シニガリアSenigallia
シニガリア Senigallia

鉄道で、リミニから約50分。
ボローニャから約2時間〜2時間20分。
アンコーナから約15分〜25分。
街は小さく徒歩でまわれます。
城塞正面に向かって左にある建物(半分城塞の敷地内にある、古い建物)の表にまわると、観光案内所があります。
城塞以外の一般的な観光名所は、ほとんどみなチェーザレの時代よりも新しいものばかりです・・・。
- マルケ州の観光案内サイト
イタリア・マルケ州旅行&観光ガイド
シニガリアの他、ファノやフォッソンブローネなど、チェーザレ周辺に関する、小都市の情報が見られます。
- シニガリア観光案内のサイト Comune di Senigallia
イタリア語でしか見られません。
13世紀初頭、交易の街として栄えるが、教皇派と皇帝派の争いによって荒廃してしまう。
15世紀初頭〜半ば、マラテスタ家が権力を伸長、チェゼーナ、リミニ、ペーザロ、ファノとともに支配下におく。
(しかし、街を教皇領直轄地にしようとする教皇との争いは続いていた。)
マラテスタ家は、街の再興修復に努めるが、1468年、パンフォルフォ・シジスモンド・マラテスタの死によって権勢を失い、1474年、教皇シクストゥス4世が、甥のジョヴァンニ・デッラ・ローヴェレに爵位を与え、シニガリアの新領主とした。
1502年末、チェーザレの所領地となる。
反旗をひるがえした傭兵隊長たちの始末を一斉につけた、「シニガリア事件」の起こった街である。
※写真にマウスを置くと、多少の説明が出ます。
シニガリアの城塞(Rocca di Senigallia)(Rocca Roveresca)
シニガリアの駅を出ると、すぐ正面にある城塞。
すぐそばにアドリア海のあるこの場所には、海からの攻撃を防ぐために、3世紀のローマ時代には塔が建てられていた。
現在の姿は、
1350年代にアルボルノス枢機卿に、
1450年代にパンドルフォ・シジスモンド・マラテスタに、
1476年から1482年にジョヴァンニ・デッラ・ローヴェレによって、
改築、増築されたものである。
ジョヴァンニ・デッラ・ローヴェレは、ウルビーノのドュカーレ宮殿を手がけた、ルチアーノ・ラウラーナ(Luciano Laurana)に建築を依頼。城塞の居住部分は、彼の手によって作られた。
その後、オスティアのユリウス2世の城塞を手がけたバッチョ・ポンテッリ(Baccio Pontelli)がラウラーナの案を改訂し、より城塞を強化した。
内部は、デッラ・ローヴェレ家とモンテフェルトロ家の歴史資料(ジョヴァンニ・デッラ・ローヴェレの息子フランチェスコ・マリーアは、グイドバルド・モンテフェルトロの養子となり、城塞はモンテフェルトロに受け継がれる。)、城塞の成り立ちについて、マルケ地方の考古学的資料、などの展示された博物館となっている。
17世紀、教皇領直轄地となってからは、刑務所や養護施設として利用された。
1502年12月31日から1503年1月1日にかけて行われた、チェーザレに対して反乱を起こした傭兵隊長たちの逮捕・処刑の行われたのは、一般的に「ベルナルディーノ・ダ・パルマの家」とされているが、この城塞内であったとする説もある。その説では、処刑の行われたのは、城塞の中庭(左上の写真)となっている。
- 開館時間
毎日=8:30 - 19:30
※ 内部の写真撮影禁止
ベルナルディーノ邸(Casa di Bernardino)

1502年12月31日、チェーザレはマジョーネ同盟の首謀者であった4人の傭兵隊長たち、ヴィテロッツォ・ヴィテッリ、オリヴェロット・エウフレドゥッチ、パオロ・オルシーニ、フランチェスコ・オルシーニと和解するという名目でシニガリアに入る。
チェーザレは恐縮する傭兵隊長たちと屈託なく接し、彼らを自分の宿所へと誘う。
しかし、傭兵隊長たちは宿所へと足を踏み入れた途端、ミゲル・ダ・コレッラらによって一斉に捕縛される。
翌1503年1月1日深夜、ヴィテロッツォとオリヴェロットは処刑された。
そのチェーザレの宿所であったのが、ここベルナルディーノ・ダ・パルマの館。

現在はその場所に小学校が建っている。
正門脇の壁に、シニガリアでのできごとを記した記念プレートが掲げられている。
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「1502年12月31日、ここベルナルディーノ・ダ・パルマの家において、ヴァレンティーノ公爵チェーザレ・ボルジアの命により、彼の傭兵隊長であったフェルモのオリヴェロット・エウフレドゥッチ、チタ・ディ・カステッロのヴィテロッツォ・ヴィテッリの処刑が行われた。」
と書かれている。
上の写真左は小学校と壁続きになっている建物。右は校庭の部分。
小学校は新しいが、こちらは歴史のある感じ。当時の建物の様子を、雰囲気だけでも味わえる。
公爵の館(Palazzo del Duca)

公爵広場(Piazza del Duca)をはさんで、城塞正面入り口の向かいにある、グイドバルド2世・デッラ・ローヴェレの館。
1500年半ばに建てられたもの。
後にグイドバルド2世の息子、フランチェスコ・マリア2世によって増築され、左右対称のファサードが作られた。
バヴィエラ館(Palazzetto Baviera)

公爵の館を背にし、城塞に向かって広場に立つと、左手にある建物。
ジョヴァンニ・デッラ・ローヴェレの母方の伯父(叔父?)であり、ジョヴァンニの副官であった、ジョヴァンニ・ジャコモ・バヴィエラによって、城塞の改築と同時に建てられた。
フェデリーコ・バランダニの手によって描かれた、創世記やローマの物語などの、内部の漆喰が美しい。
- 開館時間
平日=8:30 - 12:30 / 15:30 - 18:00
日曜・祝日閉館
ミーザ河(Fiume Misa)

1502年末、チェーザレは、傭兵隊長たちの招きでシニガリアへ向かう。
ファノから山沿いの道を行き、シニガリアの郊外地区であるミーザ河の岸辺に到着する。
チェーザレの軍は、河の流れに沿うように左に進む。そこから一射程ほど歩くと橋があり、それを渡ると街の城門につきあたる。
先頭の騎兵隊は橋の手前で2列に陣をとり、その間を歩兵が通っていく・・・・・・。
現在、ファノ方面からシニガリアの中心地へ行くための、ミーザ河にかかる橋は3つある。
「河の流れに沿うように左に進む」には街の南方面へ行くことになるので、チェーザレ軍の渡ったのは、「ジャコモ・レオパルディ通り」に架かる橋なのではないかと思われる。
しかし「一射程」と言うのがどのくらいの距離なのかはっきりしないので、現在の橋の位置とは、多少の差異があるかもしれない。
(写真は街の北方面のミーザ河を撮ってます。・・・すみません。)
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