フォルリForli
フォルリ Forli
鉄道で、ボローニャから約40分。
(ボローニャまで、
ミラノから約1時間20分〜1時間50分。
フィレンツェから約1時間。
ローマから約2時間半。)
フォルリ駅から街の中心地までは、少し離れているので、駅前から出ているバスを利用するのがよいと思います。
「citta centorale 市街地」に行きたいと言えば、アウレリオ・サッフィ広場へ行くバスを教えてくれるはずです。
(バスの運転手さんには、ほとんど英語は通じませんでした。簡単なイタリア語を覚えて行った方がいいと思います。)
- フォルリ観光案内のサイト Turismo Forlivese
英語で見られるページもあります。
(細かい情報になると、イタリア語のみになってしまいます。)
※写真にマウスを置くと、多少の説明が出ます。
アウレリオ・サッフィ広場(Piazza Aurerio Saffi)
街の中心である広場。
バスセンターのようなものも、小さいがある。
15世紀に改修された市庁舎、
同時代に立てられたポデスタ館(行政長官の館)、
12世紀に再建された教会、
など、広場を囲む建物は、郵便局を除けばすべて、チェーザレのフォルリ征服時に存在していたもの。
(郵便局は20世紀に建設された。が、広場の雰囲気を損なうことのない外観をしている。)
カフェやバーのテラスが置かれ、とても賑やか。市が開かれることもある。
市庁舎 ポデスタ館
サン・メルクリアーレ教会(Chiesa di San Mercuriale)
アウレリオ・サッフィ広場にある教会。
最初の建設は4世紀、もしくは5世紀。
サント・ステファーノに捧げられた教会。
7世紀になって、街の守護聖人、サン・メルクリアーレに捧げられた教会となった。
1173年に火災により一部焼失するも、すぐに再建された。
3つの側廊と3つの後陣、塔と地下聖堂を持つロマネスク様式。
オルデラフィ広場(Piazza ordelaffi)
カテリーナ・スフォルツァの夫で、シクストゥス4世の甥であった、ジローラモ・リアーリオが暗殺された時、彼の死体はここに捨てられた。
オルデラフィは、14〜15世紀半ばにフォルリを牛耳っていた一族の名前。
写真右端に見える丸屋根はドゥオーモ。
左に小さく見える尖塔は、サン・メルキュリアーレ教会の鐘楼。
モンテフェルトロ広場(Piazza Guidobaldo da Montefeltro)
広場というより、ただの道路。
グイドバルド・モンテフェルトロは、1503年、教皇ユリウス2世により、教皇軍総司令官に任命されるとすぐに、チェゼーナとフォルリを確保、教皇へと引き渡した。
グイドバルドと教皇軍、フォルリの関係は、このこと以外に見つけられないので、きっとこの出来事に由来して、グイドバルド・モンテフェルトロ広場と名づけられたのだと思う。
サン・ドメニコ美術館(Musei San Domenico)
グイド・モンテフェルトロ広場にある美術館。
考古学博物館、絵画館、陶器博物館、から成る。
- カテリーナ・スフォルツァと言われている肖像画 ↑
(Lorenzo di Credi 「Ritratto di giovane donna o Dama dei gelsomini」)
2階の展示室 Sala 4
- チェーザレ・ボルジアと言われている肖像画 →
(Girolamo Marchesi da Cotignola「Ritratto d'uomo」)
2階の展示室 Sala 11
しかしこれは、弟ホアン・ボルジアの肖像であるとする説もある。
これらの作品は、フォルリ市美術館所蔵、となっているが、なぜかこのサン・ドメニコ美術館にあった。
- 開館時間
冬季
火曜〜金曜 9:30 - 13:00 / 15:00 -17:30
土日・祝日 10:00 - 18:00
月曜休館(祝日と12月25日を除く)
夏季(7月8月)
火曜〜金曜 16:00 - 20:00
水曜 16:00 - 23:00
土日 10:00 - 18:00.
月曜と8月15日休館
カテリーナ・スフォルツァ通り(Via Caterina Sforza)
カテリーナ・スオルツァの名の冠せられた通り。
下辺にある「RIONE RAVALDINO」とはラヴァルディーノ地区という意味。
デュカ・ヴァレンティーノ通り(Via Duca Valentino)
ヴァレンティーノ公爵、つまりチェーザレ・ボルジアの名の冠せられた通り。
カテリーナ・スフォルツァ通りとラヴァルディーノの城塞をつなぐ位置にある。
ほんの100メートルほど、カテリーナ・スフォルツァ通りの8分の1くらいの長さしかないけど・・・。
住所に
「Duca Valentino」
とつくであろう、羨ましい家々。
ラヴァルディーノの城塞(Rocca di Ravaldino)
1499年、イモラを攻略したチェーザレは、時を置かずしてフォルリへ入る。
彼は、城塞を明け渡せば、カテリーナの地位と安全を保証することを申し出る。
が、カテリーナはこれを拒否、2千の兵とともにラヴァルディーノの城塞に立てこもり、全面対決の構えをとる。
カテリーナは堀に跳ね橋を下ろし、そこにチェーザレ誘う。
講和への会談を、もっと打ち解けて行おう、という意図を示して。
チェーザレが跳ね橋に歩を進めた時、すさまじい音をたてて、橋は跳ね上がる。
逸る気持ちを抑えられなかった兵士が、一瞬早く橋を上げてしまったのだった。
寸でのところで、チェーザレはカテリーナの姦計から逃れる。
翌1500年1月12日、チェーザレ軍は一斉に城塞内へ突入。
カテリーナは自ら武器を手に、戦線に立つが、抵抗むなしく、捕らえられる。
チェーザレは、従来の慣習であった占領地での略奪を兵士らに禁じ、フォルリの民衆の信頼を得た。
チェーザレの紋章。
城塞の南、
「Via Filippo Corridoni フィリッポ・コリドーニ通り」沿いの壁にある。
紋章部分を拡大→
この紋章は、チェーザレ軍の砲撃によって崩されたところを埋めるかたちで作られたもの。
城塞は小さいながらも、中世には存在していた。
15世紀、ピオ・オルデラフィやジローラモ・リアーリオ、カテリーナ・スフォルツァらの手を経て、現在のような、複雑な構造の堀と跳ね橋に囲まれた、隔絶された要塞となった。
1499年、フィレンツェの外交官として、フォルリを訪れたマキァヴェッリは、
「あまりに構造に懲りすぎていて、そのために逆に攻撃されやすくなっている」
と評したらしい。
カテリーナが籠城した一室は、2階部分にある。
城の最も高い塔には井戸が備わっており(現在も残っている)、長期の戦闘にも耐えうるようになっていた。
- 開館は、城塞内のホールで、展示会の催されている時のみ。
電話(管理会社)+39.0543.34264
(文化事務局)+39.0543.712229 - 現在修復中だが、中庭はコンサートなどが行われている。
半分は刑務所として利用されている。
a:7095 t:1 y:0