チェーザレ・ボルジアについて、とりとめのないけれど愛に満ちた探究心を発揮するサイトです。

ボルジア一族

人物紹介

ボルジア家の人々(Borgia)

チェーザレ・ボルジア(Cesare Borgia)

(1475年9月13日(14日の説も)~1507年3月12日)
(一般的に11日とされているようだが、実際は日づけが変わった後、12日に死亡、だろう。)

称号
della Francia, del duca di Valentinois e la Romagna, il principe di Andria e Venafri Conte di Dyois, Signore di Piombino, Camerino e Urbino, Gonfaloniere e Capitano generale della Chiesa

(フランスと縁戚関係にある、ヴァランスとロマーニャの公爵、アンドリアとヴェナフリの公爵、ディノワの伯爵、ピオンビーノとウルビーノの侯爵、教会の旗手、教皇軍総司令官)


チェーザレ

イタリアではヴァレンティーノ公(duca di Valentino ヴァランスの公爵)の名で通っている。

教皇に次ぐ権力をもつ副尚書ロドリーゴ・ボルジアの次男。(ヴァノッツァ・カッタネイとの子としては長男。)
幼い頃から聖職者となるべくして教育を受ける。15歳で司教、16歳で大司教、18歳で枢機卿に。教皇となった父の下、順調な出世街道を歩む。

閑話休題    閑話休題    閑話休題

弟ホアンの死をきっかけに、1498年23歳の目前に還俗(聖職者の地位を返上し俗人に戻る)。フランス王ルイ12世と同盟し、ナヴァーラ王の妹と結婚し、ヴァランスの公爵となる。

1499年末から、ロマーニャ地方統一に向けて怒涛の進撃を開始。
イモラフォルリチェゼーナペーザロリミニ、ファノ、ファエンツァボローニャウルビーノ、カメリーノと、3年たらずの間にほとんど全てを支配下におき、ロマーニャ公爵となる。

チェーザレの攻め方の特徴は、物理的攻撃をむやみに行わず、策を弄するところにある。父の威光と財力を活用し、舌先三寸で人心をつかみ、流言までをも計算して、敵を追いつめるための根回しを徹底的に行う。
チェゼーナやペーザロ、リミニなどはこの戦法で無血開城した。行き当たりばったりの戦闘を繰り返していたイタリアにおいて、非常に革新的である。
ルイ12世やフィレンツェとの駆け引きにおいても、長期的視野と柔軟な思考力でもって、相手の数歩先を読み、意に沿う方向へ誘導した。

そして、目的のための手段を選ばない。アルフォンソ・ダラゴーナの暗殺やレミーロ・デ・ロルカの処遇にその一端が見られる。
彼のこのような行為は、怜悧さを超えて残酷だが、常に最善で効果的であることは確か。

その策謀家ぶりと残虐性は、配下の傭兵隊長たちの反乱において、最も顕著に発揮されている。

彼に対する同時代人の評価は、この型破りで非情なやり方に対する恐怖と、彼が教皇の息子であること(本来童貞であらねばならない聖職者の私生児であること)やスペインに出自を持つことから、批判や蔑みが多いが、民衆や配下のスペイン人たちには慕われ崇敬された。中でもミゲル・ダ・コレッラ(ドン・ミケロット)の固い忠誠心は有名。
また、マキァヴェッリは著書「君主論」にて、彼を理想の君主と褒め称えている。

レオナルド・ダ・ヴィンチを土木建築技師として迎え、所領地のインフラ整備を進めつつ、イタリア統一を視野に入れる。
が、1503年、父アレクサンデル6世と同時に病に倒れる。

閑話休題    閑話休題    閑話休題

父の死後、政敵ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレの教皇選出を許すという最大の過ちを犯したことから、すべてが暗転。捕らえられ、ロマーニャは解体。弟ホアンの暗殺容疑者としてスペインへ送られる。

1506年、幽閉されていたモタ城から脱走し、義弟であるナヴァーラ王ジャンを頼り再起をはかるが、1507年、ヴィアナにて戦死する。
享年31歳。


詳しくは 簡易年表 OR 詳細年表 へ!


1499年5月10日、フランス王ルイ12世の従妹で、ナヴァーラ王ジャン・ダルブレの妹であるシャルロット・ダルブレと結婚。
唯一の嫡出子であるルイーズをもうける。

他に少なくとも4人の非嫡出子がいたとされる。

  • ジローラモ
    1501年、もしくは1502年生まれ。
    母親はドゥルーシラではないかと言われている。
    イザベッラ・ピッツァベルナリと結婚、後にカルピ伯の娘イザベッラと結婚。
    どちらとの子なのかは不明だが、2人の娘イッポーリタとルクレツィアを残す。
  • カミラ・ルクレツィア
    1501年、もしくは1502年生まれ。
    母親はドゥルーシラもしくはドロテアではないかと言われている。
    フェラーラのサン・ベルナルディーノ修道院長となる。1573年に死亡。
  • 女子(名前不明)
    1503年、チェーザレがカステル・サンタンジェロに逃げこんだ時、ホアン・ボルジア(インファンテ・ロマーノ)、ビシュリエ公ロドリーゴ(ルクレツィアとアルフォンソ・ダラゴーナの息子)、カミラ・ルクレツィアとともに連れていた娘。
  • 男子(名前不明)
    1542年、ボローニャで死亡したとされる。






ロドリーゴ・ボルジア(Rodorigo Borgia)

ロドリーゴ(アレッサンドロ6世)

(Rodrigo de Llançol-Borja y Borja)
(Rodrigo de Borja y Doms)
(Rodrigo Gil de Borja i Borja)
(1431年1月1日〜1503年8月18日)
アレクサンデル6世(Alexander VI)(在位 1492年〜1503年)
チェーザレの父。
スペイン、ハティヴァ生まれ。

1449年
母方の伯父アロンソ・ボルジア枢機卿の後ろ盾を得て、兄ペドロ・ルイス、従兄弟ルイス・ホアン・デ・ミラとともにローマに移り住む。
同年ボローニャ大学へ入学。法学を学ぶ。秀才の誉れ高く、容姿凛然とし、快活で、とても魅力ある男性だったよう。

1455年
伯父アロンソがカリストゥス3世として教皇に選出。翌年伯父のネポティズモにより、25歳で枢機卿に叙任される。翌年には教皇庁副尚書に。
伯父の死後ピウス2世、パウルス2世、シクストゥス4世、インノケンティウス8世、と4人の教皇のもとで教皇庁副尚書の地位を維持、権力と富を蓄える。

1492年
ボルジアの莫大な財産をばらまきライヴァルを取り込んで、教皇アレクサンデル6世として選出される。第214代目の教皇。

1493年
新世界の勢力分解線である教皇子午線を設定。スペイン出身の彼はかなりスペインに有利な設定を行うが、翌年のトルデシリャス条約でやや変更を行っている。

1494年
ナポリ王国継承権を主張するフランス王シャルル8世がイタリアへ侵攻。ボルジアの政敵ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ枢機卿に煽られた王は、アレクサンデルの退位を迫ろうとするが、彼は巧みな外交術でシャルルを懐柔、チェーザレを外交使節(実質は人質)として送り込み、早々にローマを退出させている。(チェーザレもすぐにシャルルのもとから脱走している。)
アレクサンデルはすぐにミラノ、ヴェネツィア、スペインと対フランス同盟を結成。シャルル率いるフランス軍はナポリを撤退せざるをえなくなる。

1497年
フィレンツェの修道士サヴォナローラを破門。翌年サヴォナローラはフィレンツェ市民の手によって処刑されることになる。

1498年
新フランス王ルイ12世と同盟。息子チェーザレに王侯としての結婚を実現させ、彼の教皇領進撃を後押しする。
ヴァティカンに寄せられた多額の寄付(特に1500年は聖年であったため、その金額も莫大であった。)、新たに枢機卿を任命することによって収められる支払金は、次々にチェーザレの軍資金として費やされた。また富裕な枢機卿を毒殺しては、その遺産を押収した、と言われる。いわれのない中傷ではあるが、実際アレクサンデルの在位していた11年間に21人もの枢機卿が逝去している。

1500年
6月ヴァティカンに落雷。瓦礫の下敷きとなるが、奇跡的に額に二ヶ所の傷を負うのみにとどまる。(すごい!)

1501年
チェーザレの所領地となったピオンビーノとエルバ島を視察。71歳という高齢にも関わらず、厳しい船旅に悠然と耐える。

1503年
マラリアによって崩御。毒殺説などささやかれるが、症状からマラリアとされている。
ルネッサンス教皇の1人であり、お気に入りの画家であったピントリッキオの描いた肖像画(壁画)が、ヴァティカンのボルジアの間で見られる。

サン・ピエトロ大聖堂側にあったサンタ・マリア・デッラ・フェッブリ教会(Santa Maria della Febbre)に埋葬されるが、16世紀、サン・ピエトロの大改修によってフェッブリ教会は破壊され、遺骨はカリストゥス3世のものとともに、サンタ・マリア・ディ・モンセラート教会(Santa Maria di Monserrato)に移された。








ホアン・ボルジア(Juan Borgia)

(1476(1474年の説も)〜1497年6月14日)

ガンディア公ホアン

チェーザレのひとつ下の弟。(生年が1476年というものと、1474年という説とあり、チェーザレの兄という説もある。弟説支持の方が強いよう。)
スペイン語ではJuanホアン(ファン)、イタリア語ではGiovanniジョヴァンニ、となる。
ローマ生まれ。1493年9月、故・兄ペドロ・ルイスの婚約者だったマリア・エンリケス・デ・ルナと結婚。兄の所領地も受け継ぎ、ガンディア公となる。
その他にもセッサの公爵、ナポリの長官、教会の旗手、教皇軍総司令官、サン・ピエトロの知事など、多くの役職を、父アレクサンデル6世により与えられている。
1497年初頭、教皇軍総司令官として、オルシーニ家と開戦。名将グイドバルド・モンテフェルトロなどの活躍により戦勝に沸くが、最終的にはオルシーニ攻略とならず、軍人としての無能さを世間に露呈することになってしまう。
→ 詳しくは ホアンの進撃  を!
1497年7月14日、テヴェレ河で刺殺体となって発見される。チェーザレによる暗殺説がささやかれるが、未だ真相は解明されていない。
→ 詳しくは ホアンの死 を!
容姿端麗で華やかで軽やかな遊び人だったよう。見栄えはいいけどそれだけだよね、的人物として描かれることが多い。
惣領冬実「チェーザレ」での、父アレクサンデルは、軽佻浮薄な彼を軽視しているが、溺愛していた、としている説も強い。






ルクレツィア・ボルジア(Lucrezia Borgia)

ルクレツィア

(1480年4月18日(14日の説も) - 1519年6月24日)
チェーザレの5つ下の妹。
スビアーコ生まれ。(ローマ近郊の小都市。ヴァノッツァはボルジアの城のあるここで、ルクレツィアの妊娠期を過ごしたよう。)
幼少時は修道院で、12歳の頃には、ロドリーゴのいとこ姪(いとこの子)アドリアーナ・ミラ・オルシーニに教育を受け、育つ。
ブロンドの髪に明緑色の瞳、細いあごを持ち、可憐な容姿をしていたよう。その美貌を父と兄に徹底的に利用され政略結婚に翻弄される。

1491年
ヴァレンシアの貴族でバル・ダホラの領主ケルビーノ・ホアン・デ・センテーレスと婚約、年内にスペインに赴き6ヵ月後に結婚するはずであったが、2ヵ月後、15歳の少年プロチダ伯ガスパーレ・ダヴェルサと再婚約。

1493年
ペーザロ伯ジョヴァンニ・スフォルツァと結婚。

1497年
意味をなさなくなったミラノ(スフォルツァ)との同盟を解消するため、これを「白い結婚」(ノッツェ・ビアンカ nozze bianca)(性的関係を伴わない結婚)であるとして、離婚させられる。
性的不能者との烙印を押されたジョヴァンニ・スフォルツァによって、ルクレツィアの淫蕩、ボルジアの近親相姦などが声高にうわさされるようになったと思われる。
父と兄によってもたらされた騒動中、彼女はサン・シスト修道院に引きこもる。この時教皇使節であったペドロ・カルデロン(イル・ペロット)と出会い、彼の子どもインファンテ・ロマーノ(ローマの子、ローマ王子、という意味)を出産したとされる。
この子は後ホアン(ジョヴァンニ)と名づけられ、ロドリーゴの子(別の証書ではチェーザレの子)として認知される。

1498年
ビシュリエ公アルフォンソ・ダラゴーナと再婚。ひとつ年下の美男の夫と仲むつまじく暮らすが、チェーザレがフランスと同盟したことにより、アルフォンソの立場は危うくなってしまう。(フランスはアルフォンソの実家ナポリ王国を狙っていたから。)

1499年
8月、身の危険を感じたアルフォンソは、身重のルクレツィアを置いてローマから逃亡する。ルクレツィアの悲嘆を紛らせるため、またアルフォンソの後を追うことのないよう、ロドリーゴは彼女をスポレートとフォリーニョの総督に任命する。その場しのぎ的な措置であったが、ルクレツィアはしっかりとこの地を治める。
同年11月アルフォンソとの長男を出産。ロドリーゴと名づけられる。

1500年
7月、アルフォンソ・ダラゴーナ暗殺。チェーザレの命で、直接手を下したのはミゲル・ダ・コレッラとされる。
嘆き悲しんだルクレツィアはネピの城にこもる。

1501年
フェラーラ公嫡男アルフォンソ・デステと再再婚。ローマを離れフェラーラへ嫁ぐ。(その後父アレクサンデルと会うことはない。)
浪費家のルクレツィアは吝嗇家の舅エルコレ・デステと対立したりもするが、夫とも周囲とも、それなりにうまくやっていく。フェラーラはルネッサンスを代表する洗練された宮廷のひとつであり、ルクレツィアの知性と教養を備えた品格は、歓迎され感嘆された。彼女はダンスを好み、また得意としていて、フェラーラの人々は彼女の身のこなしをも称えている。

1502年
詩人ピエトロ・ベンボと出会い、恋に落ちる。エルコレ・ストロッツィの仲介によって2人は手紙のやりとりを続けるが、ピエトロがヴェネツィアへ発ったことによって終息を向かえる。
ピエトロの詩集「リ・アゾラーニ」(Asolini アーゾラの人々という意味。アーゾラ(ヴェネツィア領の都市)で書かれた。だからこのタイトルなんだと思う。)はルクレツィアへの愛をうたったものと言われている。1503年頃、ルクレツィアがピエトロに送った一房の髪が、ミラノのアンブロジアーナ絵画館に所蔵されている。

1504年
チェーザレ釈放を嘆願するルクレツィアは、彼女に同情的だったフランチェスコ・ゴンザーガ(マントヴァ侯。夫アルフォンソの姉、イザベッラ・デステの夫。ルクレツィアにとっては義兄となる。)と恋に落ちる。ここでも頻繁な手紙のやりとりが見られる。

1505年
エルコレ・デステの死によって、アルフォンソ・デステはフェラーラ公に、ルクレツィアはフェラーラ公妃となる。

1508年
長男エルコレを出産。その後続けて4人の子を産む。(最後の子はすぐに死んでしまう。ルクレツィアは生涯で流産死産を含めて11人の子どもを妊娠したよう。

  1. インファンテ・ロマーノ(ホアン)(ジョヴァンニ)?   父親:ペドロ・カルデロン(?)
  2. 流産                          父親:アルフォンソ・ダラゴーナ
  3. ロドリーゴ                       父親:アルフォンソ・ダラゴーナ
  4. 死産                          父親:アルフォンソ・デステ ↓以下同様
  5. アレッサンドロ(生後まもなく死亡)
  6. エルコレ
  7. イッポーリト
  8. アレッサンドロ(2歳で死亡)
  9. エレオノーラ
  10. フランチェスコ
  11. イザベッラ・マリーア(生後まもなく死亡))

※ 1.ジョヴァンニはアレクサンデル6世の子、もしくはチェーザレの子であるとする説も。

1509年
カンブレー同盟(フランス、イギリス、神聖ローマ帝国、教皇ユリウス2世による対ヴェネツィア同盟)にフェラーラ、マントヴァも加盟。戦地に向かったアルフォンソに代わり、ルクレツィアはしっかりと政務を執り行う。
フランチェスコ・ゴンザーガはこの時ヴェネツィアの捕虜となる。ルクレツィアは彼に手紙や食料品を差し入れしたらしい。

1510年
教皇はヴェネツィアと同盟。イタリアからフランスの勢力を追い出そうと画策する。
フランチェスコ・ゴンザーガは釈放され、ヴェネツィア軍の総司令官に。フランス側についたフェラーラを、教皇は破門に処す。

1513年
教皇はフェラーラへの最後通牒を下すが、2月に病死。フェラーラは危機を回避する。

1519年
未熟児を出産後、産褥熱により死去。享年39歳。






ホフレ・ボルジア(Jofre Borgia)

(Goffredo Borgia)(Gioffre Borgia)
(1481年 - 1517年)
ロドリーゴ・ボルジアとヴァノッツァ・カッタネイの末子。チェーザレ、ホアン、ルクレツィアの弟。
ロドリーゴは、ホフレのことを、自分の子ではなくヴァノッツァの3番目の夫であるカルロ・カナーレの子ではないかと疑っていた、と言われる。

1493年
8月、ナポリ王国アラゴン王アルフォンソ2世の庶出の娘、サンチャ・ダラゴーナと婚約。

1494年
3月22日に結婚の署名が行われ、5月11日、ナポリのカステル・ヌォーヴォで式が挙げられた。ホフレは13歳、サンチャは15歳であった。
ホアン・ボルジア枢機卿(サヴィオ)が式に列席し、教皇庁式部官ブルカルドがこの時の様子を日誌に記している。サヴィオは新郎新婦の初夜にも立ち会っている。
この結婚により、ホフレはスィクラーチェの公爵とレーニョの主席書記官に任ぜられた。
ホフレとサンチャはカステル・ヌォーヴォ近くに新居を構える。これは教皇とナポリの協定を確固とする、人質という意味合いもあったと思われる。

地味で物静かなホフレと、明るく派手なサンチャは気が合わなかったらしく、サンチャはすぐに愛人を作ったらしい。
確かにホフレは、強烈キャラの父や兄姉と比べて、存在感は薄い。

1495年
対仏神聖同盟の軍、740騎を率いる。これはマントヴァ侯フランチェスコ・ゴンザーガの率いた1200騎に次ぐ大軍であったよう。
だが、実際に交戦したのかどうかは不明。

1496年
ホフレ、サンチャの夫婦はナポリからローマへと移る。
サンチャはすぐにルクレツィアと親しくなり、チェーザレやホアンとは肉体関係を結んだと言う。

1499年
夜な夜な遊び耽っていたホフレは、市民警備隊と諍いを起こし、太ももを矢で射抜かれてしまう。
警備隊員を処罰しなかったアレクサンデル6世に、サンチャは猛然と抗議したらしい。

同年、チェーザレとフランス王の従妹の結婚により、教皇とナポリの同盟関係は危うくなる。サンチャとアルフォンソの姉弟は、ローマを出る。
8月、アレクサンデル6世は、ホフレとルクレツィアをスポレートへ送る。これはホフレとルクレツィアを、それぞれの妻(サンチャ)と夫(アルフォンソ)から引き離しておくための措置であった。
ルクレツィアはスポレートの総督として統治者の才を発揮したが、ホフレは狩猟などに興じていただけだった。
10月、2人はローマに戻った。
サンチャとアルフォンソもローマに戻るが、アルフォンソはやがて暗殺され、サンチャはカステル・サンタンジェロに軟禁されることになる。

1500年
1500年からの3年間、兄チェーザレの下に従軍していたようだが、際立った功績は残していない。

1503年
シニガリア事件後、オルシーニ家の一門は逮捕されカステル・サンタンジェロに投獄される。
この時、ホフレはオルシーニの領地に攻め入りそれらを収奪した。

同年、アレクサンデル6世の死後、反旗を翻したコロンナ家を制圧するため、ミゲル・ダ・コレッラとともに戦線に立つ。

1506年
サンチャ死去。
ホフレはアルバイダ伯爵の娘マリア・デ・ミラ・ダラゴーナと再婚する。

ホフレとサンチャの間に子どもは生まれなかったが、マリアとの間には、フランチェスコ、ルクレツィア、アントニア、マリアという4人の子どもたちに恵まれた。
長男フランチェスコが、スィクラーチェ公領を継いだ。

1517年
死去。享年36歳。
ボルジア没落後のホフレは、スィクラーチェの公爵として自領を守り、ひっそりと生きた。そのためか、彼の死亡日時ははっきりとわかっていない。






ペドロ・ルイス(Pedro Louis de Borja)(チェーザレの兄)

(1462(1468の説も)〜1488)











ホアン・ボルジア・ランソル・デ・ロマーニ
(Juan de Borja Lanzol de Romaní, el mayor)(サヴィオ)

(1447(1446の説も)〜1503年8月1日)
(惣領版「チェーザレ」→ サヴィオ・ホアン)
(シレンツィオ・ホアンと区別するために、一般的には名前の後に「el mayor(The elder)」とつけられる。)
ロドリーゴの妹ファナとペドロ・グレイン・ランソル・デ・ロマーニの息子。
惣領版「チェーザレ」ではロドリーゴの従兄弟、という設定のようだけど、正確には甥、のよう。つまりチェーザレの従兄弟にあたる。

ロドリーゴの従兄弟の子、という説もある。
この場合、ガルセラン・デ・ボルハ・イ・モンカーダとテクラ・ナヴァーロ・デ・アルピカの息子となっている。
諸説入り乱れているので、きっとはっきりしたことは、わかっていないんだと思う。

ヴァレンシアの聖堂参事会員を経て、1480年、シクストゥス4世によってローマ教皇庁の書記官に任命される。
インノケンティウス8世は、彼をローマ知事に任命。1483年にはモンレアーレの大司教に。
1492年、ロドリーゴ・ボルジアの教皇選出時に、枢機卿に。
1494年、アルフォンソ2世のナポリ新王叙任の際、教皇代理としてナポリへ。彼自身が、アルフォンソに戴冠する。
ついでにこの時、カステル・ヌオーヴォで行われたホフレとサンチァの結婚式にも出席している。
シャルル8世のイタリア侵攻時、チェーザレ、アレクサンデル6世とともに、ナポリ王アルフォンソ2世と再び会見、対スフォルツァ、フランス対策を講じる。
彼は教皇がサンタンジェロやオルヴィエートへ避難する前に、教皇勅書をシャルル8世へ届ける。
1500年、アスカーニオ・スフォルツァにとってかわり、尚書院副尚書に。
1503年、アレクサンデルとチェーザレがマラリアで倒れた少し前に、同じ症状で死去。
すごい倹約家で、残された財産は莫大だったという。
異常に肥満していたらしい。
ガルセランという名の庶子(息子)を1人残した。






ホアン・ボルジア・ランソル・デ・ロマーニ
(Juan de Borja Lanzol de Romaní, el menor)(シレンツィオ)

(1474(1470の説も) - 1500年1月16日)
(惣領版「チェーザレ」→ シレンツィオ・ホアン)
(サヴィオ・ホアンと区別するために、一般的には名前の後に「el menor(The younger)」とつけられる。)

ホアン(シレンツィオ)

惣領版「チェーザレ」ではチェーザレの従兄とされているが、実際はチェーザレの従兄の子、のよう。(従甥(いとこおい)というらしい)
ロドリーゴの大甥(又甥(またおい)、姪孫(てっそん)とも)。
ロドリーゴの妹ファナの息子ホフレの子。
生年ははっきりしていないがチェーザレと同年輩であり、2人はとても親密であった。公私を問わずよく行動を共にしていたよう。

1494年メルフィの司教、1496年カプアの大司教、1498年ヴァレンシアの大司教。1496年、枢機卿。
政治的才能に恵まれており、チェーザレだけでなくアレクサンデル6世にも信認されていた。
1497年、教皇使節としてウンブリア地方のナルニ、トディ、ペルージャなどの治世調査へ出る。
荒れすさんだこの地方では、教皇使節に対する敬意など全くなく、傭兵や夜盗たちが跋扈し、殺人も略奪も日常茶飯事であった。
ホアン(シレンツィオ)が殺人犯を処刑した時、人々は非常に驚き、評判となったと言う。彼は「これらの地に秩序と平和を回復するには、厳格な手段を必要とする」とアレクサンデル6世に報告している。
1499年、ヴェネツィアへの教皇特使、つづいてボローニャへの教皇特使に。

ヨハン・ブルカルドの「Liber notarum」(日誌)によると、
1500年1月、チェーザレのフォルリ攻略完遂をローマへ報告したのは、ホアン(シレンツィオ)だったよう。
彼はこの報せをローマに届けるために、供を4人だけ連れてボローニャもしくはフォルリから早馬を飛ばした。
ローマに到着したその翌日には、来た道をとって返し、フォルリのチェーザレのもとへ向かう。
しかしその途上ウルビーノで発熱、症状は重くはなかったが、フォルリ陥落の祝辞を早くチェーザレへ伝えたい思いに急いた彼は、無理をして馬を駆り続けてしまう。
1月16日、フォッソンブローネに着いた時、容態は急変、急死へと至ってしまった。

チェーザレによる暗殺説がささやかれたが、根拠は全くなく、熱病によるものとされている。
(教皇軍の司令官としてボローニャへ出向き、そこで病に倒れ、フォッソンブローネ(ウルビーノという説も)で急死、という説もある。)

1月27日、遺体はローマへ運ばれサンタ・マリア・デル・ポポロ教会へと埋葬された。
チェーザレの凱旋に湧いていたせいか、葬儀も追悼式典も行われない寂しい埋葬だった。






アドリアーナ・デ・ミラ(Adriana de Mila)

(1455年頃 - 1509年?)
ペドロ・デ・ミラの娘。ペドロの母カテリーナが、ロドリーゴ・ボルジアの母イザベルと姉妹である。
カテリーナとイザベルは、アロンソ・ボルジア(カリストゥス3世)の妹。
アドリアーナにとって、ロドリーゴは「いとこ伯父」という続柄になる。
父ペドロは、カリストゥス3世の治世時に、スペインからイタリアへ渡ってきており、アドリアーナはローマで生まれたのではないかと言われている。

1473年頃
18歳でバッサネッロの領主ルドヴィーコ・オルシーニと結婚。同年、息子オルシーノを出産する。
オルシーノは隻眼で不細工であったらしく、そのためか、非常に自意識過剰な人物であったそう。(斜視であったという説もある。)

1489年
ルドヴィーコは死去。(はっきりしてはいないが、遅くとも1489年には死去していた。)
寡婦となったアドリアーナは、それまでもよき保護者であったロドリーゴとの関係を強くする。それは夫の領地と遺産を管理し、息子に継承させるためにも必要なことだった。
彼女はロドリーゴの腹心として仕え、彼の4人の子どもたちの養育にも熱心にあたった。ルクレツィアの後見人にもなっている。

息子オルシーノの婚約者であったジュリア・ファルネーゼとロドリーゴの愛人関係も、彼女は進んで後押ししたと言われる。
したたかでリアリストであった彼女は、ロドリーゴの与えてくれるさまざまな利益や特権を、冷静に優先させたのだろう。
反対してもせん無いこと、と諦念の境地でもあったのかもしれない。

同年5月21日、息子オルシーノはローマにてジュリア・ファルネーゼと結婚する。
この時ジュリアはロドリーゴ・ボルジアの愛人となって1年弱くらいだった。
(愛人関係となったのは結婚後と言う説もある。)

1492年
ジュリアは娘ラウラを出産するが、父親はオルシーノなのかロドリーゴなのかわかっていない。
(が、オルシーノの嫡出の娘として、ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレの甥ニッコロ・デッラ・ローヴェレと結婚する。)
アドリアーナは、ジュリアとラウラ、そしてルクレツィアとともに、教皇となったロドリーゴ(アレクサンデル6世)の恩愛を受け、ヴァティカンで睦まじく暮らした。

1494年
ペーザロに向かうルクレツィアに、ジュリアとともに随行する。
教皇は、細かな旅の日程からペーザロでの行事の式次まで、アドリアーナに細かく指示した。
2ヵ月後、ジュリアは兄アンジェロの病気見舞いのため、カポディモンテに向かう。アドリアーナはこれに随行し、ジュリアとオルシーノとアレクサンデルの仲違いに巻きこまれる。
アレクサンデルは自分の下へ戻らないジュリアに腹を立て、アドリアーナにも破門を脅迫する厳しい手紙を送っている。

同年11月、アドリアーナとジュリアはローマへ向かうが、イタリア侵攻中のシャルル8世の軍に出くわし、捕虜となってしまう。
が、すぐさま教皇がフランス軍に莫大な身代金を払ったため、厚遇され無事にローマへと送り届けられた。

1500年
オルシーノは死去。
この頃にはロドリーゴとジュリアの関係はゆっくりと疎遠になっていたよう。が、アドリアーナはずっと教皇との信頼関係を保ち続けていた。

1502年
エステ家のアルフォンソ1世との結婚でフェラーラへ旅立つルクレツィアに随行する。

アドリアーナの死亡時期は、はっきりとしてはいないが、1509年頃ではないかと言われている。
彼女の遺産はジュリア・ファルネーゼが受け継ぎ、その後はラウラへと受け継がれた。






アンジェラ・ボルジア(Angela Borgia)

(1487年?、1491年? - ?)
ホアン・ボルジア・ランソル・デ・ロマーニ(Juan de Borja Lanzol de Romaní, el menor)(シレンツィオ)の妹。
ロドリーゴの妹ファナの息子ホフレの子。
よくルクレツィアの従妹と書かれているが、従妹ではなく従兄弟の子である。

ローマでのアンジェラの存在は今いち薄いが、ルクレツィアの侍女としてヴァティカンに暮らしていたよう。
当時からアンジェラの美貌は名高く、文学者たちは彼女を称える詩を多く残しているらしい。

1500年
ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ(ユリウス2世)の甥フランチェスコ・マリア・デッラ・ローヴェレと婚約する。
しかしこれは果たされずに終わる。

1502年
コスタンツォ・ベンティヴォーリオと婚約。
これはチェーザレのボローニャ攻略を視野に入れた、ベンティヴォーリオの一角を抱きこもうという措置であった。
しかしこの婚約も履行されない。

同年1月、ルクレツィアがアルフォンソ・デステと結婚しフェラーラへ赴く時、花嫁のコンパニオン(介添え)としてルクレツィアに随行する。
美しく優雅で魅力的だったアンジェラは、フェラーラの宮廷で注目の的となり、「最もエレガントな乙女(damigella elegantisima)」と呼ばれた。

1505年
12月頃、未婚で出産。
父親はアルフォンソ・デステの異母兄弟(庶子)で、美男の誉れ高かったジュリオ・デステではないかと言われている。

アンジェラの魅力はアルフォンソの弟であるイッポーリト・デステをも虜にしており、イッポーリトとジュリオは、彼女をめぐって争った。
同年11月、イッポーリトはジュリオを襲撃し両目をえぐり取ろうとする事件を起こしている。
これはしかし、単なる三角関係の引き起こした愛憎劇ではなく、ジュリオともう1人の弟フェランテによる、アルフォンソとイッポーリトへの陰謀にまつわる一端であったよう。
(ジュリオとフェランテの逆心を察知したアルフォンソは、アンジェラを利用して謀反者のジュリオを先制した。)

1506年
12月6日、サッスーロの領主アレッサンドロ・ピオと結婚。

1508年
長男ジルベルト(Gilberto)(1508 - 1554)を出産。彼はイッポーリトの庶出の娘エリザベータ、もしくはイザベッラと結婚した。

アンジェラは姑であったエレオノーラ・ベンティヴォーリオ(Eleonora Bentivoglio)(ジョヴァンニ・ベンティヴォーリオの娘)折り合いが悪く、嫁姑戦争が引き起こされたらしい。
ルクレツィアとは親密であったようで、ルクレツィアが病床についた時は常に嫁ぎ先から駆けつけている。チェーザレの死の報を受けたルクレツィアにもつき添っている。

1516年に書かれたルネサンス期のベストセラー、アリオスト(Ludovico Ariosto)の「オルランド狂乱(Orlando Furioso)」の最終章で、アンジェラはその優美さを称えられている。







ペドロ・ルイス・デ・ボルジア・ランソル・デ・ロマーニ
(Pedro Luis Borgi Lanzol de Romni)

(1472? - 1511年10月4日(5日の説も))
ホアン・ボルジア(シレンツィオ)の兄。(弟の可能性も。)
1500年、ヴァレンシアの司教。スポレートの総督。
同年1月、弟のホアン・ボルジアが死去すると、9月28日、サンタ・マリア・イン・ヴィア・ラータの枢機卿位を引き継いだ。

1503年、アレクサンデル6世が崩御しチェーザレが捕囚となると、12月20日、彼はナポリへと移り住んだ。

アロンソ・デ・ボルハ(カリストゥス3世)からずっとボルジア家に受け継がれていたヴァレンシアの司教区は、彼を最後に他家に渡った。






シャルロット・ダルブレ(Charlotte d'Albret)

→ アルブレ家




ジョヴァンノッツァ・カッタネイ(Giovannozza Cattanei)

→ その他の人々






チェーザレ以前の人々

アロンソ・デ・ボルハ(Alonso de Borja)

(1378〜1458)






ペドロ・ルイス(Pedro Louis de Borja)(ロドリーゴの兄)

(?(弟説では1432年)〜1488年9月26日)
弟という説も。






ルイス・ホアン・デ・ミラ(Luis Juan del Mila y Borja)

(1430年、もしくは1432年頃 - 1510年)
スペイン、ハティヴァ生まれ。
カリストゥス3世の姉、カタリーナの9人の子どものうちの4番目。
アレクサンデル6世の従兄弟。
アドリアーナ・デ・ミラの伯父。

ボローニャ大学でロドリーゴとともに教会法を学ぶ。
彼の方が先にボローニャに来ており、ロドリーゴは後から入学したよう。
1453年、伯父カリストゥス3世の力により、セゴルベの司教に。1456年には枢機卿に叙階された。
1458年、ピウス2世の選出されたコンクラーヴェに、ロドリーゴとともに参加。その後、彼の死までに6回のコンクラーヴェが行われるが、どれにも参加していない。
1470年頃、イタリアを去りスペインへ。その後イタリアへ戻ることはなかった。
1510年、ヴァレンシア州のベルジーダにて死去。その地に埋葬されるが、1574年、レリーダの村アルバイダにあるドメニコ会修道院サンタ・アナに移された。

ハイメ(Jaime)という名の庶子を1人もうけた。




チェーザレ以降の人々

ルイーズ・ボルジア(Louise Borgia)

(1500年5月17日〜1553)




ジョヴァンニ・ボルジア






チェーザレの忠臣

→ チェーザレの忠臣

その他の人々

→ その他の人々






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