スビアーコ
スビアーコ Subuaco

バスで、ローマから約1時間15分。
ローマのメトロB線ポンテ・マンモーロ(Ponte Mammolo)駅から、コトラル社(Cotral)のバスを利用する。
バス乗り場は駅と隣接している。2階が出発ロビー。
2階にチケット自販機があるが、壊れていることも多いので、1階の売店で購入する方がよい。
右の写真はスビアーコのバス停。頂上に見えるのがボルジア城。
城まで、とにかく階段と坂道を上っていく。と言うより登って行く。
ちょっとした登山かと思うくらい、階段と坂道の街。
- Cotralのサイト
時刻表など見られます。
- スビアーコ観光案内のサイト
おすすめ観光ルートなど、参考にできると思います。
他に、泊まるところ、食べるところなども。
チェーザレとルクレツィアが生まれたところ。
しかし、チェーザレのスビアーコ生まれ説は確定されてはいないので、ルクレツィアのみがやたら推されている。軽率にチェーザレ生誕地!と謳わないのは、良心的で驚く。
(城塞手前にある説明パネルには「チェーザレとルクレツィアの生誕地」と書かれている。)
西欧修道院の父とも言われる、聖ベネディクトが設立した修道院があることで有名。
6世紀初頭、ネロ帝邸宅跡地のあった洞窟で隠遁生活を送っていた聖ベネディクトが、13もの修道院を創設した。ここから僧侶たちの街として発展していった。
9世紀頃、サラセン人の襲撃を受け、住民はアニエーネ川の北へ移動し、現在のボルジア城塞周辺に定住していった。
(それでこんな山の上に街が形成されたんだね!)
10世紀には、歴代教皇からの寄進を受け、修道院の領地は拡大した。
11世紀から12世紀にかけて大いに繁栄し、経済的・政治的な力を持った。
1456年、教皇カリストゥス3世によってコメンダタリオ(commendatario)が導入され、街の行政権は教皇の任命による枢機卿または聖職者に委ねられることになる。最初のコメンダタリオは、スペイン人枢機卿ホアン(ジョヴァンニ)・デ・トルケマダだった。
1467年、枢機卿ロドリーゴ・ボルジア(後の教皇アレクサンデル6世)がコメンダタリオ(commendatario)に。
ロドリーゴは街の防衛を強化するため、修道院の古い城塞を改築し、新たに塔を建築した。
塔は、彼の愛人ヴァノッツァ・カッタネイが度々滞在する場所となる。
1475年にはチェーザレが、1480年にはルクレツィアがここで生まれた。
1492年、ロドリーゴが教皇に選出された時、支持に対する返礼としてスビアーコのコメンダタリオは、枢機卿ジョヴァンニ・コロンナに譲渡された。
ここからコロンナ家は、この地を1608年まで116年間支配することになる。
1557年、フランチェスコ・コロンナは、塔の1階の内装を新たにする。ペリン・デル・ヴァーガの弟子たちによってグロテスク模様で装飾された。
コメンダタリオは、1608年にはボルゲーゼ家、1633年にはバルベリーニ家へと移管された。
1777年から1781年にかけて、教皇ピウス6世により城塞と塔を繋ぐ宮殿が建築される。設計は建築家ピエトロ・カンポレーゼに、内部装飾はフォリーニョ出身の画家リボリオ・コッチェッティに委ねられた。
1847年、教皇ピウス9世により大規模な修復工事が行われる。
1890年、枢機卿ルイジ・ディ・コンティ・マッキがさらに大規模な修復工事が行われる。
2021年、スビアーコはイタリア共和国大統領セルジョ・マッタレッラにより「市」の称号を授与された。
- スビアーコ Subuaco
- ボルジア城塞(Rocca dei Borgia) アバッツィアーレ城塞(Rocca Abbaziale di Subiaco)
- サンタ・マリア・デッラ・ヴァッレ教会(Chiesa di Santa Maria della Valle)
- サン・ピエトロ教会(Chiesa di San Pietro)
- サンタンドレア使徒大聖堂(Basilica di Sant’Andrea Apostolo)
- ピエトラ・スプレカータ小広場(Piazzetta Pietra Sprecata)トルケマダ邸(Palazzo Torquemada)
- 中世の職人街(Borgo Medievale degli Opifici)
- 十字架の聖母教会(Chiesa della Madonna della Croce)
- サン・フランチェスコ修道院(Convento di San Francesco)
- サンタ・スコラスティカ修道院(Monastero di Santa Scolastica)
- サン・ベネデット修道院(Monastero di San Benedetto)
- ファルコーネ広場 - バス停
- 観光案内所 - 金土日のみ営業
- ボルジア城塞 -
- 十字架の聖母教会 - googleマップ公式のマークは少し南にズレてます。実際は2軒ほど先。
- サンタ・スコラスティカ修道院 - 地図の➖を2回クリックすると南東の方に出てきます。
ボルジア城塞(Rocca dei Borgia)
アバッツィアーレ城塞(Rocca Abbaziale di Subiaco)
「ボルジア城塞」とも呼ばれるが、Googleマップやwikipediaでは「アバッツィアーレ城塞」になっている。こちらが正式名称のよう。アバッツィアーレ(abbaziale)とは修道院のこと。スビアーコ修道院城塞。
↓ 西側からの城塞。(Piazza Ulderico Pellicciaから)
異なる時代に建てられた3つの建物から成る、複合施設。
元々は1073年から1077年にかけて、サンタ・スコラスティカ修道院(Monastero di Santa Scolastica)の修道院長、ジョヴァンニ5世によって建てられた城塞だった。聖トマスに捧げられた小さな教会が隣接していた。
(下図の❶の部分)
アニエーネ川上流の谷を見下ろす岩壁の突端に建設され、三重の城壁に囲まれていた。落とし戸や牢獄が備えられ、見張り塔もあった。
修道院が所有する莫大な財産を守るための、防衛施設だった。
(9世紀頃からサラセン人の襲撃を受けていたスビアーコの住民は、アニエーネ川の北へ移動し、この修道院城塞周辺に定住していた。)
↑ 南側からの城塞。(正面)
1456年、教皇カリスト3世(教皇アレクサンデル6世の叔父)は、修道院の財産を管理するため、コメンダタリオ制度を利用し、スビアーコの修道士たちから世俗的な権力を奪う。
1476年、コメンダタリオに任命された枢機卿ロドリーゴ・ボルジアによって、大規模な改修工事が行われ、新たに防御塔が作られた。(図の❷の部分)
塔?って思うけど、当時はもっと高さがあった。
内部にはトラボッキ(trabocchi)と呼ばれる仕掛けが設置されていた。
(※ トラボッキとは、
同名の漁獲システムがあるので、おそらく網漁業のように敵兵を網で捕獲するような仕掛けのこと。)

16世紀、フランチェスコ・コロンナとマルカントーニオ・コロンナの下で塔の内部が改修される。トラボッキなどの軍事的要素は廃され、応接室として使われるようになった。
現在「コロンナの間(Appartamento Colonna)」と呼ばれる3つの部屋の天井には、ペリン・デル・ヴァーガ(Perin Del Vaga)の弟子たちによる、当時の流行だったグロテスク模様の装飾が施されている。
← 「コロンナの間」最初の一室。
天井にコロンナ家の紋章が見られる。
続く部屋は「チェーザレとルクレツィア紹介の部屋」「アレクサンデル6世とアルフォンソ・デステ紹介の部屋」として使われている。
↓ チェーザレとルクレツィア紹介の部屋、「謁見の間(Sala di Rappresentanza)」。
出入口両わきの透明な説明パネルは、チェーザレとルクレツィアが書いた手紙について。
左端のパネルは部屋についての解説。この部屋も「コロンナの間」の一室なので、天井の装飾はコロンナ家の紋章になっている。

← アレクサンデル6世とアルフォンソ・デステ紹介の部屋、「黄道十二宮の間(Sala dello Zodiaco)」。この部屋もコロンナ紋章のある「コロンナの間」。
斜めになっていてわかりにくいけど、右側の額がアルフォンソ。

1778年、教皇ピウス6世によって、中央の建物が建築され、既存の2つの建物と統合された。(図の❸の部分)
その際、防衛施設であった城塞と塔は近代的な宮殿へ改修された。落とし戸や牢獄は撤去され、ロドリーゴが建築した塔も半分の高さになった。
現在西側の壁(❶城塞の部分)に見られるジュゼッペ・ラヴァリア(Giuseppe Ravaglia)による2つの大時計は、この時設置された。

1階は「スビアーコ出身の画家エンツォ・ロベルティ(Enzo Roberti)紹介の部屋」と、「ルクレツィア紹介の部屋」として使われている。
この奥は❷塔へつながっていて、順路通りに進むとコロンナの間に出る。
2階は、フォリーニョ出身の画家リボリオ・コッチェッティのテンペラ画で装飾された。18世紀末のコメンダタリオの肖像や、スビアーコの風景と当時の農村生活が描かれている。
その奥にロココ様式のグロテスク装飾が施された「大陸の間」、続いて「玉座の間」とコメンダタリオの寝室がある。
← 「玉座の間」。最も広い部屋で、教皇の謁見を行うために作られた。
壁に装飾がないのは、タペストリーを掛けるように設計されているため。
→ コメンダリオの寝室。
↓ 北側からの城塞。(Fontana Barberini前から)
右側が❶城塞。角時計が見える。
↓ 写真左下に見える小道が、上図の「ここから上っていく」の矢印部分。
手前が❷塔、奥が❶城塞。
↓ 見えてきた宮殿部分(正面入口)と、宮殿部分(正面入口)。上部の紋章は教皇ピウス6世のもの。

❷塔の手前部分には中庭に出入口があり、こちらは現在「紙と印刷の活動博物館(MACS)」として利用されている。
(スビアーコは、1465年にイタリア初の印刷所が設立されたところ。)
時代物の産業機械、中世の道具の再現品などが展示されている、スビアーコ初の市立博物館である。
↓ ❷塔の裏側(東)。
- 開館時間
土・日・祝
10:00 – 19:00
チケット売場には、城塞とルクレツィアに関するグッズが少し置いてある。
サンタ・マリア・デッラ・ヴァッレ教会(Chiesa di Santa Maria della Valle)
ボルジア城塞のふもとに立つ教会。城塞へ登って行く途中にある。(バス停からは、おそらくどんなルートで登っても、すぐ近くを通る。)
Valleとは谷という意味。渓谷を見下ろすようにそびえ立っている教会。
オリヴェート・ピアノ地区(Contrada Oliveto Piano)(城塞から北に直線距離で500メートルほどのところ。道が蛇行しているので徒歩16分。上記地図参照。)に、
4世紀に建設され、13世紀に再建されたサンタ・マリア・アド・マティレス教会(Chiesa Santa Maria ad Matjres)があった。
1773年、教皇ピウス6世はこの教会がスビアーコの住民にとってアクセスしにくいと考え、新たな教会の建設を命じた。フランス軍の侵攻や資金不足により、工事は大幅に遅れ、最終的に1851年に完成した。
設計は、聖アンドレア使徒教会(Chiesa di S. Andrea Apostolo)のファサード完成に携わった建築家カルロ・コロンビ(Carlo Colombi)。
主祭壇の後陣にあるのは、14世紀の絵画「被昇天の聖母」。
毎年8月14日に、この教会で崇敬される「被昇天の聖母」の祝祭が行われる。
伝統的な儀式では、
•「被昇天の聖母」の聖像と
•「救世主(Salvatore)」の聖像
が、それぞれこの教会とサンタンドレア使徒大聖堂から出発し、2つの行列が街の中ほどで合流する。
「インキナータ(Inchinata)」と呼ばれる荘厳な巡礼行進である。
インキナータとはお辞儀という意味で、街の中ほどで出会った行列は、互いに「お辞儀(インキナータ)」をする。
祭りのクライマックスは、教会前の広場サンタ・マリア・デッラ・ヴァッレ広場で迎える。
それぞれの行列を担ぐ12人(使徒の数を象徴する)の男たちが、像を支える2台の山車を向かい合わせ、三度「お辞儀」を交わす。
その瞬間、信者たちが「慈悲(Misericordia)!」と叫び続け、教会の鐘が祝祭の音を響かせる。
ボルジア城の城壁からは、打ち上げられる爆竹の音が響く。
中世初期に遡る祝祭で、ローマの華麗な異教徒の行列を模した、テオフォリエ(teoforie 神の像の運搬という意味)のひとつであった。
かつてスビアーコのライヴァル都市であったティボリでも、この祭りが行われている。
ティボリでは、唯一の行列が救世主のイコンとともにドゥオーモを出発し、サンタ・マリア・マッジョーレ教会前のトレント広場へ向かう。
また、ティボリではこの儀式が8月15日の朝にも繰り返される。
サン・ピエトロ教会(Chiesa di San Pietro)

ボルジア城塞のふもとに立つ教会。城塞へ登って行く途中にある。しかしルートによっては通らない!(むしろ通ると遠回りかも。)
城塞からの下りに、サンタ・マリア・デッラ・ヴァッレ教会から、ミラッツォ通り(Via Milazzo)を下って行くのがわかりやすいかも。
狭く曲がりくねった階段と小道のあいだにある、小さな教会。雰囲気のあるすごく良い場所にある。
第二次世界大戦の爆撃により破壊された教会の地下部分の上に、再建された教会。
奇跡的に戦禍を免れた鐘楼は、12世紀に遡るロマネスク様式。
鐘は現役で、スビアーコに鳴り響いている。
作られた時代に800年も差があるのに、全く感じさせない調和のとれた外観をしている。すごい。
サンタンドレア使徒大聖堂(Basilica di Sant’Andrea Apostolo)
街のふもと、アニエーネ川そばの丘の上に建つ教会。ボルジア城塞から見下ろした時、最も目立つ大きな建物。
向かい側(北側)には市役所がある。
11世紀に遡る古い教会サン・アッボンディオ(Chiesa di Sant’Abbondio)があったところに、教皇ピウス6世の命によって1776年から1789年にかけて建設された。ファサードは1791年から1795年にかけて完成されたもの。
両わきにある双子の鐘楼が特徴的。
第二次世界大戦中に教会の一部が破壊されたが、建築家フロレスターノ・ディ・ファウスト(Florestano di Fausto)の設計・監督のもとで復興された。
1952年、修復完了後にピウス12世により小バシリカに指定された。
内部はネオクラシック様式のラテン十字形。
左側の2番目の祭壇には、旧教会に置かれていた16世紀の貴重な「救世主」の絵画がある。
ピエトラ・スプレカータ小広場(Piazzetta Pietra Sprecata)
トルケマダ邸(Palazzo Torquemada)

広場…?と言っていいのか?3つの小道の合流点(つまり三叉路)なので、少し広くなっている小道。
カルデッリーノ石(cardellino)で造られた素朴な石柱の上に、18世紀のフレスコ画「慈悲の聖母」が祀られた、庇つきの小さな祠(エディコラ edicola)が目印。
→
パレストロ通り(Via Palestro)の階段わきにある古い建物は、トルケマダ邸(Palazzo Torquemada)。
↓
1456年、教皇カリストゥス3世によって派遣された最初のコメンダタリオ(commendatario)、枢機卿ホアン・デ・トルケマダ(Joan de Torquemada)が居住していた。
彼の手によってスビアーコ最初の法規(Statuto di Subiaco)が制定された。
壁のフレスコ画(1階左奥のゴシック式アーチの部分)は、14世紀のもの。救世主(Salvatore)と聖ベネディクト(San Benedetto)、聖フランチェスコ(San Francesco)。
中世の職人街(Borgo Medievale degli Opifici)
「Opifici」とはラテン語由来の言葉で、「工房」「作業場」の意味。
アニエーネ川の右岸に位置する、スビアーコ最古の地区のひとつ。 最初の記録は937年8月にまで遡る。
川の流れを利用した工業や製造業が発展し、街の経済において重要な役割を果たしていた。
1587年、教皇シクストゥス5世がスビアーコ製紙工場(Cartiera di Subiaco)を創設する。
これは、教皇庁領における唯一の製紙工場だった。
職人街は防御施設としての役割も担っていて、建物の外側は高く作られ防御壁となっている。
壁に沿って作れれている門(フェラーリ門(Arco Ferrari)、マンチーニ門(Arco Mancini)、聖セバスティアーノ門(Arco San Sebastiano)、ピアッジ門(Arco delle Piagge)) は、有事の際には閉じられ、街を封鎖することができた。
(マンチーニ門のみ、通りの名前になって残っている。)
現在は、
サンタンドレア聖堂や市庁舎のあるサンタンドレア広場(Piazza Sant’Andrea)から、
ベネデット・トッツィ広場(Piazza Benedetto Tozzi)までの一帯で、
アーチや階段、石造りの家々、古い工房が連なっている。
十字架の聖母教会(Chiesa della Madonna della Croce)

11世紀末(1095年頃)に建設された教会。
上記のサンタ・マリア・デッラ・ヴァッレ教会やサン・ピエトロ教会、サンタンドレア使徒大聖堂は、チェーザレの時代にはなかったが、この教会は存在していた。
が、現在は教会として利用されておらず、閉鎖されているよう。
1492年から1507年までスビアーコのコメンダタリオを務めたジョヴァンニ・コロンナ(Giovanni Colonna)の統治下で拡張されたので、その紋章が現在も入口上部に刻まれている。
(コロンナ家は、1492年のコンクラーヴェ後、支持に対する返礼としてアレクサンデル6世からスビアーコを譲渡された。)
石造りの壁面と漆喰仕上げのファサードを持ち、ロバーテ(lobate)型の小窓が設けられている。
シンプルで素朴な、異なる時代に建設された2つの部分から成る。
最も古い部分には唯一の祭壇があり、その上部の小さな壁龕(ニッチ)には14世紀のフレスコ画が描かれている。
内部には、15世紀から16世紀にかけて制作されたフレスコ画が豊富に残されている。
ほぼすべてが無名のウンブリア・ローマ派の画家によって描かれた。
より古い壁画が聖具室(サクリスティア)の壁を飾っている。
サン・フランチェスコ修道院(Convento di San Francesco)
1223年、後の教皇グレゴリウス9世となる枢機卿ウゴリーノとともに、スビアーコを訪れたアッシジのフランチェスコを記念して、1327年に建てられた修道院と教会。ロマネスク・ゴシック様式。
当時フランチェスコはまだ聖人ではなかったが、すでによく知られた人物だった。
スビアーコは、聖ベネディクト修道会の発祥の地として名高いので、フランチェスコ修道会の修道院があるのは意外!

中央の三連祭壇画は木製で、アントニアッツォ・ロマーノによるもの。1467年10月2日に完成した。
左端の側廊にある第三礼拝堂には、ソドマ(ジョヴァンニ・アントニオ・バッツィ)(Il Sodoma)による聖母マリアの生涯を描いたフレスコ画があり、
ピントゥリッキオの「キリスト降誕」が飾られている。
→
キリストを地面に直置きせずに、マリアの衣装を敷物にしてるのかわいい。
(2012年、美術史家ダニエーレ・ラディーニ・テデスキ(Daniele Radini Tedeschi)が、ピントゥリッキオ作とされていたこの絵画は、イル・ソドマの作品であると発表している。
が、現地のガイドブックは現在もピントリッキオ作としている。)
その反対側の壁にある第三祭壇には、セバスティアーノ・デル・ピオンボ(Sebastiano del Piombo)によるとされる「聖フランチェスコの聖痕を受ける姿」が描かれている。
ジュリオ・ロマーノ(Giulio Romano)による「聖母の婚礼(Lo Sposalizio della Vergine)」もある。
教会を出ると左手にある回廊は回廊は18世紀に建てられ、1893年に改修されたもの。だが、もともとのロマネスク建築の特徴を保持している。
回廊の一角には井戸があり、その中央にはネロ帝の別荘に由来する大理石の円柱が立っている。
サンタ・スコラスティカ修道院(Monastero di Santa Scolastica)
聖ベネディクトゥスが創設した13の修道院のうち、現存するのはサンタ・スコラスティカ修道院(当初は聖シルヴェストロに献堂)のみである。この修道院は、ベネディクト会スブリアーコ修道会の「最初の共同修道院(Protocenobio)」の称号を持つ。他の修道院は破壊されるか、放棄されることとなった。
9世紀、サンタ・スコラスティカ修道院は二度にわたってサラセン人による破壊を受けた。一度目は828年から829年、二度目は876年から877年頃とされるが、この時期の歴史的な再構成には異論がある。
サン・ベネデット修道院(Monastero di San Benedetto)
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