぐらせている可能性があった。
傭兵隊長たちの待つシニガリアへ赴くことは、チェーザレが自ら、死に場所へ飛びこむことに成りかねなかった。

(イザベッラ・デステも、夫フランチェスコ・ゴンザーガへの手紙に、
「傭兵隊長たちは、シニガリアを献上するふりをして、ヴァレンティーノ公(=チェーザレ)を討つつもりらしい。」
と書いている。)




チェーザレ、シニガリアへ

12月26日早朝、チェゼーナの広場にレミーロ・デ・ロルカの死体が晒されていた時、チェーザレは少数の兵員を率いてチェゼーナを発っていた。
兵力は小規模で、反乱軍たちが自軍を結集しているとしたら、かなう数ではなかった。ここでもチェーザレは、反乱軍に対して「戦う意志のないこと」を示している。

しかし、彼は抜かりなく軍勢を各所に配備しており、シニガリア到着までの間に少しずつ自軍に合流させる。
最終的には騎兵2,000、歩兵1万の大部隊となる。これは反乱軍が総結集してもかなう数ではなかった。

28日、ペーザロへ到着する。
29日、シニガリア落城の報を受ける。
攻略したのは、オリヴェロットとオルシーニの軍だけであり、ヴィテロッツォやバリオーニは参加していなかった。

シニガリアの城代は、
「城はヴァレンティーノ公の前に落ちたのであるから、公自身に直接捧げたい。」
と言い、開城を拒否する。

30日、チェーザレはファノへ移動する。
そこから、
シニガリアへは明日到着すること、
シニガリアから4キロ離れた地点に全軍を退避させておくこと、
全ての城門を閉ざしておくこと、
を通達する。

同日、ヴィテロッツォがシニガリアへ到着する。
バリオーニは病気を理由に姿を現さなかった。
(緊密な関係にあったパンドルフォ・ペトゥルッチの忠告によって、警戒していたと思われる。)

その夜、チェーザレはミゲルを含む8人の側近に指令を与えていた。
ヴィテロッツォ、パオロ、フランチェスコ、オリヴェロットの4人と出会ったらすぐに2人ずつで彼らをマークすること。
誰が誰につくか、しっかりと決めておくこと。
そうした上で、うまく宿所まで伴い、確実に取り押さえること。


31日(土曜日)早朝、チェーザレはシニガリアへ向けて出発する。




捕縛

500の騎兵と1,000の歩兵を先頭にして、その後ろに騎兵1,500を率いたチェーザレが続く。
ファノからシニガリアへは約24キロほどである。ほどなくミーザ河が見えてくる。この河にかかる橋を渡り、シニガリアの市街地へ入るのだ。
チェーザレの通達を守って、ヴィテロッツォとオルシーニ2人の軍は、シニガリアから10キロほど離れた所へ退避させてあった。オリヴェロットの兵員のみ、城門のそばにある集落の広場に残してあった。

シニガリアの城壁前で、チェーザレは自軍を数箇所に分けて配備し待機させた。500の騎兵と1,000の歩兵のみが前進を続ける。
橋を前にして、500の騎兵は2列に分かれる。その間を歩兵が進む。チェーザレはその後に続く。

パオロとフランチェスコのオルシーニとヴィテロッツォは、チェーザレを出迎えるために橋の前で待機していた。
彼らは数騎を従えてはいたが武器は持たず、騾馬に乗ってチェーザレの前に進み出る。
ヴィテロッツォは「緑の裏地のマント」を羽織っていた、とマキァヴェッリは書いている。

  • シニガリア事件地図

    シニガリア事件地図。

    ※ 橋の位置は現在のものに拠っています。もう少しファノ側だったかもしれません。


橋のたもとでチェーザレは馬を降り、ヴィテロッツォと抱き合う。パオロとフランチェスコとも次々と抱擁し合った。
親しげなチェーザレの様子に、屈託は全くなかった。
オリヴェロットのいないことに気づいたチェーザレは、彼をここに連れてくるように目顔でミゲルに伝える。
ミゲルは馬を進めて、城門そばの広場で自軍を教練していたオリヴェロットの元へ行く。
「今からチェーザレの軍がこの広場へ入ってくるから空けてほしい。とりあえず兵を宿舎へ戻して、一緒にチェーザレのところへ行こう。」
オリヴェロットはミゲルの言に従う。
チェーザレはオリヴェロットに駆け寄って、にこやかに彼を迎える。
和やかな雰囲気が満ちる。

4人の傭兵隊長たちは城門の前までチェーザレを送り、暇乞いをする。城外に置いている自軍の元へ戻り、明日の朝再び伺候する、と。
しかしチェーザレは、久しぶりの再会なのだからと言って、彼らを宿所へと誘う。ともに飲み明かそうではないか。
彼らは承諾し、宿所であるベルナルディーノ・ダ・パルマの館へと向かう。


ベルナルディーノ邸にて。
部屋に招じ入れられたところですぐ、4人の傭兵隊長たちはミゲルたちによって取り押さえられ、身柄を拘束された。




処刑

4人が捕らえられるとすぐ、チェーザレは馬を駆りシニガリアの城門内に残っていたオリヴェロットの軍に攻めかかる。
軍はあっという間に武装解除され、身ぐるみ剥がされてしまう。
さらに城外に駐屯しているヴィテロッツォとオルシーニの軍も襲撃される。
しかしヴィテロッツォの軍は名うての兵士たちだけあって、ほとんどが退却に成功している。オルシーニ軍も半数は逃亡したよう。
(ヴィテロッツォはシニガリアに発つ際、甥たちに「家門の不運ではなく、武運を胸に刻め」と訓戒し、家産を託している。
まるで今生の別れのような彼の態度は、死の覚悟が見受けられる。自軍の兵士たちにも「自分が戻らない場合」の指示があったのかもしれない。)


敵兵に逃亡され充分な戦利品を得られなかったチェーザレ軍は、シニガリアの街を荒らそうとする。
チェーザレはただちに自らが駆け回って劫略を禁じる。
征服地への劫略を禁止するチェーザレの意向はとても強く、この時も大人数を処刑して見せしめにしている。

騒乱を知って駆けつけたマキァヴェッリは、ちょうど自軍の狼藉を知って飛び出してきたチェーザレと行き当たっている。
チェーザレはマキァヴェッリを見とめ、
「ヴォルテッラの司教(ウルビーノへ赴いたフランチェスコ・ソデリーニのこと)にこのことを言いたかった!これで貴国政府も喜んでくれるだろう!」
と言った。
フランチェスコ・ソデリーニのウルビーノ訪問は1502年6月である。しかしチェーザレに対する反乱は、9月になるまで形になっていない。
つまりチェーザレは、反乱を起こされたから、自衛のため傭兵隊長たちを始末したのではない。
彼は最初から、いずれは自軍に仕える傭兵隊長たちを、始末せねばならないと考えていたのだった!
だからマジョーネの反乱は、チェーザレにとってむしろ、歓迎すべき出来事だったのかもしれない。


その日の夜10時。
形ばかりの裁判が行われ、ヴィテロッツォとオリヴェロットは背信の罪を認めた。
死刑が宣告され、2人は絞首刑に処される。
ヴィテロッツォは教皇の贖宥を求めて懇願し、オリヴェロットは全ての罪をヴィテロッツォになすりつけてむせび泣いた、とマキァヴェッリは書いている。

パオロとフランチェスコの両オルシーニは、処刑を免れ投獄された。
ローマのジョヴァンニ・バッティスタ(ジャンバッティスタ)枢機卿を逮捕するまでの延期であった。


シニガリアでの謀殺によって、全イタリアが注目していた反乱劇は、チェーザレの圧倒的勝利で終幕を迎えた。
チェーザレの力はより強大となり、ロマーニャのボルジア領は再びその版図を広げる。
ヴェネツィアはチェーザレの進撃の勢いを恐れてラヴェンナへと兵を集結させ、他の各国も兵を動員し戦役に備えた。
迎合策も同時に行われ、マントヴァ公妃イザベッラ・デステは、100枚もの謝肉祭の仮面とともにチェーザレを称える手紙を送達した。
フェラーラ公エルコレも、同様の手紙を書いている。


同時代人によるチェーザレとボルジア家の評価は得てして低く、悪し様に語られることが多いが、このシニガリア事件だけは鮮やかな逆転劇として、わりと好意的に称えられている。
歴史学者パオロ・ジョーヴィオ(1483 - 1552)も、1546年の著作「Elogia virorum litteris illustrium 著名人礼賛」の中で、「bellissimo inganno」、華麗なる裏切りと呼んで賛辞を呈した。
それだけ、チェーザレのやり方は瞠目に値する、見事な離れ技であったのだろう。




その後

残る処理は、
オルシーニ家の粛清、
ヴィテッリ家とバリオーニ家の駆逐、
シエナのペトゥルッチの処分、
であった。


1月2日、チェーザレはシニガリアを発つ。マジョーネ同盟の残党の始末を一気につけるつもりである。
彼はチタ・ディ・カステッロとペルージャへ向けて、ゆっくりと行軍する。その先にはシエナがある。パンドルフォ・ペトゥルッチへの威嚇の意味も含まれていた。
同日、アレクサンデル6世はジャンバッティスタ・オルシーニ枢機卿、フィレンツェ大司教リナルド・オルシーニらを逮捕、カステル・サンタンジェロへと投獄する。
ホフレ・ボルジアは軍を率い、オルシーニ家の所領を略取した。

シニガリアでのできごとを知ったヴィテッリ家の人々は、チタ・ディ・カステッロから逃亡。グイドバルド・モンテフェルトロも再びの亡命を余儀なくされる。
ジャン・パオロ・バリオーニもペルージャを放棄して逃亡した。
両街はチェーザレの手に落ちる。
(これは名目上は「教皇領の返還」であった。チェーザレはあくまでも「教皇軍総司令官として反逆者を罰し」、「教皇領を教会の手へと復した」、という姿勢を貫いていた。フランス王ルイやイタリア諸国に対する大義名分だった。)


18日、チッタ・デッラ・ピエーヴェにおいて、パオロとフランチェスコのオルシーニの処刑が行われる。
彼らと同時に投獄されていたロベルト・オルシーニは、マジョーネ同盟への参加はなかったこと、和解交渉において力をつくしたことなどが考慮され、放免された。(逃亡した、という説もある。)


シエナとは和平へ向けて協議が行われていた。
チェーザレは、
「攻撃の対象はパンドルフォ・ペトゥルッチ個人であり、シエナ共和国ではない。彼を追放するのであれば、シエナに足を踏み入れるつもりはない。」
と言明する。
オルシーニ家への攻撃は続いていた。ペトゥルッチをも同時に相手にするのは手に余る。とりあえず猶予したい、という考えがあったと思われる。)
オルシーニは仇敵であったサヴェッリ家と組み反撃を開始していた。アレクサンデル6世は身の危険を感じ始め、チェーザレに対してローマへの帰国を要請している。
これでは確かにシエナ進攻どころではなかっただろう。)

24日、チェーザレとシエナとの間に和平協定が成立する。

  1. ペトゥルッチがシエナを離れると同時にチェーザレ軍はシエナ領国外へ撤退する
  2. シエナ共和国はこれまでと同じ政府により統治される
  3. ペトゥルッチの帰国は許されないがペトゥルッチの財産は保護され、家族に受け継がれる

ペトゥルッチはジャンパオロ・バリオーニとともに抗戦を主張する。チェーザレは威嚇のため、シエナ領内のピエンツァにまで軍を進めた。
28日、パンドルフォ・ペトゥルッチはシエナから逃亡する。バリオーニも一緒だった。
ルッカへ逃げ、そしてピサへ。やがてルイ12世を頼ってフランスへ渡る。


マジョーネの反乱の首謀者であった、
ヴィテロッツォ・ヴィテッリ、オリヴェロット・エウフレドゥッチ、パオロとフランチェスコのオルシーニは処刑され、
ジャンパオロ・バリオーニとパンドルフォ・ペトゥルッチは追放された。

この事件を足がかりにして、
チタ・ディ・カステッロとペルージャは教皇領(実質はチェーザレ領)へ再編され、
ボローニャ、シエナと有利な協定が結ばれ、
フィレンツェへには恩を売ることができた。


マジョーネの反乱の後始末、全て完了。
チェーザレは全軍を率いてローマヘ向かいはじめる。

約1ヶ月かけてゆっくりと行軍し、2月26日、チェーザレはローマへと帰還する。




  • 後日談

2月22日、ジャンバッティスタ・オルシーニ枢機卿は、投獄されていたカステル・サンタンジェロで死去する。
当時はボルジアによる暗殺と言われたが、現在では自然死とする説が有力。
リナルド・オルシーニは釈放された。

3月29日、パンドルフォ・ペトゥルッチが、シエナに復帰する。フランス王ルイ12世の力添えだった。
(ルイ12世は、チェーザレの強大化を恐れていた。シエナをチェーザレに領有させるわけにはいかない。子飼いのペトゥルッチを置いておきたかった。
また、ナポリでの対スペイン戦争のためにも、フィレンツェやシエナを保護下に置いておくことは重要であった。)

4月半ば、チェーザレによるオルシーニ討伐がほぼ終了、オルシーニ領の大部分が教皇領に統合される。






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