チェーザレ・ボルジアについて、とりとめのないけれど愛に満ちた探究心を発揮するサイトです。

ボローニャBologna

ボローニャ Bologna

ボローニャ駅.jpg

鉄道で、ミラノから約1時間20分〜1時間50分。
フィレンツェから約1時間。
ローマから約2時間半。
いずれもボローニャ中央駅に到着。
日本からの直行便はないが、ボローニャ空港もある。

チェーザレの父ロドリーゴは、1455年から1年ほど、ボローニャ大学へ通い、法学を学んでいる。
優秀で、秀才の誉れ高かったようだが、色恋沙汰に関しても、際立った才を示していた。

ダンテ・アリギエーリも、1285年から2年間、ここで弁論術や哲学、天文学を学んだ。

※写真にマウスを置くと、多少の説明が出ます。


ウーゴ・バッシ通り(Via Ugo Bassi)、リッツォーリ通り(Via Rizzoli)

写真はウーゴ・バッシ通り。途中から名前が変わっていくのです。

古代ローマ帝国時代に敷かれた幹線道路、エミーリア街道の一部。
チェーザレは、ミラノからこの街道を南下して、イモラ、フォルリへ入る。
その後も、ファエンツァ、チェゼーナ、リミニ、ペーザロと、この街道沿いの街を進撃して行く。

まあ、でも今は何てことない普通の道路。




ポデスタ館とエンツォ宮殿(Palazzo del Podesta e Palazzo di Enzo)

現在は1階に観光案内所やカフェが入っています。

塔のある右側部分がポデスタ館。左側がエンツォ宮殿。

ポデスタ館は、1151年に建築。神聖ローマ帝国皇帝が派遣した、行政長官の官邸だったところ。(ポデスタというのは「行政長官」という意味。)

1164年、自治都市としての独立を願うボローニャの人々は、皇帝フリードリヒ1世の任命した長官を追い出し、自分たちで首長(カピターノ)を選出する。

しかし神聖ローマ帝国はボローニャ支配をあきらめず、1249年、フリードリヒ2世は軍を率いて進攻する。


ボローニャはこの戦いに、フォッサルタで勝利、皇帝の庶子でサルデーニャ王を称したエンツォを捕虜とする。
エンツォがその死まで、23年間、幽閉されたのがエンツォ宮殿。

ポデスタ館正面。(サン・ペトロニオ教会から。) エンツォ宮殿中庭から見上げたアングル。

神聖ローマ帝国皇帝に対抗して自治を獲得し、強力な教皇派であったボローニャの、歴史を物語る建物である。




マッジョーレ広場(Piazza Maggiore)

暖かい季節には、カフェの席がたくさん出ています。

ボローニャの見所が集中している、大きな広場。

13世紀からすでに街の中心であり、15世紀には周囲の建物は全て存在していたので、ボローニャ大学在籍時のロドリーゴは、この広場の風景を見ていたはず!

ボローニャ大学にも、ピサ大学のような「学生団」が存在し、学生たちは広場に集まって、討論会を行ったり、団同士の小競り合いを起こしたりしていたらしい。
ロドリーゴもチェーザレやミゲルのような学生生活を、ここで過ごしていたのかと思うと、とても楽しい。

サン・ペトロニオ教会と市庁舎と広場.jpg

← 奥に見えるのは、左からサン・ペトロニオ教会、パラッツォ・デイ・ノタイ(公証人宮殿(公証人組合の本部)、市庁舎。

手前の階段は教会の。










サン・ペトロニオ教会の方から。 →
左の建物が市庁舎、右がポデスタ館。




サン・ペトロニオ教会(Basilica di San Petronio)

中央入り口周辺の彫刻は、初期ルネッサンスの傑作、だそう。 斜塔アシネッリから見たサン・ペトロニオ教会。
ボローニャの守護聖人、聖ペトロニオを祀った教会。
1390年から1659年にかけて建築されたが、未完のまま現在に至っている。

1506年11月、教皇代理であったベンティヴォーリオを放逐し、ボローニャに入場した教皇ユリウス2世(ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ)はこの教会でミサを司祭した。
また、1515年12月、ミラノに侵攻したフランス王フランソワ1世との協定のためにボローニャ入りしたレオ10世(ジョヴァンニ・デ・メディチ)も、ここでミサを司祭している。






市庁舎(Palazzo d'Accursio o Comunale)

マッジョーレ広場から見た市庁舎。 中庭。
2008年まで市庁舎であった建物。
現在は、独特な画風を持つ20世紀の画家ジョルジョ・モランディの美術館(Museo Morandi)と市立美術館(Collezioni Comunali d'Arte)として使われている。
正面に飾られるのは、ボローニャ出身の教皇グレゴリウス13世。

もともとはボローニャ大学の法学者、フランチェスコ・アックルスィオの住居であった。ゆえにアックルスィオ宮殿とも呼ばれる。
1336年に行政長官と裁判官の住まいとなる。
15世紀に時計塔が作られ、16世紀にはベンティヴォーリオ家によって改修されている。

1515年、フランス国王フランソワ1世がミラノに侵攻、教皇レオ10世(ジョヴァンニ・デ・メディチ)は和平を申し入れる。
この時、ボローニャにて開かれた会談の舞台となったのが、この市庁舎。
レオ10世は、側近のピエトロ・ベンボやパオロ・ジョーヴィオだけでなく、レオナルド・ダ・ヴィンチを伴いボローニャへ赴く。
3階にある「ファルネーゼの間(Sala Farnese la Cappella del Legato)」で行われた調印式で、ダ・ヴィンチは「歩く金の獅子の彫像」でフランソワ1世を魅了し、交渉を友好的なものへと導いた。

1530年、教皇クレメンス7世によって、カール5世の戴冠式が行われたのも、同じ「ファルネーゼの間(Sala Farnese la Cappella del Legato)」。






アルキジンナジオ (Palazzo della Archiginnasio)

1803年までのボローニャ大学 中庭の開廊。

旧ボローニャ大学。
ボローニャ大学は、誰かが設立したものではなく、自然に学生が集まり、少しずつ組織化されていったもので、キャンパスは街全体に点在していた。
それを統合するために、16世紀に入って建設された大学本部が、ここ。アルキナンジオ(Archiginnasio)とは大学という意味。特にボローニャ大学とローマ大学を指して言う言葉。
現大学は、また別の場所に移されており、今は市立図書館として、利用されている。

世界初の人体解剖が行われた場所でもある。


2階の廊下。 牛の紋章の集まったところ。他にも点在してます。

ロドリーゴの時代には、まだ存在していなかったが、ここに学んだ学生や教授たちの紋章が、壁と天井を埋めつくしていて、とても興味深い。
ボルジアの紋は見つけられなかったが、赤い雄牛の紋は、いくつかあった。




ボローニャの斜塔(Torri Pendenti)

アシネッリとガリゼンダ。
手前がガリゼンダ。

高い方がアシネッリの塔(Torre degli Asinelli)、
わずかに傾いている。
短い方がガリゼンダの塔(Torre Garisenda)、
かなり傾いている。
ともに12世紀のもの。

中世ボローニャの皇帝派と教皇派は、「どちらがどれだけ高い塔を作るか」ということを争った。ダンテが遊学していた頃のボローニャには、200近い塔が存在しており、彼を驚かせたと言う。
現在残っているのは23本。




聖ステファーノ教会 (Basilica di Santo Stefano)

「Sette Chiese 7つの教会」とも呼ばれます。 聖十字架教会礼拝堂。
同名の広場に立つ教会郡。
外観からはわかりにくいが、「七つの教会(Sette Chiese)」とも呼ばれるように、七つの建物が連なっている。
建設は同時期でなく、古くは5世紀にまでさかのぼり、新しいものは13世紀。19世紀の改修でつけ加えられた部分もある。

ピラトの中庭。 中庭から見上げた鐘楼。

教会の建設前、80年頃には異教の神イシスが祀られていたという、神聖な場所。
古くて薄暗く、雰囲気のある内部は、ローマ様式、ビザンティン様式、ランゴバルド様式が入り混じり、独特な空間を作り出している。

トリニタ教会内部。 開廊。

特にチェーザレ周辺とは関係ないけど、ロドリーゴのボローニャ滞在時代には存在していた、ということで。
古くて素朴で、気もちのいいところだし。




その他

  • Feltrinelli フェルトリネッリ
    ボローニャの斜塔のあるポルタ・ラヴェニャーナ広場(Piazza di porta ravegnana)にある本屋。
    惣領版「チェーザレ」が置いてありました。







a:5686 t:1 y:0


powered by Quick Homepage Maker 4.74
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional