ミゲルの落馬とチェーザレの抗議
ミゲルの落馬とチェーザレの抗議

1492年8月16日、例年通りシエナでパリオが開催される。
現在のパリオはシエナにある17の地区の対抗戦であるが、チェーザレの時代には代表馬は各国から集まっていた。(それはすなわち、重要な外交の場でもあった。)
チェーザレはこれに自らの馬を参加させる。
(チェーザレ本人が出場する予定だったようだが、当日にロドリーゴの教皇選出の知らせが届き、チェーザレは急ぎピサに戻りスポレートへ移動する準備をすることになった。)
当時の会場はカンポ広場ではなく、街道を走り大聖堂前にゴールする、というものであった。
ゴール前の大聖堂付近の道は細く入り組んでいる。
ボルジアの騎手は審判員の前をトップで通過したものの、ウィニングポスト(競走・競馬などで、勝敗を定める競走路終点の標柱)の手前で落馬してしまう。
はじめ、審判員はボルジア優勝との判定を出したものの、2着であったゴンザーガ家に抗議され、「ボルジアは騎手落馬のため失格」とした。
この判定を不服としたチェーザレは、2日後の8月18日、ヴィテルボ近くのカプラローラ(Caprarola)から意義申し立ての手紙を書いている。
(17歳のチェーザレがシエナ政府に向けて書いた手紙は、結びに
「我々はあなた方の高貴なる国と民にとっての喜びと名誉になることをせざるを得ません」
と書かれていて、すでに教皇を父に持つ自分の力を自覚している。)
新教皇の息子からの苦情に恐れをなしたのか、審判員はチェーザレの要求を受け入れ、判定を元どおり「ボルジア優勝、ゴンザーガ準優勝」とした。
塩野七生「チェーザレ・ボルジア あるいは優雅なる冷酷」で、チェーザレの代わりにパリオに参加した騎手はドン・ミケロットことミゲル・ダ・コレッラ。
ミゲルが騎乗していたということが、史実として記録にあるわけではないだろうけどでも、ミゲルでなかったとも断言できないよね!
ミゲル・・・実は落っこっちゃってたの!?
チェーザレの抗議が、彼の負けず嫌いと言うだけでなく、ミゲルへの配慮もあったかと思うと、ちょっと微笑ましい。
チェーザレとゴンザーガ家の因縁のパリオ
チェーザレとゴンザーガ家はパリオで因縁があるらしく、1501年にも上記のエピソードと同じようなことが起きている。
12月30日、ルクレツィアとアルフォンソ・デステの婚礼祝賀会の催しのひとつとして、サン・ピエトロ広場にてパリオが行われた。
教皇庁式武官ブルカルドいわく、
「大変遺憾な暴力的不正行為があった。
マントヴァ侯(ゴンザーガ)の馬が1着であったのに、騎手がレース中に投げ出されていたため失格とされたのだ。優勝は2番手のヴァレンティーノ公の馬となった。ヴァレンティーノ公は優勝賞金を受け取った。」
チェーザレ、自分の馬の時は騎手が落馬しても1着は1着と言い張ったくせに、他人の馬の時は失格って!悪い奴だよ。
でも1492年のできごとがなければ、今回の判定は公正だと思うけど。落馬は失格でしょうよ!
ブルカルドは悪く言い過ぎ。むしろ1492年の落馬したのに優勝!って方を責めて欲しい。
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