チェーザレ・ボルジアについて、とりとめのないけれど愛に満ちた探究心を発揮するサイトです。

ピオンビーノ

ピオンビーノ Piombino

ピオンビーノ駅

鉄道で、フィレンツェから約3時間。
ピサで乗り換え有り。
ピサからは約1時間40分。
エルバ島やコルシカ島にはここからフェリーで行く。

エトルリア海岸にある要衝だった街。だけあって、城塞や塔がたくさん残っている。
徒歩で周れる小さい街だが、ピオンビーノのコムーネに含まれる街も観ようと思ったら(アッピアーノ家の城塞など残っているので見どころは多い)徒歩じゃ無理だし1日あっても無理そう。
(でもチェーザレに関連するところは駅周辺だけです)

  • Val di Cornia
    エトルリア海岸周辺(ヴィテルボ州)の美術館・博物館のサイト。
    ピオンビーノの中世陶器博物館も含まれます。チケットの予約もできます。


11世紀〜12世紀にはジェノヴァ、次いでピサの統治下にあった街。
1399年、ゲラルド・ダッピアーノは、所領だったピサをヴィスコンティに譲り、ピオンビーノの領主となった。
しかし後継者が未成年であったため、最初にフィレンツェ、次にシエナ、最終的にフィレンツェの保護下に置かれることになった。
1445年、カテリーナ・ダッピアーノがリナルド・オルシーニと結婚。オルシーニ家の影響下に入る。

ヤコポ4世・ダッピアーノ(c. 1460 −1510)の時代にチェーザレ・ボルジアがピオンビーノを占拠し領主となる。(1501年)
チェーザレは腹心のミゲル・ダ・コレッラをピオンビーノの総督に任命した。
チェーザレの建設技術顧問・軍事設備顧問だったレオナルド・ダ・ヴィンチは城塞の強化を行った。

しかしチェーザレの没落後(1503年)、全てはアッピアーノ家の手に戻った。
(チェーザレはナポリに送られた時、海路でピオンビーノに上陸しピサを攻略したいとナポリ総督ゴンサロ・デ・フェルナンデス・コルドバに申し出たりしている)

その後ヤコポ4世の孫まで世襲されるがその後、トスカーナ大公、ハプスブルク家、ナポレオンの妹などに所有された。



ピオンビーノ城(Castello di Piombino)

駅から徒歩で約8分。
海に突き出た南東部の高台にある、防衛軍事施設。

13世紀にピサによって築かれた城。当時はその堅固でほぼ立方体のかたちをしていることから「カッセロ・ピサノ(Cassero pisano)」(ピサの格間、ピサの天守閣)」と呼ばれていた。

1502年、ピオンビーノがチェーザレの所領となった時、レオナルド・ダ・ヴィンチが街の防衛を再構成し、改修された。

戦闘に火器が利用されるようになると、コジモ1世・デ・メディチの下で星型の塁壁を備え、「フォルテッツァ・メディチェア(Fortezza Medicea)(メディチ要塞)」と呼ばれるようになった。
監獄として利用され、城内にはこの時の囚人の落書きが残っている。

20世紀に入り、城の修復と考古学的発掘が行われた。

現在は中世陶器博物館(Museo del Castello e delle Ceramiche Medievali di Piombino)として使われている。
13世紀の中世の陶器の標本が600点以上集められているそう。

ミュージアムツアーでは、レオナルド・ダ・ヴィンチピオンビーノに滞在した際に描いたプロジェクトが見られるらしい!


Val di Corniaによると開館時間がとても短く予約するの難しそう。(冬季はやってないし)
時間は絶対にチェックして行った方がいいです!
(2023年2月現在は今年のスケジュールさえ出てない。閉館してる)




塔と半月堡(ラヴリン)(Torrione e Rivellino)

center, Torrione e Rivellino


 Torrione e Rivellino

塔は1212年に建てられたもの。
当時は記念日や危険を知らせる時に鳴らすための鐘があったよう。

半月堡は大砲の攻撃に対して作られたもので、1447年、リナルド・オルシーニによって加えられた。当時は堀に囲まれており、開口部はひとつだけでそこに跳ね橋がかけられていた。
井戸があり(城内に井戸があると籠城戦にも強い)、大砲の冷却装置としても使われていたそう。

ナポリ王アルフォンソ5世(ロドリーゴの伯父カリストゥス3世に深く関わった人)はこの半月堡に阻まれ、ピオンビーノを攻略できなかった。
(この戦いを再現したジオラマが城内にあるらしい。)

ここもピオンビーノ城と同じく、16世紀にコジモ1世・デ・メディチが城壁を取り崩すなどの改修を行なっている。
が、チェーザレの時代には存在していた軍事施設。

※ 半月堡(はんげつほ)。英語でラヴリン。主たる要塞(本塁)より外側に作られた、副次的な要塞施設のこと。






城塞(シタデル)(Cittadella)

1465年から70年にかけて、チェーザレの時代のピオンビーノ領主ヤコポ・ダッピアーノの父、ヤコポ3世・ダッピアーノが、フィレンツェの建築家アンドレア・グアルディに作らせた複合施設的城塞。街の最南西に位置する。

宮殿、教会(礼拝堂)、井戸、その他の宮廷建築からなる「街の中の街」。元々は城壁と門も存在していた。
籠城するのにめちゃくちゃ向いてそう。
チェーザレの時代には存在していた軍事施設。

白い大理石でできた貯水槽の側面には、ヤコポ3世とその妻バッティスティナ・ディ・カンポ・フレゴーゾ、息子ヤコポ4世の肖像、そして一族の紋章が描かれている。

現在は一部が考古学博物館となっている。




ボヴィオ広場と灯台(Piazza Bovio e faro della Rocchetta)

 Torrione e Rivellino

海に長く伸びているピオンビーノ岬の先端にある広場。白い灯台が目印。

現在灯台のある場所には、12世紀に建てられたロケッタ(Rocchetta di Piombino)と呼ばれるエトルリア時代の防衛要塞がありチェーザレの時代には存在していた。
が、20世紀に取り壊され、南端の砦跡に灯台(ピオンビーノ灯台、またはロケッタ灯台)が作られ、広場として整備された。




 Torrione e Rivellino

上の絵は17世紀のピオンビーノを描いたもの。灯台になる前の要塞が見てとれる。
(現在の灯台よりだいぶ大きそう?)







レオナルドの壁(Mura Leonardesche)

1502年、レオナルド・ダ・ヴィンチピオンビーノで計画した城塞の強化はほとんど実現されはしなかったが、歴史的価値は高い。
シタデル考古学博物館の前のフォフォルテッツァ通りから、塔に続くレオナルド・ダ・ヴィンチ通りでその名残りを見ることができる。
(シタデル考古学博物館の前(フォルテッツァ通り)、タルタルゲ庭園(Giardino delle Tartarughe)の前辺り(ダ・ヴィンチ通り)にわかりやすく壁が残っている。)
(下のgoogle mapの青いラインの場所)

ダ・ヴィンチが描いた城壁の平面図と陸上での新しい防御システムはアトランティコ手稿(ミラノ、アンブロジーナ図書館)に保存されている。
また、
新しい堀を建設すること、
城壁の外側に塔を建てること、
新しい港を建設すること、
などが描かれたものはマドリッド手稿2(マドリード、国立図書館)に保存されている。

↓ mapにある4つの城塞はチェーザレ征服時にすでに在った上記4つの城塞
  青いラインがダ・ヴィンチの計画していた城壁


ピオンビーノはチェーザレ征服時からすでに東西南北に城塞が存在しており、堅固な街であったと思われる。
(他にもこの辺りにはすごく塔や城塞が多い)
(アッピアーノ家はチェーザレに攻められた時の対応がショボいので(ジェノヴァ、フィレンツェ、フランス王に頼るけど全部拒否されすぐ逃げた)、ダメなイメージあったけど、所領を守る設備をしっかり作って、紋章つき建物もたくさん残ってるし、たいしたもんだ。見直しました(すみません)

その防御力をより高めるための計画に、ダ・ヴィンチは着手していた。

ピオンビーノはピサとフィレンツェに近く、また港があるためにナポリにもアクセスしやすく、10キロちょっと先にあるエルバ島(ここもピオンビーノ領)も天然の要塞と言われる島だったので、
後のフィレンツェ攻略、ナポリ攻略を視野に入れての軍備強化だったと思われる。
すごい先のこと考えてたのに…

腹心のミゲルを総督に据えていることも、アレクサンデル6世を伴って視察していることも、チェーザレがこの地を重要視していた証左に思える。

また、1503年4月にはチェーザレはミゲルにモンテグリドルフォを与えており、ティレニア海だけでなくアドリア海の支配まで視野に入れているのがわかる。加えてモンテグリドルフォとピオンビーノはフィレンツェを両脇から挟むかたちになっている。




アッピアーニ宮殿(Palazzo Appiani)

14世紀に建てられたアッピアーノ家の住居。
地下牢は13世紀のもので、完全な形で保存されている。

1465年、ヤコポ3世・アッピアーノが新しい住居シタデルを建設、住まいはそちらに移された。アッピアーノ宮殿は共同体に譲渡され、迎賓館、裁判所、倉庫などさまざまに利用された。

17世紀半ばには、1階(おそらく右翼)に劇場があったことが記録に残っている。
19世紀には刑務所として利用された。

現在は海洋博物館が入っている。




市庁舎と時計塔(Palazzo Comunale e Torre dell'Orologio)

市庁舎と時計塔

ヴィットリオ・エマヌエーレ2世通りとフェルッチョ・フランチェスコ通りのぶつかるところにある。市庁舎と時計塔が隣接して建っている。
宮殿の原型は13世紀に遡るが、現在の宮殿は、1444年に建てられたもの。

時計塔は1598年に建設。なのでチェーザレの時代にはなかった。
1933年から1937年にかけて全体的に修復されている。

画像は20世紀の修復前のもの。
(古い写真で手間部分は破れている)














サンタンティモ共同大聖堂(Concattedrale di Sant'Antimo)
ピオンビーノ大聖堂(Duomo di Piombino)

ピオンビーノ大聖堂


ピオンビーノ大聖堂

13世紀に建てられた聖ミカエルに捧げられた教会。

1502年、教皇アレクサンデル6世がピオンビーノを訪れた際、聖アウグスティヌスに再奉献され、荘厳な儀式が執り行われた。
(せっかくミゲルの名前がついてたのに…なんでだ?)
この時アウグスティヌス修道士のための修道院が新たに増築された。当時の修道院には前庭があり、現在は埋められているが、サンタゴスティーノ広場に名残りが見られる

20世紀の修復でファサードのデザインが変えられ、扉の上部にあるモザイク画(拡大部の写真)を保護するための天蓋が追加された。
また、2つの古い礼拝堂を統合して左側廊が建設された。

しかし側廊にある洗礼盤や回廊はどちらも1470年頃に作られ、チェーザレの時代から変わってないよう。嬉しい。

回廊からアンドレア・グアルディ教区聖美術館(Museo diocesano d'arte sacra Andrea Guardi)に入ることができる。




ピオンビーノには他にもチェーザレの時代には存在した、そして現在でも大きくは変わっていない教会がいくつもある

ミゼリコルディア教会(Chiesa della Misericordia)

マンゾーニ広場にある、13世紀に建てられた洗礼者ヨハネに捧げられた教会。ピオンビーノで最も古い教会のひとつ。


シタデルの礼拝堂(Cappella della Cittadella)

シタデル広場にある礼拝堂。
1465年から1470年にかけて、ピサの建築家アンドレア・グアルディがピオンビーノ領主ヤコポ3世・アッピアーノの依頼で建てたもの。
街の中の街シタデルの一部。

ファサードは全体が大理石でできており、リミニのマラテスタ寺院を模した柱頭を持つ。

教会の裏手には、何世紀にもわたって様々な用途に使われてきた建物があり、その中には王宮の別館として使われていたものもあるが、現在は個人の別荘になっている。


雪の聖母の礼拝堂(Cappella della Madonna della Neve)

デル・デスコ通りにあるので、マドンナ・デル・デスコ礼拝堂(Cappella della Madonna del Desc)とも呼ばれる。
1499年に建てられているので、チェーザレが征服した時は新築だった。当時は城壁の外の田園地帯にあったよう。


サンタンティモ・ソプラ・イ・カナリ教会(chiesa di Sant'Antimo sopra i Canali)

スフェラカヴァッリ通り(via Sferracavalli)にある13世紀に建てられた教会。
裕福な船員組合が建てたものらしい。海運業で儲かってたんだね。
17世紀には修道院が併設され、1805年、ピオンビーノ公女エリサ・ボナパルト・バチョッキが教会と修道院を廃止し、現在見られるかたちに改築し、近代的な病院を設置させた。

現在はタルシナータ塔と呼ばれる鐘楼だけが当時の外観を保っている。(上部の狭間胸壁は一部変えられてるよう)






ポプロニアのアッピアーノ城塞(Rocca degli Appiani a Populonia)

アッピアーニ城塞









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