チェーザレ・ボルジアについて、とりとめのないけれど愛に満ちた探究心を発揮するサイトです。

16世紀のハティヴァ。

ボルジア家の歴史

ボルジア家 の歴史

ボルジア家のはじまり

ボルジアの始祖はスペインにあり、ボルハという。
ボルジア(BORGIA)はスペイン語のボルハ(BORJA)のイタリア語化したものである。

スペインの北方サラゴサから南方へ60キロ下ったエブロ河沿いに、ボルハという街がある。この街にボルジア家の源流があるとされる。

1120年、アラゴン王アルフォンソ1世はイスラムの手からボルハを回復し、腹違いの弟ペドロ・アタレスに封土する。
ボルジア(ボルハ)家はこのペドロ・アタレス( - 1151)の末裔であり、その後約1世紀に渡ってボルハに暮らしたと言われる。
しかし、ペドロ・アタレスは子孫を残さずに死去したとも言われ、ボルジアの祖であるという明証は全くない。*1

ボルハ一族は、ボルハに居住していた土着の郷士*2であった、とする説が最も有力である。


1238年、アラゴン王ハイメ1世は、イスラムの支配下にあったヴァレンシアを征服、次いで小都市ハティヴァを征服し、1240年獲得した地を騎士たちに分配して封土する。

→ その騎士たちの中にエステバン・デ・ボルハ  と8人の一族

※このエステバンが、おそらく記録に残るボルジア家の最も古い人物である。

以来、一族はハティヴァを拠点にして繁栄していく。



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1378年、一族の繁栄の基となるアロンソ・デ・ボルハ誕生。
14歳でレリーダ*3の大学へ入学、教会法と民事法を学ぶ。

1378年は教会大分裂のはじまった年でもある。アヴィニヨンに立った対立教皇クレメンス7世の後がベネディクトゥス13世に継がれ、アロンソは彼の背後で法律家として活躍する。

1416年、アラゴン教会の会合にて、アロンソはアラゴン王アルフォンソ5世と出会い、翌1417年、王の秘書に抜擢される。


1429年、アロンソはベネディクトゥス13世の死後の対立教皇クレメンス8世の退位を成功させる。その褒賞としてローマ教皇マルティヌス5世は、アルフォンソ5世との同意の上で、アロンソをヴァレンシアの司教に任命する。

1442年、アルフォンソ5世はナポリの征服に成功。
教皇エウゲニウスとの同盟の会談にアロンソはアラゴン国王の大臣として出席。1444年、多年の功績の褒賞として、ローマのサンティ・クァットロ・コロナーティ教会の枢機卿に任命される。

→ボルジア家のローマ進出の第一歩となる。


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教皇カリストゥス3世

1444年、アロンソはローマへ到着。67歳であった。

この頃のローマは、教皇権の衰退(長期にわたる教皇の不在(バビロン捕囚)、教会の大分裂など)によって落魄しきっていた。
人口は激減し、街は荒れはて、強盗、強姦、殺人は日常茶飯事のものとなっていた。ラテラノ宮殿は廃墟と化し、ヴァティカン宮殿も修復の必要があった。

アロンソはヴァレンシア司教区からのみの寺禄を、唯一の収入源とし、質素につつましく暮らす。(教会法ではそのように定められてはいるが、ほとんどの高僧が複数の寺禄を保有していた。)
住まいはコロッセオとラテラノ宮殿の中間にある、サンティ・クァットロ・コロナーティ教会
従者や召使は全員スペイン人だった。

1441年に(1437年の説も)アロンソの姉イサベルの夫ホフレ・デ・ボルジア・イ・オムスが死去。アロンソは彼らの二人の息子、ペドロ・ルイスロドリーゴの後見人となる。

1445年、ロドリーゴ(14歳)はヴァレンシア司教座聖堂の聖歌隊員に、ほどなく、聖具室係に就任する。

ペドロ・ルイスとロドリーゴ、従兄弟のルイス・ホアン・デ・ミラは、1449年までには、ローマに移住している。(正確な時期は不明)


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1447年、教皇エウゲニウス4世崩御。
わずか2日のコンクラーヴェで、新教皇ニコラウス5世が選出される。

1449年、バーゼルの公会議が終了。(バーゼルで始まったものの、フェラーラ、フィレンツェ、ローマと場所を移していた。)教会はローマ教皇の名の下に和解し、最後の対立教皇フェリクス5世は退位した。
→ ニコラウス5世の政治的手腕。

ニコラウス5世は街を整備し、行政を改革し、芸術家や建築家を保護した。
→ 最初のルネッサンス教皇と言われる。

この年、ロドリーゴはボローニャ大学へ入学。アロンソと同じく教会法を学ぶ。

1448年、ニコラウス5世は神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ3世とウィーン協定を結ぶ。1452年、彼を神聖ローマ帝国皇帝として戴冠させる。
→ 教皇の権威の復活を目指す。

1453年、コンスタンチノープル陥落、東ローマ帝国滅亡。


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1455年、ニコラウス5世崩御。
15人の枢機卿がコンクラーヴェに出席。オルシーニ派とコロンナ派が対立し、暗礁に乗り上げる。3度目の投票でもまとまらず、無派閥のアロンソ・ボルジアに白羽の矢が立つ。

1455年4月8日、アロンソ・ボルジア、カリストゥス3世として教皇に選出される。
(老齢(77歳)であることも好都合であり、過渡的選出だった。)


この年、ヴェネツィアの傭兵隊長ジャコポ・ピッチニーノがシエナに侵入。*4国内の平和を乱されるのをおそれた教皇カリストゥス3世は、シエナ防衛に教皇軍を派遣する。

ナポリ王アルフォンソはピッチニーノを支援。(老獪な彼はあわよくばシエナ領有を、と考えた。)

→ カリストゥス3世は長年仕えてきたアルフォンソと対立することに。

→ 翌年、ピッチニーノはシエナを去り、アルフォンソの下に撤退する。

1456年、カリストゥスは甥のロドリーゴとルイス・ホアンを枢機卿に任命。ペドロ・ルイスを教皇軍総司令官に任命する。

その後、

  • ロドリーゴ・・・教皇軍指揮官、控訴院院長、教皇庁副尚書
  • ペドロ・ルイス・・・スポレート、フォリニョ、オルヴィエートの公爵、教皇領総督(ローマ総督)

    に任命される。
     → あからさまな親族登用主義として、非難を浴びることに。


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国内の平定とともに、カリストゥスは、1453年に占拠されたコンスタンチノープル奪回のため、十字軍の遠征を考える。

1455年、教皇着任後すぐに、カリストゥスはタラゴーナの大司教ペドロ・ウルレアを指揮官とする船隊を、ギリシャへ向けて送り出す。
しかしこの司教は船隊をナポリ王アルフォンソに貸与し、王のジェノヴァ襲撃に協力してしまう。

→ カリストゥスは完全にアルフォンソと対立、敵対する。

1456年、新たにルイジ・スカランポ枢機卿を指揮官とする艦隊がエーゲ海に向かう。
ロードス島を基地としてトルコ艦隊を撃破し、一時的には勝利をおさめる。
また東ヨーロッパでは3人のジャン(カルバハル枢機卿、説教者カピストラーノ、フンヤディ将軍)が協力し、トルコの進撃を阻止し、1457年7月、フンヤディはベルグラードの戦いでトルコ軍を破った。
カリストゥスはこれを称え、8月6日に変容の祝日*5を設けたとされる。

しかし援軍の遅れ*6や、疫病の発生により進撃を阻止されることになる。

→ 十字軍はカリストゥスの悲願となる。ニコラウス5世の蓄えた教会財産はたちまち枯渇し、カリストゥスの個人財産までもがその費用につぎ込まれた。


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1458年6月、カリストゥスの栄達の礎を築いた旧主、そして今では政敵となってしまった、ナポリ王アルフォンソが世を去る。

カリストゥスはナポリ王国を教皇領であると宣言し、甥のペドロ・ルイス率いる軍をナポリへ送る。
しかし、フィレンツェとミラノがこれに反対。国境が封鎖され、ローマへの物資供給が阻まれる。物価が高騰し、街が荒れはじめる。

7月、カリストゥス自身も通風の発作に襲われ、重篤な状態に陥る。
教皇の死を予感して、ローマの反教皇派は鳴動を開始、街は不穏な状態に陥り、混乱が広まる。ローマ人のスペイン人への憎悪は強く、このため、事態はいっそう悪化する。

ペドロ・ルイスはオスティアへ逃亡し、漁船でチヴィタヴェッキアへ移動。スペイン行きの船を待つが、9月26日、マラリアでこの世を去る。

ロドリーゴはローマにとどまり、瀕死のカリストゥスの傍らで祈りを捧げた。

8月6日夕刻、カリストゥス3世、崩御。

ローマ市街ではオルシーニ一族の率いる暴徒が、暴行と略奪のかぎりをつくし、教皇領内の諸都市が反乱を起こした。

8月16日、ロドリーゴ・ボルジアを含む18名の枢機卿がコンクラーヴェに入る。
シエナの枢機卿エネア・シルヴィオ・ピッコローミニが、ピウス2世として教皇に選出される。




枢機卿ロドリーゴ・ボルジア

カリストゥスの死に際して、ロドリーゴ(この時27歳)の立場は非常に不安定なものであった。教皇であった伯父の後ろ盾はなくなり、周囲は成り上がりのスペイン人を憎み蔑視している政敵ばかり。
下手をするとこれまでに得た寺禄や地位を失いかねない。心して周到に行動する必要があった。
次期教皇を選出するコンクラーヴェで、ロドリーゴは彼の聖職者人生を左右する大きな賭けに出る。

この時の有力な教皇候補は、

  • ルーアンの枢機卿ギョーム・デストゥトヴィル(Guillaume d'Estouteville)
  • ボローニャの枢機卿フィリッポ・カランドリニ(Filippo Calandrini)

しかし巧みな論法と説得により票を集めた、

  • シエナの枢機卿エネア・シルヴィオ・ピッコローミニ(Enea Silvio Piccolomini)
    がエストゥトヴィルに9票の差をつけ、有効得票数まで3票、というところまで持ち込む。同意による投票が行われることになる。

全枢機卿が互いの顔色を伺い、腹をさぐる。室内を沈黙が支配し、誰も身じろぎひとつしない。皆が牽制し合い、誰かが発言するのを待っている。
ここで、ロドリーゴは立ち上がり、述べた。
「私はシエナの枢機卿の教皇就位に同意いたします」

後に2名の同意者が続き、ピッコローミニ枢機卿は、ピウス2世として即位する。
教皇推戴に一役買ったロドリーゴは、新教皇の好意を得、教皇庁副尚書(Vice Cancelliere)の地位を維持することになった。


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ピウス2世は雄弁家で、人を動かす術に長ける外交家で、詩や戯曲をたしなむ人文主義者だった。
ヴェネツィアやフランスと対トルコの同盟を結ぼうと画策する。

1459年5月、ピウス2世は十字軍遠征の会議をマントヴァで開催する。

このマントヴァにおいて、ロドリーゴはチェーザレたちの母親であるジョヴァンノッツァ・カッタネイ(当時18歳)と出会ったとされている。

1462年(1468年の説も)、ヴァノッツァとの最初の子(不明の女との子である説もかなり有力)ペドロ・ルイスが誕生
1469年にはジェローニマ、1470年にはイザベッラと二人の女子が、不明の女との間に誕生する。(これらもヴァノッツァとの子であるとする説もあるが、有力ではない)

ロドリーゴは背が高く気品ある美しい容貌をしており、性格も闊達で、人を惹きつける魅力を備えていたよう。
彼はその魅力を存分に利用し、世俗の若者のように放埓な娯楽にふけり、豊かで華やかな暮らしを満喫していた。
(ロドリーゴのシエナでの放蕩を諌める、ピウス2世の書簡が残っている。)


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1464年8月、ピウス2世崩御。
ロドリーゴの友人であった、ピエトロ・バルボ枢機卿がパウルス2世として新教皇に選出される。
(ピエトロ・バルボはロドリーゴの兄ペドロ・ルイスのローマ脱出時に付き添った人物)

パウルス2世は、自分の容姿に対する執着が強く、常に化粧をし、多くの装飾品でわが身を飾り立てていた。
贅沢を好み、快楽を愛したこの教皇は、民衆のために盛大な酒宴や祭り、さまざまな競技の大会を催した。
豪奢な生活を送るこの教皇のそばで、ロドリーゴも王侯のような暮らしを享受する。

パウルス2世は、教皇庁の財政を立て直すため、多くの予算を割いていた前教皇ピウス2世の創設した書記局を廃止、ピウス2世には重用されていた多数のシエナ人人文主義者を解雇する。そして書記の任免権を、教皇庁副尚書のロドリーゴの管轄下に戻した。
(教皇庁の書記は高収入で誰もが欲する地位であり、巨額の金で売買されていた。よってその任免権は、ピウス2世が別個に書記局を創るまで、ロドリーゴの貴重な財源・権力源だった。)

解任された書記官らのうちの一人、プラティナ(バルトロメオ・サッキ)は抗議文書を作成し、教皇を脅迫する。しかし教皇は彼を捕らえ、サンタンジェロへ閉じ込めてしまう。
(プラティナは次の教皇シクストゥス4世には重用され、ヴァティカン図書館長に任命される。
しかしプラティナはよほど腹に据えかねたらしく、著書「教皇誌」の中でパウルス2世を散々にけなしている。)

前教皇に重用されていた人文主義者たちの、新教皇に対する反感は広まり、教皇とその取り巻き(当然ロドリーゴを含む)に対する暗殺計画にまで発展する。この陰謀はしかし1468年2月、未然に防がれる。


浪費家で自惚れ屋で暴君でもあったパウルス2世だが、彼は教皇権の拡大を図るために、さまざまな政策を推進、ローマ市および教皇領をしっかりと把握しようと努める。
また古代ローマの凱旋門の修復などにも着手し、ルネッサンス活動を支援した。
人文主義者たちとは反目するが、彼自らも先進的な人文主義者であった。

1469年、神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ3世をローマに迎える。
皇帝からの十字軍への助力は得られなかったが、教皇の断固たる姿勢は、豪奢な雰囲気とあいまって、列強諸国に強烈な印象を与える。
それは教皇と教会の、現世的勢力の最良の証となった。


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1471年7月、パウルス2世は卒中の発作により崩御。(メロンの食べすぎ(!)による脳溢血、らしい。)
8月、フランチェスコ・デッラ・ローヴェレがシクストゥス4世として教皇に選出される

12月、教皇の二人の甥ピエトロ・リアーリオ(25歳)とジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ(28歳)が枢機卿に任命される。

その他、

  • ピエトロ・リアーリオ
    聖シクストゥスの称号
    フィレンツェの大司教
    コンスタンティノープルの総大主教
    ミラノの聖アンブロジウズ大修道院の院長
  • ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ
    サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリの称号
    アヴィニヨンとボローニャの大司教区
    ローザンヌ、クータンス、ヴィヴィエ、マンド、オスティア、ヴェレトリの司教区
    ノナントラ、グロッタフェルラータの修道院

他の近親者も多大なる恩恵を受け、シクストゥス4世のネポティズモ(親族登用主義)は非難の対象となる。

しかし一方、教会の法と制度を改革し、農業と商業の振興を進め、統治者として有能な面も見せる。
芸術の保護者でもあり、システィーナ礼拝堂を建設する。
また、対トルコとの戦争にも精力を傾ける。


1472年5月、トルコへの遠征協力を求める教皇特使として、ロドリーゴは、スペインへ向かう。
レコンキスタ達成のために、統率を欠くスペインの諸侯たちを束ねる役割をも担っていた。

  • 対トルコ戦争への協力の確約と、戦費の徴収
  • レコンキスタ達成のために、スペインの諸侯たちをまとめ、激励する
  • 自己の司教区ヴァレンシアの視察
  • アラゴン王ファンの息子フェルナンドとカスティーリャ王エンリケ4世の義母妹イザベッラの結婚承認(二人は近親者であったので、教皇の許可を必要とした。)
  • 郷里ハティヴァ訪問

15ヶ月にわたる滞在で、ロドリーゴは対トルコ戦争への資金負担をスペイン両王に約束させ、教皇特使としての役目を難なく果たす。その上、アラゴンの勢力争いを調停し、未来のスペイン王フェルナンドの好意という、ボルジア家の後ろ盾となる力をも得た。
(1485年、フェルナンドがスペイン王となった時、ロドリーゴはガンディアの地をもらいうける。これを息子ペドロ・ルイスに与え、彼はガンディア公の称号を受ける。)

1473年秋ロドリーゴはスペインを発つ。ローマへの帰路は3人の司教が溺死する激しい嵐に見舞われた。
ロドリーゴの船もピサに打ち上げられ、多くの所持品が失われた。ロレンツォ・デ・メディチがこれを見舞っている。

1474年、シクストゥス4世に寵愛されていた、甥のピエトロ・リアーリオ(28歳)死去。自堕落で不摂生な生活がもとだと言われている。
寵愛はピエトロの弟ジローラモ・リアーリオに移る。


1477年、ロドリーゴは教皇特使としてナポリへ。ナポリ王フェランテの新妃ジョヴァンナ・ダラゴーナに授冠する役目をになう。


1478年 パッツィ家の陰謀。 ←長いので別ページで。
ロレンツォ・デ・メディチを亡き者にして、甥ジローラモの権力を高めようとした、シクストゥス4世のたくらみは失敗に終わる。

ロレンツォを打倒できなかった教皇とジローラモの狙いは、フェラーラへと向かう。
彼らはヴェネツィアと手を組み、フェラーラを攻撃する。
(フェラーラはジローラモに、モデナとレッジョ(フェラーラと同じくエステ家の支配下にあった地)はヴェネツィアに、という協定がなされた。)
教皇の勢力拡大に反対するイタリア各地の領主たちが戦線に参加し、1482年にはイタリア全土が戦いに疲弊する。
結局、エステ家打倒はならず、ジローラモはイモラとフォルリの小領主に甘んじるしかなかった。
彼の不満はローマの貴族コロンナ家を狩り立てることで晴らされたと言う。

残忍で思慮浅薄な成り上がり者でしかなかったジローラモは、1488年、臣下の裏切りのよって暗殺される。
(それ以降12年間、イモラとフォルリはジローラモの妻であったカテリーナ・スフォツァに治められ、1499年末、チェーザレによって攻囲され落城。チェーザレの所領となる。)

1484年8月12日、教皇シクストゥス4世、崩御
極端な親族登用主義や、パッツィ家の陰謀への加担など、一族の勢力拡大に腐心した教皇だが、教会の改革や農商業の振興、ローマ市街の整備にも熱心であり、また偉大な芸術の庇護者でもあった。
ボッティチェリ、ペルジーノ、フィリッポ・リッピなどを優遇し、サンタ・マリア・ポポロ教会、システィーナ礼拝堂を建設した。
(イタリア語のカッペラ・システィーナ Cappella Sistinaというのはシクストゥスの礼拝堂、という意味。)


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この間、
1475年、チェーザレ誕生。
1476年、ホアン誕生。
1480年、ルクレツィア誕生。
1482年、ホフレ誕生。
そして、
1482年、ジェローラマ(1469年に不明の女性との間に生まれた娘)、ローマの貴族ジャン・アンドレア・チェザリーニと結婚。
(しかしジェローラマは翌年死亡している。)
1483年、イザベッラ(1470年に不明の女性との間に生まれた娘)、パリオーネの貴族ピエトロ・ジョヴァンニ・マトゥッツィと結婚。
(イザベッラは1550年まで生きた。)


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ロドリーゴはコンクラーヴェでジョヴァンナ・ダラゴーナやアスカーニオ・スフォルツァ、ラファエーレ・リアーリオなどを取り込み、教皇選出を狙う。
しかしこれは成功せず、ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレの後押しで、1484年8月29日、ジェノヴァの枢機卿ジョヴァンニ・バッティスタ・チーボが、インノケンティウス8世として選出される

ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレは、新教皇に対して力を持ち、弟ジョヴァンニを教皇軍総司令官に、別の弟バルトロメオをヴァティカンの護衛官に登用させる。
ジュリアーノは伯父シクストゥス4世の在位中以上の権力をにぎっていく。



インノケンティウス8世在位後すぐ、教会への納税を拒否し続けているナポリ王フェランテとの争いが激化する。
穏健派のロドリーゴに対し、ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレはジャン・バリュー枢機卿とともにナポリ進撃を主張する。
戦闘が始まるが、しかし1486年8月、教皇はロドリーゴの勧めで、ナポリとの平和条約に調印した。

→ロドリーゴとジュリアーノの対立は激化、表面化する。
(ロドリーゴはジュリアーノの肩をもつバリューと取っ組み合いの喧嘩までしたらしい。)



1487年、フィレンツェとの同盟のため、教皇の息子フランチェスコ・チーボ(38)が、ロレンツォ・デ・メディチの次女マッダレーナ(15)と結婚。
この時ロレンツォの次男ジョヴァンニ(12)をやがて枢機卿に叙任することが約束される。
(ロレンツォの妻クラリーチェはオルシーニ家の人間であり、オルシーニはナポリ派であった。が、このフランチェスコとマッダレーナの結婚によって、教皇はメディチを味方にとりつけた。)



1489年、ナポリの脅威のなくなった教皇は十字軍遠征を考える。
しかしオスマン・トルコの王バヤジット2世は、イエスの脇腹を突いたという聖槍を教皇に献上し、また弟のジェームを年4千ドゥカートの支払金とともに人質として差し出す。
(バヤジットは、王位奪取を狙う可能性のある弟を遠ざけておきたかった。)
教皇の十字軍計画は、引率する指導者を決定できなかったこともあり、うやむやになる。



1490年、インノケンティウス8世は病床に臥せ、1492年7月、崩御する。
そして1492年8月10日から11日にかけて行われたコンクラーヴェにおいて、ロドリーゴ・ボルジアはアレクサンデル6世として、教皇に選出される。


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この間、
1485年5月、ロドリーゴの長男ペドロ・ルイスは、スペイン、グラナダで対イスラムの戦いに参加、ロンダの包囲戦で活躍する。
彼はアラゴン王からガンディア公の称号を受け、王の姪マリア・エンリケスと婚約する。
しかし、1488年8月、死去。ガンディアは弟のホアンに受け継がれることになった。

1489年5月、ボルジア邸星の間において、ジュリア・ファルネーゼとオルシーノ・オルシーニの結婚が行われる。
ジュリアはこの時すでにロドリーゴの愛妾であった。

1492年からのボルジア家とチェーザレの栄達、そして没落については、
→ 簡易年表 OR 詳細年表 へ!






20183 2 3


*1 なぜこのような説が生まれたのかはわからないが、「アタレス家、ひいてはアラゴン王家を祖先に持つ」として、自らの血統に箔をつけようとしたボルジアの偽言である、とされることが多い。
*2 本来は江戸時代の、武士でありながら農村に居住し、農業を営みながら武士的特権を持っていた者を指す。ここでも時代と場所は異なるが、同様の意味で使われていると思う。
*3 チェーザレの家庭教師フランチェスコの故郷であり、彼もここの大学を卒業、教授資格を獲得。のちにこの地の大司教となっている
*4 前年の1454年、ロディの会議で、一傭兵隊長から登りつめたフランチェスコ・スフォルツァがミラノ公として正式に認められ、ミラノ、ヴェネツィア、フィレンツェに平和維持のための同盟が結ばれた。ヴェネツィアの傭兵隊長ピッチニーノは、平和による失業をよしとせず、また、スフォルツァのように一国の主に、という野心に燃えいていた
*5 イエスが、弟子たちの前で光り輝く姿に変わったという出来事を記念。イエスの受難と復活を暗示しているらしい。
*6 ヴェネツィアとジェノヴァは貿易の利を求めてトルコと妥協、ヨーロッパ各地の王たちは自国の拡大にのみ腐心しており、カリストゥスの大義に手を貸すものはいなかった。

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