チェーザレ・ボルジアについて、とりとめのないけれど愛に満ちた探究心を発揮するサイトです。

ソリアーノ

ソリアーノ Soriano

ソリアーノ・ネル・チミーノ駅

正式名称はソリアーノ・ネル・チミーノ(Soriano nel Cimino)。
日本語ではサリアーノとも表記されがち。


ソリアーノ・ネル・チミーノ駅は、
ローマ北線(Roma Nord)(正式名称はローマ=チヴィタ・カステラーナ=ヴィテルボ線 Ferrovia Roma-Civita Castellana-Viterbo)
の、終点ヴィテルボ駅の5つ手前にある。

ので、ローマから行く場合、
1.ローマ北線の始発、フラミニオ駅(Framinio)から直通で約2時間半。
ただ直通は本数が少ないので、モンテベッロ(Montebello)やカタラーノ(Catalano)などで、乗り継いで行く必要があるかも。すると3時間以上かかる。
この路線の途中駅にチヴィタ・カステラーナ駅もある。

2.トレニタリアのテルミニ駅から約3時間半。
ヴィテルボ・ポルタ・ロマーナ駅(Viterbo Porta Romana)か、
ヴィテルボ・ポルタ・フィオレンティーナ駅(Viterbo Porta Fiorentina)で、
ローマ北線に乗り換え。
乗り換え駅のヴィテルボ駅(Viterbo)まで少し歩く。

ローマ以外、例えばフィレンツェから行く場合、最寄りのハブ駅ヴィテルボやオルテ(Orte)などに直通がないので、細切れに乗り換えて行くしかなく、かなり行きづらいと思う。

しかし少し大きい街ヴィテルボに近いからか、近郊のネピやチヴィタ・カステラーナとは違って観光に力を入れてあるようで、見どころも多いし観光客向けの地図やガイドも充実している。



ラツィオ州の北部、チミーノ山の麓にある街。中世、ローマ人によって破壊されたエトルリアの街スリーナ・ヴェトゥスの跡地に建てられたと考えている。

13世紀、ソリアーノの西15キロほどにあるヴィテルボがローマ教皇の住居となったことで、重要性が増した。
1278年、オルシーニ家出身の教皇ニコラウス3 世の横暴により、オルシーニの所領となる。(この所業によりニコラウス3世はダンテ「神曲」の中で地獄に堕とされている。)

1441年、教皇エウゲニウス4世の下で教皇庁領となる。
彼に仕えていた枢機卿アロンソ・デ・ボルハ(後のカリストゥス3世)、続く枢機卿ロドリーゴ・ボルジア(後のアレクサンデル6世)によって、街は強化された。(ほぼボルジアの所領のようになっていた。)

1491年、チェーザレ、パンプローナ市議会への手紙。

1492年、ロドリーゴが教皇に選出された時、支持に対する返礼として、ソリアーノはジョヴァンニ・バッティスタ・オルシーニ枢機卿に贈与された。

1494年、ガンディア公ホアンの敗戦。

1503年、ミゲル・ダ・コレッラの対オルシーニ

1560年、トレント司教クリストフォーロ・マドルッツォ枢機卿によって買収される。

1579年、マルコ・シッティコ・アルテンプス枢機卿に買収された。


  • ソリアーノ・ネル・チミーノ駅 -
  • バス停 - チヴィタ・カステラーナからのバスはここに発着
  • オルシーニ城 -
  • キージ・アルバーニ宮殿 -
  • ドゥオーモ -
  • 古い噴水 -
  • 聖エウティツィオ教会 -
  • ミゼリコルディア教会 -
  • ロマーナ門 -
  • 塔の門 -
  • 古い門 -
  • -
  • 考古学博物館 -


オルシーニ城(Castello Orsini)

チミーニ山脈北端の岩丘にそびえ立つ、頑強な城。
斜面を利用し螺旋状に作られた街は侵入が難しく(上から丸見えなのですぐ攻撃される。道幅がないので、大砲を使える場所もない。)、また城は岩壁を基礎にして建てられているので、地面を掘削し地下から城壁を崩す攻城法も使えない。

枢機卿時代のロドリーゴ・ボルジアがかなり増改築しているので、ボルジア城と呼んでもいいのでは!?と思うくらいボルジア家の紋章が残っている。

ソリアーノ・ネル・チミーノ、オルシーニ城
写真は北西から。城の右半分はロドリーゴ・ボルジアが建てたところ。


13世紀、オルシーニ家出身の教皇ニコラウス3 世によって建てられた。
オルシーニ家は1354年まで城主であったが、1366年、城はソリアーノの街とともに教皇庁に譲渡された。

1484年、教皇インノケンティウス8世は教皇選での支持の返礼として、枢機卿ロドリーゴ・ボルジアにソリアーノを与える。
ロドリーゴは、古い城壁に沿って、街の中心地の広場に面した台形の要塞を建築した。(下の見取り図 ❶)
また、城代にディダコ・デ・カルヴァーハル(didaco de carvajal)を任命した。



1492年、教皇アレクサンデル6世となったロドリーゴは、教皇選での支持の返礼として、枢機卿ジョヴァンニ・バッティスタ・オルシーニソリアーノを与える。オルシーニは1世紀ぶりに城の所有者となる。

1497年、フランスに与したオルシーニ討伐のため、チェーザレの弟ガンディア公ホアン・ボルジアがソリアーノを攻撃する。痛烈な敗北を喫し、グイドバルド・ダ・モンテフェルトロを始めとする教皇庁軍の高官の多くが捕虜となる。

1503年、チェーザレはマジョーネ同盟残党の始末に乗じてオルシーニ家を攻撃、ソリアーノを奪取する。
しかしすぐに教皇アレクサンデル6世が崩御する。チェーザレはミゲルをソリアーノに送り、城と街を保持させた。



← 入口
ソリアーノ・ネル・チミーノ、オルシーニ城、入口 ソリアーノ・ネル・チミーノ、オルシーニ城、門
→ 前庭の前の門(❷)。以前は両端に衛兵のための部屋があった。右上に聖母子像。

ソリアーノ・ネル・チミーノ、オルシーニ城

← ❸の階段から見上げたところ。
主塔(Torre del Mastio)(❹)と❺への入口が見える。
塔はL字型だが、もともとは2つに分かれていた。東の壁には、枢機卿ロドリーゴ・ボルジアの紋章がある。(位置的に見ることは難しい。)

階段を上り直進すると、塔への階段と刑務所跡
1504年、ミゲル・ダ・コレッラはソリアーノに移されたという説があるので、もしかしたらここに収監されていたかも!

入口アーチ上部に見えるのはアルテンプス家(Altemps)の紋章。

左折すると、中庭と❺へ続く。
入口上部に見えるのはアルバーニ家(Albani)の紋章。

ソリアーノ・ネル・チミーノ、オルシーニ城

→ ❺の部屋。ロドリーゴ・ボルジアが建築した建物(❶)の1階にある。
交差するヴォールトの中心にはボルジア家の紋章。

この部屋の出入口の上部にもボルジアの紋章がある。(ボロボロになっていて、よくわからない。でもボルジア紋らしい。)


↓ ⚫︎は壁にボルジア家紋章があるところ。紫色のドットは教皇カリストゥス3世の紋章。それ以外は枢機卿ロドリーゴ・ボルジアの紋章。

ソリアーノ・ネル・チミーノ、オルシーニ城、見取り図



← ❶の部屋のひとつ。(1階の部屋は❺以外に4つある。)(上階は公開されていない。)
天井にロドリーゴ・ボルジアの紋章。鮮やかな色に塗り替えられている。しかしなぜ黄色と白に塗ったのか謎。
ソリアーノ・ネル・チミーノ、オルシーニ城、ロドリーゴ・ボルジアの紋章 ソリアーノ・ネル・チミーノ、オルシーニ城

ソリアーノ・ネル・チミーノ、オルシーニ城

→ 中庭から❻を見上げたところ。

← ❻の斜線部分。
室内ポルティコになっている。



裏庭や北側の塔、北側の部屋、一段下にある建物群(❼)は公開されていない。
❼は使用人の部屋として使われていたところ。



1838年に描かれたオルシーニ城。西から。
ソリアーノ・ネル・チミーノ、1838年に描かれたオルシーニ城


1505年、教皇ユリウス2世の下で、街と城はデッラ・ローヴェレ家の所有になる。
1558年、教皇パウルス4世の甥であるジョヴァンニ・カラーファ(Giovanni Carafa)に売却される。
その後マドゥルッツォ家(Madruzzo)、アルテンプス家(Altemps)、アルバーニ家(Albani)、キージ家(Chigi)の所有を経て、1848年、教皇庁に無料譲渡(と言うか返還?)される。


ソリアーノ・ネル・チミーノ、オルシーニ城、刑務所跡

1850年頃から刑務所として利用され、
1871年イタリア統一が完成すると、「身体的・精神的障害者のための刑務所」となり、
1950年頃には「通常刑務所」として、さまざまな種類の囚人を収容し、終身刑の囚人も受け入れる。

1989年、刑務所閉鎖。しかし今も建物の内部に刑務所特有の特徴が色濃く残っている。

現在は市の所有となり、多様な芸術作品の展示会場、イベント会場として利用されている。


  • 開館時間
    金土日
    10:00 - 19:00
    入場は閉館30分前まで
    (頻繁に変動しているようなので、公式サイトで確認した方が良いです。)






キージ・アルバーニ宮(Palazzo Chigi Albanim)

ソリアーノ・ネル・チミーノ、キージ・アルバーニ宮殿

1560年、教皇パウルス3世は枢機卿クリストフォーロ・マドゥルッツォ(Cristoforo Madruzzo)に、トレント公会議開催の褒賞として、ソリアーノの地を与えた。
マドゥルッツォは、1564年から1572年にかけて、パパックアの噴水(Fonte di Papacqua)を含む手前の宮殿と奥の宮殿の1階部分を建築した。


→ 門を入ってすぐのところ。

ここから見える宮殿は質素でこぢんまりしている。
最初に建築されたので、当初は貴族の住居だったが、宮殿の完成後には、使用人の住居や厩舎になる予定だった。

つきあたりを左折したところに、パパックアの噴水がある。

ソリアーノ・ネル・チミーノ、キージ・アルバーニ宮殿

← 2つの建物をつなぐ中庭部分。
上の写真(使用人の住居や厩舎になる予定だった建物)の上階から見たところ。

奥に見えるのがパパックアの噴水。
ソリアーノ・ネル・チミーノ、キージ・アルバーニ宮殿
建築当時、そこにあった石に彫刻されているらしい。
さすが岩丘の街!
中央の女性は「ラ・マモッチャ(la mammoccia)」と呼ばれ(巨乳、みたいな意味らしい)、ヤギの脚を持っていて、肩に半人半獣の精霊サテュロスを乗せている。



1562年、フォルトゥナート・マドルッツォ(Fortunato Madruzzo)とマルゲリータ・アルテンプス(Margherita Altemps)の結婚後、宮殿はアルテンプス家の手に渡る。

ソリアーノ・ネル・チミーノ、キージ・アルバーニ宮殿

1715年、ロベルト・アルテンプス(Roberto Altemps)はソリアーノアルバーニ家(Albani)に売却する。
教皇クレメンス11世の甥であるアンニバーレ、カルロ、アレッサンドロ(Annibale、Carlo、Alessandro)のアルバーニの3兄弟は、奥の宮殿の2階部分を建築し、屋上庭園を造成した。

← その宮殿の2階部分。
ファサードに見える星と山は、アルバーニ家の紋章。
(この紋章はオルシーニ城の❺への入口扉上部などにも見られる。)

↓ その屋上から見たオルシーニ城、サン・テウティツィオ教会、ドゥオーモ。
ソリアーノ・ネル・チミーノ、キージ・アルバーニ宮殿

1852年、フィリッポ・ジャコモ・アルバーニ(Filippo Giacomo Albani)の死に伴い、宮殿はアルバーニ家の子孫であるアゴスティーノ・キージ(Agostino Chigi)に継承される。

1917年、ルドヴィーコ・キージにより、大体的に修復される。

2004年、ヴィテルボ県とソリアーノ・ネル・チミーノ市によって購入される。
現在は絵画館、展示会場として公開されている。

ソリアーノ・ネル・チミーノ、キージ・アルバーニ宮殿

← 奥の宮殿のさらに奥にある中庭。

  • 開館時間
    金土日
    10:00 - 13:00 / 15:00 - 18:00
    入場は閉館の30分前まで
    (頻繁に変動しているようなので、公式サイトで確認した方が良いです。)






大聖堂(Duomo)(Chiesa di San Nicola di Bari)

ソリアーノ・ネル・チミーノ、ドゥオーモ

街の中心の広場、ヴィットリオ・エマニュエーレ2世広場(Piazza Vittorio Emanuele II)にある教会。
1782年から1791年にかけて 、手狭になっていた2つの古い教会(アンヌンツィアータ教会(Annunziata)とエウティツィオ教会(Eutizio))を、統合して建てられた。

バーリの聖ニコラス(ソリアーノの守護聖人)に捧げられた教会。
ファサードと2つの鐘楼は、すべて煉瓦で造られている。
外観は新古典主義だが、内部には後期ゴシック様式の聖アンソニー修道院長像と、ルネサンス様式の洗礼盤がある。

写真の、教会前に設置されているスタンドは10月の栗祭りのためのもの。この教会前の広場で、さまざまなイヴェントが行われる。

ソリアーノ・ネル・チミーノ、ドゥオーモ

キージ・アルバーニ宮殿の入口前から見たドゥオーモの裏側。

裏手から見るとすごく大きく見えるのは、表側との間に高低差が20メートルもあるから。
高低差を埋めるために、巨大な基礎壁が作られている。






古い噴水(Fontana Vecchia)

ソリアーノ・ネル・チミーノ、フォンターナ・ヴェッキア

城壁内の噴水(fontana di dentro)、丸い噴水(Fontana tonda)とも呼ばれている。

15世紀、ソリアーノの人々に水を供給するため、教皇ニコラウス5世(1447 - 1455)によって作られた給水所の記念碑。
名前に「城壁内」「古い」と付いているのは、もう1つ別の噴水が近くにあったことを表している、そう。

1837年に1度移動されたが、20世紀になってもともとあった場所に戻された。

チェーザレの時代には存在した噴水なので、彼らも利用したことがあったかも!






サン・エウティツィオ教会(Chiesa di Sant'Eutizio)

ソリアーノ・ネル・チミーノ、サン・エウティツィオ教会

古い噴水のすぐ後ろにある。
3世紀の殉教者、聖エウティツィオに捧げられた教会。中世の時代に建てられ、もともとはソリアーノの大聖堂だった。
何世紀にもわたって何度も改築されており、現在の外観は、1700年代にアルバーニ家が手がけたもの。 教会のファサードには、アルバーニ家の紋章が残されている。

内部は単一の身廊で、15世紀のアンドレア・ブレグノ(Andrea Bregno)作とされる大理石の油彩祭壇、セバスティアーノ・コンカ(Sebastiano Conca)作とされる聖母像などが有名。






ミゼリコルディア教会(Chiesa della Misericordia)

ソリアーノ・ネル・チミーノ、ミゼリコルディア教会

ソリアーノで最も古い教会。古すぎて正確な記録が存在していないらしい。
中世の壁の遺構がはっきりと残っている。 建物の右側の壁にはランセット窓が並んでいる。
(ランセット窓とは、上部に尖ったアーチを持つ縦長の窓のこと。光を多く取り入れるために縦に長い。フランス語の槍(ランス lance)から来ている。ゴシック建築の特徴。)

ルネサンス時代に大きく改修され、正面と側面に2つの出入口が追加された。(その1つが写真に見える。)
17世紀には内部の装飾がバロック様式に変更された。

主祭壇の両側、聖具室の入口上には2つのテンペラ画があり、
1つは十字の杖と旗を持つ教皇(おそらくオルシーニ家のニコラウス3世)を、
もう1つは司教のミトラをかぶり牧者の杖を持つ人物(おそらく聖アウグスティヌス)が描かれている。

オルシーニ家の教皇が描かれているということは、ルネサンス期に改修したのはボルジア家ではなくオルシーニ家かな。

側壁の両側にもそれぞれ祭壇があり、右側の祭壇には「慈悲の聖母」として知られている聖母子像が描かれ、教会の名前となっている。






古い門(Porta Vecchia)

16世紀初頭まで、ソリアーノの街はオルシーニ城を中心とした丘周辺だけの小規模なもので、城壁に囲まれていた。(その城壁は現在は失われている。)
城壁には4つの出入口が設けられていた。そのうち3つが残っている。

塔の門(Porta del Torrione)

ソリアーノ・ネル・チミーノ、ポルタ・デル・トッリオーネ

インノケンツォ8世通り(via Innocenzo VIII)とジャルディーノ通り(Via del Giardino)の重なるところにある北端の門。
円筒形の塔と、中世の住宅に繋げて作られている。横の大きな窓(写真のアーチ型の部分)からは街の外れが見渡せる。
古くて行き止まりっぽく見えるけど、狭い通路に繋がっている。


古い門(Porta Vecchia)

ソリアーノ・ネル・チミーノ、ポルタ・ヴェッキア

ルネサンス様式の門。「古い」とあるが、16世紀のものでそこまで古くはない。


橋(Ponte)

ソリアーノ・ネル・チミーノ、ポンテ

もともとは濠と跳ね橋を備えていた。
18世紀に修復、拡張され、19世紀に爆撃で破壊された。その後同じかたちで再建されている。

後ろに見えるのは19世紀に作られた時計塔(Torre dell’orologio)。
オルシーニ家の大きな紋章が飾られている。


ちなみに、現存していない門は「下の門(Porta di Sotto)」。
また、「避難扉(Porta Fuga)」と呼ばれる5つ目の小さな出入口があったとも言われている。が、はっきりはわかっていない。秘密の通路だったのかも?






ロマーナ門(Porta Romana)

ソリアーノ・ネル・チミーノ、ロマーナ門

1715年、ソリアーノを入手したローマ教皇クレメンス11世の甥カルロ・アルバーニは、1721年、ソリアーノ侯爵の称号を与えられる。
カルロ・アルバーニは他の有力貴族たちと同じように、自分の名前と紋章を冠した記念碑的な門を、街の入口の3箇所に建てた。
ロマーナ門は当時のまま残っている唯一の門。

ローマのピア門(Porta Pia)(テルミニ駅とボルゲーゼ公園の間にある門、ミケランジェロの設計)を模して作られた。しかし似ているのは中央部分だけ!

↓ ローマ、ピア門。
ローマ、ピア門
ローマのピア門は、当初のミケランジェロ設計からかなり外れたかたちで完成したようなので、もしかしたらこちらがもともとの案に近いかも!?






考古学博物館(Museo Archeologico dell'Agro Cimino)

チミーノ周辺の歴史博物館。3つのセクションに分けて展示されている。

  • 原始時代
    モンテ・チミーノ遺跡から出土した94点。
  • ローマ共和政・帝政時代
    紀元前2世紀から紀元後5世紀までのもの。
    聖エウティツィオ教会のカタコンベで、長年、収集・保管されていた多くの資料。
  • 中世
    ヴィテルボのラ・トスカーナ大学が、2015年から2019年にかけて発掘した聖ヴァレンタイン遺跡(sito di San Valentino)の資料。







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