スポレートSpoleto
スポレート Spoleto

鉄道で、ローマから1時間半弱。テルミニ駅から乗り換えなしで行ける。
スポレート駅は街外れにあって、中心部へ行くには徒歩で20分ほどはかかる。
街はサンテリアの丘(Sant’Elia 同名の古い教会に由来する名前)に築かれている。ので、坂道だらけで散策はけっこう大変。
しかし長大なエスカレーターが3機、街を巡っているので、稼働時間帯に動けばかなり楽できる。
(長大なエスカレーターって何!?と思うけど、地下鉄のエスカレーター版。空港にあるような動く長い歩道が、地下に「P1、P2、P3」と3本ある。
地下鉄と同じように駅があり、そこから乗り降りする。深夜〜早朝は閉まっている。無料。
↓ エスカレーター地図。
観光客は、「P1」を利用することはほとんどないと思う。)
駅はこの図にはない。だいぶ左下にある。

チェーザレとボルジア家に関わりが深いところは城塞のみだが、彼らの時代に存在していたものは多い。また、観光地としての見どころもたくさんある。ので、街を満喫しようと思うなら、1泊はしたいところ。
(私はそれでも周りきれませんでした。リベンジしたい!)
- 音楽と歴史の街イタリア・スポレート
こちらのnoteの記事がとてもわかりやすく良いです。
山と渓谷に囲まれたスポレートは、フラミニア街道上に位置し、ローマ時代から軍事的要となる街だった。
6世紀には公国であったが、13世紀から教皇領となっていた。よって、主に歴代教皇の親族によって統治されてきた。
1456年から1458年、教皇カリストゥス3世の甥ペドロ・ルイス・ボルジア(ロドリーゴ・ボルジアの兄)が総督の座に就任していた。
1492年8月、ロドリーゴがアレクサンデル6世として教皇の座を手にした時、チェーザレはナポリの動きを抑えるためにピサからここに移った。彼はは翌年3月までここに滞在していた。
その後ホアン・ボルジア枢機卿(el mayor、The elder、サヴィオ)が保護官に任命され、ホアン・デ・ヴェラが総督となった。
1494年、el menor(The younger、シレンツィオ)のホアン・ボルジアが総督に。シャルル8世のイタリア侵攻時に防衛を務め、その後もジョヴァンニ・オリヴァー・ディ・ヴァレンツァを副官としてスポレートの統治を続けた。彼らの評判は非常に良かったよう。
1495年、シャルル8世のもとを脱走したチェーザレは、スポレートに逃亡した。
1499年にはルクレツィアが総督として、弟ホフレがその補佐として、派遣された。2ヶ月ほどの短期間であったが、ルクレツィアはきちんと任務をこなした。
1502年、フェラーラへ行く途中にも彼女はこの地に立ち寄った。
1500年バレンシア大司教ルドヴィーコ・ボルジアが総督に。
1503年、アレクサンデル6世が没すると、1504年初頭、ユリウス2世はボルジアを排除し実弟のバルトロメオ・デッラ・ローヴェレを後任に据えた。
- スポレート Spoleto
- アルボルノツィアーナ城塞(Rocca Albornoziana)
- 塔の橋(Ponte delle Torri)
- ムリーニ要塞(Fortilizio dei Mulini)
- スポレート大聖堂(Duomo di Spoleto)
- 旧・金のマナの聖マリア教会(Ex chiesa di Santa Maria della Manna d'Oro)
- 油塔と退却門(Torre dell'Olio e Porta Fuga)
- 考古学博物館とローマ時代の劇場(Museo Archeologico Nazionale e Teatro Romano di Spoleto)
- 市庁舎(Palazzo Comunale)
- ローマ時代の家(Casa Romana)
- 司教区博物館(Museo Diocesano)
- 城壁(Mura di Spoleto)
- ローマ時代の門(Porte Romane)
- 中世の門(Porta Medivale)
- 小道(Vicoli di Spoleto)
- コッリコラ宮殿(Palazzo Collicola)
- サン・ジョルジョ・マッジョーレ教会()
- 聖ヨハネとパウロ教会(Chiesa dei SS. Giovanni e Paolo)
- (Convento Parrocchia S. Domenico)
- サン・サルバトーレ教会
アルボルノツィアーナ城塞(Rocca Albornoziana)

1359年、教皇インノケンツォ6世が、イタリア中央部に対する教皇の権威をより明確にし、軍事的に強化するために建設させた、要塞のひとつ。
スペイン人枢機卿エギディオ・アルボルノスの主導により建設された。
(同枢機卿が建築した同じ名前の城塞が各地に複数あるので、混同に注意。)
マッテオ・ディ・ジョヴァンネッロ(Matteo di Giovannello)、通称ガッタポーネ(Gattapone)による設計、建設。
完成は1367年。
街の防衛のための城塞だったが、16世紀には軍事的要素は薄まり宮殿的になり、19世紀には刑務所として利用された。
2007年からは、国立スポレート公国博物館(Le Museo nazionale del Ducato di Spoleto)となっている。
サンテリアの丘(Sant’Elia、スポレートの街が築かれている丘)の頂きにあり、周囲の渓谷を一望できる。6つの塔と2つの中庭から成る、かなり大きな城塞。
ぐるりと丘を登って、城門を過ぎたところにチケット売り場がある。
「sacala mobile rocca」という長大なエスカレーターも利用できる。
城塞の最寄りはP3の「ROCCA」(下図 ⑦) だが、P2の「PIAZZA CAMPELLO PONTE DELLE TORRI」で降りると、城塞の門の前に出られる。(下図 ①)
(神社で言うと、参道を通って入城する感じになれる。「ROCCA」で降りると、裏口から入る感じ。別に悪くはないけど!)
- 城塞外まわり
画像はクリックすると拡大し、説明が出ます。
① 最初の門(Prima porta della Rocca)
前哨門(porta avanzata)とも。城塞の最も外側にある外門。
門の上には4つも紋章が掲げられているが、全部教皇クレメンス8世(1592-1605年)のもの。
この門のわきから⑨に行ける。

② 2番目の門と3番目の門(seconda porta e Terza porta)
②の印の前後にある2つの門。
3番目の門の両わきにある建物(緑の部分)は、兵士の詰所だったところ。入場は不可。
③ 宮殿風の事務所(palazziana uffici)
19世紀に刑務所として利用されていた時に建築された、衛兵の詰所。
現在は城塞管理の事務所として使われているよう。入場は不可。
他のグレーの部分(城塞に隣接する④⑤付近)も、同様に刑務所時代に建築されたところで、こちらは牢舎だった。現在は学校や研究室が入っている。入場不可。
④ 城塞主門(現在は入口としては使われていない。出ることはできる。)
⑤ 現在の入場口(チケット売場)
⑥ マルボルゲット(Malborghetto)遺跡エリア
マルボルゲットとは「悪い小村」という意味。15世紀以降、様々な建物が無秩序に建てられてはとり壊されてきたことに由来している、らしい。刑務所時代は囚人の運動場だった。
⑦ 見張り台
街とフラミニア街道が一望できる。チェーザレの時代には、もっと高さがあり、塔のようになっていた。
⑧ エスカレーター入口(P3の「ROCCA」エスカレーター地図参照)
⑨ 遊歩道
1817年に開かれたもので、チェーザレの時代にはなかった。ので、当時は橋を渡ることは、城塞内からしかできなかった。
⑩ 現存しないが、チェーザレの時代にはあった城壁・城門・教会
オレンジ色の部分。城壁は兵士の詰所から⑤付近まで伸びていて、手前の塔(アクア塔 E)(下図参照)との間に門があった。
また、アクア塔とともに城門を支えている新塔(F)の前には、サンタ・マリア教会(chiesa di Santa Maria)が、18世紀初頭までは存在していた。
- 城塞
2つの中庭
名誉の中庭(Cortile d’onore)=下図のU = 上図の⬛︎
兵士の中庭(Cortile delle Armi)=下図のW = 上図の⬛︎
6つの塔

A 主塔(Torre Maestra)
B 小塔(Torretta)
Ⅷ バレストラ塔(Torre della Balestra)
D フォルノ塔(Torre del Forno)
E アクア塔(Torre dell’Acqua)
F 新塔(Torre Nuova)
※ 解説は下に ↓
城塞は大部分が2階建て+屋上(ほとんど部屋根有り。実質3階?)。
図が平行四辺形ぽくなっているのは、描画下手のせいではなく実際に斜めになっており、四隅の塔も壁に対して直角ではなく、内側にわずかに回転して配置されている。
これは短辺側の壁の防衛と監視をより効果的にするため、だそう。
⬛︎ = 一般の見学可能部分
ⅠからXVの部屋は、スポレートとキリスト教社会の歴史展示が行われている。

Ⅰ 食堂(camera del tinello)という名の武器庫
15世紀初頭には食堂だったよう。だが、チェーザレの時代には、武器(矢、矢じり、砲弾など)、ロープ、鞍、火薬の材料(硝石、炭、硫黄)などの保管場所として使用され、また、火薬の調合(硝石、炭、硫黄を混ぜたものを臼で突いて作る)を行う場所になっていた。
出入口は兵士の中庭(W)側にあり、内部は小塔(B)の階段につながり、そこから城壁の歩廊へ行けるようになっていた。
(Ⅱ)の部屋につながったのは、16世紀になってから。(軍事的需要が失われ官邸として利用されるようになったので、行政機能を持つ事務室群(Ⅱ、Ⅲ、Ⅳ)につなげられた。)
現在使われている名誉の中庭からの入口は、19世紀初頭、刑務所に転用された時に作られた。刑務所時代は雑居房だった。
Ⅱ 事務室(ufficio)
チェーザレの時代には(Ⅰ)や(Ⅲ)につながっておらず、名誉の中庭(U)からのみアクセスできた。(Ⅲ、Ⅳ、Ⅴも同様。隣接する部屋とつなげられたのは、16世紀になってから。)
木製のロフトのようなもの(ソッパルコ sopplaco)が設られており、中二階を寝室として利用できるようになっていた。ので、2つの窓が低い位置(1階部)は西側、高い位置(ロフト部)は東側にある。考えられてる!
刑務所時代には看守の部屋だった。
Ⅲ 財務管理室(Fiscalaria)
(Ⅱ)と同様に、チェーザレの時代には左右の部屋とは区切られており、名誉の中庭(U)からのみアクセスできた。また、この部屋にも木製のロフトのようなもの(ソッパルコ sopplaco)が設られていた。
中庭の入口上部に「フィスカラリア(fiscalaria)」という銘があり、財務管理室だったと考えられている。
Ⅳ 書記室(Segreteria)
1444年には、主に大砲(bombarde)の弾薬庫として使われていたが、1458年には、隣接する他の部屋と同様に木製のロフトが設置され、下は事務室、上は寝室として利用されるようになっていた。
はっきり書記室と命名されたのは16世紀末からで、こちらも(Ⅲ)同様に名誉の中庭(U)入口上部に刻まれた銘により、確認できる。
刑務所時代にも事務室だった。
Ⅴ 司法の間(Sala della Giustizia)
この部屋も、入口は名誉の庭(U)にだけあり、木製のロフトがあった。
床は、典型的な屋外舗装であるニシンの骨状(スパイナ・ディ・ペッシェ spina di pesce)の煉瓦敷きで、石臼と作業台が備えられていた。ので、この部屋は事務室系ではなく作業部屋だったよう。
19世紀初頭、正義の寓意図と教皇ピウス7世の紋章が描かれ、「司法の間」と呼ばれるようになった。
Ⅵ 製粉室(Camera del Molino)
この部屋は名誉の中庭(U)からだけでなく(Ⅶ)とつながっており、そこからも出入りできた。
チェーザレの時代には、他の部屋と同様に木製のロフトが設えてあり、下階には石臼の付いた2つの製粉用車輪が置かれ、上階(中二階)はスペルト小麦を保管する倉庫として使われていた。
後にロフトが撤去され、厨房として改装された。南西の角に水槽と排水用の溝が作られた。
Ⅶ ボッロメオの間(Sala di Borromeo)
広間風に大きな部屋だが、かつては複数の部屋に区切られていた。おそらく居室的な部屋であったと考えられている。ここにも木製のロフトがあった。
現在はプロジェクターとスクリーンが置いてあり、スポレートの歴史映像が映されている。
Ⅷ バレストラ塔(Torre della Balestra)
バレストラとは弩、クロスボウのこと。攻撃・防衛のために弩兵が配備される場所だった?のかも。延長上に見張り台(城塞外まわりの図 ⑦)もあるし。しかし矢狭間などはない。
2階部分は、(K)の部屋とつながっていて、寝室と付属する小部屋(annessi)があった。
チェーザレの時代には、外壁に木製のトイレも設えてあり、16世紀初めには浴室もあった。

Ⅸ アントニーニの間(Sala Luigi Antonini)
現在(Ⅸ)の部屋は、連続したひとつの部屋「アントニーニの間 Sala (Luigi)Antonini」として、展示室としてでなくイヴェントや会議などに利用されている。が、チェーザレの時代には3つに分けられた部屋だった。
Ⅸ-1 客室(Camera d’alloggio)
屋根裏へ登る階段があった。屋根裏部屋には開廊があり、中庭を見下ろせた。
Ⅸ-2 厨房(Cucina di Comune)
Ⅸ-3 書斎(Sala di scrittura)
壁の中の小さな通路(groppetta)を通って、1階の厨房(Cucina)に下りられるようになっていた。つまり、隠し通路があった!
Ⅹ 礼拝堂(Cappella Borgia)
ボルジア礼拝堂とも呼ばれるが、城内の説明パネルには記述はない。
1458年には存在の記述があり、1450年頃に作られたのではとされている。その年代がボルジア教皇カリストゥス3世の時代なので、ボルジアが作ったんだろうな〜という雑な命名と思われる。
(Ⅸ)の部屋と繋がっているが、城壁の外側にバルコニーのように突き出すかたちで作られており、それを1本の太い柱で支えている。そのため礼拝堂が邪魔になり、フォルノ塔が防御するはずの東の壁が、守られなくなってしまっている。なぜここに作ったんだ!
チェーザレの時代には、個人用の小礼拝堂として、祭壇や鐘、二脚の椅子などが置かれていたが、現在はただの小部屋になっている。
Ⅺ・Ⅻ・XIII・XIV・XV ピッコローミニの間(Apartment Piccolomini)
まとめてピッコローミニの間と呼ばれている2階の5つの部屋。ピッコローミニ家の教皇ピウス2世の紋章で飾られている。
南向きで明るく暖かかったので、賓客の宿所に使われていた。
XI 教皇の間(Stanza Papale)
(H)から、小さなアーチの扉を通って入ることができた。
西側の壁(中庭側)には暖炉が設置され、東側には壁の厚みの中に設けられた小部屋があり、そこがトイレになっていた。隣には窓があった。
部屋の装飾は、ニコラウス5世(Niccolò V 1447 – 1455)の時代のもので、天井に紋章が描かれている。ピウス2世(Pius II 1458 – 1464)の時代にピッコローミニ家の紋章が上描きされた。
16世紀後半、仕切り壁に2つの大きな扉を開けて隣接する部屋と連結され、中央の窓が拡張された。
刑務所時代には、分割され2つの独房として利用された。
XII 柱廊の上第4の部屋(Camera Quarta Sopra Li Portici)
部屋の名前は、1458年の記録に登場している。
チェーザレの時代は、両隣の部屋とはつながっておらず、中庭の柱廊から直接入ることができた。
ベッド、衣装箱(cassone)、テーブル、椅子2脚、そして筆記用のベンチが置かれていた。
天井には、ボローニャ出身の対立教皇ヨハネス23世(1370 – 1419年)の紋章。
XIV アニュス・デイの部屋(Stanza dell‘Agnus Dei)
Agnus Deiとは神の子羊という意味。1444年と1458年の記録に登場している。しかし名前の由来は不明。
この部屋もチェーザレの時代は、両隣の部屋とはつながっておらず、中庭の柱廊から直接入ることができた。
暖炉が備え付けられており、車輪付きのベッドと椅子があった。壁の赤白ストライプは、当時からの装飾。
XV 柱廊の上第1の部屋(Camera Prima Sopra Li Portici)
部屋の名前は、1458年の記録に登場している。
ピウス2世(1458 – 1464)によって装飾された部屋。
教皇の紋章は2人の天使に支えられ、ヴォールト(天井)の中央と南側の壁に描かれている。
北側の壁にも描かれていたと思われるが、刑務所時代に壁が取り壊され残っていない。
壁の上部の細長い葉と赤い花の房飾りは、15世紀後半に流行していた装飾。
チェーザレの時代には、ベッド、学習用の回転台(ruota da studiare)、いくつかのベンチが置かれていた。
A 主塔(Torre Maestra)またはスピリタータ塔(Torre Spiritata)
スピリタータとは幽霊、オバケの意味。幽霊が出るという噂でもあったのか?面白い!
地下には用水路(暗渠?)(roggi)があり、通路が主門(Y)まで続いていた。有事の際に脱出経路として利用できた。現在も存在しているのかは不明。
現在、1階はチケット売場とミュージアムショップ。
2階はカメラ・ピンタ(Camera Pinta)と呼ばれる寝室と書斎であったところ。「描かれた部屋」という意味で、中世の壁画で彩られている。
3階(屋上)は特別展示(要予約)。
B 小塔(Torretta)または中央塔(Torre Mezzana)、ティネッロ塔(Torre del Tinello)
ティネッロとは小食堂という意味。隣接する1階の部屋(Ⅰ)は厨房兼食堂だったので、塔も同様の役割担っていたのだろう。
壁の内部に小階段があり、複数の秘密通路や異なる階層へ通じていた。1階の部屋(Ⅰ)から名誉の間(M)に、壁の中の隠し階段を利用して料理を運んでいたというので、この階段もそのように利用されていたのかも。しかしもちろん、有事の際には軍事的に機能する。
また塔の橋の延長上にあり、橋の監視と防衛をも担っていたと思われる。行き届いた設計…アルボルノス(ガッタポーネ?)、かっこいい!
見学ツアー(要予約)でのみ入場可能。
D フォルノ塔(Torre del Forno)
フォルノとはかまど・窯のこと。パン焼き窯や調理用かまどが設置されていた?街から最も近い場所にあるし、城塞内の生活インフラ(食糧調達)に関わる場所だったのかも。
2階部分は書斎(Stanza di Gabinetto)。壁の中に秘密通路があり、2つの小部屋につながっていた。
現在はここにエレベーターが設置されていて、要予約の見学ツアーの入口になっている。
E アクア塔(Torre dell’Acqua)
水の塔、という意味。
水の供給に関係する設備、井戸や貯水施設が設置されていた?防衛時に水の確保は必須だったため、専用の塔が設けられたのかも。
F 新塔(Torre Nuova)
なぜ新しい塔なのかは不明。最後に作られた塔なのか、または改修工事が行われたのか。
この塔は「見せしめのために囚人を吊るし、拷問した塔」と記録されている。が、街から見えにくい場所にあるので、それはアクア塔(E)ではなかったのか?と思われる。
G 展示室(Sala Espositiva)
城塞は展示会場としても使われているので、その時々の展示品が置かれている。休憩所ぽくもなっていて、飲み物の自販機とベンチが置かれている。でもがらんとしていて、休まる感じはない。
M 名誉の間(Salone d’Onore)
大広間。当初の設計から貴賓室として利用されるはずだったが、1492年のチェーザレ滞在時には、内部の装飾が完成しておらず、倉庫のように使われていた。
1499年、ルクレツィアの到着の祝賀会がここで行われ、晴れて大広間となった。
1階の厨房(Ⅰ)の炉(Fornace)が、部屋の暖炉と繋がっていた?よう。壁の中に2つの隠し階段があり、厨房からの料理をそこから運んでいた。
N 2階へ上がる主階段とボルジア紋章
上ったところにあるのが (M) 名誉の部屋(Salone d’onore)。その入口上部には枢機卿ホアン・ボルジア(el Menor シレンツィオ)の紋章が描かれている。
(若ホアンは、1494年から1500年に死去するまで、スポレートの総督を務めていた。)
O 名誉の中庭を三方から囲む柱廊(ポルティコ)
城塞が完成してから増設された。
城塞を設計・建築したガッタポーネ(Gattapone)が、1367-1370年の間に増設したという説と、
教皇ニコラウス5世の時(1447–1455年)に、彼の依頼でベルナルド・ロッセリーノ(Bernardo Rossellino)によって作られたという説がある。
P 井戸
おそらく中庭の柱廊と同時期に作られた六角形の井戸。教皇ニコラウス5世の紋章で飾られている。
Q 階段とトイレ
一般の見学では入場不可。(展示会の構成により、開いていることもある。)
R エウゲニオ4世の間(Sala di EugenioⅣ)
城塞が完成した時の教皇、エウゲニウス4世にちなんでつけられた名前。彼の紋章が天井に掲げられている。
かつては食堂であった部屋。
現在は講演会や会議、展示会に利用されている。一般の見学では入場不可。(展示会の構成により、開いていることもある。)
S 地下通路(Sottopasso)
中庭(Cortile)または洞窟(Grotte)に直結し、鍵の管理を経ずに自動的に出入りできる構造になっている。
T 文化遺産診断研究所(Laboratorio di diagnostica applicata ai Beni Culturali)
もともとは牢舎だったところ。
刑務所として利用されていた時に増設された。
U 名誉の中庭(Cortile d’Onore)
2つの大きな中庭のうちのひとつ。三方を柱廊(O)に囲まれており、内部は居住空間になっている。城塞は軍事施設でありながら、総督や都市の統治者、教皇の使節たちの居住地としても使われるように作られている。
W 兵士の中庭(Cortile delle Armi)
アルボルノツィアーナ城塞は、教皇領の回復を目指す拠点として作られたものなので、当然軍事的訓練の場も設けられていた。
Z ヨーロッパ古書保存修復学校(Scuola europea di conservazione e restauro del libro antico)
もともとは牢舎だったところ。
刑務所として利用されていた時に増設された。
(図にアルファベットのI、V、Xはありません。数字のⅠ、Ⅴ、Ⅹと混同するので。
C、H、J、K、Lもありません。描き直した時に失敗しました、すみません。もう直したくない!
ⅠからXVのローマ数字は実際に城塞内で使用されている部屋番号ですが、アラビア数字とアルファベットは、私が便宜上任意に付けたものです。)
- 見学ツアー
ガイド付き城塞見学ツアーに参加すると、4つの塔(主塔(A )、小塔(B)、バレストラ塔(Ⅷ)、フォルノ塔(D))の屋上や歩廊(塔の間をつなぐ城壁の上部通路)、などにも入ることができる。
ヘルメット着用なので、すごい所まで入れてくれそう!
また、各塔には内部に展示スペースがあり、主塔では1499年にこの城塞に滞在していたルクレツィアの昼食が再現されている!
刑務所時代の囚人が落書きした壁なども見られる。
最大13名のグループで、所要時間約1時間。イタリア語と英語の2か国語対応。
ヘルメット貸与、免責同意書に署名。参加可能年齢は8歳以上。
- 実施日
金曜日:17:00
土曜・日曜・祝日:10:00/12:00/15:00/17:00
- 料金
城塞博物館入場券込み15ユーロ
- 予約
メールで申込み。
museoducatospoleto@sistemamuseo.it
↓ 詳しくはスポレート市のサイトへ。
Comune di Spoleto
※ 情報は2025年5月のものです。
塔の橋(Ponte delle Torri)
アルボルノツィアーナ城塞から伸びる橋、ポンテ・デッレ・トッリ。ローマ時代の水道橋がもとになっていて、アルボルノツィアーナ城塞よりも先に建てられた。設計は城塞と同じガッタポーネ(Gttapone)。
高さ80メートル、長さ230メートル。10基の巨大なアーチに支えられている。
テッシーノ川の流れに架かり、地殻変動と浸食によって分断された谷(サンテリアの丘(Sant’Elia、スポレートの街が築かれている丘)とモンテルーコ(スポレートの南に広がる丘陵地)の間)を繋いでいる。が、現在は立ち入ることはできない。
2025年春、修復が終了し渡れるようになっている!
反対側にはムリーニ要塞(Fortilizio dei Mulini)がある。19世紀まで製粉所として活躍していた。こちらも今は中に入ることはできない。
ムリーニ要塞(Fortilizio dei Mulini)
アルボルノツィアーナ城塞から続く塔の橋ポンテ・デッレ・トッリのモンテルーコ側(城塞の反対側)にある要塞。
スポレートの、最も特徴的な景観の一部であるのに、現在は廃墟化していて立ち入りできない。

正確な建設時期は不明。
おそらく、ローマ時代の古い水道橋とともに、それを防衛するための要塞として存在していたと思われる。
枢機卿アルボルノスによる、アルボルノツィアーナ城塞建築と同時期に、修復され再建されたと考えられている。
橋の上の道を監視するための見張り塔として作られた。高所にあるので、標的を見つけやすく、防御にも攻撃にも適していた。
橋の反対側にはアルボルノツィアーナ城塞の堅牢な塔があり、両端から煙や火、旗を使った合図で危険を即座に伝達することができた。
また、小麦の製粉所として使われてもいた。
要塞は、コルタッチョーネ(Cortaccione)とパトリコ(Patrico)の2つの水脈の合流点に位置していて、「リフォルタ(Rifolta)」と呼ばれる大きな貯水槽に流れ込むようになっていた。
水がリフォルタに落下する力によって水車が回され、小麦の製粉が可能だった。
この水車は19世紀末まで稼働し続けたが、1894年に新しい水道が建設されて以後、放棄されてしまった。
チェーザレの時代には、要塞としても製粉所としても現役で活躍していた。
スポレート大聖堂(Duomo di Spoleto)

正式な名前はサンタ・マリア・アッスンタ大聖堂(Cattedrale di Santa Maria Assunta) 。聖母被昇天大聖堂。
教会と同名の広い広場にあり、それが高い位置から見下ろせるので、とても壮観。
1151年 - 1227年に、9世紀の古い教会をもとにして再建された。
13世紀に築かれた鐘楼には、ローマ時代に遡る資材が使われている。
ファサードはロマネスク様式だが、ポルティコ(柱廊)はルネサンス様式。5つのアーチの両脇にあるのは説教壇。外にあるの、珍しくない!?
このポルティコは1491年、アントニオ・バロッチ(Antonio Barocci)とその工房によって作られたもの。なので、1492年にチェーザレがスポレートに滞在していた頃には、まだ一部工事中だったかもしれない。
チェーザレは1493年3月までスポレートにいたので、竣工式には出席したかも?
ポルティコ上部には装飾されたテラスが設けられており、これは市の祭礼の際に聖母のイコン(Icone della Vergine)を公開展示するために使用された。

内部は17世紀から18世紀にかけてバロック様式に改修されている。
が、主祭壇奥のアプス(後陣)に、1467年 - 1469年にかけて描かれたフィリッポ・リッピのフレスコ画'(右上の写真の正面の絵)があり、右手翼廊には彼の墓がある。
フレスコ画は彼の遺作。
正面の「聖母の死」の場面右端には、フィリッポの自画像がある。(←)
墓の制作はフィリッポの息子フィリッピーノ・リッピが手がけ、墓碑にはポリツィアーノの碑文が刻まれている。これはロレンツォ・デ・メディチ(イル・マニフィィコ)の依頼で作られた。

右手側廊のエローリ司教の礼拝堂にはピントゥリッキオのフレスコ画がある。
(← 左の写真)
ピントゥリッキオはボルジアの間を装飾した後、オルヴィエートやペルージャなどウンブリアで仕事をしており、スポレート大聖堂の絵もこの時期(1497年)に描かれた。
エローリ家は枢機卿ベルナルド・エローリ(Berardo Eroli 1409–1479)を輩出した一家。ベルナルドはナルニ出身であったが、スポレートの司教に任命された。
スポレートの司教は彼の死後もコンスタンティン、フランチェスコ、と1540年までエローリ家が受け継いだ。
外部も内部も、チェーザレの時代に色々と手が入れられているので、この頃のスポレートが軍事的要衝だっただけでなく、豊かな街であったことがわかる。
他にも、ベルニーニによる教皇ウルバヌス8世像、
アッシジの聖フランチェスコが、1222年に弟子レオーネに宛てて書いた自筆の手紙、
街を略奪したことに対する詫びの印として、神聖ローマ皇帝フリードリヒ・バルバロッサが1185年に寄贈したビザンティン様式のイコン、
など、多くの美術品を所蔵している。
旧・金のマナの聖マリア教会(Ex chiesa di Santa Maria della Manna d'Oro)
油塔と退却門(Torre dell'Olio e Porta Fuga)
トッレ・デッロイロ、直訳すると油塔。(← 左の写真。)
16世紀に建てられたヴィジリ宮殿(Palazzo Vigili)に隣接している、街で最も高い塔。
侵入して来た敵に、塔の上から熱した油を浴びせかけるという、昔ながらの防御法にちなんで名付けられている。
現在見られる塔は、おそらく13世紀のもの。
だが、紀元前217年、カルタゴ軍を率いてローマへ向かっていたハンニバルの部隊を、スポレートの民衆がこの塔から攻撃し撃退した、という記録が残っている。すごい。
塔の下にある門の名前は「フーガ門(Porta Fuga)」で、この勝利に由来している。(Fugaとは逃走、退却という意味。)(→ 右の写真。)
アーチの上にはラテン語で、
HIC ANNIBAL
CESSIS AD TRASYMENVM ROMANIS
VRBEM ROMAM INFENSO AGMINE PETENS
SPOLETO
MAGNA SVORVM CAEDE REPULSUS
INSIGNI FVGA PORTAE NOMEN FECIT
と書かれている。
「ハンニバルはトラシメヌス湖でローマ軍を打ち破り、敵意に満ちた軍勢を率いてローマ市を目指していたが、ここスポレートで撃退され、自軍の多くを失い敗走したことにより、この門にその名を刻んだ」
※ 第2次ポエニ戦争(紀元前218年–紀元前201年)
カルタゴの将軍ハンニバルは、トラシメヌス湖の戦い(紀元前217年)でローマ軍に大勝した後、ローマへ向かって進軍したが、スポレートで予想外の抵抗に遭って撃退された。
惣領版「チェーザレ」9巻で、チェーザレはハンニバルと戦ったスキピオについて熱く語っていたので、スポレート滞在時のチェーザレはこの門に興味を持ったかも!?
考古学博物館とローマ時代の劇場(Museo Archeologico Nazionale e Teatro Romano di Spoleto)
紀元前1世紀に遡る、ローマ時代の劇場建築の跡。
正面奥に見える新しい建物は、旧サンタガタ修道院(monastero Sant'Agata)、現在はスポレート国立考古学博物館として利用されている。博物館に入館することで、劇場のある広場にも降りて見学できる。
右側の三角屋根の建物は、サンタガタ教会(Chiesa di Sant'Agata)。
劇場は、建設後まもなくおそらく地震による地滑りで損傷した。
しかし修復され、4世紀頃までは使われていた。水上ショーも上演できる設備があった。
しかしローマ帝国滅亡後は、石材採取場となってしまう。
12世紀には、舞台部分の一部の上にサンタガタ教会が建てられた。
さらに13世紀から14世紀にかけて、教会の隣にコルヴィ家(Corvi)の邸宅が建てられた。
14世紀末には、サン・パオロ・インテル・ヴィネアス修道院(San Paolo inter vineas)から来たベネディクト会の修道女たちがコルヴィ家邸宅を受け継ぎ、サンタガタ修道院を創設した。
15世紀のチェーザレの時代には、ほぼ廃墟化した劇場跡と、サンタガタ教会および修道院があった。
(つまり、遺跡は荒廃していたし建物の外観は異なっていたけれど、見える景色は写真とそんなには変わらなかった。)
修道院は、16世紀に八角柱の柱に支えられた回廊が増設され、1870年からは女子刑務所として利用されるようになった。
劇場跡は、長い間放擲されていたが、20世紀になってから、組織的な発掘調査が行われた。
1985年、旧修道院と劇場跡はスポレート国立考古学博物館として開館、建築構造に合わせた複数階にわたる展示空間が設けられ、劇場跡はコンサートや演劇などの公演にも活用されている。

こぢんまりした博物館なので、周るのに1時間もあれば大丈夫そう。
1950年代に発見された紀元前45 - 33年頃のオクタヴィアヌス(アウグストゥス)の頭像、
1568年に修道院の壁に描かれたフレスコ画、「最後の晩餐」などがある。
西側の通りはヴィア・デッレ・テルメ(via delle Terme)、「浴場通り」となっている。
この名前は、ここにある遺構が古代ローマの劇場のものであるにもかかわらず、間違ってテルマエ(公衆浴場)の跡とされたことに由来している。
市庁舎(Palazzo Comunale)

メルカート広場とドゥオーモ広場の中間に位置し、古代から貴族の邸宅が並んでいた地区に建つ宮殿。基礎の一部は、ローマ時代の邸宅「カーサ・ロマーナ」の跡地の上に築かれている。
1296年以降、市の行政の中心として使用されてきた。
建物の建築時期は不明。
最も古い部分は、ひと目でわかる通り南側ファサードの塔で、13世紀のもの。中世の城壁と同じく玉石で造られている。(玉石積み。丸みを残した自然石を積み上げた、伝統的な石積みの方法。)
16~18世紀にかけて鐘楼や頂部が整えられた。
中庭があり、その柱廊の下でポデスタ(都市総督)やポポロのカピターノ(市民の代表)が職務の一部を行っていたことが、記録されている。
1455年頃には、現存していない礼拝堂があった。画家アルカンジェロ・ディ・ジョヴァンニ(Arcangelo di Giovanni)によって、都市の守護聖人たちの聖なる姿が描かれていた。
1498年には、スポレート出身のベルナルディーノ・カンピーリオ(Bernardino Campilio)によって「謁見の間(Sala delle udienze)」にフレスコ画が描かれた。これは一部現存している。
1703年の地震で被害を受けた後、18世紀を通じて大規模な修復と拡張が行われた。
この時、モンテ・ディ・ピエタ(Monte di Pietà)が建物内に組み込まれることになった。
この施設は正式には「慈悲の母聖マリアのモンテ・ディ・ピエタ(Monte della Pietà et de la Vergine Maria Madre de Misericordia)」と呼ばれ、北側ファサードから入る部屋に設けられていた。
1913年には隣接していたブランカレオーニ宮(palazzo Brancaleoni)が統合され、
2007年には構造修復とバリアフリー化を完了した。

市庁舎はまた、市立美術館(ピナコテーカ・コムナーレ)としても利用されている。13世紀から18世紀にかけての絵画や家具をはじめ、美術的価値と関心の高い多くの品々が収蔵されている。
後期バロック様式のサン・ポンツィアーノ礼拝堂(現在は婚礼会場として使用)、
19世紀にアルボルノツィアーナ城塞から剥がされ!移されたフレスコ画が飾られる「ロ・スパーニャの間」、
(ロ・スパーニャとはスペイン人という意味で、ジョヴァンニ・ディ・ピエトロ(Giovanni di Pietro)の通称。チェーザレと同時代(1450頃 - 1528)のスペイン人画家。
しかしこれは、1514年から1516年にかけてスポレートの総督を務めた、ピエトロ・リドルフィの依頼で制作されたもの。上部のリュネットにはリドルフィ家の紋章が描かれている。)
スポレートの偉人やランゴバルド人公爵の肖像画が展示された部屋、
などがある。
市庁舎前の広場には、ニーノ・フランキーナ(Nino Franchina)の彫刻「スポレート1962」が設置されている。これは1962年にスポレートで開催された展覧会「街の中の彫刻(Sculture nella città)」のために制作された作品。(写真右端見えるジャギジャギのやつ。)
ローマ時代の家(Casa Romana)
市庁舎の地下にあるローマ時代の遺跡。入口はヴィジアーレ通り(Via Visiale)にある。看板はあるけど、路地のただのドア見えるので、見逃し注意。
1885年にジュゼッペ・ソルディーニ(Giuseppe Sordini)によって発見され、19世紀末から1914年にかけて発掘された。
1世紀頃のスポレートで、経済的・社会的に重要な地位を占めていた人物の邸宅だったとされる。
ポッラ(Polla)という名の女性が、第3代ローマ皇帝カリグラに捧げた奉納文の断片が、井戸から発見されたので、第9代ローマ皇帝ウェスパシアヌス(Vespasianus)の母、ウェスパシア・ポッラ(Vespasia Polla)の住まいであったとも言われる。
いずれにしても、非常に洗練された上流階級の邸宅で、その建築構造はローマの貴族住宅の典型的な様式を反映している。
雨水を集めるための水盤(インプルウィウム)を備えたアトリウム、
中間の間(タブリヌム)、
食堂(トリクリニウム)、
列柱に囲まれた中庭(ペリスティリウム)、
寝室(クビクラ)、
翼室(アラエ)、
がそろっている。
すべての部屋はモザイクで床が舗装されており、場所によっては壁画の痕跡も見ることができる。
司教区博物館(Museo Diocesano)
サン・テウフェミア聖堂(Basilica di Sant'Eufemia)に隣接する博物館。
写真左手が大司教館(Palazzo Arcivescovile)で、こちらに入口とチケット売り場がある。教会には、博物館のルートからのみ入ることができる。
そんなに大きくはない小規模な博物館と教会なので、周るのに1時間かからないと思う。
紀元前2〜1世紀にかけ、急斜面の丘に頑丈な基礎構造を造成し、均した平地の上に建てられた建築群が、基になっている。
共和制ローマ後期の政務官、スッラの時代(前1世紀)には、かなりの規模の建築物が建てられており、5世紀には東ゴート王テオドリックのテオドリコ宮殿(Palazzo di Teodorico)として使用されていた。
中世初期には、ランゴバルド人が公爵の宮殿を設け、その後ベネディクト会の女子修道院となった。隣接する礼拝堂が改修され、東方の殉教者エウフェミア(Eufemia)に捧げられた。

1231年、スポレート司教の居館として文書に現れる。
1448年から1450年にかけて、エローリ家出身の司教たちの意向により南棟が改修され、
1655年にカストルッチ師(Mons. Castrucci)が中庭を整備し、柱廊を設けた。
← 左は14世紀頃の司教館と教会。
チェーザレの時代にはこんな感じだったかな?

20世紀初頭、騎士ジュゼッペ・ソルディーニが、大司教館から教会を完全に切り離し、教会裏手の建物を取り壊して、アッリンゴ通り(Via dell’Arringo)(教会東側の通り)から後陣が見えるようにすることを提案した。
しかしこの改修によって、教会が回廊や大司教館に囲まれ、内部に組み込まれていたという、元来の記念建築群としてのかたちが損なわれてしまった。
しかしこのおかげで?ソルディーニの思惑通り、アッリンゴ通り(ドゥオーモに降りていく坂道階段)から、ドゥオーモとサン・テウフェミア聖堂が同時に見られる。(→ 写真中央の古い建物が教会の後陣。)

ロマネスク様式の聖堂は、1907年から1953年にかけて修復が行われた。
しかし柱のいくつかは、ローマ時代や初期中世の建物から転用された部材によって、構成されている。
大理石の前飾り(パリオット)を持つ主祭壇は13世紀のもの。
(← 左の写真)
博物館は、1960年代末に開館した。
作品は、「枢機卿の間(appartamento del Cardinale)」と呼ばれる一連の部屋に、時代順に展示されている。
初期キリスト教美術からルネサンス、バロックに至るまでの流れをたどることができる。
ドゥオーモの祭壇画壁画を描いたフィリッポ・リッピの息子、フィリッピーノ・リッピ(Filippino Lippi)や、
バロックの巨匠ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ(Gian Lorenzo Bernini)(上の写真。教皇ウルバヌス8世の胸像。)など、
主にスポレート、フィレンツェ、ローマの芸術家たちの作品を所蔵している。
壁には16世紀後半から描かれたフレスコ画が残されており、それも見どころとなっている。
城壁(Mura di Spoleto)
スポレートには、2種類の城壁が残っている。
- 1・「チクロピケ城壁(mura ciclopiche)」
紀元前6世紀から1世紀にかけて段階的に築かれ、中世まで使用された。
- 2・「中世の城壁(mura medievali)」
「ムーラ・トレチェンテスケ(mura trecentesche)」(1300年代の城壁という意味)とも。
1297年に工事が始まり、14世紀初頭に完成したと考えられている。
※ 城壁の数や建設年代については、諸説ある。
チクロピケ城壁(mura ciclopiche)
チクロピケとはギリシャ神話に登場する一つ目巨人キュクロープス(Cyclopes、英語だとサイクロプス Cyclops)のこと。
粗く削られた大きな石のブロックで築かれているので、巨人キュクロープスによって作られたものと言われていた。
城壁の長さは約2キロほどで、標高453メートルのサン・テリアの丘(Sant’Elia)の傾斜に沿って築かれ、丘陵地の居住地域を囲んでいた。
頂上部分は囲い込まれておらず、数世紀後にそこにアルボルノツィアーナ城塞が築かれることになる。
1・最下層は、街が開かれた時代、紀元前5~6世紀頃にさかのぼる。多角形の大きな石灰岩を、結合剤を一切用いずに積み重ねているのが特徴。
2・紀元前241年にスポレティウム(Spoletium、古代のスポレートの呼称)がローマの植民都市となった時、街の防衛強化の一環として、城壁は高くされる。
この時は、さまざまな大きさに切り出された方形の石灰岩が使用された。
3・その後紀元前1世紀、スッラ時代の戦争や紀元前63年の地震による損傷のために、さらなる修復が必要となる。
その際、細長く丁寧に切り出された石材の、第3層が重ねられた。
1・2・3・の、年代による違いがわかりやすい壁
かつてのサン・ニコロ修道院(Convento di S. Nicolò)壁、チェチーリ通り(Via Cecili)
- ムーラ・チクロピケ通り(Via delle Mura Ciclopiche)

ムーラ・チクロピケ通り(Via delle Mura Ciclopiche)の急坂沿いに見られる、古代の城壁跡。西側の区間に最もよく残っている。
実際の建築時期は未だに議論されている。が、共和制ローマ初期によく使われたポリゴナーレ工法(opus polygonale、石を丁寧に接合し仕上げる)よりも古いと見なされていて、紀元前241年のローマによる植民都市建設以前にこの地に住んでいた、ウンブリア人によるものである可能性が高い。
つまり、上記の1・と2・の間に作られたもの。
この建築技法はこの区間だけでなく、フーガ門(Porta Fuga)付近にも残されている。
つまり、サンテリアの丘(Sant’Elia、スポレートの街が築かれている丘)の、天然の防御壁となっている斜面のうち、傾斜が比較的緩やかで登ることが可能だった2カ所に存在している。
古代ウンブリアの人々は、この2カ所を防御的に脆弱と見なし、敵の侵入を防ぐために防御壁が必要と考えたのだろう。
おそらく、このウンブリア時代の集落では、後の古代ローマのような都市を完全に囲むも連続した城壁ではなく、防御の必要性が特に高かった区域のみに限られて築かれるものだった。
現在も擁壁(崖や傾斜地、道路沿いなどに設けられる土木構造物。土砂や斜面が崩れるのを防ぐための壁、土留め)としての機能を保っており、街の建築の基礎を成している。
- チェチーリ通り(Via Cecili)

上の、建築年代のわかる壁のある通り。この先を進んで行くと左手に見えてくる。
通りの名前は、チェーザレの時代の傭兵隊長、ピエルサンテ・チェチーリ(Piersante Cecili)、通称サッコッチョ(Saccoccio Cecili、Saccoccio da Spoleto)に由来している。
サッコッチョとはサッコ(Sacco)、すなわち「略奪」から来ていて、「略奪野郎」みたいな意味。
19世紀、通りの名前が改定され彼の名前がつけられた時、「略奪」はあんまりじゃない…?と判断され、「チェチーリ通り」となった。
しかしgoogleマップには「サッコッチョ・チェチーリ通り」と出てくる。忖度まる無視。
サッコッチョとあだ名されるからには、軍人的気質として略奪を働く傾向があったのではないかと思われるが、そのような記録は特にないよう。
彼は、1500年から1503年までチェーザレの軍で活躍していた。カメリーノのヴァラーノ家を放逐したのはサッコッチョである。
スポレート市庁舎内の市立美術館には、サッコッチョの肖像画がある。
中世の城壁(mura medievali)
ローマ時代の門(Porte Romane)
チェーザレの時代に存在していた、街中に点在している古い門とアーチ。
当時の雰囲気が偲ばれるような場所が、スポレートにはたくさん残っている。
ローマ時代の門
防衛システムには5つの主要な門が備えられていた:
• ポルタ・サン・ピエトロ(Porta San Pietro)、別名モンテローネのアーチ(Arco di Monterone)またはポルタ・ロマーナ(Porta Romana)。この門からフラミニア街道(via Flaminia)が市内に入り、都市を通過してポルタ・フーガ(Porta Fuga)から出ていた。これはローマとの往来に用いられた門である。21個の放射状のくさび石から成るアーチ型で、接着剤を使わずに組み立てられており、現在でもサンタンザーノ教会(Sant’Ansano)近くに良好な状態で残っている。四角いブロックで構成された2つの重厚な側柱は、元の高さの少なくとも3分の1が地中に埋まっている。1977年に補強工事が行われた。 • ポルタ・サン・ロレンツォ(Porta San Lorenzo)は、近くのサン・ロレンツォ教会に由来する名を持ち、現存しているのは、アーキトレーブ(上部横材)と右側の側柱のみで、それらは**モンガッリ宮殿(palazzo Mongalli)の下に位置している。 • ポルタ・デッラ・トリニタ(Porta della Trinità)は、近くの修道院と旧至聖三者教会(SS. Trinità)にちなんで名づけられた。現在残っているのは、フォンテ・ペスカイア通り(via della Fonte Pescaia)にある一部の断片のみである。 • ポルタ・フーガ(Porta Fuga)はオリオの塔(Torre dell’olio)の下にあり、1242年にはポルタ・フーリア(Porta Furia)、のちにフージャ(Fuja)と呼ばれていた。15世紀にはポルタ・サン・グレゴーリオ(Porta San Gregorio)とも呼ばれた。現在の名称は、紀元前217年、トラジメーノ湖の戦いでローマ軍を破った後、首都に向けて進軍しようとしたハンニバルに対し、スポレート市民が勝利を収めて撃退したことを記念している(この出来事は、門に掲げられた13世紀の碑文に記されているが、それは元来ローマ時代のより古い門の跡地に建てられたものであり、これにちなみ「フーガ(逃走)」と名付けられた)。1655年、スウェーデン女王クリスティーナの都市到着の際、この門は上に増築され、天蓋風の偽のタペストリーで装飾されたが、その痕跡は現在でもいくらか残っている。そのような装飾は、重厚なローマ建築とは不調和なものであった[2]。 • ポルタ・ポンツィアニーナ・アルタ(Porta Ponzianina alta)は、多角形石積みの層の中に位置しているが、ローマ時代の修復によるものである。現存しているのは、門の名を冠した通りの起点部分にある側柱とアーチのくさび石のみである。
他にも、プステルラ(pusterla、小門)または救援門(di soccorso)と呼ばれる小さな門が存在していた。たとえば、サン・マルコ門(Porta di San Marco)はサン・ピエトロのアーチの近くにあり、サン・ベネデット門(Porta di San Benedetto)はアンカヤーニ宮殿(palazzo Ancajani)の左側にあった。他にもいくつかあった。この地域は1800年までかなり急傾斜で、道路がほとんどなかったため、自然の要塞としての防御効果も加わっていた。スポレートの街は、堅固に防備され、保護されており、ウンブリアの谷を見下ろす支配的な位置を占めていたため、軍事的にも重要な役割を担っていた。
古代の城壁は、都市の拡大に伴って新たな城壁の建設が必要になったことから、完全に放棄された。防衛機能が失われた後、住民は旧城壁の一部を購入し、住宅や塔を建てることが許された(1ペルティカ=40ソルディ)[7]。サン・ニコロ修道院(San Nicolò)のアウグスチノ会士たちはその一部を購入し、新たな修道院の基礎として利用した。
数世紀にわたる改築や修復、破壊、枝分かれの道の発生などにより、古代城壁の全体的な経路は現在では判別不可能となっている。多くの区間は私有住宅の内部に隠されており、他の区間は破壊され、取り壊した素材として再利用された。現存している区間の一部は、傾斜のある都市であるスポレートにおいて必要なテラス状地形の擁壁である可能性もある。最も長く、良好な保存状態にある区間は、チェーチリ通り(Via Cecili)に沿って約125メートル続いている。
1886年、ジュゼッペ・ソルディーニ(Giuseppe Sordini)がこの区間で発掘を推進し、四角い石積みの強大な防御塔の遺構を発見した。それはかつてポステルラ(小門)を防御するために設けられたもので、後に閉鎖されたが今なお見ることができる。さらに、多数の大理石片、数枚の貨幣、陶器やガラスの破片も発見された。
モンテローネのアーチ(Arco Monterone)

紀元前241年遡る、街の防衛のために作られた、城壁の門。
乾式(a secco)(モルタルや接着剤を使わず、石やブロックをそのまま積み上げて接合する工法。石同士の重さと形だけで安定させる。)で接合された21個の放射状の切石(conci radiali)で構成されている。
何世紀もの間、ローマへ向かう際に通る市門として使われてきた。
現在の道路からの高さは2.1メートルだが、側柱(stipiti)はかなり地中に埋もれているため、もともとの高さは3メートルほどであったと推定される。
側柱は、よく見ると左右でバランスが異なっている。
アーチの脇には、ローマ時代の貯水槽(cisterne)のシステムもある。
ドゥルーゾ(ドルスス)のアーチと城壁(Arco di Druso e Mura Romane)

古代ローマ時代のフォルム(Forum)であった、メルカート広場から数十歩の場所に立つアーチ。
フラミニア街道に続く、カルド・マクシムス(cardo maximus)(古代ローマの、都市内を南北に走る大きな通りのこと。)をまたぐ。街への入口であり、記念碑でもあった。
23年、スポレートの元老院によって、第2代皇帝ティベリウスの実子ドルスス(Druso)と、甥で養子でもあったゲルマニクス(Germanico)を称えて建てられた。このことが正面上部の碑文に書かれている。
なので、ドルススとゲルマニクスのアーチ(L'arco di Druso e Germanico)とも呼ばれる。
ドルススの名前だけで呼ばれることもあるのは、彼の死をきっかけに建てられたから。(ゲルマニクスはすでに紀元19年に死去していた。)
アーチは、地元産の石灰岩のブロックを用いたオペラ・クアドラタopera quadrata)工法で建てられている。
装飾は、現在はごく一部しか残っていない。
中世以降、周囲の建物によって徐々に圧迫され、西側の柱は今はもう見ることができない。が、東側の柱は完全に露出している。
この東側に当時の城壁跡残っている。
サン・ロレンツォ門(Porta San Lorenzo)
トリニータ門(Porta della Trinità)
フーガ門(Porta Fuga)
ポンツィアニーナ・アルタ門(Porta Ponzianina alta)
サン・マルコ通用門(Posterula di San Marco)
モンテローネ通りからフェリーチ通り(Via delle Felici)に入る場所に建つ小さな門。
中世の門(Porta Medivale)
モンテローネ門(Porta Monterone)
スポレートの南の玄関口。モンテローネ地区の境にある。この地区は長年職人たちの街区だった。
門の両側には4つの浮き彫り(アルトリリーヴォ)が施されており、2重のアーチ構造を持っている。小さいアーチは、大きいアーチの開口部を縮小した結果と考えられている。
開口部分には木製の扉が設置してあったが、全体をふさいでいたわけではなく、アーチ(フォルニーチェ fornice)部分は開けられており、上から敵を攻撃できるようにしてあった。
サン・マッテオ門(Porta San Matteo)

スポレートの南西の端、中世にボルゴ・サン・マッテオ(Borgo S. Matteo)、通称「ボルガッチョ(Borgaccio)」と呼ばれていた地区にある門。
この地区は、ローマ時代の城壁の外にボルゴ(市街地)として発展し、スポレート市の政策で城壁内に組み込まれることになった。
1296年から1297年の間に新たな門として、サン・マッテオ門が建設された。
切石(切り出された後に整形された石材)と、古代建築物から転用された素材で構成されている。
18世紀に発生した数多くの地震により大きな損傷を受けた。が、現在も古い木製の扉が、当時の形のままで残されている。
バロック時代に加えられた上部構造は、20世紀に取り壊された。
サン・グレゴリオ門()
サン・ルカ門()
アーケード門(Porta ad arcate)
小道(Vicoli di Spoleto)
ヴィジアーレ通り(Via di Visiale)
ローマ時代の家(Casa Romana)の入口前の通り。
バジリカ小路(Vivolo della Basilica)

市庁舎前から「し」の字型に伸びる100メートルほどの路地。
通りの名前は、突き当たりにあった建物の名前に由来している。
しかしそれは1世紀頃に建てられた異教徒の小神殿で、バジリカではなかったよう。
ずっと、誤ってバジリカと呼ばれ、小路の名前にまでつけられている。

路地を少し進んだところ。
1900年後半の写真。だけど現在とほとんど何も変わっていない。
スドゥルッチョーロ通り(Via dello Sdrucciolo)
観光案内所のあるメルカート通り(Via del Mercato)から、「L」字型に伸びる100メートルほどの路地。
フィリッポ・マリョノーリ小路(Vicolo Filippo Marignoli)
コッリコラ宮殿(Palazzo Collicola)
サン・ジョルジョ・マッジョーレ教会()
聖ヨハネとパウロ教会(Chiesa dei SS. Giovanni e Paolo)
(Convento Parrocchia S. Domenico)
12世紀から14世紀の間に建てられたゴシック様式の教会。
サン・サルバトーレ教会
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