チェーザレ・ボルジアについて、とりとめのないけれど愛に満ちた探究心を発揮するサイトです。

ミゲル、イモラの城塞。

人物紹介-チェーザレの忠臣

チェーザレの忠臣




ミゲル・ダ・コレッラ(Miguel da Corella)

miguel da Corella

(ミケーレ・ダ・コレーリア Michele da Coreglia)
(ドン・ミケロット Don Michelotto)

(? - 1508年1月(2月の説も))
スペイン、ヴァレンシア生まれ。
コレッラ(Corella)という街は、スペインの北方ナヴァーラ州州都パンプローナの南トゥデラ(Tudela)の北西方向にある。
一族はそこの出身だとされている。

チェーザレの友人であり、最も信頼される側近。
最初はガンディア公に仕えていた、という説もある。(え~~)
これは1496年ホアンが教皇軍総司令官となった時、彼の軍に加わったと言われるので、そのことを指しているのではないか、と思う。

ピサ大学時代にチェーザレの学友であったとする説も根強いが、ミゲルの存在が正式に記録されているのは、1497年からである。

1492年

  • チェーザレとともにピサ大学で学ぶ。

1496年

  • シャルル8世のイタリア侵攻時、石弓兵と騎兵の一団を率いる。
  • ホアン・ボルジア、ガンディア公2世の軍に従軍。

1497年

  • アレクサンデル6世の命でモンテローネ・ドルヴィエートへ向かう軍に従軍。
    40の軽装騎兵を率いる。
    (同地は1491年からバンディーニによって占拠され、内戦が続いていた。1493年、アレクサンデルはバンディーニへ退去命令を出すが、聞き入れられていなかった。)

1498年

  • チェーザレが結婚のためフランスへ渡航した際、秘書や侍医に混じり多くの側近が随行したようなので、ミゲルも同行していたと思われる。

1499年

  • イモラ、フォルリ進撃においては、彼の存在の記述は見つけられない。

1500年

  • オルヴィエートで、教皇に対して陰謀を企てていたバルトロメオ・ダルヴィアーノの一味を投獄、処刑。
  • 8月18日火曜、チェーザレの命でルクレツィアの夫アルフォンソ・ダラゴーナを絞殺。
  • 10月、リミニ、ペーザロへ進撃するチェーザレに同行。400の歩兵を率いる。
  • 12月、ファエンツァ攻囲の指揮を任される。

1501年

  • 1月、ファエンツァへの奇襲をかける。が露見し撃退される。
  • 4月、チェーザレ軍の先鋭の500の兵を率いて、ファエンツァの城塞を開城させる。
  • 7月、50の騎兵とともにピサへ。
  • 9月、チェーザレとともにカプアへ。途中ピオンビーノへ行きこの地を降伏させる。
    ピオンビーノの総督に。翌年4月ごろまでこの地に留まる。

1502年

  • 6月、ファエンツァの若き領主だったアストール・マンフレディと弟のエヴァンジェリスタを殺害した、とされる。
  • 6月、傭兵制をとりやめ自らの軍を、と考えるチェーザレによって、市民から構成される軍が創設される。ミゲルはこの軍の総司令官に任命される。
  • 同月、ウルビーノへ進撃するチェーザレに同行。
  • 7月、カメリーノを攻略。領主であったジュリオ・チェーザレ・ヴァラーノ、彼の2人の息子アンニーバレ、ヴェナンツォを殺害する。
  • 10月マジョーネの反乱の際、ウーゴ・デ・モンカーダ、レミーロ・デ・ロルカとともにカルマッツォにおいて、オルシーニ、ヴィテロッツォの軍と衝突。負傷して撤退。最初はファノへ、次にペーザロへ。
  • 12月、レミーロ・デ・ロルカを拘引する。
  • 12月31日、反乱を起こした傭兵隊長ヴィテロッツォ・ヴィッテリとオルヴィエット・ダ・フェルモを、シニガリアで殺害する。

1503年

  • 1月、同じく反乱のメンバーであったパオロ・オルシーニとフランチェスコ・オルシーニをサルテアーノ(カステル・デッラ・ピエーヴェの近く)で処刑する。ロベルト・オルシーニはこれを免れる。(逃亡したのか、見逃されたのかは不明。)
  • 2月、チェーザレ軍に対して反逆の疑いがあるとして、ウーゴ・デ・モンカーダとともにカーリを攻囲。扇動者であった司教ガスパーレ・デッラ・ペルゴラ、ルイジ・ダ・モンテヴェッキオらを公衆の面前で縛り首にする。
  • 6000の騎兵・歩兵とともにチタ・デ・カステッロを、次にヴィテルボを占拠する。
  • チェーザレがヴィテルボに留まっている間、ムニャーノ、次いでヴィトルキアーノへ送られる。どちらの地も攻略する。
  • 3月、オルシーノの居城のひとつであるチェーリを攻囲。
  • 4月、ガスコーニュ兵が石弓で狙った、チェーザレ暗殺を阻止する。
  • 6月、アレクサンデルとスペイン王の秘密会談をフランス王に密告したとして、アレクサンデルの諜報員であったフランチェスコ・トローチを絞殺する。死体はトラステヴェレの塔にぶらさげられた。
  • 7月末、チェーザレ軍を離脱したいと願い出たストラディオットの隊長2人を殺害する。
  • 8月、ミゲルがペルージャにいる時にアレクサンデル6世、崩御。ミゲルは急いでローマへ戻る。

病床にあったチェーザレの代わりに、教皇庁の財産を略奪から守る。
彼はヴァティカンへ続く全てのドアを閉ざし、アレクサンデル6世の侍従であったジャコモ・カサノヴァの喉にナイフをつきつけて脅し、鍵をとりあげ、ボルジアの財産を確保する。
財産は現金で10万ドゥカート、銀と宝石をあわせて30万ドゥカートあった。

コンクラーヴェに臨む枢機卿団は、チェーザレにローマからの退去を要請しようとするが、ミゲルは兵を伴い会議に乱入。これをやめさせようとする。
剣を抜き、枢機卿たちを脅迫するが、フランチェスコ・レモリーネスの懇願で思いとどまる。(塩野七生「チェーザレ・ボルジア あるいは優雅なる冷酷」P271)

  • 9月、アレクサンデルの死に勢いづいたオルシーニ家、コロンナ家はローマへ進軍。ミゲルはチェーザレの弟ホフレとともにオルシーニをけん制、モンテ・ジョルダーノに火を放つ。
  • 9月2日、チェーザレ、ローマを離れネピへ。
  • 9月22日、新教皇にピウス3世。
  • 10月2日、チェーザレネピからローマへ戻る。
    この時ミゲルは、ソリアーノでオルシーニと戦っていた。

一時、コロンナを味方につけ、戦況は有利かのように見えたが、スペイン王がチェーザレを捨てる。
スペイン人たちはチェーザレの下で軍務につくことを禁じられ、チェーザレ軍はほとんど解体してしまう。
この時もミゲルはまだソリアーノにいた。

  • 10月15日、身の危険を感じたチェーザレはローマを脱出しようとする。しかしこの動きを察知したオルシーニに阻まれ、チェーザレはサンタンジェロ城へ逃げこむ。

塩野版「チェーザレ」では、この時ミゲルも一緒だったとされているが、彼はソリアーノにいた、というのが正しいよう。
ミゲルはこの後チェーザレに呼び戻され、すぐにローマへ向かう。
タッデオ・デッラ・ヴォルペも同時に呼び戻されている。

  • 10月18日、ピウス3世崩御。
  • 11月1日、新教皇にユリウス2世

新教皇ユリウス2世(ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ)は、チェーザレにロマーニャに進攻していたヴェネツィアとの戦いを許可する。
チェーザレは再起にかける。

  • 11月19日、ミゲルはタッデオ・デッラ・ヴォルペとともに陸路をとってロマーニャへ向かう。体力の回復の完璧ではないチェーザレは、オスティアからの海路を選んだ。
    ピサ近郊で合流する予定であったが、この時が2人の今生の別れとなる。
    あっさりと考えを変えたユリウス2世が、オスティアでチェーザレを逮捕する。
  • ミゲル率いる軍はペルージャまで行軍するも、バリオーニ、ヴィッテリ、シエナ軍に追尾され、フィレンツェ領に逃げ込むことを余儀なくされる。
    その際、軍は分散してしまい、騎兵400とわずかの歩兵にまで縮小してしまう。
  • 11月30日、ミゲル軍は、トスカーナ州のカスティリオーン・フィオレンティーノ(Castiglion Fiorentino)にてフィレンツェ軍と激突、敗戦を喫する。ミゲルもヴォルペもフィレンツェの捕虜となってしまう。
    ミゲルはユリウス2世の要請によって、フィレンツェからローマへ送られる。
    25~50の弓兵が彼を護送した。
    ユリウス2世はミゲルを逮捕したことで、「この10年間、神と人間に背いて行われたあらゆる残虐行為を明らかにできる」と喜んだ。
  • チェーザレはグイドバルド・モンテフェルトロを通じて、自分とミゲルたちの釈放を教皇に願い出る。しかし叶えられない。
    ミゲルもヴォルペもチェーザレを裏切るより、捕囚となることを選んだ。
  • 12月、ミゲルはカステル・サンタンジェロに投獄され、苛烈な拷問を受ける。しかし彼はチェーザレの不利となるような言葉は、何ひとつ口にしなかった。
  • 1504年1月、カステル・サンタンジェロから一時ソリアーノ・ネル・チミーノ(ローマの北方、ヴィテルボの近く)の城塞へ移される。
  • 5月、再びローマへ。トッレ・ディ・ノーナ(Tor di Nona、Torre dell'Annonaとも。 ローマ、サンタンジェロの近く。今はもうない。)に収監される。

1504年

  • 5月、ローマで、裁判を受ける。
    ガンディア公ホアン・ボルジア、アストール・マンフレディ、アルフォンソ・ダラゴーナ、ベルネルディーノ・ガエターニ・セルモネータ、、カーリの司教、ヴァラーノ一家、などの多くの殺人を問われる。

この裁判の結果がどのようなものであったのかは、記録がなく明らかでない。
しかしこの時もミゲルは、強硬な教皇の申し立てに対し、沈黙を貫いたとされる。
1506年春まで彼についての記録がないことから、おそらく実刑判決が下された。

1506年

  • 4月1日、釈放される。これはフィレンツェ市民軍の隊長となることが前提とされており、マキァヴェッリによって推薦された。

ミゲルはまず農村部の警吏(フィレンツェの属領、保護領の警備隊長)として雇用される。

  • 6月、100の歩兵隊を率い、暴動鎮圧のためピサへ向う。
    若いフィレンツェ人兵士で構成されている軍を、ミゲルは巧みに指揮した。彼はこの時、水を得た魚のように活力に溢れていたらしい。
  • 12月6日、市民軍を管理運営する「市民軍の9人(Nove della Milizia)」が設立される。
    マキァヴェッリがその書記官に就任する。

1507年

  • 2月27日、フィレンツェ軍歩兵隊指揮官として正式に任命され、軍の組織、指導を行う。
    この軍は、ロマーニャで、チェーザレが組織しようとしたものと同様、市井の人々から成る市民軍であった。

これに対し、フィレンツェの多くの人々は否定的であった。
彼らは、かつてフィレンツェ領を2度も侵犯した悪名高いヴァレンティーノ公の、腹心中の腹心であった人物に、フィレンツェの防備を任せることに難色を示した。
しかしミゲルは軍をよく統制し、軍人としての能力の高さを発揮した。

  • 5月、カゼンティーノとムジェッロへ赴き、暴動を鎮圧。
  • 6月、ディコマーノの盗賊25人を捕獲。
  • 8月、ロマーニャで給与支払いを原因としたトラブルが生じる。
    しかし直属の上司にあたるマキァヴェッリに宛てたミゲルの手紙には、このことに対する訴えは何も見られない。
  • 10月、フィレンツェ軍歩兵隊指揮官を解任される。
    はっきりした原因はわかっていない。
    ミゲルと共和国政府は折り合いが悪かったので、些細なことが原因となったのかもしれない。
    最初からミゲルの就任を快く思っていなかったフィレンツェの貴族階級が、従卒の略奪行為などを理由にして、政府に解任を迫ったとも言われる。

1508年

  • 1月(もしくは2月)、ミラノにて、ショーモン伯シャルル・ダンボワーズ邸から出てきたところを、スペイン人によって殺害される。犯人は不明。
    彼がダンボワーズを訪問したのは、傭兵隊長としてフランス軍に従軍するためであっただろう。チェーザレの片腕として名を馳せた優秀な軍人である彼を、フランスにつかせることを否としたスペインの差し金であったと思われる。


フィレンツェ市民軍指揮官を解任後の彼の消息は不明、とされていることが多いが、1508年に殺害されていることが明らかとなっている。
(トレッカーニ社(Treccani)の人名事典「Dizionario Biografico」に、はっきりと記されている。)
塩野七生やサラ・ブラッドフォードが、著作中で「その後逐電」と記述しているので、そのように流布したのではないかと思われる。

ミゲルについての書かれているものはほとんどなく、特にその前半世がどのようなものであったのか、ほとんどわかっていない。人物像も「残虐」な「絞殺者」という側面のみが拡大されているだけである。
が、心からチェーザレに尽くし、どんな状況に陥っても最後まで裏切ることがなかったのは事実。泣ける。
チェーザレの方も、あれだけ人を利用し、欺き、裏切りのかぎりをつくしたのに、この人にだけは全幅の信頼をおいていたように見える。

冷静沈着な暗殺者として描かれることが多い。険相でがさつな、ごっつい大男として描かれることも多い・・・・・・。




タッデオ・デッラ・ヴォルペ(Taddeo della Volpe)

(1474年 - 1534年)
イモラ生まれ。
1495年、対ピサの戦いに、フィレンツェ軍の歩兵隊として従軍。
1500年、チェーザレのファエンツァ攻略時から、チェーザレ軍に加わる。
1501年、矢によって片目を損傷。
1503年、ナポリ奪還のためのルイ12世への援軍として、フランス軍に合流。
しかし10月15日、身の危険を感じてカステル・サンタンジェロへ退避したチェーザレに呼び戻され、ローマへ。
同年、ミゲル・ダ・コレッラとともにフィレンツェ軍に捕らえられる。
彼もミゲルと同様、チェーザレを裏切りフィレンツェ軍につくことよりも、捕虜となることを選ぶ。しかし彼は年内には釈放され、すぐにフランス軍に従軍、1507年には、ユリウス2世の下で、教皇軍に従軍している。
その後はヴェネツィアの傭兵隊長として活躍、対カンブレー同盟や対フランスなどと戦っている。
ヴェネツィアで死去。享年60歳。サンタ・マリア教会に埋葬された。

イモラには彼の生家が残っている。
そこにはヴォルペが、「Sacro Monte」という名の美術史協会の後援者であった、ということが記されている。
彼もルネサンス時代にふさわしい、文武両道の人であったと思われる。




ディオニージ・ディ・ナルド(Dionigi di Giacomo di Naldo)

(ディオニージオ・ディ・ナルド Dionisio di Naldo)(Naldiと表記されることもある。)
(1465年~1510年)
ファエンツァ近くのブリジゲッラ出身。現在もブリジゲッラには彼の生家が残っている。
ナルディ(Nardi)家はその地方では実力者の家だったよう。
1488年頃から、フィレンツェで傭兵として勤め、忠実で勇敢な兵士として名を上げる。
1499年初頭からフォルリオ女城主カテリーナ・スフォルツァに仕える。
同年のチェーザレのイモラ進撃の際、城塞を守って防戦するがあえなく降伏。チェーザレの配下に入る。
1500年、チェーザレのファエンツァ進撃の際、チェーザレ軍に従軍。
(同じく傭兵であった従兄弟のヴィンチェンツォ(Vincenzo)も、ともに従軍している。)
1501年、ピオンビーノ攻略に従軍。
1502年、ウルビーノ進攻に従軍。
同年、イモラで徴兵された市民軍を、ミゲル・ダ・コレッラとともに訓練したりもしている。
同年マジョーネの反乱の際、歩兵600を従えてリミニとチェゼーナを守る。
彼はチェーザレに最も忠実な臣下の1人であり、ユリウス2世が登位するまでチェーザレに仕えた。

チェーザレの没落後、教皇・フランス・スペイン・神聖ローマ帝国を相手に戦っていたヴェネツィアに従軍、戦闘での負傷が原因で、1510年に死亡した。享年45歳。
ファエンツァのサン・フランチェスコ教会にある一族の墓に埋葬された。




レミーロ・デ・ロルカ(Ramiro de Lorca)

(Ramiro de Lorqua、Remigio di Lorqua)
(1452年~1502年12月)
スペイン人。チェーザレの腹心のひとり。
1498年、チェーザレが結婚のためフランスへ渡航した際、ボディーガードとしてともに渡航する。
1499年5月10日、チェーザレとシャルロット・ダルブレの結婚署名の証人を務める。
1500年、チェーザレの征服したロマーニャの統制をまかされる。厳しい取締りと、強い弾圧で、荒廃したこの地方に秩序をもたらす。粗野で残虐な性格は、ロマーニャを落ち着かせるまでは、総督として適していたらしい。アレクサンデル6世も、彼の功績を称えている。
同年、ペーザロへ進軍するチェーザレ軍に従軍。
1501年、チェーザレがファエンツァを攻略した後、民衆のためのパリオ(競馬)や弓の大会を企画したらしい。
同年、ディオニージ・ナルドらとともにピオンビーノを攻撃。
その後カステル・ボロネーゼの略奪にも加わる。
1502年、ウルビーノへの進軍に参加。
同年、マジョーネの反乱の際、ファノをとペーザロを守る。
2ヵ月後、チェーザレの命によってチェゼーナの広場で処刑される。
彼はそれまで、チェーザレとボルジア家の忠実なる家臣と見なされており、この事件は世間をとても驚かせた。
反乱軍と通じていた、またはルクレツィアがフェラーラに向かう際、何らかの不備があり、そのことによって処刑された、などと見る向きもあったが、マキァヴェッリは「君主論」にて最も合点のゆく説を披露している。
いわく、
「長年無能な君主に支配され荒廃しきっていたロマーニャに、平和と秩序をもたらすには、まず厳しい取締りが必要であった。
よってチェーザレは残酷かつ俊敏なレミーロを統治者に選び、この地を平定した。
しかし峻厳な統治は民衆の憎悪を惹起しもする。そして穏やかになった地に強大な権威はもはや必要ない。
チェーザレは「かつての統治の残酷さはチェーザレから発したものではなく、レミーロ個人の性格によるものだった」ということを知らしめるため、レミーロを処刑しその死体をさらしたのである。
民衆はこの残虐な見世物に、戦慄しつつも満足を覚えた。」
この処置はマジョーネの反乱を企てた面々に対しても、
「全ての責任はレミーロにあり、これで事は終息した。」というアピールにもなり、反乱軍を安心させ懐柔するという効果をも発揮した、という。
チェーザレ・・・かっこええ。




ルドヴィーコ・デッラ・ミランドラ(Ludovico della Mirandola)




アガピート・ゲラルディ(Agapito Geraldi)

(1450年 - 1515年7月)
ゲラルディーニ(Geraldini)とも。
1464年、アガピートの伯父アンジェロは、カリストゥス3世によってセッサ・アウルンカの司教に叙階される。これをきっかけに躍進した一族。

ウンブリア州アメーリア生まれ。
1458年、ナポリ王フェランテのもとへ送られ、聖職者としての道を歩み始める。後、ペルージャ大学で学ぶ。

1479年、シクストゥス4世によって、司教座聖堂参事会員に任命される。

1482年、ロドリーゴ・ボルジアの秘書となる。

1494年、シャルル8世のイタリア侵攻時、使節としてナポリへ送られる。

1497年、ウンブリアの教皇使節となったホアン・ボルジア(シレンツィオ)の秘書となる。

1498年7月、チェーザレ・ボルジアの秘書となり、フランス王ルイ12世との交渉を行う。以後5年間、チェーザレの没落まで彼はチェーザレに付き従い優秀な助言者として務める。彼のサインした多くの手紙や書類が残っている。
同年10月、チェーザレに随行しフランスに渡航。計画準備をも行う。

1499年5月10日、チェーザレとシャルロット・ダルブレの結婚署名の証人を務める。
同年6月、チェーザレ、ルイ12世とともにミラノ入城。つづくロマーニャへの進攻にも随行する。

1501年5月、チェーザレのファエンツァ掌握後、特使としてフィレンツェへ。ルイ12世の手前、すぐにはフィレンツェを攻撃できないチェーザレのために、彼をフィレンツェの傭兵隊長として契約する。

1502年、6月にウルビーノ10月にイモラにて、フィレンツェから派遣されてきたマキァヴェッリと出会う。二人はけっこう気があっていたよう。
チェーザレの真意を読めずに焦るマキァヴェッリをよくなだめていた。しかしマキァヴェッリのフィレンツェへの報告書を読むと、まったくなだめられていない。
アガピートがマキァヴェッリにチェーザレのことを語るとき「私たちの公爵はね~」みたいな、主人自慢的雰囲気が出てる気がする。マキァヴェッリはきっと、閉口しつつも耳を傾けずにはいられなかっただろう。

1503年、バリオーニ家追放後のペルージャの教皇代理に任命される。また特使としてシエナへ向かい、パンドルフォ・ペトゥルッチと交渉する。

アレクサンデル6世とつづくピウス3世の死後、チェーザレにローマに留まらずロマーニャへ向うように進言する。しかし聞き入れられない。

新教皇ユリウス2世へ何度もチェーザレの解放を請願する。しかし聞き入れられない。

1504年4月、ナポリへ向うチェーザレに同行せずローマに残る。マキァヴェッリは「チェーザレの不運につきあうことはない」と記した。アガピートはここで、チェーザレへの期待とそれに伴う忠心を諦めてしまったように思える。

やがて彼は故郷であるアメーリアへ帰り、1506年、司教位を退く。

1515年7月死去。アメーリアのサン・フランチェスコ教会(chiesa di S. Francesco)に埋葬された。
フェラーラ公妃となっていたルクレツィア・ボルジアは「忠臣アガピートの良き思い出のために(la servitù della bona memoria de messer Agapyto)」彼の甥にカプアの聖職禄を与えるよう、イッポーリト・デステに依頼した。




ガスパーレ・トレッラ(Gaspare Torella)

スペイン人。サンタ・ジュスタの司教で、チェーザレの侍医(内科医)。
チェーザレのためにフランス病(梅毒)の治療の研究をしていた。
(しかし彼は、梅毒治療について、「この病が神による罰なのだとしたら、それを治そうとすることは神の意思に反する行為ではないのか」と疑問を呈している。)
1502年、ルクレツィアがフェラーラで死産し病床にあった時、チェーザレの命で往診している。
チェーザレ、優しい!と思うけど、この時期ルクレツィアに何かあったら、フェラーラ(エステ家)との関係が安泰じゃなくなっちゃうから・・・。




フランチェスコ・レモリーネス(Francesco Remolines)

(フランチェスコ・レモリーノ Francesco Remolino)
(1462年~1518年2月5日)

フランチェスコ

チェーザレの忠臣、というのとは違うかもしれないけど、アレクサンデル6世死後、泥沼にはまっていくチェーザレをどうにかして守ろうと尽力したいい奴。泣ける。

スペイン、レリーダ生まれ。レリーダ大学で法学を学ぶ。
10代で結婚するも、剃髪し僧籍に入る。妻であった女性は修道院へ。
アラゴン王フェルナンド2世の下に法学者として仕え、教皇庁への大使となる。
そこからボルジア家との縁が生まれ、チェーザレの家庭教師に。
チェーザレは彼のことを「親愛なる家族 mio famigliar carissimo」と呼んで信頼していた。

1491年
チェーザレとともにピサへ赴き、ピサ大学で教会法と市民法の教授資格を得る。

1496年
レリーダの司教に。
教皇庁裁判所副判事の任も務める。その仕事を記録した「Decisiones」(評決、裁定の意味)を著している。

1498年
アレクサンデル6世の命により、ドメニコ会修道僧ジョアキーノ・トッリアーニとともに裁判員としてフィレンツェに赴き、サヴォナローラへの尋問と死刑判決を行う。

1501年
ソレントの司教に。教皇庁の副会計官にも任命される。

1503年
1月12日 シエナのパンドルフォ・ペトゥルッチとの講和条件を検討するため、チェーザレによって、アレクサンデル6世の元へ派遣される。
フランチェスコはこの時以外も、チェーザレとアレクサンデルの連絡役を担うことがよくあったよう。

5月31日、アレクサンデル6聖に叙階され枢機卿に。6月12日には「Ss. Giovanni e Paolo」(枢機卿に与えられる称号のひとつ)の称号も授与される。

8月19日、アレクサンデル6世の死の翌日、枢機卿団はチェーザレにローマからの退却を要請しようとする。
この枢機卿会議に、兵を連れたミゲル(ミケーレ・ダ・コレーリア)が乱入、要求を撤回するように求める。剣を抜いたミゲルを、フランチェスコは涙を浮かべながら止めたという。(塩野七生「チェーザレ・ボルジア あるいは優雅なる冷酷」P271)

9月、ピウス3世選出のコンクラーヴェに出席。
10月~11月、ユリウス2世選出のコンクラーヴェに出席。

11月、ヴェネツィアの横暴からロマーニャを守るため、オスティアから出航しようとしているチェーザレ(ミゲルは陸路をとっていた。ピサ周辺で合流する予定だった。ちなみにこの時がチェーザレとミゲルの今生の別れとなる。)を、教皇となったばかりのユリウス2世の命で、ソデリーニ枢機卿とともに引き止める。

フランチェスコとソデリーニは、ロマーニャの諸城塞を引き渡すように、というユリウス2世の命を告げるが、チェーザレは拒否。やむなく彼はチェーザレを逮捕することに。

12月、チェーザレの行く末を危ぶんだフランチェスコは、ルクレツィアの息子ホアン(ジョヴァンニ)、ロドリーゴとチェーザレの庶子を引き連れ、ナポリへ逃亡する。
ゴンサロ・フェルナンデス・デ・コルドバ(ナポリの総督)にチェーザレ釈放をスペイン王に依頼してもらえるよう、懇願する。

1504年
チェーザレ釈放。ナポリへ赴くチェーザレにつき添う。
(しかしここでチェーザレは再び捕縛され、スペインへ送られることになる。)

ボルジア派枢機卿としてユリウス2世に敵視されるが、スペイン王フェルナンド2世の威光を利用して和解することに成功。ユリウス2世はやがてフランチェスコの能力を認め、フェルモやテルニの司教職を与えている。

1512年
第5回ラテラノ公会議に出席。

1513年
レオ10世選出のコンクラーヴェに出席。
新教皇とも良好な関係を築く。

1517年
5月、レオ10世への反逆を企てたアルフォンソ・ペトゥルッチとバンディネッロ・サウリの裁判が行われる。
レオ10世は3人の裁判員の1人にフランチェスコを選ぶ。
フランチェスコはこの裁判の進行役を担い、ペトゥルッチへの死刑宣告を行った。
ちなみにこの陰謀の容疑者の1人にはラファエーレ・リアーリオもいた。

1518年
2月、ローマにて死去。サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会に埋葬される。





ボルジア家の人々

→ ボルジア家の人々


その他の人々

→ その他の人々







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