チェーザレ・ボルジアと、その周辺のさまざまを紹介するサイトです。

フォルリForli

フォルリ Forli

イタリア国鉄の駅は、みんなこういう青い看板でした。

鉄道で、ボローニャから約40分。
(ボローニャまで、
ミラノから約1時間20分〜1時間50分。
フィレンツェから約1時間。
ローマから約2時間半。)

フォルリ駅から街の中心地までは、少し離れているので、駅前から出ているバスを利用するのがよいと思います。
「citta centorale 市街地」に行きたいと言えば、街の中心であるアウレリオ・サッフィ広場へ行くバスを教えてくれるはずです。
(バスの運転手さんには、ほとんど英語は通じませんでした。簡単なイタリア語を覚えて行った方がいいと思います。)
※ 今は翻訳アプリがあるので、覚えなくとも良いですね!


  • フォルリ観光案内のサイト Turismo Forlivese
    英語で見られるページもあります。
    (細かい情報になると、イタリア語のみになってしまいます。)


アペニン山脈北の麓の平地にあり、ラヴェンナとトスカーナを結ぶ交通の要地である街。
山からの天然資源や水の供給を受けつつ、平野を通る街道(Via Emilia)で商業・軍事の拠点となり、「山と海をつなぐ玄関口」として発展した。
紀元前188年、共和政ローマの執政官ガイウス・リウィウス・サリナトルが建設したと言われている。


おそらく4世紀に司教座が置かれ、後に東ローマ帝国のラヴェンナ総督領の支配下に入った。
756年、フランク王ピピン3世によりローマ教皇に寄進される。(世界史に登場するあの!「ピピンの寄進」である。)
1209年、オットー4世により教皇庁領として承認される。が、実際の支配は、当初は自由都市によって、後には都市を支配した小領主たちによって、妨げられた。


12〜13世紀、教皇派と皇帝派の激しい争いの舞台となる。フォルリは皇帝派で、たびたび帝国の大義や地方領主たちの自治反乱を支持した。
1278年、皇帝によりロマーニャに対する教皇の権利が正式に承認される。が、それでも皇帝派の反乱は続いた。


14世紀、内部抗争の中で皇帝派のオルデラフィ家が優勢となり、教皇代理位(il vicariato papale)を得る。
彼らはフォルリの勢力圏にあったフォルリンポーポリのほか、チェゼーナ、ベルティノーロ、メルドラ、カストロカーロ、そして敵対するカルボリ家(Calboli)の城をも掌握した。


1359年、カルボリ家とマラテスタ家の支援を得た枢機卿アルボルノス率いる教皇庁軍により、オルデラフィ支配下にあった街は教会の下に取り戻される。

フォルリは新しい教皇代理政府(governo vicelegatizio)の本拠地として選ばれ、市の防衛体制は大幅に強化された。
対外防衛だけでなく内部統制の機能も改められ、市民的・記念的な公共建造物の整備が同時に進められた。(これは見せしめとしてフォルリンポーポリが受けた壊滅的処分とは対照的だった。
フォルリのような大都市は政治的に利用し、フォルリンポーポリのような小都市は見せしめとして破壊することで、他のロマーニャ諸都市(ファエンツァ、チェゼーナなど)を従わせる狙いがあった。アルボルノスの処置は「残酷」というより「戦略的」だった。)


しかし、20年も経たないうちにオルデラフィ家はフォルリに復帰。再び教皇代理の地位を得た同家の支配は、内部反乱やミラノ、フェラーラ、ヴェネツィア、フィレンツェによる繰り返しの侵攻を挟みながらも、15世紀を通じて続いた。


1480年、ピノ3世・オルデラフィが死去すると、フォルリの教皇代理はすでにイモラの領主であったシクストゥス4世の甥、ジローラモ・リアーリオに引き継がれた。
1488年、彼が有力市民一族オルシ家の陰謀によって暗殺されると、その未亡人で摂政のカテリーナ・スフォルツァが後を継いだ



1499年末、チェーザレの軍勢がフォルリを包囲。1500年初頭にかけて城主カテリーナ・スフォルツァとの凄烈な攻防が続いた。
何度かの攻撃と抵抗ののち、城はついに陥ちる。

チェーザレは征服地での略奪や混乱を抑えるため、代理人(ラミーロ・デ・ロルカジョヴァンニ・オリヴィエーリ(Giovanni Olivieri))を通じて、行政と司法を掌握する形で支配した。
彼の名で布告された命令には、「市民は公正に扱われる」「盗賊や暴徒は厳罰に処す」などが含まれており、その統治は短期間ながら、ロマーニャ統一政策の要となった。

フォルリの城塞は、チェーザレが没落しユリウス2世に捕縛されてもなお開城せず、1504年8月10日まで守り通した。



1503年、チェーザレの後、再びオルデラフィ家の支配下に入る。しかしその翌年には一族が断絶、教皇庁領に戻される。

教皇ユリウス2世は、ロマーニャ諸領を教皇国家に組み込み、ラヴェンナを本拠地とした教会に直属するレガーティ政府(governo dei legati)を設置した。
これにより、従来の領主代理制(Vicariato)や地方自治に基づく間接支配の体制は、永遠に廃された。


19世紀を通じて、特にイタリア統一以後、フォルリは新たに興った産業(金属・機械部品、電子機器、家具)や、大規模な干拓事業と結びついた農業を軸にして発展した。
近年では、航空・宇宙産業関連の研究・技術集積も進んでいる。



  • バス案内所 - Punto Bus Forlì - Start Romagna S.p.A.


ラヴァルディーノ城塞(Rocca di Ravaldino)

1499年、チェーザレ最初の進撃時に、カテリーナ・スフォルツァが籠城したことで有名な城塞。
チェーザレは城塞を砲撃し、崩れた壁部分に自らの紋章を飾り修復した。下の写真の白い四角部分がその紋章。

フォルリ、ラヴァルディーノ城塞

フォルリ、ラヴァルディーノ城塞、チェーザレの紋章

紋章の下部に、

「C. BORGIA DE FRANCIA
VALEN. ROMANDIO LAEQ.
DUCIS AC S.R.E CONFA
ET CAP. GENERALIS.」

「フランスのチェーザレ・ボルジア
ヴァレンティノおよびロマーニャの公爵
そして聖ローマ教会の軍旗手および総司令官」

と刻まれている。


壁の厚さは、投石機などの攻城兵器の衝撃に耐えるため3〜4メートルはあったので、チェーザレの猛攻の凄まじさが伺える。
が、城壁に使用されていたコンクリートの質が低く、砲撃を受けると壁は「バターのように(come burro)崩れた」とも言われている。


城塞の起源についてははっきりした記録がない。が、おそらく11世紀末〜12世紀初頭には存在していた、城壁を補うリヴェリーノ(rivellino 小防塁)が基ではないかと考えられている。
ラヴァルディーノという名称は、このリヴェリーノという言葉から派生したとされる。

この防塁は非常に脆弱で、1075年にはラヴェンナ軍に、1128年には皇帝コンラート2世(Corrado II)の軍勢に、1130年にはベルティノーロの領主カヴァルカンテ(Cavalcante)によって、破壊されている。

しかし1315年には、城壁はかなり強化されており、スペイン人枢機卿アルボルノスの包囲に長期間耐えた。
これはオルデラフィ家によって強化されたよう。


1360年から1371年にかけて、アルボルノス枢機卿が古い城塞を取り壊し、防衛により適した高地に、新しい城塞を建築する。
(1372年、ロマーニャの教皇代理であった枢機卿ピエトロ・ブルッジャ(Pietro Bruggia)が、城塞の建設を開始したとする説もある。)


1466年から1480年にかけてフォルリの支配者であったピノ3世・オルデラフィは、1471年、建築家ジョルジョ・マルケージ・フィオレンティーノ(Giorgio Marchesi Fiorentino)に、要塞の改築を設計させた。
(この建築家は、ロレンツォ・デ・メディチの推薦によってオルデラフィ家に紹介されている。彼はイモラ、ドッツァ、ペーザロ、バニャーラの城塞建築にも関わっている。どうりで全部似ている!)

ここで、ラヴァルディーノ城塞は、現在見られるような4面の城壁と4つの塔を持つ形に作られた

北東側では、兵士の部隊を収容するための軍事区画(チッタデッラ cittadella)の造成工事も始められた。


オルデラフィ家の後、1480年から1500年にかけてフォルリの支配者であったのはリアーリオ家で、1481年、ジローラモ・リアーリオの下でチッタデッラが完成した。
彼の下で、イル・パラディーゾと呼ばれる居住用の建物も建設された
パラディーゾは楽園という意味で、その豪華な外観からこう呼ばれた。が、現在は失われていて、どこに建てられていたのかもはっきりとはわかっていない。

1488年、ジローラモが暗殺された時、カテリーナ・スフォルツァはこの城に籠城する。その後もカテリーナは城壁の、主にパラディーゾに居住した。
(パラディーゾが完成したのは1496年という説もある。)



1937年に描かれた、1500年のラヴァルディーノ城塞の復元図
1937年に描かれた1500年のラヴァルディーノ城塞復元図

フォルリ、ラヴァルディーノ城塞、googleマップ

※ 上記の復元図で、B(城塞本体)はA(チッタデッラ)に対して並行に見えるが、右記のgoogleマップを見ると、実際は少し角度がある。


ラヴァルディーノ城塞は3つの建物から成っている。
A チッタデッラ(軍事区画)
B 内部要塞(城塞本体)
C パラディーゾ(宮殿)
その複雑な構造ゆえに「決して攻略できない要塞」と評されていた

しかしマキァヴェッリはその評価に異を唱え、彼は「戦争の技術(Dell’arte della guerra)」第7章において、ラヴァルディーノ城塞は構造が入り組んでいるがため、かえって脆弱であると批判している

そしてその言葉どおり、1500年1月12日、チェーザレはラヴァルディーノ城塞の南西から攻撃を仕掛け、ついにそれを陥落させた
(しかしマキァヴェッリの著作は1520年に書かれたものなので、後出しじゃねえか!とも言える。)


A チッタデッラ(Cittadella)
軍事区画。兵士が駐屯したり訓練したりするところ。現在は刑務所として使われている。

B 内部要塞(Ridotto)
城塞内の防御区画。と言うか城塞本体。

C パラディーゾ(Paradiso)
カテリーナ・スフォルツァの居館。初代トスカーナ公となるコジモ・デ・メディチの父黒隊のジョヴァンニは、ここで生まれたと言われる。
現在の城塞入口前の公園部分。
奥に見える現在の城塞入口は、B内部要塞とCパラディーゾをつなぐ部分だった。
フォルリ、ラヴァルディーノ城塞
ここに、「山のリヴェリーノ(rivellino della montagna)」と呼ばれる3つ目の半月堡もあったよう。
チェーザレは最初にここを砲撃した。が、存外に丈夫だったので、南西の壁(紋章のあるところ)に標的を移した。



主塔
最初に建てられた塔なので、円塔でなく方形。(大砲に備える必要がまだなかったから。)
高さ約15メートル、3階建。
フォルリ、ラヴァルディーノ城塞

フォルリ、ラヴァルディーノ城塞

主塔と②東塔をつなぐ通路。
(上の写真に見えている歩廊の地上階部分。)



北の塔
フォルリ、ラヴァルディーノ城塞


東の塔
現在、歩廊に上る出入口はこの塔にある。
フォルリ、ラヴァルディーノ城塞

塔の内部には、囚人の落書きが残っている。
フォルリ、ラヴァルディーノ城塞、壁の落書き

③南の塔から②東の塔を見ている。
フォルリ、ラヴァルディーノ城塞



南の塔
チェーザレが砲弾で破壊した。ので、他の塔に比べて低い。と言うか、屋根部分がない。
フォルリ、ラヴァルディーノ城塞

1500年当時、この塔には火薬庫が置かれており、城代ジョヴァンニ・ダ・カザーレ(Giovanni da Casale)が、今もよくわかっていない理由で、爆破した。

チェーザレの包囲戦中に破壊された城壁部分は、見分けることができる。
通常とは異なる砂岩製の半月形腕木(beccatello 建築物の壁から突き出して、上にある構造物(バルコニー・屋根・城壁の出っ張りなど)を支える部材のこと)が見られるからである。

この特徴は他の城塞でも確認でき、チェーザレによる征服後に行われた再建工事の際の構造的特徴であると考えられている。腕木を丸くすることで、敵が包囲攻撃の際に攻城用のはしごを掛けるのを難しくする意図があったと推測される。

← 通常 チェーザレの修復 →
フォルリ、ラヴァルディーノ城塞 フォルリ、ラヴァルディーノ城塞

フォルリ、ラヴァルディーノ城塞

← ②東の塔から③南の塔を見ている。

フォルリ、ラヴァルディーノ城塞



西の塔
外からの内部要塞(城塞本体)への直接出入口はここにあった。
カテリーナ・スフォルツァがスカートを捲り上げて叫んだという塔はここ。
ので、チェーザレがカテリーナと話をしたのも、ここかな!?
当時は塔とチェーザレの紋章の間くらいに、跳ね橋があったよう。
フォルリ、ラヴァルディーノ城塞

← ③南の塔から④西の塔を見たところ。
→ 塔から西を見たところ。チェーザレの紋章が城壁に見える。カテリーナはここから砲撃を見てたかも。
フォルリ、ラヴァルディーノ城塞 画像の説明

螺旋階段は地上階まで続いている。チェーザレが破壊した③南塔以外には螺旋階段があり、主塔、①北塔、②東塔にも部分的に残存している。
フォルリ、ラヴァルディーノ城塞 フォルリ、ラヴァルディーノ城塞、螺旋階段

フォルリ、ラヴァルディーノ城塞


ラヴァルディーノ門(Porta Ravaldino)
現在の城塞前公園の入口。
フォルリ、ラヴァルディーノ城塞


正門(Ingresso principale)
現在は通用門のようになっている。通行はできない。
右の門は城塞入口前公園の裏門。
フォルリ、ラヴァルディーノ城塞

公園裏門を少し入ったところの左手壁に、カテリーナ・スフォルツァの碑がある。

フォルリ、ラヴァルディーノ城塞、カテリーナ・スフォルツァの碑

「CATERINA SFORZA
SIGNORA DI FORLÍ
MADRE DI GIOVANNI DALLE BANDE NERE
ASSALITA DA CESARE BORGIA
E DA UN ESERCITO DI FRANCESI E DI SVIZZERI
CHE NE IL RE DI NAPOLI NE IL DUCA DI MILANO AVEVANO OSATO COMBATTERE
IMPAVIDA COL FERRO E COL FUOCO DIFESE LA SUA ROCCA
MIRABILE ESEMPIO DI ENERGIA E DI VALORE
AL TRAMONTO DEL TRISTE SECOLO XV
CHE VIDE RICOMINCIATE IN ITALIA
LE INVASIONI STRANIERE」

「カテリーナ・スフォルツァ
フォルリの女領主
ジョヴァンニ・ダッレ・バンデ・ネーレの母
チェーザレ・ボルジアと
フランスおよびスイスの軍勢に襲われたが
それ以前にはナポリ王もミラノ公も
彼らと戦うことを敢えてしなかった
鉄と火をもって恐れずに己の要塞を守り
驚くべき力と勇気の模範を示した
異国の侵入が再びイタリアに始まった
不幸な15世紀の黄昏において」



コトーニ門の半月堡(Rivellino porta Cotogni)
現在は刑務所への入口になっている。跳ね橋の跡っぽいので、チェーザレがカテリーナと話したところと勘違いしがち。
右端に見えるのが半月堡跡と刑務所の建物。
左の円塔は城壁東の稜堡。
フォルリ、ラヴァルディーノ城塞


チェゼーナ門の半月堡(Rivellino porta Cesena)
チェゼーナの方向にあることから命名されている門。現在は失われている。

チッタデッラと内部要塞(城塞本体)をつなぐ出入口。

③南の塔と④西の塔をつなぐ城壁
チェーザレの紋章があるところ。




1507年2月25日、ボローニャのベンティヴォーリ家討伐の軍事遠征からの帰途、ユリウス2世はラヴァルディーノ要塞に立ち寄っている。
チェーザレの紋章、壊さないでいてくれてありがとう。


1527年、カール5世によるローマ略奪後、和平協定の条件の一つとして、ラヴァルディーノ城塞は他の3つの城塞、[[オスティア>オスティアOstia #nc6748ee]]、[[チヴィタヴェッキア>]]、チヴィタ・カステラーナとともに譲渡された。

16世紀後半、スペインとフランスの対立による抗争が収まり、地域の安定が進む。
火砲技術の急速な発展により、城塞の防御施設は時代遅れのものとなり、戦略的価値を失っていく。
多くの都市と同様に、ラヴァルディーノ軍事拠点から格下げされ、監獄として利用されるようになる。

17世紀に入ると、この要塞はすでに放棄されており、サンタ・マリア・デル・フィオーレ教会(Santa Maria del Fiore)の建設資材を得るための採石場として使用されてしまう。

1802年、フランス軍がフォルリを占領すると、城塞は司法監獄へと改装され、ギロチンも設置される。

19世紀末、チッタデッラ内部に新しい牢獄が建設される。

20世紀初頭、財務監督局(Intendenza di Finanza)が管理人を任命し、ようやく保護の手が差し伸べられることとなった。




  • 2009年、修復中のラヴァルディーノ城塞
    過去記事です。
    上書きしてもよかったけど、残しておくことにしました。

Rocca di Caterina Sforzaとも言うようです。

1499年、イモラを攻略したチェーザレは、時を置かずしてフォルリへ入る。

彼は、城塞を明け渡せば、カテリーナの地位と安全を保証することを申し出る。
が、カテリーナはこれを拒否、2千の兵とともにラヴァルディーノの城塞に立てこもり、全面対決の構えをとる。

跳ね橋だったところ??堀だったところは芝生になっています。

カテリーナは堀に跳ね橋を下ろし、そこにチェーザレ誘う。
講和への会談を、もっと打ち解けて行おう、という意図を示して。

チェーザレが跳ね橋に歩を進めた時、すさまじい音をたてて、橋は跳ね上がる。
逸る気持ちを抑えられなかった兵士が、一瞬早く橋を上げてしまったのだった。
寸でのところで、チェーザレはカテリーナの姦計から逃れる。

※ 当時この場所を跳ね橋だと思っていたけれど、ここは上の復元図で⑦にあたり、チッタデッラのリヴェリーノなので、チェーザレが捕えられそうになった場所ではないですね。

イモラやシニガリア、ペーザロ、ナポリの城塞と比べると、とても広く大きい

翌1500年1月12日、チェーザレ軍は一斉に城塞内へ突入。
カテリーナは自ら武器を手に、戦線に立つが、抵抗むなしく、捕らえられる。

チェーザレは、従来の慣習であった占領地での略奪を兵士らに禁じ、フォルリの民衆の信頼を得た。

ボルジアの紋があるんだから「ロッカ・ボルジアーナ」でもいいと思うんだけど。
劣化していてとても読みづらいが「BORGIA」「FRANCIA」「VALENTINO」という文字が見える。

チェーザレの紋章。
城塞の南、
「Via Filippo Corridoni フィリッポ・コリドーニ通り」沿いの壁にある。


紋章部分を拡大→


この紋章は、チェーザレ軍の砲撃によって崩されたところを埋めるかたちで作られたもの。


城塞は小さいながらも、中世には存在していた。
15世紀、ピオ・オルデラフィやジローラモ・リアーリオ、カテリーナ・スフォルツァらの手を経て、現在のような、複雑な構造の堀と跳ね橋に囲まれた、隔絶された要塞となった。
1499年、フィレンツェの外交官として、フォルリを訪れたマキァヴェッリは、
「あまりに構造に懲りすぎていて、そのために逆に攻撃されやすくなっている」
と評したらしい。

カテリーナが籠城した一室は、2階部分にある。
城の最も高い塔には井戸が備わっており(現在も残っている)、長期の戦闘にも耐えうるようになっていた。


  • 開館は、城塞内のホールで、展示会の催されている時のみ。
    電話(管理会社)+39.0543.34264
      (文化事務局)+39.0543.712229
  • 現在修復中だが、中庭はコンサートなどが行われている。
    半分は刑務所として利用されている。



ヌマイ宮殿と塔(palazzo Numai e Torre Numai)

ヌマイ・オルセッリ・フォスキ宮殿(Palazzo Numai Orselli Foschi)とも。
ヌマイ、オルセッリ、フォスキは宮殿の歴代所有者である3つの家名。

1499年末から1500年1月、ラヴァルディーノ城包囲を開始した時、チェーザレはこの館に宿泊した。
時のヌマイ家当主は、フォルリの実力者あったルッフォ・ヌマイ(Luffo Numai)

ルッフォ・ヌマイは、1503年のアレクサンデル6世の死後、フォルリの城代として頑なにラヴァルディーノ城塞を守ったゴンサロ・デ・ミラフェンテスに、人質にされたりもしている。

 Authorr=dainius buividavicius

塔は宮殿に90度のかたちで隣接しており、宮殿とは地下通路で結ばれている。
フォルリの防衛のために建てられた多くの塔のうち、唯一現存している塔。

フォルリ、ヌマイ宮殿

14世紀末から15世紀前半に建てられたヌマイ家の宮殿。中庭のポルティコ(柱廊)の柱頭部や1階天井、塔のファサード上部(→)に紋章が残っている。

天井紋章は、
1470年から1483年までフォルリ司教を務めたアレッサンドロ・ヌマイ(Aressandro Numai)(チェーザレを泊めてくれたルッフォ・ヌマイ(Luffo Numai)の兄)と、
1506年にブレシアのポデスタを務めたピノ・ヌマイ(Pino Numai)のもの。

16世紀初頭、ピノ・ヌマイにより増築され、石造の玄関口、玄関ホール、中庭のイストリア石の円柱と柱頭を備えた三方のポルティコ、そして1階の諸室が整えられた。

玄関口は、ルネサンス様式のダイヤモンド形装飾で、地元産煉瓦で作られている。
その下部には、中世建築特有の傾斜(スカルパ scarpa)が見られる。

主要な部屋はルネサンス様式で、ヴォールト天井を持つ。(ここに前述の紋章がある。)


フォルリ、ヌマイ塔

その後、館はオルセッリ家の所有となり、バロック期および20世紀初頭に改築を受けた。
この時画家フランチェスコ・オリヴッチ(Francesco Olivucci)が、新当主書斎用の部屋をテンペラ画で装飾した。


ヌマイ宮殿は現在、1階部分をフェランテ・フォスキ鳥類学博物館(Museo Ornitologico Ferrante Foschi)として利用されていて、イタリア各地から集められた約4,000体の鳥類標本が展示されている。

  • 開館時間
    火曜日~金曜日 9:00〜12:00




スキアヴォニア門(Porta Schiavonia)

現在、フォルリに唯一残っている城壁門。
15世紀初頭まで、近くに同名の城塞があった。今でも門に連なってわずかに塔の遺構が見られる。また、ポルトナッチョ通り(Via del Portonaccio 門のすぐ前の道)沿いに、城壁の断片が残っている。

1499年、チェーザレの第一次ロマーニャ攻略時、この城はチェーザレがフォルリに入城する前日の12月18日に降伏している。早。

チェーザレ軍の兵士たちの一部はここを宿舎とした。また、翌年のファエンツァ攻めの時も、宿舎として利用された。

フォルリ、スキアヴォニア門

1282年には、「モラッティーニ年代記」により、門の存在が確認されている。
当時すでに城外に集落(ボルゴ)があり、そこへ通じる門として機能していた。

14世紀中頃、フォルリ西方には2つの門があった。
・リヴィエンセ門(Porta Liviense)と、
この
・スキアヴォニア門
である。
1356年、枢機卿エジディオ・アルボルノスのフォルリ包囲戦の際、フランチェスコ2世・オルデラフィがリヴィエンセ門と門に続く橋を破壊する。
結果、主要街道がスキアヴォニア門経由に変更され、門の戦略的重要性が飛躍的に高まった。

1407年、枢機卿ジョヴァンニ・コッサ(後の対立教皇ヨハネス23世)が、街の防衛のためスキアヴォニア門のそばに小要塞(Rocchetta)を築く。
が、1413年、ジョルジョ・オルデラフィ(Giorgio Ordelaffi)によって取り壊されてしまう。


1438年、オルデラフィ家による街の防衛再整備の一環として、再建される。この時建てられた城塞がチェーザレの時代のもの。

フォルリ、スキアヴォニア門
1941年のスキアヴォニア門。モントーネ河の方から。


1556年、スペインとの戦争を想定した教皇パウルス4世の命により、場所を移される。(どこに?)
1623年、枢機卿ドメニコ・リヴァローラ(Domenico Rivarola)の命令で、再び解体される。

1743年、現在見られるバロック様式の門として再建される。
同世紀のうちに、枢機卿カミッロ・メルリーニ・パウルッチ(Camillo Merlini Paulucciil)を称える凱旋アーチが加えられる。

1905年、フォルリ市の都市改造で他の城壁門(サン・ピエトロ門、ラヴァルディーノ門、コトーニ門 Porta San Pietro Porta Ravaldino Porta Cotogni)が破壊される中、スキアヴォニア門だけが取り壊しを免れた。

1933年、門の中央通路部(androne)が撤去され、正面ファサードのみ保存される。


スキアヴォニアとは「スラヴ人」という意味もあるが、ここでは「奴隷」の意味。
400年、西ゴートの王アラリック(Alarico)によって奴隷にされたフォルリの人々が、聖メルクリアーレの助けによって解放された場所である、という伝説に由来している。




アウレリオ・サッフィ広場(Piazza Aurerio Saffi)

街の中心である広場。チェーザレの時代にはマッジョーレ広場(Piazza Maggiore)と呼ばれていた。

フォルリ、アウレリオ・サッフィ広場

15世紀に改修された市庁舎、
同時代に立てられたポデスタ館(行政長官の館)、
12世紀に再建された教会、
など、広場を囲む建物は、郵便局(上の写真の左奥)を除けばすべて、チェーザレのフォルリ征服時に存在していたもの。
(郵便局は20世紀に建設された。が、広場の雰囲気を損なうことのない外観をしている。)
カフェやバーのテラスが置かれ、とても賑やか。市が開かれることもある。



1500年12月24日、ミゲル・ダ・コレッラは靴泥棒の男をこの広場で絞首刑にした。


Palazzo dek Municipo Palazzp del Podesta

市庁舎                                 ポデスタ館





サン・メルクリアーレ教会(Chiesa di San Mercuriale)

高い鐘塔が目を引く

アウレリオ・サッフィ広場にある教会。
最初の建設は4世紀、もしくは5世紀。
サント・ステファーノに捧げられた教会。

教会内部

7世紀になって、街の守護聖人、サン・メルクリアーレに捧げられた教会となった。
1173年に火災により一部焼失するも、すぐに再建された。
3つの側廊と3つの後陣、塔と地下聖堂を持つロマネスク様式。




オルデラフィ広場(Piazza ordelaffi)

オルデラフィ広場.jpg

カテリーナ・スフォルツァの夫で、シクストゥス4世の甥であった、ジローラモ・リアーリオが暗殺された時、彼の死体はここに捨てられた。
オルデラフィは、14〜15世紀半ばにフォルリを牛耳っていた一族の名前。
写真右端に見える丸屋根はドゥオーモ。
左に小さく見える尖塔は、サン・メルキュリアーレ教会の鐘楼。





モンテフェルトロ広場(Piazza Guidobaldo da Montefeltro)

画像の説明

広場というより、ただの道路。
グイドバルド・モンテフェルトロは、1503年、教皇ユリウス2世により、教皇軍総司令官に任命されるとすぐに、チェゼーナとフォルリを確保、教皇へと引き渡した。
グイドバルドと教皇軍、フォルリの関係は、このこと以外に見つけられないので、きっとこの出来事に由来して、グイドバルド・モンテフェルトロ広場と名づけられたのだと思う。




サン・ドメニコ美術館(Musei San Domenico)

新しくてきれいな美術館

グイド・モンテフェルトロ広場にある美術館。
考古学博物館、絵画館、陶器博物館、から成る。

「若い女性の肖像、もしくはジャスミン夫人」というタイトル

  • カテリーナ・スフォルツァと言われている肖像画 ↑
    (Lorenzo di Credi 「Ritratto di giovane donna o Dama dei gelsomini」)
    2階の展示室 Sala 4


「男性の肖像」というタイトル
  • チェーザレ・ボルジアと言われている肖像画 →
    (Girolamo Marchesi da Cotignola「Ritratto d'uomo」)
    2階の展示室 Sala 11
    しかしこれは、弟ホアン・ボルジアの肖像であるとする説もある。




これらの作品は、フォルリ市美術館所蔵、となっているが、なぜかこのサン・ドメニコ美術館にあった。

  • 開館時間
    冬季
    火曜〜金曜 9:30 - 13:00 / 15:00 -17:30
    土日・祝日 10:00 - 18:00
    月曜休館(祝日と12月25日を除く)

夏季(7月8月)
火曜〜金曜 16:00 - 20:00
水曜 16:00 - 23:00
土日 10:00 - 18:00.
月曜と8月15日休館




カテリーナ・スフォルツァ通り(Via Caterina Sforza)

まあ、何てことない普通の通りです

カテリーナ・スオルツァの名の冠せられた通り。
下辺にある「RIONE RAVALDINO」とはラヴァルディーノ地区という意味。




ドゥカ・ヴァレンティーノ通り(Via Duca Valentino)

チェーザレの生年が1478年となっています。ホアンを兄とする説で、生年1478年となっているものが多いかも・・・。

ヴァレンティーノ公爵、つまりチェーザレ・ボルジアの名の冠せられた通り。
カテリーナ・スフォルツァ通りとラヴァルディーノの城塞をつなぐ位置にある。
ほんの100メートルほど、カテリーナ・スフォルツァ通りの8分の1くらいの長さしかないけど・・・。


左端に見える建物を正面から撮ったのが、右隣の写真です。
可愛らしいおうち





住所に
「Duca Valentino」
とつくであろう、羨ましい家々。






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