教会と社会
教会と社会
カトリック教会の発展と衰退
13世紀末 - 16世紀中盤までのローマ教皇の推移
教皇 | 在位期間 | できごと | 対立教皇 |
---|---|---|---|
ボニファティウス8世 | 1294〜1303 | アナーニ事件 | |
ベネディクトゥス11世 | 1303〜1304 | ||
クレメンス5世 | 1305〜1314 | 教皇のバビロン捕囚 (アヴィニヨン捕囚) | |
ヨハネス22世 | 1316〜1664 | ||
ニコラウス5世(1328〜1330) | |||
ベネディクトゥス12世 | 1334〜1342) | ||
クレメンス6世 | 1342〜1352 | ||
インノケンティウス6世 | 1352〜1362 | ||
ウルバヌス5世 | 1362〜1370 | ||
グレゴリウス11世 | 1370〜1378 | ||
ウルバヌス6世 | 1378〜1389 | 教会大分裂 | クレメンス7世 (1378〜1394) |
ボニファティウス9世 | 1389〜1404 | ベネディクトゥス13世 (1394〜1417) アロンソ・デ・ボルハは彼の元で法律家として活躍する。 | |
インノケンティウス7世 | 1404〜1406 | ||
グレゴリウス12世 | 1406〜1415 | アレクサンデル5世 (1409〜1410) | |
ヨハネス23世 (1410〜1415) | |||
マルティヌス5世 | 1417〜1431 | クレメンス8世 (1423〜1429) | |
ベネディクトゥス14世 (1424〜1429) | |||
ベネディクトゥス14世 (1430〜1437) (前教皇と同じ名だが別人) 彼がアロンソ・デ・ボルハをヴァレンシア大司教に任命する。 | |||
エウゲニウス4世 彼の下でアロンソは枢機卿としてローマへ根を下ろす。 | 1431〜1447 | バーゼルの公会議 (バーゼル・フェラーラ・フィレンツェ公会議) (1431〜1445) | |
フェリクス5世 (1439〜1449) | |||
ニコラウス5世 ローマ市の改善に努める。ヴァティカン図書館を創設。フラ・アンジェリコを重用。崩れかけていたサン・ピエトロ大聖堂の改築に着手。 | 1447〜1455 | ||
&color(sienna){カリストゥス3世(アロンソ・デ・ボルハ) ロドリーゴ・ボルジアの伯父。初のスペイン人教皇。 | 1455〜1458 | ||
ピウス2世 (エネア・シルヴィオ・ピッコローミニ) 弁舌に長けた人文主義者。「評論集」などの著作も。 | 1458〜1464 | ||
パウルス2世 (ピエトロ・バルボ)身を飾ることに腐心し、奢侈で華やかな暮らしを好んだ。ロドリーゴの友人。ヴェネツィア宮殿を建てる。 | 1464〜1471 | ||
シクストゥス4世 (フランチェスコ・デッラ・ローヴェレ)甥ジュリアーノの枢機卿任命を始め、親族登用主義を極める。メディチ家のジュリアーノ殺害する。「パッツィ家の陰謀」の陰の首謀者。システィーナ礼拝堂を建設。 | 1471〜1484 | ||
インノケンティウス8世 | 1484〜1492 | ||
アレクサンデル6世 (ロドリーゴ・ボルジア) | 1492〜1503 | ||
ピウス3世 (フランチェスコ・トデスキーニ・ピッコロミーニ) | 1503 | ||
ユリウス2世 (ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ) | 1503〜1513 | ||
レオ10世 (ジョヴァンニ・デ・メディチ) | 1513〜1521 | ||
ハドリアヌス6世 | 1522〜1523) | ||
クレメンス7世 (ジュリオ・デ・メディチ) | 1523〜1534 | ||
パウルス3世 (アレッサンドロ・ファルネーゼ) | 1534-1549 | ||
ユリウス3世 | 1550-1555 | ||
マルケルス2世 | 1555 | ||
パウルス4世 | 1555-1559 |
カトリック教会のヒエラルキー
- 教皇・・・ローマ教皇。
(法王、ローマ法王とも。まったく同じ意味だが、最近は「教皇」を正式とする動きが強い。)
地上における神の代理人として全教会、全信者を導く。カトリック教会における最高指導者。
イエス・キリストから使徒の頭に選ばれた、ペトロ(ピエトロ)の後継者、とされる。 - 枢機卿・・・教皇の最高顧問。教皇を補佐して教皇庁の行政にたずさわる役職名。
教会法に則って正式に叙任された司祭の中から教皇によって任命される。教皇の代理人として様々な場所に派遣されたりもする(教皇特使)。
枢機卿会を構成し、教皇選挙(コンクラーヴェ)を行う。教皇は枢機卿の中から選ばれる。
緋色のガウンと帽子を着用する。各自の紋章には両脇にタッセルの付いた赤い帽子が付け加えられる。
上から、
司教枢機卿
司祭枢機卿
助祭枢機卿
とランクがある。
司祭枢機卿と助祭枢機卿は各々の名義教会に任命され、司教枢機卿はローマ近郊の七つの司教管区のひとつにこれも名義的に任命される。
チェーザレはサンタ・マリア・ヌォーヴァ教会(chiesa di Santa Maria Nuova)の司教枢機卿だった。
- 大司教・・・国王や有力な諸侯のいる地方の聖堂をつかさどる司教。
- 司教・・・司教区(都市を中心につくられた教会行政における管轄区)の統率者。その地の聖堂を中心に管理行政を行う。
重要な司教区の司教は、大司教となる。 - 司祭・・・神父ともいう。各教会でミサや説教を行う。
- 助祭・・・司教や司祭を助け、ミサや説教を行う。
コンクラーヴェ 1492年
チェーザレの父、ロドリーゴ・ボルジアが選出され、アレクサンデル6世として登位したコンクラーヴェ。システィーナ礼拝堂において行われた最初のコンクラーヴェであった。
1492年7月25日、教皇インノケンティウス8世が崩御。
1492年8月6日から8月11日にかけて次期教皇を選出するコンクラーヴェが開催された。
当時の枢機卿は全27名。そのうちの23人が出席した。
遠隔地に住まう枢機卿の到着を待ったため、インノケンティウスの死後から10日以上も経ってから開催されたが、7月24日にはすでに会合が行われ、準備が開始されていた。
システィーナ礼拝堂の準備は、教皇庁式武官ヨハン・ブルカルドによって整えられた。彼の日記には必要な備品のメモが記されている。
いわく、
テーブル、イス、脚を乗せる台。
便器(行水用のたらいのようなもの)2つ。
小さなナプキン2枚。もっと小さいナプキン12枚。ハンドタオル4枚。カップを拭くフキン2枚。
カーペット。
各枢機卿の衣装をしまうチェスト。フェイスタオル。ハンカチ。
菓子箱4つ。砂糖がけパインシード1箱。マジパン。キビ砂糖。固形砂糖。ビスケット。
天秤。ハンマー。鍵。串。針。刺抜き。
ペン。葦ペン。ペンナイフ。ペンスタンド。
紙一束。
赤いろうそく。
水がめ。
塩。
ナイフ、フォーク、スプーン。
・・・・・・。
コンクラーヴェの開催前に行われるミサは、慣習として主席枢機卿が司祭することになっていたが、なぜか主席枢機卿であったロドリーゴ・ボルジアでなく、ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレが行った。
- 参加者
- ボルジア派(スフォルツァ派)
名前 | 出身 | タイトル | 叙階日 | 叙階者 | その他 |
---|---|---|---|---|---|
ロドリーゴ・ボルジア Rodrigo Borgia | スペイン | ポルト・サンタ・ルフィナの司教枢機卿 | 1456年 2月2日 | カリストゥス3世 | 主席枢機卿 ヴァレンシアの執政官 |
オリヴィエロ・カラーファ Oliviero Carafa | ナポリ | サビーナの司教枢機卿 | 1467年 9月18日 | パウルス2世 | 次席枢機卿 ナポリ出身だがナポリ王と対立 |
ドメニコ・デッラ・ローヴェレ Domenico della Rovere | サヴォーナ | サンタ・クレメンテの司祭枢機卿 | 1478年 2月10日 | シクストゥス4世 | トリノの大司教 |
ジョヴァンニ・コンティ Giovanni Conti | ローマ | サン・ヴィターレの司祭枢機卿 | 1483年 11月15日 | シクストゥス4世 | コンティ家はオルシーニ家と同盟 |
フランチェスコ・ピッコローミニ Francesco Piccolomini | シエナ | 助祭枢機卿 | 1460年 3月5日 | ピウス2世 | シエナの司教 長輔祭 後のピウス3世 |
アルディチーノ・デッラ・ポルタ Ardicino della Porta | ミラノ | サンティッシモ・ジョヴァンニ・パオロの司祭枢機卿 | 1489年 3月9日 | インノケンティウス8世 | アレリアの司教 |
ラファエーレ・リアーリオ Raffaele Riario | サヴォーナ | サン・ロレンツォ・イン・ダマソの助祭枢機卿 | 1477年 12月12日 | シクストゥス4世 | カメルレンゴ ピサ大司教 |
ジョヴァンニ・バッティスタ・オルシーニ Giovanni Battista Orsini | ローマ | サンタ・マリア・ヌォーヴァの助祭枢機卿 | 1483年 11月15日 | シクストゥス4世 | |
アスカーニオ・スフォルツァ Ascanio Sforza | ミラノ | サンティッシモ・ヴィト・モデストの助祭枢機卿 | 1484年 3月6日 | シクストゥス4世 | |
フェデリーコ・サンセヴェリーノ Federico Sanseverino | ナポリ | サン・テオドーロの助祭枢機卿 | 1489年 3月9日 | インノケンティウス8世 | ナポリ王と対立する一家の出身 |
名前 | 出身 | タイトル | 叙階日 | 叙階者 | その他 |
---|---|---|---|---|---|
ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ Giuliano della Rovere | サヴォーナ | オスティアとヴェレトリの司教枢機卿 | 1471年 12月26日 | シクストゥス4世 | アヴィニヨンの執政官 |
ジョヴァンニ・バッティスタ・ゼノ Giovanni Battista Zeno | ヴェネツィア | フラスカーティの司教枢機卿 | 1461年 11月21日 | パウルス2世 | 教皇パウルス2世の甥 |
ジョヴァンニ・ミキエリ Giovanni Michiel | ヴェネツィア | パレストリナの司教枢機卿 | 1468年 11月21日 | パウルス2世 | 教皇パウルス2世の甥 |
ジョルジュ・ダ・コスタ Jorge da Costa | ポルトガル | アルバノの司教枢機卿 | 1476年 12月16日 | シクストゥス4世 | リスボンの大司教 |
ジローラモ・バッソ・デッラ・ローヴェレ Girolamo Basso della Rovere | サヴォーナ | サン・クリソーニョの司祭枢機卿 | 1477年 12月10日 | シクストゥス4世 | リカナティ・マセラータの司教 教皇シクストゥス4世の甥 |
パウロ・フレゴーソ Paulo Fregoso | ジェノヴァ | サン・シストの司祭枢機卿 | 1480年 5月15日 | シクストゥス4世 | ジェノヴァの大司教 |
ロレンツォ・チーボ・ディ・マリ Lorenzo Cibò di Mari | ジェノヴァ | サン・マルコの司祭枢機卿 | 1489年 3月9日 | インノケンティウス8世 | ベネヴェントの大司教 教皇インノケンティウス8世の甥 |
マッフェオ・ゲラルディ Maffeo Gherardi, O.S.B.Cam. | ヴェネツィア | 司祭枢機卿 | 1489年 3月9日 | インノケンティウス8世 | ヴェネツィアの総大司教 |
ジョヴァンニ・バッティスタ・サヴェッリ Giovanni Battista Savelli | ローマ | 助祭枢機卿 | 1480年 3月15日 | シクストゥス4世 | ボローニャの総督 コロンナ家と同盟 |
ジョヴァンニ・コロンナ Giovanni Colonna | ローマ | サンタ・マリア・アクイロの助祭枢機卿 | 1480年 3月15日 | シクストゥス4世 | ローヴェレと同盟 |
- 中立派
名前 | 出身 | タイトル | 叙階日 | 叙階者 | その他 |
---|---|---|---|---|---|
ジョヴァンニ・ジャコモ・スクラフェナーティ Giovanni Giacomo Sclafenati | ミラノ | サン・セシリアの司祭枢機卿 | 1483年 11月15日 | シクストゥス4世 | パルマの司教 |
アントニオット・パラヴィチーニ Antoniotto Pallavicini | ジェノヴァ | サン・プラッセーデの司祭枢機卿 | 1489年 3月9日 | インノケンティウス8世 | オレンゼの司教 |
ジョヴァンニ・デ・メディチ Giovanni de Medici | フィレンツェ | サンタ・マリア・イン・ドメニカの助祭枢機卿 | 1489年 3月9日 | インノケンティウス8世 |
※ ジョヴァンニ・デ・メディチは、1489年の時点でインノケンティウス8世により枢機卿への叙階されていた。
正式に枢機卿団への参加が認められたのは1492年3月23日。
ゲラルディとサンセヴェリーノは、教皇による正式な叙階を公宣言されていなかったが、オルシーノとスフォルツァが代理で行い、コンクラーヴェへの参加が認められた。
- 欠席者
ルイス・ホアン・デ・ミラ Luis Juan del Mila y Borja | スペイン | クワトロ・コロナティの司祭枢機卿 | 1456年 2月20日 | カリストゥス3世 | レリーダの司教 |
ペドロ・ゴンサレス・デ・メンドゥーサ Pedro González de Mendoza | スペイン | サンタ・クローチェの司祭枢機卿 | 1473年5月7日 | シクストゥス4世 | トレドの大司教 |
アンドレ・デスピナ André d'Espinay | フランス | サン・シルヴェストロの司祭枢機卿 | 1489年3月9日 | インノケンティウス8世 | ボルドーとリヨンの大司教 |
ピエール・ドビュッソン Pierre d'Aubusson | フランス | サン・アドリアーノの助祭枢機卿 | 1489年3月9日 | インノケンティウス8世 | 世ヨハネ騎士団長 |
8月10日、3回の投票を終えても新教皇は決定しえなかった。
ボルジアはまず、3人のヴェネツィア人枢機卿の中でも最も有力者であった、マッフェオ・ゲラルディを落としにかかる。
ゲラルディがボルジア派となったことによって、ヴェネツィアの票はローヴェレからボルジアへと流れることになる。
そしてサヴェッリとコロンナが篭絡されると、中立であった者もボルジア支持を受け入れる。
ローヴェレとコスタの2人は最後まで頑迷に拒否し続けたが、最終的には多数決を受け入れないわけにはいかなかった。
11日朝、ロドリーゴ・ボルジアはアレクサンデル6世として、教皇に選出された。
戴冠式は8月26日に行われた。
カメルレンゴ(Camerlengo)
枢機卿の中から、ローマ教皇の指名によって決められる、教皇庁の役職のひとつ。
教皇空位時(つまり教皇の亡くなった時)に、教皇庁の財産を管理し、葬儀の手配をし、コンクラーヴェを取り仕切る。
チェーザレの時代前後のカメルレンゴ
年 | カメルレンゴ | 取り仕切ったコンクラーヴェ |
---|---|---|
1471 | 1477 | ラティーノ・オルシーニ(Latino Orsini) | 1471年8月6日~9日 シクストゥス4世選出 |
1477 | 1483 | ギョーム・デストゥトヴィル (Guillaume d'Estouteville) | |
1483 | 1521 | ラファエーレ・リアーリオ (Raffaele Sansoni Galeotti Riario) | 1484年8月26日~29日 インノケンティウス8世選出 |
1492年8月6日~11日 アレクサンデル6世選出 | ||
1503年9月16日~22日 ピウス3世選出 | ||
1503年10月31~11月1日 ユリウス2世選出 | ||
1513年3月4日~9日 レオ10世選出 | ||
1521 | インノチェンチョ・チーボ(Innocenzo Cybo) | 1521年12月27日~1522年1月9日 ハドリアヌス6世選出 |
1521 | 1528 | フランチェスコ・デ・メディチ (Francesco Armellini Pantalassi de' Medici) | 1523年10月1日~11月19日 クレメンス7世選出 |
1528 | 1537 | アゴスティーノ・スピノラ(Agostino Spinola) | 1534年10月11日~13日 パウルス3世選出 |
1537 | 1564 | グイド・アスカーニオ・スフォルツァ (Guido Ascanio Sforza di Santa Fiora) | 1549年11月29~1550年2月7日 ユリウス3世選出 |
15世紀半ばのヴァティカン、サン・ピエトロ大聖堂

①サンタ・ポリナーレ聖堂
柱廊の下の部分が聖堂にあたる。
15世紀から16世紀にかけて、2階部分は大幅に増改築された。
②サンタ・マリア・イン・ポルティコ
教皇パウルス2世(在位1464年 - 1471年)によって建てられた。サン・ピエトロ大聖堂への入口とつながっている建物。
ロドリーゴ・ボルジアが教皇に選出されてから、ルクレツィアはジュリア・ファルネーゼやアドリアーナ・デ・ミラとともにここに移り住んだ。
ホフレとサンチャの住まいもここ。
枢機卿館とも呼ばれる。
③サン・ピエトロ大聖堂への入口
1449年、教皇ニコラウス5世が改築した3連の扉をもつ。中央の扉は両脇のものよりもやや大きい。
④祝福のロッジア
教皇ピウス2世によって着工され、インノケンティウス8世、アレクサンデル6世によって拡大された柱廊建築。
ここから、教皇は広場に集まった人々に対して祝福を送った。
3階部分を作ったのがアレクサンデル6世。(画上にはまだない。)
⑤ヴァティカン宮殿への入口
古代の凱旋門を模倣した古典的な様式の門をもつ。
17世紀に取り壊されるまで、この姿を保っていた。
⑥鐘楼
教皇レオ4世(847年 - 855年)によって作られた初期ロマネスク様式の鐘楼。
⑦アトリウム
柱廊に囲まれた中庭。現在の大聖堂の前階段は、この中庭のちょうど中ほどくらいになる。
⑧サン・ピエトロ大聖堂
コンスタンティヌス帝によって建てられた大聖堂。
⑨システィーナ礼拝堂
教皇シクストゥス4世によって、1475年から1481年にかけて建てられた。完成後、ボッティチェリらによって壁画が描かれる。
天井画はまだなく、天空が描かれていた。
1492年、ロドリーゴ・ボルジアがアレクサンデル6世として選出されたコンクラーヴェが、システィーナ礼拝堂で行われた最初のコンクラーヴェだった。
⑩オベリスク
紀元前41年、カリグラ帝によってエジプトから運びこまれたオベリスク。ネロ帝の競技場の中央に15世紀以上もの間屹立していた。
(画上に見られる場所がその場所。)
1586年、教皇シクストゥス5世の命により、建築家ドメニコ・フォンターナが現在のサン・ピエトロ広場中央に移動した。
⑪サンタ・マリア・デッラ・フェッブリ教会
カリストゥス3世とアレクサンデル6世が埋葬された教会。
→ サンタ・マリア・デッラ・フェッブリ教会
⑫サンタ・マリア・ペトロニッラ教会
フェッブリ教会と対のような円形聖堂。
聖ペトロの娘とされる聖女ペトロニッラに捧げられた教会。
⑬階段
7段ずつに分かれた計35段の階段。
両脇の手すりの最前面上部には、聖ペトロと聖パウロの像が置かれていた。
(画上には向かって右側の聖パウロのみが小さく見える。)
階段の手前には広場が広がり、1490年にインノケンティウス8世によって作られ、アレクサンデル6世、ユリウス2世によって修復された上下二層の水盤をもつ噴水がある。(画上には描かれていない。)
各地の教会 - イタリア
イモラ
ウルビーノ
- サン・フランチェスコ教会(Chiesa di San Francesco)
- ドゥオーモ(Duomo di Urbino)
- サン・ドメニコ教会(Chiesa di San Domenico)
- サン・タゴスティーノ教会(Chiesa di Sant'Agostino)
シエナ
チェゼーナ
ナポリ
ピオンビーノ
ピサ
- 大聖堂(Duomo di Pisa)
- サン・ミケーレ・イン・ボルゴ教会(Chiesa di San Michele in Borgo)
- サン・フレディアーノ教会(Chiesa di San Frediano)
ファエンツァ
フィレンツェ
- ドゥオーモ(サンタ・マリア・デル・フィオーレ教会)(Duomo(Cattedrale di Santa Maria del Fiore))
- サン・ロレンツォ教会(Basilica di San Lorenzo)
- メディチ家礼拝堂(Cappelle Medicee)
- サンタ・クローチェ教会(Basilica di Santa Croce)
- サンタ・マリア・ノヴェッラ教会(Basilica di Santa Maria Novella)
フェラーラ
- 大聖堂(Cattedrale)
- コルプス・ドミニ修道院(Monstero Corpus Domini)
- サン・タントニオ・イン・ポレージネ修道院(Monsteo di S'Antonio in Polesine)
フォルリ
ペーザロ
ボローニャ
マントヴァ
ミラノ
リミニ
ローマ
- サン・ピエトロ大聖堂(Basilica di San Pietro in Vaticano)
- サンタ・マリア・デル・ポポロ教会(Basilica di Santa Maria del Popolo)
- サン・マルコ教会(Basilica di San Marco)
- ジェズ教会(Chiesa del Gesù)
- サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会(Basilica di Santa Maria sopra Minerva)
- サン・タゴスティーノ教会(Basilica di Sant'Agostino in Campo Marzio)
- サンタ・マリア・ディ・モンセラート教会(Chiesa di Santa Maria in Monserrato degli Spagnoli)
- サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂(Basilica di Santa Maria Maggiore)
- サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ教会(Basilica di San Pietro in Vincoli)
- サンティ・クァットロ・コロナーティ教会(Basilica dei Santi Quattro Coronati)
- サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラーノ教会(Basilica di San Giovanni in Laterano)
- サン・シスト教会(Basilica di San Sisto Vecchio)
各地の教会 - スペイン
ヴァレンシア
- [[ヴァレンシア大聖堂(Catedral de Santa María de Valencia)>ヴァレンシアValencia #q600465a]]]
ガンディア
ハティヴァ
ヴィアナ
パンプローナ
コレッラ
ボルハ
a:19821 t:5 y:2