チェーザレ・ボルジアと、その周辺のさまざまを紹介するサイトです。

フォルリンポーポリForlimpopoli

フォルリンポーポリ Forlimpopoli

フォルリンポーポリ・ベルティノーロ駅

エミーリア街道沿い、フォルリとチェゼーナの間にある街。フォルリから南東に約15キロ。
最寄りの鉄道駅はフォルリンポーポリ・ベルティノーロ駅。


鉄道で、フォルリからフォルリンポーポリ・ベルティノーロ駅まで約8分。
そこから街の中心であるガリバルディ広場まで徒歩で約10分ちょっと。

バスで、フォルリのサッフィ広場発、チェゼーナ駅前行き利用で約20分。ガリバルディ広場の手前、城塞の真ん前のバス停に停まる。

紀元前132年、フォルム・リウィ(Forum Livi フォルリのこと)と、カエセナ(Caesena チェゼーナのこと)の間、アウザ川の近くの平野地帯に、ローマ帝国によって開かれた街。
街の名は、執政官プブリオ・ポピリオ・レナーテ(Publio Popilio Lenate)に由来するとされる。が、Foro Romano Popili(民衆の公共広場という意味)に由来するという説もある。

都市は格子状に区画され、主要な街路のひとつはエミリア街道の跡に沿っており、碑文や柱跡からわかる公共建築と、私邸が建ち並んでいた。

8世紀に教皇庁領となり、13世紀にオルデラフィ家(Ordelaffi)に封土される。

1356年、 枢機卿アルボルノスによりフォルリが攻囲される。しかしフォルリの守りは固く、落城は厳しかった。アルボルノスの攻撃はフォルリンポーポリに向かい、激しい戦闘の末に占領された。
1357年、アルボルノスはフォルリンポーポリを「見せしめ」として街を破壊し、住民を近隣(主にフォルリとベルティノーロ)に追放した。
故に、現存する城塞は15世紀半ばの再建されたルネサンス期のものになっている。

廃墟となったフォルリンポーポリの地は、15世紀半ばに再建されるまで、教皇庁直轄地のまま無人状態に近いものだった。

15世紀、リアーリオ家の所領となる。カテリーナ・スフォルツァ(ジローラモ・リアーリオの妻)もここを治めていた。
1500年、チェーザレの支配下に入る。
1503年、アレクサンデル6世の死後もチェーザレを支持して頑張っていたが、12月に教皇庁(ユリウス2世)に降る。その後オルデラフィ家に返還された。



  • Stazione Forlimpopoli-Bertinoro - フォルリンポポリ・ベルティノーロ駅
  • バス停 - フォルリからのバス、ベルティノーロからのバスはここに停まる
  • バス停 - ベルティノーロ行きのバスはここに停まる
  • フォルリンポーポリ城塞 -
  • ガリバルディ広場 -
  • 時計塔宮殿 -
  • ミズーラ開廊 -
  • ベッケリア開廊 -
  • セルヴィ教会とカーサ・アルトゥージ -
  • 聖ペトロ使徒教会 -
  • サン・ジョヴァンニ・バッティスタ教会 -
  • サン・ルフィッロ寺院 -
  • 給水塔 -
  • マドンナ・デル・ポポロ教会 -


フォルリンポーポリ城塞(Rocca di Forlimpopoli)

街の中心地である、ジュゼッペ・ガリバルディ広場に立つ城塞。
アルボルノツィアーナ城塞(Rocca Albornoziana)と呼ばれることもあるよう。
教皇軍の司令官であった枢機卿アルボルノス(Albornoz)によって建てられたので、この名が残っている。
(※ 同枢機卿が建築した同じ名前の城塞が各地に複数あるので、混同に注意!)

南側の正面入口。ここをくぐると中庭に出る。ガリバルディ広場は向かって左手にある。手前にはバス停。
フォルリンポーポリ、城塞、正面

← 跳ね橋。
→ 跳ね橋を入ったところ。奥に中庭と北側の市役所部分が見える。
フォルリンポーポリ、城塞、跳ね橋 フォルリンポーポリ、城塞、跳ね橋を入ったところ

中庭。
正面が市役所、右手が劇場(映画館)、右折したところにあるのが博物館、左折するとガリバルディ広場
フォルリンポーポリ、城塞、中庭

中庭を左折し、アーチをくぐってガリバルディ広場に出たところ。
フォルリンポーポリ、城塞、ガリバルディ広場から

北西側。右手がガリバルディ広場。左手は市役所の裏。
フォルリンポーポリ、城塞、北西

フォルリンポーポリ、城塞、堀

東側。堀だったところが公園になっている。
こぢんまりとした城塞なので、5分ほどでぐるりと1周できる。


1361年から1363年にかけて、廃墟となっていたロマネスク様式の大聖堂サンタ・マリア・フォロポピリエンセ(Santa Maria Foropopiliense)の上に建てられた。大聖堂は、アルボルノスの再征服時に抵抗した住民への報復として、破壊されたもの。
この時の城塞は「サルヴァテッラ(Salvaterra)」と呼ばれていた。
サルヴァテッラとは「土地を救う・救え」のような意味で、破壊された街を「救済・再生」する象徴として建てた城塞だったからだと考えられる。

アルボルノスは、教皇からロマーニャの教皇庁領を取り戻すよう依頼された人物で、当時フォルリンポーポリを支配していたオルデラフィ家を駆逐した。
が、数年後、オルデラフィは教皇庁と和解、再び同地を支配下とした。

1379年、シニバルド・オルデラフィ(Sinibaldo Ordelaffi)により改築される。
15世紀後半、ピノ3世オルデラフィ(Pino III Ordelaffi)によってさらに改修され、現在見られる姿となった。

多くの城塞が岩山の頂に建てられているのに対し、フォルリンポーポリの城塞は平地に建っている。街の真ん中に普通の家のように建っているので驚く。
ロマーニャで最も保存状態の良い要塞のひとつ。

オルデラフィ家の後、ジローラモ・リアーリオ(Girolamo Riario)、カテリーナ・スフォルツァ(Caterina Sforza)の支配下に入る。
カテリーナが暮らしていたという記録が残っていて、彼女の名を冠した通りが現在も見られる。



城塞の歩廊部分。

画像の説明

1500年1月、チェーザレはカテリーナ・スフォルツァを撃破、イモラやフォルリとともにフォルリンポーポリも支配下に入る。
この時チェーザレはここへは来ておらず、派兵されたイヴ・ダレグレ(Yves d’Alègre)率いるフランス軍が開城させた。チェーザレの目の届いていないせいで、フランス軍はけっこう街を荒らしたよう。

1500年4月10日、チェーザレはイセルニアの司教ジョヴァンニ・オリヴィエーリ(Giovanni Olivieri)をイモラ、フォルリ、フォルリンポーポリおよび「我らの領土のその他すべての地区と地方」の代理総督に任命した。
そして、「民事および刑事の事件を審理し、判決を下し、罪人と悪人を罰し、またその他すべての案件を習慣法によって執り行う」という、広範な権限を与えた。

同年11月、ファエンツァ攻めに際して、フォルリンポーポリは軍の宿営地になる。この時は軍が統制されており、1月のような蛮行は行われなかった。さすが。

1503年11月、チェーザレがオスティアに向かった時彼の下にあったのは、フォルリ、チェゼーナ、ベルティノーロ、そしてフォルリンポーポリだった。

しかし12月、城塞は教皇庁(ユリウス2世)に降り、フォルリンポーポリはアントニオ・マリア・オルデラフィ(Antonio Maria Ordelaffi)に封土された。


16世紀初頭から、城塞は軍事的役割を失い、貴族の邸宅として使われるようになる。
永代借地(enfiteusi)(教会や地主が土地を非常に長期(時に永久)に貸与する制度)として、ランゴーニ家(Rangoni)、次にザンペスキ家(Zampeschi)、最後にカッポーニ家に譲渡された。

1797年、ナポレオン時代に城塞はフランス軍に接収され、フォルリンポーポリ市の管轄下に移された。この時堀の一部が埋め立てられ、内部の中庭とガリバルディ広場を結ぶ、4つの大きなアーチが開けられた。(上の、広場からの写真にわかりやすくある。)


現在、北側部分は市庁舎として利用されている。
市議会の議場には、ラヴェンナの画家フランチェスコ・ロンギ(Francesco Longhi, 1544–1618)に帰属される、17世紀のフレスコ画で装飾された小さな宮廷礼拝堂(cappella palatina)が保存されている。

中庭を挟んだ南東側の1階と地下は「トビア・アルディーニ考古学博物館(Museo Archeologico ‘Tobia Aldini’)」がある。
旧石器時代からルネサンス期までの出土品が展示されており、特に紀元前2世紀に建設されたローマ時代の都市(Forum Popili)の遺物に重点が置かれている。
トビア・アルディーニとは、1972年から2003年まで館長を務めた人物の名前。

中庭南東側の、博物館入口。
フォルリンポーポリ、城塞、中庭

博物館内部。
フォルリンポーポリ、城塞、博物館 フォルリンポーポリ、城塞、博物館

南側(二重跳ね橋のある入口側)は「ジュゼッペ・ヴェルディ劇場(Teatro Giuseppe Verdi)」がある。もともとは「カルロ・ゴルドーニ劇場」と呼ばれ、1830年に城塞の「名誉の間」に設けられて開館した。
1920年から、劇場は映画館へと転用されている。

街の中心に位置することから、城塞は年間を通じて主要な文化行事の舞台・背景となっており、中庭では、音楽祭や文化イヴェント、演劇や映画、歴史的再現行事(Un dè int la Ròca)などが行われている。




ジュゼッペ・ガリバルディ広場(piazza Giuseppe Garibaldi)

フォルリンポーポリ、ガリバルディ広場
城塞の西側にある広場。街の中心地。
1885年以降、イタリアを一つの国にまとめた軍人・革命家ガリバルディの名を冠している。

もとはマッジョーレ広場(Piazza Maggiore)と呼ばれていた。googleマップではなぜかアントニオ・フラッティ広場(Piazza Antonio Fratti)になっている。謎。

広場は四方すべてを建物に囲まれており、
目立つのは西側にある14世紀建築の時計塔宮殿
東側にはフォルリンポーポリ城塞があり、アーチをくぐって城の中庭へ入ることができる。(写真の右端に少し写っている。)
北側には18世紀のコロンバーニ宮殿が建っている。
南側には、1797年から1834年に建築家T. リギーニによって建てられた古典主義様式の「ファッブリカ・ヌオーヴァ」。長く市役所として使われていたが、現在はIntesa Sanpaolo という銀行が入っている。




時計塔宮殿(Palazzo della Torre dell’Orologio)

フォルリンポーポリ、時計塔宮殿

ガリバルディ広場の西側に建つ時計塔。

14世紀の建築。もともとはポデスタ館(最高行政官(ポデスタ Podestà)が執務・居住した官庁兼邸宅のこと)として使われていた。
フォルリンポーポリの建築家、P・ブリガンティによって完全に改修されている。

1階はカフェが入っていて、広場を眺めながらくつろげる。




ミズーラ開廊(Loggia della Misula)

フォルリンポーポリ、ミズーラ開廊

城塞の北(市役所の裏)にあるポンピリオ広場(piazza Pompilio)に建つ開廊。
ポンピリオ広場は、1817年に城塞の堀を埋め立て整備されたもので、かつては商業広場(piazza del Commercio)と呼ばれていた。
街のメインの公共広場ジュゼッペ・ガリバルディ広場に隣接し、ここで鶏やウサギ、魚、卵、野菜、豆、チーズなど、さまざまな食品が売買されていた。
ミズーラ(Misura)とは計量の意味。

132年頃、街の創建者であるポピリオ・レナーテ(Publio Popilio Lenate)が、広場と開廊を建設した、と言われている。




ベッケリア開廊(Loggia della Beccheria)

画像の説明
城塞の北東部分に隣接する開廊。
写真の右端に少し見えるのが城塞。写真を撮っている人の左手にミズーラ開廊がある。

ベッケリア(Beccheria)は肉屋、肉市場という意味。
城塞内で販売される肉を、保存するための氷室が設けられていた。
1861年、フォルリンポーポリの技師G. テッラリーニによって設計され、氷室は20世紀後半まで使用されていた。




セルヴィ教会とカーサ・アルトゥージ(Chiesa dei Servi e Casa Artusi)

フォルリンポーポリ、セルヴィ教会とカーサ・アルトゥージ

セルヴィ教会(Chiesa dei Servi)の正式名称は、
聖アントニオ・アバーテ教会(Chiesa di sant’Antonio Abate)
ここにはもともと修道院もあって、そちらの名前は、
聖マリアのセルヴィ会修道院(Chiesa di sant’Antonio Abate e il convento dei Servi di Maria)

聖アントニオ・アバーテ教会と聖マリアのセルヴィ会修道院(Chiesa di sant’Antonio Abate e il convento dei Servi di Maria)の複合施設だった。


現在、複合施設の西側にはカーサ・アルトゥージ(Casa Artusi)(イタリアの家庭料理・伝統料理など食の文化センター)や公共図書館が入っている
ので、地図やガイドによって表記が揺れていてややこしい。

フォルリンポーポリ、セルヴィ教会

1489年、病院と「黒衣懺悔兄弟団(Battuti Neri)」の祈祷堂があったところに、セルヴィ会修道士たちによって建築された修道院。1525年頃に完成した。
チェーザレ支配下にあった時は建築中ですね。

その後、18世紀初頭に改修が行わている。

内部には貴重な美術作品が保存されており、とりわけ左翼の最初の礼拝堂には、フォルリ出身の画家フランチェスコ・マルタネージ(Francesco Menzocchi)による「受胎告知」(1533年頃)が描かれている。
また、オルガンの扉は画家リヴィオ・モディリアーニ(L. Modigliani, 1576年)によって装飾されている。


フォルリンポーポリ、カーサ・アルトゥージ

カーサ・アルトゥージ(Casa Artusi)は、上述したように食の文化センターで、アルトゥージのフィレンツェの自宅の調度品や図書室、彼の原稿や書簡を展示している。

アルトゥージとは、ペッレグリーノ・アルトゥージ(Pellegrino Artusi 1820年8月4日 - 1911年3月30日)のことで、フォルリンポーポリ生まれのイタリア料理研究家。後にフィレンツェに移住。「イタリア料理の父」と称される人物。

市民図書館、料理学校、アルトゥージのレシピで提供されるレストラン)、企画展示のためのギャラリー、教会そのものを利用した会議ホールなども入っている。




聖ペトロ使徒教会(Chiesa di San Pietro Apostolo)

フォルリンポーポリ、聖ペトロ使徒教会

12世紀初頭に建設された。フォルリンポーポリで最も古い教会のひとつ。
1108年の日付が刻まれた碑文が、正面ファサードに残っている。当時の建物はロマネスク様式だった。
チェーザレの時代には、外観は異なるけれど存在していた教会。

19世紀前半に行われた大規模な改修工事によって、現在の新古典主義的な外観となった。




サン・ジョヴァンニ・バッティスタ教会(Chiesa di San Giovanni Battista)

フォルリンポーポリ、サン・ジョヴァンニ・バッティスタ教会 フォルリンポーポリ、サン・ジョヴァンニ・バッティスタ教会

洗礼者ヨハネ教会。
1918年、聖ヨハネ洗礼者修道院から立ち退きを命じられた修道女たちが、新しい教会を求めて建設した教会。1923年に落成式が行われた。

フォルリンポーポリ出身の棟梁ジョヴァンニ・アルトゥージ(Giovanni Artusi)の設計。きわめて簡素化されたネオ・ゴシック様式になっている。

ファサードは、素焼きレンガの質朴な外観であるが、「キリストの洗礼」を描いたマヨリカ陶板のリュネット(半円形装飾)がはめ込まれている。これは1989年、ファエンツァの芸術家ゴッフレード・ガエータ(Goffredo Gaeta)の制作。

内部は単一の身廊で、交差ヴォールト天井によって覆われ、白とテラコッタ色の水平帯で彩られた付柱(半円柱)とリブによって区分されている。
近代的な造りの祭壇の背後には、優美に彫刻された木製の聖歌隊席(コロ)が設置され、壁には20世紀末の磔刑像(キリスト磔像)が掛けられている。




サン・ルフィッロ寺院(Basilica di San Rufillo)

フォルリンポーポリの守護聖人、聖ルフィッロに捧げられた教会。聖ルフィッロは、4世紀にフォルリンポーポリ教区の初代司教だった。内部には聖人の遺骨が保存されている。

フォルリンポーポリ、サン・ルフィッロ寺院 フォルリンポーポリ、サン・ルフィッロ寺院

ローマ時代の建物と6〜8世紀の初期キリスト教会の遺構の上に建てられており、初期キリスト教とロマネスク様式の痕跡が残る。
(と言われても?となってしまうが、これは写真が正面(西)でなく側面(南)だから。勘違いして撮りました、すみません。)


10世紀頃からベネディクト会修道士の教会だった。
が、1361年、アルボルノス枢機卿によるフォルリンポーポリ破壊の後、彼らは街を去った。

15世紀半ばに拡張され、さらに19世紀初頭、フォルリの建築家ルイジ・ミッリ(Luigi Mirri)の設計により、当時流行していた新古典主義様式で改装された。

つまり、チェーザレの時代には拡張中だった?

1521年、ロンバルディア様式の鐘楼が作られた。
(これは写真のものです!)

内部は三廊式。
(内部の写真も勘違いして、脇の礼拝堂か何かを撮ってます…すみません。)

フォルリ地方の芸術家の作品を所蔵している。
・フォルリの画家フランチェスコ・メンツォッキ(Francesco Menzocchi)による「十字架降下(1538年)
・ラヴェンナの画家ルカ・ロンギ(Luca Longhi)による「玉座の聖母子、聖ヴァレリアーノ、聖ルチア、および依頼者ブルノーロ1世・ザンペスキ」(1528年)
「玉座の聖母子、聖ルフィッロと聖アントニオ、依頼者アントネッロ・ザンペスキ」(1530年)

ポルティコの内部には、16世紀にフォルリンポーポリの領主であったブルノーロ1世とブルノーロ2世・ザンペスキの墓碑がある。
これらは、この地方におけるルネサンス彫刻の最も優れた作品とされる。
(ポルティコも正面のファサードにあるので、画像ありません、すみません)

19世紀の木版画。現在の外観もほとんど同じ。
フォルリンポーポリ、サン・ルフィッロ寺院




給水塔(Torre dell’Acquedotto)

城塞の前(南)にバス停があり、ちょっとした広場になっている。そのバス停広場のさらに手前(南)にあるウーゴ・ラ・マルファ庭園(Giardino Ugo La Malfa) にある塔。

バス停手前にあるウーゴ・ラ・マルファ庭園。
フォルリンポーポリ、ウーゴ・ラ・マルファ庭園

フォルリンポーポリ、給水塔

第二次世界大戦後に再建されたもので、もともとは1938年に建てられた円形平面の初代給水塔があったが、1944年10月24日、撤退するドイツ軍によって破壊された。
現在の建物はノヴェチェント様式(Stile Novecento)の特徴を取り入れ、さらに「自由(La Libertà)」を象ったフォルリンポーポリの彫刻家M・ベルトッツィ(M. Bertozzi)による像で飾られている。
当初の意図としては、この塔は解放の記念碑であり、第二次世界大戦で戦没した人々への追悼碑としての意味も持たせる予定だった。




マドンナ・デル・ポポロ教会(Chiesa della Madonna del Popolo)

フォルリンポーポリ、マドンナ・デル・ポポロ教会

サンタ・マリア・デル・ポポロ教会(Ciesa di Santa Maria del Popolo) とも。ガイドによって表記が異なっている。

16世紀、街の人々の信仰を集めていた聖母像を納めた小さな祠の上に建てられた教会。
聖母マリアが描かれたフレスコ画は、元の壁から取り除かれ、新しい教会に持ち込まれた。

内部には、画家ジュゼッペ・マルケッティ(Giuseppe Marchetti)による6枚の祭壇画と12枚の絵画、チェゼーナ出身のルチオ・ロッシ(Lucio Rossi)によるフレスコ画がある。







a:2584 t:1 y:1

powered by Quick Homepage Maker 4.74
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional