チェーザレ・ボルジアについて、とりとめのないけれど愛に満ちた探究心を発揮するサイトです。

コレッラ家

コレッラ家 (Corella)

もともとはナヴァーラ州ナヴァーラ県コレッラを出自とする一族。
ハイメ1世のヴァレンシア侵攻に従軍して、征服後ヴァレンシアに移った。
ペドレゲル(pedreguer)、ガタ(Gata)、アルムサフェス(almussafes)の領主となる。


実際の姓は「Corella」だが、父称(el patronímico)のロイス(Roís) またはルイス(Ruiz)が前に付いて、ロイス(ルイス)・デ・コレッラ(Roís de Corella)(Ruiz de Corella)と呼ばれることもある。
ハイメ1世の宮廷文書には、すでに「los Roís de Corella」と記されているので、かなり初期から併存していたよう。
(2019年にコセンタイナ市が発行した伯爵家の歴史本では、タイトルを「コレッラ家(Los Corella)」としている。それがいいと思う!)

ミゲルの祖父にあたるシメン・ペレス・ロイス・デ・コレッラ(Ximèn Peres Roís de Corella)が、アラゴン王アルフォンソ5世のもとで能力を発揮し、台頭。
一族の紋章に王家の紋章を組み込むことを許され、ヴァレンシア州アリカンテ県コセンタイナの伯爵位を授与された。

チェーザレと同時代の詩人ホアン・ロイス・デ・コレッラ(Joan Rois de Corella)(1435 - 1497)は、父親がミラフローレス(Miraflores)の領主なので、某系である。
(1399年に騎士に叙任されたマヌエル(Manuel de Corella)という人が、このホアンの叔父かも?)


ミゲル・ダ・コレッラ(Miguel da Corella)

( - 1508年1月か2月)
初代コセンタイナ伯爵シメン・ペレス・ロイス・デ・コレッラの息子であるホアン・ロイス・デ・コレッラの非嫡出子であるという説がある。

→ ミゲル・ダ・コレッラ




ホアン・ロイス・デ・コレッラ(Joan Roís de Corella i Llançol de Romaní)

(1419年? - 1479年)
ミゲルの父。であるという説がある人。
母親がランソル家の人なので、i Llançol de Romaníと付いてる。
初代コセンタイナ伯爵シメン・ペレス・ロイス・デ・コレッラの息子。

2代目コセンタイナ伯爵。
ドサイグエス(Dosaigües)(バルセロナから南西に130キロ程にある街)、
エルダ(Elda)、アスペ(Asp)(どちらも1424年に父シメンが購入した街)、
ペトレル(Petrer)(コセンタイナの南西)、サリネス(Salines)(エルダの近く)、アルバラット(Albalat)(ヴァレンシアとハティヴァの間)、などの領主。
父である先代シメンの躍進のおかげか、かなり広大な土地を所有している。
15世紀のヴァレンシアは経済的に発展していて、人口も増大し、黄金期と言われるほどであったので、コレッラ家もその影響下にあったのかな。

アラゴン王国の中将として、アルフォンソ5世とその息子の2代目ナポリ王フェランテに仕える。
1448年、ヴァレンシア総督の地位を父から受け継ぐ。
1463年、ロッサルノ公爵(príncipe de Rossano)、カリアーティ伯爵(conde de Cariati)(どちらもナポリのカラブリア州コゼンツァ県の街)、モンタルボ伯爵(conde de Montalbo)(スペイン、マドリードとアルバセテの間にある街)の位を得る。

ウリーヴァ(Oliva)(ガンディアの少し南)伯爵フランシスコ・ジラベルトの娘、ベアトリス・デ・センテーレスと結婚。
少なくとも1男1女をもうける。

ベアトリスの早世後、アイトナ(Aitona)(サラゴサとバルセロナの間)男爵ギレン・ラモン・デ・モンカーダの娘、フランシスカ・デ・モンカーダと結婚。
3代目コセンタイナ伯爵となる長男ホアンと、4代目となる次男ロドリーゴをもうける。
ミゲルはこの次男ロドリーゴとともに、イタリアへ渡ったと言われている。
ミゲルの母親がどのような人物であったのかは不明。




ロドリーゴ・ロイス・デ・コレッラ(Rodrigo de Corella y Moncada)

ロデリック・ロイス・デ・コレッラ(Roderic Rois de Corella)
(? - 1522年)
ミゲルの腹違いの兄弟。であるという説がある人。

ロドリーゴは父ホアン・ロイス・デ・コレッラの嫡出子。上に兄ホアンがいる。母親がモンカーダ家の人なので、y Moncadaと付いてる。

ロドリーゴは次男なので、コレッラ家の爵位や財産を継ぐことはできない。ので、もともとは聖職者になるためにローマへ渡ったよう。
(しかしロドリーゴの兄である長男ホアンも、一時期はローマにいた。ロドリーゴの近くに(一緒に?)暮らしていた。)

ミゲルは彼(ら)と一緒にイタリアへ渡り、チェーザレとともにピサ大学で学んだと言われる。もしかしたらピサ大に、ロドリーゴ(とホアン)もいたかも?



アレクサンドル6世は、年間2000ドゥカート以上を彼に与えていた。年収1000ドゥカートあれば上流階級だったらしいので、それなりに良い暮らしを享受していたはず。

しかし1519年、嫡男ホアン・ロイス(Juan Ruiz de Corella y Moncada)が死去。早世かと思いきや、60歳だったとも言われる。(1460年生まれの説がある。)
ロドリーゴはコレッラ家を継承することになりスペインへ帰る。(もっと早くボルジア家没落後には帰ってたかも。)
そして、アレクサンデル6世の従兄弟オット(Ot)の息子ギレン・ラモン(Guillenn Ramon)の娘、アンジェラ・ボルハ・イ・サンス・デ・カステルヴェルと結婚する。2男2女を残した。


ローマにいた時、ロドリーゴはベルヴェデーレの中庭で、ライオンに襲われそうになったアレクサンデル6世を助けたことがあったらしい。

教皇は5、6人の従者とともに中庭を散歩していた。
果樹園のそばに来ると、大きなライオンが闊歩しているのが見えた。囲いを破って脱走したのだ。ライオンは100歩ほど離れたところにいたが、人間たちの群に気づくとこちらへ向かって来た。
従者たちは一斉に後ずさりし、逃げ出してしまった。

ロドリーゴは教皇と2人でとり残されてしまった。しかし彼は言った。
「聖下、恐れたり背を向けたりせず、私に従ってください。」

ロドリーゴは、左腕にマントを巻き(盾の代わりにマントをこのように使うことは多くあった)、もう一方の手に剣を持ち、教皇の3、4歩前に立ち、ライオンに向かって進んだ。ライオンはロドリーゴに歩み寄って来た。

ライオンとの距離が15、20歩ほどになった時、ライオンはふっとわきに逸れ、ブドウ畑の方へ去って行った。

従者に呼ばれて駆けつけた教皇の護衛兵たちは、剣を掲げながら教皇を庇って戻って来るロドリーゴを見つけた。


この働きに感謝した教皇は、それまでロドリーゴが受け取っていた教会からの収入よりも多くの年俸を、与えることにした。

(兄ホアンは妻を2人迎えているが、どちらとも子どもが持てなかった。ので、ロドリーゴは次期コセンタイナ伯爵継承を視野に入れていて、叙階を望んでいなかった。
聖職に就かずに収入を得られることは、ロドリーゴにとって願ってもないことだった。)


上記の、アレクサンデル6世が年間2000ドゥカート以上を与えていたと言うのは、このエピソードがあったからなのかな。




シメン・ペレス・ロイス・デ・コレッラ(Ximèn Peres Roís de Corella i de Santacoloma)

(1400年 - 1457年)
パルディネスの領主。初代コセンタイナ伯爵。ヴァレンシア総督。
母親がサンタコロマ家の出自なので、i de Santacolomaと付いていることもある。

アラゴン王アルフォンソ5世に仕え、功績をあげる。
1420年、アルフォンソ5世のコルシカ島とサルデーニャ島遠征に同行、カルヴィ(コルシカ島の街)の包囲戦に参加し、降伏させる。

1423年、ナポリ遠征でのカステル・カプアーノの戦いで捕虜になる。
が、すぐに解放されマルセイユへ向かう。ナポリの支配権を取り戻そうとするルイ3世・ダンジューへの見せしめとして、ホアン・デ・モンカーダとともに3日間マルセイユを攻撃し、略奪した。

1424年、エルダとアスペ(どちらも所領の南西)を買い取る。エルダの城ではコレッラ家の紋章が描かれた陶器の破片が見つかっている。

ビジャロンガ領主の娘ベアトリス・ランソル・デ・ロマーニと結婚。ベアトリスがエルダとアスペを統治した。
ベアトリスとの間に、ミゲル、ホアン、クリストーバル、ヘクター・ペレスという4人の息子と1人の娘がいたよう。 さらに、10人以上の庶子がいた。

1429年、ヴァレンシア総督に任命される。
アルフォンソ5世は、総督位が譲位、辞任、死去などにより空位となった場合は、シメンの息子ホアンが後任となることも定めた。

アルフォンソ5世はシメンに、アンテッラ(ヴァレンシアの南。コレッラ家所領の北西)の用水路も与えた。そこからの収入は大きく、コレッラ家はヴァレンシアの富豪だった。

1430年、カスティーリャとの内戦に参加。アルマンサ周辺(自分の所領の西方)を攻撃した。

1431年4月27日、ビナロポ渓谷(Valle del Vinalopó)(所領の南西)での戦略的地位を確立するため、公証人を同席させペレ・デ・ロカフルから121.000 sueldosでペトレル邸(señorío de Petrel)を購入。

1432年、アルフォンソ5世によりアラゴン軍の大尉に任命される。
同年、ヴァレンシア司教アロンソ・デ・ボルハ(後の教皇カリクスト3世)とともに、アルフォンソ5世の庶子フェランテの後見を任される。

1432年から1442年にかけて、再びナポリ遠征に参加する。

1442年、ナポリ征服に成功。
アルフォンソ5世はこれまでのシメンの働きに感謝し、コレッラ家王家の紋章を永続的に使用することを許可した。
私人が王家の紋章を利用することは法律で禁止されているほどだったので、これは異例の褒賞だった。

1443年、アロンソ・デ・ボルハの外交交渉で教皇エウゲニウス4世と和睦、アルフォンソ5世のナポリ王位が承認され、ナポリはアラゴン連合王国に組み入れられる。

1448年、アルフォンソ5世によりコセンタイナの領地を与えられる。(お金払ってるので、買い取ったと言った方が正確か?)
9月1日、多くの功績が認められ、コセンタイナ伯爵の称号を与えられる。
コセンタイナには200を超える豊かな水源があり、多くの果樹園があり、特に上質なチェリーを栽培している土地だった。

シメンは、13世紀後半の初代封建領主であったアラゴン王家の提督ロジェ・デ・ローリアが、12世紀に建てられたイスラム建築の跡地に建てた宮殿を、大規模に増改築する。
ヴァレンシア・ゴシックとルネッサンス様式の市民建築であるコセンタイナ伯爵宮殿(Palacio de los Condes de Cocentaina)は、現在も残っている。
入口のアーチの上には、コレッラ家の紋章が飾られており、黄金の間(La sala Daurada)では、華麗に装飾されたコレッラ家紋章が見られる。

1455年、アロンソ・デ・ボルハが教皇カリストゥス3世になると、王の外交使節としてカリストゥスと渡り合った。
(アロンソ・デ・ボルハは教皇になると立場が変わり、アラゴン王国と不仲になる。)

1457年、死去。
翌年にはアルフォンソ5世も亡くなった。

コレッラ家は15世紀から17世紀を通じてコセンタイナ伯爵として周辺を所有していた。
その後血脈は途絶え、ベナビデス家(Benavides)に移った。
(サンティエステバン・デル・プエルト伯爵ディエゴ・デ・ベナビデスと結婚したアントニア・デ・コレッラで消滅した。
アントニアは、ミゲルの異母兄弟ロドリーゴの孫の孫の子。)






a:33 t:1 y:0

powered by Quick Homepage Maker 4.74
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional