チェーザレ・ボルジアについて、とりとめのないけれど愛に満ちた探究心を発揮するサイトです。

用語解説

用語解説

ア行

イタリア戦争

ヴィカーリオ(伊・Vicario)




カ行

カメルレンゴ(Camerlengo)

枢機卿の中から、ローマ教皇の指名によって決められる、教皇庁の役職のひとつ。
教皇空位時(つまり教皇の亡くなった時)に、教皇庁の財産を管理し、葬儀の手配をし、コンクラーヴェを取り仕切る。

チェーザレの時代周辺のカメルレンゴ

カメルレンゴ取り仕切ったコンクラーヴェ
1471
 |
1477
ラティーノ・オルシーニ(Latino Orsini)1471年8月6日~9日 シクストゥス4世選出
1477
 |
1483
ギョーム・デストゥトヴィル
(Guillaume d'Estouteville)
1483
 |
1521
ラファエーレ・リアーリオ
(Raffaele Sansoni Galeotti Riario)
1484年8月26日~29日 インノケンティウス8世選出
1492年8月6日~11日 アレクサンデル6世選出
1503年9月16日~22日 ピウス3世選出
1503年10月31~11月1日 ユリウス2世選出
1513年3月4日~9日 レオ10世選出
1521インノチェンチョ・チーボ(Innocenzo Cybo)1521年12月27日~1522年1月9日 ハドリアヌス6世選出
1521
 |
1528
フランチェスコ・デ・メディチ
(Francesco Armellini Pantalassi de' Medici)
1523年10月1日~11月19日 クレメンス7世選出
1528
 |
1537
アゴスティーノ・スピノラ(Agostino Spinola)1534年10月11日~13日 パウルス3世選出
1537
 |
1564
グイド・アスカーニオ・スフォルツァ
(Guido Ascanio Sforza di Santa Fiora)
1549年11月29~1550年2月7日 ユリウス3世選出


ガレー船

両舷にある多数の櫂を、人力で漕ぐことにより進む軍船。漕ぎ手を2段や3段にしたものもある。
風向きが不安定で弱い地中海で、古代ギリシャ・ローマから18世紀まで用いられた。


カンタレラ(Cantarella)

ボルジア家が用いたとされる毒薬の名称。
口当たりのよい白い粉末で、分量を調節することによって、効果の表れる時期を調整できた。指輪の中に仕込み、ワイン、スープなどに混入したとされる。
当時はまことしやかにその存在がささやかれていたようだが、今日では伝説にすぎないというのが定説。
(実際、15世紀あたりの毒薬の製法はお粗末で、一定の期間をおいて効力を発揮できるようなものは、まず作れなかったと言う。)
語源はカンタリス(cantharis ラテン語)から来ていると思われる。

カンタリジンをもつツチハンミョウ科のスパニッシュフライ(Lytta vesicatoria)

カンタリスとは、ツチハンミョウ科のカンタリジン(cantharidin)という有機化合物を持つ甲虫を乾燥させた薬品。軟膏などとして使われたり、発毛剤、発泡剤にも用いられているよう。
が、非常に強い毒物であり、1.5グラム(ツチハンミョウ数匹分)で致死量となる。少量だと催淫の効果をもたらすとも言われている。



イタリア語の「cantare」(カンターレ)には「歌う」の他に「強請る」という意味があり、その語に由来するという説もある。
また、逆さにぶらさげて撲殺した豚の内臓に亜ヒ酸を加えて精製した、という説もある。

歴史家ブルクハルトは、
ジェーム王子、
ジャンバッティスタ・オルシーニ枢機卿、
ジョヴァンニ・ミキエル枢機卿、
ホアン・ボルジア(シレンツィオ)枢機卿、
など多くがこのカンタレラによって毒殺され、またアレクサンデル6世とチェーザレは1503年にこれを誤飲し病に伏した、としている。


教会の旗手

→ ゴンファロニエーレ・デッラ・キエーザ

教会大分裂


教皇

ローマ教皇。
(法王、ローマ法王とも。まったく同じ意味だが、最近は「教皇」を正式とする動きが強い。)
地上における神の代理人として全教会、全信者を導く。カトリック教会における最高指導者。
イエス・キリストから使徒の頭に選ばれた、ペトロ(ピエトロ)の後継者、とされる。

教皇軍


教皇派(教皇党)(ゲルフ)(伊・Guelfi 英・Guelphs)

11世紀から、教皇と神聖ローマ帝国皇帝は、聖職者叙任権などをめぐり、権力争いを繰り返していた。
イタリアを教皇の権威の下におきたい教皇と、ローマ皇帝の名の下、支配したい皇帝。確執は、12〜13世紀にはイタリア諸都市を巻きこみ、都市は教皇派(ゲルフ)と皇帝派(ギベリン)に分かれ、衝突した。
教皇派は富裕商工業者が多く、皇帝派は貴族が多かった。
14〜15世紀(チェーザレの時代)になると、本来の教皇・皇帝間の対立を指して言うのではなく、抗争を繰り返す都市の、勢力と派閥の区分としての呼称となった。
(都市間の利害など、現実的な対立が、二派の区分となっていった。フィレンツェが教皇派なら、仲の悪いピサはじゃあ皇帝派、みたいな。)
シェイクスピアの「ロミオとジュリエット」の設定(敵同士の二家に生まれた恋人同士の悲恋)は、教皇派と皇帝派に分かれて対立した二家がモデルだったらしい。
教皇派・・・ジェノヴァ、ボローニャ、ペルージャ、フィレンツェ、オルシーニ
皇帝派・・・ミラノ、ナポリ、モデナ、ピサ、アレッツォ、シエナ、ウルビーノ、コロンナ家、メディチ家(ロレンツォ・イル・マニーフィコ)



教皇庁式部官(伊・maestro di cerimonie)

教皇庁の祭典・儀式および接待に当たる役職。儀典長。
アレクサンデル6世在位時には、ヨハン・ブルカルドがこの地位についていた。


教皇領(伊・Stato della Chiesa 英・Cherch State)

754年〜755年、フランク王国カロリング朝国王ピピンが、教皇ステファヌス3世の要請でランゴバルド(ロンバルドとも。6世紀イタリアに侵入したゲルマンの一部族。イタリア全土の征服を目指し、ローマ教皇を脅かしていた。ロンバルディアの地名はこの国に由来している。フェラーラのエステ家の祖先はランゴバルドの貴族だったらしい。)を討伐した。

ピピンは獲得したラヴェンナ(イタリア北方、フェラーラの近くの地)を教皇へと寄進。(ピピンの寄進 Pipino il Breve 伊 という。)これが教皇領の本格的なはじまりとなる。
土地を所有し、民衆を支配することになった教会は、これをきっかけに世俗化し、ひとつの国家のようになっていく。
一時教皇の権力は、神聖ローマ帝国皇帝のそれをもしのぐ勢いを見せるが、教皇のアヴィニョン捕囚(1309〜1377)、教会大分裂(1378〜1417)を経て、弱体化し、各地を支配する豪族が僭主(シニョーリア signoria 伊)として力を伸ばし、教皇代理(ヴィカーリオ Vicario 伊)の資格を得、都市国家を形成していくことになる。

チェーザレは、この分裂した教皇領の統一を、そしてイタリア全土の統一を目指した。


虚飾の焼却

1494年メディチ家がフィレンツェから追放されて後、共和制となったフィレンツェで実権を握ったドメニコ会修道士サヴォナローラが行った、ぜいたく品の焼却のこと。絵画や彫刻、工芸品、書物、チェス版、仮面、祝祭用の衣装、装身具などが広場に山と積まれ燃やされた。ボッティチェリも自分の描いた官能的な絵画を投げこんだらしい。



金のバラ(rosa d'oro)

14世紀の「金のバラ」

教皇から贈られる記念品のひとつ。バラの一枝をかたどった装飾品。
教会への貢献に対して褒賞として授与された。
起源は明らかになっておらず、シャルルマーニュ(742~814)の時代に遡るというものや、12世紀であるとするものもある。

1500年3月29日、チェーザレは父である教皇アレクサンデル6世により、イモラとフォルリの地を教会の支配の下へ回復したとして、この「金のバラ」を賜った。
アレクサンデル6世は他に、
1493年、カスティーリャ女王のイザベッラ、
1496年、スペイン人武将ゴンサロ・フェルナンデス・デ・コルドバ、
にもこれを下賜している。


皇帝派(皇帝党)(ギベリン)(伊・ghibellini 英・Ghibellines)

11世紀から、教皇と神聖ローマ帝国皇帝は、聖職者叙任権などをめぐり、権力争いを繰り返していた。
イタリアを教皇の権威の下におきたい教皇と、ローマ皇帝の名の下、支配したい皇帝。確執は、12〜13世紀にはイタリア諸都市を巻きこみ、都市は教皇派(ゲルフ)と皇帝派(ギベリン)に分かれ、衝突した。
教皇派は富裕商工業者が多く、皇帝派は貴族が多かった。
14〜15世紀(チェーザレの時代)になると、本来の教皇・皇帝間の対立を指して言うのではなく、抗争を繰り返す都市の、勢力と派閥の区分としての呼称となった。
(都市間の利害など、現実的な対立が、二派の区分となっていった。フィレンツェが教皇派なら、仲の悪いピサはじゃあ皇帝派、みたいな。)
シェイクスピアの「ロミオとジュリエット」の設定(敵同士の二家に生まれた恋人同士の悲恋)は、教皇派と皇帝派に分かれて対立した二家がモデルだったらしい。
教皇派・・・ジェノヴァ、ボローニャ、ペルージャ、フィレンツェ、オルシーニ
皇帝派・・・モデナ、ピサ、アレッツォ、シエナ、ウルビーノ、コロンナ家

国土回復運動

→ レコンキスタ


コンクラーヴェ(conclave)

枢機卿の人々によって行われる、ローマ教皇を選ぶ選挙。(教皇は一度選出されると終身制であるが、後継者の指名はできない。)枢機卿の中から選ばれ、ヴァティカン、システィーナ礼拝堂で行われる。
無記名で投票。得票数3分の2以上で選出。自分への投票は不可。(チェーザレの時代の制度。それ以前、以降では多々の変更が見られる。)
コンクラーヴェの語源はラテン語で、「cum clavi = with key 鍵のかかった」という意味。選挙の間、機密を守り干渉を防ぐため、枢機卿団が缶詰にされていたことに由来している。



コンスタンティヌスの寄進状(ラ・Constitutum Constantini 伊・Donazione di Costantino)

4世紀、ローマ帝国皇帝コンスタンティヌスが、ローマ教皇シルウェステルに、権力のすべてをゆだねるということを記した文書。

「自分(コンスタンティヌス)はハンセン病を患っていたが、ローマ教皇シルウェステルによる洗礼を受けた後、治癒した。
その感謝の印として、教皇に自分と等しい権力を与え、全西方世界をゆだね、自分はコンスタンティノープルに隠遁する。」
と書かれている。

中世の叙任権闘争時、教会はこれを根拠として、皇帝に対する教皇の優位を主張した。
また、800年のフランク王国カール大帝への戴冠も、この文書を根拠として行われた。

が、15世紀、人文学者ロレンツォ・ヴァッラによって、ラテン語の用法の齟齬から、その正統性が疑われ、偽作であると判断された。
その後いく度もの論議を経て、18世紀に偽作であると断定されている。
8世紀のローマ教皇、ステファヌス2世の側近らによって作られたものとされる。

ローマ、クァットロ・コロナーティ教会には、コンスタンティヌス帝とシルウェステル教皇にまつわるフレスコ画が描かれている。


ゴンファロニエーレ・デッラ・キエーザ(Gonfaloniere della chiesa)




サ行


司教

司教区(都市を中心につくられた教会行政における管轄区)の統率者。その地の聖堂を中心に管理行政を行う。
重要な司教区の司教は、大司教となる。


司祭

神父ともいう。各教会でミサや説教を行う。


シニガリア事件

→ シニガリア事件


シニョーリア


謝肉祭(伊・carnevale)


自由学芸の七科 (自由七学科)

中世からの教育の主要学科。

  • 三学
    • 文法
    • 弁証法(論理学とほぼ同様のもの)
    • 修辞学(弁論の術。いかに聴衆を説得できるかという演説の技術。)
  • 四科
    • 算術
    • 幾何
    • 音楽
    • 天文学(占星術とほぼ同様のもの。ルネッサンス期に入っても、占星術は政治と密接な関わりを持っていた。)




修道院


修道士(女)


十字軍



尚書院

教皇庁の管理、運営を司る機関。ヨハネ23世(在位 1316〜1334)によって組織化された。最高責任者は教皇。
チェーザレは1483年3月、8歳で尚書院のメンバー(教皇庁書記長)に、
ロドリーゴは1457年から教皇に選出される1492年まで、教皇庁尚書院副尚書(教皇に次ぐ、ナンバー2の地位。)を務めた。

贖宥状



庶子

正統な結婚以外の男女の結びつきから生れた子どものこと。つまり愛人とか妾とかの子どもであるということ。
当時のカトリックの社会では、庶子は市民の権利が希薄だったり、かなりの差別を受けていた。
なかでも、チェーザレの父ロドリーゴは聖職者であったため、結婚すること自体がありえないことであり、つまりはチェーザレの存在は「認められない子」であった。
そのためロドリーゴはチェーザレに形式上の父親(ドメニコ・ダリニャーノ)を与え、体裁を整えた。

しかし、庶子はそう珍しい存在ではなく、さまざまなハンデを持ちながらも家督を継いだりした者もけっこういる。


神権政治

神聖同盟


人文主義

中世の神中心・教会中心の考え方を脱し、古代ギリシャ・ローマの古典を学ぶことによって、人間中心の世界観を構築しようとした、知識人たちの動き。
ルネッサンス初期のイタリアで始まる。
神と教会中心の世界観からの脱却と言っても、キリスト教と対立するものではなかった。
有名どころは、

  • ペトラルカ(人文主義者の父)
  • ピウス2世
  • マキァヴェッリ
  • エラスムス
  • トマス・モア
  • モンテーニュ

・・・など多数。
英語ではヒューマニズム(humanism)と訳されるが、人道主義、博愛主義とはまったく別物。


枢機卿(ラ・Cardinalis 伊・Cardinale 英・Cardinal)

教皇の最高顧問。教皇によって叙任される。枢機卿会を構成し、教皇選挙(コンクラーヴェ)、教会行政の補佐を行う。
緋色のガウンと帽子を着用する。

ストラディオット(伊・ stradioto)

もともとは、東ローマ帝国で各地方を守備していた兵士のこと。
中世末期からルネサンスにかけてのストラディオットとは、イスラム勢力の軽装騎兵に対抗するために、彼らを参考に組織された軽装騎兵である。
ギリシャ人やアルバニア人など、イスラム勢力に比較的に近い位置に存在し、東ローマ帝国の旧領だったバルカン半島の傭兵から成る。
軽装騎兵を重視していたチェーザレの軍には、彼らの編隊が属していた。


聖年(ラ・Iobeleus 伊・Giubileo)

サン・ピエトロ大聖堂、「聖なる扉」

カトリック教会において、ローマに巡礼した者には特別な恩赦が与えられるとされる年。
1300年に教皇ボニファティウス8世が設定した。
100年の節目ごと設けるとされたが、1343年にクレメンス6世が50年ごとに変更、さらに1470年にパウルス2世が25年ごとにと変更した。以来その間隔が守られている。

サン・ピエトロ大聖堂の、通常は閉じられている「聖なる扉」が開かれ、巡礼者たちはここより入場する。
(この慣例を始めたのはアレクサンデル6世と言われる。)
サンタ・マリア・マッジョーレ教会、
サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラーノ大聖堂、
サン・パウロ大聖堂、
(これら4つの教会が4大バジリカ)にある「聖なる扉」も同様のことが行われる。
ローマや教皇庁にとっては、多くの巡礼者たちがお金を落としていく、ありがたい機会でもある。

1500年の聖年時は教皇アレクサンデル6世が在位していた。この時寄進された多くの金品が、チェーザレの軍費にまわされたと言われる。


勢力均衡政策




タ行

中世

古代と近世の間にある時代区分。
ヨーロッパの中世は、4世紀末のゲルマン人の移動から15世紀末まで。(西ローマ帝国の滅亡(476年)から東ローマ帝国の滅亡(1453年)までとする考えも。)
ルネサンス以降、もしくは宗教改革以降から近代。これも、ルネサンスを中世に含めるかどうかは議論があるらしい。ややこしいぜ。


ドージェ


ドゥカート(伊・Ducato)

ドゥカーティ(Ducati)とも。これはDucatoの複数形。
1284年から500年間ヴェネツィアで使用された金貨。直径約2センチ、重さ約3.5グラム。純度99.7パーセントの純金。
14世紀半ばからヨーロッパ広域の機軸通貨として力をもつ。
ドゥカート金貨1枚で銀貨124枚分。
同価値の金貨はフィレンツェのフィオリーノ(Fiorino)(フローリン Florin 英語)。
(惣領冬実「チェーザレ」4巻でチェーザレがアンジェロに渡しているのが、フィオリーノ金貨。)
1ドゥカートが現在の日本円でいくらであるのか、は諸説あり、(というより、「当時の貨幣の価値と我々の時代のそれとの正確な関係を立証することは不可能 BY林要一」であるよう。 )

  1. マリーア・ベロンチは 1万5,000円 (「ルクレツィア・ボルジア」)
  2. 塩野七生は 6,000円 (「神の代理人」「ルネサンスの女たち「」)
  3. もしくは 10万円 (「海の都の物語」)
  4. 惣領冬実は 12万5,000円 (「惣領冬実@web」)
  5. 林要一は 6万円 (「ルネッサンス期イタリアの傭兵隊長」早大地中海文明研究会)

としている。
林要一の、1ドゥカート=6万円というのは、イタリアの土地価格を基礎に算出しており、日本とイタリアの土地相場の相違を考えると、これよりかなり高額となる可能性が高い、らしい。
まあ、大体10万円くらい、と考えると計算もしやすいし、いいんじゃないのか?ダメ?
ちなみに

  • 年収1,000ドゥカーティ以上で上流階級。
  • チェーザレがパンプローナ司教として受け取っていた収入が1万2,000ドゥカーティ。
  • 枢機卿の平均年収が3万5,000ドゥカーティ。
  • チェーザレがフランスに行ったときに持参してたのが20万ドゥカーティ。
  • ルクレツィアのフェラーラへの結婚持参金が10万ドゥカーティ。(金貨のみで。宝石や領地など、さまざまなものを総額すると30万ドゥカーティ。)(持参金として、この金額は破格。)
  • イザベッラ・デステのマントヴァへの結婚持参金が2万6,000ドゥカーティ。(持参金として、この金額は妥当。)
  • ホアンが死んだとき懐にあったのが30ドゥカーティ。
  • 傭兵隊長フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロに支払われた1年間の契約金額(1467年、教皇、ミラノ公、ナポリ王、フィレンツェ共和国が共同で雇用)が、
    平常時=3万6,000ドゥカーティ
    戦争時=6万ドゥカーティ
  • ミケランジェロに払われた、サン・ピエトロ大聖堂にあるピエタ像の制作費が450ドゥカーティ。
  • 小麦約33キロが0.25ドゥカーティ。


ドメニコ会


ナ行

ネポティズモ


ハ行

バジリカ(伊・Basilica)

2つの意味をもつ。

  1. 建築様式のひとつ。
    長方形の建物で、中央の広間、採光用の高窓(クリアストーリ)、列柱を持つ。
    古代ローマ時代に裁判所や商業取引所として使われた建物の形式だった。
    そこから派生して、同様の様式を持つキリスト教の教会堂をバジリカと呼ぶ。
  2. 一般の教会堂よりも上位にある教会堂。
    ローマ教皇によって、一般の教会堂より上位にあることを認められた教会堂をバジリカ(伊・basiliche papali 、basiliche patriarcali)と言う。
    バジリカは世界中に1500近く存在するが、中でもローマにある4つのバジリカを4大バジリカ、これに3つを加えて7大バジリカとする。


パッツィ家の陰謀

→ パッツィ家の陰謀


パリオ(伊・Palio)

パーリオとも。
もともと「優勝旗」を意味する言葉で、騾馬や他の動物、船などの競争のことである。
イタリア各地で行われているが、シエナのカンポ広場で年に2回、7月12日と8月16日に行われるものが世界的に有名。鞍や鐙を用いず手綱のみで騎乗し行われる競馬で、12世紀頃から始まり現在まで続いている。
シエナにある17の地区の対抗戦であるが、チェーザレの時代には各国から代表馬が集まる、重要な外交の場でもあった。
また当時はカンポ広場での開催ではなく、街道を走り大聖堂前にゴールする、というものであった。
1492年8月のパリオに、チェーザレは自分の馬を出場させている。
塩野七生「チェーザレ」において、その騎手はドン・ミケロットことミゲル・ダ・コレッラとなっている。


反宗教改革

宗教改革とそれに伴って勃興したプロテスタントに対抗し、カトリック教会の組織を建て直してプロテスタントの拡大を食い止めようとした運動。
しかし近年では、宗教改革以前の、カトリック教会改革をも指して言うよう。
対抗宗教改革。カトリック改革。


ピッティ家の陰謀

1466年、ピッティ家を中心とした反メディチ派が、ピエロ・デ・メディチ(イル・ゴットーゾ)を暗殺して、メディチの転覆を謀ろうとした事件。

メディチ派はフェラーラ公ボルソ・デステを味方につけ、フィレンツェへ派兵させる。そして、別荘(カレッジ)で静養中のピエロを狙い、刺客を送る。

しかしピエロは、ボローニャのジョヴァンニ・ベンティヴォーリオから、いち早くこの情報をキャッチしていた。
彼は8月27日、暗殺を回避し、ミラノ公ガレアッツォ・マリア・スフォルツァへ軍の派遣を要請する。そして首謀者の一員ルカ・ピッティと講和交渉をはじめる。

早期発覚と迅速なピエロの対応によって、陰謀はすぐに終息する。
関係者は罰金刑や追放に処され、メディチのフィレンツェ支配は再強化されることになった。


副尚書(ふくしょうしょ)(伊・vice cancelliere)

教皇庁尚書院の最高責任者である教皇、に次ぐ地位。実際の業務を執り行う。
「副」の付かない「尚書」の位はない。これは、12世紀に尚書院のトップが権力を掌握しすぎたために廃止された。(「副」をつけることによって、そんなには高位ではない体裁をとっている。実質的には当時と変わらない最高権力を持つ。)
教皇の威光に配慮して、「副」と付けられているとも言われる。

1457年から教皇となる1492年まで、ロドリーゴ・ボルジアがその役を務めた。

長官代理と訳されていることも多いが、それはイタリア語「vice cancelliere」を英訳すると「vice chancellor」となり、それを日本語訳すると、「副長官、副首相」ということになるから、と思われる。


復活祭(伊・Pasqua 英・Easter)

キリストが死後3日目によみがえったことを記念する祝日。春分後の最初の満月の後の日曜日に祝われる。(毎年日づけが変わる移動祝日である。)だいたい3月22日から4月25日のいずれかの日曜日にあたるよう。


ブラッチャ(Braccia)

長さを表す単位。1ブラッチャは約60センチ。
本来は「腕」の意味で、腕1本分の長さが元になっている。


フランス病

梅毒のこと。
性病のひとつで、陰部、口腔粘膜から感染。
感染後約3週間で発症。リンパ節が腫れ、赤い発疹が現れる。やがては 臓器に腫瘍が発生、脳、脊髄、神経を侵され、死亡する。
コロンブスのアメリカ到達、シャルル8世のナポリ侵攻で、世界に広がった、とされる。
チェーザレをはじめ、当時の多くの人々が患っていたよう。
意図的にマラリアに感染させて高熱を出させ、体内の梅毒トレポネーマを死滅させる、という荒療治が行われていたようなので、マラリアにかかった後のチェーザレは、治っていたかも?


フランチェスコ会

フロリン

ペスト


ペニテンツィエリ宮(Palazzo dei Penitenzieri)

チェーザレが一時住んでいたという宮殿。しかし建てたのはシクストゥス4世の甥で、ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレの弟である、ドミニコ・デッラ・ローヴェレ枢機卿。(1480年〜1490年に建立。)
現在はホテルコロンブス(Hotel Columbus)という4つ星ホテルになっている。ヴァティカン、サン・ピエトロ大聖堂からまっすぐのびるConciliazioneコンツィリアツィオーネ通りにある。2階の一室に残っているフレスコ画は、アレクサンデル6世のお気に入りだったピントリッキオの作。
シャルル8世のナポリ侵攻時、ローマに立ち寄った彼は、ここに滞在している。(ヴァティカンよりも気に入ったらしい。)(サン・マルコ宮殿(現ヴェネツィア宮)に滞在とも言われているが、ホテルコロンブスHPには、そのように紹介されている。)


法王

ローマ法王。(教皇、ローマ教皇とも。まったく同じ意味だが、最近は「教皇」を正式とする動きが強い。)カトリック教会における最高指導者。
イエス・キリストから使徒の頭に選ばれた、ペトロの後継者、とされる。

封建社会


封土

君主(王、皇帝、教皇など)が、家臣に与えた土地のこと。()




マ行

マジョーネの反乱

→ マジョーネの反乱


マラリア


紋章(伊・Stemma 英・Coat of arms)

→ 紋章




ヤ行

傭兵(伊・Condottiero 英・Condottiere)

金銭などの報酬と引き換えに軍務につく兵。その中で中世末期〜16世紀半ばに活躍したイタリア人傭兵をコンドッティエーロという。(複数形はコンドッティエーリ)
封建制の解体とともに、主従関係が金銭化され、軍隊の傭兵化が進んだ。独立都市国家の乱立したイタリアでは、多くの傭兵が必要とされ(特にヴェネツィアやジェノヴァ、フィレンツェ、シエナなど。東方貿易により栄え都市として発展した分、守りを強化する必要があった。)、小領主たちは自らを傭兵隊長として売りこみ、傭兵契約を交わした。この契約をコンドッタといい、コンドッティエーロという語はここからきている。
傭兵隊長の中にはミラノ公となったフレンチェスコ・スフォルツァなど、名をあげ栄進する者も現れた。
彼らは、万能人であれというルネッサンス思想の影響下にあり、粗野粗暴であるよりも、洗練された知識人であることを尊び、フェデリーゴ・モンテフェルトロなど、文武両道に秀でた傭兵隊長も多かった。




ラ行

ラテン語数字

ラテン語数字の読み方。

ペッレグリーノ通りのアレクサンデル6世を称えるパネル。

Ⅰ=1
Ⅴ=5
Ⅹ=10
L=50
C=100
D=500
M=1,000

右のペッレグリーノ通りのパネルには、
「M C C C C L X X X X V I I」と書かれている。
つまり、
「1,000+100+100+100+100+50+10+10+10+10+5+1+1」
=1497年。


ルネッサンス

中世のキリスト教中心、神中心の世界観を脱却し、古代ギリシャ・ローマを手本に、人間を中心とした新しい世界観を構築しようとした精神運動。
レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロ、ラファエッロ、など芸術面での分野を中心に多才で多彩な人物を多く輩出した。


レコンキスタ(西・Reconquista)

イベリア半島(スペイン、ポルトガルのあるところ)で718年から1492年の約800年間に渡って行われた、キリスト教国によるイスラム教国駆逐運動。
(イベリア半島は、711年のウマイヤ朝の侵入を皮きりに、続く後ウマイヤ朝、タイファ(群小王朝)によるイスラムの支配が続いていた。)
この過程でポルトガル王国(1139年)、スペイン王国(1479年)が成立する。
レコンキスタとは「Re Conquest」、「再征服」という意味。


ローマ劫略


ローマ教皇(13世紀末〜16世紀中盤)

→ ローマ教皇(13世紀末〜16世紀中盤)



ローマ7大聖堂(伊・Le sette Basilicae Maiores a Roma)



ローマ4大聖堂(伊・Le quattro basiliche maggiori a Roma)

4大バジリカとも。

5大聖堂とする場合は、

  • サン・ロレンツォ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂(Chiesa di San Lorenzo Fuori le Mura)
    を加える。

ローマ7大聖堂は、上記5聖堂に加えて、

  • サン・セバスティアーノ・フォーリ・レ・ムーラ聖堂(Chiesa di San Sebastiano Fuori le Mura)
  • サンタ・クローチェ・イン・ジェルザレンメ聖堂(Chiesa di Santa Croce in Gerusalemme)




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