人物紹介-その他の人々
その他の人々
- その他の人々は、名字をカタカナで表記した場合の、アイウエオで分けています。
- レオナルド・ダ・ヴィンチの場合、「ウ」で「ア行」、
- アルフォンソ・デステの場合、「エ」で「ア行」です。
※( )内に伊語で名前のないところはまだできていません
ア行
アッピアーノ家
アラゴーナ家(Aragona)(ナポリ王家)
アルブレ家(Albret)
イサベル女王(Isabel I de Castilla)
ヴァラーノ家
ヴィスコンティ家(Visconti)
ヴィッテリ家(Vitelli)
レオナルド・ダ・ヴィンチ (Leonardo da Vinci)

(1452年〜1519年)
誰もが知ってる万能の天才。
17歳でヴェロッキオの工房に入り、フィレンツェで「受胎告知」などを描く。1482年からミラノのイル・モーロのもとで軍事技術者として務めるが、スフォルツァの没落とともにミラノを離れる。
1502年チェーザレのもとを訪れ、建設技術顧問・軍事設備顧問となる。チェーザレはかなり彼を信頼し重用していたよう。チェーザレがレオナルドに送った通行許可書が残っている。
完全主義者だったためか、広範な才のためか未完に終わった作品も多い。莫大な量のスケッチやメモを残している。チェーザレについて書かれたものはない(イル・モーロについてはあるのに・・・)が、26歳のチェーザレをスケッチしたものが残っている。(すごく陰鬱な気のめいる表情だ。なぜだ)
菜食主義者だったとか男色家だったとか(裁判にかけられるも放免されている)いう話もある。
中田耕治「ルクレツィア・ボルジア 下」141ページにはミゲルと男色の関係にあったと想像する研究家もいる、とかいう記述がある。やめてよ・・・。どこの研究家だ。
→ 肖像画を見る
エウフレドゥッチ家 (Eufferducci)
エステ家 (Este)
マリア・エンリケス・デ・ルナ
(1474〜1539)
オルシーニ家(Orsini)
カ行
ジョヴァンノッツァ・カッタネイ(Giovannozza Cattanei)
(1442年(7月13日?)~1518年11月24日(26日?))
ヴァノッツァ・カッタネイ(Vannozza Catanei)。
チェーザレ、ホアン、ルクレツィア、ホフレの母。
ペドロ・ルイスを彼女の長男とする説もあるが、認知証書には記されておらず、確定はしていない。
1442年、マントヴァ生まれ。両親は貴族ではなく、中流の平民だった。彼女の幼少時のエピソードはほとんどわかっていない。
1460年、教皇ピウス2世の開いたマントヴァでの会議でロドリーゴ・ボルジアと出会い、彼の愛妾となる。
1474年ローマに移り住み対世間的にドメニコ・ダリニャーノ(Domenico d'Arignano)と契約結婚。
1480年、シクストゥス4世の秘書ジョルジョ・デ・クローチェ(Giorgio della Croce)と再婚。
1482年頃、クローチェとの間にオッタヴィアーノという子を授かっているが、幼くして死亡している。
1486年、ゴンザーガ枢機卿の侍従カルロ・カナーレ(Carlo Canale)と再再婚。
ジョルジョ・クローチェとの結婚の前にアントニオ・ブレッチャ(Antonio de Brescia)との結婚があったとする説もある。
(生まれてすぐ、両親とともにローマに移り住み、ボルゴ地区で宿屋を経営していたという説もある。
この説でのヴァノッツァは、ロドリーゴの愛妾となる前に、枢機卿ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレとのつき合いがあったという。
ロドリーゴとの関係ができるのは、1465年から1469年の間としている。)
ロドリーゴとの愛人関係は、ホフレの生まれた頃からゆるやかに終息したようだが、ロドリーゴが教皇になって後もずっと、穏やかな愛情関係が続いたと言われる。
多数の家屋の家賃収入を持ち、数軒(3軒という説、4軒という説とある。)の旅館を経営していた。
宿の名は、
- ヴァッカ(vacca 牝牛)
- ビッシオネ(biscione 蛇)
- フォンターナ(fontana 噴水)
などが知られている。
商才に長けた女性だったよう。
ローマ、カンポ・デ・フィオーリのガッロ小路には、彼女の経営していたヴァッカの痕跡が今でも見られる。
豊満な体躯の美女で、ルクレツィアの金髪と緑の瞳は母親ゆずり、だって。
ドロテア・マラテスタ・カラッチョーロ(カラッチョロ)(Dorotea Malatesta Caracciolo)
(1478年4月26日 - 1527年7月)
ドロテア・ダ・クレーマ(Dorotea da Crema)とも。母親がマントヴァのクレーマ家の人だったよう。
チェーザレの愛妾のひとり。と言われている。
リミニの領主であったロベルト・マラテスタ(パンドルフォ・マラテスタの父)の庶出の娘。
叔母であるウルビーノ公妃エリザベッタ・ゴンザーガの下で育てられ、侍女として仕える。美人の誉れ高かったよう。
1500年、ヴェネツィアの歩兵隊長ジャンバッティスタ・カラッチョーロ(当時50歳)と結婚。
1501年2月13日、夫のもとへ行くためにウルビーノからロマーニャを経由してヴェネツィアへ行く途中、ポルト・チェゼナティコとチェルヴィアの間で、チェーザレ配下のスペイン人傭兵隊長ディエゴ・ラミレスによって拉致される。
ディエゴは20〜25人の男たちを使い、ドロテアとともに侍女の1人も連れ去った。護衛の兵士には死者も出た。
この誘拐はドロテアを欲しがったチェーザレの命令だったとも言われるが、ディエゴ個人の仕業でありチェーザレは関与していないという説もあり、はっきりとわかっていない。
また誘拐ではなく、彼らは恋仲で駆け落ちのようなものだったとも言われる。(主犯がわかっていないので、「彼ら」とはチェーザレとドロテア、ディエゴとドロテアどちらのパターンも指す。)
が、それ以降彼女はチェーザレの愛妾として、2年以上を過ごしたと言われる。
実際1502年、ドロテアはイモラでチェーザレの隣にいるところを目撃されているし、同年ローマにも一緒に行っているし、1504年、チェーザレ没落後に夫の元に帰っている。
チェーザレの庶出の娘カミラ・ルクレツィアは、ドロテアの娘ではないか、という説もある。
しかしチェーザレはヴェネツィアの怒りを恐れてか、ドロテアとの関係を否定し続けた。
(犯行はドロテアの恋人ディエゴ・ラミレスのやったことであるとし、その処罰を約束もしている。しかし処罰していない。)
誘拐事件直後には「私は無理矢理拐わなければならないほど女に不自由していない」と言ったそう。言いそう。
チェーザレはこの事件の直前に愛人だったドゥルーシラ(ルクレツィアの侍女)と別れているので(ドゥルーシラはルクレツィアのフェラーラ行きについて行った)、淋しくてつい…とかあるかも?(ないか)
また、チェーザレはジャンパオロ・バリオーニの妹で、バルトロメオ・ダルヴィアーノの妻となるペンテジレーア・バリオーニを拉致した疑惑もあるので、……犯人はお前だろが!!という気がしないでもない。
しかしそうすると、ディエゴ・ラミレスは、やってもいない犯行を自分に押しつけたチェーザレに尽くしたということになってしまう。(ディエゴは最後までチェゼーナの城代として城塞を守った)
むしろ誘拐はディエゴ個人の仕業で、チェーザレは黙認してくれた、だから感謝していたという方が納得できる。
ディエゴはチェーザレの臣下になる前には、グイドバルド・モンテフェルトロの傭兵隊長としてウルビーノにいたので、ドロテアと恋仲になっていてもおかしくはない。
事件前のカーニバルを、チェーザレの軍はウルビーノで楽しんだようなので、再会して燃え上がった説ありえる。
ドロテアは解放されてからも一切何があったかを話していないので、真相は藪の中。
自分に都合のよい嘘をいくらでもつけたろうに何も言わなかったのは、慎重で思慮深い人だったのかなという印象。沈黙は金。
1503年、アレクサンデル6世の死後修道院に逃れ、1504年2月4日、ファエンツァへ赴き、夫ジャンバッティスタとともに暮らすようになった。
彼との間に4人の子どもをもうけている。
1527年7月、おそらくペストによって死去。
ペドロ・カルデロン(Pedro Calderón)
(ペドロ・カルデス Pedro Caldes)
コロンナ家
ゴンザーガ家 (Gonzaga)
ゴンサロ・フェルナンデス・デ・コルドバ(Gonzalo Fernández de Córdoba)
(コンサルヴォ・ディ・コルドヴァ Consalvo di Cordova)
(ゴンザーロ、ゴンサルヴォ)
サ行
サッヴェリ家
シャルル8世
ジローラモ・サヴォナローラ(Girolamo Savonarola)
(1452年9月21日~1498年5月23日)
フェラーラ生まれ。
父はニッコロ・サヴォナローラ、母はエレナ・ボナコルシ。
サヴォナローラ家はパドヴァの武人の家で、ボナコルシ家はゴンザーガ家にその地位を奪われるまで、マントヴァの僭主であった。(13世紀から14世紀初頭頃)
祖父ミケーレ・サヴォナローラはフェラーラの君主エステ家の侍医であり、ジローラモは彼から教育を受けた。
7人兄弟姉妹の3番目。兄と弟と妹を2人ずつ持つ。
フェラーラの大学で哲学、神学、医学を学び、22歳の時にドメニコ会修道士となる。
1482年、フィレンツェのサン・マルコ修道院に転院。フィレンツェの権力者メディチ家と、その下で贅沢に放漫に生きる人々を痛烈に批判、信仰に立ち返った清貧な生き方を説く。(これを宗教改革のはじめととる向きもある。)
激烈な説教はフィレンツェ市民の心を揺り動かし、信奉者の数は徐々に拡大、メディチの当主ロレンツォ・デ・メディチをおびやかすまでになる。
1494年、フランス王シャルル8世のイタリア侵攻時に、これを予言していたことで、彼の人望と名声は最高に。(本当に予言していたよう。)
逆にメディチの新当主ピエロは、愚昧な動きによって市民の怒りを買い、メディチ家は追放されてしまう。
フィレンツェはサヴォナローラが実権を握る共和制となる。
厳格に禁欲を説くサヴォナローラの改革は、生活、文化のあらゆる方面におよび、絵画や彫刻、書物、鏡、チェス板などまでもぜいたく品として焼却された。(「虚飾の焼却」と言われる。)
その一方、彼は当時の最新機器である印刷機を用い、自らの著作を大量に頒布するなど、実際的で世俗的な活動に精力的でもあった。著作はラテン語だけでなく口語でも出版された。これは、彼が文字や印刷物の力を重視していた、政治的才能を合わせ持つ人物であったことを示している、とも言われる。
1496年5月、教皇の密使としてボルジア三兄弟のいずれかが、サヴォナローラのもとを訪れる。チェーザレであったという説が有力。
表向きは「サヴォナローラの助言を求める」という来訪理由であったが、実際はフランス王シャルル8世との和解交渉仲介依頼だったとされる。
1497年5月13日、教皇庁を批判したかどで、教皇アレクサンデル6世はサヴォナローラを破門する。
この頃には、サヴォナローラの独裁的な神権政治に対する反発者が増え、民心はだいぶ失われていた。
1498年、対立するフランチェスコ会からの要請「火の試練」(真の預言者なら火の中を歩けるはずだ、と挑戦された。)を拒否したことをきっかけに、4月8日、フィレンツェの人々はサン・マルコに彼を襲撃する。
サヴォナローラは捕縛され、拷問を受け、5月23日、シニョーリア広場にて絞首された上に火に焼かれた。
この時、アレクサンデル6世の命により、ドメニコ会の修道僧とともにフィレンツェに赴き、サヴォナローラへの尋問と死刑判決を行ったのはフランチェスコ・レモリーネスだった。
忠実な2人の弟子、ドメニコ・ダ・ペーシャ(Domenico da Pescia)とシルヴェストロ・マルッフィ(Silvestro Maruffi)が運命をともにした。
遺灰は信仰の対象にならないように、アルノ河に捨てられた。
サヴォナローラ亡き後、フィレンツェは共和制政府が樹立され、ゴンファロニエーレ(行政長官)ピエロ・ソデリーニの書記官として、マキァヴェッリが活躍することになる。
スフォルツァ家 (Sforza)
スペイン王家
タ行
ティベルティ家
ドゥルーシラ(Drusilla)
フィアンメッタに次ぐ、チェーザレの2番目の愛人として名の残る人物。
ルクレツィアの侍女。1502年1月、ルクレツィアとアルフォンソ・デステの結婚でルクレツィアに同行し、フェラーラに移り住んでいる。ので、チェーザレとの関係はその時点で終了したと思われる。
(ドロテアが現れたから?)
しかしチェーザレはドゥルーシラがフェラーラへ発つのを悲しんだという説もある。
2人の関係は周囲にもよく知られていて、詩人ファウスト・エヴァンジェリスタ・マッダレーニは彼女の出発の際のチェーザレの悲しみの詩を書いている。
チェーザレの庶出の子ジローラモ(イザベッラ・ピッツァベルナリと結婚、後にカルピ伯の娘イザベッラと結婚。2人の娘イッポーリタとルクレツィアを残す。)と、
カミラ・ルクレツィア(フェラーラのサン・ベルナルディーノ修道院の女子修道院長となる。1573年に死去。)の母は、彼女ではないかと言われている。
ドロテア
ナ行
ハ行
パッツィ家(Pazzi)
バリオーニ家(Baglioni)
ピッコローミニ家(Piccolomini)
ファルネーゼ家 (Farnese)
フィアンメッタ
→ マ行(ミケーリ)
フェルモ家
フランス王家
ギョーム・ブリソネ(Guillaume Briçonnet)
ヨハン・ブルカルド(Johannes Burckard)
(1445年から1450年の間~1506年5月16日)
フランス、アルザス地方生まれのドイツ人。
スイスの歴史家ブルクハルト(Jacob burckhardt)(1818-1897)と間違えられがち。(私だけ?)(全然違う人だけど、どちらもすぐボルジア家に毒殺された〜的なことを言う)
司教であり、教皇庁書記長、教皇庁式部官。
彼の「Liber notarum」(日誌)はルネサンス教皇の生活を知る、重要な歴史的文献である。
が、彼の過剰な想像力で書かれている部分も多く、教皇庁の乱交や殺人などのスキャンダラスなできごとについての信頼性は低い。
ボルジア家もかなり悪し様に書かれている。惣領冬実は「反ボルジアであったユリウス2世の在位時に、捏造された可能性が高い」と推測している。(惣領冬実@web work's Information 2009/02/02))
非常に詳細に書かれる教会儀式のしきたりや式典の記録などは、価値あるものとされている。
貧しい家庭の出身であったが、サン・フィレンツォ教会の教育を受け、
1467年、ストラスブールの司祭書記、司教座聖堂参事会員となる。が、しかし、すぐに書類偽造で小銭を稼いでいたことが発覚、その地位を追われる。
同年、ローマへ出る。
1471年、教皇パウルス2世に引き立てられ、教皇庁に入る。
1483年、教皇シクストゥス4世の式部官になってから、
インノケンティウス8世、
アレクサンデル6世、
ピウス3世、
ユリウス2世、
と続く教皇全てに仕え続けた。
1503年、オルテ(ローマの北方60キロくらいの小都市)とチヴィタカステラーナ(オルテとローマの間の小都市)の司教に。
- ブルカルドの采配した主な式典
1493年12月 | ナポリ王フェデリーコのローマ訪問 |
1494年5月 | ナポリ王アルフォンソ2世の戴冠式 |
ホフレ・ボルジアとサンチャ・ダラゴーナの結婚式 | |
1494年11月 | フランス王シャルル8世の歓迎式典 |
1499年12月 | 降誕祭における聖年の布告 |
1502年1月 | アレクサンデル6世のピオンビーノ訪問 |
1503年8月 | アレクサンデル6世の葬儀 |
1506年5月、ローマにて死去。死因は痛風。サンタ・マリア・デル・ポポロ教会に埋葬された。
ペトゥルッチ家(Petrucci)
ベンティヴォーリオ家 (Bentivoglio)
ボーモン家(Beaumont)
マ行
ニッコロ・マキァヴェッリ
→ 肖像画を見る
マクシミリアン1世
マラテスタ家
→ 肖像画を見る
マンフレディ家 (Manfredi)
フィアンメッタ・ミケーリ(Fiammetta Michaelis)
(1465年?-1512年2月19日)
1493年から、チェーザレの愛人だったという赤毛の高級娼婦。フィレンツェ生まれ。
1478年、13歳の時に、同じく娼婦だった母とともにローマへ。すぐに枢機卿ジャコモ・アンマンナーティーの愛人となる。
1479年、約1年半あまりのつき合いの後、アンマンナーティーは財産のほとんど全てをフィアンメッタに残して死去する。
枢機卿が娼婦に遺産を正式に譲渡、というのはとても衝撃的なできごとであったらしく、時の教皇であったシクストゥス4世はこの遺言の執行に反対、特別委員会を設ける。
委員会はフィアンメッタの取り分を縮小するが、アンマンナーティの所持していた、
・ヴァティカン近くの小家屋つきぶどう園
・サンティ・シモーネ・ジュダ教会近くの塔のある家
・アッカスパルタ通りの開廊のある家
・コロナリ通りの家
の4つの不動産は彼女のものとなった。
(太字の2つの家屋は今もローマ、テヴェレ河沿いのポンテ地区に残っている。
サンティ・シモーネ・ジュダ教会もその近辺に存在する。)
フィアンメッタはヴァティカン近くのぶどう園を住居とし、他を賃貸物件にして、年に約26ドゥカートの賃貸収入を得た。
チェーザレは武装して(この頃のローマはとても治安が悪かった。)、そのぶどう園に毎夜通っていたと言う。かなり彼女に執心していたらしい。
ちなみに1493年当時、チェーザレ18歳、フィアンメッタ28歳。
フィアンメッタの死後、これらの不動産は彼女の息子アンドレア(書類上は「弟」とされている。チェーザレの子ではないよう。)に譲られている。
ルネッサンス期の娼婦は、
・通りに立ち客を呼び込む下級娼婦
・賑やかな祝祭時のみに商う娼婦
・詩を暗誦しさまざまなテーマにおける討論をも行える、学識豊かな高級娼婦
などいくつかのカテゴリに分けられる。
フィアンメッタは知的な高級娼婦であったとされる。
ラテン語を話し、オウィディウスとペトラルカを暗唱し、巧みに歌い、古代ギリシャの弦楽器キタラを演奏したという。
敬虔で信心深かった彼女は、教会への寄進も多く行い、1506年からサン・タゴスティーノ教会、入ってすぐ左に礼拝堂を所持していた。
(現在カラヴァッジョ「ロレートの聖母」のあるところ。)
死後ここに埋葬されるが、反宗教改革時に破壊されてしまった。
メディチ家 (Medici)
モンテフェルトロ家 (Montefeltro)
ヤ行
ラ行
リアーリオ家(Riario)
ルイ12世
ローヴェレ家 (Rovere)
ローマ教皇(13世紀末〜16世紀中頃)
ワ行
ボルジア家の人々
チェーザレの忠臣
各国語人名表
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