チェーザレ・ボルジアについて、とりとめのないけれど愛に満ちた探究心を発揮するサイトです。

スポレートSpoleto

スポレート Spoleto

スポレート駅。

鉄道で、ローマから1時間半弱。テルミニ駅から乗り換えなしで行ける。
スポレート駅は街外れにあって、中心部へ行くには徒歩で20分ほどはかかる。

街はすごい坂道だらけで散策はけっこう大変。しかし長大なエスカレーターが3機、街を巡っているので、稼働時間帯に動けばかなり楽できる。



山と渓谷に囲まれたスポレートは、フラミニア街道上に位置し、ローマ時代から軍事的要となる街だった。
6世紀には公国であったが、13世紀から教皇領となっていた。よって、主に歴代教皇の親族によって統治されてきた。

1456年から1458年、教皇カリストゥス3世の甥ペドロ・ルイス・ボルジア(ロドリーゴ・ボルジアの兄)が総督の座に就任していた。

1492年8月、ロドリーゴがアレクサンデル6世として教皇の座を手にした時、チェーザレはナポリの動きを抑えるためにピサからここに移った。彼はは翌年3月までここに滞在していた。

その後ホアン・ボルジア枢機卿(el mayor、The elder、サヴィオ)が保護官に任命され、ホアン・デ・ヴェラが総督となった。

1494年、el menor(The younger、シレンツィオ)のホアン・ボルジアが総督に。シャルル8世のイタリア侵攻時に防衛を務め、その後もジョヴァンニ・オリヴァー・ディ・ヴァレンツァを副官としてスポレートの統治を続けた。彼らの評判は非常に良かったよう。

1495年、シャルル8世のもとを脱走したチェーザレは、スポレートに逃亡した。

1499年にはルクレツィアが総督として、弟ホフレがその補佐として、派遣された。2ヶ月ほどの短期間であったが、ルクレツィアはきちんと任務をこなした。
1502年、フェラーラへ行く途中にも彼女はこの地に立ち寄った。

1500年バレンシア大司教ルドヴィーコ・ボルジアが総督に。
1503年、アレクサンデル6世が没すると、1504年初頭、ユリウス2世はボルジアを排除し実弟のバルトロメオ・デッラ・ローヴェレを後任に据えた。


アルボルノツィアーナ城塞(Rocca Albornoziana)

画像の説明

1359年、教皇インノケンツォ6世がイタリア中央部に対する教皇の権威をより明確にし軍事的強化するために建設した要塞のひとつ。スペイン人枢機卿エギディオ・アルボルノスの主導により建設された。
(同枢機卿が建築した同じ名前の城塞が各地に複数あるので、混同に注意。)
完成は1370年。

街の防衛のための城塞だったが、19世紀には刑務所として利用されていた。
2007年からは、国立スポレート公国博物館(Le Museo nazionale del Ducato di Spoleto)となっている。
サンテリアの丘の上にあり、周囲の渓谷を一望できる。6つの塔と2つの中庭から成る城塞。 

ぐるりと丘を登って、城門を過ぎたところにチケット売り場がある。
「sacala mobile rocca」という長大なエスカレーターも利用できる。(スポレートにはやたらエスカレーターや動く歩道が多い。)

下は2つある中庭のひとつ、「名誉の中庭(Corte d'onore)」。惣領版「チェーザレ」13巻最終話に描かれているところ。当時とほとんど変わっていない!

画像の説明

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Wikipedia、Author Marcok/itwiki

中庭の階段を上った2階の左端の扉上部に、ボルジアの紋章が描かれている。ボロボロになってるけど、教皇冠がうっすらとわかる。
この中庭を囲む回廊の壁には、他にも多くの教皇の紋章が描かれている。




塔の橋(Ponte delle Torri)

アルボルノツィアーナ城塞から伸びる橋。ローマ時代の水道橋がもとになっている。高さ80メートル、長さ230メートル。
テッシーノ川の流れに架かり、地殻変動と浸食によって分断された谷を繋いでいる。が、現在は立ち入ることはできない。
反対側にはフォルティリツィオ・デイ・ムリーニ(Fortilizio dei Mulini)がある。19世紀まで製粉所として活躍していた。こちらも今は中に入ることはできない。

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スポレート大聖堂(Duomo di Spoleto)

スポレートのドゥオーモ

ドゥオーモ内部。

正式な名前はサンタ・マリア・アッスンタ大聖堂(cattedrale di Santa Maria Assunta)。
1151年 - 1227年に、9世紀の古い教会跡に建てられた教会。

主祭壇奥の後陣にフィリッポ・リッピのフレスコ画(右の写真の正面の絵)、右側廊のエロリ司教の礼拝堂にピントリッキオのフレスコ画がある。ピントリッキオはボルジアの間を装飾した後、オルヴィエートやペルージャなどウンブリアで仕事をしており、スポレート大聖堂の絵もこの時期に描かれた。







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